幸せをもたらす
『言霊(ことだま)』
ありがとうございます










この冊子は、

  ① 真の自分に戻って、
② 真の神さまのお手伝いをし、
③ みんなに幸せを与えたいと、

真剣に願っている人への
真の神さまからのプレゼントです。

大奇蹟を起こす
珠玉の光の言葉・真理の言葉の
断片集です。

真(まこと)の『ありがとうございます』は、
言霊(ことだま)の『ありがとうございます』です。

 言霊とは、霊妙不可思議な神秘の言葉です。
 一大奇蹟を起こす言葉です。

 真(まこと)の神さまの世界、真実の世界、日(ひ)の本(もと)の国は、言霊の幸(さきは)う国であって、真のプラスの言葉が無限に一杯!です。

 言葉には、生きている言葉(実の言葉)と死んでいる言葉(虚の言葉)があるのです。
 真の神さまという巨木につながっている葉は、生きているのです。枯れた落ち葉は、死んでいるのです。
 言霊とは真の神さまと一体の生きている言葉です。枯れ葉や落ち葉は、どんなに美しく見えても、死んだ虚の言葉です。

 虚の言葉に舞い落ちる落ち葉のように美しいプラスの言葉と、蓄積して腐った醜いマイナスの言葉があるのです。

 真の・言霊の『ありがとうございます』は、真の神さまと一体の、真の神さまを表現する言葉です。

 真の神さまの全相・全体・全貌を、真の神さまの働きのすべてを、一つに収束して表現する、一番大きい言葉、真の神さまの名前です。

 世間一般に使われている『ありがとうございます』という言葉は、感謝やお礼という限定的な小さな意味です。





真の・言霊の『ありがとうございます』が保持している 本当の意味を列挙してみましょう。


① 真の神さまの名前です。
② 真の神さまの働きのすべてです。
③ 真の神さまそのものです。
④ 心の向きを真の神さまに定めているのです。
⑤ 真の神さまの御名を崇め、呼んでいるのです。
⑥ 真の神さまとの出会い、一対一の対面です。
⑦ 一瞬一瞬新たに新たに、真の神さまのすべてを、受け入れ・受け直しているのです。真の感謝です。
⑧ 真の神さまを、『新たなる全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!』と、最高・最大に褒め讃えているのです。
⑨ 真の神さまから感受したすべてを、即座にお返しして循環させる、真の神さまへの恩返し・真の恩返しです。
⑩ 一切の我を捨てて神意随順する、真の神さまへの絶対奉仕・真の絶対奉仕です。
⑪ 真の神さまの絶対の愛に全幅の信頼を置いた、真の神さまへの全託・真の全託です。
⑫ 真の神さまのすべてとの、縦横無尽の循環交流です。
⑬ 真の神さまのすべてとの、愛の与え尽くし合いによる融合一体化です。
⑭ 真の神さまとの『真の絶対の愛』の一体感です。真の絶対の愛は、一切の対立の無い、一切の差別の無い、元から完璧な一つの、完全極まりなき一体感です。
⑮ 真の神さまの自覚です。真の悟り・最高の悟り・最大の悟り・究極の悟り・本物の悟りです。
⑯ 真の『ありがとうございます』は、『真の神さま』です。




                          神道の大祓(おおはらいの)詞(ことば)
                   『・・・・天(あま)つ祝詞(のりと)の太(ふと)祝詞(のりと)言(ごと)を宣(の)れ、此(か)く宣(の)らば、
                    ・・・・・今日より始めて罪と云う罪は存(あ)らじと祓(はらい)たまへ
                    清めたまふ事を・・・・・』の、天つ祝詞の太祝詞言とは、
                    
                      言霊の『ありがとうございます』です。





真の神さまとは



 ① 唯一無二絶対です。真の神さま独在です。

 ② 誕生という始めが無く、死滅という終りが無いのです。永遠不滅・永遠無窮の真の実在です。

 ③ 一切の対立が無いのです。
   相対の両極に分かれ対立するのは、虚の神さま・虚のすがたです。
   正神・邪神、善神・悪神、高い神・低い神・・・・・等々、真と偽、光と闇、プラスとマイナス、生と死、善と悪、調和と不調和、・・・・・等々は、
  無から生まれ、無に戻る虚のすがたです。
   真の神さまは、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!であって、真だけ、光だけ、プラスだけ、生だけ、善だけ、調和だけ、・・・
 ・・ が一大循環しているのです。

 ④ 一切の差別が無いのです。
   無が相対の両極に分かれ、その組み合わせによって生み出された、上下・大小・高低・深浅・貴賤・・・・・等々の比較上の差別のすがたは虚のすが
  たです。

 ⑤ 全体が完璧な一つです。
   全体と部分、部分と部分を切り分けて、区別することが絶対不可能な、無限の重層構造、無限の入れ子構造、無限の螺旋構造、無限の循環構造に成っ
  ているのです。

 ⑥ 完全極まり無き一体感です。
  無限のスピードで与え尽くし合う相(す)象(がた)は、全くの一つです。
  自分を相手に与え尽して同化するのが、真の一体化です。


 真の神さまは、人の言葉で創造した虚の神さまではないのです。
虚の神さまは、人の言葉で作り上げ、言葉通りに信じ、言葉通りに感じているだけの神さまです。虚の神さまは、人の言葉通りの神さまであって、真実の神さまでは無いのです。
 この世を創造した神、大自然の法則の神、救済の神、神罰の神、対立の神、差別の神、多神の神・・・・・等々は、すべて人の言葉通りの虚の神さまです。
 この世やあの世という虚の世界に属するすべての神さまは、虚の神さまです。虚の神さまはどんなに立派でも、真の神さまでは無いのです。

 真の神さま、一大循環の順流に対して、
① 求める心は逆流になって、弾き飛ばされるのです。
② 受けようとする心は流れを止めることになって、遠くへ押しやられるのです。
③ 与える心は順流と同じ流れなので、一大循環の中へ入ってゆけるのです。

求める心・受けようとする心から、
与える心・本心の心に戻って、
真の「ありがとうございます」を唱えることが、
真の神さまの助けを真実に受け続ける為の秘訣です。




真の神さまは、


無限大の外遙か彼方の、
無限の無限の彼方の絶対の中心(一番大きい所)から、
一瞬一瞬新たに、
新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神(与え尽す光源)
に成って、
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!
という愛の贈り物に変身して、
入れ子構造的に・重層構造的に・ところてん式に、
全方向から、一大瀑布となって降り注ぎ、
無限のスピードで一大循環させて、
絶対の愛を与え続けているのです。


本当に必要なものを、
本当に必要な時に、
本当に必要なだけを、

 最高の状態で的確に与えられたら、無限の幸せを感じることができるのです。

 真の神さまは、人の自由意思で選んでくる本当に必要なものを、間髪を入れず即座に、本当に必要なだけを(過不及無く、過不足無く)、最も新しい最高の状態で、的確に与えようとして、無限の種類のプレゼントを携えて、どんな状況にも瞬時に対応できるようにと、全権を委任した個々の天照大御神となって舞い降り循環して来るのです。


 真の神さまからの贈り(送り)物は、常に無限に無限に一杯!です。どれだけ大きく・どれだけ多く受け取っても、常に入れ子構造的無限倍のプレゼントが用意されているのです。

 自分がどれだけ沢山受け取っても、他の領分を侵すことは決して無いのです。また他から自分の領分を侵されることも決して無いのです。

 人は、真の神さまと常に一対一の関係で、すべてのプレゼントを受け取ることができるのです。
 人は自分の自由意思で選ぶ、言葉通りのものを、言葉通りのプレゼントを、感受して味わうことができるのです。
 本当に必要なものは、永遠無窮に、的確に与え続けて下さるのです。

真の神さまは、一大循環の相象で、厳然と今ここに在します!
    新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します!
    新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!

 このことを深く理解できれば、真の神さまの絶対の愛の凄さが、筆舌を超えた凄さがよく解るのえす。

真の神さまは絶対の愛です。

 無限に無限に高く大きく深い愛です。
 山のように高く、海のように深い愛は、虚の模型の愛です。


みんながこの真の神さまを共有しているのです。 
みんながこの真の神さまと一体なのです。
みんながこの真の神さまそのものなのです。
みんながこの真の神さまにおいて一体なのです。

 ここにおいてみんな完全に平等なのです。
真の平等は、真の神さまとの一体感の中に在るのです。
真の神さまから遠く離れた虚の世界には、本当の平等は、無いのです。

みんながこの真の神さまから完全な自由を与えられているのです。

 真の神さまから与えられている自由は、新たなる無限の無限の自由が無限に無限に一杯!です。
 決して他から縛られたり、制限されることは無いのです。
 この完全な自分の自由を、全体へ捧げ尽すことによって、更に全体から無限倍にして捧げ尽してもらえる自由が、真の自由なのです。


真の自由と真の平等は、
真の神さまの中に厳然と存在しているのです。

 自分のすべてを与え尽して支え合う、一大循環の相(す)象(がた)の中に、自由と平等の最高理想のお手本があるのです。



                                                                                                                                                                           自分とは何か? 本当の自分とは何か?

これは他のどんなものよりも、一番大事な根本命題です。
 虚の自分・実の自分、有限の自分・無限の自分、小さい自分・大きい自分、マイナスの自分・プラスの自分、種々様々な自分が、言葉通りの自分が出て来るのです。その中から自分の自由意思で選んだ、言葉通りの自分を生きることになるのです。

『すべて言葉通りに成る』というのが、
厳然たる宇宙の絶対法則です。

 今の自分は、過去に選んだ言葉通りの自分に成っているのです。未来の自分は、これから選ぶ言葉通りの自分です。
 どんな自分を選んで生きるかは、自分自身が自分の自由意思で定めるのです。
 自分の見たり・聞いたり・言ったりする言葉、自分の心の中で思ったり・祈ったりする言葉、すべてが自分の選んだ言葉です。

 最高の自分は、真の神さまが真の自分という自分です。
肉体の自分、魂の自分、いのちの自分は、あまりにも小さい自分です。宇宙が自分と言っても、その宇宙が虚であれば、虚の自分です。

 真の自分・本当の自分・本源の自分・本来の自分・根本の自分・本物の自分・本心の自分というのは、
一瞬一瞬新たに、真の神さまを受け直した、
新たなあらたかな自分です。



                   真の神さまが真の自分です

 本当の自分・本源の自分・本質の自分・本来の自分・根本の自分・本心の自分です。
 本心の自分をしっかりと生きれば、真の神さまの世界・真実の世界に住むことができるのです。
 そこは必要なものを的確に与えてもらえる一大循環の世界です。

 本心の自分を生きるのを忘れた時に、虚の世界・思いの世界に転落するのです。そこは儚い虚しい五欲の世界・七難八苦の世界です。

 虚の世界から抜け出て、真実の世界に戻る為には、本心の自分を思い出して、本心の自分をしっかりと生きることだけです。


光の自分を生きれば、闇は消えるのです。 
プラスの自分を生きれば、マイナスは消えるのです。
本心の自分を生きれば、虚は消えるのです。

闇を・マイナスを・虚を相手にしないことです。

真の神さまの光・プラス・実 
を受け入れるだけが、正しい生き方なのです。


 本心の自分をしっかりと生きるとはどういうことか、次に列挙してみましょう。

① 真のプラスの言葉を駆使することです。
  真のプラスの言葉とは、真の神さまを・一大循環の相象を受け直し・感受する為の言葉です。枝葉を・部分を捉える小さな言葉では無く、全体を一つに
 捉える全一の大きな言葉です。

② 一切の我の無い無色透明の自分を生きることです。
  真の神さまに対して、どこまでもどこまでも謙虚で素直な生き方です。過去を掴まなければ、無色透明の自分に成れるのです。

③ 元から真の神さまと一体の悟った自分を生きることです。
  悟った自分に波長が合うのは、悟ったすべてです。みんな元から既に悟っている、みんな真の神さまと一体、みんな真の神さまそのもの、と拝み続ける
 だけです。

④ 常に全体を支える生き方です。
  全体を支えようとする自分は、真の神さまの入れ子構造的無限倍の支え・盤石の支えで支えられるのです。

⑤ すべてを最高に活かす生き方です。
  すべてをしっかりと支え、すべてを適材適所に配置し、全体を最高の状態に支配することです。

⑥ すべての責任を自己に帰す、総責任者の立場に立つことです。
  どんなマイナスも自分の責任ということは、換言すれば、真の神さまを最高最大に拝み出せ無かったのは、自分の真祈りの足りない為で、真祈りの不足
 は自分の責任ということです。

⑦ 永遠不滅・永遠無窮の、始めも終わりも無い一大循環の自分、真の実在としての自分を生きることです。
  無から生まれた、儚い虚しい虚の自分(肉体や魂の自分)では、本当に納得のゆく人生の目的も、生き甲斐も得ることはできないのです。真の人生の
 目的とは、本心の自分に戻り、本心の自分をしっかりと生きて、真の神さまとの一体感を、無限に無限に大きく深くしてゆくことです。

⑧ 完全円満完璧な金剛(こんごう)不壊(ふえ)の自分を生きることです。
  虚の世界の残像・足跡・余韻としての自分、マイナスの言葉で創った自分は、偽物の自分です。

⑨ 真の神さまを受け直した、入れ子構造的に無限に無限に大きい無限大の自分こそが、本当の自分・本心の自分です。
  有限の部分としての自分は、思いの色眼鏡を通して見た虚の自分です。

⑩ 無限大の外遙か彼方の、無限の無限の彼方の絶対の中心から、一瞬一瞬新たに新たに循環して来る、新たな・新たかな自分こそが、神縁・真縁・新縁・深縁・心縁の本当の自分です。
  過去・過去世の残像としての腐れ縁の自分は、偽物です。

⑪ 絶対の中心から、入れ子構造的に、無限に無限に輝いた自分です。
  無限に無限に大きい光源の、無限のスピードで進軍する、雄々しい相(す)象(がた)が、本心の自分です。

⑫ 真の神さまと、すべてのすべてと一体の、全一の絶対の自分が、本当の自分です。
  一切の対立も差別も無い、一切の対立も差別も認めない、真の一体感を生きるだけです。

⑬ 完全な智恵と完全な能力を持っている、全知全能の自分が、本心の自分です。
  不可能を可能にする、どんな難問も瞬時に解決する、真の神さまの一大循環の相(す)象(がた)を現実化してゆくのが、本心の自分です。

⑭ 一切の縛りの無い、一切縛られることの無い、本当に自由な・自由自在な自分が、本心の自分です。
  自分の自由をすべて捧げ尽くして、全体へ絶対奉仕する本心の自分は、全体から無限倍の自由を・絶対奉仕を捧げ尽くしてもらって、更に大きな自由を
 味わい続けてゆくのです。

⑮ 一切の報いを求めること無く、必要なものを的確に与え尽くすだけという、真の愛を生きるのが、本心の自分の生き方です。
  本当に必要なものだけを与えて、余分なものはすべてUターンさせて、真の神さまにお返ししてゆくのです。真の神さまの一大循環の相(す)象(がた)に融け入って、
 真の神さまの愛の働きと一つに成ることが、真の神さまを・すべてのすべてを真に愛することになるのです。

⑯ 元から無条件の幸せ・無条件の喜び・無条件の安らぎで一杯というのが、本心の自分です。
  無条件の幸せが自然に湧き上がる自分である為には、条件を付けて求める心を起こさないことです。神ながら・神催し・神任せ、空・無為・全託、無心・
 無我・無欲の生き方を徹底することです。


『生命を捨てざれば、生命を得ず』
というのは、古いものを捨てなければ、新しいものを受け取ることはできない、過去の残像を掴んでいたら、新しい本物には成れないということです。

『死ね!さすれば生きる!』
というのも、古い自分を死に切ったら、新しい自分を生きることができるということです。過去の残像・虚・偽物を掴んでいては、新たなる自分・実・
本物には成れないのです。
 真の神さまを・真実を・真理を・本物を手に入れる為には、自分の生命を・自分のすべてを引き換えにする覚悟が必要です。

 偽物なら、偽物だから、押し売りも・安売りも有って当然です。しかし本物には押し売りも安売りも必要無いのです。本当に必要であれば、それに見合う代償を支払うべきなのです。

自分の生命を・自分のすべてを捧げ尽くしてこそ、真の神さまからの愛のプレゼントは受け取れるのです。

 求める心の乞食根性では、与える心の神さまの愛に、波長が合わないのです。波長が合わなければ、出会うことも・受け取ることも・現実化することも、不可能なのです。

 虚実の無限の無限のチャンネルの番組は、言葉(言波)で波長を合わせて感受するのです。
 自分の選んで駆使する言葉通りに、自分の積み重ねた言葉の集積(信念)通りに、波長の合うものだけを感受することができるのです。
 テレビ番組と同じように、波長の合うチャンネルの番組だけが、画面に現実化してくるのです。


 自分の選んで駆使する言葉が、虚のマイナスの言葉か、虚のプラスの言葉か、実のプラスの言葉か、どんな言葉かによって、自分の感受して味わえる番組が決定されるのです。

 自分の味わっている番組の中で、プラスを数え上げるほど、プラスの多い番組に変化してゆくのです。
 逆にマイナスを数え上げるほど、マイナスの多い番組を選んでいることになるのです。

 真の神さまの一大循環の相象は、単なる波の変化では無いのです。

真の実在の流れ・一大順流の流れです。

 自分の与え尽くした程度に比例して、その虚を埋めるように、全体から流れ込んで来るのです。

 与えれば与えるほど、大きく流れ込んで来るのです。 小さく与えたら、小さく流れ込んで来るのです。 大きく与えたら、大きく流れ込んで来るのです。
 ゆっくり与えたら、ゆっくり流れ込んで来るのです。 速く与えたら、速く流れ込んで来るのです。

 真の神さまからの愛のプレゼントは、常に必要なだけを的確に与え続けて来るのです。大きな愛を生きるほど、幸せは大きく成るのです。
 真の神さまの後押し・応援・助けは、常に自分の必要とするものの無限倍です。
 より大きな愛を生きることによって、真の神さまのより大きな愛を感受することができるのです。
 真の神さまと一つになって、真の愛を生きるだけです。

 過去を掴んで、これが自分、これが自分のものと思うだけで、業想念(過去を掴む想念感情)を積み重ねてゆくのです。
 この執着が根本の罪(積み)に成るのです。真の神さまの一大循環の相(す)象(がた)を、微塵でも掴んで自分のものにすれば、盗み・借りになるのです。
 真の恩返しを忘れた生き方では、借りが増え続けるのです。
 借り(借金)には必ず利息が付いて、放置すれば借り(借金)は大きく増え続けるのです。この借りの有る世界が、虚の世界です。
 
