0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.
40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.79.
80.81.82.83.84.85.86.87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.
116.117.118.119.110.111.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135
.136.137.138.139.140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.

AR125神様への奉仕2003.5.3


 神さまへの奉仕というのは、一番得をします。神さまに与え尽くしていくと自分の持っているマイナスを全部引き受けて消して下さります。どんどん与えて与えて、最後には神さまの中に飛び込めばいいです。そうすると神さまと一体化できるんです。だから神さまへの奉仕というのは、悟りへの一番の近道です。
 お話聞くだけでは、あまりたいしたことないですよ。お話やめましょうか(笑)特にお話を聞く場合でも、自分の心を空っぽにしてからの方がいいです。光がスッと入って気付きを沢山いただけます。空っぽにするにはどうすればいいかというと、神さまへの奉仕の手伝いをすればいいです。自分の心の中のマイナスを神さまが全部引き受けてゴソッと消して下さるから直ぐに空っぽになれます。その後へ神さまの真理の言葉を聞かせていただくと、スッと入って気付きが増えます。そういう意味で奉仕というのは、大事だと思います。ありがとうございます。皆さんももう既に悟っておられるから

 天上天下唯我独尊


 今日はお釈迦さんの悟った時の言葉です。「「有情非情(うじょうひじょう) 同時成道(どうじじょうどう) 山川草木(さんせんそうもく) 国土悉皆成仏(こくどしっかいじょうぶつ) 天上天下唯我独尊」という言葉です。すごい悟りの言葉です。「唯我独尊」という言葉を人間の事象で解釈すると浅くなります。神さまの事象で解釈するとちょっと意味合いが変わります。普通「唯我独尊」というと、自分だけが悟りを開いて一番偉いんだという感覚に、人間知だと思いますが、本当の悟りは自分が無くなってしまいます。自分を神さまに与えて与えて与え尽くして神さまの中に溶け入ります。そして神さまと一体化するんです。この時にはもう神さましかないです。自分という感覚が消えます。神さまだけという感覚が「唯我独尊」の本当の意味です。

 「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という言葉がありますね。これは、天照大御神さまの四大神性をこの「常楽我浄」という言葉で表現します。その中の一つです。だから本当はものすごく深い意味があります。まず「常」は、永遠の中今の今という意味があります。常に無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という状態を、永遠に不断に連続的にとり続けるという意味です。だから絶対の中から無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という姿で、永遠不滅にずっと続く状態です。これが「常」という意味です。

 次の「楽」というのは、「楽しい」といいますが、字自体も意味を表しています。「木」の上に「白」が有って、「光」が燦々と放射されている姿です。「木」というのは、生命・命の象徴です。命が純白に輝いている状態。純白というのは全ての光を中に包容して全部束ねている状態です。神さまの全徳の無限の無限の輝きが一杯、輝きわたっているという状態をこの「楽」で表します。だから天照大御神さまは、常に全徳の無限の無限の輝きが一杯という姿をとり続けています。その一つです。

 最後の「浄」ですが、「さんずい」に「争う」。この「さんずい」に「青い」というのは、水の本質は「青い」というので、絶対の性質を表します。本質的な清らかさです。「さんずい」に「争う」というのは、水というのは澱むと腐ってきます。流れていると清らかです。腐らないです。「争う」と言うと、もの凄い動きなんです。変化の姿が、千変万化どころではないです。もの凄く変化します。だから水が千変万化の無限の変化を遂げると、絶対よどむことがない腐ることがないです。常に新鮮で清らかです。天照大神様の本当の働きの姿は常に新たに新たに出てくる清浄という、清らかそのものです。「浄」というのは、そういう意味です。

 そして「我」ですが、本当の「唯我独尊」とは何かということですが。「独り神」という言葉があります。これは結婚していない独身の神さまと言う意味ではないです。「独り神」というのは、例えば天照大御神さまと言う名前で「独り神」として出てきた時は、他の神さまの名前が全部消えて無くなってしまいます。隠れてしまいます。この天照大御神さましかいないと言う意味です。古事記の中に「独り神」というのが出てきます。だからその「独りの神」さまが出て来た時は、その神さまが宇宙の大神様の代表、全てを束ねている状態です。その神さま以外、何も存在しないと言う状態に入ったら「独り神」という状態です。天照大御神さまもそうです。宇宙の大神さまの最高表現として輝いて出てきている姿です。だから天照大御神さまという名前で出てきた時は、他の神さまが全て隠れてしまいます。その時は「独り神」です。天照大御神さまだけがこの宇宙に存在する、実在するという意味です。それが「独り神」、「独」という意味です。

