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 「奉仕」って一言で言ってもね、これも無限の段階があると見た方がいいですよね。
ありがとうございます
 「奉仕」は「仕え奉る(つかえたてまつる)」でしょう。本当は「神さまに仕え奉る」というのが根本の奉仕なんですけどね。神さまの手足として神さまに動かせてもらうというのが根本の奉仕ですよね、本物の奉仕はね。

 「神さまのお手伝い」というのが本当なんですけど、段階がやっぱり無限にありますね。本当の奉仕になるまでに、先ず「練習の奉仕」ってあるんですね。

 普通、神さまの心を汲み取って、そして必要なことをスッとできる人って、これは本物の奉仕者ですよね。

 でも、神さまは言葉で言ってこないでしょう、神さまは何を願って何を必要としてるかというのを、神さまは言葉で言ってこないんですよね。だから、これを汲み取るのが一番難しいですね。

 みんなを幸せにするために、例えば、この世を平和にするために、神さまが願って必要としていることがあるんですよね。「一番大事なこと、一番必要なことは何か」ってね、でもこれは神さまは言ってくれないんです。汲み取らないといけない、神さまの心をね。それを汲み取って必要なことを、自分が全責任を持って自発的に自主的にしていくという、させていただくという、これが本物の奉仕なんですね。ここへ行ったら誰からも縛られないですよね。自分が自由にさせてもらってるだけでしょう。そこには自由があるということで、縛られてないということで喜びが湧き上がるのね。そして、神さまの心を汲み取って奉仕した分だけ、その分だけまた神さまから力を添えてもらった姿で喜べるのね。

 本当は神さまにぜんぶさせてもらってるんですよね、自分がしているんじゃないですよ、神さまから全てを必要なものを与えてもらってさせてもらってるのね、奉仕ってね。神さまが働かなかったら一瞬も生きておれないでしょう、手足も動かないね。

 だから、ぜんぶ神さまが自分を通して力を添えてくるのね。だから、どんな奉仕も神さまにさせてもらってる奉仕よね。だから、神さまの御心を組んで神さまのお手伝いに生きたいという時に、神さまが自分を通して働くんですね。その時に必要な働きをさせてもらって、喜びが湧き上がって、神さまのお役に立つのね。これが本当のプラスの奉仕なのね。

 でも、今度は人が、「これが神さまの御心なんだ」と、いろんな言い方をしますよね「神さまはこれを必要として願っているんだ」ってね。これは人によってみんな言い方が違うんですね。

 でも、神さまが直接じゃないから偽物かも知れないですよ、間違ってるかも知れないよ。でも、人の言うのを聞いて、もし「これが正しいのかな」と思う人は、その人と大体心の状態が同じなのね。自分が本当は心に感じ取って動いた方がいいんですけど、人の言葉を参考にして、そしてその人の言葉を元に動こうとするのね。これも自分の心の状態に合った人の言葉を受け入れるのね。

 十人の人がいて、その十人が違うことを言ったら、やっぱり誰か一人を選びますよね。それは自分が納得する人の言葉を選ぶのよ、やっぱりね。だから、自分の心の状態と波長の合う人の言葉を参考にして受け入れてるね。

 常に、本当はみんな自由に動いているはずなんですよ。でも、ここで人のせいにしたら駄目なんですね。「その人のために動いてる」というと、間違うんですね。人のために奉仕しても損するんですよ。これは何故かというと――

 例えば、自分が何かマイナスを持ってても、人のためにしてもマイナスは人は消してくれる力は無いんです。「神さまのために」というと、神さまは引き受けてぜんぶ消してくれる。

 奉仕の目的はね、自分の過去のマイナスを、古いものをぜんぶ神さまに預けるために、消してもらうためにさせてもらうのが本当ね、それが先ず第一なのね。

 そしてマイナスを消してもらって空っぽの自分になった時に、初めて神さまからプラスが降ろされてくるでしょう。そしてプラスがいっぱいの姿に変えてもらって、いいことをいっぱいさせてもらうのね。

 だから、本物の奉仕になるまでに、先ず自分のマイナスを神さまに背負ってもらって消してもらわないといけないね。そういう意味で、人に言われた時でも、やっぱり「神さまのために」というふうに心の向きを神さまに向けないといけないね。「神さまのために自分の全てを捧げます」という感じで、そして奉仕に入ると、自分のマイナスをぜんぶ神さまに預けることができるね。その時に神さまがそれを引き受けて消してくださるね。

 そうすると自分の心が自由に軽くなる、そこへまた神様が降りて働きやすくなって、プラスがいっぱいになってくるでしょう。

 だから、人の言いなりになったら駄目なんでしょう、人の言うことを参考にはしてもいい。でも、人の言いなりになって動くと奴隷なんですよ、人の奴隷よね。これは偽物になってくるね。だから、まわりの人の言葉は参考にはすればいいよね、でも、常に自分が自発的に自分のほうから責任を持って動くのね。それも「神さまのお手伝い、神さまのために」という気持ちで動くのよね。そしたら必ず神さまの助けが大きく降りてくるんですね。自由を縛られずに、マイナスも消してもらい、プラスもいっぱい与えてもらって、そして喜びが湧き上がってくる。

 だから、人の言葉を相手にせずに、神さまの心を汲み取って動ける人が本物なのね。

 でも、人の言葉を参考にして動くのでも、やっぱり自分が自主的に動かないと偽物になってしまうね。自らが自由に動けるときが本物なのね。

 だから、段階がこれは無限にあってもいいんですよね。奉仕の練習も必要なの、最初はね。本物の奉仕になるまでにいろんな段階の奉仕の練習って大事なんでね、それも順番にこなしながら、でも早く本物の奉仕に近づいたほうがいいよね。神さまの助けを大きく受けて、本当のお役に立てるほうがいいのね。そうするといいものを与えた結果、自分にもいいものがいっぱい返ってくるよね。

