00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.
33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.434445 46 474849 50 51

ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

かれ ここに はやすさのを の みこと まをし たまはく しからば 
故  於堤  速須佐之男命言           然者
あまてらすおほみかみ に まをして まかりなん と まをしたまひて
請天照大御神          将罷
すなわち あめに まいのぼります ときに やまかは ことごとに とよみ くにつち みなゆる
於    参上天時          山川悉動         國土皆震


速須佐之男命言(はやすさのを の みこと まをし たまはく):
 「言」は速須佐之男命が伊邪那岐大神に奏請し給うということである。
 須佐之男命が自分勝手に振る舞うつもりならば、伊邪那岐大神に何も奏請し給うことは無いのでありますが、一切を伊邪那岐大神の御心のままに、常に至忠至孝至悌の絶対奉仕の精神で行事してゆこうとしていることを「言」という言葉で表明しているのであります。

請天照大御神(あまてらすおほみかみ に まをして):
 「請」は目上のものに尊敬して、奏上して裁可を請うという意味であります。
 これからの行事は須佐之男命と天照大御神の2神相互の神事であるから、「どうか宣しく」という意味で、挨拶・お願い・決意等の表明を兼ねて、奏請しているのであります。

罷(まか)る:
 貴人の前から退き去る。行く、来るの謙譲語であります。

参上(まいのぼり):
 目上の人の所に行くこと。神楽のように舞踊しながら、渦巻くように昇ることであります。
山川悉動 国土皆震(やまかは ことごとに とよみ くにつち みなゆる):
 動(とよむ)は〔一大交響楽的に〕轟く響くことであります。
 震(ゆる)は〔一大聖劇的に、旋律的に〕揺れ動くことであります。

 須佐之男命の身体は、この時にはドロドロの溶岩や沸騰蒸発した熱水のような状態であって、地皮が破裂して、内部の地・水・火・風等が、太陽にも達せんばかりに、非常な勢いで参上(まいのぼ)ったわけであります。これが須佐之男命の天照大御神ご訪問に当たるのであります。これから霊体和合の生物を生み出す為の神業に取り掛かろうとしているのでありますから、喜び勇んで、全身喜びに打ち震えて、それこそ手の舞い、足の踏むところを知らないと言う位の喜びの表裏ではとても足りない状態なのであります。仏典にある六種震動(天地の大恋慕性が発動して、大地が六種に瑞動することであります。世に瑞祥がある時、大地が震動する六つの相なのであります。すなわち動・起・涌・撃・震・吼。)に比すべきものと言えるのであります。

70-1

ここに あまてらすおほみかみ きき おどろかして 
爾   天照大御神      聞驚而      
あが なせ  の もこと の のぼりきます ゆえは かならず うるはしき こころ ならじ
詔我那勢命之上來由者         必不善心
あが くにを うばはむ と おもほす に こそ と のりたまひて
欲奪我國耳


 天地を轟き響かせて、我(天照大御神)をびっくり仰天させるようなことをして、親愛なるお方(須佐之男命)が、猛烈なる勢いで参上ってくるのは、表面だけを眺めていると体が霊を凌駕しようとする姿にも見えるのであります。もしそういう理由からだとすれば、体主霊従の生き方からは調和が生まれ出ないのでありますから、きっと善心(うるわしい心)で無いだろうから、我が国(高天原)を奪い取ろうという魂胆に違いないのであります。しかしながら、体主霊従からは善きものが生まれないということを、伊邪那岐大神の御心のままに絶対随順している須佐之男命は十分に知悉しているはずでありますから、間違った心で間違った行いをするわけが無いのであります。仮に須佐之男命がいかなる猛威を揮ったにしても、全高天原の統主・最高権威は天照大御神なのでありますから、その力の差は天地ほどに違うことは歴然としているのであるわけでありますから、対抗しようにも不可能なことであります。だから須佐之身命の真底の精神は、きっと深い慮りからくる善心(うるわしい心)に違いないと宣言されているのであります。

