真祈り


真祈り・ありがとうございますは真(まこと)の神さまの・真(まこと)の自分の祈りです。


無色透明の自由自在心のすべてに対して
真(まこと)の神さまを
真(まこと)のプラスを
一大循環の相象を
与え続ける祈りです。




◇1

 本当に本心の自分に戻るために、悟りを求めて修行したいと願っても、自分一人でいくら頑張っても、チャンスなんてなかなか与えてもらえない。大勢の人の代表になって、選ばれて、みんなに支えられて助けられて、やっと修行に入れる。それは一人や二人の僅かな人の助けではない。大勢の、何十万人。それだけの人が自分のマイナスを身代わりに背負って助けて、その代わりに自分が悟りへの道をしっかりと歩んで、みんなを助ける恩返しをする。
 
 だからありがとうございますのお祈りのできる人は、周りが地獄絵図でもいい。極端だけれども、その位の大きいプラスを与えてもらっている。お祈りができるチャンスを、与えてもらうというのは、無限の価値あるものを、与えてもらっている。あとは真剣にお祈りして、恩返しすればいい。恩返しだけ、恩返しだけで、早くマイナスを背負ってくれた人を、助けないと。

 本当のお祈りは、神様の無限の無限のプラスを、与え続けること。

 しっかりお祈りしたら、与え続ける神さまのお手伝い。みんなのマイナスを、全部消して、恩返しできる。現実のこの世のすがたの移り変わりなんて、ごく僅か。大きいプラスを、与えて与えて与え続けて、全ての縁ある世界の、全ての人を救わないとだめ。この世だけ見たら、ほんの氷山の一角。無限分の1。極端に言ったら、それだけ小さい。目に見えない世界を見て、大きく助けるのが正しい。


◇2

 縁は過去の繋がりの縁、くされ縁もあるけれど、くされ縁だけでは救われない。そこへ神様からの新しい縁を、神様の縁、真縁を加えて、どうプラスに変えていくか。常に新しい縁で、神様の愛の縁で、新しい出会いが、ちゃんと神計らいで仕組まれている。だから過去の過去世の腐れ縁だけではない。それをプラスに変えていくために、新しい神様の縁で、みんな結ばれていく。だから本当のプラスの縁になる。

 みんな神様からの救いの手を差し伸べられているすがた。どんなところからでも、救いの手を差し伸べている。断崖絶壁を滑り落ちる時でも、途中でちょっと、木の枝にひっかかったりする。この木の枝もそう。神様がこの木の枝になって、縁があって差し伸べる。いろんな形で支える、みんな。マイナスが大きくならない様に。今度は上へ上がる時も同じ。下から押し上げたり、上から引っ張ったり、いろんな縁を伝って、助け続ける。虚の落とし穴にはまっても、墜ちる時も助けるけど、這い上がる時も、もっと助ける。

 どれだけたくさんの助けを受けたか、気付くのはごく僅か。無限分の1と思った方がいい。気付かないのが無限倍。遠い所からの助けなんて判らない。遠い所から、いろんなものに光を送ってきて、助ける。目の前の事しか判ってないから、みんな。だから本当の助けは、無限倍と思うのが正しい。元からそう。真(まこと)の神様は、全てに対して、全方向から螺旋状に、全てを使って、愛を与えてきている。神様の与え方がそうだから。

 同じ人と出会っているのではない。同じ人と出会っているようでも、毎日違う人と出会っている。同じと言うと、掴んでしまっている。毎日新しい出会い。真実の世界ももちろんだけど、虚の世界もそう。虚の世界も常に新しい出会い。同じすがたは続かない。二度とない。

 一瞬一瞬毎回の出会いが大切、大事な事なの。本当の価値がある。二度と出会えないと思っていた方がいい。一回きり、一回きり。虚の世界に一期一会という言葉がある。一期一会の出会い。今の一瞬しか虚の世界でも出会えない。チャンスは二度とない。一回きり。だからこの一回きりのチャンスを大事にする。それが一期一会の出会い。

 縁が深い、本当の神縁が深いというのは、神様と一体だから。真(まこと)の神様と本当に切っても切れない、一番深いつながりがあって一体だから、一番縁が深い。縁という言葉は、神様の愛の光のすがた。神様の愛の光の糸で繋がっているという意味。その光の縁を束ねたら縁が深い。沢山の神様の愛の糸で、一杯に繋がっている、これが、縁が一番深い。

 本当は宇宙の全てと、無限の愛の糸で繋がっているから、気付いたら真(まこと)の神様の縁、神縁で無限に一杯になる。気付かないから、みんな孤立して、孤独を味わう。だから気付いているか、気付かないかだけの違い。本当は深い縁があるのに、気付いていないだけ。表面の目の前の事しか見ていないから。

ありがとうございます
◇3

 ありがとうございますも、真(まこと)の神さまをしっかりと呼ぶ、ありがとうございますになったら、本物の力がある。一番最初はみなマイナスを消してもらうのが目的、次に虚の世界のこの世的なプラスを一杯与えてもらう。そしてだんだんと虚の世界の思いを全部消して、本心の自分に戻るように助けてほしいという。

 天の岩戸を開いてもらうと言うのは、別に何かこの世が変わったのと違う。本心の自分を引っ張り出してもらってること。真(まこと)の神さまの世界の天照大御神様、一番末端の天照大御神様でも、無限の無限の輝きを持った神さま。虚の世界の天照大御神様じゃない。虚の世界を全部瞬間に消せる力のある神さま。天照大御神様を虚の世界に引っ張り出すと言うことは、みんなの本心を引っ張り出してもらうと言う意味。どこかに天照大御神様が現れて、光の柱になって降り立っている、そんな浅い意味じゃない。一人ひとりの本心を引っ張り出してもらっているという意味。

 今までは求める心で、いろいろ願いを叶えてもらおうとしていた。次は上手に神さまの助けを受けようとする。受けるということに重点を置いてきた。でもそれではまだ足りない。
 今度は与える側に立って本当に神さまのお手伝いに生きる。神さまの側に立って、プラスを与える側に立つ。
 そうすると、神さまの後押し、一番大きい助けをもらえる。もらえると言うよりも、自分の中を貫流する、流れる。どんどんどんどん、大きい自分に引き上げてもらう。


◇4

 本心に立った時は、我の自分がどんどん消える。神さまの中に融け入って、自分が完全に消えていく。神さまの中に融け入った時は、自分が何かするのじゃない。神さまが自分を通して、何かしてくださる。一大循環の働きが、自分の中を流れる。もし自分があったら、飛ばされてしまう。遙か彼方、無限の彼方へ一瞬に飛ばされてしまう。自分が無くならないと、一大循環の流れの中に入れない。自分が何かさせてもらうとか、自分がじゃない。神さまだけが、一大循環の愛の働きのすがたで、全てに対して、本当に必要な物を的確に与え続けてくださる、こういう見方になるだけ。そしたら虚の世界が無くなって、真実の世界にいる自分に戻る。

 お手伝いに生きると言うけれども、自分を出すためじゃない。本当の神さまの働きだけを認めるための生き方。
 ありがとうございますも、真(まこと)のありがとうございます、言霊のありがとうございますを駆使する、本当に自由自在に使いこなす、それで大きい働きをするようになる。真(まこと)のありがとうございますの祈りの力は、単なる相乗効果じゃない。無限の相乗効果。
 真(まこと)のありがとうございますは、入れ子構造的な相乗効果。無限倍、無限倍。いつも、そういう働きが加わってくる。だから本当の大奇蹟を起こす力が備わって来る。


◇5

 一番最初、ありがとうございますさえ唱えたら、奇蹟が起こる。このありがとうございますは、ホントのありがとうございますと違う。自分の守護霊さん、守護神さん、救済の神さまが、ちょっとご褒美に、飴玉をぽっと与えてくれる、病気なんか消すぐらい、瞬間。ありがとうございますを唱える練習を始めたから、ご褒美にあげようかってね、病気でも何でも消してくれる。あくまでもありがとうございますを唱える練習をし始めたご褒美。まだまだ本当のありがとうございますではない。これが真(まこと)のありがとうございますに変わるまでに、どれだけ大きい本当の神さまの助けがいるか。それを順番にしてもらう。

 本心側の自分に立って、真(まこと)のありがとうございます、言霊のありがとうございますを、本当に駆使出来る自分になった時から、真(まこと)の神さまのお手伝い。護摩焚きも、そういう真(まこと)の自分が大勢集まった状態で、無限倍の相乗効果、入れ子構造的相乗効果になる。常に無限倍になる大きい働きで、自分一人でも何億人以上助けるだけの働きをさせてもらう。ホントはこの世の人口の数を救うのではない。この世の人の背後に、何十万倍いてる縁者を、全部浄めて、真実の世界に戻さないとね。虚の世界を相手にするだけでもすごい。あと真実の世界に入ったら、もう一つ純粋な真(まこと)の神さまの一大循環の働きのお手伝い。もっともっとすごくなる。

 みんな段々と、真(まこと)のありがとうございます、言霊のありがとうございますに融け入るようになる。真(まこと)の神さまに、言霊という言葉じゃなしに、真(まこと)の神さまの中に融け入るようになって来る。ホントに純粋に融け入るって感じ。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分という実感が湧く。ここまで入っていく。一番の幸せになる。

 真(まこと)の神さまのお手伝いは、神さまに融け入るための一番の勉強。
 お手伝いに生きた時に、融け入る。助けてほしいとか、神さまの助けを受けようというのでは、無限分の一しか受けられない。それでは本当の一体感はない。無限分の一の一体感。だから融け入らないと。融け入って神さまの全てと一つになる。


◇6

 自分一人だと落ちこぼれる時があるの。だからみんなと一緒に支え合って手を繋いで、進んだら絶対に落ちこぼれない。みんなが自分が落ちる時は支えてくれる。自分も誰か落ちこぼれる時は支える。支え合いが、大きい力になる。
 支えるというのは、神さまの本当の働き。一番下から、一番底から、みんなを押し上げて支える、プラスを与え続ける。一大循環の相象そのものが支えるという働き。支えよう、支え合いをしようというのが、一大循環の働きとピタッと合う。

 支え合いとういのは、自分が何かするのではない。神さまがそのままスーッと出て来て、必要なことを自然にさせてくださる。色んな働きが神さまの方から、自然に循環して出てくる。常に新たな出会い。神さまの助けというのは、ホントは新たな出会い。

 元から見たら、みんな真(まこと)の神さまの一大変身のすがた。必要なだけの変身のすがた。
 自由自在に神さまがスッと入ったところが、神さまの変身のすがた。色んなすがたで神さまは降りている。自分を出さずに出さずに、謙虚に隠れる。真(まこと)の神さまがこういうすがたにもなって、素晴らしいというだけ。

 元からそう、真(まこと)の神さまただ一人、これが根本。真(まこと)の神さまだけ、全部真(まこと)の神さま、真(まこと)の神さまの愛の救いのすがた。これを分けてしまったら、真(まこと)の神さまの他に、何かあるように錯覚を起こす。だからありがとうございますだけ。

◇7

 神さまの与えてくれる必要なものとは、何?
 自分に必要なものと違う。他の周りを、全体を幸せにするために必要なものを与えてくる。全体に必要なものを与えようとしなかったら、神さまの後押し、応援、助けはない。待ってても神さまの方から何も循環してこない。世界を平和にするために何が必要か。その必要なものを与えてくる。他を幸せにするために何が必要か、他の幸せのために必要なものを与えてくる。神さまは勝手にみんなを動かしてこない。神さまのお手伝いってみんなそう。神さまが願っているように、みんなの幸せを願って、みんなのために何を与えようかと、一生懸命になること。

 自分一人だけが幸せになっても、神さまの世界に戻れない。神さまの世界は、自分一人が幸せになって、入れるようなところじゃないから。みんなが幸せにならないと。自分は一番最後でいいの、幸せになるのは。周りの人全部を幸せにしたら、自分もそこへ入れる。神さまの世界は、そういう世界、本当の支え合いの世界。みんなを幸せに、プラスを与えて支えようとしたら、みんなが自分を幸せに支えてくれる。だから自分のことなんか放っておいていいの、周りの人を幸せにしようとしたら、神さまの世界に戻れる。

