0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.
40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.79.
80.81.82.83.84.85.86.87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.
116.117.118.119.110.111.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135
.136.137.138.139.140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.

 ar130離婚後の姓 2001.5.9

 
参加者:

 離婚したんですけど。その時の名前をずっと使ってきたんです。実家が、私は跡取りというお役があったようで、いろんな現象が起きてきて、旧姓が○○なので、名前も変えようと思ってるんですけど。
どうなんでしょう。

ありがとうございます:

 別に、それもどちらでもいいですよね。好きな方を選べばね。どれが良い悪いじゃなしに、自分の好きな道を選ぶことがいいことなんで。「こっちが良(い)い」と思ったらこっちが良いので。もう自由自在にされてください。


 座禅・瞑想と言葉の使い方
 
金沢の山岸:
 昔から、ヨーガとか座禅の瞑想とかいろんな修行をしてると、ある程度、師に付いてやっておれば問題はないんですけど、自分独自でいろんなことやってますと、そのことが原因で精神的に異常をきたしてしまうというような人をよく聞きますし見ることもあるんですけど。それはどうしてでしょう。

ありがとうございます:

 どうしてでしょう。でも、師に付いてもおかしくなる人あるんです、たまにはね。本当に正しい師を選ぶのは難しいですね。正しい教えを受けても正しく実行しなかったら、またうまくいかない場合もあるんだと思うんですね。瞑想とか座禅というのは、かなりいい師匠に付いてても我が出やすいですよね、かなり自分の思い込みってあるんですよね。特に自分の心の中を見ていく場合は、掴みを放していくのがなかなか大変なんですよね。

 座禅でも深いところへ行くと、師匠まで切り捨てな駄目なのでしょう。「これが自分の師匠」と掴むだけでもいけないのね。いろんな仏様が現われても、それまでも切り捨てていかないと駄目なんでしょう、本物を見出すまでにはね。

 だから最初、自分が見てる世界がどういう世界かというと。「本物の世界かどうか」と考えたときに、まだ本物じゃないと思うんですよね。「本物」という言葉の定義も難しいですけど。本物というのは、宇宙の大神様の最高表現の姿が本物ですよね。そこからどの程度最高表現の割合が現われてるかによって、十%現われたら十%が本物ですよね。一%しか現われてなかったら一%だけが本物。

 だから、この世に本物の姿がどれだけパーセンテージ的に出てきてるかというと、かなり少ないですよね。
 だから、本物をしっかりと見出していくには、心の向きが神さまの最高表現の方へ、しっかりと的を絞って見つめ続けていかないといけないんで。

 その最高表現が何かというのは、瞑想とか座禅で自分の、表面の心を「無にして空にして」更に奥の姿を掴んでいくという場合でも、やっぱり言葉の使い方がもの凄い大事になってくるんですよね。今の自分の心を単に否定するだけでは、一番奥の最高表現にまでは心が届かないですよね。そしたら中途半端なプラスの言葉でも無理なんですよね。だから、人の考えられる限りの最高の言葉を駆使しないと、神さまの最高表現を表現するわけには行かないと思うんですよね。

 だから、最高の褒め言葉をいっぱい使わないとね。無念無想で本当の神さまの最高表現の境地まで到達するのは本当は難しいね、無念無想という形ではね。
 座禅でも瞑想でも最初の初期は、いろんな雑念が「無念無想」になって雑念を払って、何も考えない状態になろうとするんですけど。それすら本当は難しい。

 仮にそれがある程度できたとしても、無念無想の境地になってからが神さまの最高表現に近づくの、一歩一歩ね。そこからが第一歩を踏み出してるわけなんで。どれだけ神さまの最高表現を言葉でしっかりと表現し、心でしっかりその的を絞って見つめ続けていけるかというと、大変だと思うんですよね。

 人の運命全般、修行においてもそうですけど、「何を選び続けるか」ですね。言葉もどういう言葉を選び続けるか、どういう言葉を使い続けるか。
 また、目的・目標にしても、何を目的・目標に選び続けるか。だから、自分の選んだ通りに全てなっていくんで。だから、本当に座禅を志したときに、本当の目的・目標は何か。本当の究極の悟りを求めてるのか、最初は行ってない場合もあるのね、無念無想になったらこれが本当の悟りなんだ、と思ってる人もいてるしね。いろんな目標・目的があって、それぞれにいろんな修行の仕方を、その人なりに掴んでると思うのね。

 本当は全体像を掴んで、しっかりと掴んで、それから自分の願う最高の方へ心を向けられたら、もう絶対間違わないと思うんですけどね。でも、全体像を掴めないとやっぱり中途半端な状態だと、あっちへ迷ったりこっちへ迷ったりしてね、失敗に見えるようなことも起こるんだと思うんですね。
 一番大事なのは、やっぱり「言葉」だと思いますけどね。
 『最高のいい言葉をしっかり駆使する、使い切る』ということが大事だと思うんですけどね。


 真剣に求める心


金沢の山岸:
 ということはね。例えば、アメリカではTM瞑想というのが流行って、百万人とか。その人に必要なといいますか、マントラを与えるということで。これが問題あるという方もいるんですけど、それも言葉だと思うんですけど。どんな言葉かも知りませんけど。そういうことに付いては、どのように思われますか。

ありがとうございます:
 いろんな方法が無限にあってもいいと思うんですよね。まあ、実際あると思うんです、無限にね。

 神さまが本当に与えてくる最高表現を頂点にして、無限の無限の段階のいろんな生き方を、みんなに既に平等に与えられてるのね。その中から自分は何を選ぶかだけで、やっぱり自分が何を選んで受け入れているかですよね。そういう生き方も、それが必要だったらそれを受け入れる人が沢山いてるだけでね。ただ、それを受け入れたから最高の生き方かというと、そうではないかも知れないですね。

 私たちもこの地球上でいろんな生き方があって「これが全て」というわけにはいかないね。まだまだこの地球上に現われてないいろんな生き方がいっぱい無限にあるはずなんで。本当に自分が必要として納得できたら、悔いを残さない生き方でその時間を過ごせると思うんですけどね。ただ、情報はいっぱい欲しいですよね、選ぶ場合にね。

 「これが最高」と言われても、それぞれに「これが最高」と教えてきますしね、また宣伝もしてくるのね。
 でも、本物というのはあまり宣伝してこない、逆に隠してくるね。だから、時期がきたら本物を見出す力が出てきて、真剣に求める心を起こして。そういう時に、自然に本物に対しては必要なものを与えられていくんでしょう。逆に、隠して隠して隠されて、どれだけ真剣さが出るか、どれだけ本物を求める心が出てくるか、神さまの方は待ってるみたいですね。それまでは自由にいろんなものに心を向けて体験して、迷っても何してもいいから、「先ず真剣に求める心を起こしてきなさい」というのが神さまの心みたいなんですね。

 そしたら「本物はどこにあるか」ってね、本物というのは本当はどこにでもあるはずなんですよね。神さまが本物であるという限りね。神さまは宇宙のどこにでも瞬時に顔を出せるわけでね。
 だから、本当の自分の師匠というのは神さましかないね。後は、本物にたどり着くまでのいろんな過程における仮の師匠かも知れないですね。

 本当に皆さんも、『何を命懸けで真剣に求めてるか』というのが大事でしょう。何を目的に生きてるのか、何を本当に身に付けたいのか、本当にそれを実感したいのかとかね。それも『自分の命全てを引き換えてでも』本当に手に入れたいと願ってるのかとかね。本当に真剣だったら神さまの方からスッと現われて、それに対して必要なものを与えてくださると思うのね。

金沢の山岸:
 ということは、求めないものには与えないということですか。

ありがとうございます:
 そうね。無理矢理与えても、強制的に与えても意味ないですよね。

金沢の山岸:
 受け取らない。

ありがとうございます:
 受け取らないし、必要のないもの与えても幸せになるどころじゃないですもんね、逆になってしまいますもんね。


 愛と情の違い
 
参加者:
 「愛情」の「情」の部分は必要ないと聞くんですが。情をあまり掛けすぎたらいけないとかね、家庭で子供を育ててると情が大切に思う時もあります。自分は何を求めてるのかなあって。

ありがとうございます:
 自分も「愛情」の「愛」を求めているのか「情」を求めてるのかでしょう、大きく分けてね。

参加者:
 自分は切り捨てたいというたらあまりにもドロドロした部分がありますよね、親子の情が。と思う反面、やっぱり必要かな、と思うし。

ありがとうございます:
 例えば、神さまの表現として、無限のチャンネルの中の情の深いチャンネルと、バランスの取れたチャンネルと、愛だけの輝いてるチャンネルと、いろんなチャンネルがあるんですよね。

 最初は、情にまみれるような感じのチャンネルを体験し続けて「ああ、これはあまりにもドロドロしてる」と感じた人は、ちょっと愛のほうを割合に増やしていこうとするわけですね。それだけでも飽き足らなかったら、「愛だけの輝いてる相手を絶対縛らない」という生き方にあこがれていくわけですね。

 だから、ぜんぶ「愛と情」というんだったら、「愛」の方が神さまのプラスの側ですよね、「情」の方はマイナス側の働きをするんですよね。「執着」というのがあるのね。

 だから、本当の愛というのは「絶対愛」、絶対自由を縛らないですよね。それで、必要なものを的確に与え尽くすだけ。そして相手を絶対マイナスに見ないで「プラスにだけ」見ていける心ですよね。
 だから「情」と「愛」とはぜんぜん正反対の生き方をとるんですね。

 どれが良い悪いじゃなしに、「自分が今何を体験して味わいたいか」という一人一人の自由があるんで。「情」に飽きてきたら「愛」の方へ行ったらいいんだし。良い悪いじゃないんですよね。一人一人それは自分の自由意志で選んで、自分の責任でそれを味わい楽しむだけなんで。みんなスパッとぜんぶ切り捨てても構わんのよ。

参加者:
 使い分けて、結果が出ればオーケーということですか。

ありがとうございます:
 そうね。だから神さまから何を選んで受けてもいいわけで。本当はぜんぶ受けたらいいのかも知れないですけど。ぜんぶ受けるのは難しいですもんね。全ての表現を、丁度、テレビを置いて無限のテレビを相手にするのは難しいですからね。何か幾つかを選んで見るだけですよね。

 それはもう自分が好きなものを選んだらいいんですよね。だから、人から何も強制されることも何もないんですよ、縛られることはないと思うね。自分が今「これを見たい」と思ったら、それを選んでみるだけよね。また心が変化したら、別なのを見たらいいと思うんですよね。

金沢の山岸:
 お釈迦様でもその「情」を全く切り捨ててしまったということはないんでしょうね。

ありがとうございます:
 別に、必要だったらぜんぶ活かしきるんでしょうね。
 お釈迦さんが悟りを開いて、それで「全てを光一元にプラスに見れる」という心境だったら。どんな最低の状態でも悪くは見ないですね。「情」で縛りつけられて苦しんでる人を見ても、「一時的にはそれもいいんだ」とね。そういう体験があるからこそ、本当の愛の自由な生き方も、本当の価値を見出して喜べるんだし、というようなね。極端に言うと「一旦地獄に落ちても構わん」というぐらい、それも必要だったら地獄の体験が大事なんですよね。執着して情の心を生きて縛り合って、いずれ地獄に落ちたにしてもマイナスじゃないですよね、本当はね。ちょっとそれを体験することによって、もっともっと幸せな生き方が未来に開けてくるわけでね。


 親子の情と愛

参加者:
 私たちだったら子供を育てる時に、ここは愛の部分、ここは情の部分という感じで使い分けて相手が育つように。子供がいるんですよ、友達とか付き合いで、なんか本人が自ら「情が湧くちゃねー」て言うんですよ。

ありがとうございます:
 親子に生まれて、親が子供を育てる場合もあるし、子供が親を育てる場合もある。いろんな場合があるでしょう、親子の関係になってもね。

 「自分が親」という立場を勉強する場合だったら、いろんな親の立場を勉強するのがいいんですね。それも「情」で子供を育てる場合もあるし、「愛」だけで育てる場合もあるし、いろんな姿があると思うんですね。ただ、逆の場合、自分が親の立場なのに、子供に面倒見てもらって育ててもらう、育ててもらう一生面倒見てもらう場合もあるんですね。子供の方に徳が大きく持ってるような徳があったら、親を幸せにするのは子供なんですよね。子供の徳をいっぱいもらって、親が幸せに一生送らせてもらうんだったら、親が子供に面倒見てもらってるでしょう。だから、いろんな親子関係がありますよね。それも、どれが良い悪いじゃなしに。自分はどういう立場の親を選び、どういう立場の子供を選び、それぞれ自分の人生体験として選んでそれを味わってるんですよね。順番にいろんな勉強を済ませて、最高の一番幸せな自分の納得できる立場へ戻っていくんだと思いますけどね。


 神さまの助け

金沢の山岸:
 神さまは必ずしも、その人の求めてるものとか、或いは必要なものとかを一番短距離でパッパッと与えるということよりも、いろいろもてあそんで土壇場というか、もうこれ以上はというときにパッと救いの手を差し伸べるというか、「もてあそぶ」というところが若干神さまにあるように思うんですけど。自分が勝手に思ってるのかも知れませんけど。それはどうなんでしょうか、その過程の中にむしろ本人の心が気付くプロセスあるということなんでしょうかね。

ありがとうございます:
 神さまは「もてあそぶ」もなにも手を下さないですよね。必要なものを与えておいて、後は自由に選んでそれで遊びなさいというわけでね。(山岸:自分で遊んでるんですね)自分で遊びきれんかって、神さまの助けが欲しかったら、やっぱり神さまを呼ばないとね。そしたら神さまが出てくるわけですね。だから、呼ぶまでは出番がないんですね、神さまの方はね。 なんぼ お節介に何かしてあげようと思ったってそれは出来ないですね。

 金沢の山岸:やっぱり、人間の側に完全な自由があるんですよね。


 過去の体験

参加者:
 今までいろんな勉強を自分なりにしていますが、それで学びとってるという思い込みもありますね。その解釈の一つが「もてあそばれてる」という解釈だったりするわけですよね。(金沢の山岸:ありますよね)執(とら)われを外して。

ありがとうございます:
 だから神さまが与えてくる無限チャンネルの一つしか味わってないです、普通ね。一つ味わってわかったからって、他のことわかってないですもんね。だから、今見てる番組からある程度自由にならないとね、自由な立場でまた別なものを選べるようになってないとね。

参加者:
 新しいテレビを買い換えた、という意識で見た方がいいですかね。

ありがとうございます:
 だから、「過去の体験」てあまり大したことないんですね。「いろんな体験を積んでる」ってね、自慢できるものはないですよ。

参加者:
 じゃあ、今の自分に巡り合う為の練習だった、という感じで、過去の体験は。

ありがとうございます:
 過去の体験というのは、もうね「今の自分に出会う」という、そんな大したものじゃないですね。沢山の中から手当たり次第にパッパッパッとちょっとだけ選んで、ちょっと体験したぐらいなんですね。

