「不動心」というのは簡単に言うと「揺れ動かない心」ですよね。ただ、これにピンからキリまであるのね。無限の段階がありますね、不動心もね。本物の不動心、最高の不動心というのは「全体を一つにとらえる心」ですよね。すべてを一大統一、一大調和の姿でとらえる心が不動心ね。それは宇宙絶対統一神、天照大御神さまをしっかりと感受できた状態ね。感謝の極の心が不動心になる、絶対揺れ動かないね。

 浅い不動心だといろんな意味がありますよね。「不動心」という言葉でいろいろな言葉が出てきますけど、それをいろいろ例を挙げながらちょっと説明させていただこうと思うんですけど。

 本当に「絶対、心が揺るがない」というものは、全体をとらえないと駄目なんですね。部分だと次から次へと視点を移していくんですね。視点をどんどん移していくと、心が揺れ動くんですよね。だから、全体を一つに観るというのが本当の大きい意味の「不動心」になるのね。

 これは「宇宙絶対統一神」という言葉で、この「天照大御神さま」を表現するのでも「神さまの働きの全体を一つに統一した姿」という意味なんですね。神さまの働き全部を一大統一の姿で観たときが「天照大御神さま」という姿をとるのね。この「天照大御神さま」というのは「無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!」というような感じなんですね。

 だから、一つの中心というような意味じゃないのね。中心が無限に無限にあって、無限に無限に輝いた姿をとってるのね。その全体の統一体になるのね。

 古事記の中には「天照大御神さま(あまてらすおおみかみさま)」と「月讀命(つきよみのみこと)」と「須佐之男命(すさのおのみこと)」この三神が出てきますよね。この三神を例えると「太陽」と「月」と「地球」という感じなんですね。

 太陽だけを見てると月と地球が視点に入らないですよね。だから、全体というのは「太陽と月と地球」全体を一つに見る心というね。だから太陽だけを見るのは、小さい意味の天照大御神さまのとらえ方なのね。

 月も地球も中に飲み込んだ大きい意味の天照大御神さまが、本当の意味の天照大御神さまね。

 「月讀命」の「月」というのは、太陽の光を受けて反射するんですよね。そして闇を照らす働きね。今までの地球って大体そういう世界ですよね。マイナスの多い闇の世界を月明かりが照らしてくれてるってね、いろんな宗教の救いの働きは全部そうだったのね。まだ太陽は輝いてなかったですよね。

 でも、これからは太陽が出てきて、月と地球を一つに飲み込むような大きい働きになってくるんですけど。本当の不動心の時代に入るんだと思いますけどね。

 本当の意味の「不動心」というのは、言葉ではいろいろ説明するんですけど。やっぱり感謝の練習を積み重ねて、無限に無限に深い感謝の心になりきらないとわからないですね。いくら「太陽を感じた」と言ってもね、例えば地球で太陽の光を感じますよね。「あっ、太陽が輝いてる」って、太陽の光体を認めたというのでも偽者なんです、まだね。

 本当の太陽から光がスーッとやってきて、地球の大気圏で乱反射を起こすんですよね。そして擬似光体の太陽が光体として生まれてるんでしょう。それを地上の人が感じて「ああ、太陽がここにある」と言うんですよね。だから「無限に輝いた」というふうに感じてもまだ本物じゃないのね。その奥に、まだところてん式にそういう無限の光体を現す働きが、ずーっと無限に続いてるんでしょう。その一番奥に本物が控えてるというような感じですよね。例えて言うとそういう感じね。

 その全体をしっかりととらえないと、本当は心は揺れ動くんですね、心の視点がどんどん変化するんでね。

 浅い意味から言いますと、最初はいろんな思い、思いの心が「あれしたい、これしたい」ってね「あれも欲しい、これも欲しい」って心がコロコロ変わるんですね。心をコロコロ変えてるようではとても不動心と言えないですね。そういう意味では思いが消えた状態ね、無心の心が最初の浅い意味の「不動心」ね。

