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「人の幸せ」というのは、感謝の心が深くなることなんですよね。今、この世に生まれさせてもらって、いろんな環境・境遇に置かれているのですけど、その中でどれだけ無限の幸せを感じ取れるか。これは感謝の深さに比例すると思うんです。

 折角与えてもらってる幸せにも気づかなかったら、感謝の心を起こせてないですよね。この世だけでも無限のプラスを発見しないと、本当は嘘ですね。もう幸せばっかしのはずなんですね、無限の幸せを既に与えてもらってますよね。一つ一つ数え上げたら、もうキリがないぐらい無限の幸せがあるんですね。それに気づいて、はじめて深い感謝になるんですね。

 でも、ちょっと思い通りに生きようとするだけで、この感謝の心って忘れていくんですよね。自分の思い通りになって得られるものって、ごくわずかですよね。でも、神様の与えてくださっている幸せって、この世だけでも無限の幸せが既にあるんですね。それに気づいたほうがはるかにはるかに大きい幸せですよね。

 例えば、健康一つでもそうですよね、病気一つすると、みんなは病気ばっかりを掴むでしょう。「私は不幸だ、不幸だ」というんですけど、そんなことはないですね。病気の箇所は一箇所ですよね、健康の箇所ははるかに多いでしょう。全身の細胞は全部病気はしてないですよ、ほんのちょっとだけ、マイナスの思いをかぶって消す働きをしくれてる細胞があるわけですね。その部分だけがちょっとマイナスの姿をとってるのね。みんなマイナスじゃないんですよね、みんなプラスの働きをして助け続けてくれてるのね。

 この肉体の姿一つをみても、どれだけ幸せを発見できるか、計り知れないものがあるんですよね。だから、細胞一個一個に一回の「ありがとうございます」を言えたかどうか。言えないですよね、六十兆回言わないといけない。何億回言うのでも一生では不可能ですよね。でも、一回ぐらいは感謝の心を捧げるというのは必要ですよね。

 そしたらプラスのものを数え上げるだけで、もう感謝せずにはおれないでしょう。一瞬の休みもなく、感謝し続けてこそ本当の生き方ですよね。

 この世でいろんな恩恵を受けてる、その恩恵の数って無限に大きいですね。本当は、もっともっと神様の方から無限に大きい幸せを与えて続けてもらってるんです。この世だけじゃないんですね。この世は無限の中の一つにも満たないんですね。もっともっと大きい無限の幸せを与えてもらいながら、まだ気づいていないんですね。それはやっぱり感謝の練習を忘れてるんですね。もっともっと感謝の練習が必要なんですね。プラスを数え上げる練習、またマイナスを軽くしてもらってることを思い返す練習ですよね。

 何故、感謝を忘れたんでしょうね。不思議と言ったら、これほど不思議はないですね。

 元々、神様から分かれて出てきた自分は、感謝の心の自分ですよね。感謝の心の自分が感謝を忘れるというのはおかしいですよね、本当はね。本当は忘れてないんでしょうけど、表面をちょっと思いの心が覆(おお)ってるんですね。そうすると表面だけを眺めたら「ああ、感謝ができてないんじゃないか」っていうふうに見えるんですね。

 この人間の体も汚れたら「ああ、汚い」と思うのね。でも、汚れを取ったらきれいですよね。だから、中身は汚れないんですね、表面に汚れがちょっとつくだけね。

 心も同じですね。感謝の心が本当の自分で、表面に思いがちょっと覆ってるのね。表面だけを眺めたら「あっ、私は感謝ができていない」と思うんですね。でも、そうじゃないですね、感謝の心は厳然とあるんです。表面の思いをちょっと放せたらいいんですね、そしたらスッと消えていく。

 でも、思いの心って、どうしても小さい部分を掴んでしまうわね。「思い通りに」というだけで、一つしか掴まない、普通ね。この、掴むのが曲者ですよね。

 「思い通りに生きよう」というのを、やっぱり捨てないといけないですね。感謝の心で掴める幸せは無限ですけど、思いの心で掴める幸せは一つですよね。

 この切り替えの時期が何時かというのは、一人一人違うと思うんですけど。一旦は思い通りに生きようとして、小さい幸せを味わうんだと思いますけど。これでは本当の幸せは味わえないと気づいた時から、もう一度感謝を深くしていくんですね。