 与えなかったら、自分も何も与えてもらえない。自分一人が一生かけてずっと祈り続けても、十億回祈れない。そんな祈りで本心に戻ることはない。自分が戻るためにも、少なくとも一万人のお祈りする人に、支えてもらって、無限の効果のあるお祈りに、変えてもらわなかったら、自分一人のお祈りでは本心に戻れない。

 だからみんなで協力し合って支え合って、本心に戻ろうとするの。自分にとっても一番大事なこと、一番必要なこと。
 大勢の人に、護摩焚きに参加してもらって、入れ子構造的相乗効果を起こして、無限倍にしてもらう。

 本当に必要なことは何か、命懸けて真剣に探さないと。甘いお祈りしてて戻れるのと違う。真剣に祈っても、自分一人のお祈りでは足らない。過去世からずーっと祈ってきても、何億年祈ってきてもまだ足りない。本心の自分に戻ると言うのは、そんな程度の浅いお祈りではない。だから本心の自分に戻してもらうチャンスは、何億年に一回、何億人に一人というのはそういう意味。それでも大勢の人が力を合わせて、効果を無限倍にしたら、みんな一緒に戻れる。だからみんなが持っている力全部出しきらないと。自分一人だけでもできることをしようとしたら、みんなも同じようにしてくれたら、大きい助けが循環してくるようになる。早く無限倍の効果のあるお祈りに変えないと。



ありがとうございます



















◇8

 ありがとうございます唱えたら、悟れると言ってもらって、この一生、祈り続けて何億回になっても、本当に悟れると思う?自分の幸せだけ願って、祈ってるようなお祈りだったら不可能。そんなお祈りは本物ではない。同じありがとうございます唱えても、真(まこと)のありがとうございますの唱え方ではない。威力、力全然ない。虚の世界抜け出すなんて不可能。
 本当の真(まこと)のありがとうございますになるというのは、本心の側に自分が立つこと。本心側に立つということは、自分のことは考えない。
 みんなの幸せだけを考えて、何を与えようかと一生懸命になること。だからみんなが自分を支えて、同じように助けてくれるから、入れ子構造的相乗効果が起こる。無限倍の助けになる。だから悟る。

 自分の祈り方一つ。自分の祈り方が、間違ってたら悟れない。自分の祈り方が、正しくなったら悟れる。無限倍になったら、一回の祈りで、一瞬で悟れる。本当に無限倍の入れ子構造の、相乗効果が起こったら、一回の祈りで悟る。そういうお祈りを目指す。だからみんなのために、何が必要か考えて、与え尽していこうとする。それを神さまが、みんなの代わりにしてくれようとしている。そのお手伝いをするの。

 お手伝いは自分のできることをしたらいいだけ。自分のできることを、一生懸命お手伝いしたら、みんなの働きをちゃんとまとめ上げてくれる。自分が支えようとするからみんなが支えてくれる。自分の生き方一つで、自分とそっくりさんが周りに現れる。自分と同じような人が一杯、周りに現れるだけ。


◇9

 本当に何が必要か? 本当の悟りを開くためには何が必要か? 過去世の無限の思いを消すのに、特に高利の無限の借金消すのに、大勢の縁者のマイナス全部消すのに、どれだけの力がいるか? 自分一人だけ悟っても上にあがれない。縁者の分全部、消してあげないと、足を引っ張られる。

 自分も含めて、縁者の全部救うためにどれだけの力が必要か。その必要な力を貰わないと。そのために何が必要か。お祈りも本当の正しい、力のあるお祈りが必要。そのお祈りも一人のお祈りを、無限倍に、効果あるお祈りに変えるだけの何かがいる。

 昔から出家する人でも、みんなを救うために、悟りを開こうとする。そういう人が悟るの。みんなを救うための力を与えてもらう。自分が悟りたい、悟りたいと、なんぼ修行しても、偽の悟りになるの。必要なものが、神さまの方から循環してこない。大きい力循環してこなかったら、小さい悟り。

 みんなを救いたいという、大きい願いをもって修行すると、大きい力が必要だから、大きい力が循環して来る。本当の本心の自分に戻る。これからの生き方は、みんな自分のことは後回しにするの。自分のことは一番最後でいいと言う生き方。みんなを先に悟らせる、幸せにするというのが正しい生き方。その生き方が、周りのみんながそういう風にしてくれたら、自分が一番早く、悟りの世界に押し上げてもらえる。神さまが率先して一番に、支えのすがたを取って、出て来て助けてくれる。


◇10

 スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話がある。ヤマタノオロチと言うのは、頭が8つ、尾も8つ。おろちと言うのは、何でも飲み込むの。それは求める心、欲の心、思い通りにしたい心。これを退治する方法。お酒を一杯浴びるように飲ませたの。お酒と言うけど、これお祈りなの。ありがとうございますのお祈り。あびる程、ありがとうございますをそこへ一杯、降り注がせると、求める心が鎮まる。

 それで腹を切り裂いたら、草薙の剣が出てくる。別名、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。天叢雲剣、雲が、むらくもがすっと出てくる。すっと消える。生み出したり、消したりする働き、自由自在になる。そういう働きの意味を、天叢雲剣と言う。生かすも殺すも自由自在という。

 その草薙の剣を取り出して、天照大御神さまに捧げる。その時に、スサノオノミコトは、天照大御神さまと一体化する。スサノオノミコトは同時に、ヤマタノオロチでもある。別ではない。自分の中の求める心、業想念を消し切る。それでその中に、草薙の剣の本心を見出す。本心の心は草薙の剣。これはマイナスの極をプラスに思い返せる心。地獄のどん底に置かれても、ああ、これは神さまの絶対の愛の大犠牲精神の極致の姿と見ることは、最高のプラスに思い返せる心。こういう働きが、草薙の剣。本心の生き方。

 草薙の剣を捧げるということは、全てを最高のプラス思考で、思い返すこと。全部最高のプラスと思い返したら、草薙の剣を天照大御神さまへ捧げた事になる。そしたら真(まこと)のプラスだけの、天照大御神さまと波が合う。どこにもマイナスがないと言う思い返し。全てを最高のプラスに思い返すと言うのは、マイナスを一切認めない、否定する生き方。だからこそ真(まこと)のプラスと波が合う、一体化する。そしたらスサノオノミコトが、天照大御神さまの手足の様になる。本当に一つのものになってしまう。

 そしたら何が起こるか。もともと天照大御神さまとツキヨミノミコトとスサノオノミコトは、3神が一体の神さま。それがばらばらになったから、間違いを起こした。スサノオノミコトが荒れ狂って、火山の噴火とかいろんな姿でバーッと爆発したら、太陽が隠されるように噴煙が上がった。それが天の岩戸隠れ。
 でも暴れなくなったら思いの心、全部鎮めてしまって、本心の心を引っ張り出して、全てを最高のプラス思考に受け直せて、全部プラスばっかりというふうになる。真(まこと)の天照大御神さまの心と一体化すると、虚の世界がなくなる。もともと虚の世界は、与えることを忘れた時、恩返しを忘れた時、愛の心を忘れた時に、必然的にこの求める心になってしまう。与える心がないということは求める心。求める心は波を打つ。それは強くなるほど大きい波を、津波のような大きいものを、波を起こしてくる。その求める心が、虚の世界を生み出している、作っている。

 強い光を、地獄へ届けたって、誰一人光なんか受けられない。みんな傷ついて苦しんで終わり。だから強い光を与えるわけにいかない。光を和らげて、地獄に落ちた人と同じように、業想念一杯の状態に波合わせて、和光同塵。そして救いに立たない限り、地獄の人一人、救えない。

 ただそこに飲み込まれたら、自分も地獄の亡者になってしまう。だからどんな苦しみにも耐える強さがいるし、どれだけ思いを一杯心に背負っても、心の苦しさにもじっと耐えて、消して消して、また背負って消して、また背負って消してってね。もうずっと相手が救われるまで同じことを繰り返さない限り、一人の人救うのも、不可能。
 しすぎたら限界が必ず来る、どれだけ万病背負う状態になって、お祈りで消しても、そればっかり続けたら、寿命がなくなる。

 だから一人一人が、お祈りして求める心鎮めてくれないと大変。ちょろっとお祈りするくらいでは、ヤマタノオロチにちょびちょびお酒飲まして元気にさせるだけなの。これが怖い。元気になったら、何でも飲み込みに回る。お祈りしたら、奇蹟が起こって、いいこと一杯起こる。みんな欲を捨てるかって、捨ててない。欲の心、大きくなる。もっと幸せが欲しいになる。満足してない。あれも欲しい、これも欲しい、やっぱり求める心、強くなる。お祈りが少ないときはそう。だから浴びるくらい飲ませて、酔っ払って気を失うまでいかないと、お祈りの効果を現わすということにならない。

 そのために、何が必要か。一人のお祈りでは不可能。ちょびちょびお祈りを与えてもだめだから、溢れるぐらいにね、降り注がす。護摩焚きで、みんなのお祈りを総結集して、無限倍に変えないと、それだけのお祈りを、与えることが出来ない。一人の人のヤマタノオロチを退治するのも同じ。一人の人のヤマタノオロチもやっぱり大きい。そこへみんなのお祈りを総結集して、無限倍に変えてもらったのを注いだら、その人はヤマタノオロチを退治できる。そしたら本心へ戻る草薙の剣を手に入れられる。最高のプラス思考に生きて、神さまの側に立てる。本当の本心に戻って与え尽す生き方になってくる。その人のお祈りは、一回のお祈りが無限のお祈りになる。大きい力でまた、次のヤマタノオロチを退治できる。

 ヤマタノオロチに、飲ますお酒はまだ偽物の方。酔っぱらわすだけの、量を沢山飲ましたらいいだけの話だけど、とにかくありがとうございます一杯加えたらいいだけ。
 でも本当のお祈りは、幸せにするお神酒。お酒じゃない、お神酒になるの。喜びが湧き上がるお神酒。嬉しき楽しき有難きお神酒(三気)。これがありがとうございますの、本物の方のお神酒。これは飲むほど本心が輝く。

 どんなマイナスも、最高のプラスに見えるとこまで行くの。これが草薙の剣を取り出した自分は出来る。本心の自分に戻ったら出来る。その草薙の剣も、使わなかったら威力がない。プラスに見る、この練習を繰り返すの。草薙の剣も使いこなしたら、天下の名刀も使いこなしたら、自由自在に使えるようになる。床の間に飾っておいたら、自分には使いこなす能力はない。だからすべてをプラスに見る。色んな問題全部プラスに見ていく、この勉強。全部プラスに見えたら、問題は消える。

                                                                                                                            ありがとうございます




◇11

 どうすればみんなが早く、神さまの世界に戻れるか。
 そのための色んな助け合いをしてゆく。浅い表面だけだったら、何もわからない。全体との交流。助けたら助けてもらえる。与え尽すほど、自分も与え尽すほど、大きい無限倍の助けを受けやすくなる。与え尽すほど、沢山の助けを受けやすくなって、大きく輝いてくる。根本は大きく無限に無限に輝くこと。

 無限に輝くのが本当の健康。肉体だけが元気でも、心が闇だったら、心の苦しみの方がはるかに大きい。それだったら、肉体を元気にして、心の闇を軽くする方が楽。病気も健康も、色んな姿をとり続けている。それをどういう風に見るか。

 上に上がろうとする人はプラスに受け入れていく。下に落ちる人は、どんどんマイナスに見ていって落ちていく。だからプラスに見るか、マイナスに見るか、プラスの言葉を使うか、マイナスの言葉を使うかで、上から下へ落ちる人もあるし、下から上へ上がる人もある。これもやっぱり言葉通りに自分の運命を定めている。