 無限のチャンネルの一番下から順番にというのは難しいでしょう。一つのチャンネルを勉強するのも百年ぐらいじゃ足りないですもんね。

金沢の山岸:
 そうしましたら、いろんなチャンネルがありますわね。できるだけ自分はその番組の中でも、自分にとって為になる有益な番組を最初から選んで。例えば、本だったら古典を読むとか、そうして本物を選ぶとか。どうでもいい番組もあると思うんですよ。例えば、人生は七十年ぐらいだからせめて良い番組を選んでぴしっと生きていこうというふうに、そういう方法ていうのはあるんでしょうか。

ありがとうございます:
 あるって言ったらあるんですけどね、それをしたからって大した事はないみたい。ははは。

参加者:
 大したことないんですか。

ありがとうございます:
 うん。無限のチャンネルを一つちょっと良さそうなのを選んだって、まだまだ上には上があっていっぱいずーっと続くんでしょう。今の自分が「これが最高の番組を選んで体験してる」と思っても、たかが百年ぐらいで味わいつくせるわけもないし、まだ奥からどれだけ良いものが出てくるかもわからん、一つの番組ですらね。少なくとも一億年ぐらいはずーっと生き続けないとどんないいものが出てくるかわからんね。それでちょっと上のほうへまた番組を変えたらまたぜんぜん違う世界が開けるでしょう。

金沢の山岸:
 ということはどこへ向かって行ってるんでしょうか。

ありがとうございます:
 はははは。一つ一つ味わおうと思ったら難しいですよね。それをしてもあまり意味がないかも知れないですね。それならどこへ向けばいいか。やっぱり神さまの最高表現に心を向けないとね。頂点を極めたら下が分かりやすくなるのね。山でも一番上の頂上へ上ってしまったら下がよく見えるわけでしょう。

 「悟りを開く」という「空の心になりきる」とか、そういうのが一番大事なんでしょうね。

 「神さまの最高表現は何か」という、これをしっかり極めていくことだと思うんですね。

金沢の山岸:
 例えば、そこに至るまでの一番適切な番組が自分にあたってくると。

ありがとうございます:
 いや、今見てる番組に執われて縛られてその中にはまり込んだら抜けられないんですね。

 だから、過去・現在・未来と流れてるわけでしょう、その過去を掴むだけでその番組から抜けにくいんですね。だから、今の一瞬だけ眺めてるぐらいの感覚で「さらさらさら」と流さないと、番組の中からですら抜けにくいね。そうすると次の番組に移るどころじゃないですよね。

 だから心をかなり自由にしていかないと。「過去は絶対相手にしない」というぐらい徹底してこそ、今見てる番組からもスッと抜けやすいですね。

金沢の山岸:
 過去というのは、去年はですね和気清麻呂(わけのきよまろ)さんに動かされるというか動いたんですね。そのまま動いていいですかね。私にしかわからない感覚ですけどね。導かれてる、動かされてるという感覚だったんです。そういうのは――

ありがとうございます:
 それは、良い悪いじゃないですね。(金沢の山岸:味わいたいんです)自分が納得できて選んで悔いがないんだったら、それも別に悪いことないんですけど。でも、本当は自分が全責任を持って選ぶでしょう、何でもね。

参加者:
 何か、ワクワクして動いてたんです。まあ、ワクワクしてるから大丈夫だ、とか、判断して。過去のことですねえ、そういうことは。

ありがとうございます:
 過去の時代の人が出てきたという? そうねえ、ある意味では過去を追い掛け回してるね、それね。

金沢の山岸:
 結局わかったことは、道鏡さんも和気清麻呂その時の時代のお役によって、本当は同じで敵味方じゃなくて、お役目というかお役をされたので。お名前が「和気」だから、今は和というか和でいいかなと勝手に思ったんです。道鏡さんもある意味で歴史的には――

ありがとうございます:
 それは、一つの番組にはまり込んだのね。歴史上の見方でもいろんな見方が、番組によったらぜんぶ正反対ぐらいに違う番組がありますもんね。過去に生まれた人が出てきても、本物か偽者かわからんですもんね。名前を名乗ったから本物とは限らんね。

金沢の山岸:
 名前は名乗らなくてですね、偶々行きたいところへ行ったらそこに和気清麻呂のお墓があったり、流されたところにも行ったり。霊感的にじゃなくてね、動いたらそこがそうだった。でも、楽しめばいいんですね。

ありがとうございます:
 そういう生き方もね、まあ楽しめるときは楽しんでいいんですよね。でも、そういう生き方で満足できなくなったら、また別な生き方もいいんですけど。要は自分の自由意志をやっぱり大事に持ってないと駄目ですよね。人の意思で動かされるようじゃ駄目ですね。

 今の自分を導いてくれるという、心境を高めてくれるという場合でも、どこから導きがくるかというね。無限にきますよね、いろんなところからねえ、一つや二つやないですもんね。無限の導きを、その中で自分が今必要とするものを選ばないと駄目なんでしょう。ぜんぶ受けるわけにいかないですもんね。その時に自分の必要なものを的確に選べるかどうか難しいかも知れないですけど。

金沢の山岸:
 やっぱりその時も、ありがとうございますの祈り言葉に立ち戻って祈って判断して。

ありがとうございます:
 はははは。ただね、本当の神さまは一番謙虚でしょう。神さまに本当にすがらないと全託しないと出番がないですよね。それまではいろんな神さまに自由にすがりなさいというわけよね。すがる神さまでも無限にいてるわけでしょう、いろんな神さまがね。低い神さま、高い神さまってね。それは自由に何にでもすがりなさいというのね。一つのある段階の神さまにすがったとしたら、その神さまが高かったらあまり強制力を使ったりしてこないね。謙虚に背後に控えながら、必要だったらアドバイスを与えてくるかも知れないですね。

 でも低い神さまだと強制的に、「自分のしてることは正しいんだ」って強制的に思い通りにしてくるかも知れないね。だから、命令してくるね「こうしなさい、ああしなさい」て、うるさいぐらいね。

 でも、本当の神さまはもっと謙虚だから、いろんな神さまにちょっとでもすがるような気でいてるんだったら「そっちを優先しなさい」と言うてくるんでね。また、自分のしたことがあって、自分の思い通り、願い通りにしたいと言うんだったら、「それを先にしなさい」と言ってくるね。神さまの導きを受けるどころじゃないですね。自分の思いや願いを最優先させてくれるし、他の神仏にすがるんだったら、それを優先させてくれるから。結局は全てを神さまにお任せするぐらいの全託の心にならないと駄目なんですね。本当の神さまにすがるというのはね。


 高い神さまと低い神様

金沢の山岸:
 神様の「レベル」という話なんですけど。私たちが一般的にイメージで言うと、神様はすごい高い存在で、もう素晴らしい高い素晴らしいレベルの方々が神様というイメージがありまして。その低いレベルの神様とかいうのは、例えば、宗教の人、書物で言われてる幽界なんかの生物が神様が形をとって現われてきたりとか。そういった色分けが意味があるのかどうかわかりませんけど。神様というのはどういう存在から神様というのか、わからんかったんです。その辺りはどういうふうに考えたらいいでしょうか。

ありがとうございます:
 それは段階も無限に分けたほうがいいかも知れないですね「神さま」という名前を使ってもね。

 この神さまは「ある程度いろんな力があって神通自在」なんだ、という意味の神さまですよね。「八百万の神さま」という感じの意味で使われる神さまがあって、それがピンからキリまで無限の段階に分かれてる、というふうに見た方がいいですね。高い神さまはやっぱり自分を出さない「謙虚」ね、どこまでも自分を無くしてしまうというね。自分を無くして謙虚になればなるほど、本物を宇宙の大神さまの力・助けを受けやすくなってるんで。その神さまが本物の神さまが自分を通して働いている、というぐらいの感覚で的確に必要な助けを与え続ける役割を果たすわけですね。

 だから「どれだけ謙虚になってるか」というのは、大体、計れると思うんですけどね。ちょっとでも自分に「これは力があるんだ」とか、自慢するほどでなかっても「これは自分の力なんだ」と掴むようだったら駄目なんですね。まだ、謙虚さがまだまだ足りないね。それが、無限の力があって太陽のように光を放射する立場でも、「低い」と言うのね。自分は「こういう神さまだ」と、名前を出すだけで駄目みたいですね。

金沢の山岸:
 自分の力を示したり、或いは強制的にいろんなことをやらせてくる神さまでも、それも神さまのレベルの一つであって、おかしな存在ではないのはないんですか。

ありがとうございます:
 神さまという立場で見た場合は、ある意味ではプラスに転換させるための神通自在の働きをしていくという場合ですね。

金沢の山岸:
 幽界とかいうおかしなところから一線を託されたもので、「プラス、マイナス」というのは果たしてわからないですけど、この世的に言えばプラスの働きもされて――

ありがとうございます:
 プラスの神様とマイナスの神様に分けるんだったら、邪神とか、聖神に分けてもいいんですけど。それも、無限の無限の段階、と分けたらいいかも知れないですけど。

 やっぱり執われ過ぎるとややこしいですね。だから、そういう神さまよりも、本当は唯一つの究極の神さまにすがる方がいいんでしょうね。本当の神さまは自分に必要なものを的確に見抜いて与えてくださるし、また、それを受けさせてくださるという意味では「最高の導き手」なんですね。

金沢の山岸:
 今言われてる神さまというのは、エンジェルとか言われてる?

ありがとうございます:
 全部含まれてですね、そういうのも全部ひっくるめてね。だから、本当の唯一無二の絶対の神さまてね、もう全ての全てなる神さまでしょう。「その神さま以外にない」という。その神さまが全ての全てだったら、今言ったいろんな種類の神さま全部、中に納まってますよね。そしてそれだけではないんですね。他の働きの要素を全部中に持ってる神さまなんですね。

 だから、この世も神さまの現われと言うんだったら、この世も神さまになってくるでしょう。「みんな神さまの現れ」というと、石ころ一個も見ないといけなくなったら、どの神さまが偉いのかというと難しいですね。

 本物の神さまは、この世の石ころ一個も無限に無限に輝いた姿ね、本物の神さまの働きであればね。石ころ一個輝いてくるんですよ、無限にね。それが本物の神さまの現われとしての石ころですよね。

 「聖神と邪神」にわける見方、この見方と、本物の八百万の神さまとの関係とはちょっと違うんですね。

 「聖神と邪神」に分ける見方は表現としての姿ですね。その奥に本当の意味の俳優としての八百万の神さまがあるわけよね。俳優としての八百万の神さまだったら、良い役も悪い役も同時に自由自在に演じ切れる神さまね。本物の神さまの分身としての八百万の神さまというと、本当の意味の名優としての神さまになるのね。だから、必要だったらプラスのいい働きを演じきれるし、また、必要だったらマイナスの悪魔のような姿も演じきれる。

 この世に物質、物体ってありますよね、あの世も幽界では幽体があります、霊界は霊体、神界は神体というね。だから、五感六感の感覚器官でとらえる世界はみんな物質なんですね。物質がある世界がこの世から見るといろんな次元があると見えるんですけどね。

 この世と比較して、例えば、霊界とか神界はこの世では神通自在なんで、神界霊界に本当の八百万の神さまがいらっしゃるのかなと思うのね。でも、そういう見方はある意味ではちょっとは当たってても、本当の八百万の神さまじゃないですね。ただ、神界や霊界をもこの世と同じように物質の世界として、神界霊界の物質の世界として見て、それを生み出す働きとして、奥に八百万の神さまが控えてる。そういう見方の方が正しいのね。神界をも生み出す本当の意味の八百万の神さまね。またこの世も生み出す八百万の神さま。また地獄をも生み出す八百万の神さまですよね。

 全体を大きく眺めたときに、根本の宇宙の唯一人の大神さまが、全ての要素をぜんぶ組み合わせて最高表現を頂点に、そして無限の無限のチャンネルを創りあげるという。それを創りあげるときに、その八百万の神さまが俳優として働くわけですね。そしてストーリーが完璧に演じきられるわけよね。だから、一つの番組もちゃんとストーリーがずーっと決まってるわけね。一時期だけの期間だけ決まるんじゃないね、もう無限の年月全部決まってしまうわけね。


 ヒットラ−は天上界?地獄界?

金沢の山岸:
 今おっしゃっている「俳優」という意味で言いますとね、ヒットラーでさえ凄い名優で、今は一般の人は地獄界に行ってるだろうと思いきや、そうじゃなくて役目を果たして天上界にいるんだという本がありまして。それが実際そうなのかどうかというのはわからないんですけども。そういう役目を演じ切っているのか、或いは自分で、例え話でゴキブリが暗いところを好むように、あの世へ行っても暗いところへ行っちゃうようになってるのか。そういったことは私たちが見ている表面の世界を見ただけでは判断できない、ということなんでしょうか。

ありがとうございます:
 ストーリーが、いろんなストーリーがあるんですね。全ての人間が考え付く全ての考えの世界が全部ある、揃ってるのね。実際悪いことをして地獄へ落ちてるという姿もあるのね、そういう番組もあるし。演技として演じていい世界へ行ってるという番組もあるのね。もっと他にいろんな番組があるの、同じ一人の人をとらえても。だから、最初から悟って出てきてて、人類の業を一身に背負ってああいう姿をとって、すぐに最高の神界へ戻ってると言ったらそういう世界もあるのよね。だから、どの番組を自分がとらえて判断するかでしょう。

 高い良い番組は極端にプラスばっかしのいい解釈しかできない番組よね。だから、どんな姿で出てきてもいいのよね。そしたら、この世に生まれた人は何のために生きてるのかというのでも、いろんな目的を持って生きてるでしょう。楽しむためにだけ生きてる人もあるし、世の中を良くしようと思って一所懸命になってる人もあるしね。どれがいいんでしょうね。


 番組の選び方・受け方

金沢の山岸:
 「人類の意識が例えば進化するとしたら」という表現を時々されますけど。そういう場合は、良い悪いじゃなくて、人類が選ぶチャンネルが少しずつ変わってきたらと、いうような解釈でいいんでしょうか。

ありがとうございます:
 だから、そういう見方もできるわけでしょう、一つとしてね。他にもいろんな見方ができると思うよね。「自分が今、神さまから何を選んで受けるか」でしょう一番大事なことはね。

 今見てるこの番組全部本当に捨て切って、神さまの最高表現に心を向けたら、その番組がスッと受けられる自分に変わってしまうんでしょう、本当はね。この世なんかはもうぜんぜん無視して度外視してしまうのね。それも一瞬でできて可能よね、不思議でもないよね。

 でも、この世を見ながらまたちょっと他の世界をというのも、必要であったら可能でしょうしね。また、この世の世界をどういうふうに変化させて見ていくか、いろんな変化のさせ方、見方があると思うのね。