 真の神さまの世界は、借りの無い世界、恩返しだけに生きる世界、一大循環の世界です。
 
  昔(過去)を掴んだ人は、借りに成るのです。
  どんな借りも、真の神さまにお返しすれば、消えるのです。
 
 真の恩返し一筋に生きて、すべてを真の神さまにお返ししてゆけば、すべての借り(無限の無限の借り)は消えるのです。
 
 これ以外に借りを消し去る方法は無いのです。
 
  虚の世界(借りの世界)においては、借りが多いほど、借金返しの苦難が大きく成るのです。
  業想念=借り=七難八苦=五欲=求める心=無知です。
 
  貧しい者は益々貧しく成り、富める者は益々富むのです。
  借金の有る人は、益々借金が増え、貯金の有る人は、益々貯金が増えるのです。
  業想念の多い人は、益々業想念が多く成り、本心の輝いた人は、益々本心が大きく輝くのです。
 
 
  惰性・癖の力で、マイナスへ向いた人は、益々マイナスへ進むのです。プラスへ向いた人は、惰力だけで、プラスへ進むのです。
  マイナスからプラスへと方向転換する為には、大きな力が必要なのです。
 
  マイナスの生き方からプラスの生き方に変わる為には、思いの心の奴隷状態から、本心の自由な生き方に変わる為には、
 
 真の神さまの無限に大きい助けが、救済の神々・守護の神霊の涙ぐましい助けが、本人の真剣な努力が必要なのです。
 
  本人の本心の自分に戻ろうとする、本心の自分を生きようとする真剣さが、何よりも大事なのです。
 
  神さまの助けというのは、常に後押し・応援なのです。
 人の自由意志をどこまでも尊重して、必要な助けを与えようとするのです。
 
  どんな借りも、その場で直ぐに返すのが、一番楽なのです。
  他で後でとなると、利息がかさんで大変になるのです。
  どんな借り(借金)も、因縁因果の法則で、厳然と精算されるのです。
  どんな儲けも・泡銭も・不労所得も、高利の借金です。
  どんな助けも借金なのです。只ほど怖いものは無いのです。
 
  借金返しの苦難の道を歩みたく無ければ、恩返しの道をしっかりと歩まなければならないのです。
  真の神さまへの真の恩返しの生き方になれば、過去世からの無限の無限の借金も、短期間に消し去ってもらえるのです。
  本心の自分に戻る為には、すべての思い(借り)を消し去らなければならないのです。
 
 
  真の自分をしっかりと生きるように成るのです。
 真の自分とは、肉体でも魂でも無いのです。
 真の自分とは、永遠の完璧な実在、真の神さまです。
 一瞬一瞬新たに、真の神さまを受け直し、真の神さまとしての自分を、真の神さまの自覚をもって生きるのです。
 
 
 真の自分 は、
 ① 永遠不滅・永遠無窮の真の実在 ② 完全なプラス言葉を駆使する自分 ③ 新たな・新たに生きる自分 ④自由自在な自分
 ⑤ 必要なものを的確に与え尽くす自分
 
 真の自分を生きるとは、肉体の自分や魂の自分を生きることでは無いのです。肉体や魂の自分を、表現の道具として錬磨し、自在に使いこなす自分を生きることです。

 真実の世界を模型的に表現する世界が、虚の世界・言葉で創造する世界・思いの世界です。真実の世界の一大循環の相象をお手本にして、

必要なものを的確に与え尽くし合う、
『愛』の美しさを表現し完成させる、
即ち『真・善・美・聖』の模型の完成が、
虚の世界に遊ぶ真の目的です。

 その為には先ず、真の神さまを、真実の世界を正しく把握することが必要です。お手本をしっかりと観察し、理解し、把握することによって、模型・表現を完成させることができるのです。


 真の真実と虚の真実と虚偽の違い、真の本物と虚の本物と虚偽の違い、真のプラスと虚のプラスとマイナスの違い、真の善と虚の善と悪の違い、真の美と虚の美と醜の違い、真の自分(真の神さま)と道具としての自分(霊・魂・魄の自分)の違いをはっきりと区別することが大切です。

 本物を知る者は、本物と偽物の区別ができるのです。
 地球と地球儀や地図との違いが、大自然そのものと写真や絵画の違いがあるように、真実の世界と虚の世界との違いは、無限に無限に大きい違いが在るのです。

 真実の世界だけに生きている人、真実の世界と虚の世界の両方に生きている人、虚の世界だけに生きている人、みんな自分の自由意志で選んで生きているのです。
 真実の世界だけと言っても、入れ子構造的に無限の無限の段階が在るのです。
 他の世界もそれぞれに無限の段階が在るのです。

 真の自分(本物の自分)は、自分の生き方に全責任を持って、自由自在に生きているのです。
 虚の自分(偽物の自分)は、他に責任を転嫁して、奴隷のように生きているのです。
 真の自分を生きなければ、真の自分をしっかりと生きなければ、必然的に虚の自分に陥るのです。
 大きい自分を生きなければ、必然的に小さな自分に陥るのです。
 新たな自分を生きなければ、必然的に過去の残像としての自分に陥るのです。
真の神さまとしての自分を生きなければ、道具としての自分(肉体・魂・生命の自分)に振り回されてしまうのです。


これからは真の自分をしっかりと生きる時代です。


真の神さまへの弟子入りこそが、真の悟りへの絶対条件です。

 虚の世界を抜け出て、真実の世界に入ることが、真の入門です。
 その為には真のプラスの言葉を駆使して、真の自分・本心の自分に戻ることが必要です。
 思いの自分・虚の自分では、真実の世界に入ることができないのです。真の自分・本心の自分だけが、真実の世界に入れる(戻れる)からです。真のプラスの言葉を駆使することができたら、真の自分・本心の自分の自覚に戻れるのです。

真の自分・本心の自分が、真のプラスの言葉を駆使する

ことによって、真実の世界に入れるのです。
これが真の入門です。

 入門を許されただけでは、未だ真の弟子では無いのです。真の弟子にならなければ、破門されるのです。真の弟子に成るためには、

一大決意と一大勇猛心が必要です。
真の神さまに対して、自分のすべてを捧げ尽くして、
恩返しに・絶対奉仕に・全託に生きますと、
永遠の誓約をしなければならないのです。
そして一に実行、二に実行、三に実行です。

 どれだけ真剣に、どれだけ喜び勇んで実行しているか、その実行の程度を見て、弟子入りが認められるのです。真の弟子入りができた時から、真の神さまの入れ子構造的無限倍の大きな助けが降り注ぎ、その助けを受け入れることができるのです。


真の入門・真の弟子入りをした時から、真の悟りへの第一歩が始まるのです。

 真の自分・本心の自分と真の神さまとの一体感が、どこまでもどこまでも大きく深くなってゆくのです。
 真の悟り・真の一体感には、極まることが無いのです。
 これが究極の悟りだと言っても、まだ奥が、さらにその奥が在るのです。
 真の神さまが真の自分と言っても、真の神さまをどの程度受け入れ・受け直せたかによって、その自覚も一体感も、無限の違いが有るのです。

 ましてや真の神さまを相手にしない悟りでは、どんな悟りも本物では無いのです。無念無想になって、無と一体化しても、虚の悟りであって、本物では無いのです。

 思いの自分は、一点集中の修行をして、0・無と一体化して喜んでいるのです。
 真の自分・本心の自分は、全方向に・無限大の外遙か彼方へ心を向けて、真の神さまとの一体感をどこまでも大きく深くして喜ぶのです。

 正しい教えを、正しく受けて、正しく実行してこそ、真の悟りは深まるのです。真の教えと方便の教えを区別してこそ、本物と偽物を区別してこそ、正しい教えになるのです。
 本心の心で、思いの色眼鏡を通さないで受けたら、正しい受け方になるのです。本心の心で、喜び勇んで実行できたら、正しい実行になるのです。

 先ずは思いの心の自分から、本心の心の自分に戻ることです。そして本心の自分を、真のプラスの言葉を駆使して、しっかりと生きることです。


真の神さまの働きは、真のプラスだけなのです。

真の神さまの一大循環の相象は、
本当に必要なものを、一番必要な時に、一番必要な所へ、
過不及無く過不足無く必要なだけを、
最高の状態で的確に与え尽くして下さる、
真の愛の贈り物・真の神愛そのものなのです。

 絶対の中心から、新たなる無限の無限のプラスが無限に無限に一杯!と、一瞬一瞬新たに新たに降り注ぐ、縦線だけというプラスです。
 真の神さまの一大循環の相象を、一瞬でも止めた時に、横線・マイナスに成るのです。
 過去を掴み、積み重ねたら、横線・マイナスが増え、積み・罪になるのです。一大循環の流れを止めて見るプラスは、横線に縦線が加わった+(プラス)で、虚のプラスです。虚のプラスは同時に、横線・マイナスを持っているのです。

真の神さまの世界・真実の世界は、真のプラスだけの循環です。

 海流の大きな流れのようなものです。
虚の世界は、海の表面の波の変化のようなものです。海そのものには実体が在るのです。表面の波の変化には実体が無いのです。
 虚の世界のすべては、無から相対の両極に分かれ、波の変化となって現れ、減衰して消えて無に戻るのです。
 必要なだけで満足できるならば、表面の波は起こらないのです。
求める心を起こした時に波立つのです。求める心で何を願っても、願いが強ければ、大きな波が生ずるのです。
 相対の両極に分かれるすべては、プラスを生み出したと思っても、同時にマイナスとなって波打つのです。


真の神さまの願いは、真の感謝と真の報恩に生きることです。

真の感謝とは

 真の神さまから、新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という贈り物を、一瞬一瞬新たに新たに、感受し続けることです。
 『ありがとうございます』という言葉を駆使することによって、真の神さまと一体化し、真の神さまのすべてを感受できるのです。

真の神さまだけ!
真の輝きだけ! 真のプラスだけ! 真の調和だけ!
・・・・・なのです。

 真の神さまの働きのすべてが、無限に無限に輝いているだけです。
 真の神さまの絶対の中心から、一瞬一瞬新たに、無限の無限の天照大御神が新生し、循環しているだけです。
 新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という贈り物が降り注いでいるだけです。


真の報恩の生き方とは

 入れ子構造的に大きな自分に成るために必要なのです。
 自分の自由をすべて捧げ尽くして、恩返しの絶対奉仕に生きる時に、全体から与え返される無限倍の自由と絶対奉仕を感受することができるのです。
 即ち無限倍の自分・入れ子構造的に一段上の自分に成れるのです。
 真の感謝と真の報恩の生き方は、呼吸のように循環して、自分を大きくしてくれるのです。
 即ち真の神さまとの一体感が大きく深く成るのです。


真の神さまの一大循環の相象は、
本当に必要なものだけを、的確に与え続けるという、
真の愛の働き・愛のプレゼントです。

 大海の大きな流れとなって、すべてのすべてに、本当に必要なものを、的確に与え続けているのです。

 真の神さまの世界・真実の世界は、大海の表面も鏡のような姿で流れているのです。
 この滑らかな面も、掴んで止めると波立つのです。
 流れと逆の方向に押すと、大きく波立つのです。
 一大循環の相象を、微塵でも掴めば、波立つのです。
 求める心(逆流)を起こせば、大きく波立つのです。

 真の神さまの一大循環の相象の表面を、波立たせた世界・波の世界が、虚の世界です。
 鏡のような水面であれば、海の底まで見えるのです。少しでも波立てば、表面しか見えないのです。大きく波立てば、波に翻弄されるのです。

 虚の世界においては、
波の起伏の小さな、千早振る波・千早振る神の世界が、高級神霊の世界です。
波の起伏の大きな、荒ぶる波・荒ぶる神の世界が、低級神霊の世界です。

 高級神霊の世界は、与える心を生きる世界です。ただ真実の世界と比較すると、与えるスピードが遅いのです。だから少し波立つのです。
 低級神霊の世界は、求める心を生きる世界です。求める心は逆流になるので、大きく波立つのです。


真の神さまの一大循環の流れを、
妨げない・助ける・加速するのが、真の正しい生き方なのです。

 一大循環の流れを、少しでも妨げたら、間違った生き方なのです。
 過去を掴む思いの心の生き方は、常に一大循環の流れを止めているのです。過去の体験・経験・知識に頼る生き方は、過去を掴む思いの心の生き方であって、真の正しい生き方では無いのです。
 一瞬一瞬新たに新たに、真の神さまの御心を正しく受け直すので無ければ、先入観で歪めた生き方になるのです。

 無色透明の神さまの導きは、無色透明の心に成らなければ、正しく受け取ることはできないのです。

 本当に必要な仕事をする場合も、一大循環の流れに従えば、必ずスピード化してくるのです。
 逆に言えば、スピード化の工夫をすれば、一大循環の流れに合ってくるのです。
 一大循環の流れに合ってくれば、全体が光輝いているのです。
 スピード化の邪魔をする部分があれば、そこは思いの心で暗闇になっているのです。一目瞭然なのです。

 何事もすべて我(思いの心)が無ければ、スピードが速くなるのです。

 本心の心をしっかりと生きようとすれば、我の無い生き方になって、すべてスピード化して、真の神さまの一大循環の相(す)象(がた)に近づいてゆくのです。


与えるものの質を高め、与えるものの量を増やしてゆくことが、幸せへの絶対条件なのです。

真の神さまに対しては、
 自分の与えたものに比例して、自分の受け取るものが決まるのです。

 新たなる無限の無限の贈り物が無限に無限に一杯!与えられていても、自分が何も与えなかったら、真の神さまからは何も受け取れないのです。
 だからこそ自分のすべてを与え尽くし、恩返しの絶対奉仕に生きることが、真の神さまからの贈り物を最大限に受け取る為の秘訣なのです。

 虚の世界においては、
  自分の与えたものと同じものが、自分に与え返されるのです。

プラスを与えたら、プラスが与え返されるのです。
マイナスを与えたら、マイナスが与え返されるのです。
厳然たる因縁因果の法則です。

『すべては言葉通りに成る』というのが、厳然たる宇宙の絶対法則です。

 すべてに先立って、言葉が何よりも一番大事なのです。
 先ずどんな言葉を与えるかによって、すべては決定されるのです。

真の神さまに対しては、
 最高のプラスの言葉を与え続けることが、真の神さまからの贈り物を、一大循環のすがたを感受する為の必須条件なのです。


 自分から出た言葉は、必ず自分に戻って来るのです。
 他に影響を与えたら、必ず大きくなって返って来るのです。
 万人に影響を与えたら、万倍になって返って来るのです。
 次から次へと連鎖反応を起こしたら、さらに大きくなって返って来るのです。
 自分から出た言葉はすべて宇宙を駆け巡って、必ず大きくなって自分のもとに返って来るのです。

 虚の世界のすべては、自分から出た言葉が、言葉通りのものが、自分に返って来ているだけなのです。
 過去の言葉が順番に、必ず自分のもとに返って来るのです。
 今からの言葉は、必ず未来の何時か、必ず自分のもとに返って来るのです。
 プラスはプラスのまま、マイナスはマイナスのまま、途中で変化することなく、必ず自分のもとに返って来てくれるのです。

自分の運命は自分の言葉で創っているのです。

 だからこそどんな運命に対しても自分自身が責任を取らなければならないのです。
 言葉を自由自在に支配できる人は、運命を自由自在に支配できるのです。
 感謝の真祈りを祈り続けることができれば、真実の世界の住人に必ず成るのです。
 そして虚の世界にも娑婆の世界にも自由自在に遊ぶことができるのです。
観世音菩薩は、本心の自分は、
虚の世界に、娑婆の世界に
遊ぶだけです。


『すべて言葉通りに成る』というのが、厳然たる宇宙の絶対法則です。
すべては言葉通りに成っているのです。
すべては言葉通りに成ってゆくのです。
すべては言葉通りに成るのです。

 真の神さまの世界・真実の世界においては、すべて言葉通りに真実のすがたとして感受するのです。
 言葉通りの自分を・言葉通りの世界を・言葉通りの番組を・言葉通りの運命を、真実のすがたとして感受するのです。
 思いの色眼鏡を通して見る世界・虚の世界においては、すべて言葉通りに虚のすがたとして感受するのです。
 言葉通りの自分を・言葉通りの世界を・言葉通りの番組を・言葉通りの運命を、夢・幻・錯覚・虚のすがたとして、本来無いものを有るかのように感受するのです。

 真実の世界も虚の世界もどちらもすべて、言葉通りに浮かび上がり・言葉通りに成り・言葉通りに現実化するのを、言葉通りに感受するのです。

すべて言葉通りに成ると言う人は、すべて言葉通りに成るのです。
すべて言葉通りに成らないと言う人は、すべて言葉通りに成らないのです。
どちらもその言葉通りに成るのです。

 ただ前者はそれに気付き、後者はそれに気付かないだけです。
 一瞬一瞬新たに、すべてを真の神さまから受け直す、真の感謝に生きる人は、今の言葉が直ぐに実現するので、すべて言葉通りに成るのがよく解るのです。
 ところが過去を掴み、思いを一杯積み重ねた人にとっては、遠い過去の言葉が今現実化し、今の言葉は遠い未来に現実化するのです。
 そのズレが大きくなると、その言葉を忘れた頃に現実化してくるので、すべて言葉通りに成っているのに気付かないのです。
 だからすべて言葉通りに成らないと言う人は、今の言葉が直ぐに実現しないと言っているだけなのです。
 誰一人の例外も無く、すべて言葉通りの自分に成り、言葉通りの世界に住み、言葉通りの番組を選び、言葉通りの運命を味わっているのです。

 真実の世界においては、
 新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、一大循環の相象(すがた)の中から、自分の選んだ言葉通りのものを、感受して味わうことができるのです。
 虚の世界においては、
 言葉が創造主です。自分の選んだ言葉で創造したものを、言葉だけのものを、感受して味わうことができるのです。

 虚の世界の創造は、無が相対の両極に分かれ、その組み合わせによって、すべてのものが生み出され、バランスを保っているのです。
 虚の世界の高い番組は、思いの蓄積が少ないので、視野が広くなり・空間が広がり、その分時間が短縮され、今の言葉が現実化して消えてゆくのに、短い時間で済むのです。
 反対に虚の世界の低い番組は、思いの蓄積が多いので、視野が狭くなり・空間が狭まり、その分時間が長く伸び、今の言葉が現実化して消えてゆくのに、長い年月を要するのです。

 真実の世界においては、言葉と心と行いは、同時に実現して来て移り変わるのです。
 虚の世界の高い番組は、言葉が信念と成り、信念が行いと成って、形に現れて消えてゆくのに短い時間で済むので、言葉を支配することによって、心と運命を支配することができるのです。
 虚の世界の低い番組は、過去を掴み・現実に囚われ・環境に影響されて言葉を選んでしまうので、運命の奴隷に陥るのです。


自分の見たり・聞いたり・言ったりする言葉はすべて、
無限の無限の選択肢の中から一つだけを、
自分の自由意志で選んだ言葉に成るのです。

 すべて自分の選んだ言葉通りに、それを感受して味わえるということは、神さまの大いなる愛の計らいであって、無限に無限に有難いことなのです。
 それ故にこそすべて言葉通りに成るということが、厳然たる宇宙の絶対法則に成っているのです。

 真の神さまからの贈り物は常に、
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!となって降り注いでいるのです。
 
