1.不動心
2003.02.01
司会−『不動心』では、20数年前に「不動心とは何かわかりますか?」と尋ねられたことがありましたが、「『動かない心』ではなくて、青空のように澄み極まった何物にもとらわれない自由自在な心」であるというお話がありました。また、前回の時には「心の回っている時空の中心」という違う視点でお話があり、これからどのようにお話が広がってゆくかは分かりませんが、今日のお話の始めは『不動心』ということで、非常に楽しみにしております。ありがとうございます。−

 <不動心> 

 『不動心』とは、簡単に言いますと「揺れ動かない心」のことですが、これにはピンからキリまで無限の段階があります。そこで、本物・最高の『不動心』とは、「全体をひとつに捉える心、一大調和の姿で捉える心」といえます。これは、宇宙絶対統一神・天照大神さまをしっかりと感受できた状態・「感謝の極の心」で絶対に揺れ動かないものです。一方、浅い意味では、不動心という言葉で色々なものが出てきますが、それらも取り上げながら説明させていただきたいと思います。

 本当に「心が絶対に揺るがない」ということは、全体を捉えないことにはいけません。部分だけを捉えると、次から次へと視点・心を移していってしまい、心が揺れ動いてしまうのです。だから、「全体をひとつに見る」ということが、大きい意味での本当の『不動心』なのです。

 <宇宙絶対統一神>という言葉で天照大神を表現するのも、「神さまの働きの全体をひとつに統一した姿」という意味なのです。つまり、神さまの働きの全部を一大統一したときに、天照大神さまという姿を取るということです。そして、この天照大神さまというのは、「無限の輝きが、無限に一杯・・・!!」というような感じなのです。だから、「中心がひとつ」というわけではありません。中心が無限にあって、それらが無限の輝きを放っている姿。それら全体の統一単位であるということです。

 古事記の中には天照大神さまとツクヨミノミコト・スサノオノミコトという3神がでてきます。彼らはいわば、太陽と月と地球という感じです。太陽だけを見ていると、月と地球が視野に入らないですよね?つまり‘全体’というのは、「太陽と月と地球全体をひとつに見る心」ということで、太陽だけを見るのは、狭い意味での天照大神の捉え方になります。月も地球も中に飲み込んだ、大きい意味での天照大神さまが、本当の意味での天照大神さまとなります。

 ツクヨミノミコト・月というのは、太陽の光を受けて、闇を照らす働きを持ちます。今までの地球というのは、いわば「‘マイナスの闇’の世界を月明かりが照らしてくれている」という世界であって、様々の宗教の福音の働きもおよそそのようなものでした。
 つまり、太陽は輝いていなかった。しかしこれからは、太陽が出てきて、月と地球を飲み込むような大きな働きをなすようになり、‘本当の不動心の時代’になってくるのだと思います。

 本当の意味での『不動心』というのは、言葉では色々説明しますが、やはり、感謝の練習を積み重ねて、無限に深い感謝の心になりきらないと、分かりません。いくら、「太陽を感じた!」といってもね・・。
 例えば、地球で「太陽が輝いている!」と太陽の光を感じ、太陽という光体を認めたとはいっても、それはにせものだというのです。本当の太陽からやってきた光は、地球の大気圏で乱反射を起こし、擬似光体の太陽がそこで生まれるのですよね。地上の人はそれを見て、「あ、太陽がそこにある」と感じるのです。だから、「無限に輝いている」と感じたとしても、それはまだ‘本物’ではありません。

 その奥にまだトコロテン式にそういう無限の光体を現す働きが無限に続いており、その一番奥に本物が控えているという感じです。例えるとそういうことなのです。実はその全体をしっかり捉えないと、心・視点がどんどん変化するので、心が揺れ動くのです。浅い意味からいいますと、最初は、色々な想い−「あれをしたい・これをしたい・あれが欲しい・これも欲しい」というように、心がころころ変わるのです。そのように心をころころ変えているようではとても不動心とはいえません。‘心が消えた無心の状態’が深い意味での不動心になります。「死をも恐れない」といったような。

 つまり想いがないと何も恐れるものがない。想いがあるからこそ、それに執着し、「死ぬのが怖い」となるわけです。だから心が揺れ動き、不動心にはなれません。だから、まず第一段階では‘想いを消す修行’をして、不動心になろうとします。ただ、それはまだ、浅い不動心に過ぎません。それをどんどん深くしていくためには、やはり、『お祈りの行』が大事です。
 仏教でいうと、『空の心』になるということです。『空』というのは、『無』つまり何もないというのとは違います。『空』とは、‘絶対性・命の根源’を指し、「無限のプラス・輝きが一杯」という状態を示しています。だから、『空』を認め、本当にしっかりと捉えた状態−「空即是色・色即是空」という言葉がありますが、ちょうど、空が光源、そして色が光線というように、光源と光線とをひとつに捉えられたら、全体をひとつに見られるのです。それが本当の意味での「空の心―不動心」となります。しかし、空と色とをばらばらに見ていると、不動心にはなれません。光源はこちらにあるけれど、光線はあちら、というように見ていると、光線にはマイナス−闇が広がっているように見えるのです。だから、仏教の『空の教え』というのは、‘顕れ’と本体の神さまとがひとつに見えること、つまり「すべて神さまの顕れである」と捉えられた状態を本当の『空の心』として、目指しているわけです。『悟りの心』というのはそういうことなのです。

 そして、『不動』というのは、まったく動かない‘無動’ではありません。不動と無動では違います。『不動』の方では、中身が無限に動いています。例えると、独楽(コマ)の中心といった感じです。動いていないように見えるけれども、動いている。だから、無限の動きがあって不動であり、そこに神さまの働きという絶対の中心の座があるのです。神さまの心が本当の不動心なのです。そこから顕れてくるから、無限の段階があるのです。
 ちょうど‘不敗(負けない)’という言葉がありますが、これは、‘無敗’とはちょっと違います。どういうことかというと、例えば、昔の剣の達人であれば、‘3本勝負’のうち2本をとって1本を譲りました。負けるのではなく、譲るのです。相手を励ます意味もあるし、また、相手をしっかり見るという意味もありました。自分の自由意志で、わざと「勝ちを譲る」という感じです。それでも、3本勝負であれば2本とれば勝ちということで、そういう勝ち方が‘不敗の勝ち方’であったわけです。
例えるとこのように、不動心というのは、動かない心のことではなく、「無限に動いているが、心は揺れ動いていない」ということです。