 借金返しは早く済ませた方がいい。早く済ませた方が軽く済む。まず万分の一に済ませてもらった上での借金返しだから、それをプラスに見て行ったら、もっともっと軽くなる。そうしたら大きい助けを受けて早く、本心の自分に戻してもらえる。でもそれに気付かなかったら、大きいプラスは受け取れない。守りに守られて、すべてから全方向から、色んな助けが来ているはずなのに、気付かなかったら、プラスが大きく遠ざかっていく。


◇12

 これからは本当の護摩焚きが、一番大事な行事になる。毎日のお祈り、一回のお祈りを無限倍に変えるための、行事になる。一回のお祈りが一回だったら、何億年祈っても、本心に戻るだけのお祈りにならない。本心の自分に戻るためには、無限のお祈りを捧げても、まだ不可能なぐらい。ただそれを可能にするのは、一回のお祈りを無限倍に変えてもらう、大きいお祈り。無限の無限のお祈りを、捧げるようになってきて、本心に戻る。だからそれを、活用しないと。一人祈っているお祈りじゃ絶対不可能。みんなが一つに、心を一つにして、支えあって、一回のお祈りを無限倍に変えるの。だからいつも全体の助けを、感じ取って祈らないと。

 護摩木に書くのも同じ。背後の何十万人が、一緒に祈りを込めて書いてくれてる、そういう風に受け直せば、一字ありがとうございます書いたことが、何十万倍になる。それが今度与え尽す側になったら、今度は真(まこと)の神さまも一緒に、祈りを込めてる。一回のお祈りが無限のお祈りになる。地球を救うために、本当にみんなを救おうと思ったら、そういうお祈りが大事なの。

 奇蹟というのは、考えても絶対起こりそうもないことが、神さまの助けで起こる出来事。その奇蹟も、大奇蹟、一大奇蹟ってある。ミニ奇蹟、ミニミニ奇蹟ってある。病気がぱっと治るなんて、ミニミニ奇蹟の方。思いの心から本心の心に戻るのが奇蹟。もっと全体を大きく変えるのが一大奇蹟。一大奇蹟起こすために、ありがとうございます護摩が始まってる。


◇13

 最初は真実の世界から、過去を掴むことで、虚の世界に転落していく。一大循環の姿は、無限のスピードで、本当は掴めないものなんだけど、掴めないけども、掴んだと思うの。掴んだと思った瞬間に、それが偽物の虚になるわけ。そして残像の世界、足跡の世界に入っていく。いったん入ってしまうと、今度は新たな受け直しが出来ないから、この残像に世界に入ったまま、ずーっと下へ落ちていくの。残像の世界でも過去を掴んでしまう。そうするともう一つ下へ降りる。どんどんどんどん下へ落ちて、思いを溜めただけ、下の方へ落ちて行ってるわけ。

 一回下まで落ちて、今度上に上がってくる。上がる時に、真(まこと)の神さまが助けてくれる。
 真(まこと)の神さまからの直接の光も、虚の世界の残像の光も、無限に無限に一杯、一人一人に降り注がれている。下から上へ上がる時は、全体から助けを受け続けて、上へ上へ引っ張り上げてもらう。

 あの世は、この世と比べたら、はるかに大きい広い世界。この世はあの世の縮図。万分の一以下の縮図。小さい世界。特別な世界。

 この世が何のためにあるかというのが、一番大事な問題。神さまがこの世を何故作ったか。ホントはあの世だけでよさそうなの。寿命決めてまで、この世を作る必要なんか、ホントはない筈なんだけど、何のために作っているか。

 あの世は、一番下から一番上まで、階層が厳然と分けられている。波が合うもの同士しか出会えない。ちょっと波が変わったら別の世界。例えばあの世でお金が大事と思っている人は、お金を勘定する人ばかり、自分のそっくりさんだけがいる。一生懸命数えているの、お金を。そしたら、もっとほかの生き方したいって思わない。それに本当に飽きてしまったら、また別の生き方を選ぶかもしれないけど、ちょっと違うことしか選べない。

 また女の人がね、ファッションショーみたいに着飾って、自分を見せようとする人がいたら、周りの人みんなそうなの。見せようとする人ばっかり。見たいという人はいない。どうか私の姿見てちょうだい、という人だけ、誰も見てくれない。

 波の合うものしか、自分の周りに現れない。だから自分のそっくりさんだけが現れる世界、あの世は。だから一段上がるだけでも大変。波一つ変えるのも大変なの。

 上の方から、神さまが救いに降りると言っても、神様が降りるのも大変なの。順番に波をずーっと変えてこないとダメなの。波が違ったら、絶対出会うこともないの。極楽の波と地獄の波合うかって、合わない全然。すれちがうことも何もない、全然違う世界。だから助けに降りるなんて不可能。上から下まで波合わせて、ホントに順番に合わせてきたときには、自分が地獄の亡者になってしまってる。せっかく助けに降りたけども、降りたところで、自分が亡者になってしまったら、上がれない。

ありがとうございます

◇14

 それでこの世を用意するの。この世は、光のパイプになっている。すべての世界と繋がる光のパイプみたいなもの。一番上も一番下も、一本の光のパイプで繋がってる。その光のパイプの中を、自由自在に動けて、どの世界にでも、通じて行けるようにしてるわけ。だからこの世は特別なの。それで寿命を決められて、この世で働けるようにしてもらってるの。この世はあの世の縮図だから、だいたい万分の一以下の軽さで出てる。その中で自分が何を選ぶかによって、自分の選んだ世界に波を合わせて、救いに立つわけ。

 この世へ生まれ変わってくるときは、低い世界を救うために出てきてるの、だいたいね。救いに立つ人でないと意味がないの。でも生まれてくると忘れる。みんなを救おうとして出てきたのに、忘れてしまう。
 最初の初心を忘れて、負けてしまう人がほとんどね。それは生まれてこの方、色んな姿を見ることによって、ホントにプラスだけを選んでいたらいいんだけど、マイナスも選んでしまう。そうするとマイナスに落ちていく。

 この世を特別に神さまが用意して、あの世の全てを救う計画は立てている。
 真実の世界から転落して、虚の世界をずーっと下へ降りて行っても、ある程度は、自由意志で降りていくんだから、短い時間の体験は必要だから、自由に任せてる。だから過去を掴んで、マイナスの言葉積み重ねて、どんどんどんどん下へ落ちて、地獄まで行ってもかまわない。上から見たら短い時間。ちょっと体験することによって、虚の世界はこうだ、真実の世界はこうだ、真実の世界の素晴らしさが浮かび上がる、より素晴らしく見える。そのために、体験するの。

 上から下へ落ちるのは、あっという間。何もしなかったら落ちていく。マイナスの言葉使ったら、もひとつ早く落ちられる。上へ上がる時が、大変。神さまは全体を使って、全てを総動員して、そして順番に助け上げようと一生懸命になるの。この世はあの世の縮図、入れ子構造的に、助けようとする。相似形の姿を使って、例えば日本が世界の縮図、宇宙の縮図ね。日本を使って、世界を変え、宇宙を変えるという仕組み。中心のひな形を用意して、そこをプラスに変えることによって全体を変えようとする。ひな形へ、真(まこと)の神さまの本当の光が降りたら、さっと強い光が広がる。この世もそういう意味で、用意されている。
 そのためにまず日本を用意して、ひな形を用意して、強い光を降ろして、まずこの世を変える。この世を変えたら今度はあの世を変える。だから何重にも計画が、用意される。


◇15

 六道にいるときには、自分では助けてもらってることにも気づかない。大きく助け続けてもらってるけども、なかなか気づけない。ある程度思い減らしてもらって、本心を拝み出してもらって、初めて、ここから気づき始める。だから声聞というのは、かなり思いを消してもらったあとね。本心を拝み出してもらって、ちょっと気付き始める。

 気付き始めるまでには、色んな働きがあるの、上からね。先ず真理の本でも読ませようとする。真理の話を聞かせようとする。全部、上からの計らいで、みんな導いてもらって、出会わしてもらう。自分が捜して得たのと違う。みんな用意されてて、出会うようにしてくれてる。

 あの世で高い神さまは全部、連係プレーで、この人にこう、と道をつけてる。あの世を直接は大変だから、この世をまず助けようとしてくる。一人の人を導くのでも、あの世の神さまが大勢一人の人に沢山ついて、変えていく。この世を早く変えるためだったら、大勢ついてくる。大きく守って早く変えてあげようとする。この世の人の場合は、持っているものを早く消してもらえる。沢山のマイナスを背負ってても、まず万分の一に変えてもらう、億分の一に変えてもらう。無限分の一に減らしてもらう。こういう風になって来る。

 六道の世界にいるときは気付かない。助けてもらってることに気付かなかったけど、声聞の段階は弟子入りだから、神さまの助けに順番に大きく気づいていく勉強。

 声聞の心境を越えたら、今度は縁覚の段階に入っていく。縁覚は、全て言葉通りに成るという法則に、気付くこと。骨の髄まで身にしみてわかるようになること。
 
プラスだけを見る。これでプラスがぱっと出たら、言葉通り。すべてのマイナスをプラスに思い返す。プラスに思い返してプラスになったら、それも言葉通り。今度は形に出る前の降り注ぐプラスを受け直す、言葉で。それでプラスが現実化したら本当に言葉通り。それが出来たら縁覚を卒業。

 ここから菩薩の段階。菩薩はお祈りだけ。与え尽すだけ。お祈りして、思いを全部消そうとする。この世に生まれてきた目的は、縁者の思いを全部消すためだから、本当の祈りの勉強。力のある祈りに、本物の祈りに変えてく勉強。

 ありがとうございますの祈りも、段階がある。それを、本物に変えてゆく勉強、これが菩薩の生き方。与える側に立ったお祈りの練習。それでどんどんどんどん、思いを消されていくと、色眼鏡がきれいになっていく。光が通りやすくなっていく。全体を見通せるようになっていく。ますます祈りも深くなって、大きい光を的確に必要なところへ与えて行けるようになっていく。自分の体に、本物の光が充満すると、自分の体が光のパイプになる。自分の縁のあるところへ、全部に光が届く。あの世が早く救われてゆく。そのために、この世の人をしっかりと守って守って、お祈りできるように光で変えてくる。

 声聞・縁覚・菩薩は、真(まこと)の神さまへの弟子入りの練習。まだ本番ではないよ、弟子入りの練習。虚の世界の弟子入りは、みんな練習。すべてを真(まこと)の神さまと見る練習している。

 元から神さまと自分とは一体、真(まこと)の神さまと真(まこと)の自分とは一体。虚の世界でも同じ。真(まこと)の神さまが助け続けてくれてるだけ。どんな姿も、真(まこと)の神さまが助け続けてくれている姿。だから最高の助けとして受け入れるのが大事なの。地獄に落ちても、閻魔大王が優しい神さまに変わったらいいの。自分の心がきれいになって、極楽の心になって、優しい女神さま、優しい仏様になったら、自分が極楽の心に変わったの。そしたら地獄が一瞬に極楽に変貌する。

 ありがとうございますで、どれだけ真(まこと)の神さまを呼びだせるか、拝み出せるか。どれだけ真剣に呼んでるか。呼んで呼んで、呼び続けるだけ。常に真(まこと)の神さまの愛の光が、全方向から色んな段階を通って、全てから降り注いでいる。入れ子構造的に降り注いでいる。虚の世界も同じよ。入れ子構造的に、重層構造的に、ところてん式に全方向から、全部降り注いでいる。ありとあらゆる助け、常に降り注いでいるの。それを認めていくだけ、受け入れるだけ。それをするのは、自分自身。

 自分がしなかったら、他に責任を転嫁したら、何も受け取れない。自分の自由意志を全然発揮していない。神さまの愛を選び取ろうとしてない。祈って神さまを呼ぼうともしてない。人のマイナスなんていったら大間違い。どんなマイナスもすべての責任、自分にあると言わないと。

 すべて自分のマイナスなのに、気付かないのが無知。無知というのは歯止めがきかない。マイナスどんどん積み重ねて、マイナスに落ちていく。気付いたら人のせいにしない、歯止めがきく、踏ん張れる、すぐに消せる。

