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一番大切なこと2002.12.23「維摩経」は悟りの神髄

ーありがとうございますー
 一番大切なことって一人ひとりみんな捉え方が違うんですけど、一人ひとりの大切なことと神さまが一番大切ということはちょっとズレるんです。普通、神さまの助けを受けるんでも自分に合わして助けて欲しいという人が最初は多いんです。でもその自分を神さまに合わして行くというふうになると本当の神さまの無限の大きい助けを受けやすくなるんです。

 だからその大切なことでも神さまが大切と思っていることに合わしていくことが大事です。それが一体何かということですね・・神さまは常に全体を見て欲しいんです。大きく全体を見て欲しいんです。そうすると選択肢が増えるんです。山を歩くんでも山全体を見ていると迷わないんですけど、全体を見失った時に迷ってしまうです。
 この世も同じですよね。この世だけでも大きく眺めていると迷わないです。正しい生き方がとれるんですけど、でも部分に捉われた時に方向がわからなくなります。目的もなくなって同じところをぐるぐる回るような感じ・・迷ってしまいます。
 だから人生の目的でも大きく眺めている時は正しく出てくるんです。ところが部分にとらわれた時は必ず判らなくなります。神さまは常に全体だから全体を見るというのは神さまを見つめることです。

 仏教の教えも空の教えといわれるように空を見つめる生き方でしょう。空というのはなにもないじゃないんです。光源のようなものです。無限の無限の輝きがいっぱいという一番の源が空です。空にも浅い空から深い空までいっぱいあります。無限の輝きがいっぱいと言ってもまだ浅い空です。もっと奥へ入ると無限の無限の輝きがいっぱいというのが出てくるんです。それでもまだ浅いけど・・それで無限の無限のさらに無限の輝きがいっぱいになってくるでしょう、それで奥へ入るほど神さまに近付いていく・・それが空の生き方ですね。しっかりと光源を源を見つめるという、仏教の教えがそうなんです。
 だから空しい儚いなんかはないんです。無限の無限の輝きがいっぱいで無限の無限の喜びがいっぱいでというプラスばっかりの生き方なんです。

 老子さんが教えたのは無為の生き方というでしょう、何もしないんじゃないですね。神さまのはたらきを邪魔しないという生き方です。無限の無限の輝きがいっぱいという神さまの働きが出てきたのを邪魔しなかったらいいんですね。邪魔するのは何かと言うと空に雲が出てくると光を遮るでしょう、思いを出すと邪魔してしまうんです。だから思いを出して計らい心で何もしないというのがいいんです。そうすると無為の生き方です。もう自然な生き方で全部輝くという生き方です。

 またキリスト教でも全託という神道の方でも全託という神ながらの道と言うんですけど全託というのはすべてを任せるという・・ちょっと任せるのは半託ですよね。もう、すべてを任せるというのは命もすべてを神さまに一旦お返しするという生き方です。神さまは任せられたらどんなものでも引き受けて面倒見るんです。任せ切れないとなかなか手を出せないんです。
 特に宇宙の大神さまは無限に無限に謙虚なので他へちょっとでも心を向けて気を向けると「そちらを先にどうぞ」というんです。だから神さまに仏さまに縋るのでも段階がいろいろですけどひとつの神さまに縋ってその神さまに助けてもらおうというんなら宇宙の大神さまはその神さまを立てるわけです。どうぞどうぞという感じで私の所へ頼ってくるのは最期でいいよと、最後の最後でいいからねという感じですね。宇宙の大神さまはすべてを立ててくださるんですね。だから本当の全託というのは本当の神さまへすべてを任せ切らないとダメなんです。宇宙の大神さまへです。

 ちょっとでも他へ気を向けると、まだ全託じゃないからと謙虚に奥に隠れてしまうというところがあるんです。空の生き方も無為の生き方も全託の生き方も、もう徹底した生き方が必要になってきます。古神道というのはこの本当の神さまの助けを受ける生き方でそのために必要なことは至忠・至孝・至悌の道と言うんです。

 忠というのは君に忠という忠で孝は親孝行の孝、悌はリッシンベンに弟と書いて師匠に対する弟子の心構えを説いています。その忠孝悌の最高のものが上に至ると書くんです、この上ないものという意味で・・至忠・至孝・至悌というこれが古神道の神ながらの道の本当の生き方なんです。その君というのは何かと言うと例えば天皇陛下が君と言われますね、でも本当の君というのはそういうものじゃない、宇宙の大神さまのことです。一番の極にいらっしゃる方という感じです。絶対に存在するものが本当の意味の君です。

 また親に対する孝というのでも至孝の対象は肉体の親じゃないです。魂の親の守護霊さんでもないです。守護神さんでもないもっと奥の奥、宇宙の大神さまが本当の親なんです。その過去をズーッと遡ったら人間はいろいろな場に生まれ変わっています。今は人間として生まれて過去世をいろいろあってというふうに見るんですけど石ころになった時もありますね。いろんな植物になったり虫になったり動物になったりいろいろ生まれ変わりの自分をそこにおいた時期があるんです。そうすると石ころも自分の親だった。ゴキブリも自分の親だった・・もう全てが自分の親であった時があるんです。そうするとみんな自分の親だったとするとどの親に親孝行するか、バラバラに見ていると出来ないですね。だから宇宙の大神さまへの親孝行というのが一番いいんです。

 また師匠に対する絶対奉仕の心というのもそうです。いろんな師匠が出てきます。その時その時自分に必要なことを教えてくれて導いてくれる師匠はいっぱいいます。別に人間だけじゃないんです。石ころから何かを学べたら石ころも師匠です。花を見て何かを感じたら花も自分にとって師匠になるんです。その師匠も無限にいますから段階がいろいろだしその順番にひとつひとつに心を向けていたらちょっと頭がおかしくなってくるからこれもひとつにまとめないといけないですね。だから宇宙の大神さまを本当の師匠というふうに定めてそこへ心を向け続けるという絶対奉仕の生き方を取ると宇宙全体が宇宙の大神さまのからだそのものです。