 「唯我」というのは、「唯我のみ」、唯天照大御神さまだけが「独り神」として実在している。それはその神さまの尊厳極まりない姿なんだということです。天照大御神さまだけがいらっしゃる。それだけが全て。というのが「唯我独尊」です。お釈迦様が悟りを開かれた時もそうです。「無情非情」、心あるもの無いもの、全部悟っている。悟っているというのは、天照大御神さまと一体で無限に輝いているという意味です。「山川草木国土悉皆成仏」、山も川も草も木も悉くのもの全部、「成仏」というのは「仏にすでに成っている」という意味です。、皆すでに仏そのもの、自由自在の悟りの姿を現しているということです。宇宙全体がすでに無限に無限に輝いた姿で悟っているんです。これが天照大御神さまの本当の姿です。

 だから悟った時の心境は、この天照大御神さまが全てという感覚です。自分が偉いというのではなく、自分が消えて無くなっているんです。天照大御神さまだけという心境になるんです。そして「自分は」というと、無限に無限に謙虚です。天照大御神さまを感じたら、すぐに自分を無限に無限に謙虚な立場に置いて、また天照大御神さまを感じて、また無限に無限に謙虚になるというこの繰り返しで、常に天照大御神さまだけを褒め称える状態です。その状態を「尊い」という意味で本当に尊敬に値する、また尊厳極まりないという「本当に尊い神さまなんだ」という風に言っています。お釈迦様は自分が悟って、「自分が偉いだ」なんて一言も言ってません。天照大御神さまだけを褒め称えるんです。これが本当の意味の「唯我独尊」です。だから、自分が悟って偉いと言っている人は迷っているんです。天照大御神さまを褒め称える人だけが、本当の意味の一瞬悟っている。でも褒め称えるのを忘れると又迷ってしまう。だから一瞬一瞬が新たな悟りをいただき続けるというのが大事なんです。それが本当の悟りです。そしてこれが「天上天下唯我独尊」という意味です。

 維摩経

 次は「維摩経(ゆいまきょう)」の話です。聖徳太子さんも惟嵩親王さんも「維摩経」の真理を本当に理解して体得して、そしてそれを人に伝えようとされたんです。それだけ素晴らしい内容を持っています。どういう内容か、具体的にいくつか挙げてみたいと思います。
 感謝が深くなって、心の目が開けるとこの世が輝いて見えます。ところが、心の目が開いていない状態だと、この五感六感、六感の世界、そのまま見えます。まだ眩しいという所まで行かない。この世を娑婆世界といいますが、娑婆世界がそのまま娑婆世界に見えるんです。ところが、心の目さえ開けば娑婆世界そのままで無限に無限に輝いた世界が、光明の楽土があるんです。心の目さえ開けたら見えます。ただ皆が目を閉じているんです。心の目を閉じてまだ開いていない状態。これをわざとしています。目が見えないのでなくて、瞼がちょっと下に垂れているというか…。爪楊枝でちょっと開けばいい(笑)

 「維摩経」は、その根本を解いています。皆、目を閉じているだけなんだと。本当は目さえ開けば神様の世界が、無限の無限の輝きの世界が厳然とあるよと。そして、この世を本当の物として見ているでしょ。ところがこの世は無常なんだということです。今の科学でもそれが証明されています。単なる波動に過ぎないという意味で。普通、物と言いますが、本当は物では無いです。固定した動かない物では無いです。波の変化に過ぎないんです。だから波の変化というのは、とらえ所が無い。実体が無い。原子の原子核と電子の関係を見たらよく分かりますが、物質というのは原子の寄せ集めとしてみます。原子核の周りに電子が回ってる姿を見た時に、この原子というのは何も無いような姿をとります。ただ一個のピンポン玉の周りを電子が回っているという感じです。だからそれに沢山の大砲を打っても当たりません。全ての原子同士が、すれ違うんです。穴だらけです。空間ばかりといった感じです。そうすると本当は実体が無いはずなのに、今の科学でもそういう見方が出来ます。この世は、本当に無常です。あるように錯覚しているだけ。ちょうどテレビ番組を見てあるかのように思っているだけです。でも本当は波の変化、電波が来ているだけです。だからこの世を無常ととらえる方が正しいと思います。この世があると掴むから、神様の世界を忘れるんです。でもこの世を仮の世界だととらえた時は、本当の神様の世界をしっかりと求めようとする。これば2番目です。「この世は無常」と説いています。