 神さまの表現が全てを尽くしてるという、ありとあらゆる全部、中に存在してるわけですよね。本当に人間が想像できる限りのもの全部、先に用意されてると思うね。その中から「何を選ぶか」想像したものを選んで行くんでしょうけどね。思う通りのものを選んで行けると思うんですね。

 でも、人って多分に過去を掴みすぎてるでしょう。一つの番組にしがみつきすぎてるでしょう。

金沢の山岸:
 むしろ番組の中へはまることを望んでいるようなとこがある。

ありがとうございます:
 そうね、はい。一つの番組にはまり込んでも、さらさらと流れるように新しい姿を眺める人は、かなり自由で楽になってると思うんですけど。その中でも過去を掴んで掴んで、過去のマイナスを特に掴みすぎる人もあるわね。

 神さまが無限のチャンネルを創った目的は何かと考えたら、やっぱり、人に見てもらって喜んで欲しいわけでしょう。本当はどんな番組でも喜んで欲しいのね。だから、自分の見てる番組に巻き込まれてマイナスを掴んで苦しむんだったら、神さまは何してることかわからないね。本当にね。いつまでも、そんなん苦しんで、悲しんで、そうでしょう「苦しんで欲しくない」と思うよね。

 最低の地獄番組でも転げ回って喜んでくれるぐらいが、神さまが番組を創った目的かも知れないですもんね。「こんな最高傑作を創って」てねえ、お腹を抱えて転げ回って笑い飛ばすぐらいだったらいいんだと思うんだけど、本当はね。

金沢の山岸:
 楽しんで生きていくように望んでいらっしゃるんですよね。

ありがとうございます
 神さまってそうですよね。本当の神さまの心ってね。その心を一人一人に与えてくださってると思うのね。

金沢の山岸:
 神様って私達にわかりにくいのは、極めて「謙虚」だからなんでしょうね。でしゃばらないから。

ありがとうございます:

でしゃばらないからですね、一番難しいところはね。隠れてしまうのね。

金沢の山岸:
 その方がいいんですかね、私たちが生きて行くのに。謙虚でいらした方が。 神様が積極的だと我々は自由がない。

ありがとうございます:
 それでも、無限の放送番組を創ってそれをずーっと放映し続けるって、凄いことよね。

参加者:
 私達はのびのび自由に選択ができるように、神様が隠れていらっしゃるんでしょうか。

ありがとうございます:
 神さまから「この番組だけを見なさい」とか強制されたら大変でしょう。「最高番組だけ一つ見たらいいですから」って、それだけを見せ続けさせられるというのも嫌でしょう。だから、無限の番組の中から、やっぱり自由に選んで、どんな番組でも自分の自由意志で選んで見たいですよね。それでいろいろ見ながら最高の番組へ心を戻してそれを味わい続けるとか。また、一つだけじゃなしに、全部を同時に見ながら最高表現を味わうとか、いろんな楽しみ方・味わい方が出てくるんだと思うんですけどね。


 中山ミキ 教祖さま

参加者:
 私は神様の具体的な例として近年では、天理教教祖の中山ミキ先生という方。あの方の「教祖様」という芹沢光治良さんの書いた本を読んで、神様というのを具体的に急き込まされたり、夜中に何かされたり、ああいうのを見て「恐いなあ」という感じがしたんですけど。あれはあの時代にああいうことが必要だったということなんでしょうかね。具体的に現われたとして凄くリアルに書いてあるものですから。ああいうのはどういうふうに思われますか。

ありがとうございます:
 背後で働く守護霊さん守護神さん級の神さまが強制力を使って働いた、という意味ではそうかも知れないね。

参加者:
 その時、その方が現われてその方につかれた方も沢山いらっしゃるわけですよね。どこで自分がそういう人とつながって行くかというチャンスはいっぱいあるんですね。

ありがとうございます:
 でも、強制力で操られて、操り人形にはなりたくないでしょう。自分の自由意志で選んでいます。本当はね。いくら神さまの助けを受けてちょっと力をふるって良いことができたとしてもね。でも、それは本当の究極の大神さまの働きじゃないですね。

金沢の山岸:
 なんか、局部的な気がするんです。あの時代のあの場所が。

参加者:
 ちょっと応急手当というか。

ありがとうございます:
 あの時代の、あの場所の、また宇宙絶対統一神のある特定の個別神というような働きとしてそこの人々が受け入れやすいかたちとして救世の神さまの光が天地を貫いたという感じでしょう。

参加者:
 でも、受け手側は「大神様」というふうにとらえてますよね。中山ミキ教祖は。

ありがとうございます:
 そうね。みんな受け手はみんな最高の神さま、と受けるじゃないですか誰でも。実際宇宙絶対統一神なり・・・・そのままですから。

参加者:
 受けたほうが幸せですよね、自分がそういう人に、人よりも――

ありがとうございます:
 天理教の場合宇宙絶対統一神なり・・・・そのままですけど・・・・。だからそれ、受ける側が最高と思っても、最高かどうかは別問題ですよ他の場合はね。もっと低級な低い神様が懸かっても「あっ、これが宇宙の大神さまなんだ」と受けてる人が大勢いてるでしょう。おかしいことをいっぱいしながらでも「私は最高の神さまにいつも護られて、導かれて、指導を受けてる」という言い方をする人は大勢いてますもんね。でも、ちょっと距離を置いて眺めたら、本物か偽者かわかりますよね。


 神懸り

参加者:
 なんか身近にそういうものに川に投げ込まれたとかいう体験を持ってる人の話を聞くと、本人言えないけど聞きながら、低級霊がついたんじゃないかなあ、というふうに私は解釈するんですけどね。そんな酷い目に合わされて、ちょっと恐ろしいような体験をされて、その人は神懸りみたいに話される方がいらっしゃるでしょう。こちらが聞いた方は、そんな酷い目にあってはるんだなあと。本人は神懸りというふうにプラスに解釈してあるから、あれはどういうことなんでしょうか。

ありがとうございます:
 そういうふうに言って、神懸りになって喜んでるんだったら、その人の自由意志はどこにあるかと思いますよね。その人が本当に自分の自由意志で選んでそうなることを望んでしたんだったら、その人の責任ですもんね。偶々そういう波を選んだ、それを選んだ、ということですもんね。

参加者:
 そういうものと波長が合ったというわけですかね。

ありがとうございます:
 川へ投げ込まれるようなものを選んだ。

参加者:
 低級霊が憑いたんじゃないかな、と思ってもその人には「こうなるにはこんな修行があった」というような話し方をされるから、黙って聞くんですけど。

ありがとうございます:
 本当は、自分の全責任で「何を選ぶか」を決めないといけないと思うんで。他のを選ぶんだったら、それを絶対拒絶すればいいんですもんね。「神懸りの状態に自分は絶対なりたくない」と言うたら、拒絶すればならなくて済みますよね。でも、そういうものに憧れて願うところがあると、そういう波にさらわれて、波長を合わせて受けて、そういう状態になる場合も多いですよね。とことん拒絶すれば拒絶して否定すればいいんですけど。


 幽霊を見る

参加者:
 幽霊を見たとか言う人がいるでしょう。見たことないんですけど。見た人はどうなるんですかね。

ありがとうございます:
 それは、ちょっと波が合えば見えるでしょう。だから、この世に近い波が幽霊なんていうのはね。

 ほんのちょっと波が変わるだけでね、足まで見えたらもう、あっははははは。向こうにもちゃんと足あるんですけどね。この世で見たら足はないように見てしまうんですね、ボーっと見てしまうんですかね、顔ぐらいがバーっと出てきたりしてね。あんまり低いのが見えたら、自慢できないですよね。自分の心境がそういうものと合ってると言われたら――

参加者:
 その人の思い込みが幽霊という現象を起こしてるのかなあと思って。まだお会いしたことないので。

ありがとうございます:
 よかったですよ。

参加者:
 じゃあ、幽霊に好かれてないんでしょうか、私。

金沢の山岸:
 幽霊に波長を合わしてないから。

参加者:
 向こうが波長を合わせてくださってないのかも知れない。

ありがとうございます:
 特別な一人、という意味じゃなしに、同じ世界に波があったらそういう世界ばっかり見えるのよ。

 どこへ行っても「ここにもいてる、ここにもいてる」と見えるのよ。逆にこの世よりもよけい見えたら大変ですよ、あちらの方が本物に見えてきてね。


 全託でプラスになる人達ばかりが集まる

金沢の山岸:
 最近、寺子屋というようなことをやってまして、そこで十人ぐらい、五人でもですが、集まってやってますと。私にとってはそこに居る方が全部私に必要な感じが気がしますし、同時に、またそちらにおられる方も、そっちにおられる方も必要な場面、一瞬一瞬だというふうに思うんですよ。要するに誰一人としてそこで一人欠けても、欠けないですけど、全ての人が全てその場で必然的にいるという、必要だという。その辺がすごく神様の計らいのような気がするんですけども。だから、それを凄く喜ぶんですけども。それはどうでしょうか、それしかないわけですけど。でも、あの人はいない方が良かったとか、そういうふうにはならないわけです。

ありがとうございます:
 究極は、自分が自由意志で選ぶんですね。いろんな世界、いろんな姿を全部選んでいくんですけど。自分の自由な選択権で、自分の今の力で何でもプラスにプラスに選べるかというと、そうじゃないかも知れないですね。だからある意味では、自分より上のランクの、まあ神さまとかそういうものにすがる、という。本当は究極の神さまにすがるのが、一番的確に自分の今の状態を見抜いて、必要なものを与え続けてもらえるのね。そういう気持ちで、例えば「ありがとうございます」と唱え続けるという気持ちを持ってるのだったら、究極の神さまから、今の自分に必要な最短コースの助けを与え続けてもらう意味で、周りが自分のプラスになるものばっかしが集まってくるんですね。でも、ちょっと自分の願いや思いが出てくるとね、自分の思いを巡らせたらね、みんながマイナスヘ落ちて苦しむことになります。

金沢の山岸:
 ここに今十一人いらっしゃるわけですけども。この十一人がそれぞれこの場がこれで僕はパーフェクトだと思えるんですけど。何の無駄もない完璧だと思うんです。

ありがとうございます:
 その完璧と思える自分が「ありがとうございます」という究極の神さまに全託している自分ですよね。絶対マイナスはないのね、そしたらね。一番必要なものを的確に与え続けてもらっている自分ですね。
 もうぜんぶ自分のプラスになって行くんですね。
 でも、ちょっと自分の願いや思いが出てくるとね、「あの人にはちょっと波が合わんから会いとうない」とかね、そうでしょう。そんなんを出してくるとちょっと程度がマイナスへ落ちていくでしょう。最高のプラスにならないですね。だから、もう自分の思いや願いは要らないですね。そういうのは出さないほうがいいみたいですね「ありがとうございます」で本当の全託のお任せの方がいいですよね。そうするとプラスになるものがどんどん吸収できるようになって、神さまの心と一つに一体化していくわけでしょう。


 真剣さが大事

参加者:
 先だって友達のところで、池の鯉を見せてもらったんですよ。なんてきれいな鯉だろうって、今までは鯉という感じで見てたんですよ。ああ、この鯉はなんか花嫁さんの白無垢みたいな姿だなあと思って、「きれいですね、きれいですね」て言ってたんですよ。すると鯉の中でも最高の鯉らしくて、ずっと説明してくださって、「何千万もするんですよ」と言われたときに、この鯉は高いんだと改めて見直したんですけど。その知識がぜんぜん聞かない前から「美しい鯉だなあ」と思ったんですよ。本物の神様というんですかね、そういう出会うべくして出会うんでしょうけど。最近別の鯉が泳いでいるところを見たけど、あちらの鯉とは違っていたなというふうに感じたんです。隠れている神様というのはそういうことなんでしょうかね、究極の神様というのは。

ありがとうございます:
 究極の神様は、なかなか姿を現してくれないのね。自分の心境が謙虚に、謙虚になった時だけ自分の周りのいろんな姿の中からスッと顔を出してくださるのね。それが鯉かも知れないしね、花かも知れないし、人かも知れないね。石ころから何か感じるかも知れないしね。謙虚になった時に本物の神さまは出てくるみたいですね。

 それもやっぱり「真剣さ」が必要なんでしょう。「本物の神さまと出会いたい」という、「真剣さ」というのが大事ですね。

 「真剣さ」というのは命がけともいいますよね、「命と引き換えに自分の全部を投げ出してでも」という気持ちですよね。自分の全部を投げ出したら「謙虚」でしょう。「謙虚に、謙虚」になった状態がやっぱり「一番真剣な心」になってるみたいですね。「本当の神さまを見出したい、出会いたい」という気持ちが強いのね、謙虚なときほどね。だから、そこへスッと神さまが人の自由意志を縛らずにスッと顔を出せるんでしょうね。

 だから、謙虚になるほどいいみたいですね。「石ころよりも自分はもっと下なんだ」というぐらいにね、そしたら石ころにスッと神さまに現われてくるんですね。
 だから、石ころを踏みつけたら駄目みたいです、はははは。

 ありがとうございます。




AR130-02

2001年 5月 9日 夜 


 
 綱引き道

参加者:
 綱引きを修練をされてるとお聞きしてるんですけども。その意味合いというのか、もし教えていただけるのなら教えて頂きたいと思います。


ありがとうございます:
 日本は特に「道」とつくものが多いですよね。武道にしてもいろんな習い事でもそうですね。
 「道」と付くものはやっぱり「みちわたってるもの、神さまと一体化する」という意味があるのね。
 「悟りを求めて神さまと一体化したい」という願いを持って、いろんなことをするんですね。

 綱引きも、古来からの綱引きというのは、神さまと一体化するためのものだったのね。そういう意味では、「競技」という争いではなしに、本当の自分を見出すための、本当の自分を引っ張り出すための「綱引き道」というのが本当の理想じゃないかと思うんですね。「綱引き競技」と「綱引き道」とはやっぱり目的が本当の意味で違うんですね。「綱引き道」の方はやっぱり悟りを求めて神さまと一体化したい、という願いを持ってするのね。そのために先ず「自我の心を消し去ってもらう」。

 自我の心を消す方法はいろいろあるんでしょうけどね。
 だから、痛みとか、しんどさとか、いろんな限界破りをすることによって、自我の心を早く消してもらえるのね。普通、「我の心」というのは、やっぱり神さまに波を波長を合わせにくいですね。自分勝手な波を出してしまうので、低い波にあっていくというところがあるのね。やっぱり「我の心」をどんどん消し去ってもらって初めて神さまに波長を合わせて行ける、それも最高表現に心の波長を近づけて行けるわけよね。