 だから宇宙の大神さまにさえ心を向けていたら全部に通用するんですね。それで全体者・絶対者・総責任者という宇宙の大神さまへ心を向け続ける生き方が至忠・至孝・至悌の道、古神道の本当の生き方なんです。全体を見ることによって選択肢が無限に広がってしあわせを感じ取れる味わえるんです。
 例えばご馳走が山盛りにいっぱいあるとするでしょう・・そうしたらその中から好きな物を選んで、美味しい美味しいと食べられるでしょう。しあわせいっぱいという感じなんですけど山盛りのご馳走が見えずに、目がちょっと見えなかったらそうでしょう、たくさんあるのに見えない・・目隠ししててもいいけど手に触れたものしか掴めないです。
 だからご馳走はこれだけしかないのかと思ったらとたんに貧しくなるんです。せっかく美味しいご馳走が山盛りにあっても気付かなかったら食べていても、もうこれしかないのかと思うとやっぱりちょっと寂しいでしょう。だから部分に囚われてしまうと選択肢がなくなってしまうんです。
 だから常に全体を見ることによって選択肢が無限に無限に広がるんです。この世の番組もひとつの番組として他に無限の無限のチャンネルが厳然とあるんだというふうに思い返すことによって心が自由になるんです。そうすると一つの番組を眺めてもその中に何かプラスを発見できてしあわせを感じてという心の勉強が十分出来ていけるんです。

 だからどの番組も本当は価値があるんです。ただそのひとつの番組に囚われた時だけ本当の価値を見出せなくなってしまうんです。だからもう常に全体を捉えるというのがしあわせには一番必要な生き方なんです。学校の教科書を勉強するのでもそうでしょう、先ず目次を見ないとダメでしょう。目次を通して全体を先に見るんです。そして部分の勉強をして埋めていくんです。そうすると全体のつながりが出来た時に理解が進んで全体をしっかり把握できますね。どんな勉強もそうなんです。
 この世でいろんな情報をいっぱい流れているんですけどひとつひとつの部分的な情報に心を向けた途端に神さまを忘れていくんです。部分に巻き込まれて囚われていくんですね。マイナスの情報なんて特にそうですね。だからもう常に全体を捉えながら部分としての情報をしっかりと学んでいけばそれに囚われずに振り回されずに済むんです。だから情報がたくさんあるのもいいんです。ただその情報に振り回されるかどうかは全体を見ているかどうかで決まるんです。だからその全体を常に把握する生き方というのは易しいようで難しいですね。

 すぐに過去を掴んで部分を掴んで巻き込まれて忘れてしまうので・・それでその忘れない方法ですね、一番いいのはありがとうございますと全体者としての神さまの名前を呼び続ける心に唱え続けると常に全体の意識、神さまの心が入ってくるんです。全体の心をしっかりと受け入れながら部分に心を向けると部分は輝いてくる、必ず輝いて見えてくるようになるんです。バックが神さまであれば全てが神さまの中心に置かれた姿に見えてくるんです。神さまをバックに置かないとみんな輝きを失なっていくんですね。ちょうど太陽がバックにあったらそこから出てくる光は全部無限に輝いてくるんです。だから太陽をバックにするように神さまを常にバックにするんです。それが全体を見る見方の一番いい方法です。

 だから仮に地獄へ番組合わせをして降りていったとするでしょう、その地獄だけを見ているとそれはもう大変です。無限の苦痛でいっぱいもう苦しみでいっぱいになってしまいます。でもその部分だけを見るんじゃなしに地獄の姿を見ながらもバックに神さまをおけばいいでしょう。一番下から一番上を見るような感じでね。無限の無限のプラスがいっぱいという神さまの一番奥をバックに見て一番下から見ると一番謙虚な心で地獄も輝いて見えてくる、必ずそう見えるんです。
 明るい所から暗い方を見るとみんなマイナスに見えてくる暗く見えるでしょう。でも一番暗い方から明るい方を見ると全部明るくプラスに見えてくるんです。謙虚な心というのは常にそうですね。一番下に降りて一番上を見ようとする心ですね。
 傲慢な高慢な心と言うのは上に立って上から下を見ようとする心です。思いの心はやっぱりひとつのものをつかんだ途端にその立場を掴んで離せなくなるんです。そうするとひとつの立場から物事を見るというのはやっぱり上から下を見やすくなるんです。でも感謝の心はすごく謙虚な心なんです。感謝というのは一瞬一瞬受け直して受けた途端に神さまにお返ししてという生き方なので常に謙虚になれます。だからその謙虚な心はもう常に一番下から一番上を見る見上げる心になります。全てを光一元に見ようという心です。そうすると全部プラスに見えてきます。特に神さまをバックにしてみると全部バックが背景がいいので浮き上がって輝いて見えてきます。そういう生き方が常に常に全体を見る心になっていくんです。

 肉体人間を見ているんでもこの肉体人間だけというふうに見ると詰らないものに見えるでしょう、原子の寄せ集めですね。どれだけの価値があるかと計算しますよね。水がどれだけで鉄分がどれだけでと・・2,30円じゃない。肉体だけというふうに見てそんな計算し出すと価値が減って来ますね。でもバックに神さまを見るとこの肉体の奥に魂も心もあるし、いのちもある。さらに奥に大きい神さまがいらっしゃるという感じで肉体1個見るのでも無限の価値が出てきます。また肉体の細胞1個見るだけでも無限の価値が出てくるんです。もう全てが光り輝いて見えてくる、そうするとお金なんかで換算できないです。無限の無限の絶対価値がそこに出てくるんです。

 だから本当の価値は相対の比較上の価値じゃないですね。神さまから来る絶対価値が本物の価値なんです。本物のしあわせと言うのもそうです。神さまとひとつになった時が本物のしあわせで神さまから離れた途端に、これはもう偽物のしあわせです。神さまがしあわせの本体でしあわせそのものだから神さまを感じ取れないしあわせなんてあっという間に消えてしまうかもしれない。そして永続しないと思う。神さまをしっかり捉えたしあわせは絶対消えないです。永遠に続くんです。ちょうど太陽の光線が永遠にずっと放射され続けるような感じです。今現れたしあわせが消えても奥からどんどん出てきます。無限に無限にトコロテン式に押し出されて出て来るから。新しいしあわせがっずーっと続くから永遠に続くんです。そういう生き方が本当のしあわせを掴む為には絶対に必要になってくると思うんです。


 一点集中の修行

 だから
お祈りの道というのでもいろんなお祈りの道があると思うんですけどただありがとうございますというお祈りの道は常に全体を把握しようという生き方です。いろんな神さまに縋るのも別にいいんです。ただその部分としての神さまだけに縋っているとやっぱり全体を見失ってしまうから、どうしても小さいしあわせにとどまってしまいます。だからいつも全体から大きくしあわせを受け取るという生き方の為にはやっぱり的をひとつに絞るというのが大事です。それも大きい本当の的に絞らないといけないです。光源としての神さまいのちの本源としての神さま全ての大本としての神さまに心を絞り込んでいく一点に集中していくというのが必要になります。

