カウンター
0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.
40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.79.
80.81.82.83.84.85.86.87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.
116.117.118.119.110.111.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135
.136.137.138.139.140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.


AR134 2001.8.5-01
 ありがとうございますの修行の仕方

金沢の山岸:
 世の中には神様に出会うというか、そういう道を求める人、例えば、比叡山へ行って千日回峰行をなさるとか、或いは高野山の方で修行するとか、或いは禅寺で道を求めるとか、そういう既存のところでやられる方が多いわけなんです。そういうのを一切ありがとうございますは関心がなかったのか、最初からこういうやり方でやろうということだったのか、その辺を少しお話していただけたらと思うんですけど。

ありがとうございます:
 はい、一人一人ぜんぶ歩む道が違うんで、同じ道は必要ないですよね。だからいろんな悟りへの修行方法も、道もあっていいと思うんです。
私の場合は「感謝一筋で、大きい幸せを与えてもらう生き方をとらされた」という、それも生活の中で感謝を深めて行くという。
 その修行というのも、難行・苦行とかそんな感じじゃなしに、生活行の中で、感謝を深める過程で、神さまの愛を感じさせてもらうという生き方だったのね。だから「神さま」というのは、本当は身近にどこにでもいらっしゃるんで、それを「どういうふうに感じ取るか」だけの問題ですよね。だから、現実生活を離れて、どっかへ神さまを求めて行くって、まあそれも悪いことはないでしょうけど。現実の中に、身近に神さまがいらっしゃるのに、わざわざ外へ行く必要ないですよね。

 私小さい時によく神社参りしに行ったことあるのね。そうするとね、守護霊さんが言うのね、「お前を護ってるのは、守護霊である私や」と言うのね。「神社の神様に頼みに行ったって駄目やよ」って、はははは。ねえ、本当よねえ、本当は自分の守護霊さん・守護神さんが専属に護りに護ってくれてるの。それなのにわざわざそれを忘れて神社にお参りしてね、神社の神さまにいろいろ願懸けしたり、いろいろお願いしたりしたってね、本末転倒なんよね。それも一つの私の考え方として、それが深く身についてしまったのね。

 やっぱり身近なところから、神さまの護り・助けをしっかり受けて行く方が大事なんだというね。わざわざ遠い所へ探し求めんでも、身近な中に必要な物すべて与えられてね、そうして「守りに護られてるんだ」というのがね。そういういろんな体験から私の中に根を下ろしてしまったような感じね。だからもう特別な何も要らないと思うね。いろんな方法があってもね、「それでなかったら救われない」ということは絶対ないと思うのね。

 根本は、みんな神さまと一体で救われている自分があるのよね。だから、それが自然に現れてくるのを邪魔さえしなかったらいい。だから開き直りで自然になればいいね。何もしないのがいいのかも知れない、極端に言ったらね。自力で修行しようとしない方がいいみたいなの。
自力の働きをぜんぶ捨てきって、みんな神さまにお任せして、「すべて神さまにさせていただいている」という気持ちだったらもう感謝一筋でやっていけるよね。その方が一番本当の助けを受けやすいと思うよね。

 ただ、私の歩ませてもらったのは、それはみんなに参考にはなっても、ピッタリは合わないよね。みんな一人一人違うからね。一人一人的確に神さまは護り抜いてるはずなんでね。だからみんな歩み方が違うからいいはずなんで。ちょっとは似てるところがあってもいいけどね。そっくりには絶対にならないしね。
でも、本当の助けは、やっぱり自分の中から本物の神さまから与えてもらうばっかしだと思うのね。外から枝葉的にいろいろ助けてもらったって、そんなんは根本の助けにはなってないよね。その時その時の、ちょっとした助けではあるけどね。やっぱり根本の助けは、自分の中から本当の神さんが働いて出て来てくれる時よね。それはやっぱり感謝してる中から、そういう助けが与え続けてもらえるんでね。やっぱり日常生活の中で、感謝を深めていくのが一番いいと思うのね、本当ね。はい。




 全託とは、自由意志とはこの世のいろんな縛り・障害があって、本当の自由を発揮した時が本物 それを楽しむ

参加者:
 自分の人生は、自由意志で選択して選んでいるんですけど、「全託」というと「自由意志」というのはどうなるんですか、あるんですか。

ありがとうございます:
 「神さまの御心」いうのが、最高の自由な生き方をとってるのね。本当の最高の自由を手に入れようと思ったら、神さまの御心と一致しないといけないね。神さまこそが自由自在なのよね。人の場合は、やっぱりそこまでいかないよね。どんだけ自由に生きていると言ったって、神さまの自由から見ると、ほんのちょっと自由なぐらいでね。だから、できるだけ神さまの自由に合わせていくという、近づいていくというのが一番の自由を手にする方法よね。
「全託」というのが本当の自由を獲得する一番の道なんよね、だから、矛盾はしてないよね。全託の中に本当の自由があるのね、感謝の中に本当の最高の自由があるんですね。

 「自由」っていうのを、好き勝手に動いて自由じゃないのね。ぶつかり合ったら自由が奪われるでしょう。だから、お互いにぶつかり合わずにすり抜けないといけないでしょう全部ね、自由になるのね。うなぎみたいにね、どんなとこでもヌルヌルとすり抜けるぐらいの自由さが必要なの。どんな障害物があってもスッと抜けて行けるっていうね。それはやっぱり知恵が必要なんよね、神さまの知恵がね。
全体を見抜いてどういう障害があるかってはっきりわかって、すり抜ける知恵が湧いてこないといけないのね。そうするとぶつかり合わずに、自分は自由自在に動けるのよね。そういう意味で、神さまの知恵を受ける為の「全託」でもあるのね。そうした時に本当の自由自在がそこに生まれるのね。障害が大きいほど神さまの知恵が必要になるでしょう。

 何もないところで自由に動いたって値打ちないのよね。大きい障害の中で自由自在に動けたら、本物の自由自在性があると言えるのね。
だから、この世に生まれてきても、この世のいろんな縛り・障害があって、本当の自由を発揮した時が本物よね。それを楽しむのよね、やっぱりね、本当はね。




 五欲と戦うことなかれ

参加者:
 「五欲」というのは、それを止めるというか、止める為に修行に来てると言われる人もあるんですが、それも楽しむためにこの世に生まれて来ているのでしょうか?__

ありがとうございます:
 そうね、「五欲」って言ってしまうと言葉の縛りに合うんでしょう。だから、「全て神さまから与えられた必要なもの」というと、もうマイナスじゃなくなるわね。幸せに必要なものだったら、いくら与えてもらっても、受けてもいいわけでね。それは言葉の違いよね。「神さまからのプレゼント」という形で受けてたらマイナスは一切ないの。神さまは必要な物を的確に与え続けてるね。

 「五欲」の方は必要なものを与え続けてもらっているという「確信が持てない」のでしょ。だから今「不足してる、不足してる」という形で求めるのよね。でも、神さまの方はもう「的確に与え続けてくれてる」と言ったらもう絶対心配ないはずよ、本当はね。
食べ物一つでも「必要な食べ物をずーっと永遠に与え続けてもらえるんだ」というんだったら「あれ欲しい、これ欲しい。あれ食べたい、これ食べたい」と言わんでも、目の前に与えてもらうものを受け続けたらいいだけなんよね、本当はそうなんよね。

 だから、感謝し続けたら、神さまから与えてもらう必要なもの全部、的確に与え続けてもらっているのがよくわかってくるから、欲を出す必要なくなるののね。「ありがとうございます」だけでずーっと行けるのよね。そしたら別に、「五欲」とか「欲」という言葉を使わなかっても、そういうことは必要なくなるから、執われなくなってくるよね。