 人はその中から自分の選んだ言葉通りのものを、言葉だけのものを感受して味わっているのです。


真の神さまを知らない・真の法則を知らない
ということが、無知の根本であり、最大のものです。

 そしてその無知が、罪の第一であり、最大のものに成るのです。
 無知なるが故に、間違った生き方に歯止めがかからず、過去を掴み、マイナスの言葉を積み重ね、思いの色眼鏡を厚くして、真実の世界に居ながら真実の世界に気付かず、虚の世界に転落して彷徨(さまよ)うことになるのです。

虚の世界から抜け出て、真実の世界に気付く為には、今一度、
真の感謝と真の報恩の生き方に戻る必要があるのです。


一瞬一瞬新たに、
すべてを真の神さまから受け直す、真の感謝一筋に生きることと、
過去のすべてを真の神さまにお返しする、真の恩返し一筋に生きること
が必要なのです。


真の神さまから感受したものをすべて、
即座に真の神さまにお返しするのが、
真の恩返しの生き方です。


 真の神さまの新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という一大循環の相象(すがた)を、微塵も掴むこと無く、微塵も自分のものにすること無く、ただ眺め、褒め称え・感謝し・喜ぶだけが、真の恩返しの絶対奉仕の生き方です。

 この一大循環の相象(すがた)を少しでも掴んで、自分のものにしたと思った瞬間に、過去の残像・足跡・余韻の世界に、思いの世界に、虚の世界に転落するのです。


虚の世界から抜け出て、真実の世界に戻る為には、

命もいらぬ、名もいらぬという覚悟を定め、
すべての執着心と虚栄心を捨て去り、自分のすべてを捧げ尽くし、
過去のすべてをお返しして、真の恩返しの絶対奉仕に生きて、
すべての思いを消し去ってもらうことが必要不可欠なのです。


真の『ありがとうございます』は、真の神さまです。
真の神さまに出会う為には、
この真の『ありがとうございます』を唱え続けるだけです。

謙虚に・素直に・真剣に、ただひたすらに唱え続けるだけです。
今の一瞬一瞬が大事なのです。
すべては言葉通りに成るのです。
真の『ありがとうございます』は無色透明です。
すべてのすべてを収束しているから無色透明なのです。
無心・無我・無欲の心で唱えるのです。
空・無為・全託の心で唱えるのです。
真の『ありがとうございます』だけが鳴り響いているのです。
神ながら・神催し・神任せです。
真の神さまだけ!真の神さまだけ!真の神さまだけ!なのです。

  真の神さまの一大循環の相象(すがた)は、無限のスピードで移り変わっているので、本来微塵も掴めないのです、微塵も自分のものにできないのです。
  それを掴んで、自分のものにしたという「思い」だけなのです。
  過去の残像・足跡・余韻を掴んだ「思い」だけです。
  だから実では無く、虚なのです。
  本物では無く、偽物なのです。
  元から真の神さまだけ、真の神さまのものだけなのです。
  自分も自分のものも無いのです。
  これが自分、これが自分のものというのは、全く思いだけなのです。
  すべては真の神さま、真の神さまのものだけです。
  執着が・執着の思いがすべての苦しみの元凶です。
  何故なら執着の思いによって、真の神さまの一大循環の相象(すがた)を、一瞬一瞬新たに受け直せなくなるからです。


真の『ありがとうございます』は、真の神さまです。
真の神さまは、一大循環の相象(すがた)で
厳然と今ここに在しますのです。

真の神さま、真の神さま、真の神さまだけです。
真のプラス、真のプラス、真のプラスだけです。
一大循環の相象(すがた)、一大循環の相象(すがた)、一大循環の相象(すがた)だけです。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

真実の世界の一大循環の相象(すがた)は、
真の自然循環、
真の恩返しの与え尽くし合いだけの・真のプラスだけの自然循環です。
 この真実の世界の自然循環のすがたが、虚の世界に投影されたら、生かし合いの調和した世界が現実化するのです。

 思いが沢山蓄積するほど、五欲の心が強くなり、振幅の大きい波になるのです。思いを叶えることが、五欲を満足させることが、成功・幸せ・プラスの生き方なのだと錯覚しているのです。
 必死に努力して登り詰めた頂点の成功も、束の間の一瞬の満足だけで終わるのです。後は下降線をたどり、借りを返す為の苦難の道を歩むことになるのです。

 真の神さまの支えの無い虚の世界においては、プラスを手に入れる為には、マイナスの支えが・借りが必要なのです。
 多くのプラスを手に入れたと喜んでいても、一方では多くのマイナス・借りを背負っているのです。成功も勝利も繁栄も儲けも名誉も贅沢も、プラスと思っていることがすべて、大きい借り・高利の借金になるのです。
 その借金返しの為に、誰一人の例外も無く、桎梏(しっこく)の闇の中を、七難八苦の苦難の道を歩み続けなければならないのです。


 真の幸せを願うならば、一切の対立・差別を生み出さない生き方を実践しなければならないのです。
 成功も失敗も無い、勝利も敗北も無い、繁栄も衰退も無い、儲けも損失も無い、名誉も不名誉も無い、贅沢も貧困も無い、本当の中庸・中道・中間の生き方が必要なのです。
 これは本当に必要なものだけで満足し・感謝し・喜ぶ清貧の生き方です。
 他から何も奪わない生き方です。
 大自然からも、他人からも、何も奪わない・何も借りない・何も求めない生き方です。
 求めなくても・願わなくても、必要なものは自然に与えられ・供給される生き方です。
 生かし合い・助け合い・支え合いだけの、恩返しの絶対奉仕の生き方です。
 真の神さまとすべては一体であるという、真の愛の一体感から来る霊的喜びを根本において、すべてに対して褒め称え・感謝し・喜ぶという精神的喜びを味わいつつ、必要なものは的確に供給されるという無限供給を満喫するのが、本当の幸せな生き方です。
 虚の世界においても、真の恩返し一筋の絶対奉仕の生き方が、最高番組の一番幸せな生き方なのです。
 それを徹底すれば、真実の世界に戻れるのです。
 
 真の神さまの愛を感受する為には、
 真の神さまを愛することが必要なのです。
 波を合わせることが必須条件なのです。
 波の合ったものを感受できるのです。
 波の合ったものだけを感受できるのです。
 波の合わないものは感受できないのです。
 真の神さまの愛は、一大循環の相象と成って、厳然と降り注いでいるのです。
 永遠無窮に降り注ぐのです。

 それを感受できるかどうかは、受ける側の問題であり、責任なのです。


 愛することによって、愛を感受できるのです。
 愛する者が、愛を感受できるのです。
 自分と同じものが、周りに現れるのです。
 自分の与えたものと同じものを、感受することができるのです。

真の神さまを愛するとは、どうすることですか?
真の『ありがとうございます』を捧げることなのです。

 真の『ありがとうございます』には、真の神さまを愛するすべてが収束されているのです。

① 真の神さまに心を向けることです。
② 真の神さまの御名を崇め、呼ぶことです。
③ 真の神さまだけを認めることです。一対一の対面です。
④ 真の神さまのすべてを受け入れることです。即ち真の感謝です。
⑤ 真の神さまを最高最大に褒め称えることです。
⑥ 真の神さまへの恩返しです。
⑦ 真の神さまへの絶対奉仕です。
⑧ 真の神さまにすべてを委ね・任せる、真の全託です。
⑨ 真の神さまとの交流です。
⑩ 真の神さまとの融合一体化です。
⑪ 真の神さまの愛の一体感を深めることです。
⑫ 真の神さまの自覚を深めることです。
⑬ 真の神さまに成り切ることです。

 一瞬一瞬新たに新たに、真の『ありがとうございます』を捧げることが、真の神さまを愛することなのです。
 真の『ありがとうございます』を静かに・無心に・淡々と唱え続けるだけで、真の神さまの愛を、一大循環の相象を感受できるようになるのです。


真の絶対は入れ子構造の本源です。

 真の絶対の最小単位は、無限大の完璧な光源・天照大御神です。
 真の絶対には天照大御神が、入れ子構造的に無限に無限に充満しているのです。

 無限の天照大御神を束ねる一段階上の天照大御神が在り、
 その天照大御神を無限に束ねる二段階上の天照大御神が在り、
 さらにその天照大御神を無限に束ねる三段階上の天照大御神が在り、
 というように、絶対の中心に向かって限りなく続いているのです。

 絶対の中心は無限大の外遙か彼方、無限の無限の彼方に実在しているのです。

 それ故に絶対の中心からは、

一瞬一瞬新たに、無限の無限の天照大御神が、
入れ子構造的に・重層構造的に・異次元構造的に・ところてん式に
全方向から、一大曝布となって降り注ぎ、
無限のスピードで一大循環しているのです。


絶対感謝の道は、
一瞬一瞬が新たなる無限の無限の天照大御神との
一期一会の出会いだけです。

 どの天照大御神も、初めて出会う・二度と出会えない・一度切りの、一期一会の出会いの神さまだけです。


 絶対から新生してくる無限大の完璧な光源・天照大御神は、絶対の写し・模型・縮図となって、相似形のすがたをとって入れ子構造的に、愛の心で光を和らげ、無限小に縮み込んで、無限の無限のチャンネルの番組となって、すべてを与え尽くして絶対へ・絶対の中心へと戻ってゆくのです。


天照大御神今ここに在します。
入れ子構造の天照大御神今ここに在します。
無限の無限の天照大御神今ここに在します。
みんな天照大御神!天照大御神はすべてのすべて。
天照大御神の他には何も無い。
天照大御神独在です。
新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します。
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!


 真の神さまは始め無く・終り無く、永遠無窮の真の実在です。
 真の神さまには一切の対立が無い、一切の差別が無い、元から完璧な一つであり、完全な一体感だけです。


真の神さまは厳然と今ここに在しますのです。
真の神さまは一大循環の相象(すがた)となって、
一大循環の相象(すがた)で、厳然と今ここに在しますのです。
新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します。
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!


 自分が運命を支配しなければ、逆に自分は運命に支配されるのです。

 真の神さまが真の自分と受け直した自分は、自由自在な本心の自分です。
 本心の自分をしっかりと生きることによって、本心の自分は運命を自由自在に支配することができるのです。
 ところが肉体や魂を本当の自分だと思い込んでいるのは、本心の自分を忘れて、思いの奴隷状態に陥っているのです。
 それでは運命を支配することはできないのです。
 運命だから仕方が無いと諦めて、運命の奴隷に陥ってしまうのです。

 自分の駆使する言葉通りの自分に成るのです。
 自分の駆使する言葉通りの運命に成るのです。
 すべて自分の駆使する言葉通りに成るのです。
 真のプラスの言葉を駆使すれば、真の神さまに出会えるのです。
 真のプラスの言葉を駆使すれば、一大循環の愛の世界に住めるのです。

永遠の完璧な真の神さまだけ!
全方向から降り注ぐ真のプラスだけ!
一大循環の愛の相象だけ!


 真のプラスの言葉だけを、徹底的に駆使すれば、必ず真の神さまに出会えるのです。

 真の神さまには、マイナスは無いのです。
 真の神さまには、微塵もマイナスは無いのです。
 真の神さまは、新たなる無限の無限のプラスが無限に無限に一杯!という、真のプラスの一大循環の相象だけです。

 もしマイナスが有るとすれば、それは過去の自分のマイナスの言葉の結果です。


 マイナスの言葉を使って御免なさい、マイナスの言葉を向けて御免なさい、プラスだけです、真のプラスだけです、ありがとうございます、と真心から祈れば、そのマイナスは消し去ってもらえるのです。

 虚の世界のすべては、自分の言葉通りの世界なのです。
 自分の言葉が自分の世界を創っているのです。
 真のプラスの言葉を駆使しなければ、真の神さまには出会えないのです。
 虚の世界のプラスに満足していては、真の神さまには出会えないのです。


  虚の世界のマイナスを消し去る為に祈るのでは無いのです。

真の神さまに出会う為に祈るのです。
真のプラスを感受する為に祈るのです。
真の神さまの愛を、一大循環の相象を感受する為に、
祈りに祈るのです。


真の神さまはすべてのすべて!
真の神さまの他に何も無い!
真の神さまだけ!
真のプラスだけ!
真の調和だけ!
一大循環の愛の相象だけ!

ありがとうございます、
ありがとうございます、
ありがとうございます・・・・・。


 自分を変えれば、自分が変われば、自分の環境・世界・運命は変わるのです。自分に合った、自分にふさわしい、自分に必要な環境・世界・運命に成るのです。

 自分自身の変化に応じて、自分の環境・世界・運命は変化するのです。
 自分を変えるのは、自分の駆使する言葉で変えるのです。
 自分の自由意志で、しっかりと言葉を選んで、駆使することが必要です。

 環境の影響を受けて、自分の見たり・聞いたり・言ったりする言葉が変化するようでは、環境の奴隷です。
 自分の自由意志でしっかりと言葉を選ばなければ、自分で自分を変えることはできないのです。

 自分を変える努力をしないで、環境・世界・運命が良くなるのを待っているのは、愚かなことです。
 すべて自分の自由意思で、自由自在に成らなければ、自分には真の自由が無いことになるのです。
 真の自由の無い所には、真の幸せは無いのです。
 真の神さまが、みんなに保証している、真の自由と真の平等は、真の幸せにとって必要不可欠なのです。

 みんな真の神さまを、真の神さまの一大循環の相象を、共有しているのです。
ここに 真の平等 が有るのです。

 みんな自分自身の選んで駆使する言葉通りのものを、感受して味わえるのです。
ここに 真の自由 が有るのです。


 自分のすべてを与え尽くしても、自分はこんな良いことをしたという思いが、少しでも残っていたら、未だ虚栄心の我の心が出て来ているのです。
 虚栄心の思いを完全に消し去るのが、一番難しいのです。
 過去に積み重ねたすべての思いを消し去るまでは、ちょっと油断すれば、虚栄心の奴隷に陥るのです。

 過去の自分を死に切らなければ、新しい自分・本心の自分は出て来ないのです。
 限界破りに挑戦するのは、古い自分と新しい自分を置き換える為です。
 限界を破ることによって、古い自分を死に切り、新しい本心の自分が出て来るのです。
 自己限定する自分は、古い自分・思いの自分です。
 古い自分を使い切って何も残さないということが、古い自分を死に切ることなのです。
 古い自分を死に切ったつもりでも、未だ我の心が残っていたら、思いを消し切れて無いのです。

 古い自分を死に切って、すべての思いを消し去る為には、真の神さまにすべてを委ねる・任せる・全託するということが必要なのです。

神ながらに・神催しに・神任せに、
すべて神さまの力・働き・お蔭ですと、
100パーセントの全託が必要なのです。

 自分のすべてを与え尽くし、捧げ尽くし、死に切り、消し切ることによって、すべての思いが消え去って、真の神さまが・真の自分が・本心の自分が・新しい自分が、輝き出て来るのです。


 真の神さまが真の自分、一大循環の相(す)象(がた)となって、厳然と今ここに在します。

真の自分 とは

① 真のプラスの言葉を駆使する自分
② 一切の我の無い、無色透明の自分
③ 元から真の神さまと一体の悟った自分
④ 常に全体を支える自分
⑤ すべてを適材適所に配置する自分
⑥ 一切の責任を自己に帰す総責任者の自分
⑦ 永遠無窮の自分
⑧ 完全円満完璧な自分
⑨ 無限に無限に大きい無限大の自分
⑩ 一瞬一瞬新たなあらたかな自分
⑪ 絶対の中心から無限に無限に輝いた自分
⑫ すべてと一体の全一・絶対の自分
⑬ 全知全能無限力の自分
⑭ 一切の縛りの無い自由自在な自分
⑮ 微塵も求める心の無い、必要なものを的確に与え尽くすだけの愛の自分
⑯ 無条件の幸せ・喜び・安らぎで一杯の自分です

一瞬一瞬新たに新たに、
真の神さまを受け直した自分、
真の神さまの側に立った自分、
必要なものを的確に与え尽くしてゆく愛の自分、
一大循環の相象と一つになった自分、

これが真の神さまと一体の本当の自分です。


 真の神さまと共に歩む自分に成った時に、真の神さまのすべては、必要に応じて大きく流れ入ってくるのです。
 真の自分が真の神さまと共に歩む時に、真の恩返しの絶対奉仕に成るのです。

 真の神さまの真のお手伝いに生きる時に、真の神さまを大きく深く感受できるのです。
 真の神さまのお手伝いに生きるのが、一番幸せなのです。
 真の神さまは、すべてのすべてに対して、本当に必要なものを、本当に必要な時に、本当に必要なだけを、最高の状態で的確に与えようとしているのです。
 すべてに対して、最高の幸せを与えようとしているのです。
 だからこそすべての幸せが自分の幸せとなって、その幸せはどこまでも無限に無限に大きくなってゆくのです。

 真の神さまと共に歩むということは、全体とすべてと手を取り合って、みんな仲良く支え合うことなのです。
 お互いが必要なものを与え合うことなのです。
 真の神さまの口より出る言葉〔霊妙不可思議な神秘の言葉・言霊〕によって、みんな本当の幸せを感受できるのです。

真のプラスの言葉を選ぶことによって、
真の神さまの愛のプレゼントを受け取ることができるのです。

真のプラスの言葉を与えることが、
真の神さまの一番のお手伝いになるのです。

 真のプラスの言葉の小冊子を、みんなで作って配布してゆくことが、待望されているのです。


 「命も要らぬ、名も要らぬ」という覚悟が無ければ、未だ真実の世界に戻ろうとしていないのです。

 真の神さま、真実の世界は、
『 新たなる無限の無限の天照大御神 今ここに在します。 新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯! 』
という一大循環の姿(相象)で、厳然と今ここに在しますのです。

 その一瞬一瞬の新たな移り変わりの姿を、微塵も掴むこと無く、微塵も自分のものにすること無く、ただ眺め、褒め称え・感謝し・喜ぶことが、真の恩返しの生き方です。

神さまから受けたものはすべて、
即座に神さまにお返しするのが、
真の恩返しです。

 受けながらお返しし、お返ししながら受けるという、自然な流れのままに、受けるのとお返しするのが一つになっているのです。

 微塵でも掴めば、そこに神さまから離れた自分が生まれるのです。
 微塵でも自分のものにすれば、それを自分という器の中に溜め込んでゆくのです。
 ここから虚の世界が生まれたのです。
 そして虚の世界という落とし穴に転落してゆくのです。
 過去の残像を、思いを積み重ねては、思いの色眼鏡を厚くして、真実の世界が見えなくなってゆくのです。
 そして自分の名を・自分の名誉を守ろうとする虚栄心が生まれ、自分のものを・自分の命等々を守ろうとする執着心が生まれるのです。
 虚栄心と執着心が、虚の心の東西の両横綱となり、その奴隷となって喜んでいるのが、虚の世界の人の姿です。


 虚の世界は、真の神さまから遠ざかってゆく世界です。
 プラスから離れてゆく、即ちマイナスの極へ、地獄のどん底へ落下してゆく、逆流(マイナスへの流れ)の世界です。
 思いを積み重ねて、その重みで落下してゆく世界です。
 上流(プラス)へ上ろうと、努力しても努力しても、下流(マイナス)へ押し流される世界です。