 本当の勉強というのは、どんな問題も、自分の責任って消す勉強。これがお祈りの勉強、本当の勉強、悟りへの道。枝葉の細かいのをどうのこうのと違うの本当は。すべてのマイナスを、自分の責任と受ける勉強。それを神さまが大きい愛で、消し続けてくださってると、受ける勉強。神さまの愛を大きく受け入れて、今度は神さまの愛の中に入って神さまの愛と共に生きる与える生き方になったら、全部マイナスが消える。それを具体的に実践する勉強。だから一番本心の自分に戻りやすい、最短コースになる。

 虚の世界を体験する事で、実の世界がより素晴らしく浮かび上がる。病気することで、健康の有難さが、よく判るようなもの。虚の世界を体験することによって、真実の世界がより価値のあるものに感じられる。だから自分から選んで下りてる、下りたいと思うのも必要なの。

ありがとうございます


◇16

 真(まこと)の神様の世界は、みんなが本当に支え合っているから、一つになっている。救いに立つのでも同じ。神様が救いの網を入れてくれる、救いの網って何?具体的に。みんなで支え合って、助けに下りてる姿、段階ごとに、次元ごとに、みんなが手を携えて、手を繋ぎ合わせているのが救いの網。支え合っている姿が網なの。だから網が何重にもざーっと張られている。それでみんなが上から下へ墜ちにくく、クッションになっているわけ。上がりたい人は、速く上げてもらえるし、墜ちるのでも、墜ちにくくしてもらっている。単に物の網があるのと違う。みんなの救いに立つ姿が、神様の光のネット。大勢が救いに立って手を携えたら、大きい強力なネットが出来上がる。だれも落ちこぼれがないようにできる。

 虚の世界でも、段階ごとに、色んな救いに立つ姿がある。一番上から直接おりるのではない。色んな段階から、それぞれに自分の勉強を兼ねて、みんな助けに下りる。菩薩界、仏界からはどんどんどんどん助けに下りる。助けに下りて自分も助けてもらう。

 どれだけの働きをしたかで、プラスが加わっていく。僅かな思いを消す、身に受けて消すようなのと、大きい光を振りまいて、大きくあの世の全部に光を届けるのとは全然違う。自分の働きに応じて、それに比例して、上へ上げてもらう。本当のお祈りを真剣にさせてもらわないと、大きい働きにならない。


◇17

 真実の世界は因縁因果なんかない。過去、現在、未来がない。今の一瞬、全てが完璧。常に今が最高の状態で、流れて移り変わっているだけ。空間と言ったら、止めて見る世界。無限のスピードで動く世界を、空間なんて言わない。全部が無限のスピードで動いていたら、空間なんて捉え方できない。時間は過去を掴めるから、時間になるの。体験の連続として。これだけ体験したと言う、過去をつかめるから、時間になる。無限のスピードで動き回るのは、掴めないから時間はない。時間という感覚は生まれない。だからここが、真実の世界と虚の世界の大きい違い。

 自分のした事が自分のものになる。だから人は無関係、他は無関係。自分がしっかりと実行して、実践して楽しんだらいい。何を受け取るかは、一人一人に任せられた自由。神様と一対一の関係で、何でも受け取れる。どんな受け方でもできる。言葉通りに。それが真実のプラスだったら、真実を受け直せるし、虚の言葉だったら、虚の世界だし、マイナスの言葉だったら、マイナスの世界だし、これ全て言葉通りに受け取れる。だから真(まこと)の神様と一対一の関係だけ。

 あの人はマイナスの受け方している、私はプラスの受け方、そんなのない。もしマイナスに見えたら、自分がマイナスに受けているの。全部そう。自分がプラスに受けると言うのだったら、プラスだけの世界になる。真(まこと)のプラスだけと言ったら、真実の世界だけ。常に真(まこと)の神様から、自分は一対一で自分の言葉通りに受けている、これが根本。絶対の中心から入れ子構造の姿で、真(まこと)の神様の愛は真実の世界へ降り注いでいる。虚の世界も、全体から真(まこと)の神様の愛の残像の光が、一杯降り注いでいる。全体が真(まこと)の神様。全体から自分一人に向けている。

 自分が神様の側に、与える側に立った時どう見えると思う。今度は自分が、全部になって与えるの。愛を与えるという時に、全体に対して、自分が全ての姿をとって、色んな段階の姿をとって、そこへ光を与えるの。真実の世界では、常に自分と神さまとの一対一のやりとりだけ。与える時も、受ける時も、常に一対一。自他の区別は無い。常に全体が自分。ありがとうございますは、常に常に両方、同時に交互に、常に循環していく。それが真(まこと)の神様だけという意味。真(まこと)の神様だけという意味は深いの。捉え方がいろいろあるけど。


◇18

 この世は、救いに立つための世界。あの世を救うための世界。この世に生まれて来るのは、大勢の中から何百人の中の一人として選ばれてくる。救いに立つ人を選んでくるの。

 元からこの世は、あの世に光を送るための光のパイプ。みんなに波を合わすための、要素、材料がいるから。みんな背負ってるだけ。地獄に合わそう思ったら、地獄の材料がいる。みんな必要な材料持って、波合わすもの持ってね、この世を光一杯にして光を送る。本当の目的がわかってたら、みんな最初からお祈りして、すべての波を生かして、光を送るだけの働きになる。

 最初から目的定まってる、一つしかない。本心の自分が救いに立ってるだけ。与える側に立ったらよく気づく、思い出す。

 虚の世界全部、自分の虚の世界。自分がここに虚の世界があるというのは、自分が虚の世界にいてること。神さまとの一対一の関係に自分を置いたら、真(まこと)の神さまだけと言えば、虚の世界はない。ここに虚の世界あると認めてるのは自分だけ。だからその虚の世界を消すのは自分だけ。自分が神さまと一緒に、この虚の世界を消すために、まずこの世を光で一杯にして、次にあの世に光で一杯にして、全部消してしまう。神さまと自分だけ。神さまの他に何もないと言わないと。他に何か認めたら、精神分裂。根本の精神分裂。

 受ける時は、真(まこと)の神さま(全体)から受ける、無限のどの立場から受ける時も、一対一の関係で、常に真(まこと)の神さま(全体)から受ける。
 与える時は、真(まこと)の神さま(全体)から与える、無限のどの立場に与える時も、一対一の関係で、常に真(まこと)の神さま(全体)から与える。
 真(まこと)の自分とは、真(まこと)の神さま(全体)であり、すべての立場。
 常に真(まこと)の神さまと自分とは、一対一の関係に在る。
 自分に我が無ければ、真(まこと)の神さまだけ。自分はすべて、すべては自分。自分に我があれば、周りに我が出てくる。自分とそっくりな我が一杯になる。







                  ありがとうございます










◇19

 一つ掴んで一つの立場に入ってしまうからダメなだけ。ありがとうございますは自由自在な心。どの立場でも自由自在に立てるから、捉われない。虚の世界も地獄のどん底も、全部自分の中に大きく包容出来てたら、マイナスではない。地獄と掴んで、自分の立場がそこに行ってしまったら地獄になる。言葉に縛られたらそう、過去を掴んだらそう。常に自由自在になること。自由自在というのは、常に無限通りに受けられる。自由自在な心、神さまの立場は、無限通り。与える側も無限通り、受ける側も無限通り。神さまだったら、同時に全部持ってるの。本心の自分は神さまと一つになって、無限通りをいつも生きるの。だからありがとうございますで、自由自在になればいい。

 真(まこと)のありがとうございますは、一番新しい言葉だから自由自在なの。その中に全部持ってるの。過去の言葉は、縛りの言葉。同じ言葉でも、縛りの言葉と、自由自在の言葉と両方ある。常に新たな自由自在の言葉が必要。新たなありがとうございますは自由自在。新たに新たにというホントの祈りが必要。

 絶対の中心から新たに循環して生まれる、無限のスピードで動いている真実の世界は、止めて見る瞬間なんかない。止めた瞬間に虚の世界。止めて見ようとしたら虚の世界。

 永遠の中今の、今の一瞬に絞り込んでこなかったら、本心の側に立てない。今の中に全部あるという世界に入らないと。その今も、無限のスピードで動いてる。流動した今。止めた今と違う。神さまの中へ飛び込むだけ。先ず飛び込まないと、融け入らないと。

 どれだけ真剣にありがとうございますを唱えてるか。一瞬も隙間なく、無限分の一秒の隙間なく、唱えないと。隙間なくところてん式に。お祈りが連続してないと。入れ子構造の、真実の世界の一大循環の姿の祈りは、連続して途切れてない。無限分の一秒も途切れてない。連続してずーっと湧き上がるの。

 だから同じ祈りでも、みんなに支えられている祈り。それが無限倍になってる祈り。無限の無限の祈り。だから途切れるわけがない。大きいホントのお祈りってそうよ。そういうお祈りに入っていかないと。過去を掴んだら、つまらない祈りになる。無心の祈りがいる、我の無い祈りが。無心に祈り続けて、祈りになりきるの。

         
         
         
              ありがとうございます





◇20

 隙が出来たら、思いが入り込んでくる。隙間に業が入ってくる、業が、悪魔が忍び込む。悪魔というのは、隙間が空くという、隙間があるという。隙間に入り込むのが悪魔。悪も魔もそうだけど、隙間という意味よ。悪魔というのは、隙間という意味、隙間を作ったら、悪魔になるの。祈り続けたら悪魔はいない。ダジャレだけど真実よ。一回一回だったら隙間が出来る。

 入れ子構造、重層構造、ところてん式、全方向からと言えば、隙間がない。それが本当の隙間のない祈り。だから真(まこと)の神さまと一緒に祈る祈り、みんなと一緒に祈る祈りが本当の祈り。小さくなったらダメ。小さくなったら隙間だらけ。だから真(まこと)の神さまが自分、みんなが自分、全体が自分と言わないと。小さい自分はダメなの。だからいつも神さまと一対一の関係に置かないと、神さまが自分、全体が自分、みんなが自分と言わないと。隙間が出来るから悪魔が入り込む。サタンも同じ。去った過去ばかりつかんだら、サタンになる。みんな過去を掴んだらサタン。

 みんなが支え合った祈り、心をひとつにした祈りを、なぜ目指してるか。ホントの祈りがそうだから。
 ホントの祈りに戻るためにしている。みんなの祈りを総結集してとか、言ってるけど、ホントは本当の祈りに戻すため。それを使って何か利用してと違う。反対。ホントのお祈りに戻ったら虚がない。隙間がない。目的も沢山ある。一つの目的というけど、自由自在な神さまにとったら目的は沢山ある。一つじゃない。神さまの動きが、全体の動きが、方句が全部違う。ありとあらゆる方向、向いている。無限循環の目的が沢山ある、神さまの目的、無限にある。


◇21

 言葉が一番大事。例えば一枚の布があるとする。頭にかぶったら頭巾。食卓を拭いたら布巾。床を拭いたら雑巾になる。名前を付けて言葉通りになる。人も同じ。言葉通りの自分になる。病気と言えば病気の自分。健康と言えば健康な自分。

 真(まこと)の神さまは、真(まこと)の自分はプラスだけだから、一切のマイナスはない。過去を掴まなかったら、残像の虚の世界には絶対に落ち込まない。新たに新たに、プラスを受け続けられるから、マイナスは一切ない。プラスだけ。連続してずーっと永遠に、プラスだけになる。ありがとうございますで受け続けるだけで、プラスだけになる。

 ところが過去を掴む。残像の世界に落ちこむ。そこは新たなプラスが受けられないから、プラスが少なくなっていく。どんどんプラスが少なくなったら、マイナスに掴んでしまう。マイナスの言葉を使う。さらにマイナスが増える。マイナスを一杯溜め込んだら、大きいマイナスになってしまう。

 言葉が最初にあって、形に現れたら、結果として表れて消えているだけ。でも過去を掴む人は、結果を見て、また同じ言葉を使う。一回では済まない。たくさんの言葉を使うと、マイナスの言葉を一杯積み重ねる。それをまた形に表す。ますますマイナスを増やす。悪循環になる。