 普通この世からあの世へ次元を変えるためには一点集中の修行が必要なんです。普通はこの世だけ見ているでしょう、それであの世をちょっと見たいという人は精神集中・精神統一の練習をしますね。
 例えば日の丸を前においてそれを見つめる修行するとか一点に絞り込んだ時に次元が変るんです。ちょうど今広がっているこっちに広がっている世界が一点に集中してむこうに抜ける訳です。そういう一点に集中の修行であの世へスッと抜けていくんです。ひとつの次元を通過する訳でまた次はそこからまたもうひとつ一点集中してさらに上へ抜けるとか下へ抜けるとかするんです。これを順番にしていくのは大変で面倒ですね。

 ありがとうございますは一番奥に一点集中です。全部開けてしまうような感じですべての次元を通過する生き方になるんです。だから順番に一点集中で昇っていくのもいいんだけどそれは普通のやり方です・・時間がものすごくかかりますね。でも一番奥へ光源へ神さまへ心を一点集中して高い次元へ上がっていくというのは一番やさしい方法です。光の柱が立つという感じの昇り方になります。すべての次元の扉を開けていくんです。でも一点集中というのはやっぱり必要なんです。その一点集中をありがとうございますに向けるのがいいんです。同じありがとうございますというのでもいろんなことを思いながらありがとうございますと言うのとありがとうございますだけに一点集中して一心不乱に唱えるのと大きい違いが出てくるんです。
 だから時間を限ってただ一分だけという一点集中をするんです。一日中と言うとちょっと気持が分散しますし、大変だなと思って最初から諦めたりしますね。でも一分間だけと決めると呼吸を止めてでも出来るんです。この一分間の一点集中のありがとうございますがもの凄い力になるんです。それでまた一分間とやればいいんです。そうすると過去も掴まなくなります。これだけしてきたという感覚じゃないんです。一分間だったけど命がけでお祈りが出来たという感覚が出てくる、それでまた過去を掴まないからまた新たに命がけでお祈りするという感覚になってきます。あまり短いとちょっと難しいです、一秒とかいうと自分の気持がまだそこまで入らないから。

 だから一分間くらいの単位ですると一日にそれを繰り返すとお祈りはぐーんと深まっていくんです。だから単に唱えるというのが一点集中の修行として本当は必要なんです。トイレに入ったら一生懸命唱えられる・・何もすることないものね。心が分散しないでしょう、だからお祈りもしやすいです。そういう一点集中のお祈りのしやすい場というのを、時というのを持つのがいいですね。いろんなことを最初は勉強でもなんでもそうだけど、しないといけない時はしなければいけないし、仕事もいろんな仕事を持っている人はその仕事もこなさないといけないし、もう全部捨ててありがとうございますにはなかなかなり切れないですね。
 
一日24時間お祈りばっかりしたら本当はいいんですけど段階がありますし順番に時期が来ないと出来ないからだからそれを補う意味で一分間の集中的なお祈りというのがいいんです。一日一回一分間でも構わないんです。本当に命掛けて一点集中の気持でありがとうございますを言えば一日分くらい持つんです。その一分間のお祈りを増やしていくのがいいんです。私もお祈りの練習のときそうしたんです。忙しい中でお祈りを一生懸命しようという時に一分間の命がけのお祈りを繰り返したんです。
 だから最初は一分間の命がけのお祈りを一日の合計で最低5,6時間はしたんです。それでも24時間じゃないですね。でもそれをどんどんと他の仕事を全部できるだけ減らしていって必要なだけに止めて他のを減らしていって時間を増やしてきたんです。本当はみんな習い事でも何でもしたいと思うんでしょう、いろんな勉強もしてみたいと思うんですね。でもこれはまだ思いの心の方ですね。いろんな情報を手にしていろんな勉強をしてみたいというのも枝葉に心を向けて枝葉から勉強していこうという見方です。

 例えば一本の木の全体を知るための勉強というと葉っぱが無限にあったら無限の葉っぱを順番に調べてから中心の幹に戻って全体を把握しようというのはこれはもう大変ですね。でも最初に一番根本に一番根本の幹に根に向けてそこをしっかり把握したら枝葉の葉っぱの方はもう勉強しないでいいらしいです。全部判ってくるんです。
 勉強の仕方も二通りあるんですね。枝葉の方から勉強して全体を把握していこうというのと一番奥を根本を把握して全体を先に知ってしまうというのとがあるんです。神さまを先に知ったら全部判るんです。でも神さまを知るために枝葉の部分から勉強し始めると無限に年月がかかるんです。どちらを選ぶかという・・やっぱり根本を先に掴んだ方がいいですね。
 いろんな情報を智識として身につけてそこから神さまを把握して勉強していくよりもお祈りをしっかりして神さまを先に捉えて、そこから現れてくるものを把握してしまうという、だから神さまを捉えて道を把握するというのが本当ですね。道はもう全体に通じているから奥をしっかり捉えたら全体が判るんです。
 でも暇な人はゆっくりと枝葉からというのもいいんだけど今はスピード時代だしできるだけ早く悟らないと損です。だからいろんな情報が流れてくると思うけど大事な情報は一応目を通すのも必要だし、ただそれを勉強する時に神さまと繋いで勉強するんです。それで同時にそこにお祈りを加えないといけないですね。

 
報として捉えているとまだ枝葉になるんです。その情報をお祈りを加えることによって本当の意味で生かしていけるんです。どんな情報もそうです。そこにお祈りを加えることによってその情報を本当に生かしていけるんです。お祈りで奥に入ってその情報を奥から見直すと本当の意味が判ってくるんです。表面の情報だけで勉強していたら本当の意味がわからないです。全体の中でどこに納まるかが判らないんです。でもお祈りを加えると全体の中のどの部分の情報かということがよく判るんです。それで全体にとっての部分としてのその役割がわかったら本当の意味の正しい理解が進むんです。それでその情報を本当に生かしきれるんです。そういう勉強の仕方が一番いいんですね。

 本当はお祈りだけに絞り込めれば最高なんだけどそこまでいける人はやはり限られてくると思います。先に勉強している人しか出来ないですね。過去世で過去にいっぱい勉強し尽くしてもう飽きてしまったと言うくらいのそういう人はお祈りだけに絞り込んでも自分が納得するんです。まだ勉強していない人、足りない人は先に情報をチョットは知っておきたいというところがあるんです。そういう人はさーっと勉強するんです。ぱーっと速読する・・情報の全体を軽く把握すればいいです。そこでお祈りを加えて情報の本当の意味を掴んだらもうそれで卒業ですね。そして神さまの御心をキャッチして奥から見直していくようにすればいいですね。一番大事なことは常に情報の源は神さまでないといけないんです。