 天照大御神(天)と須佐之男命(地)の交渉は、溌剌たる永遠の生命を地上に伝えて、霊体和合の生命を生み出し、生めよ殖えよ地に満てよと、無限伸展の根源を開くものであります。二神相互の間には、神聖恋慕の働きが必然的に発現してきて、一大恋慕性発露による一大聖劇が展開してゆくのであります。須佐之男命の天に参上る姿は、体が霊を慕う神聖恋慕の働きの最高最大のものであると、天照大御神はその恋慕の至情に深く深く感動しているのであります。須佐之男命の自己の全てを与え尽くそうとしている姿に対して、天照大御神も自己の全てを与え尽くす為に、全神力発揮の為の最高最大の装いを以て、須佐之男命に相対することになるのであります。

 本心と業想念の相互の交渉を眺めるに当たっても、敵対する姿に見るのは浅い見方であります。業想念の中にも、本心を導き入れて輝かすことによって、煩悩即菩提、凡聖一如の美しさを表現してゆくことができるのであります。本心と業想念の間にも、一大恋慕性が発現して、愛(本心)と情(業想念)とが融け合って、愛情という表現が生まれくるのであります。

71-1

 儚く(はかなく)移り変わる一切の表現の奥底には、絶対の愛が厳然(げんぜん)と実在し、貫流しているのであります。
相対に分かれた二極間相互における、交流・交通・交渉等の起こる原動力は、神聖恋慕の愛の働きであります。愛こそが一切のものを生み育てる力なのであります。光(本心)と闇(業想念)が対立し、別個に存在して働いているだけでは、光の無限に美しく、無限に妙なる、変化に富んだ表現は生まれ出ないのであります。光と闇との相互間のムスビが、神聖恋慕・愛によって、円融無碍に執り行われてこそ、無限の無限の妙趣ある光の表現が誕生するわけであります。光と闇、本心と業想念は本来敵対しているものでは無いのであります。双方の助け合い、与え尽くし合いによって、その表易を光一元の無限の無限の変化に富んだ素晴らしいものに進化・向上・発展させているのであります。
 神聖恋慕とは、尊厳な・純粋な・清浄な・美妙な・善良な恋慕のことであります。神さまの御心である真・善・美・聖を表現するための、愛の牽引力のことであります。恋慕の「恋う」とは、無限に大きく拡がったものを、一点に集中して凝り固めて、報いを求めずに与え尽くすことであり、「慕う」とは、謙虚に下から、与えられた無限のものを、感謝を深めて受け尽くすことであります。霊が体を恋い、体が霊を慕うのも、男が女を恋い、女が男を慕うのも、神聖恋慕の具体例であります。すべての表現の真底に流れる神聖恋慕(神さまの受)を実感して、活きることが、本当の自分を生きていることなのであります。
 移り変わる表現としての、本心の姿・業想念の姿に囚われてはならないのであります。表現の奥底にある本当の本心の自分をしっかりと把握してゆくことが大切なのであります。表現の本心の姿も、これが自分なのだと掴めば、表現の業想念の姿を敵対視することになるのであります。本心と業想念の戦いではないのであります。表現に囚われるから、両者の闘争に見えるだけであります。本来は本心の表現を、無限の変化に富んだものにするために、業想念が手助けしてくれているわけであります。本当の本心の自分が願うならば、無限の闇(業想念)の場に、無限の無限の大光明(本心)を与えて、その場を無限の大光明(本心)燦然とした表現に変えること位は自由自在なのであります。地獄を極楽に変貌させることなど、いとも簡単な朝飯前のたやすいことなのであります。
 絶対の中に本住している本当の本心の自分が、表現としての本心の姿を、種蒔かれた状態から出発して、色々な生長過程の姿を楽しみながら、花開いた状態にまで、進化・向上・発展させているわけなのであります。今・此処、自分の立っている場を、どのように変化させてゆくことも、自由にできるのであります。真理の言葉を駆使して、無限の無限の大光明そのものである、神さまの全徳を必要に応じて、その場へ与えてゆげばよいのであります。