 だから、どんな武道もそうですけどね、最初は「我をとる・癖を取るための修練」をするのね。
 次は正しい型に合わす本当の修練をするのね。そしてその正しい型に合っても今度はぜんぶ捨てないといけない。全部捨て切ったところから、本当の自由自在の生き方が生まれてくる。その時に初めて神さまの手足となって、神さまのご用に使ってもらえる自分ですね。それをやっぱり目指してるんですね。
だから「綱引き道」は、限界破りに挑戦して、我を消してもらって正しい型に合わす練習もして、我で引くんじゃなしに、神さまに導かれて正しい引き方を練習して、感謝を基本にするんですけど。感謝を深めながら神さまの御用に使ってもらって、神さまが自分に降り立って綱を引いてくださる。そういう状態になった時に、本当の光が振り撒かれる状態になると思うのね。だから、世界平和を目指してるわけよね、本当の意味ではね。地球を平和な素晴らしい世界に変えて行きたい。そのための神さまのご用に使ってもらえる自分になっていこう、というのね。
それをお互いが助け合ってその良さを引き出し合うのね。だから、一緒に引き合っている仲間を、練習しに行って試合に出て行って、自分のチームという仲間もある意味ではお祈りも相乗効果を起こす、という意味で一人でするよりは二人、二人でするよりは三人と多い方が効果が大きくなるね。お祈りも深くなるし、大きい力も受けるし。また、お互いにしんどいトレーニングを積んでも、励まし合うと楽になるね。誰か一人限界を破れると他の人もすぐに限界が破れるね。

 また、対戦相手のチームともお互いの良さを引っ張り出しあうという意味だったら、感謝の心が湧きあがってくるね。そういうプラス面をいっぱい持った「綱引き道」を目指してるんですけどね。
奥が深いんですけどね、なかなかね大変なんですけど。

参加者:
 綱引きを選ばれたというのは。一つは団体で一人じゃなくて、例えば合気道とかいろんな方法があると思うんですけども。そうじゃないところというのは、やっぱりグループでやるということと、その限界を破るという実感しやすい。

ありがとうございます:
 ありますね。やっぱりグループの方が助け合いの相乗効果を起こしやすいという意味と、綱引きは自分を出さずに済むんですね。「自分がどんだけ強いから」というてもわからんのね。ははは。自分がどんだけ引いてる言うても、傍から見たらわからんですよね。自分を出さずに済む、それで後ろへ引っ張るのは「謙虚になろう」とね、前へ出るんじゃないですもんね。バックするんですよね。ははは。形の上ではバックして謙虚になる、というね。

 それと「誰でもできる」というところがいいんでしょうね、本当はね。小さい子供でもお年寄りでも、元々神様事の綱引きはそうですね。綱・ロープ自体が神さまの宇宙創造の働きを現す「神さまの体」というふうに見るんですよね。それで「神さまに触れる」というのね。そういう意味で「握るだけ」というのでも意味があるんですね。「神さまを通して一体化する」という、ロープを握ることによってみんなが一体化していくんだ、という意味もあるんですね。

参加者:
 丹田を鍛えるとか、そういった意味合いかなあと思ったりしたんですけど。それより今おっしゃったような意味合いなんですか。

ありがとうございます:
 はい。根本はね。そりゃあいろんな鍛錬になりますよね。もうかなりきついですもんねあれ。
 腰の鍛錬、腰痛でもすぐ治るぐらい、はははは。本当なのよ、練習で治せば本当の強い腰に、足腰なるんですよね。綱引きで鍛えた人はマラソンでも簡単に走れるの。普段マラソンの練習をしてなかってもね。いろんな面で基礎体力が出来上がりますよね。皆さんもどうですか。それも短い時間で効果が大きいですよね。ただ、それも毎日しないとね、一年に一回ぐらいだったらもう後ムチャムチャに痛いですよ。運動会で引いてもそうよね、一年に一回、思い切り引いたら、もう足腰が後大変ですよね、後ね。毎日引いてると楽なのね。いいですよ。柱にこう縛って。

参加者:
 ルールとか覚えなくていいですよね。シンプルで。

ありがとうございます:
 勝ち負けを考えるといろいろテクニックを必要としたりするんですけどね。本当はそんなんあまり大したことないですよね。目的を「神様と一体化する」と定めたら楽しいですけどね。


 「ありがとうございます」の本当の意味

ありがとうございます:
 ここへ来られた限りは「ありがとうございます」の本当の意味を持って帰らないと駄目なんでね。その説明もちょっとしておかないとね、先にね。
何回も同じことを話してるんですけど、初めての方もおられるんで。「ありがとうございます」という言葉は、言霊で解釈したときに正しい意味がわかるんですね。

 どういう意味を持ってるかというのは、これは究極の神さまの名前なんですね、最後の切り札みたいなものね。今までにもいっぱい神仏の名前が出てきて、それぞれに「これが最高」て、みんな信仰してるんですよね。それが世界の大きい宗教戦争の原因になってるでしょう。争いの一番の原因になってるのね、これでは困る。だから、最後の切り札でみんなを仲良くさせる最高の神さまの名前として出てきてるのね。この言葉に戻ればみんな仲良くするしかないというね。その神さまとは、「本当の神さまとは何か」これが一番大事なことなんですね。

 本当の神さまは「全ての全てなる神さま、唯一無二絶対の神さま」ね。だから沢山の「神さま」というのはまだまだ駄目なのね。先ず「神さま」という言葉の語源の意味から考えてみたいと思うんですけど。
大体五つに分けて、神さまの働きを考えてみるといいと思うんですけど。

 先ず、「絶対」という表現に現われる前の相対の両極に分かれる前の「絶対」というのがあるんですね。
それは、丁度海を例えていうと、海があって表面に波が起こりますね。海全体を「絶対」と見て、表面に浮かぶ波を「相対、表現」というふうに見るの。それぐらい大きい違いがあるのね。
 「絶対」と「相対」の違いは、「絶対」はもう底知れん奥深い言葉で表現できないものがあるの。その中に、表現に出てくる全てが厳然と最初から存在してるの、最初からね。
 その表現が新しいものをどんどん生み出すんですけど、「同じものを二つと作らない」というだけのものが「絶対」の中には全て備わっている。「二度と同じことを繰り返す必要のない」だけのものを「絶対」の中には全て持ってるわけね。だから「絶対」というのはもの凄いものなのね。

 その絶対の中から「創造」の働きが出てくるわけですけどね。創造の働き自体も、私たちが物を作る感覚とはぜんぜん違うんですね。「絶対」にある「相対の両極」を全部両方へ振り分けて、それを「らせん状に組み合わせて」複雑無限というぐらいの、もの凄い組み合わせの働きがあるわけですね。そして全てを完璧に全てを尽くして組み合わせた表現というのが、神さまの最高表現なのね。
だから、最高に素晴らしい表現だけがあるんじゃないのね。その中に、一番下から一番上まで全部揃うのね。そして、頂点に最高表現の姿があって、それ全部を総括したのが本当の最高表現なってるのね。
だから、神さまの表現を放送番組に例えると――

 先ず無限のチャンネルが生まれるわけね、マイナス無限大からプラスの無限大まで、無限のチャンネルが完璧に先ず生み出されるのね。プラス無限大の表現というのが最高のこれ以上絶対ない、というだけの素晴らしい表現になってるね。そうしたらマイナスの最低表現はどうかというと――
これもマイナスがいっぱいの、これも最高傑作の表現。この一つ一つのチャンネルの中に、またそれが無限に分かれるの、細かく分けるとね。例えば、この世という一つのチャンネルがあったら、この世も無限に細かく分けられるのね。だから、無限の無限のチャンネルが神さまの中から一瞬一瞬生み出されていくのね。この最高表現を頂点にして、もう全てを尽くした表現が厳然と一瞬一瞬新たに生まれてきてるのね。

 そして神さまはその最高表現の姿を「無限に無限に輝いた姿」というふうに見て、例えば、古神道だったら「天照大御神」という呼び名で呼んでるのね。だから「絶対」を中に持って、「創造」の働きを中に持って、そして最高に輝いた姿で「天照大御神」という姿をとってるわけね。「ありがとう」というのはこの「天照大御神」という名前に変えてもいいんですね。
その「天照大御神様」が分身を持つわけね、無限の無限の分身を。これは八百万の神様とその名前を呼ぶんですけど。八百万の神さまというのでも、八百万じゃないのね、数は数え切れない無限の無限なんですね。その働きに応じて名前が全部違うんですけど、その働きが細かく分けると無限に無限に分かれるの。一通りじゃないんですね。その神さまの神通自在の働きが今度形あるものを全て生み出してくる。それは五感六感のね感覚で感じられる世界が全部そうね、ありとあらゆる世界の表現が神通自在の神さまによって生み出された姿になってるのね。この全体像、全部をとらえて、「ありがとうございます」という神さまの名前がそこに生まれるという状態なのね。

 「あ」というのが「絶対」という「光源・光・命の本源」というのが「あ」全ての始まり。

 「り」が、「らせん状」に全てが生み出されて組み合わさっていくという意味で、ら行音の「り」を使っていて。 

 「が」が、「か」をダブらせて「輝きに輝く」という意味で、「無限に無限に輝いている」というのが「が」。

 「とう」というのが「十字」にみて、縦横の組み合わせと見てもいいし、また「ありがたし」のた行音とさ行音というふうに分けた時は、た行音が縦で、さ行音が横。相対に別れた両極を縦横に組み合わせて一つのものを創りあげる。だから絶対の無限の無限の更に無限の大光源が出発点にあって、そこから複雑無限の創造活動が行われて、無限に輝いた最高表現が生み出されて、それが完璧に組み合わさって本当の全大宇宙という姿をとってる。これが「ありがとう」という意味ですね。これが最高表現のほうね。

 それが現実化してくる過程が「ございます」なのね。

 「ご」というのは「こ」をダブらせて「凝り固まって凝り固まって」、「物質化して、物質化して」という意味があるのね。最高表現が物質化してくると、またいろんな表現をとってくるわけですね。凝り固まることによって、魂的なものにもなり、更に凝り固まることによって物質的な物体的なものになってくるね。
だから「一霊四魂、一元四体」本当の神さまから生まれてくるね。

 「ざ」は、「さ」をダブらせて「さらさら流れる」、さらさら流れるこの響きがいいんですね。宇宙の全てがさらさらと移り変わってる。光の流れ、命の流れがあるわけですね、それは「爽やかな、清々しい、素晴らしい、素敵な」といういい響きがあるんですよね。それが自然に移り変わっているという意味が「ざ」ね。

 「い」というのは「命」、生きてるという意味よね。単なる移り変わってる「物」じゃないんだ、本当に生きてる「もの」なんだという。命が躍動して輝いてるんだ、という意味ね。

 「ま」というのが「完全な、完璧な、まったき」。

 「す」が、また「絶対」の中心に「統一」されて戻る、という意味があるんですね。

 「ます」というのは、「必ず増える」という意味で、今現われたものが更に「大きく良くなる・増える・栄える」という意味で「ます」になるのね。

 だから、絶対から現われた無限に無限に輝いたものが、現実のこの世にまで物質化して物質化して現われて、それが完璧な表現をとって、またそれが現われては中心へ、絶対へ戻って行ってる、という意味で。自然に循環しているという意味が含まれてるのね。
 だから「ありがとうございます」で神さまの働きの全部を現してる。
 だから、「神さま」という言葉も「隠身の神・かくりみ」が絶対よね。
 「仮凝身の神・かごりみ」が創造。
 「耀身の神・かがりみ」が統一。
 「駈身の神・かけりみ」が神通自在の姿。
 「限身の神・かぎりみ」で現実化させる。

 先ず「かくりみ・かごりみ・かがりみ・かけりみ・かぎりみ」という五つの働きを全部持ってて「神」なんですね。「ありがとうございます」でその全部が含まれてるのね。だから究極の神さまの名前、全ての全てなる神さまの名前なんですね。

 私達はいろいろ信仰してきた神仏の名前というのは、どれかに偏ってるの。全体じゃないのね。
 例えば、駈身の神さまは無限に無限にいてるわけでしょう。「私は阿弥陀様を信じています」って、駈身の神さまの一つよね。「私は観音様を信じています」もそうよね、駈身の神さまは一つだけなのね。
だから、「天照大御神様」を信じてますと言っても本当の「天照大御神様」を信じてる人は殆どないのね。

 例えば、伊勢の神宮さんに祭られてるような神さまね、それは小さいね。また、皇室の先祖も小さい神さまね。また、ある時は肉体を持って女神様として生まれた神さまはもっと小さいね。
だから、本当の意味の「統一神」という「天照大御神様」と判って信じてる人はないもんね。駈身の同程度の「天照大御神様」ね。その程度の意味で信じている人は大勢いてるけど。

 だから、本当の神さまを信じるというのは、大変なんですね。例えばここらで多賀大社があるでしょう、伊邪那美、伊邪那岐神様が「天照大御神様」の親だというのね、そんなことは絶対ないよね。そんな見方じゃ並び立ててるだけでしょ。こっちは親でこっちは子供というようなね。だから本当の神さまの意味をぜんぜんとらえてないね。
 伊邪那美、伊邪那岐神様を創造神と見るんだったら、この唯一絶対の神様の創造の働きの名前なんですね。「天照大御神様」の名前を使うんだったら、宇宙全体を統一する働きの名前なんですね。唯一絶対の神様の仮の名、名前なんですね。
同じ神さまの働きの違いで伊邪那岐、伊邪那美神様といったり、「天照大御神様」と言ったりしてるだけよね。親子関係はないのね。同じ神さまを指してるのに、別個の神さまと見ること自体が大きい間違いやね。そしたら本当の意味をぜんぜんとらえてないというところがある。

 それでいて神社にいてるかって、そんなんいてないよ。本物の神さまはね。宇宙全体でしょう、唯一絶対の創造の神さまは宇宙全体よね。今現われた最高表現の宇宙を生み出す本当の渦巻き状のゴオーっというようなもの凄い働きの姿の働きが、この創造の神さまの働きね。こんなん言葉で表現できるものじゃないよ、本当はね。「天照大御神様」と言っても、こんなん肉眼で太陽を見てるようなそんなちっぽけなものじゃないのね。無限に無限に輝いて、まだ無限に無限に輝いてる、というぐらいの凄い働きの神さまね。だから、太陽なんか芥子粒のように消えてしまうわね。肉眼で見える太陽なんか闇の方に近いのね。そのぐらいの大きい働きをする神さまね。
 だから、本当の神さまと言うのは、そういう絶対と創造と統一と神通自在の駈身・カケリミの姿と、そして愛の心で自由を限定して全てのね、全大宇宙の全ての全てを現われているという。この全部を総括しないといけないね。全体を一つに総括したときに、本当の神さまをある意味で掴めるというね。

 だから私たち一人一人が何を目指してるか、何を求めてるのかと言うと。
この本当の神さまに近付きたい、一体化したいのね。本当の神さまが本当の自分なのね。だから、元から一体なのね、本当の神さまと自分とはね。本当の神さまと一体という自覚へ戻りたいだけなのね。
 その一体である自覚を邪魔してるのは何かというんでしょう。これは部分に執われすぎたらそうなるのね。全体と一つになってたら一体感が良くわかるのね。ところが部分だけを「これだけが自分」と掴んでしまって「これしかない」と掴んだ途端に、全体と離れるでしょう。だから、「部分を掴みすぎる」という意味があるね。