 だから、その五欲と戦って勝ったって意味ないのよね。食事を絶って断食して、それで何があるのかって、何もないでしょう、骨皮筋右衛門になって、ガリガリで貧相な姿をとったってね、どこにも幸せ一つ見られないじゃない、そこにはね。だから、五欲と戦ってもマイナスなんよね。
それよりも「神さまから必要な幸せを受け続ける」というのが大事やね。やっぱり神さま相手に、しっかりと神さんからのプレゼントを受け続けなあかんのよね。

 だから、悟りを開くのでも、お釈迦さんが「苦行は悟りの因にあらず」ってね、苦行しても悟れない、とおっしゃってるよね。そうよね、苦行したって悟りは得られないよね。逆に苦行捨てて、神さまからのプレゼントをしっかり受けたら悟りが開けるのよね。だから、プラス一杯受けるのが大事なのね。




 悟りにも段階がある

金沢の山岸:
 そうしましたら、「悟り」というのは、段階がありましてですね、またそれが一瞬一瞬深まって行くというものなのでしょうか。それとも「悟り」というのは、一回「自分が本来悟っているんだ」ということを悟ると、それでいいものなんでしょうか、その辺のところをわかりやすく教えてください。

ありがとうございます:
 それもいろいろよね、はははは。一つの一定のものってないのね。悟りも無限の段階あると言えばあるのよね。言葉通りよね、やっぱりね。
また「悟りは、本当は一つしかない」と言えばね、また言葉通りに一つになってしまうしね。
 だから、言葉を自由自在に使う自分の方がいいのよね。悟りには無限の段階があって、順番に楽しみながら登って行くんだと言えば、それも楽しいよね。
でも、みんな最初から神さまと一体で悟っているんだからというその立場から出発して、それだけを持ち続けるのも、またいいことなんよね。他にもいろんな考え方が、沢山あると思うね。それはもう言葉通りに、すべて必要なものを与え続けてもらえるんでね。自由自在に言葉を使いこなせばいいよね。

 だから、悟りにも無限の段階があるって言えばそうだし、悟りにも無限の種類があると言えばそうなのね。いろんな種類があってもいいでしょう、悟りもね。「これが悟りだ」というのが無限にあってもいいのよね。そのぐらい神さまはちゃんと用意してお膳立てしてくれてるはずよね。だから、神さまの与えようというプレゼントは、もう無限に無限に大きいよね。それを如何に上手に受けて楽しむかという、それだけが大事だと思うよね。




 過去の五欲の消し方

参加者:
 そしたら、過去に今日まで欲の心で買って来たものってありますね、家であったり、車であったり、そういうものはどうしたらいいんですか。

ありがとうございます:
 だから、過去の連続って見なくていいんでしょう。「今、与えられた神さまのプレゼント」っていうふうに受け直せば、瞬間に置き換わるのね。同じものが神さまからのプレゼントに変ってしまうわね。
それも一瞬一瞬神さまの現われていうふうに受けて「神さまの愛の変身の姿」というふうに受けてると、神さまそのものに見えてくるね。だから、単なる物でない神さまの光り輝いた、神さまの愛の塊みたいに見えてきたら、いつも神さまの中に自分が置かれてるって感覚でしょう。
だから、ぜんぶ大事なも物に見えてくるよね。でも、やっぱり「神さまの愛の姿」というふうに、言葉で確認して行くのがいいのよね。そうするとその通りに感じられてくるね。言葉で瞬間に変ってしまうね。




 悟ることも全て「言葉通り、思い通り」になる

金沢の山岸:
 じゃあ、もう一ついいですか。以前に、悟りを開く人というのは、お釈迦さんだとか、歴代でも何人もいらっしゃるわけですけども。例えばこの時代に入って二十一世紀という言い方でもいいと思うんですけども、本来悟っているということに気づく人と言いますか、要するにまた悟るということなんですけども、そういう人が以前よりもたくさん増えるということをある人から聞いたことがあるんですけども、その辺はどういうふうに考えたらいいんでしょう。

ありがとうございます:
 「増える」って言ったら増えてくるのね。「ぜんぶが悟る」と言うたら、「ぜんぶが悟る」のよね。だからやっぱり言葉通りにぜんぶ現実化してくるんで。「既にみんな悟っているんだ」というふうにね、「みんな悟っている」という言葉を使って行くと、自分の周りがぜんぶ悟った姿をとってくるよね。どんな言葉を使ってもその通りになるはずよね。

金沢の山岸:
 ということは、今迄では「悟る」ということは、先ず百万人に一人ぐらいの確立しかないぐらいに思ってたんですけど、そういうことが逆に縛りに?

ありがとうございます:
 難しくしてしまったんよね。「修行しなければ悟れない」とかね、そういう言葉の縛りで悟れなかったのね。だから「何もしなかっても、何をしても悟れる」と言えば、自然にみんな悟った姿現すのよね。
だから、大事なのはもう「既に悟ってる」ていう、「神さまと一体なんだ」というそういう言葉を使い続けたら必ずなるの、その通りにね。やっぱり言葉通りに、思い通りに全部なるのね。
 ただ、しつこく使い続けないといけない。他の言葉は使わずにねえ、そういう自分の願う言葉を使えばいいのよね。普通、一つのことを願いながら、その願う言葉を使ってないよね、使い続けてないことが多いよねっ。逆にその反対の言葉をよく回数多く使い過ぎるぐらい使ってるのよね。だから、願ってることとは別のことが実現するの。そういうギャップ的なものを感じるのよねえ。
 だから、一つの言葉を徹底して使い続けたら、それで結果がすっと出てくるのがよくわかるのね。
その一番いいのが「ありがとうございます」の言葉を使い続けたら、大きい幸せを感じ取るよね


参加者:
 使い続ける、ということに意味があるんですか。

ありがとうございます:
 「言葉通りになる」と言うたら、いい言葉使い続けた方がいいわけでしょう、いいことを実現し続けられるという意味でね。
逆のマイナスの言葉を間に交えたら、マイナスも実現してくるんでね、困りますよそれはね。
 だからいつも、一瞬一瞬、いい言葉を使い続けるという、一瞬一瞬、最高のものを受け続けるために必要なのね。だから「言葉で受け取る」というふうに考えた方がいいよね。使わなかったら受け取れないね、何もね。

参加者:
 一瞬一瞬の連続だからですか。

ありがとうございます:
 そうですね、はい。今使った言葉で今新たに受け直して、次に何も唱えんかったら何も受けられないよね、本当はね。

参加者:
 その一言でいけるとしたら、選択がなくなってしまう世界になってしまうんですか。

ありがとうございます:
 そうね、一回で、もうそれがずーっと続くんだったら、あと自由がないもんね。神さまは一瞬一瞬新しいものを与えようと創り続けるわけでしょう、そしたら過去の同じものをずーっと持ち続けたって、新しいのを受け損なうもんね、そういう意味でやっぱり一瞬一瞬、人の自由を発揮しないとあかんわね。

金沢の山岸:
 今のことの確認みたいな話しなんですけども、人生は思い通りにはならない、思い通りにならないのが人生だという一方で、逆に、言葉でそれを言い続ければその言葉通りになるということ。
そうすると「思い」というものと「言葉」というものと、あきらかに違うということなんですけども、その辺のところを少し。