 因縁因果;不昧因果・不落因果・不動因果

 また、『因縁因果』という言葉があります。この中には『不昧(くらまさない)因果』と『不落(落ちない)因果』というものがあります。『不昧因果』というのは、「因縁因果は厳然とあり働く」ということで、例えば「悪いことをしたら、必ずその悪い結果がおこる・目には目を、歯には歯を」というような感じです。一方、『不落因果』とは、そうした悪い過去には関係なく「マイナスには絶対に落ちない」ということになります。つまり、因縁因果の法則にも、『プラス・光の因縁因果』と『マイナス・闇の因縁因果』とがあるのです。プラスの方では、いつも神さまの中から新しいものがどんどん降っているので、「過去は無関係・過去には一切しばられない」ということです。これがプラスの光の因縁因果であり、『不落因果』となります。しかし、過去に捕らえられると、「過去にこうしたから、このような結果が生じる」といった、マイナスの因縁因果となります。これが、『不昧因果』というものです。
 これらを別々に見ていると、心境によって不落因果・不昧因果の世界を行き来する、つまり心が揺れ動くことになります。そこで、「両方をひとつに見るためにはどうしたら良いのか?」ということですが、これが『不動因果』というものになります。ひとつに見るということは、一元に見るということですから、不落因果だけを見るのではなく、不昧因果の一番下・地獄のドン底まで降りなくてはいけません。そうしてこそ、不昧因果の奥に不落因果があって、全体をひとつとして捉えるという見方ができるようになるわけです。ただ、この光一元に見るという捉え方は、非常に難しく、一番謙虚な心になる必要があります。

 例えば、夏の暑いときには、冷凍庫に入っても平気でしょう?(笑)このように、一番下まで降りるためには、神さまの無限の輝きを感じとらないといけません。「これ以上の幸せは無い」という状態になったら、地獄のドン底まで降りても平気なわけです。感謝を深めて、神さまをしっかり感じ取れるようになれば、これ以上の幸せはありません。そうすると、恩返しの心・報恩の心が出てきます。その心が謙虚に下へと降りられる心となるのです。

 本来、人間とは、過去に無限の恩恵を受けています。その恩恵に気づいたら、今日一日くらいは恩返しに生きようとするでしょう。神さまから無限の幸せを与えて頂いたという恩恵に気づいたら、「たとえこの肉体の命がなくなっても、地獄に堕ちて無限の苦痛を味わっても、そんなのはへっちゃら!」というようになるのです。
 恩返しとは、そういうものです。無限の恩恵を受けて、どのように恩返ししようかと考えても、実際は万分の一も億分の一も恩返しできるものではありません。それでも、なお、恩返しをしようという心が起きるのです。この時にどのように生きるのか?ということが問われるわけです。プラスだけを返すといっても、‘神さまから頂いたうちのほんの一部’をお返しできるだけ、たいしたものではありません。それでも「まだ足りない」から、次は自分をマイナスの立場におくことによって、プラスを生み出してお返しをするということになります。

 例えば、神さまに頂いたお金のうち、自分が使った後の残りをお返ししても、これはたいしたことではないでしょう?でも、自分の命を投げうって、無限の地獄を味わい、それをお金に替えたとしたら、それはプラスを生み出したということになります。それでもなお、神さまの恩恵の万分の一にも億分の一にも足りませんが。本当の幸せを与えて頂いていると感じると、自然にこのような気持ちが出てくるのです。これが『大犠牲精神』となります。これは例えばイエスキリスト様でも同じことです。神さまの愛を幸せ一杯に感じていたからこそ、『大犠牲精神』が生まれ、十字架に架かっても平気だったわけです。

 ところで、『武士道精神』というのも同じようなものになります。『武』というのは、「相手をやっつけるための矛を止める」ということです。争いの想いを消し去るということです。つまり、武とは、大慈愛の心ということで、そのような心を生きるのがさむらいというものなのです。
 「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という言葉があるように、自分を‘死にきった人’として見ているのです。通常、相手を攻撃するというのは、「死ぬのが惜しい」という恐怖心からくるのです。「生きているから命を取られるのが怖い。だから相手を先にやっつけよう。」となるわけです。
 ところが、最初から死んでいたら、これ以上死なないわけですから、命を取られることもないから、相手を攻撃することもありません。本当に死にきった心であれば、無抵抗になります。これが武士道の真髄となるのです。本当は神さまから命を頂いて、一瞬一瞬を生かされている。そして、一瞬一瞬を死にきらないといけないのです。一瞬一瞬に新しい命を頂いて生かされているのですから。そこで、恩返しの心という意味では、一瞬一瞬死にきる−頂いた命をお返しするということが、本当の恩返しになるわけです。それでも神さまは新たに生かして下さる。本当は、一瞬一瞬「ありがとうございます」と感謝行をするのも同じことです。

 一瞬一瞬死にきって、過去の全てを捨て去るのです。日本にこの『武士道精神』がずっと続いているのは不思議ですが、この心に生きることが『不動心』につながっていくわけです。一旦一旦死にきれば、怖いものはありません。心が絶対に動かないからです。また、一瞬一瞬新たに命を受けなおして死にきれば、想いが消えてなくなるのです。ころころ変化する心というのは、自分の自由意志にはならない・奴隷のように思いどおりにならない心です。
 しかし、‘一貫性のある心’とは、神さまの心・感謝の心を受けた心というのは、ひとつの目的を持って、動きます。これもまた、『不動心』といえます。常に大きい目的を持って、生きている心です。小さい目的や目標であると、「今はこの目的で生きているが、次は違う目的を持って生きる」というようであれば、心の視点が変わって、心が揺れ動いてしまう。

 人生の目的・神さまの目的

 従って、全ての大小の目的を包含する、大きな目的を持ってそこに統合されなくてはいけないのです。人生の目的というのは、そういうものです。人それぞれに目的があるとは思いますが、本当の目的−つまり「神さまの目的を自分の目的にすること」に至らないことには心が安らがない。神さまの目的の中に、全ての自分の目的が一大包容されているかどうかです。
 神さまの目的をしっかり捉え、それを自分の目的にしていくと、そのひとつの目的に向かっているだけなので、絶対に心が揺るぐことはありません。ちょうど、光源に心をずーっと向け続けるというような感じです。

 宗教の教えは色々ありますが、どれも、その一部分なのであって、それらを順番に勉強していったら迷います。「これもいい!あれもいい!でも、どれをとっていいのか・・・?」となるわけです。
 そこで最後は、全てを中に持っている大きな教え、つまり神さまの教えの中に入らないといけないのです。神さまの教えとは、この地上に降りてくるいろいろな教えなど眼中にはないものだし、また、この世に言葉となって顕れた教えでもたいしたものではなく、大自然に見えない姿で響いているのが本当の教えというものです。
 これはこの世だけではなく、無限のチャンネルの世界に神さまの教えは鳴り響いているのです。その全体をしっかりと捉えるような教えを選ばなくてはいけません。神さまの教えとはそのようなものだから、そこに心を向けていくと本当に迷わなくなります。だから、いつも神さまの働き全体をしっかりと受けて生きてゆけるかどうかということです。