 そうしたら、その部分を掴むのは何が掴むかでしょう。心でも「思いの方」ね、「思い」が掴むのね、思うことによって掴んでしまうんでしょう。特に過去を掴んで小さくなって行くのがそうよね。だから、思わなかったらいいのね、本当はね。何も思わなかったら何も掴まないよ、さらさら流れるのを見るだけなのね。何も思わなかったら小さい自分を掴まずに済むからね、いつも神さまだけが「さらさら」流れてる感じね。だから、神さまが自分なのね。

 だから「悟りを開く」というのでも、邪魔してるものが消えたらいいだけなのね。元々みんな神さまと一体でしかないのね、切り離すことなんか絶対不可能。元々悟ってる自分しかないのに、神なる自分しかないのに何か他にあるように錯覚したり思い込んだりしようとしてるだけなのね。それを邪魔するものをなくせばいいだけよね。だから、いろんなつまらん思いを思わなくなればいいんでしょう。一回思ったものは溜まってるかも知れないからね。それを神さまに預けて消してもらうだけよね。
 だから、思いを起こさないためにも「ありがとうございます」と感謝の心を起こせば、絶対思いは起こらないね。感謝は光だからね、思いは起こらないね、消えるだけね。感謝することによって、また過去の思いも消してもらえる、自然に消えていくのね。

 だから「ありがというございます」というのは、もう神さまの働きの全部を現してるの。もう光り輝いた働きを全部現してるわけね、その中にあるの。「ありがとうございます」を唱えた途端にその光を与えてもらって受けて、結果がそのまま出てくるのね。ただ、この神さまは無限に無限に謙虚というね。だから、でしゃばってこないのが一番問題なんですけどね。思いを出した途端にこの神さまは引っ込むのね。ちょっと我を出すだけで、神さまは謙虚に引っ込んでしまうから「どうぞどうぞ、好きにしなさい」となる。絶対、人の自由を縛ってこないところが困るね、またね。

 だから、いろんなことを人はそれぞれにある程度体験してみて、それで最後に戻るところは「ありがとあうございます」ね。
 早く戻ってしまう方がいいんですけどね、早く戻った方が心が安らぐんですけど。
でも、最初から「ここにいなさい」はないのよね。「ちょっと自由に遊んでいらっしゃい」と追い出される。それは神さまから見たらそうだと思うのね。もう最高のものを先に与え尽くしておいて、その受け方だけを自由に「どうぞどうぞ」と言ってるんでしょう。だから、どの無限の無限の番組があっても、どの番組を見て味わっても自由だし、最初から「最高のものだけを味わいなさい」って、言わないよね。そのどの番組も神様から見るとそれぞれの存在価値・意義が価値があるわけですね。低い番組にしても、高い番組にしてもそうよね。全く価値がなかったら創らないからね。

 でも、神さまはいろんな番組があっても、最後は最高の一番上の番組を味わい続けて欲しい、というのが本当だと思うのね。地獄番組をいつまでも味わって欲しいわけはないよね。マイナスのあるような番組は早く卒業して欲しいと思うのね。そして最高のプラスばっかしのこれ以上の表現は絶対あり得ない、というぐらいの最高の番組を一瞬一瞬味わい続けて欲しいのね。
それも「一番謙虚な心で最低の状態から受け直してほしい」というのが本当だと思うのね。
 それができるようになるために何が必要か。「ありがとうございます」と神さまを呼ぶだけなのね。
 今、自分がどういう立場であって、どういう番組を見て、どういう心境にあっても、そんなことは問題外、そんなんはどこでもいいの、どんな状態でもね。「ありがとうございます」と唱え始めた途端に、この究極の神さまの助けが降り始めるのね。人の自由意志を縛らずに済むの、すぐに力を揮えるの。
「ありがとうございます」と唱えただけで、必要な助けを的確に与えてもらって受けられる心になってるね。そうすると順番に高めあげてもらうのね。

 『先ず、自分のね、波長合わせの心がどんどんプラスに変わってくるね。それで高い番組に波長が合うように変えてくる、それでいて番組に巻き込まれない自由な心に変えてくる。そして、どの番組も自由に味わえるという立場に置いてくれる。』そうすると段々と最高表現の方へ心を向けやすく変わってくるね。
だから、神様の最高表現を今の一瞬一瞬味わっても、まだまだ奥からどんどんどんどん出てくるでしょう、ところてん式に無限に最高表現がどんどん生み出されてくるね。

 だから、一瞬の油断も隙もないわけよね、一瞬過去をちょっとでもつかんだらもう新しい表現を受けてないでしょう。新しい最高表現を一瞬一瞬受け直す、ということは大変なのね。過去の残像に浸ってたら新しいものを何も受けてない状態になってしまうね。もう常に新しいもの新しいもの、それも最高表現の新しいものばっかしを追いかけないといけないでしょう。それが神さまの最高表現を生み出す一瞬一瞬の「一瞬」となるねえ、何秒かと考えたら、一秒でもないね、万分の一秒でもないね、億分の一秒でもないもっと短いね、それだけ時間のない一瞬なのね。その時間のない一瞬に、最高表現を新しく次から次に生み出してるとなったら、それはもう大変なことよね。新しいものを受け続ける、ということ自体が大変なの。

 今、移り変わってるこの世の姿なんて、その最高表現と比較したら、無限の無限の最高表現の中の一つ、小さい一点の表現でしょう。だから、この世に心を奪われて過去を掴むなんて馬鹿に見えてくるでしょう。心をもっともっと自由にして、もっともっと神さまに心を向けて、もっと素晴らしい世界をずーっと感じ続けても大したことはないのにね。もっともっとまだ最高表現に近づいて、もっともっと最高の素晴らしいものを味わい続けないと嘘なのにね、この世にしがみついたら損よね。

 だから、今まで過去のお釈迦さんとかイエスさんもそうですけど、高僧、聖者、賢者という人もみんな「過去を掴むな、執着するな」という教えが根本になってるね。
過去を掴む、執着することが新しいものを受け損なう一番の原因になってるのね。また罪というのも過去を掴んで積み重ねるから、残像を積み重ねるから罪なのね。それで新しいものを受け損なったら良いものがないよね、少なくなっていくね。

 だから、常に「今を新たに、最高のものを受け直そう」という気持ちが一番大事な尊い心だと思うのね。
だから、「謙虚になる」ということもそうで、今受けたものを全部お返しして、何もない状態になったら謙虚に変わってくるね。そしたらまた新しいものが沢山入りやすいね。
 丁度呼吸と同じよね、吸うたものを吐き出した方がまた新しい空気をいっぱい吸えるね。
 感謝というのはそういう意味では本当の自分から見ると呼吸ね。神さまから最高表現を受けて、また全部お返しして謙虚になって、また新たに受け直してというね。
その呼吸を早くすることが幸せをどんどん大きくしていくことになってるね。

 だから、一瞬一瞬が「ありがとうございます」の連続でいいのよね。何も思わんでもいいの、何も願わんでもいいの、もう「感謝だけで」神さまだけを相手にしてたら、幸せはもう天から地から周りから噴きあがるようにやってくるよ。もう幸せばっかしが自分の周りにいっぱい満ち渡ってるわけよ、本当はね。ただ、感謝の心がなかったらそれはできないね。感謝の心が神さまを呼び出すことになって、究極のすてべの全てなる神さまを呼び出して、神さまの全てを受け直せる心になるのね。

 だから、「ありがとうございます」って、感謝にたどり着くまでに、人はそれぞれにいろんな生き方を自由勝手にある程度体験してきてるのね。それがある程度飽きてこないとあかんね、未練を持ってるとまだ未練のあるところへしがみつくね。

 一つの信仰を持っててもその一つの信仰にしがみついたら、執われてしまうでしょう。執われた人はなかなかこの「ありがとうございます」というここへ戻れないね。だから、もう自然に「ありがとうございます」という感謝の心に戻れた人は、いろんなことを過去世にしてきてるのね。ある程度卒業して未練をなくしてるね。そして最後に落ち着くところをまあこの世でちょっとは晴らしたかも知れないね。でも、みんな自分の中に答えがあって知ってるのね。「多分、これだろうな」とみんな感じてるはずなのね。「ありがとうございます」と自然に唱えさせてもらってる人はね。
 でも、ちょっと確認が必要かも知れないから、まあ、こういうところへ来て確認し合ってるのかも知れないね。
 だから、自分が本当に求め、願ってきたものは、この究極の神さま「ありがとうございます」という全ての全てなる神さまだったのね。そして「ありがとうございます」と唱え続けることによって、神さまと常に交流して、融合して一体化できてるという、そういう実感が湧いてくる。

 だからね、無限のチャンネルのいろんな番組に執われることは、もう全然必要なくなるの、そうなったらね。「ありがとうございます」という神さまは、最高表現を一瞬一瞬受け直すことなのね。この世がどれだけ素晴らしく変化したって大したことないですね。放っておいても変化するの「ありがとうございます」を唱え続けている人はね。
 棚から牡丹餅じゃない、天から何が降ってくるかわからんぐらい無限の無限の幸せが降り注いでくるね。ただちょっと「単純バカ」にならないとあかんわね。もう「ありがとうございますでいい」というぐらいの気持ちになってこないと本物にならんのね。「ありがとうございます」で、それで全てなんだ、というぐらいに絞りこんで来ないとね。
 「他に何かある」と思ってると、この「ありがとうございます」の神さまは力を揮いようがないって、引っ込んでしまうからね、本当の姿を見せてくれないのね。「もうこれだけしかない」と絞り込んだ途端に、神さまの全権を揮うわけよね。全ての力を揮ってくるから「ああ、ここに神さまがいらっしゃる」という感じを与えてくれるの。
 一言の「ありがとうございます」に全てあるの、神さまの全てがね。この世的な奇跡なんて大したことないよね。病気がパッと治ったりいろんな不思議なことがいっぱい起こったって、そんなん取るに足らんよね。神さまの手品みたいなものよ。そんなん無限に出てきたって大したことないよね。それよりも、もうどんな状態に置かれてても、幸せは絶対崩れない心になる方が、先ず大事よね。

 地球が滅ぼうが、肉体が八つ裂きにされようが、ずたずたになって消えようが無関係、というぐらいの、そのぐらいの「幸せな心」があったらその心は本物よね。
その心は尚且つ神さまを実感したらいいんでしょう、本物の神さまをね。「これこそ本物の神さまなんだ、全ての全てなる神さまだ」ってね。神さまの中心に自分が置かれてる、というのを実感したらいいんですね。それが最高よね。必ずそうなるの「ありがとうございます」をただ唱え続ける、呼び続けるだけで。

 試して見ないと損よ。最初は、何万回、何百万回と目的を持ってするんよね。病気を治したいとか何でもいいけど、何か目的を持ってそれを叶えたいと思うんだけど。
 もっともっと唱え続けて感謝が積み重なると、もうそんなんは相手にしなくなるね。そんなもんどっちでもよくなるのね。よくなると言うとなんだけど、先に全部プラスに変わってしまうね。それで心がもっともっとプラスの状態に必ずなってくるね。身近に神さまの愛を実感できるの、神さまをひしひしと感じられてくる。もう、「何もあとは要らない」となる。もう、恐いものも何もないのね。もう、必要なものを無限に無限に与えられて、欲しいものが何一つ起こらなくなる。本当は実際そうなんよ、みんなね。

 そういう中に置かれてるのに気付かないとしたら、「ありがとうございます」を唱えてないのね。それに他に思いを出してる時ね、「あれが欲しい、これが欲しい」と思ったり「こうしたい、ああしたい」思ってる時ね。心が感謝から離れた時ね。本当の姿に気付かないとね。

 だから、神さまと自分との間に何も置かないほうがいいのね。それが「物」であってもいろんな「思い」であっても、間に何も置かないのが一番いいですね。何もなかったら神さまが直接わかるのね。何も置かないとか、そんな考えることもないですね。

 ただ「ありがとうございます」を言ったほうがいいですね。「ありがとうございます」で一体化するの。神さまを感じ取る心になるから。だから、無心の「ありがとうございます」が一番いいのね。「神さまはどこにいてるか」と探さなくなる。
 自分が神さまの中心に置かれているのね。周りは神さまだけ、無限に無限に輝いた神さまの中心に自分が置かれているだけよね。だだ、もう「ありがとうございます」だけになってくるのね。

参加者:
 ありがとうございます。

ありがとうございます:
 ありがとうございます(笑い)


 奉仕・下座・懺悔と感謝

金沢の山岸:
 昔私は「感謝、懺悔、下座、奉仕」ということをある方から。「感謝」は今「ありがとうございます」ということでいいのだと思うのですけど。今ありがとうございますが行ってる「奉仕」だとか「下座」という、その辺の意味合い、何の為にそれをするのか、それをするとどうなるのか、或いはそのことは何故あるのか。その辺のところを少しご説明いただいたらと思うのですが。


ありがとうございます:
 本当の感謝になれば全部中にあるのよね。「下座も・懺悔も・奉仕も」ね。神様から最高表現を受けた途端に、もう謙虚になるしかないでしょう。もう謙虚になるしかないわね。余りにも「ありがたくて、もったいなくて、畏れ多くて」後ろへ尻込みするだけなの。謙虚に謙虚になってしまうの、自然に。そして必ず「恩返しの心」が起こるのね。「何か恩返しをしたい」という気持ちが必ず起こるでしょう、「お役に立ちたい、奉仕しさせて欲しい」ってね。自分がするんじゃなしに、もうさせていただくだけなんだけど。
 それがどんな姿であっても喜べるのね。「地獄の亡者の姿を演じなさい」といわれても喜ぶ。

 自分がするんだったらいいことをしたいでしょう、何か神さまのお役に立つプラスの喜んでもらえることをしたいと思うんですけどね。でもね、謙虚になった自分にはそれがないのね。「どんな役目でも喜んでさせていただきたい」となるのね。どんなマイナスに見える役割でも「ただ、ただ、ありがたいばっかし」になるね。それが神さまにさせていただく本当の奉仕だと思うね。

 「懺悔」というのでも、神さまから与えられたものを受け損なった、受けなかった、拒絶したということに対する反省が懺悔なのね「ごめんなさい」てね。
 こんなに最高のものを与え続けてもらってるのに、拒絶し続けた自分というのを、それをお詫びするわけよね。それで、今こんなに無限に無限に幸せにしてもらって「ありがとうございます」ってね。

 だから、本当の「懺悔」も「感謝」になるのね、受けることなのね。
 だから「感謝」の中に全部含まれてるのね。新たに新たに受け直すことも、それを全部お返しする謙虚な心も、また神さまの御用に使ってもらって幸せ一杯というのはね。『感謝』一言の中にありとあらゆる全部含まれてるの。だから、形にはあまり執われない方がいいみたいね。ひたすら「ありがとうございます」を、また中身を大きく深くしていく意味で、形はあくまでも助けになる、というぐらいね。