 だからこそ自分自身が過去の無礼をお詫びし、恩返しに生きようとすれば、必ず助けてもらえるのです。

 真の神さまは、天の岩戸を開いて、光の太柱となって降りて来て下さっているのです。
 無限のスピードの順流の流れを、緩やかな流れに変えて、恩返しの心さえ起こせば、その中に入れるようにして下さっているのです。
 この順流の流れの中に入りさえすれば、後はすべて神さまの無限の力で、真実の世界へと押し上げてもらえるのです。

 同じ順流の流れでも、スピードが違えば、弾き出されて入ってゆけないのです。
 ましてや逆流では、粉微塵に粉砕されて、遠くへ弾き飛ばされてしまうのです。
 マイナスの一言で、逆流に成るのです。

謙虚に謙虚になれば、プラス思考の生き方ができるのです。

プラスの言葉だけを使えるようになることが、
何よりも大事なことなのです。


 真実の世界に無限の無限のチャンネルの番組が在り、虚の世界に無限のチャンネルの番組が有るのです。
 自分の選んだ言葉によって、言葉通りの自分に成り、その自分に波長の合う番組を現実化して味わっているのです。
 今自分が味わっている世界は、自分に波長の合う番組の世界です。
 波長が合わなければ、決して現実化しないし、味わうこともできないのです。
 テレビの放送番組が、チャンネルの切り換えによって、波長の合う番組だけが映像化して来るのと同じです。
 他の放送番組を見たかったら、チャンネルを切り換えるしか方法は無いのです。

 今自分の味わっている人生劇場が、マイナスで一杯であっても、それは今の自分にピッタリと波長が合っているのです。

 本当にマイナスの自分をプラスの自分に変えたいのであれば、
  過去の結果としての現実を相手にしないで、
  現実のマイナスに対しては、
見ざる・聞かざる・言わざるの実行が必要です。

 そして心の奥深くで真のプラスの言葉を駆使することが、必要不可欠なのです。

本当にプラスの言葉だけを、
真剣に・一心に・ひたすら唱え続けることができたら、
必ずプラスの自分に変わるのです。

 自分の選ぶ言葉が・自分の使う言葉が、波長合わせの言葉に成るのです。
 言葉・言波によって、波長を合わせることになるのです。


 どんな言葉を選んでも、どんな言葉を使っても、その言葉通りの番組を、必ず現実化して味わうことに成るのです。

 プラスの番組だけを現実化して味わいたいのであれば、過去も現在も無関係に、プラスの言葉だけを駆使し続ければ良いのです。
 必ずその言葉通りに、プラスだけに成るのです。

 現実主義者は現実を繰り返すのです。
 理想主義者は理想を現実化するのです。
 過去の言葉通りに、すべては現実化し続けているのです。
 今からの言葉通りに、未来のすべては現実化するのです。
 自分自身も世の中のすべても、今使われている言葉通りに、必ず現実化するのです。


真のプラスの言葉だけを駆使し続ければ、
必ず真の神さまに・真実の世界に・真のプラスの番組に
波長が合うのです。

真の神さまは厳然と今ここに在します!
真の神さまはすべてのすべて!
真の神さまの他に何も無い!

真の神さま!真の神さま!真の神さまだけ!
真のプラス!真のプラス!真のプラスだけ!
真の調和!真の調和!真の調和だけ!

真の一大循環の相象!真の一大循環の相象!真の一大循環の相象だけ!
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。


何から何まですべて、一から無限まですべて、100パーセントすべて、
本当にすべて神さまのお蔭ですと、
謙虚に謙虚に成れた時、
神さまの働きは大きくなるのです。


 自分が自分がという我の働きは、神さまの働きの邪魔をしているだけです。
 謙虚に謙虚に恩返しの絶対奉仕に生きる時、神さまが、必要なことを自然にさせてくださるのです。
 神さまの御心が自分の中に入って来ると、本当にプラス思考の自分に成っているのです。
 すべてが有り難くなるのです。
 すべての移り変わる姿をプラスに受けて、褒め称え・感謝し・喜べるのです。
 
 
 感謝の真祈りを祈るということは、
 最高のプラスの言葉を選ぶということです。
 自分の選んだ言葉通りにすべては成るのです。
 最高のプラスの言葉を選べば、真の神さまの真実の世界に入れるのです。
 
 最高のプラスの言葉を選ばなければ、虚の世界に留まることになるのです。
 自分の見たり・聞いたり・言ったりする、すべての言葉は、自分の選んだ言葉に成るのです。
 
 自分の選ぶ言葉のすべてが、最高のプラスの言葉に成るように、日々瞬々刻々、感謝の真祈りを真剣に祈り続けることが大事なのです。
 神さまは天の岩戸を開いて、過去のすべてを棚上げにし、最後の審判を下して、人の自由意志を確かめているのです。
 
 
 すべて自分の選んだ言葉通りに、100パーセント必ずしてくださるのです。
選ぶ言葉は常に無限に一杯!なのです。
他のどんな言葉でも、常に自由に選べるのです。
だからどんな言葉を選んでも、常に全責任は自分自身に有るのです。
他の所為にしていては、常にその奴隷です。
言葉を支配してこそ、本当の自由人に成れるのです。

自分を大きくしてゆく為の一番の秘訣は、過去の小さな自分を神さまにお返しして、新しい大きな自分を受け直すことです。

 感謝一筋に恩返しの絶対奉仕に生きれば、過去の小さな自分を神さまに預けて消し去ってもらえるのです。
 すべてを与え尽くして空っぽの自分になれば、無限倍にして与え返される新しい自分を、大きく受け入れることができるのです。

 過去を掴めば、小さな自分に成ってゆくのです。
 過去を放せば、大きな自分に成ってゆくのです。
 真の神さまの世界・真実の世界に住める自分は、真の神さまへの感謝一筋に、恩返しの絶対奉仕に生きる自分です。
 恩返しの絶対奉仕に生きれば、絶対の中心に向かって、どんどん大きな自分に成ってゆくのです。
 恩返しの絶対奉仕を忘れたら、虚の世界を下へ転がり落ちて、小さな自分に成ってゆくのです。

 自分のすべてを捧げ尽くして、恩返しの絶対奉仕に生きる、与え尽くす生き方は、無限倍にして与え返される、一番得な生き方なのです。
 反対に求める・奪う・借りを増やす生き方は、無限倍にして奪い取られる、一番損な生き方なのです。
 与える心を生き続けたら、必ず神さまの世界に戻れるのです。
 求める心を生き続けたら、必ず地獄のどん底へ落ちてゆくのです。


今新たに選んだ言葉が最優先されるのです。

 今新たに選んで駆使する言葉が、過去に積み重ねた他のどんな言葉よりも優先されて、現実化してくるのです。
 ただ無限分の一秒にまで絞り込んで、真剣に選び続けないと、言葉選びの空白が生ずるのです。
 その空白に過去に積み重ねた予約の言葉が、順番に顔を出して現実化してくるのです。
 どんな言葉も真に一心不乱に唱え続けたら、必ず速やかに現実化してくるのです。

 今選んだ言葉か、過去に選んだ言葉かの違いはあっても、すべて自分の選んだ言葉が、自分・世界・運命となって現実化しているのです。
 法則は常に厳然と働くのです。


自分の選んで駆使する言葉が、
常に必ず自分と成り、自分の世界と成り、自分の運命と成っているのです。
自分自身のすべて、自分の世界のすべて、自分の運命のすべては、
自分の選んだ言葉の結果として現実化しているのです。

 これらのすべては自分自身に全責任が有るのであって、他の誰の所為でも無いのです。
 決して他に責任を転嫁することはできないのです。
 自分の選んで使う言葉が原因となって、現実はその結果として、現れては消えてゆくのです。
 だからどんな言い訳も通用しないのです。

自分の選んで使う言葉が、未来のすべてを定めるのです。


 自分の言葉はすべて、自分に返って来るのです。
 自分の言葉通りのものがすべて、自分自身に報いられるのです。
 自分の世界のすべては、自分自身の言葉通りに成っているのです。
 他の人の世界のすべては、他の人の言葉通りに成っているのです。
 自分の見ている世界と他の人の見ている世界とは、全く異なる別個の世界なのです。
 この原理・道理が理解できれば、自分の言葉で自分の世界を支配できるのです。

 自分と他の人との間には、言葉の違い・波の違い・番組の違いが厳然と存在するのです。
 仮に同じものを見ていると仮定しても、心の眼に掛けている思いの色眼鏡が違うのです。
 同じようには決して見えないのです。
 すべて如是我聞(にょぜがもん)であり、如(にょ)是(ぜ)我見(がけん)なのです。

 プラスの言葉だけを使う人には、すべてがプラスにしか見えないのです。
 マイナスの言葉だけを使う人には、すべてがマイナスにしか見えないのです。

 今自分の選んで使う言葉が本当に自由な言葉であれば、未来のすべてを支配できるのです。
 過去にも・現実にも・他の何ものにも縛られない、本当に自由な立場から言葉を選べたら、真の自由自在な生き方になるのです。


一番最初に言葉が来るのです。


 すべてはその後に付き従うだけです。


 今ほど真の神さまの助けが必要な時は無いのです。

 大災害から免れる為ですか?
 被災から立ち直る為ですか?
 否そういう枝葉の問題ではないのです。

 虚の世界の夢から覚めて、真実の世界に気付く為に、真の神さまの助けが必要なのです。

 過去に積み重ねた無限のマイナスの思いは、轟音を発して大きく崩れ去るのです。
 五欲の心で築き上げたものは、砂上の楼閣です。
 真の神さまの支えの無いものは、すべて必ず消え去るのです。
 五欲の心を生きる時代は終わったのです。

これからは感謝を深め、恩返しの絶対奉仕に生きる時代です。

 五欲の心は止まる所を知らないので、贅沢三昧に生きようとして、無限の借金を背負ってしまったのです。
 この借金返しからは誰一人逃げることはできないのです。
 因果応報です。
 真の神さまのものを自分のものにすれば、大きな借金です。
 自分の与えた以上のものを受け取ったら、借金です。
 不労所得・儲け過ぎは、大きな借金です。
 マイナスの言葉・マイナスの心・マイナスの行いは、大きな借金を積み重ねているのです。
 誰もが無限の借金を背負っているのです。
 それも高利の利息付きの借金です。


どうすれば借金を減らせるのですか?

 徳の貯金を増やす生き方を、死に物狂いで実行するしか無いのです。
 その真剣さを認めてもらえたら、借金の肩代わりをして軽減してくださるのです。
 借金を放置すれば、借金取りがやってくるのです。
 七難八苦・地獄絵図が現実化してくるのです。
 真の神さまの徳を受け取る以外に、無限の借金を消し去る方法は無いのです。
 いくら助けを求めて泣き叫んでも、真の神さまの助けは受け取れないのです。
 マイナスの言葉は、マイナスを引き寄せ現実化するだけです。

真の神さまの助けを受け取る為には、
最高のプラスの言葉を駆使し、
最高のプラスの信念を作り、
最高のプラスの行いを実行することが
必要不可欠なのです。

 感謝の真祈りを真剣に祈り、恩返しの『ありがとうございます』を無限に一杯!捧げるのは、真の神さまの助けを受け取る為の、必要最低限の方法なのです。

 真の神さまに波を合わせて、真の神さまの助けを受け取る為の方法として、感謝の真祈りの『ありがとうございます』は与えられているのです。

後はただ実行あるのみです。



 真のプラスの言葉を駆使すれば、真の神さまの一大循環の相象を感受できるのです。
 すべて自分の駆使する言葉通りに感受できるのです。

真の神さまが真の自分です。

真の神さまだけ! 真のプラスだけ! 一大循環の相象だけ!
真の神さまはすべてのすべて!
真の神さまの他に何も無い!
真の神さま! 真の神さま! 真の神さまだけ!

真の神さまは

真の真実だけ! 真の輝きだけ! 真のプラスだけ!
真の善だけ! 真の美だけ! 真の聖愛だけ! 真の調和だけ!
マイナスに対立するプラスでは無い、比較上のプラスでは無い、
真のプラスだけのプラス!
絶対の中心から降り注ぐ真のプラスだけ!
新たなる無限の無限のプラスが無限に無限に一杯!
という一大循環のプラスだけ!

 真の神さまには微塵もマイナスが無い、闇が無い、悪が無い、虚が無いのです。

 真の神さまに出会う為には、真の神さまの前に立つ為には、微塵もマイナスを認めてはならないのです。
 真の神さまには一切のマイナスは無いのです。
 マイナスに見て御免なさい、一切のマイナスは有りません。

真のプラスだけ、真のプラスだけ、真のプラスだけです。
ありがとうございます。


 真の神さまは、一大循環の相象で厳然と今ここに在します。
 新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!

新たなる無限の無限のプラスが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の感謝が無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の調和が無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の自由が無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の喜びが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の安らぎが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の愛が無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の完璧な護りが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の盤石の支えが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の万全の助けが無限に無限に一杯!です。
新たなる無限の無限の神癒が無限に無限に一杯!です。

新たなる無限の無限の
 神秘・荘厳・尊厳・偉大・明るさ・朗らかさ・美しさ・麗しさ・素晴らしさ・素敵さ・清らかさ・無邪気さ・謙虚さ・素直さ・真剣さ・一途さ・健康・恵み・叡智・洞察力・推理力・達観力・能力・パワー・働き・讃嘆・愛語・和顔・・・・・
が無限に無限に一杯!です。

ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。


 真の神さまが真の自分という、本心の自分をしっかりと生きる時代がやって来たのです。
 『ありがとうございます』を真の神さまに捧げる程度に比例して、本心の自覚は深くなって来るのです。
 肉体や魂が自分であると思っていた思いの自分から、真の神さまが真の自分であるという本心の自分に戻るまでには、無限の『ありがとうございます』が必要なのです。
 肉体人間としての自分が、一生かけて祈り続けても数億回です。自分一人の祈りだけでは、何億年以上かかるのです。それでは夢物語で終わるのです。

それを可能にする唯一無二の方法として、
『ありがとうございます護摩』が始まったのです。

『ありがとうございます』の祈りには、偉大なる相乗効果が起こるのです。

 仮に一万人が心を一つにして祈ったとしたら、一万×一万で一億の祈りに成るのです。日々瞬々刻々祈り続けて、一万回の祈りを一枚の護摩木に込めて、護摩を通して真の神さまに捧げたとしたら、一万人が一堂に会して祈ったことになり、一億回の祈りに成るのです。それと同じ護摩木が一万枚集まれば、一億×一億の大きな祈りに成るのです。

 ここに『ありがとうございます護摩』を通して、
真の神さまに捧げる本当の意義が有るのです。
 『ありがとうございます』の真祈りも、
真の神さまに捧げてこそ、真の効果・無限倍の助けが有るのです。

 そして『ありがとうございます護摩』を通して一堂に会するから、すべての真祈りを一つに収束して、偉大なる相乗効果が起こるのです。

 真の神さまの真実の世界は、与え尽くし合い・捧げ尽くし合い、本当に支え合って一つに成っているのです。
 自分が他を全体を支えるからこそ、他が全体が自分を支えてくれるのです。


 過去現在未来の今を生きるのでは無く、永遠の中今の今を生きるという、真の今を生きるようになってきたのです。
 一瞬一瞬新たに、真の神さまの一大循環の相象と一つになって、真のプラスを与えてゆくという、真の神さまへの恩返しの絶対奉仕に生きるようになってきたのです。

 真のありがとうございますを捧げるということは、
  真のプラスを与えて与えて与え尽くしてゆくということなのです。

 真のプラスを無限に無限に一杯!与え続けてゆけば、
  マイナスも虚の世界も消え去って、
  真の神さまの真実の世界になってゆくのです。

すべては言葉通りに成るのです。
真のプラスの言葉だけを駆使することによって、
真の神さまが、一大循環の愛の相象が、真実の世界が、
厳然と今ここに現れるのです。
真の神さまだけを言葉にして、呼び出せばよいのです。
真の神さまは一大循環の相象で厳然と今ここに在します。
真の神さまだけ!真のプラスだけ!一大循環の相象だけ!
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

 今ここに、みんな心を一つに支え合って、真の神さまへの本当のお手伝いに生きることを誓います。
 すべてのすべてに対して、本当に必要なものを的確に与え尽くしてゆくという、真の神さまの愛の働き、一大循環の相象と一つに成って、真の神さまと共に歩ませていただけますことを、心より感謝申し上げます。

ありがとうございます。ありがとうございます。


 真実の世界と虚の世界とは、全く正反対なのです。

真実の世界は
一番大きい絶対の中心から、一番小さい末端にまで、必要なものを的確に与え尽くしてゆくのです。
虚の世界は、
ひながたを用意して、小さい所から大きい所へ、必要なものを投影してゆくのです。

真実の世界は必要なものを与え尽くす世界です。
虚の世界は必要なものを求める世界です。

虚の世界から真実の世界に戻る為には、
求める心から与える心へと切り替えてゆくことが必要です。

 その為には与える心の波の中へ入ってゆくのが、一番の最短コースです。
 与える心の波の中へ入れば、同化されて与える心に変化してゆくのです。
 与える心は千速振る波・強烈な細かい波です。
 求める心は荒ぶる波・緩やかな大きい波です。
 与える心の波は求める心の波を破砕し、与える心に同化させることができるのです。

 真の神さまの愛の波が強烈に注がれたら、すべては与える心になるのです。
 その為には逃げ出さない程度に、与える波の強さを加減して、居心地の好いようにすることが必要なのです。

 真の神さまでも、人を救う為には、縁の有る祈り人を媒介に使うのです。
 直接だと強烈過ぎて逃げ出すからです。


 すべての人を救う為には、縁者を救いたいという祈り人が、真の神さまのお手伝いに生きるのが、一番の方法です。

 真のありがとうございますを祈れる人が、心を一つに助け合い、支え合って、一致団結して真の神さまのお手伝いに生きることです。

 日々瞬々刻々真のありがとうございますを祈り続けることは勿論のこと、その祈りを定期的に持ち寄って、大きな相乗効果を挙げる護摩焚きも最重要なのです。

 種々様々な理想のひながたを用意して、真のありがとうございます護摩の無限に強烈な光を放射して、世界に投影してゆくことが、世界平和を実現する為には、絶対必要不可欠なことなのです。

真の神さまの側に立って、
真のプラスを与える為だけに生きるのが、
これからの真の自分の生き方です。

 支え合いが、理想のひながたです。
 必要なものを的確に与え合うのが、理想のひながたです。

真の祈りを・真の護摩木を・真の祈り人を総結集して、
真実の世界が一日も早く現実化するように、
みんな心を一つに支え合って、
真の神さまのお手伝いに生きることを、
喜び勇んで誓いたいと思います。
ありがとうございます。ありがとうございます。