 神様の仕組みというのは、もう奥深い、計り知れないものなんですよね。「最初から幸せだけにしてもらったらいい」という人もいてるんですね。苦しんでる時、困った時は大体そういうふうに言うんですけど。

 「幸せな状態に最初から置かれたらどうか」と思うのね、そうすると感謝を忘れるんですね。

 例えば、毎日ご馳走を山盛りいっぱい与えてもらったら、みんなどうでしょうね。食べられる量の十倍ぐらいのご馳走を山盛りいっぱい与えてもらって、一日三食「食べなさい、食べなさい」と言われたら食べきれないですもんね。それで幸せを感じるでしょうかね。大抵、文句を言い出すんです「もう、入(はい)らない、もう要(い)らない」と言う。そしたら、お腹を空かせたほうがいいんですよね。

 「幸せが一杯」というふうにしてもらっても、あまり幸せが大きすぎたら受けきれないですよね。不足も出がちなんです。それを本当に心の底から感謝で受けられるようになるというのは、やっぱり感謝の心を本当に磨き上げないといけないですね。だから、最初からの感謝は、ダイヤモンドの原石みたいなものね、もう一回磨き上げるんですよね。

 だから、一旦思い通りに生きて「思い通りに生きるだけじゃ、駄目なんだ」と気づいて、小さい幸せからもう一回感謝を積み重ねて、大きい幸せへ戻っていくんですね。

 だから、順境も逆境も、両方必要だと思いますね。

 草花の種を蒔いてもそうでしょう。一粒の種を土に入れて、蒔いて、根が先ず出てきますよね。根を張って、それから地上部の芽が出はじめますよね。

 根の働きというのは、光のない世界で、土の中には汚いものがいっぱいなんでしょう。そこへグングン根を張っていくんですよね。言えば、逆境に生きているんですね。逆境に生きて養分を吸い上げるんですよね。そして地上部がどんどん成長する。

 人もそうですね、人の心の成長も同じだと思うんですね。感謝の心の種を蒔かれても、逆境でこそ必要な養分を吸収して、そして地上部が栄えて、最後には感謝の花が開き実を結ぶんですね。

 神様が必要なものを的確に与え続けてるんですね。だから、無駄はないんですよね。「みんな必要なんだ」というふうに気づいたらいいだけなんですね。そしたら逆境にも感謝が深くなる。順境には勿論感謝が深くなるんですよね。本当に神様の護りは計り知れない無限に大きいものなんです。ただ、それに早く気づけるかどうかなんです、気づく心に早く戻してもらえるかどうかですよね。

 だから、苦労を早く先にしたほうがいいかもしれないですよ。

 「根」って大事ですよね、草花の「根」というのはね。木でも「根」が大事なんですね。「根」が弱い時に地上部が栄えたら枯れるんですよね。

 特に、植木でも、植え替える時を考えたらよくわかりますね。大抵、植え替える時は根を切ってしまいますよね、きちっと根を掘り起こせないですから根が弱くなってるのね。その時に、地上部の分をそのまま植えると根のほうが弱いんですね。そしたら枯れてしまいますね。だから、根に合わせて地上部を剪定しないと駄目でしょう。逆に根よりも小さく剪定しないとね。そしたら枯れずに済んでますよね。

 だから、感謝の心が出てきてない時というのは、やっぱり感謝の根を先に張り巡らせるように、根のほうを大事にしないといけないですね。だから、苦労をするほうがいいんです、感謝の忘れた時は特にね。

 そうすると、感謝の心の種は蒔かれて成長しつつあって、これは枯れずに済むんです。でも、苦労がなかったら枯れますよ、必ず。苦労も神様から必要として与えてもらった大きいプレゼントなんですね。早く苦労をさせてもらうほうがいいんですね。

 今は、子供さんに対して贅沢をさせる親が多いんですよ。社会全体がそうですよね、社会全体が子供に贅沢をさせすぎてますよね、苦労を与えてない。これが、今、いろんな問題が起こってる一番の原因だと思いますね。

 昔の日本は、先ずみんなに苦労をさせましたよね「小さい時には苦労をさせよ」とね。先ず「苦労をさせてこそ立派になれるんだから」ってね。そして親も子供と一緒に苦労をしようとしたのね。贅沢をさせようとは、あまりしなかったですね、昔の人は。だから、みんな立派になれた、心が立派になれたんですよ。