 「死をも恐れない」というような感じでね。思いが無かったら恐れるものは何も無いんだと思いますね。思いがあるから執着して「死ぬのが恐い」とかね、いろいろ思うんですよね。だから心が揺れ動いてしまうというのね、だから「不動心」にはなれないですね。

 だから、先ず第一段階では、思いを消す修行をして不動心になろうとしてますよね。それはまだ浅い不動心なんですね。それをどんどん深くしていくためには、やっぱり「お祈りの行」が大事ですね。

 仏教で言えば「空の心」になるというのね。「空」というのは、何もない「無」とは違うのね。「空」というのは「絶対」で「光源」「命の本源」を指すんで、無限の無限のプラスが一杯という、無限の無限の輝きが一杯という状態を指してるんですね「空」というのはね。その「空」を本当に認めて、しっかりととらえた状態ね。

 ちょうど「色即是空、空即是色」という言葉がありますけど。「空」が光源で「色」が放射された光線ですよね。光源と光線が一つにとらえられたら全体を一つに見るのね。それが本当の意味の「空の心」という、だから「不動心」になるんですよね。

 でも、「空と色」をバラバラに見てると不動心になれないんですね。「光源はこっちにあるけども、光線はこっち」というふうに見てると、光線にはマイナスもあるように見えるんですね、闇が広がってるように見えてくるんですね。

 だから、仏教の「空」の教えというのは、現われと本体の神さまとが一つに見える状態ね。「すべて神さまの現われ」ととらえられた状態を、本当の「空の心」ね。それを目指してるんですね、みんなね「悟りの心」というのはそうですね。

 そして「不動」というのは「動かない」というんですけどね。まったく動かないという意味ではないんですね、「無動」じゃないですね。「不動」と「無動」とは違うんです。

 「不動」の方は、中身が無限に無限に動いてるんです。だからいろんな例えで言うと「コマの中心」というような感じね。動いてないように見えるんですけど動いてるのね。だから「動かない」んじゃないのね、「不動」というのはね。無限の無限の動きがあって「不動」なのね。まったく動かないのとは違うのね。

 だから、神さまの働き、絶対の中心というのは、無限の無限の動きがあるんですね。だから中心になれるのね。そこが「不動」の場所なのね。

 「不動心」というのは、神さまの心が本当の不動心ですよね。そこから現れてきた不動心が無限の段階があるというのね。

ちょうど「不敗」という言葉があるね、負けないという。これは「無敗」とちょっと意味が違うの、ここはね。どういう意味かというと、例えば、剣の達人だったら、昔は三本勝負だったら必ず二本とって一本譲るのね、三本勝負だとね。負けるんじゃないの、譲るの、一本ね。相手を励ます意味もあるしね、相手をしっかりと見るためにも一本譲って相手を見るのよね。だから自分の自由意思で、わざと勝ちを譲るという感じね。それでも三本勝負だったら二本取れば勝ちなのね。そういう勝ち方が「不敗」の勝ち方ね。

 「不動心」というのも、そういう(不敗の意味の)不動心ね。だから、動かないんじゃなしに動く「無限に動いてても、心は揺れ動いてない、不動なんだ」という意味ね。

 また「因縁因果」という言葉がありますよね。その中に「不昧因果(ふまいいんが)」不昧というのは昧(くらま)さないという意味ね。昧さずという「因果昧さず」という「不昧因果」。

 それと「不落(ふらく)因果」落ちないというのがあるね「不落因果」というのね。

 「不昧因果」というのは、因縁因果はもう厳然とあるという意味よね。悪いことをしたら必ず悪い結果が出てくる。目には目を、歯には歯をというような感じで、厳然と因縁因果が働くというね。

 「不落因果」は、もうそういうのは関係ないという、絶対マイナスに落ちないという意味なのね。

 だから、因縁因果の法則にも、プラスの光の因縁果とマイナスの闇の因縁果とあるのね。

 「不落因果」の方が、プラスの因縁果を指してるね。いつも神さまの中から新しいいいものがどんどん降ってるから、過去は無関係なんだ、本当のことは神さまで、いいものばっかし降ってくるという意味ね。「過去にいっさい縛られない」というのが「不落因果」の方ね。光の因縁因果、プラスの因縁因果ですね。