真の神さまの世界は、
無限の無限の入れ子構造の天照大御神(光源)の世界、
一大光源の世界です。

 その日の本の国が虚の世界へ投影されたのが、日本の国です。
 日本の国旗・日の丸の旗は、太陽・光源・天照大御神・真の神さまの象徴です。

 日本列島(中心核)のすがたは、世界の大陸に投影され、更には星の世界にも大きく投影されているのです。
 北海道は北アメリカ大陸とそっくりです。
 更には白鳥座にある北アメリカ星雲ともそっくりです。
 肉眼ではハッキリと見えませんが、103aEフィルムで写すと、赤い散光星雲、北アメリカ星雲がくっきりあざやかに写し出されます。

 真の神さまが、スメタカアマハラミコトと成って、虚の世界へ投影されて来たのが、真実の世界の模型としての理想の全大宇宙です。

 真の神さまを一瞬一瞬新たに受け直した真の自分・本心の自分が、スメラミコトです。
 虚の世界において、本心を大きく輝かせている人が、スメラミコトです

 日本の天皇陛下はその最高のお手本です。

 世界のすべての人が本心の自分に戻る、スメラミコトに成れば、そこは神の国、極楽世界となるのです。


真の民主主義とは

 真の神さまを受け直した新たな自分、本心の自分は、真実の自分です。
 にせの自分が主に成れば、にせ民主主義です。
 欲の心で多数決で決めても、一部の人が欲の心を満足させるだけです。
 本心の自分が主になれば、真の民主主義です。
 みんなの幸せを願う、与え尽す心の自分は、真の神さまの御心を受けて、衆議一決するのです。

 本当に必要なものを的確に与え尽し合う、真の支え合いになれば、幸せ一杯の平和な世
界に成るのです。

 世界の大陸の縮図・模型・ひな形となっている日本列島・日本・日本の心は、

真の神さまをしっかりと受け直して、すべてを一大包容して、
すべてを適材適所に最高に生かし切って、
本当に必要なものを的確に与え尽し合ってこそ、
本物に成り、その真価を発揮することができるのです。

 日本の伝統・文化・風習の中には、真の神さまの御心が沢山投影されています。
☆ どんなもの自由自在に包める風呂敷
☆ 大きい人も小さい人も使える着物・下駄・ぞうり
☆ ふくまを取り外すことで、部屋を大きくできる
☆ 自分を主張しない、無我の生き方
☆ 何でも吸収して自分のものにしてしまう
☆ 忠孝悌恩返し一筋の生き方


日本の役割は、

① 世界のすべてを一大包容すること
② すべてを適材適所に生かして、大調和させること
③ すべての長所・美点をほめたたえること
④ すべての国に感謝し、真のすがたを拝み出すこと
⑤ すべての幸せを自分の幸せとして、喜びあうこと

 日本列島と世界の大陸の相似形の奇しき関係は、玉子が先か鶏が先かの問題ではないのです。
 玉子が鶏になり、鶏から玉子は生まれるのです。
 双方が与え尽し合って、真の愛の一体感を生きるのです。

 日本と世界は元始めから不離一体の関係です。
 互いに与え尽し合って、共に栄え、輝くのです。
 イヤサカにいよいよますます栄えに栄えるのです。

すべてをほめたたえ、すべてに感謝し、すべてと共に喜ぶのが、和の国、日本の一番の役目です。

日本の政治家こそは、
 お互いにほめたたえ合い、お互いに感謝し合い、お互いに喜び合うことです。

 世界の平和・調和の為に、世界にそのお手本を示して、世界平和の実現に貢献してゆくことこそが、日本の政治家にとっての一番大事な使命なのです。


 正しい信仰は積み重ねれば積み重ねるほど、幸せは大きくなるのです。

正しい信仰とは、

    ① 信仰の対象が唯一なる絶対神
    ② 信仰の目的は本心開発・悟りを開くこと
    ③ 縛りの無い自由な生き方
    ④ すべて明るくプラスに受ける
    ⑤ 無所有・無所得の無私の心になる
    ⑥ プラスの善い言葉を多く使う

 本心の心は常に、宇宙全体を神さまからのプレゼントとして、一瞬一瞬新たな感動をもって、無限の絶対価値あるものとして受け続けるのです。
 今の一瞬にどれだけ沢山のものを、感動の心で受けとめることができるかが大事なのです。
 本心の心を磨き出し・輝かして、日に日に感謝を無限に大きく・無限に深くしてゆくことが、本心の自分をしっかりと生きていることになるのです。

 順境に置かれている時にこそ、今与えられている善きもの(プラス)に対して、どんな小さなものに対しても、深い深い感謝を捧げることが大切です。
 一瞬たりとも感謝を忘れたら、それは瞬時にして消えて無くなっても、文句は言えないものばかりなのです。
 不平・不満・不足の心を起こす暇の無い位に感謝し、喜び続けてこそ、順境に置かれても、本心(感謝の心)開発の道を歩むことができるのです。


 「運命は既に定まっている」という絶対的宿命論と、「運命は自由に変えられる」という自由創造論とは、矛盾しないのです。

全大宇宙のすべてのすべての、ありとあらゆる一切の運命は、
真の神さまによって既にすべて決定されている、
ということは厳然たる事実なのです。

 この事実を覆すことは、誰にも不可能なのです。
 それでは少しも自由が無いではないか、というのは浅い考え方なのです。

 既に決定されている運命というのは、

全徳の無限の無限の輝きで一杯!という
最高の運命を頂点にした、
光一元に構成された、
無限の無限の段階の運命のすべてのことです。

各段階の運命は、それぞれに詳細にわたって、すべて決定済みなのです。

 運命は自由に変えられるというのは、

どの段階の運命でも、人が自由に選んで、自分の運命にできるということです。


 真・善・美・聖の生活とは、自らも満足し、他のすべてをも満足させる生活です。

 それは無駄を徹底的に排除した、極めて質素な生活です。

 自他の幸せに本当に必要なものだけを、供給し合える生活です。

 贅沢な人間が増える時、その社会は必ず滅ぶのです。
 これは因果応報なのです。
 万物を傷つけ、殺し、不幸にしながら、人間だけが幸せになれる道理は無いのです。

 人間は万物を愛し、万物の幸せを守り、全体の調和を計ってゆかなければならないのです。

 本当の豊かさとは、人工的ながらくたの山を大きくすることではないのです。

 幸せ一杯の笑みを浮かべた万物が、喜びの賛歌を歌っている、無限に調和した世界を実現してゆくことなのです。

 真の神さまの、真実の世界の、一大調和のすがたを、

① 科学を通して現わすのが『真』
② 宗教を通して現わすのが『善』
③ 芸術を通して現わすのが『美』
④ 三つを一つに束ねるのが『聖』なのです。


『笑う門には福来たる』という諺には、幸せになる為の秘訣が示されているのです。

それでは、その秘訣・鍵とは何でしょうか?

それは『言葉』です。

 『言葉を正しく使う能力』は、すべての人に既に授けられているのです。
 その能力を駆使すればよいのです。

幸せになりたければ、
 「ああ幸せ!」「幸せです!」「無限の幸せで一杯!」・・・・・というように、幸せという言葉をできるだけ沢山、断定的に使うことです。

 そうすると心に幸せな感じが芽生えてきて、その幸せ感がだんだんと大きく膨らんでくるのです。

 心が幸せになってくると、自然にニコニコと笑うようにもなってくるのです。
 こうなれば占めたものです。

 幸せは自然にどんどん集まってくるのです。

 ア(神様の御心) ハ(無限に伸展) ハハ......
アハハハ...... アハハハ......

『ありがとうございます』の自然に発露するすがたです。


 本物と偽物、実物と模型の違いは大きいものです。
 実物の地球と模型としての地球儀を比較すれば一目瞭然です。

 幼児は玩具の自動車で遊び、大人は本物の自動車を乗り回すのです。

 人はすべてにおいて、本物を相手に生きるようにならなければ、いまだ真実の生き方では無いのです。

 宗教信仰においても、真実の正しい信仰とは、直接に真の神さまを相手に生きる信仰です。

 神さまの模型とは、宗教の教え・行法・神社・神棚・寺院・仏壇・神像・仏像・掛け軸・等々のことです。
 人工のものは、どんなに素晴らしくても、模型・偽物なのです。

 模型・偽物にとらわれて、本物を見失った信仰は、誤った偶像崇拝信仰の陥るものです。

 真の神さま(本物)を相手に生きるようになる為には、先ず自分自身が本物でなければならないのです。

本物の自分とは、神我・真我・本心の自分のことです。
真の絶対より一瞬一瞬新たに、新生してくる神我の自分を、
しっかりと自覚することが大切なのです。


宇宙のすべては、神さまの所有(もの)であって、
自分の所有でも他人の所有でも無いのです。

 神さまから与えられるものを、感謝の心で受けたからと言っても、自分の所有になったのでは無いのです。
 神さまから一瞬の間だけ貸し与えられたに過ぎないのです。
 従って自分の所有と言えるものは、一切存在しないのです。
 ましてや感謝の心を起こすことも無く、自分の所有を持っているとすれば、それは神さまから無断で盗み取ったものです。
 どんな小さなものでも、自分の所有を持っていたら、大泥棒であり大罪人です。
 地獄に投げ入れられても、文句一つ言えないのです。
 人はもっともっと謙虚にならなければならないのです。

 本心の自分の、光一元に観る生き方が、この世に一大調和をもたらすのです。
 すべてを新たに・明るく・善意に・楽天的に・プラスに感受してゆくことが、本心の自分を生きることであり、神さまの一大循環の流れに随順することなのです。
 神さまの一大調和の流れは、厳然と全大宇宙を貫流しているのです。
 その流れに素直に従っていれば、一大調和の下に置かれて、無限の無限の幸せで一杯なのです。

本心の自分は本来、
神ながらに・神流れに・神任せに・自然法(じねんほう)爾(に)に生かされていて、
無限の無限の幸せそのものなのです。
その本心の自分をしっかりと自覚して生きることが、
この世にも無限の無限の幸せを実現することになるのです。


実行が尊いのです。

 千里の道も一歩からです。
 神さま(無限の無限の幸せ)に到達する為には、日々瞬々刻々の前向きの努力・実行が大切なのです。
 神さまに一歩でも近づく為には、プラスの言葉を使い、プラスに思い、プラスの行いをすることが必要なのです。

真実の幸せとは、
先ず霊的な幸せをしっかりと捉えて、
それを精神的に物質的に反映された状態です。
本心の心で神さまの愛をしっかりと感受して、
宇宙のすべてを神さまの愛の現れと拝める状態です。

 本心の心と業想念の心とは、一切が正反対なのです。
 本心の心と業想念の心とは、理解し合うことも、一致点を見出すこともできないのです。
 人は本心の心に戻っている時に、幸せへの正しい道を歩んでいるのです。
 本心の心をしっかりと生きていれば、必ず幸せは大きくなってくるのです。

人は自分自身が本心の心をしっかりと生きれば良いのです。

 そうすれば天の助けは自然に与えられるのです。


真の神さまの助けを大きく受けられる自分になる為には、
常に『報い求めず与え尽くす』生き方を、
実践し続けることが大切なのです。

 仏教の六波羅蜜(ろくはらみつ)(悟りへの実践道)の一つである布施行(財施・法施・無畏施(むいせ))がこれに相当するものです。
 布施とは、自分にとって必要な・大切なものを、一切の報いを求めることなく、惜しげもなく・喜んで・感謝の心で、与え尽くすことなのです。
 正しい布施の心は、真の神さまの助けを無限に無限に大きく受け入れてゆけるのです。
 だからこそ真の神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できるようになって、真実の悟りが開けるのです。

『今』を最高に喜んで生きるのが、
本心の生き方です。
マイナス無限大の立場から、プラス無限大を仰ぎ見て、
全徳の無限の無限の輝きを感受して、
『今』無限の無限の喜び一杯に生きるのが、
本心の生き方です。
『今』の一瞬一瞬を、『今』の一瞬だけを、
大事に大事に生きることが、
本心の生き方です。

 業想念の心から本心の心に戻ることが、一切の苦しみを解消する唯一無二の方法です。
 その為には毎日毎日、神さまに感謝し続けて、心の垢(業想念)を光のシャワーで洗い流し・消し去ってもらうことが必要なのです。
 本来、真清浄・真無垢の本心の自分は、厳然と存在しているのです。
 業想念の汚れさえ拭い去れば、本心の美しい姿が現前するのです。


 天地人の三才(三つの働き)は、密接な相関関係を保っているのです。

人心は天象(天体の現象や空模様)に投影され、
地象(大地に起こる現象)と現れ、
人象(人間界の種々様々の現象)となって、
人の運命を大きく決定しているのです。

 人の心が調和すれば、天象・地象・人象のすべてが調和するのです。
 人の心が乱れたら、天象・地象・人象のすべてが乱れるのです。
 自分自身の心を調和させるという、大きな大きな責任を、すべての人は担っているのです。

 『感謝と奉仕』『求道と伝道』は、悟りへの道を歩む車の車輪のようなものです。どちらか一方に片寄れば、同じ所を堂々巡りして、前進できなくなるものです。

 感謝の心で受けたものは、自然と他に与えたくなる、即ち奉仕したくなるものです。
 また他に与え尽くすものが多くなればなるほど、即ち奉仕すればするほど、感謝の心で受け取るものが多くなってくる、即ち感謝の心が深まってくるものです。

 求道即ち道(真理・悟り・神愛)を求めるに際しても、自分を無くしてゆくことが肝要なのです。

世界を平和にし、人類を幸せにする為にのみ、
真理を求め・悟りを求め・神愛を求めることが、
真の求道なのです。

 それは自然に他への大きな働きかけとなって、真の伝道へと変化するものです。


正しい信仰とは、
 神さまと自分との関係を、常に一対一の状態に置くことです。

 神さま以外の何物をも、見ざる・聞かざる・言わざるの行に徹することなのです。
 自分の他には神さましか存在しないのである、という心の状態になることが、正しい信仰の根本なのです。
 その為には神さまのことだけを、思い続け・思い詰めることが必要なのです。

 「武士道とは、死ぬことと見つけたり」 この真意を体得できれば、悟っているのです。

 死ぬとは、肉体を殺すことではなく、肉体を自分と思う、自我の心を死に切ることなのです。

 自我の心を死に切れば、本心の心に戻れるのです。
 本心の心は、愛の心・すべてを生かす心ですから、武士道と一致するのです。

 武とは戈(ほこ)を止める意義であって、戦闘を収める、争いを鎮める、利己心を抑える、破邪(はじゃ)顕正(けんせい)の愛の働きを指しているのです。
 権威と愛をもって、争いを無くしてゆく勇者を武士と言うのです。

 武士道とは、大日本(おおひのもと)精神の一つです。
 武士は日々、君に忠・親に孝・師に悌を実践して、公に奉仕することによって、自我の心を滅却しようとしたのです。


 自分の蒔いた種は、自分で刈り取らなければならないのです。
 その種は一粒万倍となって、必ず自分に戻って来るのです。
 プラスの善き種を蒔けば、プラスの善き収穫があるのです。
 マイナスの悪しき種を蒔けば、マイナスの悪しき収穫があるのです。

人の蒔く種と言うのは、言葉・思い・行動の種です。
常に『ありがとうございます』と感謝一筋の心を保てば、
マイナスの種を消し去ると同時に、
プラスの種を蒔き続けていることになるのです。


奉仕というのは本来、
自分の心を神さまの御心に帰一させ、
神さまの導きに素直に従って、
神さまの力で『させていただく』ものです。

 本当の奉仕は、自我の心を無くす為にこそ、必要なのです。

 自我の心・業想念の心・過去世から積み重ねた業因縁を、消し去っていただく為にこそ、本当の正しい奉仕が必要なのです。

 神さまのお役に立ちたい・神さまに喜んでいただきたいという、純粋な心による奉仕が、神さまの大きな助け・お蔭・功徳を受けるのに役立つからです。

奉仕は決して他の為でも、神さまの為でも、誰の為でも無いのです。
自分の為に必要だから、させていただくのです。


 幸せは感謝の在るところへ、喜んで自然に集まって来てくれるのです。
 不平・不満・不足を並べ立てて、幸せになった人は、一人も存在しないのです。
自分の自由意思でプラスの生き方を選び、
自分の力でプラスの方向に進めるようになってこそ、
本当の幸せを掴むことができるのです。

 今・ここに与えられているものが、次の一瞬にも与えられ、いつまでも与え続けられるものだと考えていたら、大きな大きな間違いです。
どんなものもこれっきりなのだ、
これが最後なのだ、
という気持ちで受けなければ、謙虚な心になって、感謝を深めてゆくことはできないのです。

 時間と空間は相対の両極です。
 時空(じくう)一如(いちにょ)の原理から、時間を今の一瞬に絞り込めば、空間は無限に広がることになるのです。

 今の一瞬を生きることによって、本心は無限の自由を感得して、大きな幸せを味わうことができるのです。

 逆に過去に囚われ、未来を心配すれば、時間が大きく広がることになって、空間が小さく絞り込まれてくるのです。
 空間が小さくなってくると、本心の自由が失われて、大きな苦しみを味わうことになるのです。


お祈りは神さまとの対面です。

 恋人とデートする時には、最高の装いをもって、相手を喜ばせようとするものです。
 お祈りはそれ以上に、神さまに喜んでいただく為に、心身共に最高の状態で臨むべきものです。
 神さまは本心の心の輝いた状態が好きなのです。
 明るい心・謙虚な心・素直な心・感謝の心・喜びの心・思いやりの深い心・・・・・が好きなのです。
 だからお祈りをする時には、明るい笑顔で・姿勢を正して、心身ともに最高の状態を演出しなければならないのです。
 更には、
神さま!無限に無限に愛しています!
無限に無限に感謝しています!
無限に無限に幸せです!
ありがとうございます!

