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「如此(かく)乃良(のら)ば、天津神(あまつかみ)は天磐門(あまのいわと)を
押披(おしひらき)て、天乃八重雲(あめのやえぐも)を伊豆(いず)の千別
(ちわき)千別(ちわき)て所聞食(きこしめさ)む。国津神(くにつかみ)は、
高山之末(たかやまのすえ)短山之末(ひくやまのすえ)に上坐(のぼりまし)て
、高山之伊穂理(たかやまのいほり)短山之伊穂理(ひくやまのいほり)を
掻別(かきわけ)て所聞食(きこしめさ)む。」
「ありがとうございます」と祈(いの)れば、必(かなら)ず宇宙絶対統一神
(うちゅうぜったいとういつしん)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)が
現(あらわ)れて、必要(ひつよう)な助(たす)けを的確(てきかく)に与(あた)え
てくださるのです。天津神(あまつかみ)(顕界(けんかい)の八百万(やおよろず
)の神(かみ))も国津神[くにつかみ](幽界[ゆうかい]の八百万[やおよろず]の
神[かみ])も共[とも]に、天照大御神[あまてらすおおみかみ]の分身[ぶんしん]
です。だから天津神[あまつかみ]も国津神[くにつかみ]も、天照大御神[あま
てらすおおみかみ]の御心[みこころ]のままに発動[はつどう]するのです。無限
[むげん]の無限[むげん]の大光明[だいこうみょう]の発進[はっしん]です。何者
[なにもの]も邪魔[じゃま]することはできないのです。天磐門[あまのいわと]は
自然[しぜん]に押[お]し開[ひら]かれ、天津神[あまつかみ]の働[はたら]きは
自然[しぜん]に展開[てんかい]するのです。顕界[けんかい]の無限[むげん]の
無限[むげん]の構成物[こうせいぶつ]は、一大調和[いちだいちょうわ]・一大
統一[いちだいとういつ]した姿[すがた]に配列[はいれつ]されるのです。
祈[いの]りは時間[じかん]・空間[くうかん]を超越[ちょうえつ]しているの
です。祈[いの]れば、神[かみ]さまの発動[はつどう]があり、必要[ひつよう]な
ものは的確[てきかく]に与[あた]えられて、その後[あと]で「祈[いの]り言葉
[ことば]・ありがとうございます」をお聞[き]きくださるのです。祈[いの]ろう
とした瞬間[しゅんかん]に、神[かみ]さまの発動[はつどう]があり、「ありがと
ございます」と唱[とな]え終[お]わる前[まえ]に、すべての必要[ひつよう]な
助[たす]けは与[あた]えられ済[ず]みなのです。「ありがとうございます」と
唱[とな]えたから、助[たす]けてもらえるのでは無[な]いのです。唱[とな]え
終[お]わる前[まえ]に、先[さき]に助[たす]けられているのです。お礼[おれい
]の感謝[かんしゃ]もどんどん遅[おく]れてしまうのです。本当[ほんとう]に
申[もう]し訳[わけ]なく・かたじけなく・勿体[もったい]なく・有[あ]り難[が
た]き極[きわ]みなのです。
国津神[くにつかみ]も同様[どうよう]に、幽界[ゆうかい]のすべてを、適材
[てきざい]適所[てきしょ]に配列[はいれつ]し、光一元[ひかりいちげん]に整
[ととの]えて、すべてに満足[まんぞく]を与[あた]えてくださるのです。そし
てそれぞれに必要[ひつよう]なものを的確[てきかく]に与[あた]えて、その後
[あと]で「ありがとうございます」をお聞[おき]きくださるのです。高山[たか
やま](程度[ていど]の高[たか]いもの)は高山[たかやま]なりに、短山[ひく
やま](程度[ていど]の低[ひく]いもの)は短山[ひくやま]なりに、一番[いち
ばん]上[うえ]から眺[なが]めて、適材適所[てきざいてきしょ]に整理整頓
[せいりせいとん]してくださるのです。
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