 感謝行・感謝の心

 そこで神さまの働きを全て受け取るという『感謝行』が非常に大切になってきます。これを練習していただいて、しっかりと全体をひとつに捉えていただきたいと思います。難しくはありません。難しく考えるからこそ、色んな修行方法を編み出しては順番に上っていこうとするのですが、難しくしたのは人の方です。神さまは最初から「ありがとうございます」と受ければよいと、易しくしてくれているのですから。

 ちょうど、人生はすごろくに例えられると思います。さいころを振って出た目の数だけ進む。しかし、上がったところにまた「幾つ戻りなさい」というのがあったりするわけです。また、人生においては、感謝の心で生きるのと、想いの心で生きるのとでは正反対となります。感謝の心で生きると、神さまが「幸せへの最短コース」とを選ばせるので、さいころを振ると、必ず上へ上がるようになっています。けれども、想いの心で振ると、「1進んでも、3戻る」というように、必ずマイナスへマイナスへと堕ちるようになるものです。
 従って、「ありがとうございます」という祈りの言葉は、神さまの助けを的確に受ける言葉ですから、必ず最短コースで上・本当の不動心へと導いてくれるのです。その途中の過程ではすべてプラスに変化するようになっています。

 この世には、神さまの教えが模型・遊びとして顕れています。例えば、将棋や碁などもそうで、色々な遊びが人生を表しています。いかに幸せな人生の最短コースを歩むかという点でね。みな勉強なんです。
 強い人は、みな、全体をしっかり捉えて、一番必要な手を打っていくといいます。逆に下手な人は、目先だけを見るでしょう?それでも「歩でも取られたら困る」ということで逃げ回るわけです。‘捨て駒’なんて、できませんよね。王様取られても角を守っているからね。しかし全体を見ると、一番必要な良い手が浮かぶわけです。

 最後の結論として、『不動心』というのは、「感謝を深め、神さまの働きの全てを新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限にいっぱいな姿を、地獄のどん底から光一元で仰ぎ見て受ける心」といえます。この心ばかりは絶対に揺るぐものではありません。本当に「ありがとうございます」と感謝ばかり湧き上がってくるようになります。そこで、不動心というのは、感謝の心と置き換えてもいいかもしれません。
 以上で不動心のお話を終わります。

 宇宙が自分

質問 
 自分ではちゃんと分かって、いつも朝から晩まで、ありがとうございますと『感謝行』
を行っているつもりなのですが、時々‘七転八倒しながら人を罵っている夢’を見て、朝起きた時に「自分はぜんぜん分かってないのかなあ」と思ったり、今回の不動心のお話などの様にすごく分かりやすく教えて頂いていて、後で何かあると頭が真っ白になり大騒ぎしてしまう自分がいたりします。本当に情けなくなってしまうのですが、どうしたら良いでしょうか?

回答
 本当の自分、つまり人というのは、全体・神さまなんです。だから、全体を捉えないと、本当の意味での感謝も深められないし、『不動心』にはなれない訳です。多分、今は部分的に小さく捉まえて「これが自分」というように思い込みすぎているのでしょう。この‘肉体を中心とした自分’に執着しているのです。
そこで、「宇宙が自分!」と言えばいいのです。そのように大きく思い改めると、視点が全体に広がるでしょう。そしてそこには無限に輝いた、無限に深い感謝の心の自分があるじゃないですか。また、下の方には、浅い感謝の自分があるし、不足を言っている自分があるかもしれない。要するにそんなものは取るに足らないわけですよ。

 卍について

質問
 『卍型』というものと、神との関わりというものを教えてください。

回答
 卍とは仏教で、キリスト教では十字ですよね。これは回転すると卍になります。そして高速回転すると円になる。
この十字というのは、‘縦と横の交差’という意味で、単純に模型的に表したものです。本当は、全てがらせん状にプラスとマイナスが放射されて組み合わされているものです。そして交わるときは必ず十字交差になっています。その宇宙創造の働きを簡単に表したのがその十字なのです。「中心があって、そこから放射され、またそこから色んなものが組み合わさって・・・」といういみです。
卍の方では、少し回転しているということで、らせん状の変化という要素が入ってきますよね。

質問
 10年ほど前に、空一面に大きな卍が回転し、天空に消えてゆくのを見たことがあります。この『卍』と、「ありがとうございます」というのには何か関係がありますでしょうか?

回答
 はい、「無限の無限の輝きがいっぱい!」というのは、常にらせん状に卍で放射されているのです。「無限の無限の卍が無限に無限にいっぱい」というのが、「ありがとうございます」、というわけです。

 皆が自分なんだ

質問
 親しい人の間であれば、言わなくても想いが通じたり、自分が想っていることを相手が言ったり、というようなことが良くあると思うのですが、やはりこれからは、そういったことがどんどん増えて行き、特に親しい人に限らず皆が全体的にそのようになるのでしょうか?

回答
 「波があったから感じあえる」ということもあるでしょう。けれども波が合わなかったら感じませんよね。全てと波を合わすというのは、神さまの心と波を合わさないことにはね。神さまはいつも全体と波を合わせているから、感謝をして神さまの心に合わせていくと、全体と波を合わせる−というよりも、「自分の中に全体が入ってくる・自分の中に全部がある」という感覚で分かってくるようになるということです。部分的に波が合うだけでは、その部分の波しか感じ取られません。

質問
 それなら、そのような状態になったら、全体が自分の中にあるということですか?
回答
 そう、「全部が自分の中にある」という感覚でないと、本当の意味では分かっていませんからね。「自分と他とが別々」というようでは、全体がわかりません。でも、その人が自分の中に全部あると感じたら、その人のことが全部分かりますよね。神さまの分かり方というのは、そんな感じです。「全部が自分の中にある・全てが自分なんだ」という感覚で、全てを見通しておられるのです。その神さまの心を受けるのが大事です。部分的に心を合わせるというよりも、神さまの心を受け取る方が良いかもしれません。そういう意味で、「ありがとうございます」と唱えて、神さまの心をすっと受け取るのです。そうすると、必要であれば、必要なものを感じるのです。逆に、全部を感じてしまったら大変でしょう?(笑)

質問
 あまり要らないものは見ないほうがいいということですね?
回答
 そう、必要なものだけね。必要な時に必要なだけ感じるのがいい。そういう意味で、神さまにお任せするのがいいのです。

質問続き
 それでは、10人いる時に、それが全部自分の中に入っているような感覚になったら、もう全体の調和が取れているということですか?

回答
 そうですね。「皆が自分なんだ」というくらいが良いですね。


 UFO

質問
 一週間くらい前に、富士山のそばでUFOらしきものが飛んでいるのを目撃しました。そのUFOというものが、一体何をしにきているのかということを色々考えたりするのですが、そのあたりはいかがでしょうか?