 本当の師匠は神さましかないというとこまで行かないと、いろんな情報が来たらそこに心を向けて囚われていくでしょう・・あの人の情報は本物で正しいと思うとそこに縛られてしまう・・また他からもいろんな情報が出てくるでしょう、似たような情報はいっぱいありますね。そうすると似たような情報がいっぱいあるときは迷ってしまうんです。
 宗教団体も同じですね。いろんな宗教団体があっていろんな教えがあるでしょう。この教えはすばらしいと思って入るけどそれに似たようなものがいっぱい出てくるんです。あの教えも素晴らしいこの教えもすばらしいさてどれを選ぶかということになるんです。ひとつだけだと損したように思うんですね。それでどれがいいか悪いかも判らなくなってくる、迷ってくるんです。それは宇宙の大神さまを情報の源に見ていないからです。教えの一番根本においてないとそうなるんです。だからどんな宗教の教えも宇宙の大神さまから出て来ている教えなんです。いいのも悪いのも必要があって出て来ているだけだからだから一番奥へ心を向けてそこからすべての情報を受けるんだという気持にならないといけないです。

 だから宇宙の大神さま以外に途中に自分の師匠を置くといけないんです。途中で止まったら損しますね。お釈迦様が素晴らしいとお釈迦様が最高の指導者で師匠なんだと言うともうそこに縛られてしまうでしょう、でも宇宙の大神さまから見たら肉体を持って生まれた釈迦様なんて爪の先の垢みたいなものなんです。だからこの肉体人間にどれだけ立派な人が現れたって爪の先の垢がきれいか汚いかくらいの差です。本当にそうなんです。本体の本心の無限に無限に輝いた自分から見たら肉体なんて本当に爪の先の垢なんです。だからそういうのに心を向けてとらわれるというのはやっぱり間違いですね。
 だからこの世に自分の師匠なんか置かないでいいんです。守護霊さん守護神さんにといったってまだ大したことないです。やっぱり宇宙の大神さまに心を向けないと、それでそこから自分に必要な教えなり何なり受けたらいい、智慧でも何でも湧いてくるように受けたらいいんです。必要なときは神さまからどこからでも来るんです。無限に遠い星の彼方からその情報が来るかもしれない。でも必要だったら神さまはいくらでもそれをしてくれるでしょう、どこからでも必要なものを与えてきてくれるんです。

 だから過去の自分の師匠を全部切り捨てないといけないんです。縛られるとダメなんです。学校の先生でもいろんな先生がいて中学には中学の先生で、でもそれはそれで宇宙の大神さまからの自分の成長に合わして現れた指導者・先生という形で受けたらいいんだけどこれを宇宙の大神さまからの現われというふうに見ないとバラバラに見ていると中学校の先生には中学校で受けた恩を返さないとと思うでしょう。そうするとなかなか上へ行けないです。先ず恩を返してからというと上へ進めなくなります。どうしても縛られてしまう。

 宗教団体がそうですね、そこで病気でも治してもらうともうそこで命を助けられたから救われたからと離れられないです。特に恩を返そうという気持の強い人はそうでしょう。せっかく恩返しの心を持って素晴らしい人が縛られたら損です。そういう場合でも本当の救いの力は宇宙の大神さまからしか来ていない筈なんです。本当の与え主・送り主は宇宙の大神さまだけなんです。だから常にそこから神さまの助けを受け入れるというのが必要です。

 いろんなプレゼントを宅急便で送ってきても同じ意味でしょう、本当の送り主は宅急便の配達人と違うんです。お礼はどこへしたらいいかということでしょう、お礼の葉書を宅急便の配達人に出しますか?違うよね、本当の送り主に御礼状を出さないといけないですね。だから感謝の心を届けるというのでもそうです。本当の送り主に届けないと・・それがありがとうございますと宇宙の大神さまへ向ける生き方ですね。だから普通人に対してありがとうございますと言っているのも本当は宇宙の大神さまへ向けている筈でみんなよく知っている筈なんです。
 肉体人間が送り主じゃないと判っている筈です。もう知らず知らずのうちにありがとうございますと宇宙の大神さまへ向けているんです。これが本当は正しいんです。でも人の場合は思いの強い心の場合は私に感謝せよという、神さまへの感謝を途中で自分のものにしてしまうんだけどそれは間違いです。すべての感謝というものは神さまに届けないといけないんです。どういう感謝も神さまへ届けたらまた神さまからプレゼントでもいっぱい与えてもらうんです。これはやっぱり神さまへの感謝を忘れるとちょっと引っかかるかもしれないです。
 毎日毎日無限の宅急便を送っているのに感謝してくれない御礼状が届かないんだったら迷惑かかるのかもしれないと宅急便が止まるかも知れないです・・神さまはそこまでしないけど与え続けるだけなんだけど・・やっぱり本当の神さまのプレゼントを受け損ないますね。だから感謝の心は常に宇宙の大神さまへ向けるというのが正しいです。

 謙虚と卑下慢

質問:
 謙虚と卑下慢の違いについて・・・。

ありがとうございます:
 謙虚という言葉、謙はへりくだると言う意味です。虚というのは何もない状態空っぽの状態を指し示すのです。仏教に虚空蔵菩薩という名前があるんですが空というのは仏教においては無限の無限のプラスがいっぱいという状態なのです。で虚空というのは絶対から無限の無限のプラスが放射されて宇宙が生まれているという見方を虚空というんですね。虚空蔵菩薩というのもそういう意味で宇宙全体の無限のプラスがいっぱいという姿を指しているわけなんです。それで虚というのは空から生まれて空を大きく包み込んでいる姿をあらわすんです。この虚というのは全体を空っぽの心受け入れる状態をしめしているんです。

 だからそういう意味で謙虚というのは一番下へ下へ降りていって光一元に仰ぎ見て宇宙の全体を無限の無限の輝きがいっぱいとなっているすべてをこの中心としておおもとにして全体を受け入れてしまう姿です。だから無限の無限のチャンネル全部を一番下から受ける心そのものが謙虚なのです。一番下から受けると全部プラスの番組にみえるんです。途中から見ると低い番組・高い番組があるプラスの番組・マイナスの番組と区別してしまうんですけど、一番下から眺めると無限の無限のチャンネルの番組は全部プラスに見えてくるんですよね。謙虚というのはそういう一番下へ降りて神さまからの無限のチャンネルの全部を光一元に受け入れる心の状態のこと、つまり全部を受け入れる心です。