 でも、今の時代はちょっと生き方がズレて間違ったところがあるんですね。今は、国自体も大きい借金をしながら国民全体に贅沢をさせすぎたの。この借金をどうして返すのか、というぐらい大きい借金をみんなにさせてるんですね。借金してまで贅沢をする必要は全然ないですよね。

 特に子供に対してそうなんですよ。子供に対してこそ苦労を与えないといけないのに、親が苦労して働いて得たお金を無駄に与えたらあかんの。ましてや、借金してまで子供に贅沢な姿をとらせたら駄目ですよね。

 神様のほうも、守護霊さんも守護神さんもそうですよね。感謝の心が深くなるのを願ってくださるね。心の成長を願ってくださるので、この世の物質的な表面の浅い幸せなんて相手にしてないですね。

 「心が早く幸せになるように」これを一番に願って護りについてるんですよね。

 だから、肉体の親以上に、魂の親である守護霊さんは厳しいですよ。だから、物質的な幸せは与えようとしないんです。

 でも、親のほうは甘やかして、肉体の親は子供を甘やかして贅沢させようとするんですね。何かそれが幸せなように錯覚している人がまだ多いですよね。

 でも、守護霊さんは、先ず感謝の心が早く深くなるようにしてあげたいのね。そして、本当に感謝ができるようになったら、必要なものは豊かに受けても大丈夫なんですね。もう、神様の働きはみんな必要なものを豊かに与えてくるんですね。

 物に対してでも、感謝が深くできるのだったら、いくらでも豊かに与えてくださるのね。でも、感謝ができないのだったら、与えないほうがいいのね。だから、締め付けてくださるよね。

 お金でも同じなんですよ。皆さんは、お金があったら幸せだと思うでしょうけど、違うんですね。お金があったら苦労が多くなる。

 大体、働いてお金をもらうでしょう。本当は、これはみんな借金なんですよ。働いたからもらっていいんじゃないんですよね。本当の働きというのは、恩返しの働きが本当の働きなんですね。神様から、宇宙の全体から、みんなから幸せをいっぱい与えてもらってるでしょう。恩恵を無限に無限に受けているんですよね。

 だから、それに対して恩返しをしようと思ったら、もうどれだけ働いて恩返しをしようとしても、恩返しはできないですね。万分の一は勿論、億分の一すら恩返しはできないですね。

 だから、自分が社会に対してどれだけ恩返ししようかという、その気持ちさえあったらタダで働いても当たり前なんです。自分にできることを一所懸命して、そして社会へ恩返しするんですね。働いたからお金を要求するというのは、本当は間違いですよね、根本的にね。

 お金をもらった時は「新たな借金」というぐらいがいいんですね。そうすると、お金を沢山(ようけ)持った時は大きい借金なんですよ。「儲けすぎ」というのは借金を沢山もらったことになるのね。高利の借金かもしれないですよ。

 だから、儲けすぎて幸せになるんじゃないですね、儲けすぎたら心に借金をいっぱい背負うんです。この借金が「思い」という姿でかぶさってくる。

 見てたらわかるでしょう、世の中を見てたらね。ぼろ儲けしてがめつい人というのは、みんな思いが溜まってるからなんですよ。欲の心・思いがいっぱい溜まるんです。

 でも、あまり儲けてない人、儲けすぎない人は思いをかぶらないから心がまともになりやすいですよね。

 これと同じで、人からいろいろお世話をしてもらうでしょう。親から子供がいろいろ助けてもらったり、世話をしてもらって、贅沢をいっぱいさせてもらったら、これも借金なんですよ。子供が思いをいっぱい背負うんです。

 だから、今の子供は贅沢をさせられてるので、贅沢しすぎなんですね。周りの人からも、国全体からも思いをいっぱい背負ってしまうんですね。思いの心は感謝の心と正反対ですからね、だから感謝しない、文句を言うんです。それで我が侭になるでしょう。贅沢をさせすぎたために、大事な子供を我が侭に、親不孝にしてしまってる。

 極端にいうと、何も与えないぐらいがいいんですよ。食べ物もあまり与えすぎたっら駄目なのね、一日に一食でもいいかもしれない。偶に断食をさせて、山に一週間ぐらい一人で放っぽり出すというのもいいかもしれない。サバイバルゲームに参加しなさいって。自分で山の中を駆けずり回って食べ物を探すでしょう。「食べられるものはなんでも食べよう」という感じで一週間ぐらい生活すると感謝が深くなるんですよ。