回答
 UFOというのにも、ぴんからきりまでありますよね。本物もあるし、偽者もある。進化した星から、地球へやってきて、助けに来るというのは本物だと思います。それはかなり科学力も優れており、次元の高いものです。まず、その人格が高いですよね。「神さまの心が自分の心であり、宇宙が自分の家なんだ」という宇宙大の心を持っている。そのようなところに立っているのが本当の宇宙人ということです。地球人・火星人というのではなしに、「宇宙が自分の家であり、自分自身である」というのが本物でしょう。そこで、UFOがすっと空間を越えてくるように、心で自由に操るのです。
「何のために来るか?」というと、‘心の指導’です。心を清める、つまり皆の想いを消して、本当の輝いた心を引き出してくれるのです。そのために、地球にやってきます。でも余り、余計なおせっかいはしませんよ。(笑)真剣に祈って、感謝行をする人だけをしっかりと助けてくれるのです。

質問
 ある本で読んだのですが、そういった「知的レベルの高い人たちが、いくら科学技術等を持っていても、結局神さまの(不明)がないと、地球人には何もすることができない」と書いてありましたが・・・。

回答
 そうですね。代わりに何かをして上げても、後でマイナスになるということでしょう。例えば、「戦争で大変だ」という時に、一時的にストップをかけて武器が動かないようにしたら戦争にはなりませんよね。でも、それは一時的な助けにすぎない。本当は人間の愛の心を引き出して‘争う心’をすてなくてはいけないのです。だから、少し手伝うことはできても、根本の解決にはならないから、神さまも宇宙人も地球人が‘本当に深い愛の心’になるのを待っています。そのための手助けを優先的にしてくるのです。感謝をして立派になりたいという人に対し、その心を清めてくれる・光を投げかけて想いを消してくれるのです。少しくらいはご利益があるのかもしれませんが、(笑)そんなことはどちらでも良いという感じで、ちゃんと見守ってくれているのです。

 幽体離脱

質問 
中学生くらいの時から、幽体離脱などをできます。やはり、自分の状態が変わってくると、離脱の状態も変わってきて、最初は幽体としての離脱だったのですが、次第に「形の無い状態」になってきます。(不明)

回答
 通常「自分=肉体人間」肉体が全て、という捉え方が多いですよね。つまり肉体が死んだら自分も消えてなくなるという見方です。けれども、魂があるということに気づいた人は立派なものです。「魂である自分を磨くために自分の人生がある」という人は、どんどん自分を磨こうとします。そして心を高い次元へ向けて吸収し、立派なものにしていこうとするわけです。その段階は無限にあり、そうした魂という視点で自分を掴んで下から積み上げるような生き方よりも、神さまから一瞬一瞬生まれてくる自分を受け取りなおす方が早く変わります。従って、「肉体も魂も自分ではない」というくらいが良いですね。一瞬一瞬に神さまから与えて頂く「無限に輝いた自分」こそ本当の自分なのであり、その自分を生きているということです。そうすると、‘天から舞い降りる様に’魂の自分・肉体の自分を自由自在に動かし、変化させてゆけるようになるのです。

質問
 そうなると、自分の個人的な意思ではなく、もっと大きいものにより動かされるようになるのですか?

回答
 そうですね。神さまの心・意思を自分の心・意思として受けて動くのです。そこで本当の個性というものが出てきます。

質問
 例えば、ありがちなことを考えたりしていた時に、自分では自覚はないのですがそこにいた人が「あなた来たわね」なんて言ったりして。確かに良く考えてみると「そういえばその場所やその人のことを考えていたな」と思い当たることがあります。

回答
 そうですね。皆そうです。波が合ったら感じるのです。幽体離脱しやすい人は、自覚せずして‘心をあの世へ向ける練習’をしっかりしているということです。霊媒体質的な人は皆そうで、あの世をしっかり見つめる練習をした人が多いのです。
 しかし『お祈り』はまた別の話になります。『お祈り』とは神さまを新たに新たに受け入れる生き方ですから、もっと楽ですよね。(笑)人と人とがテレパシーで心が通じ合えたら良いとは思いますが、‘波の合ったところ’としか通じないという限界がありますよね。また、‘低い心の波’であれば、いくら通じたところで低い波ばかりを感じますから、逆にそれはマイナスになる怖いことです。だから、「ありがとうございます」と神さまを感じて、そこから受けなおす方がいいでしょう。そうすると、必要なところから善い波ばかりを感じるようになってきます。幸せがどんどん大きくなるような感じでね。

 無力感を感じたとき

質問
 新聞やテレビを見ていると、三月にアメリカがイラクで戦争を始めるなど…(不明)それを見ると、やはり何かしなければならないと思うのですが、無力感を感じてしまいます。けれども、おじさんの本を読むと、具体的に、例えば国に対し反戦運動をやるというよりも、人類の‘放送’(番組)面を打ち消さない限り、そういったことは…(不明)。やはり、お祈りするということが一番の力である、と書いてありました。「お祈りをする」ということですから具体的に肉体的な動きなどというものはそのまま放っておいて良いということなのでしょうか。そのあたりをお話頂けますでしょうか。

回答
 そうですね、本当の肉体・魂・霊的な働きというところからいうと、霊的な働き、つまりお祈りの働きが一番大きくなります。肉体的に夜も一生懸命働いたところで、大したことはありません。反戦運動を頑張っても、人の心を変えることはできません。けれども、お祈り・霊的な働きは、人の心をがらっと変えます。まず、争いの想いを消してあげたら争わなくなりますよね。本心の輝いた心を引き出してあげたら、愛が深くなって、皆を許す方向になってきます。問題は、皆が想いを消しきれないということです。過去を怨んで、マイナスをどんどん積み重ねるわけでしょう?過去を掴んでおらず、今の一瞬一瞬生きるのであれば、絶対に争いません。本当はどんなマイナスでも、マイナスには見えないのです。けれども、過去を掴みすぎて離せないのです。それは想いの心の習性なのですが。想いを積み重ねた人は、過去の全てを掴んで離せていない、だから、怨み通しており、過去の怨みによって動かされているのです。

 だから、戦争が悪いとは思っていても、戦争に駆り立てられていくような心が出てくるのです。それをいかに正当化しようが、皆が過去の想いの奴隷になってしまっているのです。したがって、過去の想いを消す方法はやはり、お祈りしかないのです。自分も含めた、人の想いを軽くしてあげる方が良いですよね。そうして、心がプラスへプラスへと変わってきたら、番組も上へ上へと選びなおされてきます。戦争の番組なんてマイナスの番組ですよね。やはり自由意志をプラスの方へ向ける方が良いのですが、その人がマイナスの番組で選んでいるのだから仕方ありません。最初は想いに負けて、奴隷状態になっているから、自分ではどうしようもないのでしょう。神さまはそれを一生懸命助けようとして下さっているのです。感謝する人が「皆の想いを消す」という大きな働きをし、プラスの方向に向かせるようにすれば、一夜にして変わるかも知れませんよね…。