71-2
般若理趣経⇒(本心の側に立って本心の心で受け止める)
大楽金剛不空真実三摩耶経(だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう)三摩耶⇒本心のこと
 「般若理趣経」とは、真実智・仏智(般若)によって、真理の道(理)へ趣かせる・誘う・心を向けて歩ませる(趣)ところの真理の言葉集(経)であります。
正式名は「大楽金剛不空真実三摩耶経」と言い、「大楽(だいらく)」「金剛(こんごう)」「不空(ふくう)」という真実の(真の実在の)根本義を解き(説き)明かす経であります。
 真実に実在するもの(本当のすがた)は、本心の大楽・無限の楽・無限の歓喜であって、執着(煩悩)の小楽ではないのであります。大楽はすべてを清浄に・自由に・美妙に・快適に眺められる本心の生き方の中に既に備わっているものであり、これこそ真実なのであります。
また真実に実在するものは、金剛(堅固)・金剛不壊・金剛不退の本心の自分なのであって、移り変わる表現の姿とは無関係に、永遠不滅に厳然と実在しているものなのであります。
移り変わる表現を虚(こ)と呼び、表現の奥にある絶対を空(くう)と呼ぶ時、虚にもとらわれず、空にもとらわれず、虚をも超越し、空をも超越した、虚空を一つに見る境地、即ち不空の境地こそが、真実に実在している本心の自分の境地なのであります。


第一章  欲みななべて浄らなり〔大楽の教え〕
         そのみ教えは、「ものみななべて清浄(きよら)」という。
@(男女の道にも例うべき)妙適(たえ)にも良ろし心地こそ、清き菩薩の境地なり。
A(止まらぬこと)箭(や)の如き、欲の働く心地こそ、清き菩薩の境地なり。
G(男女互いの)触れ合いも、清き善蔭の境地なり。
C(男女互いに抱き合い)離さず縛(つな)がんその心、清き菩薩の境地なり。
D(男女抱きて満足し)すべてに自由、すべてに主、天にも登るその心地、
          これまた菩薩の境地なり。
E(欲心もって異佳を)見、これまた清き菩薩の境地なり。
F(男女互いに交わりて)適悦(よろし)き心地味わうも、清き菩薩の境地なり。
G(男女の)愛もそれもまた、清き菩薩の境地なり。
H(人の心に浮かびくる)自慢の心、それもまた、清き菩薩の境地なり。
Iものを飾りて喜ぶも、清き菩薩の境地なり。
I(世のすべてに満ち足りて)意滋沢(こころよろこ)ぶそのことも、
             清き菩薩の境地なり。
K(世のすべてに満ち足りて)光りかがやくその心、清き菩薩の境地なり。
L身体の楽も異ならず、清き菩薩の境地なり。
M(目のあたりなる)ものの色、それも菩薩の境地なり。
N(われらの日夜耳にする)声(おと)も菩薩の境地なり。
Oこの世の香り、それもまた、清き菩薩の境地なり。
P(われらすべての口にする)味も菩薩の境地なり。

われら今なおここに問う。欲、何故に浄らなる。私われらに宣り給う。
人の懐ける欲もまた、
世にあるすべてのものは皆、その本性(もと)なべて浄きなり。
かくて、ひとびと聞けよかし、
智恵の眼を見開きて、世にあるすべてを眺むれば、智恵の境地に到り着き、われひと共に浄まらん。
金剛手菩薩、聞けよかし、
すべてのものの浄らかなる、般若の教え耳にせば、
障り(さわり)すべては消え去りて、光りの道場(には)に入りぬらん