ありがとうございます:
 だから、同じことなんよね、「言葉通り、思い通りになる」という、これはもう大原則よね。
 ところが「思い通りにならない」という人がいてたとしたら、その人は「思い通りにならない」と思ってるじゃない「思い通りにならない」と言ってるよね。だから「言葉通りに、思い通りにならない」という状態が生まれるでしょう。それも思い通りになってるのね、ちゃんとね。ノ(どよめき)ノ 
 だから言葉通りに思い通りになってるのよ、ぜんぶね、必ずなってるのよ。「思い通りにならない」というふうになってるじゃない。

金沢の山岸:
 そこで言葉を止めてしまうから、最初に思ったことがならないだけなんですか。

ありがとうございます:
 いやいや、それは全部なってるんだけど。

参加者:
 ああ、そうかそうか、一瞬一瞬。

ありがとうございます:
 止めても止めた通りになってるしね、思い続けたら思い続けた通りになってるのよねえ。




 子育て

参加者:
 子供を育てるのは、先生が言われたのは「守護霊さんや守護神さんが育てる」と言われたんですけど、そしたら肉体の親ができることというのはどういうことがあるんですか。

ありがとうございます:
 そのお手伝いよね。守護霊さん・守護神さんの手足になって動けたら一番理想よね。必要な時に手足になって動けたらいいのよね。その子供を育てるのに本当に必要なことってもう極わずかでしょう。
赤ん坊でもそうでしょう、お乳飲ませるのもわずかな時間よね、他の時間は自分の自由に使わないといけないわね。だから「本当に必要な時だけ」ね、お手伝いするのね。

参加者:
 その「本当に必要な時」いうのが、わからないというか。どういう時でしょうか。

ありがとうございます

 それが「ありがとうございます」唱えてると、必要な時だけ、必要なだけ手足として使ってくれるの。感謝してないと、親が心配したり、いろんな思いを出したりして、余計なことをし過ぎるのよね、邪魔ばっかりするのよね。「子供がいてるから、自分は何もできない」って、何もしなかったり、子供のせいにしてしまうでしょう。

 そうすると、本当だったら親が自由に何でも、いろんな良いこといっぱいして、能力発揮して世の中に尽して徳をいっぱい積んどかないといけないのにね。子供のせいにして何もしなかったら、逆に子供にその大きい負担をかぶせてしまうよね。子供にとったら、大きいマイナスを背負わされたのと同じになっていくでしょう。だから、少々泣いてグズっても、それも「運動だ」と思って放っとけばいいのよ。「腹筋を鍛えてるんだ、内蔵を強くしてるんだ」ってね、泣く時は泣かした方がいいわけよね。

 本当に病気したり、怪我したりして、どっかが痛むんだったら、それを治すようにいろいろ手助けせんならん時もあるよね。でも普通の泣いてる時まで、一々そんなん構いに行ったらあかんのね。
やっぱり「何が必要か」というのを見抜く知恵というのは必要よね。それで、過保護にし過ぎても駄目よね、必要なだけを的確に与えるのが神さまの最高の育て方なんでね。

 だから、何か物を買い与えるんでも同じよね、何かおもちゃでも与えたら「子供が喜ぶから」て思うんだけど、本当に必要かどうか考えたら、必要でない余計なものを与えてる場合もあるの。子供がちょっと喜ぶからとか言うて与えたらあかんのよね。本当に必要なものを見抜かないとね。
無駄なものを与えたら、子供の徳を先に親が勝手に引き出したことになる。貯金を引き出して先に無駄遣いさせたことになるでしょう。将来、本当に必要なときに、それが手に入らなくなったりする可能性もあるね。だから、もうできるだけ無駄遣いさせないように、必要なだけ与え続けるというのが一番理想なんよね。それが「ありがとうございます」を唱えてると、守護霊さんが必要なことを的確にさせてくださる。
だから「ありがとうございます」唱えてるのが一番いいのよね。後はもう自然に任せてね、必要な時すっと動けるのがいいね。

 だから、子供をいつもね「危ないから」って監視してたって、いつ危険がすっと迫るかわからんね。心配したら余計心配する出来事が起こるでしょう。
でも感謝してる人は、危ない時にすっとその場へ行って、すっと手助けして助けてるのよね。普段、何にも考えてないよ、必要な時にはすっと考えずにその場へ行ってるのね。そういう生き方の方が自由でいいのよね、自然でね。

金沢の山岸:
 守護霊とか守護神というのは、一応目に見える、というかエネルギー体として多分存在してると思うんですけど、当然、声を掛けるとか、そういうことは口がないんですから無いと思うんですけど。その人間の本心と言いますか、心の深いところに意識に語りかけるというか、働きかけるというか、それはこちら側からのディスポンスというか、こちらを浄めていくと入りやすくなるというか、その辺のいきさつといいますか、少しおはなしください

ありがとうございます:
 本当の自分、神さまと一体の自分から見たら、ぜんぶ自分の中にあるのね「守護霊さんも・守護神さんも」小さく自分の中に治まってるのね。それでその肉体の自分と守護霊さん・守護神さんの関係をどういうふうにするかでしょう。そのつなぎ方も、もう自由自在なんよね、どんな方法でも取れるのね。

 番組的に見たら、守護霊さんはかなり上のいい番組をいつも見てるんでしょう。それでいて番組から抜け出して自由自在に他の番組に波長を合わせて、働きかけはできるのよね。
この世という番組に波長を合わせて、この世の人に働きかける場合は、いろんな働きかけがあるのね。直接その人の心の中から、自分が中へ入り込んですっと良いものを与えてきたりね、知恵でも力でも与えたりできるのね。また外から誰かを使ってアドバイス・ヒントを与える時もあるわけよね。それはもう自由自在にするよね。番組の外へ抜け出して自由に波長を合わせられる守護霊さん・守護神さんにとったら、何でもそういうの朝飯前よね。

 だから必要な助けはどっからでもくるというのがいいね。やっぱり中からも外からも、もうどっからでも与えてもらえるというのが本当よね。でもそれが、本当の自分の中にぜんぶあるというのをはっきりさせていく方がいいのよね。
普段、あまり「肉体を自分」って掴み過ぎるもんね、小さく掴み過ぎるからね。「本当の自分は神様と一体なのだから、ぜんぶ自分の中にある」という立場からもう一回大きく見直すと、小さい立場から見るのもそれも必要な時もあるんですけどね、もうちょっと大きい立場から見るのもいいのよね、両方自由自在にする方が人生が楽しくなってくる。




 神様への奉仕

金沢の山岸:
 そうしますと今みなさんが作業に出たりですね、帰ってきてからまた綱引きをしたりですね、非常に体も酷使しながら、酷使という言い方は良くないかも知れませんけども、目一杯働いてですね、そうすれば当然頭もわりと空っぽになりますし、非常にいい感じがするんですけども、この辺のところをやっていらっしゃる意図みたいなことをどう説明すればいいんでしょうか?__

ありがとうございます:
 そうね、みんな神さまへの奉仕は何のためにしてるかというと__
 過去にマイナスの言葉を使ったり、マイナスのことを思ったりして、心にそれを溜め込んでる場合が多いでしょう。それを如何に早く消してもらうかというのが大事なんよね。そのためには神さまにそれをぜんぶ預けていかないといけないね。自分が持ってても消えないね。だから「神さまに渡して行く・預けて行く」というのが、消してもらう一番のポイントになるね。その預け方、渡し方がいろんな方法あっても、やっぱり「神さまのために」っていう奉仕を通すとたくさん預けられるよね。その意味でどんどんそういう奉仕活動を一所懸命してるうちに、たくさんのマイナス、要らないものを消してもらえるのね。そうすると感謝の中から新しいものを早く受け取れるようになるね。