 やっぱり無駄な努力は必要ないもんね、無駄はできるだけ少なくする方がいいね、早く早くいいものをいっぱいにするほうがいいのね。

 奉仕の心構えが大事だというのは、そういうところね。

 ありがとうございます。

 老子さんの「無為」という言葉をちょっと説明しましょうね。

 「無為」というのは、何も為(な)さないという言葉だけど、何もしないんじゃないのよね。普通は、自我の心で何かしようとするでしょう。だから自我の心では何もしないという意味かも知れないけどね。

 老子さんの「無為」というのは奥深いところから出てきてる意味があるのね。人間の言葉の解釈じゃ駄目なのよ、神様の辞書によって解釈するのよ。これが一番大事ね。

 老子さんは悟りが深いのね、「空」の自覚が無限に深い。「空」にも段階があるでしょう、奥深い「空」をとらえたら、「空」というのは神さまの源・光源よね。奥深い光源をとらえたら、本当に自由自在になるのね、とらわれがなくなるのね。また、そこまで行くと自分が消えて無いのね、奥へ入るほど自分が消されてしまうね。自分というのが消えて無いから、自分が何かするという感覚が消えるの、無くなってしまうね「みんな神さまがしてる」という感覚ね。「神さまだけがある、神さまの働きだけがあるんだ」という感覚よね。だから、自分が何も為(な)さないというのじゃないのね、神さまだけを認める感覚なのよ「無為」というのはね。

 だから「神さまの働きだけがある」という、無限の無限の働きが無限に無限に一杯というような、「神さまの働きだけが宇宙に一杯あるんだ」という。こういう感覚が「無為の心、無為の生き方」なのね。

 だから深い感謝と一つね。「ありがとうございます」が深くなって神さまの全体像をしっかりとらえた状態ね、これが「無為の心、無為の状態」ね。

 老子さんのいう意味はそういう意味ね、深いのね、もの凄くね。

 老子さんは、伝説的には空中から物質化して肉体を現わしたというぐらいに言われている人だから、そこまで奥深い神通自在の力を持ってたのね。だから、肉体を物質化してどこへでも姿を現わせたのね。

 まあ、表面的なそういうので深いとは言えないけど、心の心境もグンと深いのね。

 だから「無為にして為す」というのは大事よ、もう「全て神さまの働き」というふうに「感謝で受ける」という、これもやっぱり必要ね、大事ですね。

 役の行者さんというのも、修験道で自力の修行を命懸けでされた方よね。

 元々、魂も立派で上根(じょうこん)の方というのね。だから、自力の修行もしやすいね。ただ、自力の修行で命懸けでやっても、やっぱり高い心境に入るのは大変なのね、限界があるのね。

 役の行者さんというのは、肉体を消しきってあの世へ移った方でしょう、肉体を消すって大変よね。

 屍化仙(しげせん)という姿で肉体を消してあの世へ移れるというのは、波動も自由自在に調整できて、低い波動を消して高い波動にすぐに切り替えて生きるんでしょう。だから、かなり神通自在な波動調整の力を持ってるわけでしょう、波動を変える力をね。

 でも、無限の無限のチャンネルから見たら、自力的な生き方で上るというのは、やっぱりかなり低いところでしか上れないね。

 それで、役の行者さんはあの世へ行ってから自力を捨てたのね。やっぱり他力の方が楽なの。深い悟りの救済の神さまがいっぱいいてるでしょう。そういう人たちにちょっと助太刀をしてもらうだけでスッと上がってしまうね。だから、自力で頑張ったからこそ自力を捨てられるのね。自力を捨てた途端に高い世界にスッと上がるでしょう。だから、自力もとことんやるといいかも知れないけど。でもね、本当に命懸けでとことんやり続けてこそ自力の本当の意味がわかるわけでしょう。

 法然さんなんかはちょっと早く切り替えた方よね。法然さんってやっぱり日本でも一・二という碩学(せきがく)でしょう。仏教でもぜんぶ学んだような感じでしょう、そしていろんな教えも一所懸命実行して悟りを開こうとされたのね。でもね、法然さんでも「自力では駄目だ」と早く気づいたのね。自力で修行して悟ろうとしたんだけど無理だったってね。限界を、もう嫌というほど感じたのね、早くね。

 それで、こんな自分でも悟れる道はないかと。

 仏教の大蔵経ってぜんぶ読むのは大変なんよ。沢山あるじゃない、普通の人じゃ一生かかっても読みきれないもんね。それを繰り返し繰り返し読んで、自分の救われの道を探したんでしょう。それで「南無阿弥陀仏」にすがって悟ろうとしたのね。阿弥陀様にすがる他力に転じたのね。

 それで「南無阿弥陀仏」一筋よね、一日に五・六万遍、「ありがとうございます」五・六万遍と同じよ、「南無阿弥陀仏」を五・六万遍、一日にずーっと唱え続けるのね。その他の言葉をぜんぶ忘れてしまうの。過去に覚えたものをぜんぶ捨てきるのね。人から「これを教えて」と言われても言わないの、もう答えない「忘れてしまった」という感じで。もう常に「南無阿弥陀仏」だけね。そしたらやっぱり深い悟りに入るのね。肉体を持ったままで深い悟りの心境に入ってしまったのね。

 「ありがとうございます」も一日五・六万遍は心で唱えるいいよ、なによりも他の言葉を使わないというのがいいのね。そうすると神さまが大きく助けに降りて助けるのね。そしたらみんな既に悟った姿が今直ぐに出てくるのよね。