 でも過去を掴む自分は思いの自分。本当の本心の自分ではない。本心の自分は神さまと一体の自由自在の心。どんな言葉でも自由自在に駆使できる自分。言葉じゃない、自由自在に使いこなす自分。思いの自分はマイナスの言葉の集積。それと自由自在な意識の自分とは違う。だから思いは自分ではない。思いの自分というのはない。思いは思い。本心の自分が本当の自分。

 本心の自分は、言葉通りになっているのを眺めたらいいだけ。マイナスの言葉を使ったら、マイナスが出る。言葉通りに形に現れる。これが判ったら、今度はプラスの言葉を使ったら、プラスが現れる。虚の世界は言葉通りに表現できる。マイナスが嫌だったら、プラスの言葉で、プラスを表現して、虚の世界を完成させたらいいの。でも虚の世界が必要なかったら、消してしまえばいい。一大循環の世界に入って、過去を掴まなくなったらいいの。

 過去に自分の使った言葉が、必ず形に出るとしたら、この宇宙、全大宇宙のどこかにマイナスがあったら、それは過去の自分のマイナスの言葉。これはもう真(まこと)の神さまの前に立ったら、よく判るはずなの。真(まこと)の神さまはプラスだけの循環。それを自分がちょっとでもマイナスに見た時は、自分の色メガネの中のマイナス。他の人の色メガネではない。自分自身の色眼鏡のマイナスになる。だからその色眼鏡についているマイナスは、自分の過去に選んで使ったマイナスの一言。まだ形に現れずに消しきれてなかったのが形に表れて見えているだけ。だから縁者と言うけれど、虚の世界の縁者はみんな自分。小さく掴んだら小さくなる。大きく掴んだら大きくなる。全部本当は自分。全て自分のマイナス。


◇22

 総責任者という立場に立ったら、全ての責任を自分に持って来る。一切のマイナス、どんなマイナスも自分の責任。それを先ず受け入れないと、消せない。

 真(まこと)のプラスの言葉は、虚の世界の言葉を全部消せる。思いを全部消してゆける。だから、真(まこと)のプラスの言葉を選び続けられたら、虚の世界を大きく消してゆける。

 全てのマイナスに対して、自分が真(まこと)の神さまを、そこへ拝み出せばいい、呼び出せばいい。『ありがとうございます、ありがとうございます』で、もう徹底して『ありがとうございます』で呼び出せばいい。呼び出したら、全部消える。片っ端から、片っ端から消し切ればいい。

 消し切るというのは、そこへプラスを与えるということ。全てにプラスを与える責任がある。こちらが本当の責任。先ず、虚の世界を消し切る為にも、全てにプラスを与え続けないと。

 それで、虚の世界が消えた後、本心の自分に戻る。今度は、本当の責任を果たす時になる。一大循環の相象と一つに融け合って、全てに対して、愛のプレゼントを与え続ける。本当に必要なものを、的確に与え続ける愛の生き方になる。それが本当の自分の生き方。神さまと一つになって生きる、神さまと共に生きる、みんなと支え合って生きる。


◇23

 本当の縁者は、神さまの中にいる、本心の自分。この本心の自分、無限に無限に一杯ある。その全てが本当の意味の縁者。本心の自分同士が、お互いに支え合って助け合って、幸せを大きくしてもらっている。だから、全体から、全てから、自分に愛が注がれている。だからこそ、自分は全体へ、全てへ、愛を与え尽くそうとする。

 一回虚の世界へ転落して、思いを、マイナスの言葉を無限に溜めて、地獄まで落ちる。墜ちてから、自分一人で上がってきた人は一人も無い。助け続けてもらって上がってくる。それも、守護霊さま・守護神さまだけが助けたのかって、そうではない。全体が、全てが助け続けてくれたお蔭。

 守護霊さま・守護神さまの役割ってどういうことかというと、恩返しに生きている役割。地獄から救い上げてもらって、幸せにしてもらった。同じように自分も、みんなを、地獄に落ちた人を、順番に救い上げて、幸せな状態にしてゆきたい。

 だから、自分の護る人を徹底して護り続ける。この護り方は、その人のマイナスを、全部背負い続けて消すこと。身代わりに背負って消すこと。自分でマイナスを消しなさいと言っても消せない人を、自分が全部引っ被って、身代わりになって消し続けるのが、守護霊さま。守護神さまの方は、もう一つ力がある。守護霊さまの分も引き受けている。守護霊さまでは背負いきれないものを、全部引き受けて消している。上へ行くほど、力が増えている。

 虚の世界は。徹底した恩返し。自分の助け続けてもらった通りに、みんなを助け続ける。

 だから、狭い範囲の部分を掴んで、どうのこうの言っても、これは答えにも何にもならない。そうではない。もう全体から、常に、真(まこと)の神さまからの愛が、虚の世界にも降り注いで、虚の世界の全てを通して、助け続けてくれている。全てを通して。この部分は通さないという部分は全然無い。全部を通して降り注ぐ。根本は、真(まこと)の神さまの愛。愛が、新たに新たに新たに新たにって、降り注いでいる。一方通行みたいに与え続けている。人間同士だから、人間からだけかって違う。全てから。石ころからも。全てから。全体から降り注ぐ。だから、助け上げてもらえる。

 真(まこと)の神さまの助けは、本当に無限に無限に大きい。直接は光が強すぎる。いくら助けてあげようと出て来ても、出て来られたら、もうスピードが無限のスピードで強烈な光だったら、全部跳ね飛ばされる。無限の彼方へ。だから、虚の世界には直接の力は揮えないから、全体を通さないとダメ。必要なだけを柔らかい光に変えて与えて来ないと、反対に傷付く。だから、自分の周りの全部、神さまが使っている。

 身代わりにマイナスも背負って、背負わせて、その人の中で大きく消してもいるし、また背負える分は、本人に背負わせて強くしないとダメだし、自分の責任で、やっぱりお祈りしてでも、消そうとしないとダメだし。もう色んな形で、勉強も兼ねて、訓練も兼ねて、的確な護りと導きが常に降り注ぐ。それで、恩返しに生きる自分になり、本心の自分の愛の心を、本当に生きる自分に戻っていく。



ありがとうございます



◇24

 本心の心に戻って、愛の心を生きるようになったら、本当の意味で分かる。神さまの愛は、全てに降り注いでいるということが分かる。全てを通して、神さまの愛を受けていて、守ってもらっていたのだと気づく。本心の心の自分になって初めて、神さまの愛を少しづつ。気づかせてもらっていく。

 万分の一に済ませてもらっているという、この感謝も、そういう意味の初歩の受け方。億分の一に軽くしてもらったというのも、まだ、初歩の受け方。まだ、全体へ心を向けていない。全てには心が向いていない。部分的に大まかに、ちょっと助けてもらったという程度の受け方。

 それを全体から細かく、全てから愛の光が降り注いでいるという風に受け取らないとダメ。それでも、受けるのと与えるのと、立場が変わったら、無限倍変わる。受けている時は無限分の一。気づきが無限分の一。与える側に立った時に初めて、受ける時の無限倍の気づきが与えられる。

 だから、早く与える側に戻ったら、虚の世界の自分は、どれだけ幸せか分からない。虚の世界も大事な道具。特に、この世で肉体を持って、神さまの御用に生きようという時は、あの世の全てを・過去の自分の全てを浄め尽くす・消し切る、その為の1つの大事な道具。

 自由自在な心の自分は、「ありがとうございます」を一回唱えても、「無限のありがとうございます」、「無限の無限のありがとうございます」を中に含まれた「ありがとうございます」。常に全体に心が向いているから。全てと共にあるから。「ありがとうございます」を唱えたら、他の全ての立場、無限の無限の立場を全部、しっかりと自分が受け入れている。みんなに支えられて、必ず、無限倍無限倍になる。

 同じ一つの言葉を使っても。幸せという言葉を使っても、自分の幸せは一つだけど、他の無限の人の幸せも加わる。だから、幸せでも無限倍になる。これも、まだ、浅い段階。まだ入れ子構造ではない。入れ子構造的に捉えたら、もっと無限の無限の大きいものに、必ずなっていく。

 自分の駆使する言葉、一言一言、これ大事。それをいつも無限倍、無限の無限倍に変えてもらって、大きく味わえる自分にしてもらう。みんな言葉通りになる。本心の自分も、言葉通りに大きくなる。常に、神さまの世界は支え合いだから、自分一人ではない。いつも無限倍無限倍に支えてもらうから、どんな言葉の働きも、必ず無限倍に大きくなる。

 それに気づくために、いろいろ細かいことを全部勉強している。無視するのではない。虚の世界の全ても、どんな小さいものでも見落としたらダメ。そこから神さまの愛の光がきているから。過去の自分を助け上げる為に、全てを通して、愛が注がれているから。それは、真実の世界へ戻ってからも、全てに心を配る練習・訓練になっている。真実の世界は大きすぎるけど、その全てへ愛を届けないとダメ。その勉強。だから、虚の世界の全てに心を配るぐらいは朝飯前と言わないと。無視して逃げるのではない。全部に心を行き届かせて、「ありがとうございます」を届ける練習。

 だから、自分の見ている虚の世界に、万病が無限に無限に一杯あってもいい。片っ端から、「ありがとうございます」を捧げ尽くして消してゆく。自分一人だけでは足りないから、みんなで支え合って、光を大きくして消してゆく。虚の世界から真実の世界へ戻った時の為に、本当の支え合いで、プラスを与え続けていく。


◇25

 あの世はみんな、自分とそっくりさんだけを見るの。本当に自分とそっくりさんしか見えない。自分の与えた物がそのまま返ってくる。この世も本当はそれと同じ。あの世の縮図で、全体をこの世に現して貰っているけど、自分を大きく見て、この世の全部、全部が自分と思えば、自分とそっくりな世界が現われてくる。そしたら自分の与えた通りに与え返される。ありがとうございますを全てに与えたら、全体から必ずありがとうございますが返ってくる。

 全てが神様の愛のすがた。ありがとうございます、は愛の言葉。
 ありがとうございます、と言うことは愛を与えていること。必ず愛を与えた所から全部、愛が返ってくる。

 全方向へ、全てへ愛を与える。ありがとうございますを全部に放射しないと。みんなと一緒に、神様と一緒に与える。すると必ず全方向へ届く。そしたら全方向から必ず返ってくる。循環する。交流が起こる。循環する。そうなったら、すべて神様の愛と判る。
 みんなと支えあって一つになって、ありがとうございますを与え尽す。そしたらまわりが全部愛の姿に変わる。

 神様の側に立ったら、与える側に立ったら、真(まこと)の神様の支え助けが、無限に無限に大きく出てくる。一大循環の相象が出てくる。本当の愛の自分になってしまう。恩返しはまだ小さい。助けて貰ったから、という恩返しはまだ小さい。まだ虚の世界の愛の働き。
 本心の自分、本当の自分の生き方は愛そのもの。
 神様の絶対の愛のすがただけ。絶対の愛しかない。判ってくるはず。

 ありがとうございますで確認。ありがとうございますを唱えないと、本当の意味の確認ができない。ありがとうございますと唱え続けて確認し続けて、神様との愛の一体感を深くしていく。
 何かを求めてとは違う。ありがとうございますと唱えるのは、既に与えられているものへの確認。しっかりと、認めていくだけ。確認。しっかり認めること。愛されているって。

 何があってもありがたい。八寒地獄、八熱地獄、ありがたい。神様の愛の湯船に浸かっているだけ。本当はそう。神様の愛が判ったら。愛に包み込まれているだけ。

 これだけマイナスの言葉を一杯神様に投げつけて、無礼千万な行いを、無礼千万違うね、無礼億兆。それなのにそれなのに、こんなに愛されて、愛されて。マイナスになったのは自分の責任だけど。それなのに神様は愛して下さって。マイナスを全部消してくださるなんて、凄すぎる。