 それもまあ、一人一人全部自由なんでねえ、いろんな生き方をとっていいと思うけどね。全力を出しきる方が沢山与えられるのね。「ちょっとだけ」というと、ちょっとだけしか引き受けてもらえないかも知れないもんね。だから「自分は全力を神さまのために捧げ尽して、ぜんぶを受け取ってもらうためにしてるんだ」という方がいいよね。本当は一回でぜんぶ受けとってもらえたら一番楽なんだけど。
それでもなかなか渡しきれんのよね。やっぱり、自分のものを掴んでしまってるからね。「これだけはまだ自分のものとして残して置こう」というところがあるのよね、心の奥のどっかにね。それも如何に上手に渡し続けられるかね。

 ただね「神さまのために」と渡す時でも「もう要らないから、ゴミだからどうぞ消して」って言うても受け取ってくれないね。そうでしょう、人間同士でもそうよね。人から自分の要らないものを捨てるものをもらって言うたってね「そんなん必要ないから要らん」て言うでしょうね。
 でもその人が真心込めて、自分の一番大事なものを「もらって欲しい」ときたら、その気持ちが嬉しいから受け取るよね。自分が「そんなつまらんもの」と思っててもね、すっと受け取って「ありがとう」って言ってくれるよね。それと同じよねえ、神さまも真心を見てるわけね「神さまのために」という気持ちがやっぱり神さまにとったら嬉しいね。それで「どんな大きいマイナスでも引き受けて消してあげよう」というふうにね。また「いいものを置き換えてあげよう」としてくれるんでね。

 だから、お釈迦さんの話しでね「富者の万灯より貧者の一灯」という言葉が生まれてるように、大金持はなんぼ万の灯ろう寄進してもあんまり価値がないらしいのね。貧しい人が一所懸命働いて、一つの灯ろうを寄進したとするでしょう。そうするとその灯火が消えずにずーっと続くんだという感じの話しで「富者の万灯より貧者の一灯」という言葉が生まれてるんですけどね。やっぱり真心がこもってるのよね。その真心を受けてもらえるね。
 お金持ちにとったらそんなんねえ、万の灯ろう寄進したって自分の全てじゃないのね。ほんの一部かも知れないね、だから真心がこもらんのよね。自分の命も含めてぜんぶを捧げ尽すぐらいの気持ちが、一番神さまにとったら真心がこもってると思うのね。そうすると「その人の全てを、マイナスぜんぶでも引き受けて消してあげたい」と思えるのよね。

参加者:
 ここへ奉仕活動をするというのが、一番そのマイナスを消してもらえるのですか。

ありがとうございます:
 いや、別にここに限らんでいい。世の為人の為になることを、それぞれの場で「神さまのために」という気持ちでさせてもらってたら、それが大きいいろいろなマイナスを引き受けて消してもらう方法なのね。ここは一つの練習台みたいな場所ではあっても、それが最良かって、そうでもないのね。やっぱり一人一人の置かれた場で「神さまのお役に立ちたい」という気持ちで全力尽して、世の為人の為になることをすることが一番いいのよね。まあ、その練習の一環として、ここで一緒に遊んでくれるのがいいよね。まあ、一つの練習みたいなものんだけどね。でも形の方はもう自由自在よね、何させてもらってもいいのよね、ただ心の向きだけが、神さまに向けばいいの。




 貸し借りの関係

参加者:
 貸し借りについて、よく先生は言われるんですけど、例えば、体の不自由な方を街中で助けたとしたら、それは、こちらが貸して、向こうは借りを作った、ということになるんですか、それともお互いに感謝しながら、助けた方も「ありがとうございます」と言えば、それは貸し借りではなくなるんですか。それはどんな場合でもお金でもですか?__

ありがとうございます:
 そうね、「ありがとうございます」と神さまを通せばみんな貯金になってくね。「貸した」というよりも、無償で与えても自分の陰徳・貯金は増えるのね。だから相手に貸しを与えるんじゃなしに、ただ無償で与え尽していいのよね。

参加者:
 与えられた方が借りを作った?

ありがとうございます:
 いや「ありがとうございます」があれば神さまからの無償のプレゼントを受けたことになるでしょう、光だけを受けたことになるのね。だから人から借りたんじゃないのね、その時はね「ありがとうございます」を通せばね。
 貸し借りはあまりいいことはないよね、縛り合いになるね。だから「ありがとうございます」を唱えて神さまを通さなかったら、人と人との貸し借りは、やっぱり縛りとして残るの。「その人には貸してあるから今度返してもらわんならん」となってくるわね。必ずそういう、まあ、直接でなかっても間接的にでも返してもらうような姿をとらないといけないようになってくるよね。でも、貸し借りの無い方がいいよね。神さまからのプレゼントをいつもタダでもらう方がいいよね。

参加者:
 大きな幸せとか、自分で「嬉しいな」と思うことがあったとして、それが大きければ大きいほど、マイナスが増えるということはないのですか。何か代償を求めるからいけないとか。

ありがとうございます:
 そうね、神さまから受け直したらね、神さまからの無償のプレゼントというのは、受ければ受けるほどプラスが増えるのよね。でも、神さまから受けるんじゃなかったら、もし、自分の心の中に「陰徳」という貯金があれば、その貯金を引き出して大きい幸せを現実化して行くのね。もし貯金がなかったら、借金をしてするのよね。そうするとマイナスが増えるわね、そういう場合はね。だから、いつも「自分の今の幸せが、いつも神さまから与えられてる」と感謝して受けるのが一番いいのね。そしたらマイナスは一切ないよね。
神さまを忘れると、贅沢すればするほどマイナスを背負う可能性もあるね、貯金もなくなっていくしというようなね。




 周りに病人が居る時、何かできることは?

参加者:
 ちょっとよくわからないんですけど、私の周りに最近病気になった方が何人かいらして、間接的な知り合いだったりするんですけど、私の友達もそのことによって心配したりしますよね。でも心配というのはあまりいいことではないから、心配しなくていいって言ってたんですけど、何かその人が元気になるようなことを私にできるとしたら、「ありがとうございます」って言っていればいいんでしょうか。

ありがとうございます:
 病気のある番組を自分が本当に見ていたいのか、健康の番組を見ていたいのかというのを自分が決めるのよね、先ずね。
 やっぱり病気の姿を見て「可哀相に」と思う生き方も悪いことじゃないかも知れないけど、自分が本当にそれを願っているのかどうかよね。健康で幸せな姿の人ばかりを見たいのだったら、番組を変えるだけがいいの。病気の姿を言葉にせずに、「みんな健康で幸せなんだ」というふうにプラスの言葉を使ってると、番組が健康な人の番組に変るから、病気の人を見なくて済むようになるのね。

 でも、病気の番組の中にはまり込んでその中でいくらあがいても、いろいろ働きかけて病気が治った姿を見たって、あまり大したことないでしょう。しんどい目するだけでしょう。
それもその人の言葉通り・願い通りに病気の人を治して満足したり、病気をお祈りで治してあげたからと言うて自分が満足したりね、そういうのは一応あるわけよね。でも、それは本当の自分の幸せか、願いかって考えたら、それもどんどん変化するかも知れないよね。
 それよりも最初から「無限健康の人ばっかり見ていたい」という「その方が幸せなんだ」というんだったら、「みんな無限健康なんだ」っていう言葉で、そういう番組に波長を合わせていけばね。