 卑下慢というのは感謝の心とは違う思いの心の方の状態です。謙虚は感謝の心そのものなんですけど卑下慢は思いをめぐらす心です。思いの心というのは過去を掴んでしまっているんです。マイナスの低い番組をひとつ掴んでそれを放せない状態なのです。それで自分はマイナスなんだダメなんだと罪悪人の凡夫だというそんな感じに主張する心なんです。だから謙虚とは正反対なわけです。つまり謙虚になるために何が必要かどうすればいいのかというと・・それはもう感謝だけしたらいいですけどね。ありがとうございますを徹底すれば必ず謙虚になれるもんなのです。謙虚さというのは感謝に比例していくんです。感謝すればするほど謙虚になります。だから感謝が無限に深まったら無限の謙虚さがそのまま即座に出てくるんです。謙虚になりたい人は感謝さえすればいいんです。

 思いを消す二通りの方法について

 私のことで体調がいいかどうかとみんな心配してくれるんですけどでもこれは病気じゃないんです。私は神さまに命を捧げて二十歳からお祈りひとすじでかみさまのお手伝いをさせて欲しいという生き方をとってきて、それで人の思いを消す為のお手伝いをしているんです。ただ思いというのはみんなそれぞれにいっぱい持っていてその必要に応じて神さまが救いの手を差し伸べる時に思いを取って貰うんです。本当に強い思いの心で自分の思い通りに生きたいという時はまだ神さまの助太刀はなかなか入らない・・神さまはその人の自由に任せてくれます。
 でもある程度謙虚になって行き詰まったりして神さまの御心に従いたいとか、ちょっと謙虚に神さまの助けを受け入れたいという気持になった時必ず神さまは助けに入ってきます。そういう時は神さまはその人の思いを早く消してあげようとしてきます。

 思いを消す時に神さまの強い光を投げかけてもらって消す方法と、誰かに吸い取らせてその人を間において消す方法と大きく分けると二通りあるんですよ。直接消されたり大きい光を投げかけられたりすると七難八苦が必ず起き出すんですね。それで心が燃え上がるんです。その人のまわりが七難八苦の苦しみでいっぱいになるから、だから神さまはその人がそれに耐え切れるかどうかを見きわめてくるんです。堪えられるようならどんどん苦労を与えてくるのです。でも、その代わり思いを消してくれるんですけど・・・・、だから大病しても自我の思いがサッと消されて心が澄み切りますね。大きな事故が起こっても事業で失敗しても大きい淨めなので思いが消えしてもらえるんです。

 ただそれにどの程度耐え切れるかは人によってずいぶん違います。神さまのほうはやっぱりあまり苦労はさせたくないみたいで、だって、嫌がってにげだしてしまうでしょ。それである程度お祈りする人を神さまは身代わりに使うんです。肩代わりさせるんです。それで神さまの依頼を受けたそのお祈りする人が波を合わせてその人の思いの波を吸い取るんですね。そうするとお祈りする人はかなり色々強くなって苦しみに耐えて痛みに対して強くなっているから神さまの希望する救いたいその人に心を移させるんです。そうすると思いがスーッと伝わってその人の身代わりに振り替えてもらえるんです。それで神さまがそこへ光を当てて消してくるんです。

 だから私の場合は人の心にスッと波を合わすとスッと吸い取り紙みたいなもので・・スッと来るんです。病気なら病気の同じ症状になってしまうけど、でも瞬間に消してもらうんです。ただ大勢の人だとひっきりなしでしょう、続くような感じで同じ状態が続いている様に見えるんだけど違うんです。一瞬一瞬変っているんだけど、でもちょっと大変そうに見える時もあるんですね。すぐにパッと消して暫くじっとしているといいんだけど連続させるとなんかしんどさが続いたように見えるんです。
 でも本当は違うんです瞬間瞬間消してもらっているから思いも新しいのと置き換わっているんです。だから大変というふうに思ってくれるんだけど、もし手伝いたいとか助けてあげようという場合はみなさんが思いのない自分に早くなってくれたらいいんです。もういつもしっかりお祈りを積み重ねて思いを消せる自分というのになってくれたら私も助かります。
 そしたら私も何人もの思いを引き受けずに済むからいつも絶好調になる・・今もほんとは絶好調なんですけどね。だから心配してくれなくても本当はいいんです。いつも感謝を積み重ねてもらうだけでいいんです。それだけでわたしは大助かりです。お祈りしている人の分でも思いはいっぱい来るんです。お祈りしていない人の思いをとるのは大変です。でもお祈りしている人の思いは来ても番組が高いでしょう、感謝しているというのは番組が高いから同じ無限の思いを受けても高い番組の受け方は楽なんです。同じ無限の思いを受けても瞬間に完全燃焼するんです。症状が全然出ないです。でもみんな迷惑かけているんですよ。(笑い)それでも迷惑をかけてるかけ方がお祈りする人としない人では違うんです。

 一分間のお祈りの積み重ねについて



 それで瞑想とかお祈りは本当は時間に縛られない方がいいですね。
いつでもいいから一分間のお祈り、一分間だけ一生懸命するお祈りを積み重ねるのが一番です。そうするとすべての時間がお祈りに満たされてくるんです。特に寝しなです。眠る前に一分間命がけで祈るんです。そうすると夜中中祈り続けている・・これが一番効果が大きいかもしれないです
 眠りというのは必要に応じて起こるんです。長い時間寝る人もあるし短い時間で済む人もあるし眠らなくて済む人もあるんです。大体守護霊さん守護神さんは眠ってないです。24時間です、みんなを護るんでも・・そういう段階になると眠らない一睡もしないです。それでいいんです、いつも神さまのエネルギーがいっぱいだからエネルギー不足になることはないから眠らなくていいんです。

 ただ肉体人間の方はやっぱりエネルギーを受け損なっているところがあるでしょう、感謝のお祈りを忘れているから補給補充が出来てないんです。だからある程度減ったらもう一回補充し直すそれが睡眠・眠りなんです。魂が抜けて高い次元へ上るんです。そこで補給してもらってまた戻ってくるという感じです。だから人によったら眠らないで済むこともあるんです。これは自分だけの力じゃなしに守護霊さんがちょっと助太刀するんです。守護霊さんが合体してきてくれたら眠らないで済むんです。
 