 小さく見ると感謝は「受けるだけ」となるでしょう。そしたら奉仕で与えてまた受け直すんだってね。小さく見た感謝ではそう見えるのね。でも本当は大きい感謝は、『神さまの全てがそこにある』という見方をした方がいいね。「感謝」だけで全てがそこに「あるんだ」ってね。「ありがとうございます」の中に、そのまま神さまが働いたら、必要だったら神通自在に神さまの働きがそのままスッと出てくるね。
 それがありとあらゆる大きい働きになって出てくるかも知れないね。それが傍から見たら「奉仕の姿」に見えたりするかも知れないね。でも「ありがとうございます」で神さまがそこに降りて働いてるだけというのがいいですね。神さまと自分を分けなくて済むのね。

 神さまに感謝して神さまから最高のものを受けた自分というのは、本当に謙虚になるしかないのよね。

 だから、もうどんな役割でもね、喜んで受けられる自分になるから、上に立ちたいと思わなくなるね。
 それがみんな本当の自分なのね。神さまの前に立った時は、みんなそれぞれが平等というのは「神さまから最高のもの全てを与えてもらってる」という意味で平等なの。一人一人の本当の自分がそういうふうに最高のものを受けて、最高に輝いて謙虚になってる自分よね。その自分に気付いた途端に、どんな役割でも自由自在に演じられる自分よね。


 天皇陛下の役割

 例えば、天皇陛下がいらっしゃるとするでしょう、これも一つの役割よね。
自分の国の、また地球の中心に立って一つの役割を演じるわけでしょう。でも、みんな平等なんよ、その役割を演じる資格はね。
 謙虚になった自分は「自分からなりたい」と言わない、絶対ね、「私は最後で結構です」て言う。みんなそう言うのよね。「一番最後で結構です、良い役はみなさんどうぞどうぞ」て譲り合うの、必ずそうなっていくの。そしたらねえ、誰がその良い役をするのか、となるじゃない。みんな譲り合ってならなかったらお芝居が成り立たないね。その時に神さまの御心が誰かを指名してくるのね。

 やっぱり、一人一人は自分の願いや思いを出そうとしないでしょう。もう、神さまの御心に一致すればいい、というだけよね。そしたら誰でもいいよ、それはね。自分が指名されたら「ありがとうございます」ってその役割を演じるだけよね。他の人がなったら「ああ、ご苦労さん」と見てるだけよね。
 だから、どんな役目も本当は平等の尊い価値があるのね。そうでしょう、一つのお芝居がそうよね。

 良い役、悪い役全部必要なんでしょう。そのお芝居も最高のお芝居をするという意味で、みんな必要な役割を分担するわけで。それが神さまの願いだったら、神さまの願いに従うのが一番自分の幸せな状態なのね。

 だから「自分がお芝居を作ってる」と思った方がいいよね。「最高のお芝居に自分がしてるんだ」というぐらいの気持ちで眺めるのが大事ですね。そしたらどの役割も素晴らしく見えてくるね。だから「ありがとうございます」を唱え続けると、神さまの心がよくわかってくるのね。神さまの心さえわかってくれば自然に従いたくなるでしょう。だから絶対にマイナスに見なくなるのね、神さまは絶対マイナスに見て欲しくないでしょう。
 折角創ったものには何か意味がある、価値があるんでしょう。だから、全てをプラスにプラスに見て喜んで欲しいわけでね。だから、何を見てもプラスに思えるように、見えるようになるのね。そしてそれを見て喜べるようになってくるのね。それは「ありがとうございます」の力よね、神さまの助けだと思うのね。
この世もそうよね、この世の身近な生活の中においても「ありがとうございます」唱えた時は必ずプラスに思えてくるね。自然にね、小さい意味でも大きい意味でもね。
 ありがとうございます。












ar83宗教の必要性2000.7.1

【これからの時代、宗教というのは必要なんでしょうか?】



ありがとうございます:
 どうでしょうか。宗教という言葉は、逆に見ると「教えの元」というんですね、教えの元というのは神様ですよ。そういう意味だったら本物の神様が必要です。絶対必要なんですよね。ただ、教えというのは、直接神様から来ているというわけじゃなく、ピンからキリまであるの、いろんな教えがあるんです。

本物の神様の教えと、本物から外れた教えと、いろいろあります。本物の時代になると、本物の神様の教えは必要なんです。それは教えというよりは、元の神様の働きなんです。教えを越えて、みんなを本当に幸せにしてくださる。本当の神様の働きが必要になってくるわけね。だから、今までのような人を縛る教えは、どんどん必要がなくなって消えていくと思うんです。そして、中から湧き上がるような本当の神様の助けが、これから必要になってくる。教えじゃなしに、神様の本当の働きというのが、これからの宗教の姿になって出てくると思うね。

 それともう一つは、今までは、模型的に神社とか仏閣、仏像なんかもそうですけど、本物の模型として、今現れでる姿がいっぱいあるんです。その模型を本物と見間違うと、間違った偶像崇拝になるんですね。本当の神様はどこにいるかというと、宇宙全体にどこにでも満ち渡ってるわけだから、小さく模型を作っても、その模型は本物の神様じゃないのね。模型はあくまでも模型です。ただ、その模型を必要とする時は、例えば、地球の勉強をするのに地球儀があるように、「地球儀があった方が勉強しやすい」という人には、模型も必要なの。本物を見るようになった人は、もう模型は要らないです。そういう意味だったら模型的なものは、どんどん必要なくなって消えて行く。本当に必要なものだけが、本当の神様だけがさん然と輝いてみんなの前に出てくるとのです。

 これからそういうふうになって行くと思うね。だから、一切の縛りのない本物を輝かせた姿で神様がみんなの前に出てくる、そういう宗教は必要ですよね。だから、もう「宗教」という言葉は、今までの概念だとちょっとマイナス的なエネルギーもあるんで、縛る教えじゃなしに、本当に「自由に開放するような神様の働き」というふうに捉えたら宗教の中身が変わってくるかも知れないですね。



供養


【人が亡くなった時に、ひと七日、ふた七日、四十九日、百か日とかいろいろ供養しますよね。それはどういうふうに思われますか?結局、縛られる・囚われるという思いになるんでしょうか?】



ありがとうございます:
 そうですよね。これはお釈迦さんの教えとはちょっと違うんです。お釈迦さんは「悟りを開く為にはどういう生き方がいいか」って、悟りを教えているのね。肉体が死んで魂が抜けてどうのこうのじゃないの。本当の元の根本を、しっかり見定めて、悟りを開くにはどうしたらいいかってね。本当は「みんなは悟ってるんだ」っていう見方の方が正しいです。だから、迷いの姿を先に掴んでしまうから、そして「亡くなった人が迷っているから、救ってあげんなん、いろんな供養をせんなん」とかいうふうに、迷いを前提にして掴んでしまうと、本当は亡くなった人というより、本当の人に対して失礼なんです。「みんな神様と一体で、みんな既に悟っているんだ、無限に輝いているんだ」というふうに拝んで受ける生き方の方が、正しい受け方です。



お仏壇へのお参り・お花の向き


【という事は、もし仏壇にお参りする時は、「いろいろ力添えをくださいましてありがとうございます」というような感謝の述べ方のほうが、御先祖様も、いろんな方たちの魂も喜んでくださるのでしょうか? またその方に、例えば「・・さんありがとうございます」というのが最高の言葉になるんでしょうか?】



ありがとうございます:
 そうね。みんな「ありがとうございます」という神様と一体なのです。本物の神様の現われと見るんだったら「みんな天照大御神様」というふうに見た方がいいね。無限に輝いているというふうにね。「ありがとうございます」というのはそういう事なの。だから、その仏壇も模型なんです。本物の世界の模型になっているわけよね、中心にご本尊さまがあって、その回りを御先祖様が悟った姿で輝いて「自分を護りに譲ってくださっている」という見方の模型なんです。模型であっても、荘厳な姿をとっているでしょう。お供え物でも全部向こうへ向けてないのね、みなこちらへ向いているでしょう。全部向こうから自分に対して与えて頂いているという意味の模型なんです。



【お花なんかも確かに私たちのほうへ向いてますよね、何故何だろうと思っていました。「死者に手向けるのであれば向こうへ向けるはずなのに」と思ったことがあったんです。】

ありがとうございます:
 全部自分の方へ向けてもらっているのね。だから神様、仏様から「一瞬一瞬最高の素晴らしいものを与え続けてもらっている」いうのを確認する模型なんです。ただ、誰も仏壇の中には入ってないんです。そういう小さい中に入ってないの、本当の力ある宇宙大の大きい神様が入れるわけがないよね。模型を通して、本当の姿を思い浮かべる意味で、手助けになるのね。そういう意味で模型を使うわけ、だから「ありがとうございます」が本当の意味で正しい、ご先祖様への心の向け方よね。「ありがとうございます」と言ったら、「ご先祖様のすべてがみんな悟っている・無限に輝いている」という受け方になるのです。ただ、模型は別に必要だったら使うんですけど、必要なくても破壊する必要はないですね。後から必要な人が出てくるかもしれないし、本当に必要がなくなったら、世の中全体から必要なくなったら、自然に消えるかもしれない。それまでは大事に残しておくのもいいですね。



【やはり、社会通念上、破壊というのは出来ませんしね。】
ありがとうございます:

 そうね。はい。


【古神道も神棚は必要なんでしょうか?】



ありがとうございます:
 うん、まあ模型としてですからね。だから必要な人はそれを使っていいと思うんです。何もないよりあった方が思い出しやすいでしょう。ただ、どの神社・どの神棚でも、本当の対象は本当の神様でないといけないでしょう。いろんな神名が出てくるんですけど、神社でも神名がそうでしょう。その神名の奥に本当の神様が働いている、本当の神様のいわば分身として、すべての神様が助けてくださっているんです。だから、どの神社にお参りしても、神棚にお参りしても「ありがとうございます」でいいのです。「ありがとうございます」で全部に通じるのね。



何故「ありがとうございますの話」が聞けるようになったの?



【二年ほど前から「先生のお話を一般の我々に教えをいただけるようになった」ということなんですけれど、ずっと最初からではなく、何で、最近に表現されたのか、何かの動機があったと思うのですが、その理由をお伺いしたのですが?】



ありがとうございます:
 昔は全国を飛び歩いて、お話しに回っていたのね。でもやっぱり「お祈りが一番大事」ということで、どんどんそういうのを減らして、お祈りだけに専念してきたのです。深く深く祈る為にね。また、みんなが本当に感謝の心を起こせるように、本心を引っ張り出す意味でのお祈りを、ずっとお祈りだけに専念してきたのです。
いろいろお話するのもいいんですけど、やっぱりお祈りの方が力があるんです。深く祈るお祈りというのが大きい力があるのね。そういう意味でお祈りだけを選んで、他のことを一切何もしないという気持ちでしばらく続けてきたの。でも、私一人が祈るよりも、大勢の人がお祈りしてくださる方が、力が増えてくるでしょう。

 そういう意味でお祈りができるように、本当のお祈りを、神様に力を引っ張り出してもらっている人が増えてきたという段階です。また、みんなに再確認して、一生懸命祈ってもらう意味で、神さんが必要と認めてもらえるのね。私をみんなと出会う働きに使ってくださると思うのです。でも私は、やっぱりお祈りが一番大事と思っているの。みんなが大きい本当のお祈りをしてくださるのも大事なことなんで、お祈りの時間を割いてでも、こういう話しの場を神さんが与えてくださったということなのね。私もみなさんと出会うのは一番嬉しいです。「あっ、こんな立派な方が沢山いらっしゃるんだ」と心強いですからね。



何故?断食を・断食の様子

【三週間の断食をされたということですけど、どんな様子なんでしょうか。】



ありがとうございます:
 そうね私は小さい時から、いろいろ耐乏生活を体験させられて、一日一食を、食べられるかどうかだったの、それも粗末な食べ物です。だから食べることに関して余り「あれ食べたい、これ食べたい」なんてないんです。それで二十歳過ぎから「命を神さんに捧げて、平和運動を一生懸命しよう」というふうに考えてお祈り一筋になってたんです。そうすると「人の病気治しを一杯頼まれるでしょう」もう寝る時間がないくらい忙しいのね。夜中まで電話で叩き起こされたり、もう一杯電話かかってきます。祈る時間が一分一秒惜しいので、寝食忘れてお祈りする方を、人助けの方を選んだのです。中途半端に食べるとなると、食べる時間がなくなってしまうんです。この時間に食べようと言ってもお客さんがきたら、いつの間にか食べられなくなる。食べるのが億劫になってしもうて、面倒くさくなり、「丸薬一つで一年ぐらい持てばいいのに」と思うくらい、そんな気持ちになってしまうのね。



【四週間の内に三週間は断食されて、一週間は思いっきり食べてと、伺ったんですが。】

ありがとうございます:
 思いっきりでもないですけど、はははは。



【それを繰りかしえて、一番長いのは、百日も続けられたと。それが出来るものなのかというのが不思議なんですけど。】

ありがとうございます:
 不思議なのね。出来るんです。それだけ力を与えてもらって、助けてもらっているのね。それも私は何もしてないんじゃなく、ジーッと座ってるわけでもなく、人の三倍ぐらい力仕事を一杯してるのよね。朝・昼・晩と、いろんなアルバイトしては、寸暇を惜しんで、もう祈って祈って、睡眠時間を殆どないぐらい削って、頑張ってたのね。普通だったら死んでもおかしくないぐらいなんだけど。それでも、「ちゃんと譲ってもらえて、力を添えてもらった」って感じだったのです。そういう意味でも「ありがとうございます」の力って凄いなあと思うの。限界をいくらでも破ってもらえるのです。



【百日やって、神様を試されたんですか?】

ありがとうございます:
 神さんの助けがどんだけあるかって。断食するのは、神さんの恵みを拒絶することなんですね、よくないです。いつも注意されていたのね。与えられたものを感謝して受けるのがいいんです。私の場合は、我が強かったんだと思うの。とことんやり抜かないと気が済まないところがあるし、また神さんの護りはどんなもんか試したいところもあるし、いろんな意味合いがあったのね。これも私だけじゃなく、人類一般が「何か修行しないと悟れないという我がある」じゃないですか、そういう我を消す意味もあっての事ですね。神さんに、「修行しなくても悟らせてもらえる」という、本当の意味のやさしい救われの方法を与えてもらう意味でも、「我を消すこと」が、ある一面で必要だったと思うのです。それで断食を無理矢理「させられた」のじゃなくて、自分が「してしまった」のね。断食や、またいろんな行的な修行なんか必要ないと思うね。何もしない方が、神様の救いの働きを邪魔しないのです。本当は何もせん方がいいのね。



本当の祈りとは




【「本当の祈り」と先程おっしゃいましたよね。私は「ありがとうございます」を、ただなんとなく言っているだけですが、「本当の祈り」とは、呼吸の部分の心の奥まで染み入るような感じの祈り、そういうような感じなのでしょうか?】