 「ありがとうございます」の体験談

金沢の山岸:
 「ありがとうございます」の実践編でたまたまここへもきてる人なんですけれど、昨日も話しをしてたんですけど。一日に二万回ぐらい唱えているんですって、そしたら随分状況が変ってきて、それの一番具体的なことの現われが、今迄声も掛けたこともないあまりつきあいのなかった妹さんから「一千万台の家を買ってあげるから探しなさい」というような話しがあったと、妹さんはなんか社長をしておられるらしいですけど「それも、それのあれだよね」と彼は言ってるんですけど。お聞きしたいことは「ありがとうございます」というと、例えば、ある時、心境が一変して、世の中の全てがキラキラと輝いているとか、人が愛しくて愛しくてしょうがないとか、そういう経験もあると思うんですけれど、徐々に変って行くということなのか、劇的に変るということなのか、その辺のことをお聞かせ下さい。

ありがとうございます:
 それもねえ、一人一人ぜんぶ違うねえ。一人の人にとっても劇的にパッと変る時も、大きく変る時もあるね、徐々に変る時もあるし、それはもう、もう自由自在に変化するみたいね。
 だから、全部いいのよね。それでね。
 白隠禅師でも「大悟七回」というんですか「小悟数知れず」というんでしょう。同じよね、大きい変化の激動的な変化が大悟にあたるのね、大きい悟りね、まあ数えるほどでしょうね、それはね。
 小悟は、小さい気づき・悟りというのは無限にあるわけよね。そういうのは徐々に変化した姿とってるわけでしょう。だから一人一人ぜんぶそういう大きく変ったり、徐々に変ったり、いろんな姿を見せてもらいながら、気づきがどんどん増えて行ってるよね。神さまとの一体感がどんどん深まって行ってるよね。




 ボケていく人

金沢の山岸:
 少し年老いてボケてくるということがあるんですけども、そういう人がなるべくボケないように、なんかやる方法がありませんでしょうか。

ありがとうございます:
 あるでしょう。目的を持つことですね。目的なかったら何もしなくて済むんで、ボケるの当然よね、若かってもボケるでしょうね。だから、もう大きい目的を持つほどいいでしょうね。そうすると中から力を振り絞らないといけないんで、本当の神さまの力が湧き出てきますよね。そしたら肉体が若返って病気にもならずに、ボケずにいろんなこといっぱいできるね。もう死ぬまで元気一杯に活躍できますよね。
 だから、目的をしっかり持つことよね。それも大きい目的ね、神さまの方はいくらでも力添えてくれるのね、大きい目的を持つほど力はたくさんもらえるの。

金沢の山岸:
 そうしますと本人は、ボケようとしているくらいですから、なかなか本人は目標を持ってない訳ですけど、周りからそれを持てるように、仕向けていくというか、そういうことはできるのでしょうか。


ありがとうございます:
 そうね、でも本人の自由意志で選ばないといけないんでね。だから、周りの人のできることって言ったら「自分が感謝して無限に輝いて、それで世の中のためにいっぱい働いて幸せになってる」という姿を見せることによって「真似したい」という思うかも知れないね。いいお手本を見せればいいのね。

 ボケる人は、「何もしなかったら幸せ」と思ってるかも知れないしね。「楽して寝てて幸せ」って思うかも知れないよね。でも「本当の幸せはね、一所懸命働いて人を幸せにして本当の幸せを感じられるんだ」というふうに、そういういいお手本を見せ付ければいいわね。


 だから、みんな「何を選ぶか」だけの問題よね。この世は特に、良いのと悪いのと両方見せてもらえる場なんで。だからいいものをお手本にして、それを選び取れば、どんな人でもプラスに向いて行くんですけどね。ただ、強制はできないよね。
 もし自分がお祈りしてね、その人が変ったように見えるとしたら、自分の番組が変っただけよね。その人を変えたんじゃなしにね。その人の生き方は変えられないね、その人自身の問題だからね。ただ「自分の見る番組が、マイナスの多いものからプラスの多いものへ変化した」というだけよね。神さまでも人の自由は縛らないからね。人はなんぼお祈りしたからって、他人の自由を縛って変えるわけにはいかないよね。自分の見ている番組を変えただけよね。

金沢の山岸:
 自分自身としては、死ぬまでボケずに、今日までも生きてて明日コロッと亡くなるという、そういう状態がいいと思ってるんですけども。そうでない人でボケて行こうとする人は、あまりそういうことは思ってないと思うんですよね。そうした場合「ボケて幸せ」ということはあるんでしょうかね。
 要するに自分の意思という問題ですけども「何としてでもボケないようになって欲しい」という気はあるんですけども。関わり方が結局、こちら側の「ありがとうございます」だけでいけばいいのか、それともなにかする方法がありますか?_

ありがとうございます:
 心って二つの心があるよね。本当の自分の心・神さまの心であるプラスの心と、過去を積み重ねて出来上がったマイナスの心というのがね。
マイナスの心は、楽をしてたいの。何もしないで怠けてじっとしてて、棚から牡丹餅式になんでも、してもらったら幸せと感じる心やね。そういう心の人は、もうしんどいことから抜け出たいわけね。
 「何もしたくない」と寝てたらいい方なんよね、じーっとしてたい方なのね。そういうのを「幸せ」と感じてしまうのね。

 本当の自分から見たら、それ正反対になのね。だから、感謝する心、本当の自分が出てこない限り、それが「間違ってる」って気づかないよね。本人が気づくまでは仕方ないよね。偽物でも「これが幸せなんだ」と思い込んでしまうから、そこへずーっと入って行くのよね。だから自分自身の問題よ、本当はね。
 だから、自分の過去をずーっと振り返った時にね、感謝して本物を正しく掴めた時は「一所懸命働いて人を幸せにすることが幸せ」って本当に思えるよね。
 ところが、感謝をしてない時期ってあるのね、やっぱりね。そういう時は怠けて「人からもらうのが幸せなんだ」って、そういう時期があったと思うのね。そういうなごりが心に残ってたら、自分の見てる番組の中にそういう姿も見せてもらえるね。

 だから、それを両方見ることによって、どっちが本物か正しいのか」というのがわかって、それで自分は「もっともっと本物の一杯の世界を番組として見ていきたい」と言うんだったら、みんなが命輝かせて働いている幸せ一杯の姿の番組へ、合わせて行けばいいよね。
 だから、今、この世にマイナスが見えるとしたら、まだ、自分の心にマイナスが残っているというぐらいに思って、更にプラスにプラスに向け続けるのがいいかも知れないね。
 だから、マイナスの人の姿は見ない方がいいよね。極端に言えばね「みんな命輝いて、働いているんだ」という「みんなを幸せにする働きをしてるんだ」というのがいいね。そういう言葉を使い、そういういい姿だけを見つめてね、番組を上へ変えて行けば、ボケ老人も見なくなるかも知れない。

 ボケ老人ぐらいの問題やないね、世界のいろんな問題沢山あるんですけど。
大勢の子供が餓死して行くって、年間どれぐらいいてるの、凄い数でしょう、(一日五万人です)ねえ、ちょっと考えられないね日本ではね。餓死しなかってもの凄い程度の低い生き方をしている人が、もの凄い数でしょう、何十億なんでしょう。でも、そういう人達を、どうして自分が幸せにして行くのかって、考えて取り組んだって、一人の人をも幸せにできないよ、本当はね。そうでしょう。
 食べ物がないから食べ物を与えたとしても、それで本当に救えるんかっていうと、救えへんよね。一生食べ物を与え続けても、大してその人を幸せにも何もしてないよね。食べ物を与えた程度の幸せしか与えてないでしょう。