 本当はそうですよね。だから「逆境に置かれる」これが一番の感謝を深める絶好のチャンスなのね。

 だから、苦労は先にするほうがいいですよね、どんな苦労もね。これは、守護霊さんが与えてくれてるの「早く感謝が深くなるように」ってね。

 でも、みんな、守護霊さんの本当の気持ちをわからずに、お金が無い時に「お金が欲しい」というのね。病気をしたら「病気を治して」と言うんだけど、逆ね。先ず感謝の心を先に育てないといけないよね。感謝の心が育ったら病気は瞬間に治るの。お金でも必要なお金をサッと入れてくれるのね。

 もう、守護霊さんの徳の力って凄いから、お金でも何億円でもサッと入れてくれるはずなんよ、守護霊さんの徳の力だったら、必要なところからサッと入ってくるのね。

 でも、まだ感謝の心がまだ深くなってない時は、入れてくれない。これは思いがかぶさってきて邪魔するからね。思いに負けたら感謝の心は隠れてしまうじゃない。これが一番の不幸の原因になるからね。

 だから、感謝の心が深くなって、輝きが強くなったら、少々の思いはなんでもないでしょう。瞬間に消えるもんね。それだったら、何を与えてもいいというわけよね。お金でも物でも何でもいっぱい与えてくれるね。早くそこまで行かないと損なんよね。

 だから、「逆境に置かれて本当の幸せ」なんよ、そこで感謝の心を養うのね。

 順境に置かれても、深い感謝になってないと「当たり前」という感覚じゃ。まだ感謝じゃないのね。順境に置かれた時に、感謝ができるようになたってたら本物よね。その人は何を与えてもらっても思いをかぶらない、かぶっても瞬間に消してもらえるから、幸せが失われることはないのよね。

 いつも守護霊さん・守護神さんの愛の計らいって凄いから、人の思いや願いをはるかに超えてるわね。

 今、置かれたままが、本当はそのままでいいのよね。必要なものとして、必要な勉強材料として今与えてもらってるね。だから、それをプラスに受けて感謝できたら卒業して行くのよね。だから、もうなんでも感謝するほうがいいよ。もう全てに「感謝、感謝」よね。

 病気をしたら「病気さん、ありがとうございます」がいい。

 貧乏をしたら「貧乏さん、ありがとうございます」よね。

 意地悪な人が出てきたら「意地悪な人さん、ありがとうございます」でいいのね。

 感謝ができたら、もうそれで卒業して行くのね。そしたら直ぐにマイナスの姿は消えてしまう、直ぐに無限のプラスが降り注ぐような感じで、全部プラスに置き換えてくるのよね。

 だから『苦労をした人が感謝が深くなる』ね。

 皆さん、苦労は先にしてるよね、いっぱいね。苦労をこの世でしてなかったら過去世でかなりしてるはずよね。苦労をしてるからこそ感謝の心を深くしてもらえるんでね。





「維摩経」の話ですよね。維摩経は聖徳太子さんの、惟喬親王さんもそうですね、この維摩経の真理を本当に理解して、体得して、そしてそれを人に伝えようとされたのね。それだけ素晴らしい内容を持ってるのね。それがどういう内容かというのをちょっと具体的にいくつかあげてみたいと思うんですけど。

 普通、心の目を開いているかどうかで、本当の意味の感謝の心が深くなって心の目が開けると、この世が輝いて見えるのね、本当にね。ところが心の目がまだ開いて無い状態だと、この五感六感の世界がこのままそのまま見えるわけよね。だから、眩しいというところまで行かないね。

 この世は「娑婆世界」とも言うよね。娑婆世界がそのまま娑婆世界に見えるわけよね。ところが心の目さえ開けば、この娑婆世界はそのままで、無限に無限に輝いた世界が、光明の楽土があるんだというのね。

 実際そうなのね。心の目さえ開けたら見えるのね、ただ、みんなはまだ目を閉じてるというのね。盲とまで言わないでいいですけどね、目を閉じてると言った方がいいかも知れんね。心の目をまだ閉じて開いてない状態、これもわざとしてるのね。目が見えないんじゃなよね、瞼(まぶた)がちょっと下に垂れてるというか、はははは、ちょっと爪楊枝でちょっと開けばいいよ。