 でも、過去をとらえると、過去にこうしたからこういう結果が出てくるというような感じね、これは思いの世界の因縁因果ね。マイナスの因縁因果、負の因縁因果ね。

 これを別々に見てると、心境によっては不落因果の世界に入るのね。心境が落ちたら不昧因果の世界に落ちてしまうでしょう。そしたら心は揺れ動くよね。どっちを見るかによって心が揺れ動くのね。

 これを一つに見るというのはどうしたら見えるかというのね。一つに見る見方が「不動因果」というの。

 これを一つに見るには一元に見ないといけないでしょう。一元に見るというのは、一番下へ降りないといけないね。不落因果だけを見てたら不昧因果を無視しておろそかにしてるから、一元に見てるどころじゃないのね。一番下に下りるのは、不昧因果の一番下よね、地獄のどん底まで下りないといけないよね。そうすると光一元に眺めて不昧因果の奥に不落因果があって、全体を一つに見るという見方ができるのね。光一元に見るという時はそうよね。

 ただ、光一元に見る時は、一番謙虚な謙虚な心になる必要があるのね。これがまあ一番難しいんですけど。

 夏の暑い時には冷凍庫に入っても平気でしょう、一番寒い状態の中に入っても平気なのね。一番下へ下りるためには、神さまの無限の無限の輝きを感じ取らないと一番下へ下りにくいですね。

 「もうこれ以上の幸せはない」という状態に、先ずなったらね、地獄のどん底に下りても平気なの。

 だから、感謝を深めて神さまをしっかり感じとれば「もう、これ以上の幸せはない」という気持ちになれるのね。そしたら、恩返しの心が必ず出てくるね、報恩の心、恩返しの心が出てくるんですね。その心が謙虚に下へ下りる心になってくるね。

 人間って、今まで過去に無限の恩恵を受けてるんですよ、本当はね。その恩恵に気づいたら、今日一日ぐらいは恩返しに生きようとするでしょう。この肉体の命がなくなっても、地獄に落ちて無限の苦痛を味わっても「そんなんヘッチャラ」というぐらいになるのよね。本当に神さまから無限の幸せをいっぱい与えてもらったという、その本当の恩恵に気づいたら「それぐらいはヘッチャラ」と言うのね。

 恩返しってそうですよね。無限の無限の恩恵を受けて、どうしたら恩返しができるかと考えた時に、本当は万分の一も、億分の一も、無限分の一も恩返しはできないですね。それでも「恩返ししよう」という心が自然に起こされてくるのね。その時にどういう生き方をとるかでしょう。

 プラスだけをお返ししたって大したことはないでしょう。神さまから与えてもらったプラスの一部をお返しするだけだもんね。あまり恩返しにならないよね、沢山もらってちょっとお返しするだけだからね。

 それではまだ足りないからと思ったら、今度は自分をマイナスの立場に置くことによって、プラスを生み出してお返しをしようとするのね。

 例えば、自分の今持ってるお金を、これは神さまにもらったお金なんだけど、この残ってるお金をお返しします、というのは大したことないでしょう。でも、自分の命を売って無限の地獄の苦痛を味わって、それでお金に代えたとしたら、プラスが生み出されてくるよね。そのお金もお返ししましょうというのね、恩返しのためにというとね。それでも万分の一も、億分の一も、無限分の一にもならないよ。でも、そういう気持ちが出てくるのよね。本当の幸せを与えてもらったら、感じたらね。それが「大犠牲精神」ね。

 だから、イエス・キリストさんでも、神さまの愛を、幸せをいっぱい感じてるのね。だから十字架にかかっても平気なの。大犠牲精神が自然に生まれてくるのね。

 それで「武士道精神」というのもそうなのね。武士道というのも「武(ぶ)」というのも「戈(ほこ)を止(とど)める」という字ね。「戈」というのは剣のほう、突き刺すほうね、相手を傷つけやっつけるほうでしょう。それを「止(とど)める」争いの思いを消し去るという意味なんですね「戈を止める」というのはね。