 これも有名ですが、「維摩居士(ゆいまこじ)」といって、本当は悟りを開いた立派な人が病気に成るはずがないです。心が立派だし病をあらわす必要がないでしょ。ところがある時病を表して、自分が病気という姿をとりながら、お釈迦様のお弟子をやりこめたり説法するんです。なぜ病気の姿をとるのかと、文殊菩薩が質問します。「衆生病む故に我病む」という答えを出すんです。これ凄いことです。皆が病気の姿をとっているから、自分が代わりに病気の姿をとるんだと。これは本当の愛の一体感があります。皆自分という感覚なんです。自分の心が清まれば、世界も清まるという感覚、本当に自他一体です。自分が全ての雛形という感覚を持っています。だから皆の病気でも自分が吸い取ってしまえば、自分の中でそれを消せば皆が健康になるという感覚です。本当の自他一体感というのがあります。これがまた凄いです。愛そのものという感じです。これが3つ目の大きい教えです。

 次は、入れ子構造の話があります。芥子という種の中に須弥山という富士山よりも大きい山を入れてしまうという奇跡を見せるんです。またひとつの毛穴に大きい海の水を流し込んでしまうという奇跡を見せるんです。普通は不可能です。これは、入れ子構造の宇宙というものが分かれば、当たり前です。一個の原子の中にも大宇宙があるんです。順番に入れ子構造という姿をとって宇宙は無限の姿をとっています。この真理を説くというのは凄い事です。普通はちょっと分からないと思いますが、こういう真理が本当に分かったんですね。だから維摩居士(ゆいまこじ)という人でもそうですし、聖徳太子さんでも惟嵩親王さんでもそういうことが理解できたんです。

 その次は、「菩薩」というのは、皆を常に礼拝するという「空」の表れです。「空」と言っても「空っぽ」ではないです。「空っぽ」という方にとらわれると、間違った解釈をします。もう一つ奥があります。普通自分の全てを神様に捧げ尽くして与え尽くして自分の中を空っぽにすると、その空っぽの中に神様が入りやすいです。神様を受け入れる準備段階では、空っぽというのは大事です。自分を全て捧げ尽くしてなくしてしまうという空っぽという状態です。ただその空っぽという状態が、神様では無いです。
 その空っぽに無限の無限の輝き一杯という姿で、神様が入ってこないと嘘です。この入ってきた姿が本当の「空」です。ところが、その空っぽの状態を、準備の状態を皆「空」だと思っています。「空っぽになる」ということが準備として必要ですが、その後の方が大事です。
 本当の「空」は、絶対の姿は、無限の無限の輝きが一杯という姿です。この意味で、「菩薩は衆生を拝む」といいます。皆、無限に無限に輝いているという見方です。これが菩薩の生き方です。全て礼拝して拝み続ける。だから無限の無限の輝きが一杯と拝んだときに、人がどう見えるかです。肉体的に見る男女の区別はないです。そういう区別はつかないです。無限に無限に輝いているという見方をする時には。そして魂的な姿もありません。
 男性的な魂、女性的な魂というのはないです。もう一つ奥を見るんです。両方の性質全部を兼ね備えた絶対神的なものを、丁度、観音様のような姿?男性か女性か分からない姿ですけど?男性的な姿も女性的な姿も自由自在に発揮できる。それでいて無限に無限に輝いているという姿です。これが「空」の現れという風に見る見方です。だから肉体人間を前にしても常に皆、無限に無限に輝いているという風に、常に拝み続けた。これが本当の「菩薩」の生き方だと教えています。