 だから何か大事な仕事とか大事なことがあるときは
守護霊さんが合体してくる応援してくると眠らないで頑張れるんです。でも眠り続ける時もあってもいいんです。赤ん坊はよく眠ります。赤ん坊の時は成長が早いから、眠っているけど成長が早いというのはやっぱり必要な働きを神さまがそこでしっかりとしている時です。ふつう起きていると思いを出します、小さい子供はあまり出さないかもしれないけど思いを出すと神さまが働きにくいです。

 だから怪我とか病気した時にみんなよく眠ります。普段より眠る筈です。癒しの働きです。一年くらい眠り続けることもあるかもしれないです。その時の神さまの働きは大きいです。何か必要があって働いてくれているんです。植物人間はどうなのかと・・でもこれもマイナスに見る必要はないですね。必要があってそういうふうになっているので必ず神さまが働いているから何かプラスに変えてくる絶対にマイナスじゃないです。
 
大きい意味で気づかない所に神さまの大きい働きがあるんです。だから全部プラスに見えた方がいいですね。

 神さまのお手伝いをする人を増やす

 これからは特にお祈りする人を神さまはしっかり養成しようとして来ます。これは自分のしあわせを願ってお祈りする人じゃないので神さまのお手伝いをする人を増やそうとしています。
 
今までの宗教の殆どはご利益信仰です。自分がしあわせになるために神さまに縋ろうとしていたんです。でもそれでは本当の神さまのお手伝いは出来ないです。自分に合わせて助けを受けているだけでお手伝いじゃないです。
 
でもこれからは神さまのお手伝いが必要です。命を先ず神さまに捧げてこの命を神さまの御用にお使いくださいという気持ちの人が感謝行をすると神さまのお手伝いになるんです。そうすると大きい力が発揮できますね。

 神さまのお手伝いというのは思いを大きく消せるんです。そして神さまの御心を高い次元の番組をスッと降ろせるいろんな働きになって出てくるんです。

 これからは命を神さまに捧げてお祈りする人を神さまは必要としているんです。ここに来られる人は自分の命は神さまに捧げるというくらいの気持になっている人ばっかりです。

 命を捧げますという気持ちだけ

 でもその気持を言葉に表して神さまと約束する方がいいんです。この命を神さまに捧げます、どうか御用にお使いくださいというふうにすると、神さまは護りやすくなるんです。その人の自由意志を尊重する神さまの立場からするとやっぱり捧げてくれないとその人の思いを勝手にとって消せないんです。命を捧げますと言った時にその人の持っているもの全部神さまのほうへ渡るんです。そうするとその思いを神さまが自由に消してしまえるんです。そうすると神さまのお手伝いをしやすくなるという意味でこれからは命を捧げますという人を必要とするんです。

 ただ気持だけなんです。命を捧げますというふうに言葉にして心に思って神さまに渡せばいいんです。それで同じようにありがとうございますの感謝行をすれば神さまの本当のお手伝いをさせてもらえる人になります。そういう人が本当の神人、神なる人に生まれ変わる・・悟った人に生まれ変わるんです。
  
 
ここが分かれ道なんだけど命を捧げますというか言わないかの違いです。過去に悟った人は全部自分の命を神さまに捧げますと言った人なんです例外なしに。私もそうだけど五井先生もそうだしすべての悟った人は同じです。この命を捧げますと言った人です。それで思いを消してもらって神さまのお手伝いに入っているんです。この言うか言わないかで変るんです・・言った方が得ですね。それで忘れたらもう一回言うんです。そうしたらずっと護り続けてもらえます。早く思いを消してもらえます。無限の思いでも必要だったらサッと消してもらえるから、あと感謝が湧きあがるように変えてくるんです。そうしたらもの凄く楽です。感謝が楽しくなります。しあわせいっぱいという感謝行になってくるんです。

「維摩経」は悟りの神髄

ーありがとうございますー
維摩経は聖徳太子さんの、惟喬親王さんもそうですね、この維摩経の真理を本当に理解して、体得して、そしてそれを人に伝えようとされたのです。それだけ素晴らしい内容を持ってるのです。

・・この世が輝いて見える・・

 それがどういう内容かというのをちょっと具体的にいくつかあげてみたいと思うんですけど。普通、心の目を開いているかどうかで、
本当の意味の感謝の心が深くなって心の目が開けると、この世が輝いて見えるのです、本当にはね。
 ところが心の目がまだ開いて無い状態だと、この五感六感の世界がこのままそのまま見えるわけですね。
だから、眩しいというところまで行かないです。この世は「娑婆世界」とも言うんですが、娑婆世界がそのまま娑婆世界に見えるわけなんですよね。
 ところが心の目さえ開けば、この娑婆世界はそのままで、無限に無限に輝いた世界が、光明の楽土があるんだというのがわかるんですね。
 実際そうなのね。心の目さえ開けたら見えるですよ。、

 ただ、みんなはまだ目を閉じてるのです。盲とまで言わないでいいですけどね、目を閉じてると言った方がいいかも知れんくらいなんです。心の目をまだ閉じて開いてない状態、これもわざとしてるんですけどね。目が見えないんじゃなくてですね、瞼(まぶた)がちょっと下に垂れてるというか、はははは、(ちょっと爪楊枝でちょっと開けばいいよ。)だから、維摩経にはその根本を説いてるんですね、みんな目を閉じてるだけなんだという意味なんですけどね。本当は心の目さえ開いたら、神さまの世界が、無限の無限の輝きの世界が厳然とあるよというのがかかれているんです。

これがまず一番目にかかれていることなんですね。⇒この世が輝いて見える

・・この世があると掴むから、神さまの世界を忘れる・・

この世をみんなは本当のものとして普通は見てるでしょう、この世が本当にあるんだという感覚でねおもってしまうわけなんですね。ところがこの世はみんな無常なんだというのほんとうなんですね。本当に今の科学でもそれは実際に証明されてまいるわけなんですね、それはどういう事かというと、「単なる波動に過ぎない」という意味なんですね。普通「もの」っていうんですけど、本当はものじゃないんですね、固定した動きがたいもの、動かないものじゃないんですね。波の変化に過ぎないというんです。
 波の変化というのはとらえどころがないでしょう、実体がないんですね。原子の原子核と電子の関係をよくみたらわかるんですけど。物質ってぜんぶ原子の寄せ集めというふうにみるわけでしょう。ところが、原子核の周りに電子が回ってる姿を見たときに、原子というのは、もう何もないような姿をとっているんですね。
 例えば、一個のピンポン玉のまわりを二・三キロ離れた電子、小さいのが回ってるという感覚でしょう。だから、原子核の電子に大砲をいっぱい打っても当たらんという感じなんですよね。全然すれ違ってしまうんですね、全ての原子同士が全然すれ違ってしまうんですね。つまり、穴だらけ、空間ばっかしという感覚でしょう。そうすると実態が本当はないはずなんですね、今の科学で言ってもそういう見方ができてるでしょう。
 