 だから、維摩経にはその根本を説いてるのね、みんな目を閉じてるだけなんだという意味よね。本当は心の目さえ開いたら、神様の世界が、無限の無限の輝きの世界が厳然とあるよというのね。これが一つね。

 この世をみんなは本当のものとして普通は見てるでしょう、この世が本当にあるんだという感覚でね。

 ところがこの世はみんな無常なんだというのね。本当に今の科学でもそれは証明されてますよね、「単なる波動に過ぎない」という意味ね。

 普通「もの」っていうんですけど、本当はものじゃないですよね、固定した動きがたいもの、動かないものじゃないですね。波の変化に過ぎないというのね。波の変化というのはとらえどころがないでしょう、実体がないのね。

 原子の原子核と電子の関係をよくみたらわかるんですけど。物質ってぜんぶ原子の寄せ集めというふうにみるわけでしょう。ところが、原子核の周りに電子が回ってる姿を見たときに、原始というのは、もう何もないような姿をとるのね。例えば、一個のピンポン玉のまわりを二・三キロ離れた電子、小さいのが回ってるという感覚でしょう。だから、原子核の電子に大砲をいっぱい打っても当たらんという感じよね。全然すれ違うのよね、全ての原子同士がね。だから、穴だらけ、空間ばっかしという感覚でしょう。そうすると実態が本当はないはずなのね、今の科学で言ってもそういう見方ができるでしょう。この世は本当に無常なのよね、あるように錯覚してるだけ。

 丁度、テレビ番組を見てあるかのように思ってるぐらいよね。でも、本当は波の変化だけが、電波が来てるだけという。実際はそうだと思うのね、だから、この世は無常というふうにとらえる方が正しいね。

 この世があると掴むから、神様の世界を忘れるのね。でも、「この世は無常なんだ、仮の世界だ」というふうにとらえた時は、本当の神様の世界をしっかりと求めようとするのね。これが二番目よね。この世は無常という意味を説いてるのね。

 これも有名なんですけどね、「維摩居士(ゆいまこじ)」という、本当は悟りを開いて立派な人が病気になるはずがないの、本当はね、心は立派だしね、病を現わす必要は全然ないでしょう。ところがある時、身に病を現わして「自分が病気」という姿をとりながら、いろんなお釈迦さんのお弟子たちをやりこめたり説法するのね。「何故、この病気の姿をとるのか」という質問を文殊菩薩がするわけね。「衆生病むがゆえに我病む」という答えを出すのね。これはすごいことよね。みんなが病気の姿をとってるから、自分が代わりに病気の姿をとるんだという意味よね。これは本当の愛の一体感があるよね。みんな自分という感覚なのね。

 だから、自分の心さえ清まったら自然に世界が「浄・清」まるという感覚ね。本当に自他一体、自分がその全ての雛形みたいな感覚を持ってるのね。だから、みんなの病気でも、これを自分が吸い取ってしまえば自分の中でそれを消せばみんな健康になるという感覚でしょう。本当の自他一体感というのがあるのね、ここがまたすごいよね。愛そのものと言えるでしょう。これが三つ目の大きい教えだと思うのね。

 次に「入れ子構造」の話があるのね

 芥子(けし)の種かな、芥子の中に「須弥山(しゅみせん)」という富士山より大きい山を入れてしまうという、奇跡を見せるのね。一つの毛穴に大きい海の水をぜんぶ流し込むという奇跡を見せるわけよね。普通、こんなん不可能でしょう、わからないよね。これは入れ子構造の宇宙というのがわかったら、これは当たり前なのね。

 だから、一個の原子の中にも大宇宙があるのね。そういう順番に入れ子構造の姿をとって宇宙って重現無碍(じゅうげんむげ)の姿をとってるのね。この真理を説くってすごいことよね。普通は、そんなのはちょっとわからないと思うんだけど。こういう真理が本当にわかったのよね。だから「維摩居士」という言い方もそうだし、聖徳太子さんでも惟喬親王さんでもそういうのが理解できたのね。ここらはすごいと思うよ。

 その次はね、菩薩というのはみんなを常に礼拝する「空の現われ」というふうにね。空っぽという意味じゃないよ。「空」という言葉は、空っぽとも読むのよね。その空っぽのほうに執(とら)われると間違った解釈をするのね。もう一つ奥があったのね。