 その次は、蓮の花は泥の中に咲きます。これは、凄い例えになります。泥の中に根を下ろしているからこそ、蓮の花が咲きます。だから煩悩の中に、思いの中に根をはってこそ悟りの世界の光り輝いた本質の姿が花開くということです。ただ泥の中だけを見ていると悟っている姿が分からない。両方を見ないといけない。泥の中と泥の外の花の開いている姿と同時に見ると両方素晴らしいでしょ。蓮の根を育てる泥も大事だし、表面に花開いている蓮の花の美しさも大事です。
 この両方がワンセットで見えた時、「煩悩即菩提」といって、煩悩がそのまま悟りの姿を表しています。どちらが良いとか悪いとか言えません。両方必要です。丁度古神道でいうと「現界と幽界」の差といって、光の世界と闇の世界を分けます。この光の世界と闇の世界を二つに分けたままでは駄目です。これを一つに繋いで光一元に見るということが大事です。闇の極から光一元に眺めて、光の本当の姿をとらえる。そうすると闇夜に輝く月明かりも凄いなと思うでしょ。そして昼の太陽も素晴らしいなという感覚です。だから全てをプラスにプラスに見ていけます。マイナスには見ないです。だから「煩悩の思いの心」も「感謝の光の心」も一元に眺めた時には、思いも必要、感謝も必要です。ただ感謝を強くしないと思いに捕らわれるとちょっと困るんですが。

 感謝の心で思いを眺めたら、これはどういう見方かというと、太陽の方から地球の表面に浮かぶ雲を眺めたら雲って光輝いていますよね。上から眺めたらきれいですよね。下から見るから黒雲に見えるでしょ。太陽の光が遮られた状態になった時に、初めて黒雲に見えます。感謝の心で眺めたらいいです。そのまま全て光輝いて見えます。それが、「泥沼に咲く蓮の花」に例えている話です。もうすでに皆悟っているんだと。迷っている姿をしながら悟っているんだと。
 実際本当にそうなんです。すでに悟っているんです。ただ迷った姿を掴みすぎているという所があります。この肉体人間だけを掴んでいるんです。そうではなく、肉体人間をつかんでもいいです、でもそれ以上に悟った自分、無限に無限に輝いた自分をしっかり思い返せばいい。その両方を見てワンセットでとらえた時が本当の意味で皆悟っている姿です。そういう話があります。

 沢山ありますが、もう一つ最後に出てくるのが「不二の法門」といって「二つとない法門」。「不二の法門に入る」、これはどうして入るかというと、普通は説法をして教えるんです。「不二」というのは、「二つとない」といって「全てを一つに見る見方」です。
 例えば、天照大御神さまととらえる時でも、「この天照大御神さまが全て」という見方です。色々神様を並べたてるのではありません。「天照大御神さまだけが全て」という見方を、「不二の法門」と言えるかもしれないです。そういう世界に入るためには何が必要かというと、これ色々な説法の仕方もあるんです。ただ説法したら分かるかといえば、分からないかもしれないです。やはり言葉を越えないといけない。言葉というのは、例えば太陽に対してでも「あれが太陽だ」と指を指す姿が言葉です。指が言葉にあたります。でも実際の太陽は指にはありません。太陽そのものをしっかりととらえるということが大事です。そういう意味で言葉を越えて、本物を掴むということが必要になります。

 そしてその「維摩居士(ゆいまこじ)」は、色々な菩薩や仏様は説法をしますが、自分は黙然(もくねん)としてしまった。「維摩の一黙百雷の如し」という言葉がありますが、黙ってしまうことはそれで雷が百を斬るくらいの凄い響きを表します。本当の悟りはこうなんだと言うことを、口を閉じることによって示すんです。それ位凄かったと。そして「不二の法門」を黙することによって示した。

 本当は言葉ではないです。言葉を越えたものが、本当は天照大御神さまです。感謝行でも「ありがとうございます」と普通言葉を使いますが、それはまだ方向付けです。また神様を呼ぶ言葉でもあります。その後です。神様が出てきた時に言葉を越えて感じる。また言葉を越えて神様を感じていかないといけない。本当の天照大御神さまという姿を。神様の無限に無限に輝いた全体の働きの姿をしっかりと感じるという方が、本当の「ありがとうございます」です。だから「ありがとうございます」には言霊としての「ありがとうございます」と、言葉としての「ありがとうございます」の二つあります。この言霊としての「ありがとうございます」をしっかりとらえたら、本当の感謝行です。そういう意味では言葉にあまり囚われない方がいいです。「何回唱えないと」とか思うでしょ。本当はそうではないです。言葉は、道具として使いますがあくまでも神様を感じるのが目的です。「ありがとうございます」の言霊の方をしっかり感じとる方が本当の意味の感謝です。だから余り言葉に囚われない方がいいです。ただそれを活用すればいい。だから感謝が本当に湧き出るときは、「ありがとうございます」を言わなくてもいいです。すでに言葉を越えているんです。