この世は本当に無常なんですよ、みんなあるように錯覚してるだけ。
 丁度、テレビ番組を見てあるかのように思ってるぐらいなんですね。
 でも、本当は波の変化だけが、電波が来てるだけということなんですけど。実際はそうだと思うんですね、
 だから、この世は無常というふうにとらえる方が正しいね。
 この世があると掴むから、神さまの世界を忘れてしまうのね。でも、「この世は無常なんだ、仮の世界だ」というふうにとらえた時は、本当の神さまの世界をしっかりと求めようとするきもちになるね。 
 
これが二番目にかかれていることなんですね。⇒この世は無常という意味を説いてるのね。この世があると掴むから、神さまの世界を忘れる

・・本当の愛の一体感・・

 これも有名な話なんですけどね、「維摩居士(ゆいまこじ)」という、本当は悟りを開いて立派な人が病気になるはずがないの、本当はね、心は立派だしね、病を現わす必要は全然ないでしょう。ところがある時、身に病を現わして「自分が病気」という姿をとりながら、いろんなお釈迦さんのお弟子たちをやりこめたり説法するんですね。
「何故、この病気の姿をとるのか」という質問を文殊菩薩が維摩にするわけね。
 
「衆生病むがゆえに我病む」という答えを出すのね。これはすごいことなんですよね。みんなが病気の姿をとってるから、自分が代わりに病気の姿をとるんだという意味なんですよね。これは本当の愛の一体感があるということなんですよね。
 みんな自分という感覚なんですね。だから、自分の心さえ清まったら自然に世界が「浄・清」まるという感覚なんですね。本当に自他一体、自分がその全ての雛形みたいな感覚を持ってることなんですね。
 だから、みんなの病気でも、たいしたことないこれを自分が吸い取ってしまえば自分の中でそれを消せばみんな健康になるという感覚でしょう。

 
本当の自他一体感というのがあるのね、ここがまたすごいよね。究極の愛そのものと言えるでしょう。
 これが三つ目にかかれている大きい教えだと思うのね。⇒本当の愛の一体感 

・・一個の原子の中にも大宇宙がある・・

次に「入れ子構造」の話があるのね芥子(けし)の種1ミリ以下かなそんなちいさな芥子粒の中に「須弥山(しゅみせん)」という富士山より大きい山を入れてしまうという、奇跡を見せるくれるのね。或いは人間の一つの小さな小さな毛穴に大きい海の水をぜんぶ流し込むという奇跡を見せるわけなんですよ。
普通、こんなん不可能でしょう、わからないよね。理解できないですよね。これは入れ子構造の宇宙というのがわかったら、当たり前のことなんですね。
だから、一個の原子の中にも大宇宙があるんですね。そういう順番に入れ子構造の姿をとって宇宙って重現無碍(じゅうげんむげ)の姿をとってるいるわけなんですね。
この真理を説くってすごいことなんですね。普通は、そんなのはちょっとわからないと思うんだけど。こういう真理が本当にわかったのですね。 だから「維摩居士」という言い方もそうだし、聖徳太子さんでも惟喬親王さんでもそういうのが理解できたんですね。
ここらはすごいと私は思うんですよ。

・・空っぽへ「無限の無限の輝きが一杯!」という姿で神さまが入ってこないと嘘。・・

  その次はね、菩薩というのはすべてを常に感謝で礼拝するんです具体的に「空の現われ」というふうにね。空っぽという意味じゃないんですよ。「空」という言葉は、空っぽとも読めるんでね。
その空っぽのほうに執(とら)われると間違った解釈をしてしまうんですね。

でも本当はもう一つ奥があったのです。普通、自分の全てを神さまに捧げ尽して、与え尽して、自分の中を空っぽにすると、その空っぽの中へは神さまがスッと入りやすいですね、与え返してくるんですね。
 だから、神さまを受け入れる準備段階としては空っぽというのも大事なことなのですね。
自分を全て神さまに捧げ尽してなくしてしまうという。そう実行すると空っぽの状態なんですね。ただ、その空っぽという状態が神さまじゃないんですね。その空っぽへ「無限の無限の輝きが一杯!」という姿で神さまが入ってこないと嘘よね。この神さまが入ってきた姿が本当の「空」なんですね。ところが、その空っぽの状態を、準備の状態ところをみんな「空」と勘違いしたのね。それも必要なんだけど、空っぽになるというのも、まず準備として必要なんだけど、その後のほうがもっともっと大事だったんですよ。
本当の「空」は、絶対の姿は「無限の無限の輝きが一杯!」という姿なのね。この意味で、「菩薩は衆生を拝む」というのね。みんな無限に無限に輝いているという見方ね。これが菩薩の生き方なのね、全てを礼拝して拝み続けるというのね。
 だから、「無限の無限の輝きが一杯!」というふうに拝んだ時に、人というのはどう見えるかでしょう。肉体的に見る男の人女の人という区別はないよね、そういう区別はつかないよね。
無限に無限に輝いているという見方をする時はね。そして、魂的な姿も無いのよね、男性的な魂とか、女性的な魂とか無いのね。もう一つ奥をみるのね。両方の性格・性質をぜんぶ兼ね備えた絶対神的なものを、丁度、観音様のような姿よね。
男性か女性かわからない姿だけど、男性的な姿も女性的な姿も自由自在に発揮できるという。それでいて、無限に無限に輝いているという姿なのね。それが「空の現われ」というふうにみる見方よね。
 だから、もう
常に肉体人間を目の前にしても、みんな無限に無限に輝いているというふうに常に拝み続けた、みんな無限に無限に輝いているという見方よね。これが本当の菩薩の生き方だと教えてるのね。その次は、蓮の花って泥の中に咲きますよね。これはやっぱりすごい例えになるのよね。泥の中に根を下ろしているからこそ蓮の花が咲くのよね。
 だから、煩悩の思いの中に根を張ってこそ、悟りの世界の輝いた、本心の輝いた姿が花開くというのね。ただ、泥の中だけを見てると悟ってる姿はわからないよね。この両方を見ないといけないね、泥の中と泥の外の花の開いている姿と同時に見ると、両方素晴らしいでしょう。蓮の根を育てる泥も大事だしね、表面に花が開いている蓮の花の美しさも大事よね。
 この両方をワンセットで見えた時に「煩悩即菩提」というかね、煩悩がそのまま悟りの姿を現わしてるのね。どっちがいい悪いは言えないね、両方必要なのね。