 普通だったら1回殴られたら、仕返しに殴るのに。何か一言マイナスの言葉浴びせられたら言い返すのに。神様は違う。無限の回数、ものすごいマイナスの言葉を投げつけられて、無限の回数よ。無限に一杯、投げつけられても、黙っている。愛の光でそれを消そうとしてくださる。信じられないぐらい。

 そういうのを考えたら、人に何言われてもいいの。もっと言って、もっと言って(笑)人に何言われようが。ありがとうございますで受けきって、神様のお手伝いになっていくの。マイナスの言葉を、ありがとうございますで消していくだけだから。何言われても何されても、ありがとうございますで消しきればいいだけなの。

◇26

 マイナスを消すのに忙しい。忙しいのは良い事。お祈りがしっかりできる。みんなと一緒にお祈りしてるというのを忘れる。それが一番、損するから。大きいマイナスが出てきたら、自分一人で足りないと思うから。みんなと一緒にってなれるから。みんなに、支えてもらっているというのが一番大事なこと。

 自分が変われば、みんな変わる。自分が変わるから、自分の世界が変わっていく。この人を変えようと思ったら間違う。絶対そうしたらだめなの。この人を変えてあげよう、という気持ちは自分と見てない。全部、自分の世界とまず認めて、神様を呼ぶだけ、呼び出すだけ。ありがとうございますって。

 いつも神様と1対1の関係で、ありがとうございますと唱えるだけが正しい。元からそう、神様の愛を感じたいから、神様と出会いたいから祈っている。神様と出会えたらいいだけ。だから常に真(まこと)の神様だけ、1対1がいい。必ずどこからでも飛び出してくる。必要な姿で、出てきてくれる。

 どれだけ自分を大きくするか。みんな自分の責任と言えばいいんだけど。あの人が病気の姿をとっているのは、自分の責任と言わないと。自分にこういうマイナスの思いが、まだ残っている、だからこれを消すために、お祈りをしっかりしましょう、というんだったら正しい。そこまでいかないと、間違う。責め裁いたら、何倍にも増える。拝むだけがいい、みんな自分の責任。

 病気を相手に治そうとしたらダメ。掴んだらダメ。言葉が先だったら、現実がどうあろうと、もう消えたというか、軽く消してもらったというか、突き放して、新たにプラス加えないとダメ。真(まこと)の神さまだけ、真(まこと)のプラスだけ。すべて完璧。新たなプラスの言葉が必要になる。

 本当に過去を掴まない練習。現実を掴まない練習。現実を掴まないためには、この世に現れる前の、降り注ぐプラスを受け取る練習。だから感謝の先取りがいるの。現実に現れたものへの感謝じゃ足りない。現れる前の姿へ、感謝して受ける。そしたらプラスだけになる。

 それで神さまの世界を言葉にして、ありがとうございますと受け直す練習、これを先にしないと。新たに新たに、何を受け直すか。過去を言葉にしたら、やっぱりまだ過去を掴んでる自分になる、思いの心の奴隷に陥っていく。
◇27

 真(まこと)の神さまが一大循環の姿で、という風に言葉にするのは、神さまというだけだったら、みんな掴んでしまうの。何か形を掴んで、これが神さまって掴むと、掴む練習したことになる。過去を掴む練習をしてることになったらマイナス。一大循環の姿というのは、無限のスピードで循環してるという姿だから、掴めない。掴まないために、一大循環の姿がある。真(まこと)の神さまは、一大循環の姿という風に見て行かないとダメ。新たに新たに。プラスだけ。そしたら過去を掴まない練習が出来て、過去を消せるの。

 本心の自分は新たな自分。新たな自分は過去を掴まない自分。常に新たな自分が、新しい一大循環の姿を眺めるだけ。毎回新しい自分が大きい自分になって出てくる。過去の同じ自分じゃないの。常に新たな自分。新たなな自分、新たな自分が、一大循環の姿を眺めるだけ。


◇28

 恩返しというのは、神さまの愛を感じ取って、この神さまの愛の凄さに、無限の無限の凄さに気付いたら、自分の全てを神さまに捧げ尽くしたくなるの。神さまの愛を感じたら、もうそのまま自分の全てを神さまの中へ、捧げ尽くして投げ入れたいわけ。あと何も願わない、求めない。恩返しというのは、一切求める心がないの。微塵もないの。

 守護霊さんにしても、地獄から救い上げてもらって、心境を高めてもらって、救いに立つ立場に置いてもらってる。だから自分が救われてきた過程を振り返ったら、どれだけすごい働きで助け続けてもらったか、いやというほどわかる。そしたらどんな程度の低い人の守りにつくにしても、自分が助けてもらったことから比べたら、一人の人を守るぐらいは、何でもないの。その人のマイナスを全部背負って、自分が一身に背負って消し続けても、万分の一の恩返ししかできない。それは一番よくわかるの。だから自分の全て捧げ尽くして、一人の人を護ろうとするの。それも恩返しの一つの働き。

 本当の自分、本心の自分は、自由自在心。自由自在心というのは、どこへでも自由に立場を移せる。どんな立場にも立てる。その自分が本当に、神さまの愛を感じ取れたら、神さまと同じ立場に立とうとする。

 与える側というのは、受ける側の全てを把握して何を必要としてるか。的確に見抜いて与えてくる。

 常に全ての立場に立って、与え続けてくれてる。それは真実の世界だけではない。虚の世界の一番上から一番下まで、すべてに渡って、必要な物を与え尽してくる。直接の愛でなかっても、何かを通しての愛でも、必要な愛を与えてくる。波を合わして、そこに必要な光を注いでくる。愛の光を一杯注いでくる。

 それも一つだけからだったら足りないから、全てを通して一人の人にでも注ぎ込む。だから一人の人に対して、この神さまの愛がどういう風に注がれるか。もう全てを通して注ぐよ。真実の世界の全てから、虚の世界の全てから、全てから、一人の人に神さまの愛が注がれてくる。これ受け取って気付いているかどうかは別にして、間違いなく的確に与え続けてるの。

 マイナスを背負うのも与えているのと同じ。身代わりに背負うことも、愛を与えてる。何か必要な物を与えるのもそうだけど。根本はこの神さまの愛が、背後にバックにあって、それをしてくれてる。その底知れん大きい深い神さまの愛にちょっと気付いただけで、もう涙が滝のように流れるはず。

 そしたら、真(まこと)の神さまだけってなるの、真(まこと)の神さまの愛のすがただけ。神さまの愛に気付いたら、恩返し。求める心なんて起こらない。微塵もそういう求める心、出ない。それが本当の恩返し。



ありがとうございます


◇29

 本当の自分の自由自在心。忘れると本当は良くない。一つの立場を掴むということは、その立場をしっかりと勉強してるという風にも言える。掴み続ける。これも、もう一つしっかり勉強し続けているとも言える。

 しっかりと掴むことで、勉強してる、ある意味ではね。でもそればっかりしてたら、いつまでもそればっかしだったら困る。一つや二つはしてもいい。でも早く立場を自由自在に戻さないとね。

 それで自分が一人で、何でも体験しようというのは間違い。一人で体験できることは、限られてしまう。自由自在心というのは、みんなと共に、みんなの体験を自分の物にしないとダメだから、それで本心の自分は、全てに自分を与え尽して、相手と一体化する。相手と一体化したら、相手の全部わかる。相手の体験、全部自分の体験になるの。

 相手のものを受けてもね、相手と一体化するんじゃない。相手の一部を受けただけ。自分を与え尽したら、相手に成りきれる。だから光の自分が相手に与え尽して、相手と一つに同化して、一体化して、相手そのものに成りきるの。それで全ての立場の人を、自分の立場として取り込めるの。そしたら全ての立場に、自由自在に立ってる。すべての体験が自分の物になる。味わい方が、大きくなる。
 本心の自分の生き方が、本当は元からそうなの。


◇30

 今までは、ありがとうございますを、世間で使う感謝やお礼という言葉と、区別せずに使っている。真(まこと)のありがとうございますは、言霊のありがとうございますは、単なる感謝やお礼の言葉とは違うということをはっきりと知って唱えないと、効果が少ない。

 恩返しというのは、微塵も求めてないから、与え尽くすだけだから、神さまのバックアップで一杯なの。神さまが与えようとすることの、お手伝いになっているから、無限倍の助けが、いつでも後押ししてくれる。祈って何かを受けるのではない。無限倍の助けが光が、自分の中を循環する。受ける時は1つでも、循環する後押しは、無限倍になる。全然違う。

 恩返しの気持ちでしているときは、不思議な力が湧き出るの。神さまの後押しで、神さまの力が湧き上がる。できないことができるようになる。必要な能力、必ず湧き出るようにしてくれる。何か発明・発見するのでも同じ。神さまの知恵がすっと出たら、不可能が可能になる。色んな発明・発見できる。色んな能力いっぱい湧き出るように出てくる。どんな問題でも、ありがとうございますを唱え続けたら消えてしまう。

 本当のありがとうございますの力を、みんな、これから体験させてもらえる。もっと問題持ってきてというようになる。ありがとうございますを捧げる勉強。そして、真(まこと)の神さまと出会うようになる。出会うというのは、目の前に見るというのでは足りない。神さまの中に溶け込まないと神さまの自覚も湧き上がらない。


◇31

 この世に生まれてきた目的は、一番大事な事は、お祈りする為に生まれてきている。

 心に溜めたマイナスの思いを早く消す為だったら、お祈りが一番。しっかりお祈りしたら、守護霊さま・守護神さまも一生懸命応援してくれる。一緒になって大きい光を添えてくれる。心に溜めたマイナスの思いが、早く消える。これが一番最初の目的。
 本人の思いを消すだけが目的ではない。その思いを・波を使って、あの世の縁者の思いを全部消す為。波が合わないと、光が送れないから、色んなマイナスの思いもあってもいいの。その波を使わないと、地獄なんかの低い波は消せない。無駄なことを神さまはしてない、何も。わざわざ残してある。波を合わす為に。

 だから、思いが溜まっていて病気をしているから、「あ、自分の心境が悪くて最低」なんて思わなくていいの(笑)。必要な波を残してある。まだあの世の縁者が救われてなかったら、この波をちょっと残しておかないと、波が合わなかったら光が送れない。だから、地獄に波の合う思いもちょっと残しておかないと。必要なだけを残して、お祈りさせて、光を送って、みんなを・縁者を救おうとしている。全部消し切らない。

 だから、お任せしたらいいだけ。『ありごとうございます』って、ひたすら『ありがとうございます』って。それで一番良いようになるから。心配しなくていい(笑)。

 もうどんな問題でも、『ありがとうございます』をそこへ加えたら解決する。絶対に大丈夫。相手を責めずにね、責めずに。みんな神さまよ。マイナスを全部消してくれる神さま。拝んで拝んで、『ありがとうございます』を唱えてたら、マイナスを消して、それで終わりになる。「みんな助けてくれている!」と感謝していたらいい。

 この世の七難八苦って、あの世の万分の一。自分が、一生、この世の七難八苦を受け続けても、本当は、幸せな人生。あの世の縁者の、万倍大きい七難八苦を、全部自分が引き受けて消し続ける。自分一人、この一生、七難八苦でちょっと苦しむだけで、あの世の縁者が、大勢が、大きい七難八苦を全部消してもらう。

 本当はあの世へ行って救うといっても大変。あの世の、例えば、地獄に落ちた人のマイナスを、一人の分消そうと思ったら、自分も同じように、万倍の苦しみを背負うことになる。背負っても、消せるかどうか分からない。あの世では大変。

 でも、この世に自分がいるからこそ、万分の一の軽さに済ませてもらって、お祈りさせてもらって、大勢の縁者の分を同時に消せるの。そうしたら、七難八苦が連続していてもいいの。一生ずーっと続いても。

 この世の七難八苦を、みんな受けているように思っても、何も受けてない。七難八苦が連続している人なんて一人も無い。
 七難八苦って沢山。病苦ってその中の一つ。八苦の中の一つの病苦。