 また、「感謝と奉仕」といって車の両輪の様なものですが、奉仕できた時はもう既に感謝出来ています。極端にいうとそうです。奉仕させて貰ったという時は、即感謝になっているんです。神さまを感じて神さまの働きを受け入れて、神さまに動かして貰っている姿です。だから奉仕になれば感謝です。奉仕になるまでは、「ありがとうございます」と神さまを呼んでいる状態です。だから奉仕に入る方が本物になりやすい。ただこの奉仕も自分が自分がというとよくない。自分を無くしての奉仕が大事です。だから神さまに自分を捧げ尽くして命も神さまの預けきって、そして神さまのお手伝いという気持ちになっていると神さまにさせていただいているという気持ちです。指一本を動かすのでも神さまに動かしていただいて、「ありがとうございます」という喜びが浮かび上がるんです。そうするとそのまま悟りの姿を表している。皆さん輝いて無限に無限に輝いて悟っている姿です。特に奉仕した後はそうです。もう私話するのが、馬鹿みたいに思えてくる。(笑)

 性別とその役割

質問者:
 私は男性ですが、昔から自分の性別に違和感があると思っていて、それを押し殺して男性として生きてきたのですが、ここ2・3年位女の性が表現できるようになって、すると今度は男の性を押し込めるんです。どちらも苦しいです。嬉しいのに苦しい。人からどう見られているかばかり気になって…。ここ1・2ヶ月悩んできたのですが、その両方を認めようと思いたいんですが。
 自分の生まれた性別には意味があるのかいうことその役割と奉仕、そしてそれがどう関係しているのか、それが社会的な役割と一致していなくてもいいのかを聞かせていただきたい。


ありがとうございます:
 元々本性の自分は両性を兼ね備えた絶対神です。だから無限の無限の輝いた姿をとって両性を兼ね備えているんです。ただそれが表現の場に出てくると最初から魂の完成された姿はないんです。順番に表現を完成させていかないといけない。それである時は男性的な魂を磨くために男性に生まれるんです。そして男性的な魂をどんどん作り上げていきます。それだけだと、片手落ちになるから今度は女性に生まれ変わります。女性的な物をどんどん培う意味で、女性に生まれ変わって女性らしさを身につけていきます。それは魂に身に付けていくんです。そして両性がバランスよく身に付いて自由自在に表現出来るようになった時が、魂の完成になります。

質問者:
 魂の完成といいうのは、両性をもった姿ですか?

ありがとうございます:
 そうです。両方を持ってないといけない。その時その時に自由自在に表現出来るというのがいいです。そのために肉体を持って魂が生まれてきます。だから一人一人が色々な課程を通っているから、皆違います。だから両性を兼ね備えるとなった時の方がいんです。ただあまり肉体にとらわれない方がいいです。自由自在の方がいいです。一瞬一瞬自由自在に変化すればいいです。この世では、ちょっと不自由ですけど。ちょっと上の世界に行くと自由に変身するんです。ある時男性に現れて、ある時女性に現れてという風に。本当は体も自由に変身できるんです。赤ん坊にもなれるし、お年寄りにもなれるし。自由自在に変身できるのが本当なんですけど…。だから観音様だったらあの世で自由自在に変身するんです。何にでもなるんです。ある時石ころになったり、花や蝶になったり。女性にもなり男性にもなり、自由自在に変身できて本物なんです。


質問者:
 男性であるのが嫌な時は、「男性に生まれてありがとう」とか言い続けてきたんです。すると女性的な部分が備わって来たりして…、「ありがとうございます」というのはそういう効果があるのかなと思って…。


ありがとうございます:
 あるんです。「ありがとうございます」に両方あるんです。両性を兼ね備えたいい物をどんどん引き出す働きがあるから。足らない物を補充して貰うんです。