障りすべては何々ぞ。(貧り・瞋り、さまざまの)煩悩(なやみ)もたらすその障り、
法を耳にせぬ障り、悪業止めえぬ障り、これらの障り重ぬとも、
ひとたび浄き道を得ば、地獄に堕ちることもなく、罪に陥ち入ることもなし。
(ただ聞くだけに止まらず)よく身に受持(たも)ち、日々読謂(とな)え、
さらに心に思惟(おも)いなば、
父母の生み出すこの身もて、
ものの本性(もと)なる平等(ひとしさ)と、変わることなき金剛の、
安けき心地に入りぬらん。
入りなんのちのその時は、(何しばられることもなく)
自由となりて、測りなき、快楽(けらく)・歓喜(かんぎ)にみちぬらん。
十六人の大菩薩、それぞれ示す十六生、その道程(みち)すべてを進み行き、
それらすべての果てに在る、金剛不壊なる大日の、遍照の境地に入りぬらん。
ここに、世尊なる金剛手、一切諸仏の現証(さとり)たるマンダラ中に住み給う
持金剛者(じこんごうしゃ)の最勝なり。
この世の悪を調伏(うちなび)け、余す方なく一切(すべて)の義(よきこと)
なべて成し給う。
この金剛手大菩薩、「世の欲すべて浄らなり」、この教えをば示さんと、
お顔恰(やわ)らげ微笑(ほほえ)みて、ジ「金剛印」の印結び、
右手(めて)にて五股杵(ごこしょう)動かして、進む勢い示したり。
大なる楽は金剛の、不壊(ふえ)なる上に空(くう)ならず、この境地をば示さんと、
聖音(せんおん)「フーン」と唱えたり。

71-3-2

第二章 さとりすべてに遍(あま)ねかり
・・・あらゆるものの本性は悩みを離れ寂(しず)かなり。
これこそ仏の道にして、千古誤(あや)まつことぞなし。
@平等不変の大菩提(さとり)は、金剛不壊にして、
  もののすべてに行きわたる。
A
大なるさとりは慈悲にして、一つのみちに基づきて、差別なし。
G法(おしえ)は即ち大菩提(さとり)にて、その本性は浄らなり。
  本性浄さ、その故に、法はすべてに平等(あまね)くて、
   すべてのひとに教えなす。
C大なる菩提(さとり)は捉(とら)われず、
  
分別動作はそのままに、仏の所に至るなり。・・・

第三章 悪はもともと悪ならず
・・・くさぐさ欲は表われど、その本質は一つにて、善悪いずれに偏らず。
欲が一つである如く、瞋(いか)りもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。
善悪超えたるものなれば、癡愚(おろかしさ)もそのもと一つにて、
  善悪いずれに偏らず。
貧(むさぼ)り、瞋(いか)り、また癡(くら)さ、
いずれもそのもと一つにて、区別・表れなしとせば、すべてのものは一つなり。
「悪にその性(さが)なし」という、かかる教えを説きてのち、
世尊は呼びぬ、「金剛手(こんごうしゅ)」
「もしもそなたがこの理趣(みち)を、聴きたるのちに身に受持(たも)ち、
日々夜々に誦(とな)えなば、たとえこの世の生類を、余す方なく殺すとも、
悪の黒いは受くるなし。ただ受けざるに止まらず、
  悪を調(なび)けし報いにて、さとり得ること遠からず。」・・・

第四章 ものおしなべて浄(きよ)らなり
・・・五色に咲ける蓮華葉が、泥より出でてその泥に、些かも汚れざるがごと、
  人の性(さが)なる清浄も、たとえば塵にまみるるも、
   その奥底に帰るとき 無上のさとり出ずるなり。・・・

71-3-3

第五章 もの富めり
・・・すべての人に義利(義はものの価値、利は利益)施(さず)け、
すべての意願(ねがい)充ち足らさん、次いで法(おしえ)を施して、
ひとみなすべてさとらなん。生命の資(がで)を施して、
世にあるみなは充ち足りて、身・口・意すべて安らけし。・・・

第六章 真実なる動き
・・・
@囚われずして働けば、われらの働きそのままに、仏のそれとなりなりて、
  諸仏・宇宙の働きは、われらの上に示されん。
Aすべての仏のみことばも、われらのことばと一(いつ)ならん。
Bわれら心を安らぎて、一心をつに保ちなば、
  仏の心はそのままに、われらの心に映(うつ)りなん。・・・