 もし、戦争が起こったとしても、その惨害を軽くするのもお祈りです。絶対に戦争を止めるということが無理なのであれば、惨害を少なくすれば良い。ただし、皆が一人一人自由意志で番組を選び、しっかりと現実化しますから、地獄番組を引き出す人があってもそれは自由なのです。そして、それが一概にマイナスばかりだとは言えません。それを体験することによって、色々な学びがあり、勉強になっていますから、長い目で見ると、それもまた神さまからの勉強ということになるでしょう。

 ‘部分だけ’を見ると捉われてしまい、可哀想に思えたり、マイナスに見えてしまうのですが、全体を見て、「全てが神さまの大きな番組の中に置かれている」と見ると、神さまが一人一人の自由意志を生かしながら、「幸せへの最短コースを歩ませよう」と、懸命にあの手この手を使って語りかけて来ます。ですから、その点については心配ないでしょう。

−不動心終り−



 2.神さまの話

 『本物の神さま』の特徴としては、唯一無二のものといえます。絶対性があり、全てであり、完璧きわまりないもの。その神さまの働きは、通常大きく5つに分けて説明するのですが、これはあくまで説明のための便宜的なものであって、本来神さまというのは分ける訳にはいきません。無理やり分けて順番だてて説明しているだけであって、神さまはもともと唯一無二のひとつですから。また、「絶対性がある」というのは、比較できない、つまり全くひとつであり、全てがそこにある−神さましかない、ということです。さらに「完璧極まりない」というのは、どこにもマイナスが無いということです。こうした本当の神さまを捉えるのが、「ありがとうございます」という感謝行です。「ありがとうございます」と唱えているうちに、神さまと同化・一体化していき、神さまがすっと分かってくるのです。

 ところが、感謝を忘れると、‘神さまの全体’ではなく時間的・空間的な部分だけを掴んでしまうことになります。そして、色々なことをして見たくなる、つまり比較・優劣をつけたくなる訳です。そうするとまた、迷ってしまいます。従って、もともと根本的にはひとつなのです。そういったことは他にもたくさんあります。霊と体で‘霊体一如’や、物と心で‘物心一如’など。みな『一如』という言葉を付けることで、正反対のものがひとつとなっています。神さまの特性は無限にあって、それらが両方に振り分けられた場合に、「善と悪」・「生と死」・「光と闇」・「時間と空間」などとなります。全ての要素がこうして両極に振り分けられていくのですが、それらはひとつであって「どこで切り分けるか?」といっても分けられるものではありません。例えば、人間の肉体についても、表と裏、内と外・右と左などと分けられません。従って、神さまの働きも、細かく分ければ無限に、そして大きく分ければ幾つかに分けられる、しかし、「どこそこで切り分ける」というところはありません。全体をひとつに捉えるしか方法はないので、「部分的に少し理解してみたい」と思ってもできなくなります。そこで人は勝手に、自分の都合の良いように切り分け、順番に理解して行くのです。

 本当は全体を一瞬・一瞬、新たに受けなおして、全体を同時に把握するのが良いのです。ところが、その全体像というものが大きすぎて、なかなか受けきれないといったところでしょう。それは能力不足かもしれません。しかし、その時は部分を時間的に切り分け、長い時間をかけて理解して行けば良いのです。

 本当は神さまの働きとは「無限の輝きがいっぱい」という姿で、一瞬一瞬新たに出てきます。つまり無限分の1秒で、輝いた新しい宇宙が顕れているのです。従って、その無限分の1秒で捉えられたら、時間は要らないということですよね。常に神さまの無限の輝きが永遠に続いており、それを受けなおすだけなのですから。ところが、それができないというので、‘無限の部分’に細かく切り分けるわけです。それを1つ1つ、全体までを見るのにどれだけ時間がかかるかということです。やはりたくさんの細かい部分に分ける程、時間がかかります。その時間というのも、自分がいかにそれを眺めて体験し、味わっているかということにかかります。その連続が時間なのであって、時計の時間は関係ありません。

 つまり、その一瞬を捉えられたら、無限分の1秒ということになります。小さい部分しか捉えることができなかったら、その時間とは永遠に長くなります。神さまの『極楽世界』というものは無限に深く、時間は要りません。無限分の1秒で全てを理解できます。しかし、地獄の世界というものには理解がありません。1つか2つ、チラッと見える位でしょう。そこで自分が自分が見て行こうとすると、無限の時間がかかる。つまり、地獄では時間が無限に永くなるのです。
 この世はその中間ですね。‘無限の輝きがいっぱい’という一瞬の神さまの最高表現を受け取るためにはこの世でも無限の時間がかかります。感謝の心でも難しいくらいですから。たくさんの神さまからのプレゼントを受け取れる程良いのです。そうすると時間が経つのを忘れるくらい、時間のサイクルが早くなります。楽しい時は時間が経つのを忘れますよね?
 けれども、例えば仕事においても、いやなこと・疲れている時は遅く感じますよね。それはやはり、受け方ひとつなのです。プラスに受けたら時間が短縮されます。つまり自分自身が意識的にプラスを発見することが必要なのです。感謝することによって気づきが増えてきます。そして無限に時間を短縮することができ、そこは無限に輝いた極楽世界になるのです。

 従って、一瞬一瞬を生きることが必要なのです。神さまというのは、全体を1つに捉える見方でないと分かりません。想いの心で部分を掴み、「これは自分・これは他人」などと切り分けている間は何も分からないのです。真に感謝の心で神さまの心を受けなおし、「全てが自分なのだ」というくらいまで至らないと本当の姿が感じられません。神さまというものは絶対であり、底知れぬものですから。例えば、海を絶対とすると、波は表面です。しかし、波と海は切り分けられません。

 ただ、波は海からどんどん生まれてきます。また、波と海とを比較しても、海の大きさ・深さ・量も比べものにはなりません。絶対と比較したら、一部とはないのも同然です。「光源と光」という例えでも同じです。光源は無限の光を生み出すものです。そこから顕れた光も素晴らしい表現ではありますが、一時的なものに過ぎません。神さまというのはいつもその全体なのです。海であり波であり全体。そして光源であり光であり全体なのです。皆さんがその全体をどのような立場から見るかです。自由自在に立場を変えられますから、表面からでも、中からでも、さらに、大きく斜めの立場から・小さい部分からでも見られるというわけです。けれども、やはりいつも全体を把握しながら部分を見る方が良いです。部分に捉えられてしまうと迷ってしまいますから。あるいは忘れてしまうのです。つまり感謝がなくなってしまうのです。