 普通、自分の全てを神様に捧げ尽して、与え尽して、自分の中を空っぽにすると、その空っぽの中へは神様がスッと入りやすいよね、与え返してくるね。だから、神様を受け入れる準備段階としては空っぽというのも大事なのね。自分を全て捧げ尽してなくしてしまうという。そうすると空っぽの状態ね。

 ただ、その空っぽという状態が神様じゃないのね。その空っぽへ「無限の無限の輝きが一杯!」という姿で神様が入ってこないと嘘よね。この入ってきた姿が本当の「空」なのね。

 ところが、その空っぽの状態を、準備の状態をみんな「空」と思ったのね。それも必要なんだけどね、空っぽになるというのも、まず準備として必要なんだけど、その後のほうが大事だったのね。

 本当の「空」は、絶対の姿は「無限の無限の輝きが一杯!」という姿なのね。この意味で、「菩薩は衆生を拝む」というのね。みんな無限に無限に輝いているという見方ね。

 これが菩薩の生き方なのね、全てを礼拝して拝み続けるというのね。

 だから、「無限の無限の輝きが一杯!」というふうに拝んだ時に、人というのはどう見えるかでしょう。肉体的に見る男の人女の人という区別はないよね、そういう区別はつかないよね。無限に無限に輝いているという見方をする時はね。

 そして、魂的な姿も無いのよね、男性的な魂とか、女性的な魂とか無いのね。もう一つ奥をみるのね。両方の性格・性質をぜんぶ兼ね備えた絶対神的なものを、丁度、観音様のような姿よね。男性か女性かわからない姿だけど、男性的な姿も女性的な姿も自由自在に発揮できるという。それでいて、無限に無限に輝いているという姿なのね。それが「空の現われ」というふうにみる見方よね。だから、もう常に肉体人間を目の前にしても、みんな無限に無限に輝いているというふうに常に拝み続けた、みんな無限に無限に輝いているという見方よね。これが本当の菩薩の生き方だと教えてるのね。

 その次は、蓮の花って泥の中に咲きますよね。これはやっぱりすごい例えになるのよね。泥の中に根を下ろしているからこそ蓮の花が咲くのよね。だから、煩悩の思いの中に根を張ってこそ、悟りの世界の輝いた、本心の輝いた姿が花開くというのね。

 ただ、泥の中だけを見てると悟ってる姿はわからないよね。この両方を見ないといけないね、泥の中と泥の外の花の開いている姿と同時に見ると、両方素晴らしいでしょう。蓮の根を育てる泥も大事だしね、表面に花が開いている蓮の花の美しさも大事よね。この両方をワンセットで見えた時に「煩悩即菩提」というかね、煩悩がそのまま悟りの姿を現わしてるのね。どっちがいい悪いは言えないね、両方必要なのね。

 古神道で言うと、顕界と幽界と二つに大きく分けてね、光の世界と闇の世界に分けるのね。この光の世界と闇の世界を二つに分けたままでは駄目なのね。これを「一つにつないで光一元に見る」というのが大事なのね。だから、闇の極から光一元に眺めて、光の本当の姿をとらえるね。そうすると、闇夜に輝く月明かりも「ああ、素晴らしいな」と思うでしょう。それで昼の太陽も「ああ、素晴らしいな」という感覚よね。

 だから、全てをプラスにプラスに見ていけるのね、マイナスには見ないよね。

 だから、煩悩の思いの心も、感謝の光の心もどちらも一元に眺めたときは、思いも必要ね、感謝も必要でしょう。ただ、感謝のほうを強くしないと、思いに執われ過ぎるとちょっと困るんだけどね。

 感謝の心で思いを眺めたら、これはどういう見方かというと、太陽の方から地球の表面に浮かぶ雲を眺めたら、雲って光り輝いてるよね、上から眺めた雲ってきれいなのね。下から見るから黒雲に見えるんでしょ。太陽の光がさえぎられた状態になったときに、はじめて黒雲に見えるね、闇になるのね。

 だから、感謝の心で眺めたらいいのよね。そのまま全て光り輝いて見えるもんね。それが泥沼に咲く蓮の花で例えてる話なのね。「すでにみんな悟ってるんだ」という、迷ってる姿をしながら悟ってるんだという。本当に実際はそうなのね、すでに悟ってるのよね、ただ、迷ってる姿を掴みすぎてるというところがあるでしょう。この肉体人間だけを掴んでるというのがあるのね。