と最高の祈り言葉を駆使して、神さまを喜ばせようとすることが大事なのです。
 そうすれば神さまの方からも、喜んで対面しに降りて来て下さるのです。

 どんなものも正しく使いこなすことができれば、この上なく重宝なものです。
 言葉も正しく使いこなすことができれば、これほど便利で重宝なものは無いのです。
 プラスの言葉だけでは無く、マイナスの言葉も同じように役に立つのです。
 マイナスの言葉には、強い光を和らげたり、不必要なものを消したりする働きが有るのです。
 マイナスの言葉の効用にも、計り知れないものが有るのです。


 大日本(おおひのもと)精神(宇宙絶対神の御心)は、
自我の心を死に切る時に、最高に輝くものです。
 宇宙の大法(最高の真理・古神道・神ながらの道)を護持する使命を与えられた日本民族は、自我の心を死に切らなければ、その使命を全うすることはできないのです。
 自我の心を死に切って、本心の心を輝かせる時に、神さまの全徳の無限の無限の輝きが、この地上にも実現するのです。
 その時に完全平和の至福の世界が、この世にも実現するのです。

 日本の国は、世界のひな型(中心の核)です。
 日本の姿が、世界に投影されてゆくのです。

 日本民族は何よりも先ず、自我の自分を死に切って、神我の自分となって復活しなければならないのです。
 自我の心を主張し合う、偽の民主主義に惑わされているようでは、地球滅亡に加担していることになるのです。
 神我の自分に全権を委ねる、本当の民主主義になった時にのみ、神さまの最高の叡智に導かれ、最高理想の姿がこの地上にも実現することになるのです。

『ありがとうございます』という祈り言葉には、
心の中の業想念を消し去って、
心を透明にしてくれる絶大無比の働きがあるのです。

 片栗粉を水で溶いて、熱を加えてゆくと、ある極限に達すると、その白濁した液が透明になってくるのです。
 そのように『ありがとうございます』という祈り言葉は、熱き霊光となって心の中へ入り込み、ある一定量に達すると、心の汚濁を一挙に消滅させて、無色透明の心に変化させてくれるのです。


真祈りに生命を捧げる人が必要なのです。

人類に本心が輝き、地球に平和が実現する為には、
過去世から積み重ねられた業想念を、消し去ることのできる、
『力ある真祈り』が必要なのです。

 『力ある真祈り』に生命を捧げようとする人が、少なくとも万人に一人は、出現してこなければならないのです。

 現実にいくら改革を叫んでも、理想論を並べ立てても、業想念を消し去る力がなければ、無力に等しいのです。
 悪を責め、欠点を指摘するだけでは、火に油を注ぐようなものであって、滅亡へ拍車をかけているだけです。

 自分の生命を捧げ尽くし、自分のすべてを与え尽くすほどの真剣さが無ければ、神さまの助けを大きく受け取ることは不可能なのです。

 大きく与えてこそ、大きく受けられるというのが法則です。

 神さまに対して大きく与え尽くす人にして、始めて神さまから大きな助けを受けることができるのです。
 そのような人でなければ、地球救済の為の本当のお手伝いはできないのです。

 求める心(業想念)の自分には、不可能です。
 与える心(本心)の自分に戻れば、可能になるのです。

 「ありがとうございます」をひたすらに唱え続けることです。


 心の中を大掃除してこそ、
青空に太陽の輝く如く、本心が輝き出てくるのです。

 清水(本心)が、こんこんと湧き出てくる本来の状態に戻す為には、心という井戸の底に溜まった汚泥(業想念)を、全部取り除かなければならないのです。

 心の底から本心(全徳の無限の無限の輝きで一杯)が、こんこんと湧き出てくるようになれば、その無限の無限の幸せは、絶対に崩れることは無いのです。

 どんな草木も、根がしっかりしていれば、枝葉も生き生きと成長し、花開き、実を結ぶことができるのです。

 人間も、この世に幸せの花を開かせ、実を結ぶ為には、
先ず神(生命の本源)なる大地に、しっかりと根を張り巡らさなければならないのです。

 神さまへの感謝の積み重ねに比例して、この世にも真実の幸せは実現してくるのです。

 すべてのすべてに対して、感謝を徹底することが、根を張り、養分を吸収することになるのです。

徹底感謝が悟りの花を開かせるのです。


『思う通りに成る』『言葉の通りに成る』のです。
これは宇宙を貫く、厳然たる法則です。

 現在の自分の心境・運命・境遇というものは、
過去の自分の言葉・思いの総決算として現れているのです。
 未来の自分の心境・運命・境遇というものも、
過去のすべてに、今の自分の言葉・思いをプラスしたものの、総決算として現れて来るのです。

人はすべて、本心という自由自在心を持っているのです。

 マイナスの極にあっても、プラスの極の姿を言葉にし、思うことができるのです。
 人は本心の心に宿っている、草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)の威力を発揮することによって、どんな難問題でも、快刀乱麻を断つが如くに、解決することができるのです。
 草薙の剣とは、X(クスナリ)の剣であり、マイナスの極から絶対の中心に戻り、プラスの極を現す力のことです。
 真の祈りの力のことです。

 自分の心の王国を支配できるのは、飽くまでも自分自身なのであって、他の何物でも無いのです。
 心の王国を光輝かせる為には、
常に謙虚な心で、マイナスの極に立って、
すべてを光一元に仰ぎ見て、
神さまの全徳の無限の無限の輝きを、感謝を深めて
受け続けてゆくことが大切なのです。


『与えたものが与え返される』というのは、
厳然たる一つの法則です。

 他を幸せにする為に、自分は何をどれだけ与えて来たかによって、今の自分の幸せに必要なものを、どれだけ与え返されるかが決定されるのです。
 法則というものは、常に厳正かつ公平なものです。
 先に他に与えたものは、必ず利息を付けて返してもらえるのです。
 先に他から借りたものは、必ず利息を付けて返さなければならないのです。
 本心の与える心を生きる者が幸せになり、業想念の求める心を生きる者が不幸せになるのは、この法則からも明白なのです。

 報いを求めずに与え尽くすことは、最高の与え方であり、高利率の預金に当たるものです。
 本当の幸せを早く掴む為には、どんなに苦しくても、借金をしないで、預金をする生き方を選ぶべきなのです。

 目先の利益を優先するよりも、陰徳を積もうと心掛けることが、本当の幸せを掴む最短コースなのです。

 正しい神さまからの導きというものは、
 自分の心を明るい・清らかな・とらわれの無い・謙虚な・素直な・無我・無心・全託・感謝の心に整えた時に、始めて心の奥底から微(かす)かに聞こえてくるものなのです。

 自分自身の心境に合った世界から、種々様々な波が感応してくるのです。


正しい宗教信仰とは、峻厳極まりない命懸けの実践行です。
自我の心を焼き尽くして微塵も残さない、完全燃焼の生き方です。
そこに本心の無限の無限の喜びが、
新たに新たに湧き上がってくるものです。

真のおかげとは、
神徳であり、神さまの変化自在の御姿であり、
新たなる全徳の無限の無限の輝きです。

 心の影としての物質的御利益は、本物では無いのです。
 本物を把握しなければ、真のおかげを得たとは言えないのです。

「一子出家すれば、九族天に生ず」
「一子出家すれば、七世の親、得道す」

という言葉は、恩愛の情を切り捨てて、悟りを求めて出家を決意する者への、大いなる励ましの言葉です。

 人類の積み重ねた大きな業想念を消し去る為には、悟りを開いて、本心の大きな力を発揮する必要があるのです。
 すべてを捨ててでも、出家してでも、本心が速やかに開発される道を歩ませられるものなのです。

 悟りを求める者は、この世の安楽な生活を、決して自分から求めてはならないのです。


「積善の家には必ず余慶あり、積悪の家には必ず余殃(よおう)あり。」

という教訓は、善を積み重ねてきた家庭には、必ず慶びごとが満ち溢れ、悪を積み重ねてきた家庭には、必ず災いが満ち溢れている、という因縁因果の法則を示しているのです。

 家・家庭とは、その人の生活空間・環境・世界を指しているのです。
 心の無限に広い人は、宇宙という大きな家に住んでいるのです。
その人の家(世界)に、無限の幸せ・無限の喜び・無限の感謝等々が満ち溢れているならば、その人は過去世から現世にかけて、必ず善い言葉・善い思い・善い行いを沢山積み重ねて来ているのです。

 観音経には、
『一心に観世音菩薩の名号を唱えれば、七難から解脱することができる』と説かれているのです。

① 火難とは、心に燃え盛る業想念の火のこと。
② 水難とは、心が何かに溺れていること。
③ 風難とは、人生航路で逆風が吹くこと。
④ 刀(とう)杖難(じょうなん)とは、理想と現実が、切り離されること。
⑤ 鬼難とは、自分で自分を騙すこと。
⑥ 枷(か)鎖難(さなん)とは、一切の束縛のこと。
⑦ 怨賊難(おんぞくなん)とは、一切の障害・誘惑・惑わしのこと。

 本当の七難八苦とは、自分の心の中に存在しているのです。

 最高の祈り言葉『ありがとうございます』を一心に唱え続けてゆけば、必ず観世音菩薩・本心の自分・神さまが輝き出て来て、心の闇を消し去って下さるのです。


神さまの愛は

 ① 完全性を拝み出すのです。
   『みんな悟っている、全徳の無限の無限の輝きで一杯!』と拝むのです。
 ② 一切の報いを求めずに、与えて与えて与え尽くすのです。
 ③ 相手の自由を決して縛らないのです。
 ④ 必要なものを的確に与えるのです。
 ⑤ すべてを適材適所に活かすのです。
 ⑥ 相手の立場に立つ和光同塵(わこうどうじん)の心です。
 ⑦ どんな表現をも、謙虚な心で、マイナス無限大の立場から、光一元に仰ぎ見て、その真価を認めて、褒めたたえ・感謝し・喜ぶのです。
 ⑧ 与えられるものを、素直に喜んで、感謝して受ける心です。
 ⑨ 感謝三昧の心です。


 受けて与え・与えて受ける、神さまの全徳の無限の無限の循環です。

 生かし合い・助け合いの愛の循環が速くなればなるほど、より高度な愛の表現となるのです。

 真の「ありがとうございます」を一心に唱え続けて、真の神さまの愛の御心に融け入ることです。

 先ず真の神さまを愛することによって、神さまの愛と一つに成り、次に、隣人を、すべてを愛するように成るのです。


言葉は『諸刃(もろは)の剣(つるぎ)』です。

 使い方が正しければ、大きく役に立つものです。
 使い方を間違えれば、大害を与える非常に危険なものです。
 真理の言葉・プラスの言葉を駆使すれば、快刀乱麻を断つ如く、どんな業想念の縛りをも断ち切って、本心の自由を取り戻して、無限の無限の幸せを得ることができるものです。

 一本の草花を育てるのにも、月日がかかるのです。
 ましてや人間が本心の花を開く迄には、どれだけの長歳月を要し、また神さまの無限の無限の助けを必要とするものであるか、想像を絶するものがあるのです。
 人間を絶対の愛をもって育て上げているのは、神さまなのです。
 どんな未熟な人間に対しても、批判し・責め・裁くことは、神さまの働きを妨害しているのです。

 無常の奥には常に、永遠不滅・歓喜無量・尊厳無比の神さまの御心が、無限の無限の大光明燦然と輝いているのです。
 そのことに気付きさえすれば、

 無常とは、一瞬一瞬新たなる、無限の無限の歓喜の連続です。

 すべてを神さまの現れとして、光一元に拝み上げて、無限の無限の大光明を感じ取れば、一切の儚さ・虚しさが消え、この世への執着も自然に消え去ってしまうのです。


 知恵と知識とは、本質的に異なるものです。

知恵とは、
最高の叡智者(神さま)から
本心の心の中へ流れ入ってくるものです。

 心を清浄にして、我の無い、謙虚な・素直な・明るい・感謝の心になった時に、必要に応じて自然に与えられる的確な導きです。

 それは正確な判断力となり、深い洞察力となり、迅速なる決断力となり、全体を把握する達観力となるのです。
 最高の正しい知恵は、自分の心の中を清浄にしてこそ得られるものです。

 閃き・思いつき・インスピレーションと一口にいっても、心の清まりの程度に比例して、雲泥の差のあるものなのです。

 商いの場も、本心開発の修行の場に変えてこそ、皆を幸せにできる商道となるのです。

『お客様は神さまです!従業員も神さまです!みんな神さまです!
このお店は神さまのお店です!
無限の無限の輝きで一杯です!無限の無限の喜びで一杯です!
無限の無限の幸せで一杯です!無限の無限の楽しさで一杯です!
無限の無限の和顔・愛語・讃嘆で一杯です!』
このように心に思い浮かべながら、

 『みんな神さま!ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・・・・・・・・・・』と一心に感謝行を実践することが、みんなを幸せにしてゆく商道なのです。


中国の梁の武帝は、

 「即位して以来、仏法興隆の為に、寺院を建立し、写経をし、僧を育て上げてきたが、その数は非常に多くて数え切れないほどです。それほど世の為、人の為に、善行を施して来たのですから、きっとご褒美として、数え切れないほどの果報をいただけるに違いない。それはどれほどのものでしょうか」
と質問したのです。

それに対して達磨大師は、
「何の褒美も貰えないぞ!」
と一喝したのです。

 「寺院を建立させていただけた」ということが、神さまから与えられた無限の果報そのものなのです。

 慢心してそれに気付かないとは何と情けないことか、本心の自分をどこかに置き忘れているのです。

 どんな善行をさせていただくにしても、

  本心の謙虚な心・素直な心・感謝の心・喜びの心・奉仕の心でさせていただいてこそ、無限の無限の幸せで一杯・無限の無限の功徳で一杯となるのです。

 報い求めず与え尽くす心になることが、一番の果報をいただいたことになるのです。


感謝一筋に生きている人にとっては、
一切「問題」は存在しないのです。

 この世の問題はすべて、自分の心の中に存在している業想念が、環境という鏡に写し出されているだけなのです。
 環境という鏡は、自分の心を写し出してくれる、便利な道具なのです。

 業想念(闇の心)は、感謝の心(光の心)になった時に消え去るのです。

 感謝の心・本心の心・光の心になりさえすれば、一切の難問題(心の引っ掛かり)は消え去るのです。

一心不乱に神さまに感謝し続けること、これのみが一切の問題解決の鍵なのです。

夜明けだ! 夜明けだ!
地球の夜明けだ! 人類の夜明けだ!
月明かりの護りの時代から、
太陽の護りを直接に受ける時代へと、
移り変わる時期が来たのだ!

 太陽(宇宙絶対神の全徳の無限の無限の輝き)が輝けば、地球に完全平和が、人類の心に本心が輝き渡るのです。

 『神さま、ありがとうございます』と一心に感謝を捧げれば、容易に神さまの全徳の無限の無限の輝きが、感じられる時期に来ているのです。


茶会の心得に『一期一会』があるのです。

今・此処にまみえることができたのは、
 一生涯にただ一度限りの(二度と訪れて来ない)尊い機会です。
 だから最高の価値あるものとして、この出会いを大切に受けとめなければならない、という意味です。

 これは茶会に限ったことではないのです。

今・此処に現れている宇宙のすべては、
二度と同じ姿をとって現れることは無いのです。
一大交響楽のひびきのようなものです。
二度と聞くことのできない大切なものばかりです。

 常に間断なく、天地は一新し、万物は新生しているのです。
 新たなる『今・此処』には、調和は無限に満ち渡っているのです。
 喜びの賛歌で一杯!なのです。

 神さまの導きに素直になって、直ちに実行できる者は、どんな難問題でも、快刀乱麻を断つが如くに解決してゆけるのです。

本心の心は、
常に神さまの立場に立って、全体を達観し、
全体にとって今何が最も必要であるかを的確に把握し、
すべてを自己の責任の下に実行するのです。

 本心の心をしっかりと生きる為には、一切の物事の総責任者の立場に自分を置かなければならないのです。


 借金取りというのは、大恩人なのです。
 過去において自分が困っている時に、手を差し延べて助けてくれたのです。
 励ましに来てくれているのです。
 本心の力を発揮して、一日も早くその借金を返す必要があるのです。

 どんな借金もしないで、本心の力を振り絞って生きるのが、正しい生き方・神さまの御心に適った生き方です。

働く(傍を楽にする・他を幸せにする)ことによって、
本心の自分は輝きを増すのです。

 『読書百遍意自ずから通ず』です。
 何事も熟読玩味してこそ、その真意を知ることができるのです。
 真理の言葉というものは、自分の心境の変化に伴って、受け止め方が変わって来るのです。
 今一度初心に返って、繰り返し繰り返し百遍以上は味わうべきものです。

 真理の言葉には、無限の無限の真価値が存在しているのです。
 汲めども汲めども尽きることは無いのです。
 真理を餓え渇くように求めている時でも、その真理の全てを理解し、把握することは不可能なのです。

 自分の心境の変化を待って、新たに新たに、その真理の言葉から、秘められた真価値を、見出してゆかなければならないのです。


感謝と報恩の真を生きることによって、
本心(神我一体)の自覚を深めることができるのです。

真の感謝とは何か? 真の報恩とは何か?

 自分でしっかりと、この問題に取り組んで、深く究めてゆくことが大事なのです。
 自分自身の手で見出した答えが自分の身に付くのです。
 他人から教えてもらった答えは、未だ自分のものにはなっていないのです。
 今一度自分自身の手で、自分なりの答えを出さなければならないのです。


『ありがとうございます』という言葉は、
『真の神さまは、一大循環の相象で、厳然と今ここに在します。』
という意義を秘めているのです。


 『ありがとうございます』という言葉は、
真の神さまを呼び出す『キーワード』なのです。

 真の神さまが現れたら、
新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!となるのです。

 だからすべては自然に清められるのです。


自分自身の心を何に向けるかが大事なのです。
自分の心を向け続けたものに、自分は同化してゆくのです。

マイナスに心を向け続けたら、
マイナスに同化して、自分はマイナスの状態になるのです。
プラスに心を向け続けたら、
プラスに同化して、自分はプラスの状態になるのです。

過去に心を向け続けたら、
自分の心は過去を掴む業想念の心になるのです。
神さまに心を向け続けたら、
自分の心は新生する本心の心になるのです。


一切の報いを求めないで、与えて与えて与え尽くすのが、
神さまの愛の御心です。
その神さまの愛の御心に、
自分の心の波長を合わせることができれば、
神さまの完璧な護り・恵みを受けることができるのです。

 そして常に無限の無限の幸せで一杯となるのです。

 だから自分自身が、神さまの生き方をお手本にして、神習ってゆくことが大事なのです。


不動の堅信(神さまの愛を堅く信じること)は、
正しい信仰によって得られるのです。
神さまに全託できた時に、感謝一筋の不動心になれるのです。


 地獄に落ちているすべての人々を、身代わりになってでも救いたいと願う大きな生き方が、与え尽くす本心の心を輝かすことになるのです。

 他の救われを優先させる大乗的な生き方が、自他一体の愛の心を生きる本心の信仰です。

 みんなを救う為に、みんなを悟らせる為に、みんなを幸せにする為に、
自分を与え尽くす生き方が、
本心の心でする正しい信仰なのです。

 正しい信仰になれば、神さまの無限の加護を受けて、心が安らかになるのです。

神さまを愛するということは、

 無条件で・無償で自分を与え尽くしてゆくことです。
 神さまを愛するのは、
 神さまとの交流を密にして、神我一体感を深めてゆく為なのです。

神さまを愛することによって、神さまの愛を大きく受けることができるのです。
神さまを愛することによって、大きく清めていただけるのです。
神さまを愛することによって、本心が大きく輝き出て来るのです。
神さまを愛することによって、神さまと一体化してゆくのです。


 人は皆、心というエンドレステープを持っているのです。
 心に受け入れたものを記録して、それを再生して表現するのです。
 本来本心の心の自分は、お祈りによって神さまの最高表現を心に受け入れて、それを自分の世界として表現していたのです。
 ところがいつの間にか、自分の表現の世界に囚われて、お祈りを優先させることの大切さを忘れてしまったのです。
 そしてだんだんと現実という自分の表現の世界だけを、自分の心に記録するようになってしまったのです。
 それでは過去の未熟な表現の繰り返しになるのです。

