ありがとうございます 神書 6-47

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本心の心の自分が本当に目覚めた時


 本心の心の自分が本当に目覚めた時に、神さまを・神さまの世界を感受できるのです。神さまを求め、悟りを求めているのは、この本心の心の自分の目覚め前の状態なのです。本心の自分が本当に眠っている時は、夢幻の業想念の世界を彷徨っているのです。いくら揺り動かしても、起きようとはしないのです。悪夢にうなされていても、目覚めないのです。しかし目覚めの時機が来るのです。本心の自分を揺り動かし、呼び覚まそうとして、大いなる力が働きかけて来る時機が来るのです。




 ぼんやりした半覚醒状態から、もう一度眠り込むと、すっきりと目覚める人とがあるのです。業想念の夢を見続けている人は、業想念の夢に引きずり込まれて、再び眠りに落ち入り易いのです。呼び覚まそうとする働きに、一寸でも心を向けてゆける人は、目覚め易いのです。この世への執着が強いと、業想念の夢から醒め難いのです。この世への執着が少ないと、呼び覚まそうとする、『声無き声』に心が向くのです。そして業想念の夢から醒めて、本心の自覚が出て来るのです。




 神さまの世界からは、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、『声無き声』『形無き形』となって、降り注いでいるのです。それを『ありがとうございます』と感受すれば、本心の自分が目覚めるのです。神さまの世界に心を向けて、神さまの世界を感受すれば、本心の自分の目覚めなのです。無限に無限に輝いた神さまの世界を、本心の心にしっかりと受け入れて、その残像・余韻を楽しむというのが、この世の人生なのです。




 過去の残像・余韻というものは、だんだんと薄らいでゆくものです。いつまでも過去の残像・余韻に浸っているだけでは、感謝も感動も消え去ってゆくのです。過去を掴んで生きるだけでは、本当の幸せは味わえないのです。常に今新たに、神さまから新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受することが、本当の幸せへの必須条件なのです。




 この世へ執着する心は、過去の残像だけを見ているのです。その残像の印象は、段々と希薄になってゆくものです。すべてにおいて、最初の輝きは無くなってゆくのです。また執着の心というのは、過去にしがみつく古い心です。感謝や感動とは無縁の心なのです。執着の心で何をどれだけ掴んでも、感謝や感動の心は湧いて来ないのです。執着の心は業想念の心であって、本心の心の感謝や感動とは、別のものなのです。この世や過去に執着する心では、真実の幸せを味わうことは無理なのです。




 『ありがとうございます』という『祈り言葉』は、真剣に・無心に唱え続けていれば、本心の心の自分を速やかに引き出してくれる、神秘不可思議な言葉です。本心の心の自分さえ出て来れば、後は自然に感謝と感動の心も、湧き上がって来るのです。