 本当の幸せというのは、そういう低い番組でいくら掴もうとしても掴めないよね。低い番組を見ている限りは、自分も幸せになれないよね。だから、自分が先ず高い番組をしっかりと見れるようになることよね。もし「他の人も幸せにしてあげたい」と言うんだったら、他の人も高い番組に心を向けてそれを受けられるようにしてあげることよね。そういうお手伝いが、本当の意味の根本から幸せを与える生き方ですね。
 だから、みんなが本当にお祈りできるようになればね、最高番組に波長が合って、それを受けて現実化するのね。そしたら、もう最初から幸せいっぱいの状態になるのね。




 与えてもらうばかりだと相手の番組を下げる

参加者:
 今の状態で、国際援助とか国際ボランティアありますよね、今の状態でやっている以上はずーっとそれが、あまり変らないんですか。

ありがとうございます:
 あまり変ってないね、変ってないよね。逆にね、「可哀相に、可哀相に」ってやってると、そういう世界がどんどん広がってるみたいやね。だから助けてもらった方も、自分の力を発揮しないから、助けてもらうばっかしの気持ちだと、求める心になってるでしょう。番組がどんどん低く下がって行くのよね。

 だから、逆に番組を下げる手伝いしてるみたいな感じになるのね。自分の中の力を振り絞ってでも発揮して、プラスへ向かないといけないでしょう。自分の方から与える心を起こさないと、番組が上がらないよね。
 だから、ちょっとでも人のために役立つことをさせてもらう生き方を、みんながとるようにしてあげる方がいいの。番組さえ上へ上へ上がったら、必要なのものをちゃんと与えてもらえる幸せな姿をとるのにね。余りにも、求める心を起させ過ぎてる。だから、番組を下げるお手伝いしても、意味ないもんね。

 難しいでしょう何か援助をするんでもね。「ありがとうございます」を援助しないとねえ。
 だから、物を与えるのでも「ありがとうございます」いっぱい祈りを込めておいて与えるのがいいかも知れないね。感謝の心を引き出すための手立てにすればいいのね。




 現実の幸せを数えてみる

参加者:
 求める心をなくして、与える心を持つこと。感謝を深めて与える心を出すためには感謝がいいということではないかと思ってるんですけど。その感謝の心がなかなか、私自身与える心がまだまだなんです。感謝の心から始めたいと思ってるんですけれども、なかなか自分が恵まれてるせいもあると思うんです。
 そういう自分がどうやったら感謝の心というのが持っていけるか、何かアドバイスを。

ありがとうございます:
 既に与えられているもの、幸せを数え上げるのがいいんですね。
 この肉体一つでも、神さまからの大きいプレゼントですよね。「目が見える」というだけでね。
 「目」ってものすごい無限の価値ありますよね、目が見えなかったらどんな素晴らしい景色でも見えないね。だから、目が見えるというだけでも、無限の価値がある「ありがたいなあ」ってね。「耳が聞こえる」ってね、そうでしょう、いろんなこといっぱい聞かせてもらえるね、参考になること勉強になることいっぱい聞かせてもらえる「ありがたいなあ」というね。
 また、鳥の鳴き声、聞こえるだけでも幸せやね。「息ができる」というのもすごいことよね。息も吸うも吐くもできなかったら、もう悶絶して、もがき苦しむわけでしょう。

 だから全身の細胞六十兆の細胞の一個一個が、やっぱり本当に命を輝かせて、自分を幸せにするのに働いてくれているって、これだけでも「細胞さん、ありがとうございます」って言わずにおれなくなるのね。
 太陽一つでもそうやね、毎日毎日新しい太陽がどんどん出てきて、輝いて、幸せ与え続けてるね。これが一瞬すっと消えてしまったらどうなるか、大変よねえ。地球は闇になってしまうでしょう。

 そういうふうに今、与えられたものを、幸せをずーっと数え上げていくと気づきがどんどん増えるのね。感謝がどんどん湧きあがるように出てきてね。それが根本になったら、神さまへの本当の感謝が徹底できるようになってきますよね。「現実からの神さまのプレゼントを感じる・感謝」というのは、まだ浅いのね。奥から、一番奥からのプレゼントを感じるのが、一番深い感謝になるのね。そうすると現実がぜんぜん闇でも、心はもう無限に無限に幸せ一杯という状態になれるのね。無条件に幸せってそこにあるのよね。
 先ず、今は現実から幸せを数え上げたら一番手っ取り早いと思うんですね。

金沢の山岸:
 北九州からおいでで、折角ですから、何かありませんか、子供さんのことでも。

参加者:
 この場所に来られた、というだけで感謝の気持ちで一杯ですので、「ありがとうございます」ということで。

ありがとうございます:
 あ〜、いいことねえ〜。

参加者:
 神様は「ありがとうございます」唱えることは、神様自身が喜んでいらっしゃるのでしょうか。
ちょっとわからないんですけど。

ありがとうございます:
 そうですよ、やっぱり人も同じでね、認めてもらって幸せ感じるでしょ、無視されたら感じないですね。「ありがとうございます」というのは、神さまの働きの全体像をぜんぶ認めたことになるね。感謝の心を起してしっかりと受けたことになるんでね。やっぱりそれが一番の神さまの幸せなんよね、喜びなのね。「ありがとうございます」を唱えてる人はね、もう自分の周りのぜんぶから喜びを感じ取るのよね。神さまの喜びなのね、それね。プラスの喜びの姿を見せてもらえるの。みんな神さまが喜んでいる姿ね。

 だから、周りの人もみんなそうでしょう「ありがとうございます」って、心から感謝したら「ニコッ」って笑ってくれるわね。神さまが喜びの姿を見せてくれてると思うのね、それね。
植木鉢に植えてる花でもそうやね、「ありがとうございます」って感謝してたら、花がニコッて笑って咲いてくれるじゃない、ねっ。それ感じるもんね、花の笑顔をスッと感じるもんねっ。

金沢の山岸:
 良寛さんだったかの言葉に「愛語」という言葉があるんですけども、要するに「愛の言葉」と言いますかね「愛語」を相手に掛ける、ということなんですけど、いろいろあると思うんですけど、やはり私は「ありがとうございます」と言うと、ちょっとしたことにでも、例えばウエイトレス水を持って来るとか、食べたものを下げて行くとかね、そういう時に「ありがとうございます」と言うと「ニコッ」と笑うんです、向こうの方が、それで照れたりする人もいるんです。そんなことで普通あまり言われないんだと思うんですけど。そういうのも、やはり「愛語」になるんでしょうか。

ありがとうございます:
 そうです、本当の愛語は「感謝」なんですよ「ありがとうございます」だけ。
「ありがとうございます」が、神さまと一体化する言葉ですよね。「愛」というのは神さまとの一体感の言葉ね。「愛はすべてと一体」という意味でしょう。一つに合体して合ってるっていう、合一してるという意味ですよねえ。「愛」が一体感だったら「ありがとうございます」が全てと一体化する言葉なんで「愛語」というと「ありがとうございます」だけよね、本当はね。




 忙しいというのは奴隷になっているから

参加者:
 仕事をしていて、すごく忙しい時なんかは、相手の方が「ありがとうございます」を言ってくださるんですよ、すごく忙しい時は「いいから、次のことをどんどんしゃべって!」って、自分が思っちゃう時があるんです、でも「言っていただいて嬉しいな」という気持ちもあるんですけど、急いでると「はあ〜」って__ 後で「何であんなこと思っちゃったんだろう」って思うんですけど。そういう時の自分って、そういう感情はやっぱり、いくら「ありがとうございます」を聞いていても、プラスにはならずにマイナスになっているんですか。