 古神道で言うと、顕界と幽界と二つに大きく分けてね、光の世界と闇の世界に分けるのね。この光の世界と闇の世界を二つに分けたままでは駄目なのね。これを「一つにつないで光一元に見る」というのが大事なのね。だから、闇の極から光一元に眺めて、光の本当の姿をとらえるね。そうすると、闇夜に輝く月明かりも「ああ、素晴らしいな」と思うでしょう。それで昼の太陽も「ああ、素晴らしいな」という感覚よね。だから、全てをプラスにプラスに見ていけるのね、マイナスには見ないよね。
 だから、煩悩の思いの心も、感謝の光の心もどちらも一元に眺めたときは、思いも必要ね、感謝も必要でしょう。
 ただ、感謝のほうを強くしないと、思いに執われ過ぎるとちょっと困るんだけどね。感謝の心で思いを眺めたら、これはどういう見方かというと、太陽の方から地球の表面に浮かぶ雲を眺めたら、雲って光り輝いてるよね、上から眺めた雲ってきれいなのね。下から見るから黒雲に見えるんでしょ。太陽の光がさえぎられた状態になったときに、はじめて黒雲に見えるね、闇になるのね。
 
 だから、
感謝の心で眺めたらいいのよね。そのまま全て光り輝いて見えるもんね。それが泥沼に咲く蓮の花で例えてる話なのね。「すでにみんな悟ってるんだ」という、迷ってる姿をしながら悟ってるんだという。本当に実際はそうなのね、すでに悟ってるのよね、ただ、迷ってる姿を掴みすぎてるというところがあるでしょう。この肉体人間だけを掴んでるというのがあるのね。そうじゃなしに、肉体人間も掴んでもいいよ、それ以上に悟った、無限に無限に輝いた自分をしっかり思い返せばいいね。その両方をみてワンセットでとらえた時が、本当の意味で、みんな悟ってる姿よね。そういう話があるのね。
  
・・・・「不二の法門(ふにのほうもん)」・・・・

沢山あるんだけど、もう一つ最後に出てくるのが、
「不二の法門(ふにのほうもん)」ってね、二つとない法の門なんですけど。「不二の法門に入る」という、これはどういうふうにして入るかね。普通は説法して教えるのね。
 「不二」というのは、二つと無いというので、全てを一つにみる見方というふうにみた方がいいかも知れんね。例えば、天照大御神さまととらえるときでも、この「天照大御神さまが全て」という見方ですよね。
天照大御神さまを対立させていろんな神さまを並べ立てるんじゃないのね。

 「天照大御神さまだけが全て」という見方をこの「不二の法門」と言えるかも知れないね。
そういう世界に入るためには何が必要かってね、これはいろんな説法の仕方もあるのね。ただ、説法したからわかるかというと、わからないかも知れないね。やはり、言葉を超えないといけないね。言葉というのは、例えば太陽に対してでも「あれが太陽だ」という指さす姿が言葉なのね。指が言葉に当たると思うね。でも、実際の太陽は指と違うのね。太陽そのものをしっかりとらえるというのが大事ね。「そういう意味で言葉を超えて本物を掴む」というのが必要になるね。
 それで、「維摩居士」はいろんな菩薩や仏さんは説法をするけど、自分は黙然(もくねん)としてしまったのね。
 それは、もう「維摩の一黙百雷の如し」という、こういう言葉があるんですけどね。フッと黙ってしまうことが、それで雷が百落ちるぐらいのすごい響を現わすわけね。本当の悟りはこうなんだといういのを、口を閉じることによって示すというのね。それぐらい凄かったというのね。
 それで「不二の法門を黙することによって示した」というね。本当は、もう言葉じゃないのね。

・・指を一本動かすのも神さまに動かしていただいて・・

 言葉を超えたものが本当は天照大御神さまね。感謝行でも「ありがとうございます」の言葉を使うんですけどね。これはまだ方向づけよね、また神さまを呼ぶ言葉でもあるのね。その後よね、神さまが出てきたときに言葉を超えて感じるのね。また、言葉を超えて神さまを感じていかないといけないね。本当の天照大御神さまという姿を、神さまの無限に無限に輝いた全体の働きの姿をしっかりと感じるというほうが、本当の「ありがとうございます」なのね。「ありがとうございます」には、言霊としての「ありがとうございます」と、言葉としての「ありがとうございます」と二つあると思うね。この言霊としての、神さまの働きとしての「ありがとうございます」のほうをしっかりとらえたら本当の感謝行よね。そういう意味では、言葉にあまり執われないほうがいいのよね。何回唱えなならんとか、心で唱えないと駄目なのかと思うでしょう。本当はそうじゃないね、言葉は道具として使うんだけど、あくまでも神さまを感じるのが目的ね。「ありがとうございます」の言霊のほうをしっかり感じ取るのが本当の意味の感謝になるね。そういう意味だったらあまり言葉には執われなくていいよね。ただ、それは活用すればいいというだけね。だから、感謝の本当に湧き出る時は、「ありがとうございます」を言わなかってもいいのよ。言葉を超えてるの、もうすでにね。
 また、「感謝と奉仕」というこの二つの悟りの両輪、車の両輪みたいなものですけど。奉仕できたときはもう感謝なのよね。極端に言うとそうよね。奉仕させてもらったというときは、即、感謝になってるのね。神さまを感じて、神さまの働きを受け入れて、神さまに動かせてもらってる姿なのね。だから、奉仕になれば感謝なの。奉仕になるまでは、まだ「ありがとうございます」と呼んでる状態。だから、奉仕に入るほうが本物になりやすい。
 
ただ、この奉仕も「自分が、自分が」というと良くないね。自分をなくしての奉仕が大事ね。
 だから、神さまへ自分を捧げ尽して、命も神さまに預けきって、そして「神さまのお手伝い」という気持ちになってると「神さまにさせていただいている」という奉仕よね、お手伝いになるから。
 だから指を一本動かすのも神さまに動かしていただいてってね、そして「ありがとうございます」という喜びが湧き上がるのね。 
 
 そうすると、そのまま悟りの姿を現わしてるね。

Last updated: 09/01/2018 22:20:16

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