 過去・現在・未来という時間とは本来はひとつのものなのです。無限の時間の一瞬を捉える人は、全てが分かります。しかし、現在をつかんだら、過去も未来も分かりません。本当は全ての時間を一瞬に捉え感じることが本物なのです。そうすると、この世の体験談など、無限に輝く一瞬の中の、古い過去の残像のひとかけらくらいにしか見えません。これは‘捉えられた人’には気づかないし分かりません。
 だから、感謝の心で神さまの心を受けなおし、神さまの心で感じられるようにしなくてはいけません。‘感じる’というのは、波が合わないと感じられません。部分を掴むような‘想いの心’であれば、それと同じような波長の部分的なもの、例えば、過去のある一時期等しか掴めません。
 あるいは、現在だけ・未来の一時期だけかもしれません。つまり、想いの心では断片的・一部しか掴めないし、空間的なものであっても、自分がこれと思うものしか掴めないのです。地球を見ても、素晴らしいものは無限にいっぱいあるのですが、それに気づかない・感じられない。想いの心というものは、自分にとって都合の良いものしか掴まないのです。例えば、花が好きな人には花しか見えない。他のものがあっても、眼中に無い。
 つまり、心に受け取られず感じられていないのです。また、猫の好きな人では猫ばかりを見ている。(笑)他に人がいようと関係ないでしょう?お金の好きな人でも同様です。

 想いの心では、波長の合ったことしか受けないのです。プラスの想いであれば、プラスを感じますが、マイナスの想いであればマイナスばかり、例えば嫌なこと・きらいなことであればそればかりを掴みます。マイナスの想いで生きていたらいつもマイナスで感じるし、例えプラスを掴んでも大したことがないように感じるのです。
 従って、そこで必要なのはやはり『感謝の心』です。神さまから一瞬一瞬に与えていただいている、無限に輝く新しい心です。この神さまからのプレゼントをしっかりと自分の中に一瞬一瞬受けなおすことに価値があります。つまり神さまに喜んで頂けるのです。神さまは与えてばかりでしょう?無限のプラスばかりを与え続けているのです。それを受け取るだけなのです。ところが過去の1つだけを掴んで「これで結構です」などと満足しているというのは、謙虚でも何でもありません。「少しもプレゼントを受け取ってくれない」と神さまが嘆かれることになります。受け続けることに本当の素直さ・謙虚さがあるのです。マイナスを数えたり小さなプラスを数えている間はまだ傲慢といえます。「新しい無限のプラスがいっぱい」と受けなおして初めて感謝の第一歩を歩みだしたといえます。

 「ありがとうございます」というのは感謝ではないのです。据え膳と受け取って感謝なのです。だから、感謝とは幸せで楽しいものです。ただ口先だけで「ありがとう」と言っていても、感謝にはなっていないかもしれない。本当の感謝の心は無限に大きく深く連鎖反応的に膨らむものです。そこで全てに感謝が行き届き、神さまの全体をしっかり捉えられる。
 つまり、「これこそが、神さまの顕れである」と捉えられるようになるのです。神さまの働きは、光で言うと、色々な系統の無限の働きに分かれます。例えば知恵の光・愛の光といったように、違う色をしていると見た方が良い。無限の種類の光が織り成す光の彩模様の姿、これが本当の意味での神さまの最高表現の姿なのです。本当の光の色と物体の色とは違います。同じ色でも、物体ではなく、本当の神さまの光の方を感じとってこそ、真の感謝となるのです。
 現実の物質界に対しての感謝では‘この世への執着’に過ぎません。しかしこの世が輝いて感じられてきたら、それは本物の感謝といえます。「ダイヤモンドだから輝いている」ではなく、砂粒1つ、石ころ1つ・原子の1つが無限の素晴らしい輝きを受けて放っているのです。このように感じられてこそ、感謝なのです。つまり全てが神さまの顕れなのです。

 従って、そうした神さまの光の働きの全体像をしっかりと捉えることです。宇宙大の打ち上げ花火がボーンボーンと上がっているような感じですね。(笑)無限のプラスマイナスの統合の、素晴らしい花火が一瞬一瞬に輝き続けている。それを「ありがとうございます」と確認するのです。いわば「神さまの表現を確認する」ことが感謝なのです。認めるということが大切なのです。最初は想いの心で「これを見たい」と願い、条件付の「ありがとうございます」を唱えるのですが、これはまだ、‘願い事としての感謝行’であって‘感謝の心での感謝行’には至りません。
 あるいは病気の人が「治して欲しいからありがとうを唱えてみようか」というようなものです。これでは入り口にも入られず、扉の周りををぐるぐると回っているようなものです。ところが、真の感謝に入ると「『無限健康』(;病気などどこにもないこと)をありがとうございます」となり、完全健康ではなく『無限健康』の光を感じ取れるので、「ありがたい」ばかりの「ありがとうございます」となってくるわけです。

 過去の姿や現実の姿などは捨て切って、神さまだけが見えてくるのです。現実が神さまの顕れなのではありません。一旦現実を捨てきらないと、‘神さまの顕れとしての現実’は見えてこない。例えば[般若心経]の教えである「色即是空・空即是色」を本当に分かるためには、光源と光とを一体化して見てないといけない。つまり光源をしっかり捉え、‘神さまと神さまの顕れ’とが1つに見えたときが本物なのです。般若心経の教えでは、ここへ至るまでに「ないない尽くし」つまり一旦は全てを否定しつくしています。この世もあの世も何もかも全てです。そこで神さま−光源をしっかりと見つめると、神さまの顕れが輝いて出てくるのです。これが真の意味での正しい受け方といえます。

 従って、この世に対し、一旦は「目を瞑り、耳を塞ぎ、口を閉じ」なくてはいけません。「見ざる・聞かざる・言わざる」です。仏教の修行でも、小僧さんがお寺に入って最初にする修行もこれなのです。そこで真理の教えを受けて、仏様をしっかり見つめ、声を聞こうとするようになるのです。そうして、次第に仏の真理の言葉だけを口ずさみ、仏様に心が合ってくる。この世をつかんで「ありがとうございます」では、真の意味での神さまの大きな助けを受け損なうという意味で、損をしているといえます。
 そうすれば、純粋に唱えて得をした方が良いでしょう?(笑)想いの心で多少得を出来たとしても、それの万分の1・億分の1かもしれないのですから。‘神さまを感じるための感謝行’というのは、純粋・無心に行うものであって、‘自分の願いを聞き入れて頂くための想いの感謝’ではないのです。どちらが、大きいですか?神さまを感じる方が幸せも無限に大きいですよね。
 従って、神さまを常に感じ取ることが大切です。神さまは「全てがひとつ」ですから、どのような立場・角度から捉えても、それを全体として捉えるのであれば、「幸せいっぱい、大丈夫」となるわけです。