 そうじゃなしに、肉体人間も掴んでもいいよ、それ以上に悟った、無限に無限に輝いた自分をしっかり思い返せばいいね。その両方をみてワンセットでとらえた時が、本当の意味で、みんな悟ってる姿よね。

 そういう話があるのね。

 沢山あるんだけど、もう一つ最後に出てくるのが、「不二の法門(ふにのほうもん)」ってね、二つとない法の門なんですけど。「不二の法門に入る」という、これはどういうふうにして入るかね。普通は説法して教えるのね。「不二」というのは、二つと無いというので、全てを一つにみる見方というふうにみた方がいいかも知れんね。例えば、天照大御神様ととらえるときでも、この「天照大御神様が全て」という見方ですよね。天照大御神様を対立させていろんな神様を並べ立てるんじゃないのね。「天照大御神様だけが全て」という見方をこの「不二の法門」と言えるかも知れないね。

 そういう世界に入るためには何が必要かってね、これはいろんな説法の仕方もあるのね。ただ、説法したからわかるかというと、わからないかも知れないね。やはり、言葉を超えないといけないね。

 言葉というのは、例えば太陽に対してでも「あれが太陽だ」という指さす姿が言葉なのね。指が言葉に当たると思うね。でも、実際の太陽は指と違うのね。太陽そのものをしっかりとらえるというのが大事ね。

 「そういう意味で言葉を超えて本物を掴む」というのが必要になるね。

 それで、「維摩居士」はいろんな菩薩や仏さんは説法をするけど、自分は黙然(もくねん)としてしまったのね。それは、もう「維摩の一黙百雷の如し」という、こういう言葉があるんですけどね。フッと黙ってしまうことが、それで雷が百落ちるぐらいのすごい響を現わすわけね。本当の悟りはこうなんだといういのを、口を閉じることによって示すというのね。それぐらい凄かったというのね。

 それで「不二の法門を黙することによって示した」というね。本当は、もう言葉じゃないのね。言葉を超えたものが本当は天照大御神様ね。

 感謝行でも「ありがとうございます」の言葉を使うんですけどね。これはまだ方向づけよね、また神様を呼ぶ言葉でもあるのね。その後よね、神様が出てきたときに言葉を超えて感じるのね。

 また、言葉を超えて神様を感じていかないといけないね。本当の天照大御神様という姿を、神様の無限に無限に輝いた全体の働きの姿をしっかりと感じるというほうが、本当の「ありがとうございます」なのね。

 「ありがとうございます」には、言霊としての「ありがとうございます」と、言葉としての「ありがとうございます」と二つあると思うね。

 この言霊としての、神様の働きとしての「ありがとうございます」のほうをしっかりとらえたら本当の感謝行よね。そういう意味では、言葉にあまり執われないほうがいいのよね。何回唱えなならんとか、心で唱えないと駄目なのかと思うでしょう。本当はそうじゃないね、言葉は道具として使うんだけど、あくまでも神様を感じるのが目的ね。「ありがとうございます」の言霊のほうをしっかり感じ取るのが本当の意味の感謝になるね。そういう意味だったらあまり言葉には執われなくていいよね。ただ、それは活用すればいいというだけね。だから、感謝の本当に湧き出る時は、「ありがとうございます」を言わなかってもいいのよ。言葉を超えてるの、もうすでにね。

 また、「感謝と奉仕」というこの二つの悟りの両輪、車の両輪みたいなものですけど。奉仕できたときはもう感謝なのよね。極端に言うとそうよね。奉仕させてもらったというときは、即、感謝になってるのね。神様を感じて、神様の働きを受け入れて、神様に動かせてもらってる姿なのね。

 だから、奉仕になれば感謝なの。奉仕になるまでは、まだ「ありがとうございます」と呼んでる状態。

 だから、奉仕に入るほうが本物になりやすい。

 ただ、この奉仕も「自分が、自分が」というと良くないね。自分をなくしての奉仕が大事ね。だから、神様へ自分を捧げ尽して、命も神様に預けきって、そして「神様のお手伝い」という気持ちになってると「神様にさせていただいている」という奉仕よね、お手伝いになるから。だから指を一本動かすのも神様に動かしていただいてってね、そして「ありがとうございます」という喜びが湧き上がるのね。そうすると、そのまま悟りの姿を現わしてるね。