 でも、みんな病気をずーっとし続けてる?一つや二つじゃないよ、十か二十、病気し続けてる?(笑)してないよ。一つすらしていないのに、七難八苦を受けているなんて言えない。

 本当は、七難八苦を背負っても幸せなの。七難八苦を背負ってなかったら、万分の一以下ではない、億分の一以下。億分の一以下で助け続けてもらっている。それで何も無かったら、無限分の一。『ありごとうございます』と唱えるだけで、無限分の一に済ましてもらって消し続けてもらう。

 『ありがとうございます』と言うだけで、何もわからなくてもいい。『ありがとうございます』を唱えているだけで、無限分の一に済まして消してもらって、大難が無難に済んで、のほほんとしていても(笑)、声聞の心境を超えてしまう、すぐに。

 それで、プラスを数え始めて、全てをプラスに翻訳して、思い返して、真(まこと)の神さまのプラスを受け直そうとしたら、もう縁覚を超える、すぐに。後、恩返しでお祈りして、与える生き方をとったら、菩薩を生きる。

 それで、神さまの無限倍のバックアップで、みんなを幸せにするお手伝いをする。そうしたら、本心の自分にすぐ戻る。幸せな心が湧き上がるようになってくる。お祈りが湧き上がる。

 最初の段階で、神さまに心を向けて、お祈りして、神さまのお弟子になりたいという気持ちが起こった時は、「七難八苦を与え給え」と言うの。そのぐらいの気持ちが必要。「この一生、七難八苦を与え給え」って。「喜んで受けます」と言わないと。

 その覚悟を決めたら、この世の色んな問題、全然引っかからない。「こんなに軽く済ましてもらって、これでいいんですか!」って文句を言わないと(笑)。問題があるんじゃなくて、「こんなに少なくていいんですか!」って、神さまに文句を言わないと。「もっと与えてちょうだい」って(笑)「問題が少ないです」って。

 そうしたら、プラスばっかり。どれだけ護りに護られているか。気付かない所で一杯護られている。大勢に護られている。全体から護られている。『ありがとうございます』を唱えていたら、その気付きがどんどん大きくなる。


◇32

 真祈りというのは、真(まこと)の神さまの祈りそのもの。真(まこと)のありがとうございます、言霊のありがとうございますになるの。言霊は生きてる言葉。真(まこと)の神さまと繋がって生きている言葉。だから不思議な神秘の力がある。真(まこと)のありがとうございますには、深い意味がいっぱいあるの。でも虚の世界の単なる言葉としてのありがとうございますは、感謝、お礼。小さい限定的な意味しかない。思いの心でするお祈りは、ありがとうございますは、感謝の言葉の祈りと言っているだけ。これは真祈りじゃない。

 思いの心に波が合うのは、虚の世界の言葉の感謝・お礼のありがとうございます。本心の自分に波が合うのが、真(まこと)のありがとうございます、言霊のありがとうございます。

 思いの心から本心の心の側に立った時に、初めて、真(まこと)のありがとうございますを使えるようになる。

 虚の世界での最高の言葉は、ありがとうございます。これは真(まこと)のありがとうございますから来る言葉だから、ありがとうございますに威力があるの。

 言霊のありがとうございますの、真祈りには段階がある。大きく分けて、定義のありがとうございます、真義のありがとうございます、本義のありがとうございます、奥義のありがとうございます、秘奥義のありがとうございます、どの段階に立って祈るかという、祈り方。

 与えるのと受けるのと対立させたら、真(まこと)の神さまの世界じゃないの。どちらか一方なの。与えるときは与えっぱなし、与えるだけなの。絶対の中心から与えて与え尽して、末端まで全部与え尽すだけ、その循環だけ。受けるとなったら、受けるだけなの、必要なだけを受けて、受け続けて受け続けて、というすがたなの。必要なだけを受けるの。絶対の中心から。必要なだけを受けて、残り全部Uターン。全部必要なだけを受け取る姿が、真(まこと)の神さまの受け方。

 与える生き方も受ける生き方も、どちらも自由自在な本心の自分は出来るの。同時にできる。与え続ける側にも立ってるし、受け続ける側にも同時に立ってるし、絶対の中心にも立ってるし、全体にも立つし、ここが自由自在な本心の自分。真(まこと)の神さまがそうだから、本心の自分もそうなの。真(まこと)の神さまの凄さってよくわかるよ、これでね。


               ありがとうございます


◇33

 色んな言葉で、色んな角度から教えてもらっても、まず自分が、その立場に立たない限り、まだ気付かない、気付けない。だからこそ、自分の全てを真(まこと)の神さまに捧げようとするの。自分の全てを神さまに捧げたら、神さまの中に融け込める。一体化できる。

 神さまから何か受けて、神さまと一体化するのではない。受ける側は無限分の一の少ないものしか受け取れない。だから神さまの中に自分を与え尽して、融け込まないと、中へ入らないとダメなの。神さまの中へ投げ入れて、神さまと一体化したら、大きく無限倍受けられる。

 だからこの命を神さまの御用にお使いください、って投げ出すことが絶対必要なの。真(まこと)の神さまの弟子入りってそう。自分の全てを神さまに捧げ尽くす。これが一番の喜びでないと。なんか条件付けて、弟子になってあげるのではないの。他は何もいらないって、ここまでいかないと。

 ホントに神さまを恋い慕うって感じ。神さまの懐へ飛び込みたい、神さまの絶対の愛の中に飛び込みたい。融け入りたいってこれだけが本当の願いでないと。本心の自分はそういう願いを持っている、元から。

 本心の自分を生きるようになったら、自分の全てを神さまに捧げようとする。捧げることが幸せそのものなの。その自覚・実感が大きく深くなっていく。これは求める心や受ける心ではできないこと。自分の全てを与え尽して初めて、可能になってくる。ありがとうございますの、この唱え方もそう。与える側のありがとうございますが本物。与える心でありがとうございます唱えたら、無限倍のバックアップが来る。常にそう。自分のこの自由自在の意識が大きくなればなるほど、入れ子構造の無限倍の助け。常に全体と共に祈るの。真(まこと)の神さまと共に祈る祈りになる。

 ありがとうございますを一回唱えたら、同時に無限倍になってないと。更にその無限倍になってないと。これがバックアップを受けた祈り。常にそうなの。

 祈り方が大きく変わったの。無限倍の入れ子構造的無限倍の、バックアップを受ける祈りに変わったの。一回のありがとうございますを唱えることが、同時に無限のありがとうございますになっている。無限の無限のありがとうございますになっている。

 だから威力があるようになった。お祈りって威力がなかったら値打ちないの。気休めじゃダメなの。自分の心が安らいだ、この程度じゃダメ。どんな問題でも瞬時に解決するくらいの威力がないと。

 祈り言葉は常に断定的に使わないと、威力は備わらない。ちょっと疑っているようではダメなの。断定的に使うの、常に。真(まこと)の神さまだけなんだ、という風に。本当に断定的に、ありがとうございますを唱えないと。一大循環の相象しかないんだ、ありがとうございますと唱える。常に、断定的に使う。言霊のありがとうございますの、すべての意味を、断定的に使う。

 そしたら真(まこと)の神さまだけ。真(まこと)の神さまの愛だけ。本当の降り注ぐ真(まこと)のプラスだけ。一大循環の本当の凄い働きだけ。もう虚の世界なんて、無限に無限に小さくなってしまう。別にあってもなかってもどっちでもいい。実の世界があまりにも大きすぎるの。偉大すぎたらそう。無限分の一の小さい模型は、どっちでもいいこと。本当はもっと小さいの。



◇34

 真祈りの凄さは、自分が実感するまでわからない。ありがとうございますを唱え続けるしかない。自分の全てを捧げますっていつも、いつも捧げ続けないと。毎朝、弟子入りする。私の全てを神さまに捧げます、どうか神さまの御用にお使いくださいって。そして神さまと共に祈るの。神さまが自分を使ってくれる、神さまの光が自分を通して放射される。一大循環の相象となって、神さまと共に生きるの。自分が一大循環の相象を取らないと、神さまのお手伝いではない。だから全ての全てに対して、愛を与え尽すだけの一大循環の相象を取らせてもらうの。

 虚の世界だけが、自分と他人という風にばらばらに見えるの。真実の世界は、ばらばらに絶対見えない、みんな一体化してる。無限のスピードで動き回ってるのを、分けるわけには絶対いかない。常に全体から支えられてる、お互いに助けあって支え合って一つになってる。自分と他人と分けられない。だから全部が自分。全てが真(まこと)の神さま。だからありがとうございますになってしまう。一言のありがとうございますで全てなの。

 本当の一大循環の相象が、ありがとうございます。言霊のありがとうございますの、意味そのものがそう。無限のスピードで、循環するすがた。本当の完璧なすがた。

 普通の完璧は、水晶玉、ダイヤモンドみたいに、球みたいに、静止したすがたに、みんなイメージしてしまう、これが無限のスピードで動き回っている、流動体としてのすがたでないと、神さまの完璧ではない。静止したものは、完璧のうちに入らない。無限のスピードで動いているから、完璧なの。本当の完璧。

 虚の世界の完璧という言葉と、真(まこと)の神さまの世界の完璧という言葉は全然違う。同じ完璧でも、真(まこと)の神さまの指す完璧は、無限のスピードで全部与え尽しあっているすがた。絶対切り分けられない。無限のスピードで動き回っているの。これが本当の完璧になるの。だからこそみんな一体なの。

 真祈りの本当の凄さを、これからみんな順番に実感させてもらう。神さまに命捧げて、祈りに祈るの。祈り続けた人に、必ず結果として出てくるから、必ずわからせてもらう。特にありがとうございます護摩が、バックアップしてくれる。自分一人の祈りだけでは、時間かかるから、本当の支えあいのすがたをもって、神さまが応援してくる。


◇35

 一生懸命唱えるだけで、守護霊さま・守護神さまが応援して、病気なんかパッと消したりする。
 でも、その程度の助け。本心の自覚が深まるというのとはちょっと違う。本心の自覚が深まるのが本当の助け。だから、思いをすっかり全部消してもらわないとダメ。先ず、全部の思いを消してもらえて、本心の自覚を拝み出してもらう。それで、本心の自分が祈る祈りになって、本物になってゆく。

 みんな、拝まれている。肉体を持った人同士が拝み合っている、そんな浅いものではない。一人ひとりの背後が拝み合ってくれている。みんなを護っている、神さま同士が拝み合ってくれているから、みんなが本心を引っ張り出してもらう。

 みんなに無理に拝みなさいって言っていない(笑)。出来ないことを言っても無理。出来る人がちゃんとしてくれているから大丈夫(笑)。

 自分が本心側に戻って、祈って祈って、自分の病気も人の病気も、片っ端から治すぐらいにならないと。『ありがとうございます』を唱えたら、全部治っていく!
 病気なんて無いの。邪魔する思いだけを、マイナスの言葉を消したらおしまい。

 力を付ける為に、たまには寝食を忘れて祈るの(笑)。寝食を忘れて(笑)。食べてもいいけど、祈っている時はご飯を食べようなんて思わないこと(笑)。一心不乱に祈ってごらん。

 全てを忘れて、寝食を忘れて祈るという気持ちになった時が、祈りが本物になる。「あれ食べたい、これ食べたい」と思ったら、祈れない。「寝ないと」と思ったら、寝ないといけない。寝てしまう。みんな、朝早く目を覚ますと思うけれど、「寝ないと」と思うと祈れない。「寝なくてもいい」と思ったら、寝床に横になっていても、祈っていたらいい。寝ようと思ったらダメ。寝なくて済む、本当は。寝ないで済むと喜んだらいいだけ。

 エネルギーを受ける為に、魂が肉体から抜けるのが睡眠。
 祈りは反対。大きいエネルギーを降ろしてもらったら、わざわざ肉体から魂が抜けて寝なくて済む。
 睡眠の何倍も、もっと大きい光・エネルギーをもらう。だから、祈っていたら寝なくて済むのが本当なんだけど。