ありがとうございます:
 いえいえ「忙しい」という、忙しい言葉が、リッシンベンに亡くなるでしょう、人の「心」が「亡くなる」というね、われ(我)を失うんでしょう、「奴隷」になってしまうことよ「忙しい」というのはね。自分から楽しんで一所懸命やってる時は「忙しい」って言わないわね。「ありがとうございます」だけで、喜んで楽しんでいるだけでしょう。
だから、そういう「忙しい」という状態は、「ありがとうございます」で軽く消してもらってるのよね。助けてもらったのね。奴隷になったら損するわね。




 神様との対面を楽しむのが「お祈り」

参加者:
 普段「ありがとう」というのが段々口癖というか、思えるようになったんですけど、朝お祈りさせてもらったように、静かな時間というのは持った方がいいですか。

ありがとうございます:
 それも自由自在にね。いろんな時間を持てるのは幸せでしょう、別にこういう形に執われないでいいんですけどね。朝起きて太陽眺めるだけでも静かな時間ですよね。景色を眺めて心をゆったりさせるのも、これも一つのお祈りの時間よね。

参加者:
 自分で決めなくても?決めなくても自由自在に?

ありがとうございます:
 決めなくていいの、自由自在にね。一瞬一瞬を大事に楽しめばいいよね。
本当はもう、神さまとの対面を楽しむのがお祈りよね。太陽を見ても、太陽を「神さまの愛の現われ」って感じたら神さまと対面よね。
そよ風の中に自分を置いて、「ああ、気持ちいいなあ」というのも神さまとの対面なのよね。
 神さまと対面・出会うというのがお祈りなんよね。(すべて?)すべてよ。全てに神さまを見出して行く、そういう練習よね。(自由自在で?)自由自在でいいね、自由自在がね。
 お布団に入って寝る時もそうやね、布団を「神さまの愛の御手」ていうふうに「神さまの愛」というふうに見ていけば、布団の中にゴロッと横になるだけで神さまに包まれるじゃない、愛にね。だから形じゃないね、自由自在がいいよね。




 霊感の強い人

参加者:
 もう一つ、友達の娘さんが霊感が強いというか、なんかわからないんですけど、病院やお寺へ行くと何か入るらしいんですね。私の友達が、お母さんなんですけど、どうしていいかわからなくて悩んでるんですね、そのお嬢さんが自分なりにお祈り、おまじないじゃないですけど、適当にやってるらしいんです、出歩く時は塩を持ったりとか、でも入る時は必ず入っちゃって、寝る時も「こっちに入ってるから、今日は下向きに寝られない」とか言って、なんか大変らしいんです。すぐ入ってしまう、そのお母さんの悩みを聞いても、私にはどうすることも出来ないんですけれど、どういうふうにしたらいいでしょうか?。

ありがとうございます:
 それも、やっぱりマイナスを掴んでマイナスの言葉を使ってるよね。いろんなもん「マイナスのものが入ってる」って見てるのね。「また、入った、入った」ってね。だからそれをプラスに変えるのがいいね、言葉をね。いつも神さまが無限の光が入ってるっていうふうにプラスを受け入れたら、マイナスをもう相手にしなくなるね、プラスの方が強いのね。マイナスを掴んで言葉にしてるから、それがその通りになって行くの。だから、いつも神さまの無限の光が世の中に流れ込んでいるというふうに、プラスの言葉だけを使い続けたら、マイナスは入らなくなるわね。




 「ありがとうございます」を忘れるとマイナスを感じる

参加者:
 入ったもの自体はプラスのものですか。

ありがとうございます:
 そういうものは見ないのね、神さまの無限の光がいつも流れ込んでいるというふうに、「神さまの無限の光だけが、自分の中にあるんだ」というふうに見て行けば、そういう言葉を使ってたら、それがもう「ありがとうございます」という言葉なんですけどね。だから「ありがとうございます」を唱えたら、それも全部消えて行くね。
 本当に「ありがとうございます」唱えたらね、そういうマイナスは一切感じなくなるの。もし、それで何かマイナスを感じるとしたら、その時唱えてないね、「ありがとうございます」を忘れてる時よね。思い出して「ありがとうございます」唱えたら、それで消えて行くのよね、本当はね。




 思い通りにしたい人は、ここには来れない

金沢の山岸:
 ところが、そういう方がいて、例えばここへ来てそういうことを体験させようと思って連れて来ようとしても、なかなか実際は来れないということが多いように思うんですけど。

ありがとうございます:
 そうね、ここへ来れる人は「ありがとうございます」を唱えてる人よね、唱えた人よね。そうでないと、無理矢理連れてきたって、必要なものを受けられないでしょう。ある程度謙虚に素直になって、神さまの助けを受け入れる心になって「ありがとうございます」を唱えさせてもらって、初めてここに来るのよね。
 それでいろんな気づきを、またどんどん与えてもらうような姿とってるだけよね。

 でも、感謝も何もしない人が、自分の好き勝手に思い通りにしたい人が、ここへ来ても何も得られないね。逆に、その「思い通りにしたい」というのを消されたら困るからね、来ない、絶対。
 思い通りにならなくなるからね、ここへ来たらね。まあ、一人一人自由があって時期が来るまではどうしようもないよね。でも、段々と変化するけどね、周りがお祈りする人が増えたら、また、気持ちが変化するのよね。

参加者:
 来てもらいたいなあ、という友達があったとしても、すごい声を掛けずらい、とか思う人だったりすると、やっぱりそれは時期じゃなかったりするのですか。

ありがとうございます:
 そうね、だからそれも自然になるのがいいよね、だから、声掛けても来ないかも知れないからね。別に声掛けなくってもね、またなんかの縁でフッとね、他から誘われて来てるかも知れないしね。それも自分も自然に動いてるのがいいよね。




 ありがとうございますの食事風景

金沢の山岸:
 すみません、つまらない質問かも知れませんけど、いつも、ありがとうございますの食事をしている姿を、みなさん余り見ないものですから、果たしてありがとうございますは食べているのかということを心配されてるんですけど。

ありがとうございます:
 食べてますよ、はははは。しっかり食べてます、十倍ぐらい。そうね、あまり量的に沢山食べたいと思わないからね。みんなと一緒に食べると遠慮しちゃうのよね。

金沢の山岸:
 なんか五分ほどで終わってしまうとか。

ありがとうございます:
 それも、その時その時でね。若い頃はご飯でもなんでも食べたいよね。お腹空くしね、運動したら特にそうよね。私はご飯はもう一膳ね、軽くしか食べないし。偶には食べない時もあるしね。
 おかずだけでちょっと食べるぐらいで終わってしまうから。食べるものも、私は果物があったらいいぐらいなんで、はははは。お肉とかカレーとかね、そんなんあんまりねえ、食べないですね。一番あっさりした淡白なんがいいから。だから一緒に食べるとみんな遠慮し過ぎるのね。
 それでちょっと別にね、食事させてもらってるけど。(そういうことでしたか)はい、食べてます、食べてます。ただお客さんのある時は食べない時もあるけど。臨時にねえ、やっぱり来られる時あるからね。
 そういう時はね、お昼も抜いたりね。夕食も抜いたりする時もあるけどね。それも別にね、なんでもない、苦痛でもなんでもないし、楽しんで。だから、寝食を忘れて楽しむのがいいでしょう、はははは。