 「武」というのは「愛の心」ね「大慈愛の心」ね。その心を生きるのが「侍(さむらい)」というのね。「自分を死にきった人」というのね。

 だから「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があるのね。[何故死ねるか]というのでしょう。

 普通、命が惜しいから争うのね、相手をやっつけるんでしょう。恐怖心からくるのよね、相手を攻撃するというのはね。生きてるから命をとられたら恐いという、それで先に相手をやっつけようというのね、普通はそうよね。

 でも、自分が死んでたらどうなる? これ以上死なないじゃない。もう、死にきったら、命を取られても取られることはないから、相手を攻撃しないよね。心が本当に死にきる心になれたら無抵抗ね。だから「自分を死にきる」というのが武士道の本当の真髄になってるのね。

 本当は、神さまから命をいただいて、一瞬一瞬生かされて、本当は一瞬一瞬死にきらないといけないよね。一瞬一瞬神さまから新しい命をいただいて生かされてるね、それを恩返しの心でお返ししたら、一瞬一瞬死にきるのが本当の恩返しになるのよ。今、いただいた命をお返しするんだからね、もうここで死んでおしまいよ。でも、神さまは新たに生かしてくださるでしょう、また恩返しで命をお返しして死にきるのね。本当は、一瞬一瞬ね感謝行をするのも同じよね。「ありがとうございます」と生かされて、受けて、恩返しでお返しして、死にきるのよね。一瞬一瞬死にきって、過去のすべてを捨てきるのが感謝行でもあるのね。

 武士道精神ってそうなのね。一瞬一瞬を死にきるのよね、そしたらまた生かされるのね、新たに新たにってね。

 日本に、この武士道精神がずーっと続いているというのが不思議だけどね。この一瞬一瞬新たに受け直すという心が日本にはあるのよね。そういう心が武士にとったら「武士道」という心で、ずーっと続いてるのよね。そういう武士道精神を生きるというのが「不動心」になってるのね。一旦、死にきれば恐いものなしよね。心は絶対揺れ動かないというね。

 また、一瞬一瞬ね、新たに新たに受け直し、死にきったら、思いがぜんぶ消えてなくなるのね。普通、コロコロ変化する心は思いの心よね。それも自分の自由意思、自分の自由にはならないね。思い通りにならないよ、コロコロ変化してもね。どうしようもない、奴隷のように動くのよね、心がコロコロとね。

 でも、一貫性のある心ってあるんですね。神さまの心がそうよね。神さまの心を、感謝の心を受けた心は一貫性があるのね、ころころ変化しない、常に一貫性があるね。一つの目的を持って動くのよね。

 だから、一貫性のある心が「不動心」とも言えるね。いつも大きい目標を立てて、大きい目的を持って生きてる心は「不動心」になる。

 でも、小さい目的や目標だと、それがコロコロ変わるじゃない。今はこういう目的で生きてるけど、また違う目的を持って生きるというふうになってくるでしょう。そうすると、心の視点が変わって心が揺れ動いてるといういふうになるでしょう。だから、これは不動心じゃないよね。

 目的にも、小さい目的から大きい目的がいっぱいあるわけね。すべての目的をぜんぶ中に包容する大きい目的の中へ統一しないといけないね。

 だから、人生の目的でもそうよね。一人一人ぜんぶいろんな違う人生の目的を持って生きてるのね。でも、本当の目的にならないと安らがないね、心がね。

 本当の目的は「神さまの目的を自分の目的にすること」よね。神さまの目的の中に、すべての目的が含まれてるのね。一大包容されてるからね。神さまの目的をしっかりとらえて、その目的を自分の目的にしていくと、心はもう絶対に揺るがないね。いつも一つの目的に向かってるだけなのね。