質問者:
 一番嫌なことに対して「ありがとうございます」を言っていると、それが結果的に、よい方よい方へと…

ありがとうございます:
 よい物を降ろしてくれるんです。必要な物を降ろしてくれるから。それでよかったんですね。

 「ありがとうございます」は全てを中に包容している

質問者:
 お祈りなんですが、祈りのテープをいただいた時には、ありがとうございますの声で「ありがとうございます」と言っていたので、それでお祈りするのかなと思っていたら、ここでは五井先生のテープが流れていたので、いつ「ありがとうございます」とお祈りするのか分からなかったのと、五井先生のテープを聞くときは白光真宏会の時の様な感覚で聞いていた方がいいのか、ここではありがとうございますがいるので「ありがとうございます」と唱えながら聞いていた方がいいのか?それと、ありがとうございますはどの様な感覚でお祈りなさっているのか?私たちが、お祈りするときにはありがとうございますと交流するような感覚ですればいいのか、それがよく分からなかったので…。


ありがとうございます:
 お祈りは、もうよく分かっておられる。「ありがとうございます」はもう全て中に持っているんです。自由自在で全てを中に包容し尽くしているから。何もかも活用できます。それでいて言葉にとらわれない。本当の言霊の響きがスッとでるんです。「ありがとうございます」の無限の無限の輝き一杯といった響きが。ずっと降り続けて入るんです。その中に自分を置くだけというのが本物です。本当のお祈りです。そのために「ありがとうございます」を心に唱え続けるのもいいし、口に出していうのもいいし色々な自然の響きを聞きながらもいいし、五井先生のテープを聞くのもいいし、またそのままお任せという心境もいいし。いろんな物との交流というのもいいです。もう全て良しです。その時その時必要な姿をとらせて貰います。だから一人一人全部違います。だからここで皆「ありがとうございます」と唱えて貰うと縛ってしまうでしょ。縛らない方がいいです。皆違うから。だから心で唱えている方が、ちょっと縛りがないかなという感じで、でも口に出したかったら出してもいいよ。本当は自然体で自由自在なのがいいです。

質問者:
 そうすると、「ありがとうございます」は全てを含んでいるから、それを感じ取っていればいんですか?

ありがとうございます:
 そうです。だから「ありがとうございます」のお祈りは、神様にさせていただいているお祈りです。無限の無限の輝きが全方向から飛び込んでくるお祈りです。全方向から光を貰っている。どんどん新しい光を貰い続けている感覚です。皆から光を貰っているという感覚の「ありがとうございます」というのが本当です。


質問者:
 「ありがとうございます」という言葉には、「天照大御神さまが、今ここにまします」という解釈があったので、「ありがとうございます」と言う時はその感覚を持って言う方がいいのかと、その練習をしたんですが。

ありがとうございます:
 それでいいよ。それも練習としていいし、その内に「天照大御神さま」と感じられたらもの凄い感覚になるよね。

質問者:
 祈りながら、「全てを神さまにお返しするんだという感覚でいうのかな?」と勝手に解釈をしたんですが…

ありがとうございます:
 それもいいよ。神様に自分を与え尽くすという感謝も必要だし、神様を受け入れるという感謝も必要だし。与えるのも受けるのもどちらも感謝です。

 感謝を全部束ねる自分になる

質問者:
 今まで「ありがとうございます」とただ一生懸命言ってきた感覚と、本当に感謝が湧き上がっていう「ありがとうございます」と違っているような気がして…。そうするとちょっとずれたかなと思ってしまって。本当に「ありがとう」と出てきた感じで「ありがとうございます」が本当なのかなとか…。悩んでしまったんですけど…。

ありがとうございます:
 だからいろんな感謝を全部束ねる自分になるんです。途中の色々な段階の感謝を一通り体験しておいた方がいいもんね。自分だけでは無しに周りの皆の感謝を全部自分の感謝と思えば、無限の種類の感の感謝を束ねて全体を束ねて「ありがとうございます」という感謝になると大きい本当の感謝ですね。だから皆の感謝が、全て自分の感謝です。皆自分の為に祈ってくれていると感謝していたらいいです。


質問者:
 平和の祈りと「ありがとうございます」は、同じですか?