 人の縁

参加者:
 「人の縁」って神様から見たらどんなふうなんですか。

ありがとうございます:
 そうね、両方あるでしょうね。腐れ縁とね、神さまから新たに結んでもらう光の「神縁・新縁」というのがね。「腐れ縁」は、足の引っ張り合いみたいな姿をとるんですけどね。それでも、神さまがそこへちょっと働くと、腐れ縁もやっぱり輝いて来るのよね、はははは。

 この世の姿って、本当はみんな神さまからの「新しい縁結び」と思う方がいいよね。「腐れ縁」だけで結ぶことは絶対ない。それも活かしながら神さまが光の縁を結んでくれるの。マイナスの腐れ縁ばっかしだったら、みんなマイナスへ向いてしまうもんね。それだったら大変よね。みんなどんどん地獄へまっしぐらに行ってしまうじゃない。だからそれを防ぐ為に神さまが働いているんだから。だから、どんな縁も神さまの光の縁で新たに与えてもらってるのね。もし「腐れ縁」に見えてもね、その腐れ縁は軽く済んでるの。

 だから、マイナスに見える縁もいい縁よね。本当はいろんな勉強ができて、それをきっかけに大きい幸せを掴むチャンスになってるかも知れないもんね。
だから、「無限の無限のプラスの縁」というのがいいじゃない、はははは。




 国民の感謝が深まれば、政治は変わる

参加者:
 この間、小泉総理が、自分の周りの人のことを「言ったらわかる人と、言ってもわからない人と、それから、言わなくてもわかる人と、三種類いる」とおっしゃってたんですけど。言えばわかる人はいいですよね。言ってもわからない人がたくさんいた場合に、どうしてもそこでやって行かないといけない場面があるとしたら、どういうふうに対処していけばよろしんでしょうか。

ありがとうございます:
 でも「自分がこの世界を変えてる、動かしてる」というのは、ちょっと傲慢かも知れないね。
 「自分は何にもできない」というのがいいのよね。それで「神さまのお手伝いができたら幸せです」というのがいいよね。だから、謙虚になって神様の手足に使ってもらうのがいいの。そうすると神さまが全責任をとって大きく動かしてくださる。だから、総理大臣になったら、個人の総理大臣の力がどうのこうのって関係ないの。

 謙虚な総理大臣だったらバックに八百万の神さまが働くの。一人の神さまがつくだけでもすごい能力発揮するのね、大きい働きがそこに加わってくるの。だから、謙虚さが大事よね。
 人をどうのこうの動かそうじゃないの。神さまが動いてくださってる、働いてくださってるっていう感謝があると、神さまが人を動かすのね。どんな人でも神さまだったら動かせるのね。

 神さまは人だけじゃないね、動物でもなんでも動かせるでしょ。神さまが動かしたら、みんな大きい働きしてくれるからね。「言っても動いてくれない、自分の思い通りになってくれない」って、それも勉強かも知れないけどね。だから「言って動かすものじゃない」というのを気づけばいいの。「思い通りに動かすもんじゃないんだ、「もう全て神さまの御心のままに」って。「神さまの最高表現を下ろす為のお手伝いさえできたらいい」というのがいいでしょうね。

参加者:
 その場合に、相手も相手なりに自分の思い通りにしたいと思ってますよね、こっちも話しを聞かないで、自分の思い通りにしたいと思ってますよね。そういう時はどうしたらいいですか。

ありがとうございます:
 どうしようもなくなってしまうわね。お互いがマイナスよね。足の引っ張り合いで、両方駄目になるね。

 神さまの最高表現を現実化するのが日本の政(まつりごと)なんよね、本当はね。その「政」となると、神さんの心をしっかりと生きるのね。それは「褒め讃えて、感謝して、喜ぶ生き方」なの。お互いを褒め讃え合わないといけない、感謝し合わないと。そして「みんなのお蔭で」って、喜び合わないといけないのね。「誉めて感謝して喜びの生き方」これがあったらもう必ず最高表現が現実化してくるのね。

 だから、今迄の政治の世界見てるとねえ、足の引っ張り合いでしょう。批難し合って責め合ってっていうね。褒めてないね、そうよね。それで感謝し合ってるかって、感謝してない、不足ばっかり言ってる。
喜んでるかって、喜んでないよね、苦虫を噛み潰したような顔してねえ、苦しがってる。
 だから、日本の政の生き方から、正反対の生き方を選び続けてるような感じよね。だから、ちょっと本来の姿に戻ればいいのよね。

 今の小泉総理は他のことをあまり批難しないでしょ、いいことよね、褒めるまでいかなくても、批難しないだけでもすごいことよね。他の悪口言うの少ないね。自分のしたいことは積極的に信念持って言ってる、そこがいいのよね。
 これがもうちょっと褒めあうようになったら、また感謝が深まればね。それでまた「幸せです」って喜べば、本当の政治になって行くと思うんですよね。早くなって欲しいんですけどね。

 でも、政治家から変えるというのは難しいね。下からよね、やっぱりね。国民がどんどん感謝の心を起すようになったら、上は勝手に変るのね。だから、感謝する人が一人でも増えたら、日本の国はどんどん良くなって行ってるのね。だから、みんなの感謝が小泉総理を変えているはずよね。プラスにプラスに変化させてるよね。だから、ちょっと少なくなったね、悪口の言い合いがね、ちょっとだけね。




 「思い」は言葉の後に付いてくる

参加者:
 ずっと聞いてましたら、「ありがとうございます」というところへどうしても行くんで、聞くことがなくなった、(はははは)難しいなあと思うのは、言葉の使い方は意識できるんですが、「思い」というのが、無意識のうちに思ってるということがあるんです。そこをどうしたらいいのだろうとなってくるんで、あんまり難しいこと考えずに、とにかく言葉でもっと出して「ありがとうございます」という言葉を広く自分の中に言うことなのかなあと思ってるんですけど。

ありがとうございます:
 その通りですねえ。「思い」というのは言葉の後についてくるのよね、言葉を積み重ねたらその通りの思いに変るんです。ただ、言葉と裏腹にいろんな思いが出てくるというのは、過去に積み重ねた、心に溜めた思いなのね。それは、今「ありがとうございます」を唱えてても浮かび出てくるのね。それが浮かび出た時に、それで消してもらうために浮かび出てるのね。だからどんな思いが出てきても、これで消されて行くという「ありがとうございます」で、どんどん消されてプラスに置き換えてもらってるのね。

 でも、言葉の通りに思いは・心は従ってくるんでね。だから、言葉だけを選んで積み重ねたらいいの。コロコロ変化する心はどうしようもないよね。でも言葉は選べるの、言葉を選んで心を支配するのね。

金沢の山岸:
 お便りを書く時に、私は「ハガキ道」ということで、ハガキを書くんですけども。そこに「ありがとうございます」という言葉をなるべく入れようとして、最初と終わりにシールも貼ったりするんですけども。そうやって「書く」ということが、自分もそうですし、それを受け取った相手さんにとっても、そういう神さまの光というんでしょうかね、そういうものなんでしょうかね。

ありがとうございます:
 心でずーっと唱え続けられたら、別に形はどっちでもいいような感じですけどね。でも、形の「ありがとうございます」もあることによって、また思い出して心に「ありがとうございます」を唱えやすいですよね。だからそういう助け合いになれば、それが大きく生きてきますね。「ハガキ道」も素晴らしいですね、はははは。(ありがとうございます)
 ありがとうございます。