ありがとうございます:
 祈りというのは、神様の命の宇宙創造の働きを指しているんです。本当の祈りというのは、神様の宇宙創造です。最高の宇宙を創り出す神さんの働きが祈りなんですね。「本当の祈りをする」というのは「それと一つに同化して一体化する」ということ。だから、それを受けないといけないね。「受けて一体化する」というのが本当です。



【受ける為にはどうすればいいんですか?】

ありがとうございます:
 だから「ありがとうございます」と唱えて、「神様の働きと一つに一体化させていただく」のね。「ありがとうございます」を唱え続けていると「無限に無限に輝いた宇宙が感じられてくる」のです。



【そこまで「ありがとうございます」を言い続けなくてはいけない?】

ありがとうございます:
 その「最高の宇宙の姿を感じ取ること」なのね。だから、一心に、「ありがとうございます」を唱え続けた方が、早く感じられるようにしてもらえるんです。


周囲の人もチャンネルが上がる




【この間の話で「ありがとうございます」と言っているのが、チャンネルの段階を上げるのに、一番の最短コースだというお話をされてたんですけど。周囲の人間が上がって行くと、その間にいる人間も自動的に上がっていくものなんでしょうか?】

ありがとうございます:
 そうですね。本当は一人一人の自由な意志があるんです。回りの人は「上がりたい」と言っても、自分は絶対「上がりたくない」という人もいますよね。ただ、回りにお祈りで「上がりたい」言う人がネットワークを作ってしまうと、その網から下へ下りられなくなるときがあるの。網で救い上げてもらうような感じで、上がってしまうのね。昔はみんな一本釣りなのです。本当に「神様に助けてもらいたい、救われたいという人は」一心に神さんにすがって神様から命綱をスッと下ろして、引っ張り上げてもらっていたの、一対一よね。それは本人の真剣な自由意志を尊重して神さんが助けるんですけど、数が少なかったんです。

 今の時代は、特に『神様の本当の助けを受けて、悟りを開いて、自由自在な生き方で、最高の番組を味わいたい』という人が増えてきているのね。だから、「大勢向上したい」という気持の人が増えてくると、もう一本釣りじゃあ間にあわない。特に、先にお祈りをし始めた人が、心のつながりを持って、祈りのネットワークを作ってしまうと、ちょっと「救われたい」と思うだけで、そのネットワークに乗ってしまえばいいのです。その中には「下へおりたい」という人も混じっていても、一緒に上がってしまうと、「やっぱりマイナスよりプラスの方がいいな」という気持ちに変化するのね。その内お祈りの方へが向いてくると、みんな一緒にスーツと救われるのです。



【会を作って、みんな一斉に「ありがとうございます」を言ったら、何百倍何千倍になりますよね。そうするとこの中の人達が「ありがとうございます」ってここで三十回ずつ唱えようとしたら、五十人の五十倍で二千五百倍になるんじゃないかと思うのですが。】

ありがとうございます:
 そうですよね、祈りは必ず相乗効果が起こすんです。二人だったら2x2で4倍ね、3人だったら3x3が9倍にね、もの凄い力やね。



【だから、ここで一斉にみなさんで言ったら、いいかなあ、と今フッと思ったんですけど。】

ありがとうございます:
 それはそうです。またみなさんも地元へ帰られて、お祈りで一緒にやる人があったら、ちょっと時間を決めて一緒に「ありがとうございます」を唱えられたら、凄い力を発揮しますよ。




大勢の人との祈りの時間・場所・仕方・回数

【同じ場所にいることが大事なんですか、各自家にいて時間を決めてやるのか。】



ありがとうございます:
 それでもいいんです。ただお祈りは、時間、空間を越えるんです。時間が違っても心がつながっていたら、いつでも祈っていると、ネットワークが生まれて、助け合いの相乗効果が起こるんです。どの場所でも一つにつながるんで、場所は関係ないのです。だから、自分一人で祈っているのではなく、仲間が一杯いてるんです。だから、自分が祈れない時は、みんなが代わりに祈っていて、神さんの光どんどん流してくれているのね。



【例えば、もし私が病気しているとすると、みんな仲間がただ何となく言うのか、それとも私に対してどこが悪いから、よろしくお願いしますという「ありがとうございます」をたくさん言うのか。何も考えなくて、ただ、ただ、もう自分で祈ればいいということですか?】

ありがとうございます:
 いやいや、何も思わなくて、ただ神さんの働きがみんなを通して働くのね。だから病気をしている人に対してでも、その病気が本当に消えた方がいいんだったらスッと消してくれるね。でも、その病気が何かの意味で必要だったら、ちょっと残してくれるのね。その病気の必要性もいろんな意味があるの。心の勉強でもあるんですけど、いろんな勉強です。

 また、自分が病気をすることによって、例えば、自分の子供が働き者になるでしょう、親孝行のね。母親なんて特にそうやね、自分が全部仕事をしてしまうと、子供に何もさせないで終わるじゃないですか、その時は神さんがわざわざ病気にさせて、動けんようにしといて、子供に親孝行させる意味もあって、いろんな能力付ける意味もあって、家事手伝い全部させるのよね。そうすると子供にとったら大きいプラスになるの。そこまで仮病使って芝居できないでしょう。それが出来るようだったら別に本当の病気をしなくもいいんだけど。だから、いろんな必要性がある場合があるのです。やっぱり病気が必要だったら残してくれるし、なかったら病気はすぐ消してくれるしね。それは自分の方で願わなくても、神様の方で必要なものを的確に与えてくださる、助けてくださるんです、大丈夫ですよ。



【神様は微に入り細に入り、全てを与えて頂けるですね。】

ありがとうございます
 そうですね、本当に必要なこと、幸せに必要なことを与えてくださるのね。



【私の経験でも今のようなことがありました。母が重態で危篤で一歩手前、あと四・五日で命が危ない時、それを聞いた夜に仏壇にお祈りをしました。その時私は「このまま死んじゃってもいいけれど、それが最善であればそうしてください」「まだこの世にやることがあるのだったら、もう少し生かせてください」と、生き返れとは強く思わなかったんです。もうお任せしました。そうしましたら今はピンピンです。あの時は、赤ちゃんのように「ここ何処?」ってとても素直に、生まれ変わったと思います。その時僕は、祈りというのは素晴らしいんだなあと感じました。】

ありがとうございます:
 そうねえ…。祈って「・・してください」と願った時でも我を出さない方がいいんです。自分の願いと神様の願いは、ちょっと違うの、ズレることがあるのね、だからお任せの方がいいんです。お任せが一番いい状態になりますね。



【「ありがとうございます」の数は一億回とおっしゃいましたけど、数えるのが出来ないですけど、やっぱりカウントしなくちゃいけないですか?】



ありがとうございます:
 いや、自分の祈るぺースというのは大体わかるじゃないですか。ある時期、ちょっと数えるでしょう、それと同しペースだったら大体ね。



【それが解ればもうね、はい、わかりました。】

「お任せ」と「プラスのイメージトレーニング」

【自分がプラス思考、自分でイメージを持って、とか言われていますが。自分で持ったイメージというのは、もしかしたらマイナスに働くことがあるという事を考えたときに、神様への全託ということになる「お任せ」というのは、自分ではプラスのイメージを持たなくても、自分にとって一番プラスの状態を与えてくださるのですか?】

ありがとうございます:

 そうですよ。イメージトレーニングというのが流行ってますよね。人の描く「思い」というのは、それは「雲」のようなんです。プラスに思うのは「白雲」、マイナスに思うのは「黒雲」。でも、それは太陽から射し込んでくる光とは違うのね。だから、思いの力がないと崩れるのです。太陽から来る光は、無限に新しいものがどんどん出てくるでしょう、絶対なくならないよね。

 「神様にお任せ」というのは、太陽から来る光を浴びること。だから永遠に幸せが崩れないし、そして最高のものが降りてくるでしょう。でも「空の雲」は光と比較しても大したことはないよね。なんぼ「白雲で明るい」と言ったって、光と比較できないし、本当の幸せ、という所まで行かないよね。

 だからイメージトレーニングでその思いを実現しても、もう感謝に生きる人から見たら馬鹿らしくなるわね。だから無限に素晴らしいものを感謝の心で受ける方がいいですね。一つのことを自分の思いで実現したって、ちっぽけなもんだから。だからプラスに思うのもいいんですけど、マイナスに思うよりいいわけですが、それよりもその思いも消してもらって、感謝の心を深めてもらって、無限の光を浴びる方がいいよね。そういう意味だったら感謝に生きるだけの方がいいですね。イメージトレーニングもプラスに思うこともいらないよね。感謝だけで最高の神様の光を浴びられるのです。



【そうしたら「こうしたい」「ああしたい」「こうなりたい」じゃなくて、「この仕事をしたらどう」と流れてきた場合、もうすべてお任せコースで淡々と「はい、ありがとうございます」と受ける。例えば受験に失敗しても、「ありがとうございます」、また次に受けたときに、受かって「ありがとうございます」という感じでやっていくということなんですか?】

ありがとうございます:
 そうよ、それが一番の幸せの最短コースよね。神さんの新しい働きをズーッと受け続けて、一番いいようにしてもらえるね。



【受験でも具体的に願いを持たないでいい?】



ありがとうございます:
 もうすっかりお任せがいいですね。だから「ここへ入りたい」じゃなしに、入れなかったら入らない方がいいのね。入れるのと、幸せとは関係ないのです。入らないのが幸せになるのだったら、絶対入れてくれないよね。それが全て神様の譲ってくださった姿ですね。



【やっぱり落ちた時はどっと落ち込みますし、そこを「ありがごうございます」で全てを受け入れる。回りから見たら負のことでも、「ありがとうございます」と受け入れる心になればいいなと、思いながら今聞いてました…。】

ありがとうございます:
 だから感謝を練習して感謝が深まると、マイナスもプラスに見えてくる。万病をかかえても「ありがたい」となってくる。それはもう一切のマイナスは見なくなってくるのね。だから幸せな心は何があっても幸せなの、絶対崩れない。神さんの与えて来る本当の無限の無限の幸せというのは、心の幸せなんです。その本当の幸せな心は、もう地獄に落ちても幸せそのものなの、無条件で幸せが出てくるの、幸せな心が湧いて出てくるのです。

 

「池田小学校の事件」の受け入れ方




【池田小学校の事件を思うと、自分の中でどう考えたらいいかという時に、犯人に対しても、犠牲になられた人に対しても、いくら「ありがとうございます」でと思ってもやりきれない自分があのですが、先生はどのようにお考えですか?】

ありがとうございます:
 人ってね、過去にやっぱりマイナスの言葉を一杯使い過ぎています。だからマイナスの言葉はマイナスの放送番組と波長が合って、マイナスの面を味わうようになっているんですね。だからどれだけマイナスの言葉を過去に積み重ねてきたか、心にどれだけマイナスの心があるかって、これはもう無限に近いよね。そうすると、本当はマイナスの言葉に波長の合う世界って、地獄のどん底かもしれない。そしたら、この世のいろんなマイナス、いろんな姿を見ても、地獄と比べると万分の一の軽さよね。

 本当は、自分は犯人のような姿をとる可能性もあるかもしれないでしょう。また被害者の姿をとるかもしれない。でも今の自分は、それをせずに済ませてもらっている。だから大難を小難にして、さらに小難を無難にして、「護りに護って頂いている」というような受け方の方がいいですね。「みんな自分の身代わりなんだ」、「犯人も被害者も、どちらも自分の身代わりで、助けてくださっている神様の愛の姿なんだ」というふうに見た方が、「ありがとうございます」で全部に感謝できます。

 そうすると、自分の心の中のマイナスも「この事件を通して大きく表面に浮かび上がらせて消して頂いた」というふうに受け止められるよね。そしてプラスヘブラスへ自分の心を向け続けてもらって「神様の最高番組を味わえるように早くしてもらえるんだ」とね。もう全てが感謝につながってくるね。感謝で受け止めて行くのが一番いいです。それをマイナスに使ったら、自分もマイナスの番組に波長を合わせて行くんだし、また犯人を責めても、犯人を幸せにすることは出来ないね。被害者に「可哀相に」って言ったって幸せになれない。みんなが幸せになる生き方というのは、やっぱり、そこへ神様の大きい助けが降りて来ないとね。「ありがとうございます」で全部締めくくるのがいいです。そうしたら全部が幸せになるように、助け続けてもらえるんですね。



【池田の事件で、身代わりという事ですが。当事者になった場合はどうしたらいいんでしょうか?】

ありがとうございます:
 当事者になったら、過去世の因縁を、本当は地獄に落ちて苦しんでなければならないところを、こんなに軽く軽く済ませてもらえたというふうにね。本当に地獄のどん底って、無間地獄に落ちたら、殺されては生き返り、殺されては生き返りでしょう。瞬間の一瞬も、間がないくらい、もう殺され続ける姿をとるんでしょう。一回殺されるぐらいじゃ済まないもんね。それも永遠に続くぐらいの殺され方をするのね。だから地獄のどん底に落ちても、文句を言えない自分より、「ああ、こんなに軽く済ませてもらって、マイナスを消してもらえた」と思うと、感謝につながって行くよね。そしたら幸せがどんどん大きくなるのね。



世界の中心は誰か

【皇太子殿下は世界の中心となられますでしょうか?】



ありがとうございます:
 そうね、なられるんでしょうね。中心というのは本当はね、みんなも中心なんです。だから神さんと一体の自覚を深めて行けば、みんな世界の宇宙の中心なんです。でも本当の自分を失うと、中心でなくなっていくんです。

 天皇陛下というのは、役割として、神様の絶対の愛の心を体現して、そして一番下からみんなを支えるような形で、全責任を自分の上に持ってくるのね。だから「我」が一切ないの、「我」がないから中心になるのね。「我」があると上に行きたいでしょう、それはもう中心じゃなくなるんです。「我」をなくした自分が、常に世界の中心に立っているのね。その中心は無限にあってもいいんです。みんなが中心に立たないと、本当の意味の大きい働きの姿が出てこないです。

 中心にもいろんな意味の中心があるんです。この体を見ても、中心って何処ですか?心臓が中心という人もあるし、丹田が中心という人もあるでしょう、頭が中心という人も、顔が中心と、顔の中の鼻が中心ってね。でも指を一本こう前に出したら、指が中心ですよね、足の裏を前に出したら足の裏が中心になるでしょう。その時その時で、中心が自由自在に変化してもいいんでしょう。だから、どの部分でも一番前に出した時が中心になるのね。その宇宙全体から眺めてもそうです。一人一人どの部分の人でも、それを前面に出してもらったらそれが中心だし、いろんな意味の中心があっていいのよね。固定された中心はないのです。もう常に、神様は全ての人を中心に置いてくださっているのです、宇宙の中心にね。