第九章 供養とはそも何ならん
・・・
@菩提(さとり)をねがう心をば、発(おこ)せしときがそのままに、
  仏すべてを供養する、広き心となると知れ。
Aこの世のすべてものみなを、救済(すくいなさ)んとすることは、
  それがそのまま世の仏、すべてを供養すると知れ。
G妙(たえ)なる経を身に持すは、
  それがそのまま世の仏、すべてを供養すると知れ。
Cかくの如くに、到般若、その理趣(みち)記(しる)すこの経を、
  自ら写し、写させて、心に思い行わば、
  それはそのまま供養にて、仏の喜ぶ途(みち)と知れ。・・・

第十章 大いなる忿怒(いかり)尊し
・・・
世にあるものは皆すべて、その大元は一つなる、法の現ぜる姿なり。
されば盆怒(いかり)に悩むもの、盆怒に所由(いわれ)なしと知れ。

区々たる差別にとらわれず、その後ろなる清浄(きよら)かな、
菩提(さとり)を得たるときにこそ、ひとは盆怒を去りぬべし。・・・

71-3-4

大十二章 ひと互いに加持(ささえあ)う
・・・
すべてのものは如来(ほとけ)となる清浄(きよき)を内に蔵したり。
 それなぜなりや、ひとはみな、個我を離れてそのままに、
  すべての人に行き亘る、一切我の徳をも兼ねてもてばなり、

この世のものは皆すべて、底に妙法蔵したり。
我と他とに差のなきは、互いに語し伝えあう。言語の妙に知られたり。・・・

第十七章 おわりに
・・・
@ 菩薩は大欲得給いて、大楽成就をなし給う。
A 菩薩は大楽得給いて、一切如来の菩提(さとり)得(えん)。
B 一切如来の菩提(さとり)を得(え)、すべての悪を擢(う)ち給う。
C 菩薩はすべての悪を摧(う)ち、三界(このよ)のすべてに自由なり。
D菩薩は三界(このよ)のいずこにも、自由の境地を得給いて、
 すべてこの世にあるもののさまよい生きるを止(や)め給う。
 大精進の力もて、生死のものを皆救い、利益(すくい)、安楽たらしめて、
 最勝(さいしょう)・究寛(くぎょう)となし給う。


蓮は泥に咲きいでて、花は垢(よごれ)に染(けが)されず。
すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。

大なる欲は清浄(きよき)なり。大なる楽に富み饒(さか)う。
三界(このよ)の自由身につきて、堅くゆるがぬ利を得たり。

さて金剛手これ聞きて、朝(あした)に晨(ひる)に聴き誦(とな)え、
一切(すべて)の楽と悦びを、心の中に懐(いだ)きなせ。
大なる楽は金剛の、不壊なる如く不空にて、最勝・究寛の境地なり。
かくて一切の法(もの)に自在なる、十六菩薩の生を得て、
如来不変の境地を得。・・・






71-3-5
すなわち みかみ を とき みみづら に まかして 
即    解御髪    纏御美豆羅而    
ひだり みぎり の みみづら にも みかづら にも ひだり みぎり の みて にも
乃於左右御美豆羅      亦於御鬘   亦於左右御手
みな いやさかあ の まあかたあま の いほつ の みすまる の たま を まき もたして 
各纏持八尺勾玉之五百津之美須麻流之珠而 
そびら には ちのり の ゆぎ を おひ いほのり の ゆぎ を つけ
曾昆良邇者 負千入之靱     附五百人之靱
また ただむき には いつ の たかとも を おばして ゆはら ふりたてて かたには は 
亦臂佩伊都        竹靹而       弓腹振立而    堅庭者
むかもも に ふみ なづみ あわゆき なす くえ はららかして
於向股蹈那豆美     如沫雪    蹶散而
いつの をたけび ふみたけびて まち とひ たまはく など のばり きませる や と とひたまふ
伊都之男建    蹈建而    待問       何故上來


御美豆羅(ミミヅラ):
 耳鬘(みみつら) 古代の男子の髪の結い方。頂の髪を中央から左右に分け、
 耳のあたりでわがねて緒で結び耳の前に垂れたもの。
 纏御美豆羅而(みみづらにまかして)とは、雄々しい・力強い・全神力発揮の装いを意味しているのであります。