 天才教育(本心開発)というものは、本来厳しい特訓に終始するものです。
 先ず最高のものを心に受け入れて、それを現実化する為に、特訓に特訓を積み重ねてゆくのです。
 凡才教育では、心に受け入れるものが、初歩から始まるので、心に受け入れたものが現実化するという原理からも、進歩が遅々として、盆栽(凡才)で終わるのです。

心の向きは、言葉によって定まるのです。

『神さま』『天照大御神 今ここに 在します』
『新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!』
『ありがとうございます』

という祈り言葉は、
心を神さまに向ける為の、最高最適最良の言葉です。


 欲しいものを手に入れても、幸せにはなれないのです。
 したいことをしても、幸せにはなれないのです。

 本当に必要なものを手に入れたら、幸せになれるのです。
 本当に必要なことをしたら、幸せになれるのです。

 お祈りの練習も、祈って祈って祈り抜けば、何かを掴めるのです。
 寝食を忘れる程に、とことん祈り続ければ、業想念の厚い壁も抜け落ちて、天空と一つに繋がるのです。

 誰でも、一度は通過しなければならない関門です。

 周りからどんなに反対されても、妨害されても、馬鹿と言われても、気違いと言われても、一度はお祈りに没頭して、天の自分と地の自分とを、一つに繋がなければならないのです。

 本当の幸せ・無限の無限の幸せは、天と地の自分が一つになった時に、実感できるのです。

『天(守護の神霊)は自ら助くる者を助く』

というのは、自分自身が真剣に努力し続けてこそ、その願いが天に通じて、守護の神霊の御心を動かし、大きく助けていただけるようになるということです。


人には完全な自由が与えられているのです。

 だから何を選択しても、その人の自由なのです。
 神さまは人の自由を決して縛らないのです。
 地獄に向かって進んでいても、止めようとはしないのです。
 何故なら人が地獄に落ちるのでは無いからです。
 人(本心)は神さまの中に本柱していて、苦しむことは決して無いのです。
 地獄界の体験も、テレビ番組を見ているように、ただ楽しんでいるだけなのです。
 心行くまで十二分に味わい尽くせばよいのです。
 自分の好きな道を、自分の自由に歩むだけです。

祈りを正しく理解し、祈りを正しく把握し、
祈りを正しく実行することが大切です。

 正しい祈りは、本心の自分を最高に輝かせる為のものです。
 正しい祈りは、神さまと本心の自分との交流です。
 正しい祈りは、神我一体感を無限に無限に深める為のものです。
 正しい祈りは、本心の自分にとっては、すべてのすべてです。
 正しい祈りは、無限の無限の絶対価値有るものです。

 正しい祈りを祈れる自分になれば、神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できるのです。

 だから正しい祈りを祈れる自分になることが、唯一無二の・最高・最大の目的・目標・課題・願いでなければならないのです。


 『朱に交われば赤くなる』という諺は、環境の持つ影響力の凄さを示しているのです。

 『孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教え』のように、より良き環境を選ぶことも、時には必要なことなのです。

 本心の輝いている人は、強い人です。
 本心の輝いている人は、一瞬一瞬新たに、神さまからすべてを受け直せるのです。
 だから環境に影響されないで、環境を自在に改変してゆけるのです。

人は同じ目的・目標をもって、同じ方向に進む場合にのみ、共に助け合うことができるのです。

 目的・目標が異なって、反対の方向に進む場合には、足の引っ張り合いになるのです。だから共通の目的・目標を見出せなければ、別々に進む方が良いのです。
 お互いに目的・目標を、心にしっかりと確認し合って、歩調を合わせることによって、大きな成果をあげることができるのです。
 人の自由意思というものは、最高に尊重されなければならないのです。

 人は二人の主に仕えることはできないのです。
 自我の心を生きるか、本心の心を生きるか、そのどちらかを選ばなければならないのです。

 自我の心を生きようとすれば、
業想念の心と一体化して、その奴隷になってしまうのです。
 本心の心を生きようとすれば、
神さまと一体化して、神さまに成れるのです。


鼎(かなえ)(古代中国で食物を煮るのに用いた金属製の容器。普通は三本脚。)の三脚は、三本とも長すぎることもなく、短すぎることもなく、バランスがとれていてこそ、その役目を完全に果たすことができるのです。

 三本の脚の中で一本でも高慢になると、即ち自分は他の二本の足より偉いんだとばかりに、自分の脚を長く伸ばしたとすれば、全体のバランスが崩れて、鼎はひっくり返ってしまうのです。

 また卑下慢になって、自分は駄目なのだ駄目なのだと、自分の脚を短く縮めたとすれば、これもまた全体のバランスが崩れて、鼎はひっくり返ってしまうのです。

 我(自分)を出すということは、全体のバランスを崩すだけではなく、大事な仲間にも嫌われて、仲間を失うことにもなるのです。

 鼎の三脚は、その中のどの一つを失っても、全体の破滅に繋がるのです。

 高慢になれば、人の短所欠点を責め裁くようになるのです。
 卑下慢になれば、人の長所美点を羨んで蔭口(悪口)を言うようになるのです。
 どちらも大きな災いを撒き散らすものなのです。

『褒め讃え・感謝し・喜ぶ』ということは、
神さまの御心・全徳の無限の無限の輝きを、
顕現する為の必須条件なのです。


 不労所得には大きな業想念が付着して来るのです。
 儲け過ぎ・貰い過ぎにも注意が肝要です。

報いを求めずに与え尽くす生き方は、
心の中の借金を減らし・貯金を増やす最短コースなのです。

 無報酬で働くことは、決して損をすることにはならないのです。

 心の中の借金を早く返す方が、現実的にも早く幸せになれるのです。
 本心の心に早く戻った人が、無限の無限の幸せを自分のものにできるのです。

無限の無限のプラスの言葉を、駆使し続けることによって、
必ず神さまの世界をこの世に具体化できるのです。

無限の無限のプラスの言葉を、断定的に使うことによって、
言葉に威力が備わるのです。

無限の無限のプラスの言葉を、新たに新たに加え続けることによって、
現実のすべては好転してゆくのです。

 現実のすべては、人の使う言葉の表現なのです。

 マイナスの言葉をプラスの言葉に置き換えてゆけば、必ずマイナスの姿は消え去って、プラスの姿が現れて来るのです。


 お金さえ有れば、幸せになれると思っていたら、大間違いです。
 お金は道具なのです。お金は幸せそのものでは無いのです。

 他に対して幸せを与えて来た人は、お金が有っても無かっても、他から必ず幸せを与えられるのです。
 お金が有る時には、それを幸せを得る為の道具として、使うこともできるというだけです。

 もし他に対して少しも幸せを与えて来ていない人が、お金を使って幸せを得ようとしても不可能なのです。
 何億円のお金を持っていても、幸せを得る為の道具として使うことはできないのです。その何億円のお金はすべて、不幸せを得るための道具になってしまうのです。

 お金自体には、何の価値も無いのです。
 お金にプラスの価値を与えるのも、マイナスの価値を与えるのも、自分が他に対して何を与えて来たかに因るのです。
 土地成り金のような生き方では、決して幸せにはなれないことは、バブルの崩壊で明白になったのです。
 安い土地を高く売って、安易に儲けたお金は、他からの借金なのです。
 借金というのは、必ず利息を付けて返さなければならないのです。

 人の運命というものは、心の奥から順次投影されて来るのです。
 心の一番奥に霊的幸せを確保すれば、後は自然にすべての幸せは整って来るのです。

人の先ず成すべきことは、本心の自覚を深めることです。
無限の無限の幸せで一杯!の本心の自覚を深めれば、
後は求めなくても自然に、精神的幸せも物質的幸せも確保できるのです。


 棚からぼた餅のように、他からの助けを待っているのは、
  間違った御利益信仰の生き方です。

 正しい本心開発の生き方は、
  内在の無限力を発揮して、神さまの御心を現実化することです。

祈りに祈って、神さまの御心を正しく把握し、
それを具体化する為に、粉骨砕身して努力することが、
神さまの本当の助けを受ける為には、
絶対に必要なのです。

そうすることによって本心は開発され、理想は現実化するのです。

 本当の戦いとは、自分自身の心の中で行われているのです。
 本心の心と業想念の心との熾烈(しれつ)な戦いなのです。

 本心の心が業想念の心に打ち勝った時に、
  始めて『我世に勝てり』という真の勝者になれるのです。

本心の自分を無限に無限に輝かせることが、
人生の真の目的なのです。

その為に高い目標を掲げ、困難(不可能)に挑戦し、本心(無限力)を引き出そうとしているのです。


 他からどんなに貶(けな)されても、他からどんなに悪く思われても、感謝し・喜んでいたら、自分の心の中のマイナスの種を、どんどんほじくり出して消し去ってもらえるのです。

本心の心の自分は、他から貶されるほど大きく喜び、
他から褒められるほど謙虚に反省するのです。

 人の噂は決して信じてはいけないのです。
 自分の口から出た言葉に対する責任は、必ず自分自身に降りかかって来るのです。
 借りに噂として流しても、自分自身がその噂を正しいものとして受け入れ、自分の考えとして他に伝えていることになるからです。
 噂に同調したということは、その噂を流した者と同罪になるのです。

 仏教に如是我聞(にょぜがもん)という言葉があるのです。

 お釈迦様の真理の説法を、弟子たちはそれぞれに、自分はこの様に聞いたというように、謙虚に他に伝えているのです。
 お釈迦様がこのような説法をされたというのは、間違った表現なのです。

 お釈迦様の説法を自分はこのように聞いたというのが、正しい表現なのです。

 どのような話を伝え聞く場合も、直接に対話している人の考えだけを、自分は聞いているのだということを、肝に銘じておく必要があるのです。


 心の波長の合う者同士は、常にお互いにマインド・コントロールし合っているものなのです。
 もし心の波長が合わなければ、おたがいに影響を与え合うことは絶対にできないのです。

 信念の波長の合う者同士は、お互いにマインド・コントロールし合って、その番組通りのストーリーを、お互いが協力し合って、助け合って、演出していることになるのです。

 心の波長が地獄に合っている者は、
お互いに助け合って、地獄世界を作り上げているのです。
 心の波長が極楽に合っている者は、
お互いに助け合って、極楽世界を作り上げているのです。

 地獄と極楽とは心の波長(自由意志)が異なっているので、お互いが影響しあうことは決して無いのです。

 自我の心(業想念の心・五欲の心)を生きる時代は終わり、
本心の心(神さまの御心)を生きる時代が始まるのです。

人の心に合わせて、神さまが助けて下さる時代は終わり、
神さまの御心に合わせて、人が神さまのお手伝いをする時代になったのです。

 地球人類も凡夫から神人へと移行するのです。
 人は誰でも、神さまのお手伝いをすることによって、凡夫から神人に生まれ変われるのです。


信仰の極致にあるもの、それは古神道です。

 この場合の『古』とは、時間的に古い・昔のという意味ではないのです。
 真のプラスだけが降り注ぐという意味です。
 神の道とは、神が道となっている、すべてを一つにつないでいる、すべてに満ちわっているという意味です。

 言葉や教え以前の、言葉や教えになる前の、縦横無尽の神さまの働きを指しているのです。
 古神道こそは一切を摂取不捨し、全大宇宙のすべてを一大包容し、一大統一のもとに総括して大調和ならしめ、一即多・多即一という全一の真理を輝かす、大神さまの至慈至愛の働きを指し示しているのです。

 宗教・科学・芸術等々すべては古神道より生まれたものであり、もとより古神道の中にあり、大神さまの絶対の愛に帰結しているのです。
 古神道は、大神さまの全徳の無限の無限の輝きそのものなのです。

 古神道とは、我(業想念)の心を死に切って、本心の心で、あるがままをそのままに感受してゆくものです。
 本心の心で眺める時は、一瞬一瞬新たなる全徳の無限の無限の輝きをもって、光一元に一大統一している真の神さまを、今・此処に見出すことができるのです。
 古神道では、正しい型を習い、それに素直に従うことによって、我(業想念)の心を捨て、本心の心に戻るのです。

 例えば地球を知る為には、精巧な地球儀(模型)を通して学ぶのが最適です。正しい模型を使って、洞察力・推理力・達観力を駆使して、本物を信ずるということは、本物を知っているのと、同じ位の価値が有るものです。


 知って犯す罪と、知らずして犯す罪と、どちらが重いか?

 知らずして犯す罪の方が、はるかに重いのです。

 何故なら知らずして犯す罪は、歯止めが効かないからです。
 道理を知らないということ・無知が、一切の苦しみの根本原因であり、罪の最大のものです。
 生命も財産も一切が神さまからの預かりものです。
 みんなの幸せの為に、世界の平和の為に、生かして使うことこそが、正しいのです。
 マイホーム主義的に・利己的に・贅沢に生きることは、癌細胞と同じような生き方になって、自壊して全体をも滅ぼす元凶となるのです。

『幸せ』は、外に探し求めて得られるものではなく、今・ここに見出すべきものです。

 幸せは本心の輝くところに、自然に集まってくるのです。

 本心の心(明るい心・笑いの心・愛の心・喜びの心・感謝の心・与える心・生かす心・等々)を、しっかりと生きていさえすれば、別に幸せを遠くに捜し求めなくても、幸せの方から喜んで、自然に集まって来てくれるのです。

 だからどんな幸せも、今・ここに見出せるようになるのです。


本心(神我)を引き出し、輝かすことが、人生の真の目的です。

 その他の目的・目標というものは、この真の目的を実現する為の手段です。
 真の目的と、手段としての仮の目的とを、ハッキリと区別しなければならないのです。
 そしてその真の目的を達成する為に、この世のすべての目的・目標を活用してゆくのが、正しい生き方なのです。
 人は本心を引き出し、輝かして、その本心の自覚を深めてこそ、真の心の幸せ・喜び・安らぎを得ることができるのです。


真のボランティア活動を目指すものは、
常に常に他を幸せにする為の
余徳・余力・余裕・預金・・・・・等々を
蓄積し続けていなければならないのです。

 その余徳が他の不幸・運命のマイナスを相殺して、大きく他を幸せにする働きをしてくれるからです。
 他を幸せにする仕事を沢山した人が、早く大きな能力・力を手中にできるのです。
 自分の与えた分が、他から受けた分より多ければ、それが余徳となって蓄積されてゆくのです。


 『徳を積む』ということが、運命を幸せな状態にする為には、必要不可欠なのです。

徳とは、神さまの愛の働きです。
徳を積むとは、心に神さまの愛の働きを感受することです。

 この世の徳行は、心に積まれた徳が、形に現れて消えてゆく姿であって、徳消えです。
 それを謙虚な心で、善いことをさせていただけた、ありがとうございますという心になった時に、新たな徳を大きく積み直させていただけるのです。
 それを自分はこんな善いことをしたのだと高慢になった時には、徳積みでは無く、徳消えであり、さらには業積みになるものです。

神さまへの感謝報恩の心で、させていただく奉仕であれば、
一切の報いを求める必要は無いのです。
無報酬で喜んで働けば良いのです。

 もし自分の労働の対価として、報酬を受けるのであれば、自分の与えたものと同じ価値のものを、その報酬で返してもらえるという約束を、人と人との間でしたことになるのです。
 お金には絶対価値は無いのです。
 労働の対価の貸し借りの時の約束のようなものです。
 自分の与えた価値だけのものが、自分に与え返されて来るのです。
 もし自分の与えたもの以上のものを受ければ、その分は借りているのです。
 自分の与えたものの方が多ければ、その分は貸しているのです。
 因縁因果の法則によって、どんな貸し借りも厳然と精算されるのです。


 お金が幸せの引換券として保証されているのではないのです。
 そのお金がどのような因縁を持っているのかを、正しく知っておく必要があるのです。

 徳が有ると言われている人にも、本物と偽物があるのです。
 本物の徳の有る人とは、本心の心の輝いた人であり、一切を私物化しない人です。
 一瞬一瞬新たに、神さまの全徳の無限の無限の輝きを受け直して、無一物中(むいちぶつちゅう)無尽蔵(むじんぞう)の境涯に在る人です。

徳を積み重ねる為には、
陰徳(人に知られないように施す恩徳)を積むことが大切です。
善いことをしても、顕彰されたら、その徳は帳消しになるのです。
陰徳を大きく積み重ねる一番の方法は、
人知れずお祈りを実行することです。

 神さまの働きに同化する為の自己訓練は、

① 言われる前にする
② 必要なことをする
③ 道理に合うことをする
④ 安全第一
⑤ 能率化・効率化・迅速化を心掛ける
⑥ 正しい目的・目標を持つ
⑦ 道具を大事にする
⑧ 常に神さまに感謝し続ける


一切の問題解決の鍵は、自分自身のお祈りなのです。

 自分自身がお祈りをしている時には、一切の問題も問題意識も無いのです。
 お祈りは、問題を解決する為にするものだと考えていたら、本末転倒です。
 お祈りをしていないから、感謝をしていないから、業想念の心に陥って、問題が生じているだけなのです。

お祈りをしている時には、感謝をしている時には、
決して業想念の心に陥ることは無いので、
問題も問題意識も一切眼中には無いのです。

神さまは、すべてのすべてです。

 だから何をマイナスに見ても、誰を責め裁いても、結局は神さまをマイナスに見て、神さまを責め裁いていることになるのです。

 神さまを悪者扱いしていては、神さまからの助けを受ける資格は無いのです。
 このことをしっかりと肝に銘じておかなければならないのです。


 感謝のお祈りによって、執着の心(業想念)を消し去ってもらい、本心の心こそが本当の自分なのだと、繰り返し繰り返し教えてもらって、本心の自分に目覚めてゆくのです。
 本心の心に戻る為には、本心の心をしっかりと生きている先達から、本心の光を点じてもらうのが一番なのです。

 汚れた色眼鏡を通して見た景色と、色眼鏡を外して見た景色とでは、雲泥の差があるのです。
 本物を正しく見る為には、色眼鏡を外して見るか、色眼鏡を汚れの無い無色透明のものに変えて見る必要があるのです。
 色眼鏡を外して見るということは、五感六感の感覚を超越して、本心の直感力によって感受してゆくことです。
 色眼鏡を汚れの無い無色透明のものに変えて見るということは、心の中を大掃除して、五感六感の感覚を清浄なものに変えて見るということです。
 そうすれば五感六感で感じる姿にも、生命の輝きを強く感じることができるのです。

 虚の世界のすべては、相対の両極の働きによって、バランスが保たれているのです。
 必ず相対の両極・両方が、同時に存在しているのです。
 光が表現される時には、必ず闇も同時に表現されるのです。

プラスをより多く感受する為には、
マイナスへの感謝・思いやりを深くしてゆくことが大切なのです。

 マイナスを責め裁き・切り捨てることは、同時に自分に与えられるプラスをも破壊していることになるのです。


自分だけの幸せを祈るよりも、みんなの幸せを祈る方が、
その祈りの効果は遙かに大きいのです。

 『みんな無限の無限の幸せで一杯!』と祈ることは、神さまの絶対の御心・根源の御心とピッタリと波長が合って、神さまの助けが受けやすいのです。
 その上与えたものが与え返されるという法則によって、みんなからも無限の無限の幸せが与え返されて来るのです。
 『みんな無限の無限の幸せで一杯!』という姿は、神さまが一瞬一瞬新たに与え続けている真実の姿です。