 このように神さまを全体・ひとつとして捉えるという見方は今までありませんでした。けれども、最後に、神さまが皆に分かるように「ありがとうございます」という言葉を浮かび顕せて下さったのです。この言葉こそが‘神さまの全体’を捉える真の言葉だったのです。  
 各種の宗教団体では様々の神仏が説かれますが、それらはあくまで‘部分的な働きの神さま’の名前であって、全体ではないのです。
 従って、ただ「ありがとうございます」と無心に純粋な感謝の心そのものになって唱えておれば神さまの方から入って来て下さる。他には何も要りません。
神さまの話はこのくらいです。

−神さまの話終り



 3.夢の話

 夢と言ってもいろいろな夢があるのです。霊夢という、背後に守護霊さん守護神さんが必要があってヒントとして霊夢として見せて下さります。いろいろな発見発明するときもそうですね、霊夢として見せてくださるのです。いろいろな指導もそうです。それには深い意味があるの。その時ははっきりと焼き付いたように覚えている。それでいろいろと勉強させてもらえる。また、予知夢というものも、夢で見た通りの現実が出てくる・「ぴったりあたる」ということから怖がる人もいるかもしれません。しかし、予知夢を見た人でも、お祈りをできる人についてはそれは必ず変化します。つまり、お祈りすることで、「自ら変わりなさい」、しっかりと「プラスへ変えなさい」という意味なのです。

 予言も同様です。「地球が滅びる」というようなものもたくさん出てきております。予言の内容が例えうそではなかったとしても、お祈りすることによって全てをプラスに変化し修正することができますから、予言も予知夢も何の心配も要りません。どんどんお祈りをすれば良いだけです。

 他に、色々な雑念の様な夢をたくさん見ることがあります。これは、守護霊様の「お清めの働き」と見れば良いでしょう。通常は、心にあるものは形に出すことによって消えてゆくのですが、これを現実に顕す前に夢の中で形に顕して消して下さっているのです。つまり守護霊様は、その人の心の中の全体を見通し、どのようなマイナスが溜まっているかを分かっておられるから、夢に押し出して消してしまうのです。従って、マイナスの悪い夢を見れば見るほど「得をしている」ということになります。(笑)

 ただし、通常夢で覚えているのは、起き掛けの時のものだけです。本来は寝ている間中ずっと守護霊様はその人の運命を夢の形で修正し続けています。これを元に、起き掛けに少しだけ記憶に残ったものが夢として感じられるわけです。マイナスな夢が多いほど、「たくさんのマイナスを消して頂いた」と喜んだほうが良いのです。けれども、プラスの夢ははその逆か?というとそうではありません。‘つまらないプラス’を消して下さるだけで、より善いものを残して下さっているのです。どちらであっても、あなたにとって必要ないものであるから、夢に顕すことで消して下さっているということです。

 4.魂の系統[霊系統]

 魂の捉え方にも色々とあります。大・小、あるいは男性的・女性的であったりしますし、あの世へ行った後に、他の色々な魂と合体することもあります。また、大きな魂があの世で分割されて再び生まれてくることもあります。魂は、どのような心の状態を持っているかにより、どんどんと変化します。そうした『霊系統』というのは、‘神さまの働きの役割’として、出てくるものです。それは、感謝の心でいうと、どれも「全体の部分としての自分」なのです。ある時は肉体の働きをする系統に降りてくる、例えば「手が自分である」といったように、自分が手の系統であるように見えますし、足も同様です。しかし、それはあくまで‘部分としての系統’で、それを勉強し体験するためのものであって、自分とは本来全体なのです。

 神さまは常に皆に対して平等で、えこひいきはありませんから「全体を受けてくれれば良い」ということです。従って、「自分は手にはなりたくない、嫌だ」と言ったとしても、神さまから与えて頂いているものは全体ですから、自分が勝手にその手や足といった部分的な系統にしがみついているだけのことです。また、「頭が良い」という人は、それにしがみつきますが、そうすると他のものにはなれない。常に自由自在な心で「どの部分も自分なのだ」という見方をする必要があるのです。そして他の部分の系統の働きも探すのです。

 『系統』は厳然と働いていますが、1つの系統だけを延々と辿るのではなく、どの部分であっても自由自在に体験できるときに「全てが自分である」ということが理解されます。これが根本です。従って、どの部分も楽しめば良いのです。今は人として生まれ、‘人としての働き’を楽しませて頂いている。また、動物になりたければなれる。自由自在に選べるのです。ただ、人間になった人は大抵、過去に色々なものになってきています。それでも、なお「馬になりたい」という人は、まだ体験が足りなかったのかもしれませんね。(笑)

 『肉体人間』からもっと大きく卒業していくと、「今度は星になりたい・太陽・地球になりたい」となってきます。そして最後は「宇宙になりたい」ですよね。(笑)神さまが宇宙であるわけですから、宇宙大になるまでに広がり、全てが自分の中にあると捉えた時、真の感謝行となるのです。

 一瞬一瞬が「ありがとうございます」であり、「宇宙が自分である」と受けなおすことです。全てが自分なのだから、「これだけが自分」と‘想いによる遠慮’をすることはありませんよ。

−夢や霊系統についての話終わり

 臨死体験

質問
 臨死体験などをされた方では、「未来を見た」「光に出会った」等ということがあるようですが、これは夢と同様なことになるのでしょうか?

回答
 夢の場合は余り自由がありません。しかし、臨死体験などで魂が一遍抜けてしまうとかなり自由になっていますから、色々な世界を自由に見てくることができるようになります。それも、色々な世界を勉強させることが目的であってそういった体験をさせているのだと思います。「この世だけではなしに、あの世にも色々な世界がある」と心を広げさせるのです。全てがそうではありませんが、そうした体験も、人によっては必要であるからさせて頂いているのです。
 ただし、魂が肉体から抜けて色々な体験を積んだとしても、それも部分的なものに過ぎません。もっと大きく全体を捉えていくためには、やはりお祈りが大切です。そこにお祈りが湧いてくるほど良いですね。

質問
 臨死体験等をした後では、心が大きく変わりますよね?臨死であれば、そうした拡がった状態から、再び肉体という限定された状態に戻ってくる際に、ギャップがあると思うのです。「二十歳位の時にそうした状態に入った」と本で読んだのですが、こうしたギャップのようなものはありませんでしたでしょうか?

回答
 私の場合は臨死体験ではなく、「ありがとうございます」と太陽を見てしっかりとお祈りをした上で、肉体感覚も魂の感覚も消失して意識が宇宙大に拡がり、無限に輝いているという状態を体験したのです。

質問
 それは「行ったら行きっぱなしだった」ということですか?

回答
 そうです。光の中にいる自分に気づき、さらにお祈りをするとよりしっかり捉えられるようになったのです。従って、魂も肉体もありません。仮にあるだけのものです。

質問
 そうすると、‘一方通行’で上がったということですか?