古くからの因習

【古くからの因習には縛りがある、言葉で人を突き刺すのも暴力と同じ。】



ありがとうございます:
 善悪含めて人の自由を縛るのは縛りなんですよね。感謝というのは、一人一人の自由な生き方を尊重するのです。それで「本当の個性のある素晴らしいものが、自然に中から湧き出てくるようにお手伝いしよう」とするのが感謝なんです。古い生き方には、型にはめて、縛ろうというのがあったんです。これが正いというと、それから外れたものをぜんぶそこへ縛って、ここへ持ってこようとするの、そして「悪い、悪い」って責めるんでしょう。マイナスに見ることも大きい責め言葉ですよね。言葉の槍で突き刺すような感じになるんです。だから人を責め裁く人は、逆に暴力をふるわなくても、やっぱり言葉の槍で相手を突き刺しているの、お返しを受ける可能性が大きいですね。


 どんなマイナスの姿でもマイナスに見えても、「ありがとうございます」で神さんの助けを、そこへ下ろしてもらうということは、そこへ無限のプラスをどんと加えてもらうわけ。そうしたら中から自然に、いい姿になるしかないように、みんながなればいいし、「ありがとうございます」って感謝すればいいですね。やっぱり、マイナスの姿に感謝するんじゃなしに「無限のプラスを神様から加えてもらう」という意味で感謝するのです。「ありがとうございます」で無限のプラスを神様に加えてもらうのね。

神の怒り・悲しみ




【神様は「人間が可愛い、可愛いだけ」と先生はおっしゃいますが。でも神の怒り、と人はよく言いますけど、本当にあるんでしょうか?】

ありがとうございます:
 番組毎に違うのね。地獄の番組では、閻魔大王様が出てきて、厳しく間違いを正して、くれるの、高い方には怒りはないね、だから感謝に生きる人は神様のプラスを受け入れようとするんでしょう。喜んでプラスのいい姿ばっし与えてくださるし、優しいプラスばっかりやね、怒りなんか全然ないです。でもね、神様の助けを無視して、悪いことばっかりする人に対しては、それを止めてあげないと、どこまでもマイナスを大きくするじゃない。そういう場合は、閻魔大王になったり、不動明王になって、光の姿でそれにストップかけてくれるわね。それも神様の深い愛の働きです。でも優しい方がいいわね。



【怒りの次に、悲しみなんですけと、神様は戦争なんかを見られて悲しんでおられるのでしょうか?】

ありがとうございます:
 神様は放送番組としてしか見てないです。それを眺めて、仮に巻き込まれて悲しんでいても、本当の人は悲しんでないってね。ただ「番組に巻き込まれて一緒に悲しい真似をしている」というように見てるのね。「だから早く番組から抜け出しなさい」というぐらいね、パッと背中叩いてパッと気づかせてくださる、はははは。



【悲しみもないんでしょうか?】

ありがとうございます:
 うん。神さんの方は悲しみと対局の無限の無限の喜びの方やね。神さんは「何でも与えている」けど、「マイナスも与えている」と見るのは間違いなの、神様を悪者にしてしまうね。「神様の御心のままに」というのは「無限の無限のプラスのままに」ね。
だからこの世の運命のストーリーがあるでしょう。これが全部「神さんの御心のままに」と言うと間違いなの。「本当の神様の御心のままに」というのは、最高の番組を受けて、それを「御心のままに」というのね。まだ低い番組だったら、神様の御心のままにとは言えないのね。何%かの神様の御心のままにやね、百%じゃないのね。だから「百%神様の御心のままに」といのは「最高の番組の無限の無限のプラスばっかりの番組」を味わえるようになったら、すべて神さんの御心のままにと言えるのです。悪いのは神さんのせいじゃないの。良いものだけは神様のお蔭なのね



台風の意味




【寝台車で来たんですけども、漁業組合の方が「台風が来るのはとても大事なことだ」と言われたんです。諌早湾の海苔が取れなくなったのも、台風が来ないことで海の水を中まで混ぜ返せない。また年々降水量が少なくなって不漁になっているから、鯵や鯖や鰯とかが取れなくなったと。雨が降ることによって魚がその降った水に卵を産みつけるんだそうです。「雨が降った水にですか」と言ったら、流れてきたその水は何か違うみたいで、それが自然の営みで、台風も大事雨も大事だと教えてもらって一緒に電車の中で話をしてきたんです。私たちにとって、大雨は確かにマイナスだし、台風も確かにマイナスなんですけれども、やっぱり自然の流れからすれば、非常にプラスになっている部分もあるんだなあと思ったんです。これも、ありがとう村に私が来るというときに、凄い人と話をしながら来るんだと思いながら、こちらに向かったんですけれど。本当に私たちは台風とか大雨とかというのは、マイナスだけしか思わないですけれど、自然にとっては凄くプラスになってるんだなと、そこで本当に感謝いたしました。】

ありがとうございます:

 台風というのは神さんの、まあ龍神さんのお清めの働きなんです。風というのも、風が吹く所は文化が栄えるのね。滞ったマイナスの業想念、思いを全部吹き飛ばして消してくれるの。だから、風が吹かないとみんな死んでしまう。空気が動かなかったら酸欠で死ぬのね。知らん間に空気は動いているのです。それで強く流れるほど、澱んだものを全部消してもらえる、大きくたまったマイナスを、すっかり消し切ってくださる働きなんです。その中でも台風が一番大きいものね。その神さんの大きい働きを感謝で受けて、自分達が傷つかないように準備しないといけないよね。台風の風が吹いても家が倒れないように、ちゃんとしておかないと。それでまた大水が出ても被害を受けないように、人の方がそういう場へ行かないようにしないと。だからその神さんの働きに合わせて、逆にそれをプラスに受けられる立場に置かないといけないですね。


 「台風の大水が出たから」と言うてそこへ飛び込んだら、みんな死んでしまうわね。やっぱりそういう時は行かないように、また近寄らないように、そういう場所へ家を建てたりしない方がいいでしょう。日本人って昔から自然と調和する生き方をとろうとしてきたのです。川でもコンクリで要壁を作って、一定の形で堤防を作ってしまうと、それを越えた時に堤防を越えて水で大被害を受けるんでしょう。昔の人は、普段流れる川幅の低い所と、もう一つ外に広く大きい堤防を作って、普段自由に使える場所と二つに分けているのね。だから、大水出た時は広く緩やかに流れる川の流れを作るわけ。そうすると被害は殆どないというぐらい影響を受けないね。今は土地が私有財産になってしまって、そういう余裕のある場所は取れないですね。本当はみんな神様のもので共有財産で、大自然と調和する生き方がとれるようにというふうに、一番理想的なそういう川の姿を作ればいいのだけど、そうしたら自然と調和した姿で、台風が来ても「ありがとうございます」と、喜んで迎えられる。そのくらい科学も今は発達しているのに、その力がなかったらおかしいですよね。


超能力

【最近超能力を持っておられる方が出てきておられますが、何かお役を持っておられるのですか?】



ありがとうございます:

 超能力もピンからキリまであるのよね。



【知る限りでは、ゆで卵を生卵に戻す、炒ったピーナッツから茅を出すとかという方もおられます。】

ありがとうございます:
 これね、一瞬一瞬の置き換えだったら何でも可能でしょう。だからそのチャンネルを自由に切り替えられたら、死んだものでも瞬間生き返るのね。マイナスがすぐにプラスに変化するわね。本当はみんなそれが出来るんです。チャンネルの切り替えさえ上手になれば、必要だったらそれが出来るんです。そこまで自由自在になんでも変化するという意味では、そういう能力を見せてくださる人もみんなの勉強になります。ただ、そういうふうに手品的にするのは小さいもんよ。本当は大きく全体をどんどん変化して置き換えてもらうので、良いものへ、良いものへと、大きく全体を置き換えてもらえる生き方の方がいいですね。




子育てのポイント

【子育てのポイントを教えて下さい。】



ありがとうございます:
 子育でも、「親が無くても子は育つ」と言う言葉があるようにね、子供を育てるのは神様やね、特に守護霊さん、守護神さんが専属に譲って育てているのです。神様へのお任せよね、だから「いつも譲って頂いて、ありがとうございます」と感謝していたら、完璧に育ててくださるわね。

ただ肉体の親というのは、守護霊さんの考えと反対のことをして邪魔する時があるの。「甘やかしすぎる」必要のないものまで与えてしまうでしょう。守護霊さんの方は、子供を立派に育てて幸せにしたいでしょう。能力一杯引き出して、世の中のために尽くせるように変えたいわけでしょう。ちょっと肉体の親より厳しいね。「本当に必要なことは何かと考えて、守護霊さんのお手伝いをするような気持ち」でさせてもらうと、一番理想的な子育てやね。

 本当に必要なものを与えるのがいいです。子供さんが「甘いものを欲しい」「お菓子欲しい」と言うでしょう、必要かどうか考えたら、あんまり必要ない時があるのね。そういう時は断固として拒絶するぐらいの気持ちで接してあげないと。やっぱり甘える心を起こさせると、本当の自分が出てきにくくなって、子供さんにとってはマイナスですね。だから我慢する時は我慢させた方がいいね。それで「何が必要か」というのをはっきりわからせるのがいいですね。



チャンネル選びの自由




【アガスティアの葉には、「前世からすべての小さいことまで決まっている」というのは実際そうなんでしょうか?】

ありがとうございます:
 そうですよ。神様が創る放送番組は、ピタッと細かいとこまでぜんぶ決まってるの。はい。ただ、それは人の自由を縛るものじゃなく、神様が作った放送番組として決まっていて、人は自由意志で何でも選べるでしょう。



【だって、選ぶことでさえもこう…。】

ありがとうございます:
 決まってないんです。放送番組を選ぶ自由は人間にあるんですよね。だから、どんな番組でも選べるから、その人の受ける番組の運命は自由に変るんです。



【自由に変わるんですか?】



ありがとうございます:

 一つの番組を見続けている限りは、その番組のストーリー通りに決まっています。もう細かいことまで全部決まっていますね。



【なら、発想の転換をしてパッとてチャンネルを変える…】

ありがとうございます:
 番組を変えたら必ず別な運命をたどるんです。



【それはいつでも可能なんですか?】



ありがとうございます:
 いつでも可能なんです。だから人はね、運命の奴隷じゃないですね。運命を支配する支配者なんです。



【それを聞いて安心しました。細かい所まで決まってたら、なんか、面白くないんじゃないかと思って。】

【チャンネルは幾つぐらいあるんですか?】

ありがとうございます:
 無限の無限。無限って言っても数字にあらわせないくらい無限なんですね。人の願う、考え付くどんな運命でも、神さんは番組として用意していますから、何を願っても大丈夫なの、そこまで自由を護ってもらえるのね。ただ一つの番組にはまり込んで、そこから抜けられない状態の時に一番恐いね、それは「運命の奴隷」です。ただ感謝の心を起こせたら、番組からスッと抜け出させてもらえるので、番組選びは自由になるんです。そうしたら運命を支配するんですね。



【チャンネルの中にいる間は細かいことも決まっているんですね。チャンネルが変ったら、そのチャンネルでも、また決まっているんですか? それとも上がることだけが決まっているのか、上がったらその変わったチャンネルの中では、全く自分で作れるんですか?】



ありがとうございます:
 違うチャンネルは、違うチャンネルでストーリーは決まっているの。



【じゃあ、上がるか、上がらないかは、自分で決められるの?(そうです)
上がった場所でのストーリーは決まっている。 (はい) 

 ひとりづつ別々に?】

ありがとうございます:

 そうです。はい、どんなストーリーでも用意されているんです。だから人の思いつくストーリーの無限倍ですよね、そこまで神さんの宇宙創造の働きは凄いんです。

【そんなに沢山あったら自由と一緒ですね。】

ありがとうございます:

 自由なんです、「何でも選べる」という自由があるんです。



チャンネルを選ぶ時の守護霊・守護神との関わり




【チャンネルの選び方としては、守護霊、守護神との関わりはどのようになっているのでしょうか?】

ありがとうございます:
 心にマイナスの言葉をズーッとズーッと貯めすぎると、貯まってしまって番組の予約をしてしまうのね。マイナスの言葉はマイナスの番組の予約なんです。それをどんどん貯めすぎると、マイナスの番組の予約がズーッと続くでしょう。そうすると、なかなかマイナスの番組から抜け出せないです。そういう場合は助太刀が要るんですね。

 守護霊さんの働きは、心の中のマイナスを、自分が身代わりに引き受けて消してくれる役目なんです。だから本当は自分の自由意志で言葉を選んで、番組選びをする必要があるんですけど、落ち込んだらもうどうしようもないです。そんな時は一旦棚上げにしてくださるのね、特に、この世がそうなんです。過去のマイナスを全部守護霊さんが一時預かり、棚上げにしといて、それでちょっとだけ勉強材料を与えといて、マイナスからプラスに向け換える練習させてくれるのね。全くプラスばかりだと勉強にならんので、ほんの一部だけマイナスを残しておいて、「どっちを選ぶか」という自由意志をはっきりさせる意味で、勉強をさせてくださる。それでプラスの方へ心を向け出したら、守護霊さんも喜んで一生懸命力を振るって助けてくれるのね。

 その過去の棚上げした自分の預かっている分も、プラスに向き出したらその人の自由意志で、「マイナスを消して欲しい」というのがはっきりしますから、その時に預かっているものを消せるのです。そしたらマイナスの予約が消えてしまい、今度、プラスの言葉を使ったら、すぐプラスの番組に波長が合うようになってくるし、瞬間、瞬間、波長合わせが楽になって出来るようになるんです。そうなったらもっと自由な番組選びの出来る自分に変ってくるのね。そうなったらもう心配ないんです。そういう意味で守護霊さんがいつも働いてくれるのね。



【守護霊さんと守護神さんとの役割の違いはあるんですか?】

ありがとうございます:
 そうね、力の違いと言ったら力の大きさの違いがあるんです。またこの番組にどれだけ身近に寄り添って護るかでしょう。なかなか、低い番組には高い守護神さんは降りられへんの、波動の違いが大きいからね。だから梯子的につないで、いくらでも根元から光を流せるようにしておいて、それで守護霊さんが直に寄り添って、人の自由意思を尊重しながら護るんです。



【何人ぐらい、三人ぐらいいるんですか?】

ありがとうございます:
 ううん。もっと付くんですよね。必要だったら何百体って付いてくださるんですけど、ただ必要にならないと、じっと待っているだけでは他の仕事をしますから、守護霊さんも何もできないの。大勢の守護霊さん、守護神さんも付いてくださって、護ってくださるから、忙しいぐらい仕事を与えなあかん。



【威張っていいんですね。】

ありがとうございます
 はい。あっはははは。



【番組を選ぶと、どれくらいで見れるんですか?】

ありがとうございます:
 人によって全部運いますね。予約を沢山し続けた人は、やっぱりそれが終わるまで、次の番組が出てこないですね。あまり予約してない人はすぐ出てくるんですけど、テレビでも、何週間も先の分まで、10ぐらい予約している人もいるでしょう。そういう予約を取り消さないと、今見たいものは見れないです。