ありがとうございます:
 本当は言葉というのは縛ってくるでしょ。縛りのない言葉を言うのが本当は必要です。神さまの働きの全てという意味で「ありがとうございます」が一番縛りの少ない言葉ですけど。そんな風に全部あるという風に見ると、「世界中が平和でありますように」というような響きがあってもいいし、「南無阿弥陀仏」という響きがあってもいいし、色々な祈ることが一杯あってもいいです。全体を大きく束ねて「ありがとうございます」に戻ればいいです。ありがとうございます。

 DDN

質問者:
 先生がお祈りで応援しますと言うことであったんですが、DDNというのはなんですか?

ありがとうございます:
 いろいろな意味があると思いますが、皆さん自由に解釈してください。

質問者:
 はじめは、DNAかなと思ったんですが。(笑)

ありがとうございます:
 私はドラゴンの、ドラエモンのDがいいです。(笑)

 ネットワークってこれから必要でしょ。いろいろな意味のネットワークがね。ドラゴンのDは、神通自在の働きが龍神さんの働きです。大自然の全ての働き。特に清めの働きがあるし。いろいろな神通力の働きがあるんです。お金設けるのでも、黄金の龍が来るとお金が儲かるでしょ。お金と言えば、別ですが、必要であれば富がスッと入って来ますよね。だから龍神さんの働きは、凄く大きいです。またアイデアと言う意味では、ドラエモンのポケットっていいじゃない。必要な物がパッと飛び出すじゃない。夢みたいですけど。だから神さまの働き・アイデアを一杯受けて、ネットワークを創って、皆を幸せにする働きが出来たら本物です。そういう意味で、皆でネットワークを創って世界平和のために貢献していく運動と、私はとらえているんですけど。

 自由自在に全部、楽しんでしたらいい

質問者:
 お祈りするときに、回数にこだわったり時間にこだわったりすると、呪文みたいにとらえているだけで、………(不明) 。例えば両親の顔を浮かべて「ありがとうございます」と言ってみたり、ありがとうございますの顔を浮かべて「ありがとうございます」と言ってみたりするとちょっとは感謝の気持ちが湧くんですが、それでいいでしょうか?

ありがとうございます:
 それでいいですね。(笑)

質問者:
 やはり回数にこだわるより、感謝がないとだめなんですね。

ありがとうございます:
 いや全部いいの。回数にこだわる時は、それがいいの。こだわる必要がない時はそれがいいしね。全部いいです。変化した方がいいじゃない。一つしか出来ないというより、順番にいろんな祈り方があっていいからね。全部楽しんで、楽しんで。

質問者:
 でも言霊があるから、それを回数やっているとそういう風になって来るというのは…

ありがとうございます
 本当はそうよね。言霊の「ありがとうございます」は神さまの働きが降り注いでいるから、自由自在に全部ね楽しんでしたらいいです。バックが神さまだから。何もかもいいです。

質問者:
 はい。ありがとうございます。

 相 対

質問者:
 「相対」という言葉は、どうしてあるんですか?「陰」と「陽」の全然違う物がどうして同時にあるのかな?と思って。

ありがとうございます:
 神さまの表現がそうですよね。相対の両極に別れて、そしてそれを組み合わせていろんな段階の表現を全て創り上げるんです。「光」と「闇」を二つ分けるでしょ。それを一つにしたら「光」だけになっていまいます。絶対というのは、「光」そのものよね。それを「光」と「闇」に分けて、その組み合わせを変えることによって「小さい虚の光」から「大きい虚の光」になって、「小さい実の光」から「大きい実の光」になって無限の無限の段階の光の表現が生まれてくるんです。だから表現をする段階で、「相対」の段階に分かれるんです。そしてその組み合わせによって、いろいろな種類の表現をとるんです。その為に「相対」というのは、必要なんです。人間が男女に分かれるのでも、この両方を助け合いの姿で組み合わせて色々な美しい姿をそこに表そうとしているんです。皆、陰陽合体の姿でもいいよ。でもそれは、ちょっと味気ないかもしれないです。心の交流が起こらないでしょ。だからそういう意味でいろんな世界があるんです。この世は、陰陽に別れた肉体を持って心の交流を図っている世界です。別な世界では、陰陽両方持った世界もあります。独りで子供を産んで、独りで育てるという世界もあるんです。でも色々な表現があってもいいでしょ。だから相対に別れるというのもいいじゃない。

 相手に必要な物を与える

質問者:
 人から頼まれることが多くて、私も好きでしてあげることもあるのですが、ただ金銭的な事を「お金を貸してくれ」とか言われた時、ひいてしまう所があるんですが…。「多分この人は返さないだろう」というのもあるし、でもそういった物も越えて、要望が来たときはドンドン流していったらいんですか?