 ちょうど、光源に心をずーっと向き続けたらいいような感じなのね。

 宗教の教えでもいっぱいあるでしょう。その部分部分の教えなんよ、ぜんぶね。順番に勉強していったら迷うよ、みんな。「これもいい、あれもいい」ってね「どれをとったらいいか」となってくるでしょう。

 だから最後はぜんぶを中に持ってる大きい教え、本物の教えね、神さまの教えの中に入らないといけないね。

 神さまの教えというのは、この地上に降りてくるいろんな教えなんて眼中にないというぐらいなのね。つまらんものしか降りてないよね、この世はね。

 また、教えになって言葉になって出てきてるのは大したことはないというのね、この世に現れたものでもね。大自然に本当に見えない姿で響いているのが本当の教えよね。これは、この世だけじゃなしに、無限の無限のチャンネルの世界ぜんぶに、神さまの教えは「鳴り・成り」響いてる。その全体をしっかりととらえるような教えをとらえないといけないね。

 神さまの本当の教えはそういうものだから、それに心を向けていくと迷わなくなるね。だから、いつも神さまの働きの全体をしっかりととらえて受けていけるという、そういう生き方よね。だから感謝行って大事なんよね。感謝は神さまの働きぜんぶを受け取ろうという、こういう練習をしてるわけね。全体をしっかり一つにとらえようとするのね。

 難しくはないんだけどね、みんな難しく考え過ぎたのね。それでいろんな修行方法をあみ出しては順番に昇って行こうとしたんだけど。これを難しくしたのは人の方よね。神さまの方は最初から易しくしてるのよ。「ありがとうございますで受けたらいいだけ」というんだけどね、あまりにも難しくしすぎたのね。

 ちょうど、人生というのは、すごろくに例えられると思うね。すごろくもいろんなすごろくあるんですけどね。サイコロを振るのね、それで目が出たら上へ上がって行くでしょう。ところが上がったところに「ここへきたら幾つ下がりなさい」というのがあるのよね。

 これね、感謝の心で生きるのと、思いの心で生きるのとでは、やっぱり正反対になるのよね。

 感謝の心で生きると幸せへの最短コースを神さまが選ばせるのよね。サイコロを振ると必ず上へ上がるようになるのね。ポッと振ったら一が出て、一つ上がると今度「幾つ上がりなさい」と、またなってるわけね。

 でも、思いの心で振るとマイナスになるようになるのね。一が出て一上がった、今度「三つ下がりなさい」になってしまうの。必ずマイナスへマイナスへ落ちるようになっていくね、思いの心でサイコロを振ると、という感じね。

 だから「ありがとうございます」という祈り言葉というのは、神さまの助けを的確に受ける言葉なんでね。必ず最短コースで、上へ上へ本当の不動心へ導いてくれるのね。途中の過程がぜんぶプラスにプラスに変化するのね。

 この世にいろんな神さまの教えが模型として出てるのね。遊び道具としてね。

 将棋や碁もそうよね、人生を現してるのよね。いろんなゲームはそうかも知れないね。如何にこの人生を乗り切るかってね。幸せへの最短コースを如何に歩むかという勉強よね、みんなね。

 だから、強い人はぜんぶ全体をいつも見るんでしょう、将棋でも碁でもそうよね、いつも全体をしっかりとらえて、それで一番必要な手を打っていくのよね。下手な人は目先だけを見るでしょう、歩でも取られたら困ると思って逃げ回る、はははは。捨て駒なんてようせんよね、王様取られても他の駒を守ってるから。

 でも、全体を見ると一番必要な良(い)い手が浮かぶのよね。

 最後の結論としてね「不動心」というのは、感謝を深めて神さまの働きのすべてを「新たなる全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!」という姿を一番下からよね「地獄のどん底から光一元に仰ぎ見て受ける心」ね。この心は絶対揺るがないね。本当に「ありがとうございます」で感謝ばっかし湧き上がるようになってくるね。「不動心」というのは「感謝の心」と言い換えてもいいかも知れないね。

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