御鬘(みかづら):
 鬘(かずら) 蔓草(つるくさ)や花などを頭髪の飾りとしたもの。

八尺勾玉之五百津之美須麻流之珠(いやさかあのまあかたあまのいほつのみすまるのたま):
 八尺(いやさかあ)は、いよいよ益々栄えに栄えて、無限に伸展し拡大している義。
  中心・大本から、全方面に、無限に伸展しつつ、無限に枝分
  かれして、月神石ム万有を一大包容し、通頁している義。
勾玉(まあかたあま)は、三世十方(すべての時間すべての空間)に普遍している。
  全大多勝の珠、完全無欠の完壁な珠玉。
五百津(いほつ・いおつ)は、無量無数の義。百(ほ)の借字は富(ほ)である。
  千五百(ちいほ):無量無籔の義。
美須麻流(みすまる)は、「み」は接頭語。
  「すまる」は「すばる(統る)・すばまる」、
  「すめる(統る)・すめある」、
  沢山のものが集まって、一つになる義。
 無限無数無量の珠玉が、玉之繕(たまのを)・生命に貫か
 れて、一大違珠の・大調和の相になっているのであります。
珠(たま)は、美しいもの・大切なもの・丸いもの等の意義から、無限無数無量なる
  万神万生万有それ自体を意味しているのであります。

72-1

 八尺勾玉之五百津之美須麻流之珠(いやさかあのまあかたあまのいほつのみすまるのたま)とは、無限無量無数なる万神万生万有の一切が・至善至美至妙完全円満大調和の、尊厳無比・荘厳無比の一大連珠の相を成していて、この珠は天照大御神の一大生命であると同時に、万神万生万有の生命でもあり、天照大御神の尊厳無比・荘厳無比の一大玉体であると同時に、万神万生万有のそれぞれの個個性ある美玉なのであります。各纏持八尺勾玉之万百津之美須麻流之珠而(みな いやさかあ の まあかたあま の いほつ の みすまる の たま を まき もたして)とは、万神万生万有は、天照大御神と一体であり、天照大御神そのものであり、天照大御神の分霊魂塊であるという意義なのであります。
 伊邪那岐神の御頸珠(即ち御倉板擧神)から来たものが、天照大御神の八尺勾玉之五百津之美須麻流之珠(いやさかあのまあかたあまのいほつのみすまるのたま)なのであります。この世の生命の起源は、天照大御神の発射する大生命線を須佐之男命が受け保つことによって、霊体和合の実を挙げたからなのであります。生命は生命からのみ生ずるのであります。この世の一切の生命も、生命の大根源である、天之御中主神に起源しているのであります。

曾毘良(そびら):背甲(そびら)、背。

靱(ゆぎ):
 矢を盛って背に負うた具。木または革で作り、長方形の箱型の筒とし、一個
 に矢50筋を入れた。
 矢とは生命を射込む具、天照大御神の大生命の宿っている或る光波であり、
 靱とはその矢を入れる具の意義から、矢を発射する具となり、即ち八尺勾玉
 之五百津之美須麻流之珠(いやさかあのまあかたあまのいほつのみすまるのたま)
 を射込むための力を与える容器、即ち生命発射装置
 を意味しているのであります。

千人(ちのり):
 千篦入(ちのいり)。箆は細かい歯の櫛。
 細かい歯の櫛が千個も入っているような。
千人之・五百人之とは、無限無敷無量の矢(箭)の入っている、
  千も五百もどちらも無限無数無量を意味するのであります。

 地球に生物が誕生するに当たっては、適当な時期に・適当な場所で・適当な方式に従って、天照大御神(太陽)から須佐之男命(地球)に、生命線が発射され、新生命が地中に宿されて、新生物が地上に生まれ出たのであります。しかし、現在は主に母体を通じて、子孫を延長させる、特殊な生命伝達・生命保持の方式をとっているのであります。