ありがとうございます:
 相手に何が必要かと言うことを見抜かないとね。本当に必要なものを与えていくのが、本当の思いやり、愛の心よね。だからお金を貸して、相手が甘えて独り立ちできない。そういう状態になったら、逆に相手にとってマイナスでしょ。それは、相手にとって必要な事ではないです。本当は断る事が必要なんです。相手にプラスにならなかったら、断った方が必要性があるでしょ。その必要性を見抜いて助けてあげるのがいいね。

質問者:
 ありがとうございます

 思いだけで生きる時期

質問者:
 私にはトラウマ的なものがあって、「思い」というものが凄く強い。感謝の心がないんでしょうかね。ずっと、未だに尾を引いているんですが…

ありがとうございます:
 人間というのは、一度は思いに囚われる思いの中にはまり込むんです。その時は、思いだけで生きる時期というのがあるんです。でも、そこからもう一回感謝に戻って、感謝の心の生き方「ああ、なんて幸せな生き方だ。」というのを味わえるように変わるんでしょ。最初から、感謝で生きても余り深い感謝にはならないかもしれないです。一回思いに囚われた方がいいからね。それで、今は感謝に戻ろうとしているもんね。(質問者:はい)だから、感謝に戻った時の幸せというのは、大きく深くなっているはずよ。思いに囚われたから、感謝が深くなるんです。幸せを大きくして貰う課程だから別にかまわないよ。

 天 命

質問者:
 自分が将来なりたい物というのは、思いがあるからなりたいのでしょうか?
ありがとうございます:
 思いの強いときは、思いの中から出てくるし、感謝の強い時には、感謝の中から出てくるでしょ。「三つ子の魂百まで」という諺ありますよね。小さい時というのは、思いがほとんどないです。少ないですね。その時の姿は神さまの心がスッと映ってくる。必要があって天命として出てくるものが、「三つ子の魂」という意味で自然ににじみ出てくるんです。その時に「将来自分がしたいな」というものが有ったらそれが実現しやすい。天命として、役割として出てきている姿だから。でも大人になると段々思いが増えてくる人もあるでしょ。そしてあれしたいこれしたいと思うと、思いから出てくる場合もあるんです。それだと実現しないという可能性も出てきますよね。だから大人でも感謝していたら出てくる願いは、神さまの願いね。天命として与えて貰った願いは実現しますよね。必ずね。

 感謝一筋がいい

質問者:
 「願いを全部神さまに返しなさい」と言ってて、でも「日常生活でこれやらなくちゃと思ってやらないと実現しませんよ」という話もあるし…、どうしたらいいのかな…。
「惟神(かむながら)」でした方がいいのか、イメージして頑張った方がいいのか。それはどうすれば、いいのですか


ありがとうございます:
 大きい感謝の中に、いろんな感謝もあって思いもあってもいいです。思いのある人に思いを捨てなさいといっても無理です。その場合は、思いの通りにしても、そこに少し感謝を加えていいように修正をしてもらった方がいいです。思いのなくなった人は、感謝一筋がいいです。

質問者:
 感謝一筋の方が、楽は楽なんですよね。

ありがとうございます:
 あ?、もう楽な人は最高じゃない。(笑)

質問者:
 楽なのは楽なんですが、その場合だと世捨て人みたいになって、凄くいい加減になっちゃうんじゃないかと思ってしまって。
ありがとうございます:
 感謝一筋が一番いいです。本当はね。思いがない方が楽ですよね。

 神様を感じ取る

質問者:
 「24時間感謝のお祈りをしていなさい」という話が出てくるんですが、それは「ありがとうございます」をずっと言っていることなんですか?それともどのようになさっているんですか?

ありがとうございます:
「ありがとうございます」を唱えることもいんですけど、神さまを感じ取るという方がいいですね。皆無限に輝いているという風にね、感じ取って受けるという生き方の方がいいです。そして後は恩返しに生きるという意味で。ありがとうございます