回答
 そうですね。お祈りをすると一方通行で上がれます。臨死体験の場合は一方通行ではありません、再び戻ってきますから。ただ、一旦死んだら、未練がなくなります。執着がなくなり‘手放せる’ようになるのです。そしてそれが心を開放し、自由自在になれるのです。「肉体も魂も消えてない」というのが本当の自由ですが、そこまで行かなくとも「一旦死んだ」という気持ちになれることが良いのです。そうすると、新たな自由な心となり、お祈りの心へと通じてゆくのです。とはいえ、想いを出しすぎると再び肉体にはまり込み縛られてしまいます。そしてもう一度臨死体験をしなければいけなくなる…(笑)。1人1人生き方は違いますがね。

 仕事と感謝行

質問
 世の中には色々な職業があり、それぞれ与えられて仕事をしています。これは本来の自分の働きとはまた違うものとは思いますが、特に頭を使うような仕事をする時に「ありがとうございます」と唱える感謝の心でいることを忘れてしまいます。「職業として仕事をする」ということは、これを続けていれば感謝心につながってゆくのでしょうか?それとも、ある場合には辞めた方が良いということもあるのでしょうか?

回答
 それは「何のために仕事をするのか?」という目的の部分ですね。本来は、‘神さまの働きを自分の働きとして受けて行う’という仕事が「天の意を果たす」という生き方になります。自分を通して神さまに働いて頂かなくてはいけない。その方法が感謝行しかないのです。
 しかし一足飛びにそこまではいきませんので、最初は生活のためや儲けるためといった動機があります。最も良いのは恩返しの心で与えつくすことで必要な仕事をさせて頂くことです。
 但し、徐々に能力を磨かなくてはいけませんから、難しい仕事もしなくてはいけないかもしれない。なぜなら神さまは能力の無い人は使えないからです。「自分にはこれしか出来ない」といって自分の能力を高めないと神さまのお手伝いはできません。
 従ってまず、色々な能力を開発することです。これは神さまが将来色々な体験をさせるための準備としての能力磨きです。そして時期が来て、神さまが「このくらい能力があれば使える」と思われたら、感謝しなさいと教えてくださるでしょう。それも神さまへの恩返しの心でお手伝いさせて頂こうという気持ちで行うと早く本物になります。

質問
 どんな職業でも、感謝行で行き着くことができるということですか?

回答
 そう、できます。ただ、頭を使う仕事というのは「ありがとうございます」と唱えながら仕事をすることは難しいかと思いますので(笑)、一息ついて「ありがとうございます」と唱えてから仕事に打ち込むと良いでしょう。そうするとその心は続きますから、感謝行をしていることになります。逆に「ありがとうございます」で計算を間違えると、仕事になりませんからね…(笑)

 ごめんなさい

質問
 「こうした方が良い」ということが分かっていながら、自分の我の強さのためにマイナスの想いを持ってしまった時に、「申し訳ございません・ごめんなさい」と唱えているようなことがあります。この言葉自体もマイナスの様な気がするのですが、この申し訳ございませんの代わりに「ありがとうございます」と言うと少しはマイナスも消して頂けるのでは、と思うのですがいかがでしょうか?

回答
 その「申し訳ございません」というのも、元々「ありがとう」の中に入っているものなのです。無論「ごめんなさい」といっても構いませんが、「ありがとう」だけでも十分です。それがマイナスを全て許して消し、プラスへと向かわせて下さるのですから。従って「ありがとうございます」だけで大丈夫ですよ(笑)。

 肉体の痛み

質問
 『肉体の痛み』についてお伺いします。ここへ来る前におじさんのテープを10本位聴きまして、2万回3万回と「ありがとうございます」と言ってみたのですが、言っている内に、頭や肩等がものすごく痛くなってきたのです。本来はその痛みに対しても感謝しなくてはいけないと思うのですが、「これはどんどん酷くなるな」と思い薬を飲んでしまったのです。そうするとすぱっと直ってしまったのです(笑)。そこで薬に対しては感謝しました。しかし自分としては逃げているようで、もっとこの痛みというものと相対さないといけないと思うのですが 全快したら…(不明)、痛みについてどのようにお考えでしょうか?

回答
 痛みは、肉体が感じるというよりも、心が感じるものであった、本来は全てが心の痛みなのです。その『七難八苦の心』が痛みを感じさせるのです。それらは全て『想いの心』です。想いを消すときに痛みは肉体を通じて感じられるのです。過去の色々な想いが心に溜まっていますよね?それを順番に消すときに痛みが色々な形で出てきます。逆にその痛みが出るからこそ想いの心が消されて楽になるのです。もちろん、お祈りをすると消していただけるのですが…。ただ、‘薬を飲む’となると、その薬に神さまの愛がどれだけ入っているかによっても違いますが、単なる薬だけでは、一時的なすり替えに過ぎません。つまり、痛みは消えますが、想いが消えるところまでは行かずに、想いだけが残る可能性があります。

 しかし、お祈りをしっかり始めると、「痛みは必ず消える」という安心感を以って、「痛い」といえるかもしれません(笑)。また、お祈りによって痛みを出さずに想いを消すということも方法としてはあります。つまりお祈りをしっかり行うことによって痛みを出さない、また、出ても軽くすることができるのです。もちろん痛みが出た方が喜ばしいことではあるのですが。痛みに感謝しているうちにそれを喜べるようになるかもしれないですね。それに大きな想いを消すためなら、少しくらいの痛みなら出ても良いでしょう?大きな借金を軽く消して頂くのですから…。また、自分の分だけではなく、縁者の分も自分で受けて消さなくてはならない時もあります。もし痛みに耐えられるのであれば、耐えられるだけ耐えて、そして感謝で消す方が人助けになりますし、自分にとっての徳にもなります。けれども、薬は飲んでも良いですよ。たまにはね(笑)。

 科学の進歩

質問
 科学技術についてお聞きします。最近、遺伝子操作・クローン人間や遺伝子組み換え作物を作るといった技術が進歩していますが、こうした科学の進歩というものをどのように捉えておられますか?

回答
 本当は一番奥から感謝の心で魂や肉体を自由に操作してくれたら良いのですよね。まだまだ途中の段階で手を加えるということは、中途半端に過ぎません。本来であれば、自分が自由自在に肉体を変えていかなくてはいけない。少々怪我や病気をしても、瞬間に治す位の力を持っています。良いものと自由自在に置き換えるという力です。
 ところが、今の科学や人間の自覚ではまだまだそこまで行きません。「過去にしがみついた心の状態」で探せないので、「ちょっと操作して変えてみようか」といった、少し気休め的な感覚ですね。つまりとても中途半端なんです。肉体だけを変えてみたって、心や魂が変わるわけではないし、さらにもうひとつ奥の本体がどうなるわけでもない。表面をちょっと変化させたところで、大したことはないのです。「肉体などがどう変わろうが、どちらでも良い」という感じですよね。「必要があれば、好きなものに変えれば良い」のですから…。

ありがとうございます。

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