72-2

臂(ただむき):腕

佩(おばす):佩く(はく)。身に付ける。

伊都(いつ):稜威(いつ)・厳(いつ)。尊厳な威光。

竹靹(たかとも):タカアトモ。
 靹(とも)とは、弓を射る時に、左手首内側に付け・弦が釧(装身
 具の腕輪の一)などに触れるのを防ぐ丸い革製の具。
 靹の側面を図案化した模様が靹絵・巴であり・アシカビ形。
 タカア:高天原のタカアハラ神力。光明遍昭(発射)神力。
 トモ:巴卍の螺旋状神力。

 生命像の発射のための具であるが、螺旋転回の循環律を示すものであるから、
 生命が永遠に輪廻転生しながら、連続承継してゆく根本力を発動するものなの
 であります。

 生命体が輪廻転生しながら、進化・向上・発展して、非常に複雑な要素を備え
 てゆく基になるもの、即ち六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働きもこの竹靹
 から発動してくるのであります。

  靹(とも)は弓弦(ゆづる)が触れて、鳴る音を高くする為のもの
  でもあるから、高音物〔たか(お)とも(の)〕であり、言霊のひ
  びきを強く発するためのものという意義でもあります。
  言葉(言霊)は、神であり、生命であり、光であります。

天照大御神の身に付けている三種の装身具は高天原の三大根本神力の表示でもあります。

いやさかあの まあかたあまの いほつの みすまるのたま
八尺勾玉五百津之美須麻流之珠・・・・タアマハラ(求心的凝集螺旋状神力)の表示
ちのりのゆぎ いほのりのゆぎ
千人靱・五百人靱・・・・カアマハラ(円融的交流螺旋状神力)の表示
いつの たかあとも
伊都之竹靹・・・・タカアハラ(遠心的発射螺旋状神力)の表示

72-3


弓腹(ゆはら):
 腹が矢(生命線)を発射する弓に相当しているのであります。
 生命発射の原器であります。
弓腹振立面とは、弓である腹を振り多弓(たて)てという意味で、須佐之男命の神聖恋慕の六種震動に対応する、感無量の歓喜の表現・生命の震えなのであります。天照大御神は全身に無限無量の歓喜を題して、うち震えているのであります。

堅庭者 於向股蹈那豆美(かたには は むかもも に ふみなづみ) :
 堅庭とは、堅い場所、即ち金剛不壊の絶対の世界を意味しているのであります。
 内股とは、向き合う股、両方の股。
 那豆美とは、泥む(なずむ)で、離れずに絡みつく義。
 手の舞い、足の踏むところを知らない、という程度の歓喜は、初歩の歓喜なのであります。
ここではその歓喜が余りにも大きくて、絶対の金剛不壊の大地までも踏み抜いて、両股のところにまで、その土がきている程であるというのであります。身震いする程の、力強い、雄々しい、猛烈な歓び方なのである。絶対の中から、心の奥深くから、無限無量の歓喜が迸り出ているのであるということをも表現しようとしているわけであります。

如沫雪 蹶散而(あわゆきなすくえはららかして):
 如沫雪とは、細かく飛び散る水飛沫や、降りしきる粉雪のように。
 蹶(くえ)とは、崩ゆ(くゆ)であり、崩壊する義。
 散(はららかし)とは、ばらばらにする義。
 金剛不壊の大地をも、踏み砕いて、水飛沫や粉雪のように、バラバラにしてしまう程の
 物凄い!物凄い!物凄い歓び方なのであります。

伊都之男達 蹈建而(いつの おたけび ふみ たけびて):
 男達(おたけび)とは、堆々しく振る舞うこと、勇ましく叫ぶこと。
 天照大御神の神聖恋慕の発露としての、霊体和合せんとする時の歓びの表現は、尊厳無比の雄々しい振る舞い・勇ましい叫び声となって、絶対の金剛不壊の大地をもコナゴナにしてしまう程の、物凄いものであるというわけでなのであります。いかなる障害も障壁も、育っても無いのと同然で、すべて突き破り・突き飛ばして、目的を完成成就させるぞというわけであります。神聖恋慕の愛の力は偉大なる哉! 偉大なる哉!ありがとうございます



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