 すべてを失ったと思う時でも、神さまの愛だけは常に降り注がれているのです。

神さまの絶対の愛だけは永遠に変わらないのです。
神さまだけに信頼を置けば、常に神さまの愛は感受できるのです。
信頼できるのは神さまだけなのです。
神さまだけは、その信頼を裏切ることは無いのです。

 道具を自在に使いこなせてこそ、本当の仕事ができるのです。
 道具に使われ、道具に振り回されているようでは、本来の目的を達することは不可能なのです。
 これと同じように本心の自分が、自己表現の道具である、肉体と魂を自在に使いこなせてこそ、神さまの御心をこの世に現すという、本来の使命を全うすることができるのです。
 だから祈り言葉を駆使して、本心の自覚を深めてゆくということが、何よりも何よりも大切なことなのです。


 皮相に囚われていては、真実は判らないものです。

 たとえば西瓜とは、赤くて甘くて柔らかくて、とても美味しいものだと中身を指して言われても、皮相に囚われている人にとっては、固くて不味いものだという印象しか無いので、真相を信じて受け入れることができないのです。
 人間もこの世しか無い、この世がすべてなのだと思いこんでいるのは、西瓜の表皮だけがすべてなのだと思い込んでいるのと同じことなのです。

 最初から中身を否定し無視していては、真実を明らかにすることは不可能です。
 人間も自分自身を正しく知る為には、表皮に当たる肉体や魂を自分のすべてであると思っている、その思いから離れなければならないのです。

真実の人間・本当の自分・本心の自分は、
神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯なのです。

 どんなマイナスにも『積極的な力は無い』のだということを知ることが大切です。

光(プラス)に対する闇(マイナス)には、積極的な力は無いのです。
闇(マイナス)とは光(プラス)が無いという消極的な虚の状態です。
闇(マイナス)には光(プラス)を打ち負かす力は無いのです。
今新たに光(プラス)を受け入れれば、
瞬時に闇(マイナス)は消滅するのです。


救う側に立った時に、救われるのです。
本心の心は、既に救われているのです。
神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯なのです。
他の本心を拝み出し、真理を伝え、愛他行を実践することによって、
本心の心は現実に大きく成長するのです。

本心の心の自覚を深めてゆく秘訣は、
他を救う行を実践することにあるのです。

 真実の愛の心とは、好き嫌いの感情を超えたものです。

相手の本心が輝くように、
一切の報いを求めずに、真実のプラスを与え続ける心です。
真実に愛する練習とは、
相手を幸せにする為に、一切の報いを求めずに、
与えて与えて与え尽くすことです。

 祈りによって神さまに奉仕したいのであれば、
寝食を忘れて、祈りに祈る練習が必要なのです。

 一瞬たりとも、祈りを忘れてはならないのです。
 それだけの真剣さが必要なのです。


 感謝する人・感謝される人は、本心の心が光り輝くのです。

 感謝は本来、蔭で働く神さま・お蔭様に対するものなのです。
人の背後で・蔭で本当の力を振るっているのは、神さまなのです。
その神さまの働きを感じた時に、感謝の心が自然に起きるのです。

 神さまの浄め・癒しの媒介(パイプ役)になる為には、先ず自分の心を完全に浄め尽くさなければならないのです。

 真の振り替えの業は、悟りを開いて、神さまだけを実感できるようになった時に、はじめて可能なのです。

 マイナス(業想念)を相手にしたら、マイナス(業想念)を自分の心の中に取り込むことになるのです。
 七難八苦(業想念)を背負うだけでは、何の役にも立たないのです。

 神さまの中へ飛び込まなければならないのです。

 与える心と与える心の交流は、プラスの交流となって、お互いのプラス面を増幅し合うのです。
 人が無限の無限の幸せで一杯に成る為には、神さまとの心の交流が、絶対に必要不可欠なのです。
 先ず神さまを愛し続けることによって、神さまの愛の助けを受けて、その愛は本物の愛に成るのです。

本物の愛とは、真の感謝なのです。
愛するとは、感謝することなのです。
本物の愛し合う姿とは、感謝し合う姿なのです。


 無限に無限に輝くことが、神さまからの至上命令です。
 
  輝くもののみが、存在を許されているのです。
  輝かないものは、闇の極に押し遣られて、消滅してゆくのです。
  輝きを失ったら、闇に同化し、消滅してゆくのです。
 
  無限に無限に輝く為には、一瞬一瞬新たに新たに、神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受することが必要なのです。
 
 日常生活の中で、どんな仕事をする時も、
 『スピード化』を心掛けることが、本心開発に大きく役立つのです。
 
  ① 限界を破ろうとする時に、本心は輝き出て来るのです。
  ② スピード化すればするほど、高次元波動の番組に波長が合うのです。
  ③ 真剣な心に、高級神霊が感応して来るのです。
  ④ 能率的に・効率的にというのは、神さまの知恵に波長が合うのです。
  ⑤ 全力を出し尽くす時に、神さまの力が流れ入って来るのです。
  ⑥ 働きが増大すれば、与える量が多くなるのです。即ち借りが減り、貸しが増えるのです。
 
  換言すれば業想念の心が消され、本心の心が輝き出て来るのです。
 
 
  正しい信仰とは、本心開発(悟りを開く)の為の信仰です。
 
  『ありがとうございます』と真剣に心に唱え続けてゆけば、必ず種々様々な問題が奇蹟的に解決されてゆくのです。
  しかしこの世的な問題が解決されただけで、満足してしまってはいけないのです。
  それらの奇蹟は、あくまでも感謝行を続けさせる為の、守護の神霊からのご褒美(飴)に過ぎないのです。
 
 本心(神我一体)の自分の側に立って、救いに立つのが、
 悟りを開く為の正しい信仰なのです。
 
 救いに立つ為には、無限の救済力が必要なのです。
 その無限の救済力を、神さまからいただく為にこそ、
 『ありがとうございます』という感謝の真祈りが有るのです。
 
 そして自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、
 神さまの御用に使っていただくことが、
 神さまの大きな助けを受ける秘訣なのです。
 与え尽くす働きの極致に、真の悟りの境地が有るのです。
 
  聖地というのは、神人を養成する為の場です。
  沢山の高級神霊が結集し、清め(浄め)の光が、大光明燦然と降り注いでいるのです。
  業想念を消し去って(浄め)、感謝の心を引き出して(清め)、神人(本心)の自覚を与えてくれるのです。
  神さまへの感謝と奉仕が、神人養成の為の柱になるのです。
  聖地とは、神さまに奉仕して、本心開発という、大きな助けを受ける為の場なのです。
 
 
  古神道とは、真の神さまの働きを拝受
  (光一元に礼拝し、感謝を深めて受ける)するだけです。

 真の神さまの前に立つ時、何神も何人も無に等しいのです。
 無限の無限の大光源の前に立つ時、いかなる光も、影に隠れ・消え去るのみです。

 真の神さまの働きを拝受する、最高級神霊(古神道の神々)が、「我は名も無き、いと小さき者なり」と、謙虚に謙虚に現れるのは、この故なのです。

古神道の信仰を生きる者は、徹底して自己を隠し、
真の神さまの御稜威(みいづ)を顕揚するのみです。

 古神道を標榜する時、既に古神道を逸脱しているのです。
 一宗一派を立て、教団を組織するのは、間違っているのです。
 神社仏閣堂塔迦藍は不要なのです。
 一切の偶像・模型は無用なのです。
 それらが真の神さまを見失わせるとすれば、一切悪の元凶になるのです。

 世界の戦争の根本原因になっているのは、間違った信仰・信念のぶつかり合いなのです。
 何宗も何派も何教も謙虚になって影に隠れなければ、正しい道は歩めないのです。
 自我を主張する生き方は、どんな生き方も、地球の滅亡に加担しているだけです。


 すべての人は、真の神さまを御親とする、いのちの兄弟なのです。
 地球は一つの家庭なのです。
 仲良く助け合って、みんなが幸せになる家庭を、築かなければならないのです。
 利己主義・マイホーム主義・民主主義・国家覇権主義等々の、縄張り根性・島国根性の狭小な生き方は、地球という家庭を滅ぼす元凶になるものです。
 御親である真の神さまは、仲良く助け合えば、みんなが幸せになれるように、必要なものは豊かに与え続けて下さっているのです。
 どんな小さなものでも、私物化することは、真の神さまの御心に反しているのです。

至忠至孝至悌の生き方は、
無条件で真の悟り・幸せ・救い・平安を保証する、
最高の易行道なのです。

 真の神さまを唯一無二の中心者として、
無条件で帰順するのが至忠です。
 真の神さまを唯一無二の御親として、
喜んでもらえるように生きるのが至孝です。
 真の神さまを唯一無二の師として、
その導きに素直に従うのが至悌です。

 さざれ石の巌となる為には、万神万生万有の中心・御親・師は、唯一無二・絶対でなければならないのです。

 何神何人何物と言えども、自分勝手に中心・親・師としてでしゃばることは、真の神さまを無視した無礼千万な生き方です。
 真の調和を乱すのは、真の神さまを立てない、この高慢な態度なのです。


 自腹を切る覚悟が無ければ、本当の責任ある生き方はできないのです。
 自分のすべてを捧げ尽くす覚悟が無ければ、どんな責任も果たすことはできないのです。

自分のすべてを捧げ尽くして、
一切の責任を取ろうとするところに、
真の神さまの助けが降りて来るのです。

 一切の責任を自己に帰す心は、真の神さまの御心と一致するのです。
 一切の責任を取ろうとする大犠牲精神の持ち主は、真の神さまの座にまで引き上げられて、中心に立つ者となるのです。
 即ち本心の自分に戻ることができるのです。

 地球の滅亡を防ぐために、いのちを捧げて、全力を尽くし、その全責任を負います、という覚悟ができたら、直ぐに本心の座に引き上げてもらえるのです。
 そして真の神さまが応援に付いて、無限の能力を授け、必要な働きをさせて下さるのです。
 責任の重い立場に自分を置かない限りは、本心の自分を引き出すことはできないのです。

 大自然の猛威の曝(さら)された時、人間の無力さに気付き、少しは謙虚になるものです。
 七難八苦の嵐に見舞われた時、自己の無力さに気付き、少しは神に縋(すが)る心が起きるものです。
 でもそうなる前に気付かなければ、本当の大馬鹿者です。
 真の神さまを無視した結果が七難八苦の運命として現れているのです。
 真の神さまは、無限に無限に偉大なのです。
 その真の神さまの助けを拒絶したら、運命が極端に悪くなるのは当然です。


大自然の悠久の神秘に触れ、大自然の無償の恵みに感謝し、
大自然の『声なき声』に耳を傾け、
一日も早く、『万物の霊長』として、
報恩の行に生きなければならないのです。

人には地球の調和を守る、使命と責任が有るのです。

 それを逆にして、地球の調和を乱しに乱しているようでは、人の存在価値が問われることになるのです。
 地球の調和を乱す人間は必要ないのだと、抹殺されても、文句は言えないのです。
 自分さえ良ければという人間は、人類さえ良ければという人間は、もう必要が無いのです。

 物質文明を謳歌する贅沢三昧な生き方は、地球の調和を乱し、
    霊的・精神的な幸せをも奪って来たのです。

 今一度、真の幸せとは何かを、
    しっかりと見極めなければならないのです。

 欲しいものと必要なものとの区別を付けて、本当に必要なものだけで満足できる自分にならなければ、人類と大自然の調和は保てないのです。

 自分一人の『勇気と責任』の有る生き方が、
    地球人類の生き方を決定するのです。


人生の真の正しい目的とは何か?

 真の・正しい・本物は、常に神さまの中に在るのです。
 
 だから
神さまの目的を自分の目的とするときに、
正しい人生の目的が定まるのです。

 神さまの導きは、感謝一筋の生き方になれば、必ず与えられるのです。
 正しい目的地とは、最高の悟りの境地です。
 絶対の愛を生きる天照大御神としての自分です。
 真の神さまが真の自分、一大循環の相象と一つに成って、真の愛を生きることです。

 神さまの言葉・真理の言葉は、少なくとも10通り以上のプラスの解釈を施せてこそ、正しく解釈したと言えるのです。
 同じ一つの言葉に対しても、小さな・浅い・低い解釈もあれば、大きな・深い・高い解釈もあるのです。

どんな真理の言葉も今を新たに受け直せば、
常に新しい神さまの導きの言葉となるのです。

 神さまの御心を真意を深く深く捉えることができるようになれば、神さまとの一体感が深くなっているのです。
 謙虚に素直に真剣になればなるほど、より正しい、より高い受け方ができるのです。


真の神さまに出会えたら、一瞬の出会いだけで、
無限の無限の至福感で一杯になるのです。

 この衝撃的な出会いについては、奥の意識では誰もが感じているのです。
 だからこそ、真の神さまに出会える自分になる為に、悟りへの道を歩んでいるとも言えるのです。
 絶対感謝の道は、宇宙大の悟りへの光の螺旋階段・エスカレーター・エレベーターなのです。
 真の神さまと一体化する為に、無限の無限の神々は、この道を上昇し続けているのです。

 宇宙大の悟りへの光の螺旋階段・エスカレーター・エレベーターは、「ありがとうございます」の祈りの神さまの身体なのです。

 「ありがとうございます」の絶対感謝の道は、無限の昔から在るのです。
 悟りへの最短コース、一番の易行道として、神ながらの大道として、厳然と実在し続けているのです。

神さまの救いの働きのお手伝いをさせていただく為には、
「どうかこの生命を神さまの御用にお使いください。」と全託して、
心を神さまに向けて、
ただひたすら「ありがとうございます」と心で唱え続けることです。

 自分の心をこの世に向けている限りは、お祈りにはならないのです。
 神さまの光を受け取ることができないのです。
 だからこの世の救いは神さまに委(ゆだ)ねて、自分はただひたすらに心を神さまだけに向けて、「ありがとうございます」と感謝し続けることが大事なのです。
 その時に神さまの光は、自分を通して、大きく必要な所へ照射されるのです。



                           ありがとうございます護摩とは
                           
 ありがとうございます護摩は、最初の頃のマイナスや思いを消してもらう為の護摩から、神さまに自分を捧げ尽くす護摩まで大きく変化してきました。
 各段階を経て、今回からは、真の神さまの側に立って、真のプラスを与え尽くす護摩へと大きく変化します。




                           護摩に参加する意味、護摩木を書く意味
                           
 みんなの心を一つにした護摩は、一人で祈る祈りと違って、無限の大きい相乗効果となって、大きな祈りの力が発揮されます。
 自分一人で一生懸命祈っても、一生かかっても何億回しか祈れません。大勢の祈っている人と一つに力を合わせて祈る祈りは、1回で何億回を超えるのです。
 みんなの心が求める心から与える心に大きく変化してきたのです。
 それはお祈り、護摩木を書くこと、参加することで、計り知れないほど無限に大きく助け続けてもらって、奇跡を見せて下さり、変えて下さっているのです。
 一人一人、波の合う縁者が全部違います。
 その縁者を全て救う為に、真の神さまは、神さまの愛の光を受け取れる人を養成して、そこからみんなを大きく救うのです。
 波の合う所へ、光が流れます。
 だからみんなの波が必要なのです。
 一人ひとりの波が必要なのです。
 そこへ神さまの本当の光が大きく注がれて、色んな波の人を救うのです。
 真の神さまにまで、全部一つに繋がれば、全ての波のすべての世界が救われるのです。
 みんなで力を合わせて、みんなの働きで、神さまのお手伝いをしましょう。
 それが本当の大きい支え合いのひな型になって、世界に発進・発伸(はっしん)され、完全平和が実現するのです。




                           奉納の仕方
                           
 支え合う姿をひな型にして、大きな光で放射して投影するのが、今回からの護摩焚きの奉納です。
 世界が本当に必要としている最高のものを、ひな型として奉納して、世界に広めていきます。
 支え合いの相象を奉納することが大事になります。
 色んな方が参加して支え合う相象が、真の奉納になります。
 奉納することが世界にどう繋がるのか、どう発伸できるのかを考え、ご参加下さい。

神さまの世界の支え合いが、本当の理想のひな型です。
本当のお手本なのです。
虚の世界に、神さまの理想の相象を映し出す為に、
ひな型を元にして、
それに光を放射してもらって、投影し、広げるのです。

 地球では、日本が世界の中心、ひな型です。
 日本列島が、世界の大陸の縮図になっているのを見ても、明白です。
 みんなが仲よく支えあって、一つの大きい働きになっている相象をもってきたら、護摩焚きの大きい光が、それを世界に広げるのです。
 支え合い、本当のプラスの与え尽くし合いになったら、世界はすぐに平和になるのです。




                           ありがとうございます護摩の護摩木の書き方
                           
 真の神さまを最高最大に褒め称え、恩返しの『ありがとうございます』を無限に一杯!捧げることは、真の神さまへの真の恩返し・最高の恩返し・最大の恩返しになるのです。

 真の神さまへの恩返しの程度に比例して、その無限倍の新たなプレゼントが循環してくるのです。
 感謝の真祈りを祈り、恩返しの『ありがとうございます』を護摩木に込めて捧げることは、入れ子構造的・相乗効果的な大きな助けを受けることになるのです。
 そして一切の報いを求めない、真の恩返し一筋の生き方になった時に、真の神さまの一大循環の順流の流れの中に自分を置くことができるのです。

 表には、
『真の神さまは一大循環のすがたで、厳然と今ここに在します。
     新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!
     ありがとうございます。
     新たなる無限の無限の(プラス・調和・幸せ・喜び・安らぎ・愛・知恵・能力・護り・支え・明るさ・素晴らしさ・謙虚さ・素直さ
    ・・・・・・・・・・)が無限に無限に一杯!
     ありがとうございます。』

 裏には
『ありがとうございます ありがとうございます ありがとうございます ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

 お子様や、お身体の不自由な方、細かい字の見にくい方は、心を込めてたった一言の「ありがとうございます」でも十分です。

 護摩木をご送付いただく際は、メール便(A4で1センチの厚みまで80円)が格安です。

 ※メール便は、ほとんどのコンビニエンスストアで取り扱っています。お近くの店舗にお問い合わせください。

 書き上げた方は、お早めにお送りくださると、毎日のお祈りで、護摩木に沢山の光が注がれます。

 お祈りの相乗効果をどんどん大きくする為に、一人でも多くの方に護摩木を書いて頂いて下さい。

 護摩に参加することにも大きな意義と功徳がありますので、万障繰り合わせて、「ありがとうございます護摩」に是非ご参加下さい。


 一人ひとりが置かれた場で、真剣に祈り続けることは、とても大切なことです。
 さらにその祈りを総結集して、無限倍の効果あるものにすることは、もっともっと大切なことです。
 地球に平和を実現する為には、無限の無限のプラスを加え続ける必要があるからです。