◇36

 神さまの全体像をつかむというのが一番大事なの。本当の神さまの地図がいるの。真(まこと)の神さまというのは、唯一無二、絶対。真(まこと)の神さまの真実のすがたと、虚のすがたと、両方ある。真実の姿はもう、言葉で表現できないものすごい世界。虚の世界でも、無限に素晴らしい。すべてが神さま。神さまの現れ。神さまの残像。どれをとっても、無限に無限に素晴らしい。

 この世のすべて、あの世の全て、みんな形がある。これ、かぎり身のすがた。奥に神通自在な働きがある、これ、かけりみのすがた。全体を統一して、天照大御神を中心に輝く大きい働きがある。これかがりみのすがた。創造神も、神さま。一番奥の隠れてわからない働きも、神さま。虚の世界の全部、神さま。

 奥から末端まで全部、神さま。それは真(まこと)の神さまの愛を、全徳を、虚の世界へ残像として足跡として、現した姿の世界。真(まこと)の神さまがなかったら、絶対虚の世界は生まれない。残像も何もない。だから根本は真(まこと)の神さまがあって、虚の世界が生まれているの。虚の世界も真(まこと)の神さまの映し、模型。だから素晴らしいものも、あるわけ。

 神さまとみんな呼ぶけど、本当は全部神さま。ありとあらゆるもの全部、神さま。

 今の自分にとって、宇宙全部、全てが神さまの愛の表れとして、自分を愛してくれている、必要な物を与えてくれている。遠いところの星からも、光が届いてる。身近なこの空気からも、空気にも分子があって原子があって、みんな喜び勇んで飛び回って、光を与えてくる。この与え方も、単なる物だけではない。一霊四魂(いちれいしこん)・一元四体(いちげんしたい)という八つの要素を持って、全ての要素から、必要な物与えてくる。虚の世界ですらそう。

 ありとあらゆるところから、神さまの愛が降り注いでいる。これを感じ取るのが、ありがとうございます。ありがとうございますで、全てから神さまの愛を、全部受け取ったらいいの。全てから、ありがとうございますで、神さまの愛を、愛のこの残像を受けたらいいの。

 マイナスの言葉さえ使わなかったら、受け取れる。マイナスの言葉は拒絶する。受け取らないって拒絶。でも拒絶しても、拒絶しても、なおかつ与えてくる。目に見えないところでは与えてもらってる。拒絶するのはほんの表面の一部。気付かないところで与えてもらっている。

 でも拒絶するのをやめたら、神さまの愛がよくわかり始める。先ず虚の世界から、全ての全てから、どれだけ大きい愛を与え続けてもらっているか、想像を絶するものがある。これを順番に片っ端から、受け続けて行けばいいの。虚の世界でも、虚の世界の天照大御神様の愛の大きさって、無限に無限に大きい。太陽のようなものではない。そんなちっぽけなものではない。太陽を無限に集めたような大きい愛の光体。光源になってる。

 虚の世界ですら、神さまの愛のすごさって、言葉で表現できないくらい無限にすごい。そこから真実の世界へ入ったら、本当の天照大御神様の表現は、虚の世界全体の無限倍よ。虚の世界の全体と比較して、真(まこと)の神さまの世界の一個の、天照大御神さまの表現ですら、虚の世界を遙かに超えてるの。

 入れ子構造で奥へ奥へ、大きくなるにつれてどれだけすごいか。言葉で本当は表現できない。それが絶対の中心に向かってずーっと続いている。

 真(まこと)の神さまのすごさは、単なる言葉では表現できない。真(まこと)のありがとうございますで、神さまに融け入って、初めて実感させてもらう。

 こういう神様にみんな、生かされて愛されて、みんな一体になって、一つに包まれているわけ。本当に自由自在な心を、意識を与えてもらって、全ての立場に立てるし、全てを感じ取れるし、どれだけ幸せかわからない。ただこれは、言葉で、言葉通りに感じるようになってる。

 虚の世界でもそうだし、真実の世界でもそう、どれだけプラスの言葉を選べるか。どれだけそれを真剣に唱えて駆使できるか。本当に言葉通り。これも一瞬一瞬新たに。



ありがとうございます



◇37

 本当の勉強って、神さまを知るための勉強。学校で色んな勉強するけど、本当の勉強は神さまを知る勉強にならないと。神さまを無視した勉強なんて、本当の勉強になってないから、幸せになれない。どんな勉強も、神さまを知るための勉強になるんだったら、全部生きてくる。科学でも芸術でも、全部。神さまを知る勉強だったら、全部役に立つ、生きてくるの。真(まこと)の神さまを知るために、みんな結びつけたら、全部生かされる。

 神さまを知る勉強も、今の自分の心境がどの段階にあって、どういう勉強をすると一番、進歩が速いか。今の自分を正しく知らないと、自分に今必要なことをしないと、無駄を多くしてしまう。今、小学生だったら、小学生の勉強が一番ふさわしい。高校生だったら高校生の勉強がふさわしい。みんな段階に応じて、必要なものが違ってくる。だからそれをみんなごっちゃにしたらダメ。今の自分はこれが必要、あの人は今これが必要、区別が出来ないとダメなの。全部にあてはめて、同じじゃないの。

 ありがとうございます、真(まこと)のありがとうございますを唱え続けることは、全てに通用する働きになっている。とにかくありがとうございますを唱え続けたら、どんな生き方をとってる時も、正しくしてもらうの。間違ったら修正してもらうの。最短コースになるように、ちゃんと導いてもらう、護ってもらえる。

 ありがとうございますの中にある働きは、無限に大きい、無限に種類がある。それを真(まこと)の神さまが全部してくれるの。ありがとうございますを唱えるだけで、それを神さまに捧げるだけで、神さまが全部してくれてる。

 神さまの愛を感じて、みんな幸せっていうのも、無限に段階があるし、無限に種類があるし、色んな愛を順番に感じさせてもらって、幸せを大きくしてもらう。一番大事なのは過去を掴まないこと。今新たに、今新たにっていうのが一番必要。そしてマイナスは絶対相手にしないこと。どれだけプラスの言葉を使ってもまだまだ、足りない。よりプラスの言葉を選び続けないと。

 真(まこと)の神さまは常に全体。どこへマイナスの言葉を向けても、神さまに、マイナスを向けたことになる。これは絶対にしてはいけないこと。どの部分に対してマイナスを突きつけてもダメ。

 常に全体が真(まこと)の神さまという風に見るんだったら、マイナスの一言は絶対使ったらダメ。プラスの言葉もより大きい、本物のプラスの言葉にどんどん変えていかないと。それが神さまの愛を感じ取る、神さまの愛を受け取る方法。

 これもやっぱり全体像を知る、全体の地図を元にして、自分が勉強していかないと、平気でマイナスの一言使ってしまうの。一言ぐらいと思ってしまう。でも本当に全体を見て、真(まこと)の神さまに相対するときは、絶対マイナスの一言使えない。これが本当に分かったら、もう神さまの愛だけを、ホントにひしひしと感じ取るだけ。もう神さまの愛だけというのがよくわかる。言葉をプラスにプラスに変えていくことが、真(まこと)の神さまをしっかりと感じとる、一番の道。


◇38

 沢山の中から1つ選ぶというのは、過去を掴まない生き方の勉強。1つ選んだら過去を掴まなくなる。選べなかったら過去を掴んだまま。選ぶ練習をしていくと、新たに受けやすくなって、過去を掴まなくなる。進歩が速い。普通はみな惰性に流れて、過去を掴みっぱなし。新しい何も選んでない。

 新たに新たに変化しているのを見るのだったら、過去を掴まない。これが自分と言わないし、新たな自分、新たな自分だけになって来る。
 そしたら真(まこと)の神さまを受け直した、真(まこと)の自分に近づきやすくなる。新たな自分だけがいい。そしたら周りの全て、そう。新たなすがたで受け直さないと。そしたらもう、過去のこと絶対言ったらダメ。過去のその人はいないの、そこに。

 本心の自分は常に新たな自分。無限分の一秒で生まれ変わる自分。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分という本心の自分は、無限分の一秒で生まれ変わる自分。スピードが速い。過去を絶対掴まない自分。いつも初めまして、初めまして、始めまして。

 真(まこと)の神さまの世界の、一大循環の相象の全部、一回きりなの。出会うのは一回きり、二度と出会えない。常に一回きりで終わり。どんな相象と出会うにしても、一回きりなの。一回きりというのは、一回見逃したらおしまい、いう意味。同じものを用意しない。一回きり。どれだけ真剣に受け取れるか。


◇39

 お祈りも、与えるお祈りが大事なのは、両方から与えあったら、出会うのが沢山増える。受ける方は、押し流されるの。一回受けても残像でずっと行ってしまう。自分の方から与えて行ったら、両方から与えて行ったら、全部と出会うの。途中全部と出会うから、出会う回数が増えるの、沢山になる。だから与える心にならないと、神さまと出会えない。

 自分の方から与えるほど、神さまの愛を沢山感じる、沢山出会う。与えてくれるのを受けるだけでは足りないの。ありがとうございますも、与えるありがとうございますが、神さまと出会えるの。

 神さまの世界は、一番奥が無限のスピード。その中に、乗り物があるの。ちょっとスピードの緩い乗り物があるの。一番おおもとが無限のスピードで動いている。でも末端は、乗り物の中の乗り物の中の乗り物の中というように、それでスピードが緩いって感じてるだけの話。一番元を見たら、無限のスピードで全部動いているの。新幹線の中で歩いても、自分も新幹線のスピードで動いている。

 大きい宇宙が無限のスピードで動いている。その中の小さい宇宙も同じスピードで動いている。ただ、部分だけ見るとスピードが緩やかに見えるというだけ。
 いつも全体を一瞬に把握する能力っているの。

 なんぼ感謝の先取り言ってもね、感謝の先取りできないの。無限のスピードの方が速い。

 新たに受け直したと言いながら、残像の中にはまり込んでいる。虚の世界は特にそう。新たに受け直しているけど、残像の中にはまり込んでいる。残像の中の受け直し。練習して練習して、新たに新たに受け直して、スピード速くして、それで本物になっていく。

 本心の自分は無限のスピード。本当に本心の自分が出てきたら、一瞬に全部変えてくる。スピードが速いから。マイナスを今現しても、次の一瞬、全部消して、大きいプラスにばっと一瞬に変える。だから本心を引っ張り出す練習。新たに新たにって。
 ありがとうございます、ありがとうございますって。新たな本心を、呼び出す。本心が出てきたら、全部新たに置き換えてくる。置き換えが速くなる。



                      ありがとうございます
◇40

 祈り言葉を唱える自分が、本心の自分か業想念の自分かで正反対になるの。過去を掴んで積み重ねて、思いの集積として、業想念が生まれる。それに縛られている自分は、思いの自分、業想念の自分。それに波の合う言葉というのは、虚の世界の言葉。枯れた落ち葉。そうすると積み重なっていく、どんどんどんどん。唱えても唱えても、積み重なる言葉。

 本心の自分は、新たに新たに受け直す自分。全てを新たに新たにって受けてる自分だから、新しい自分、常に新しい自分。過去を絶対掴んでないし、過去を積み重ねること絶対にない。一瞬一瞬が新しい自分。新しい自分に波が合うのは、真(まこと)のありがとうございます。神さまの全てと波が合ってるの。

 同じありがとうございますを唱えているようでも、一方は、虚の世界のありがとうございます。感謝やお礼という程度のありがとうございますしか唱えていない。本心の方は、新たに新たに、新たなありがとうございます。神さまの全てだし、神さまそのもの。一瞬一瞬神さまと出会っているような感覚で、ありがとうございますを唱え続けるの。思いの自分から、本心の自分へ、いつ変わるか。

 思いの業想念の自分と、本心の真(まこと)の自分との、区別、どうしたら区別できるか。過去を掴んだら、業想念の自分。常に新たに受け直したら、本心の自分。言葉も、虚の言葉、プラスでもマイナスでも。過去を掴む虚の言葉では、業想念の自分。本心の自分は新たな真(まこと)のプラス。絶対の中心から降り注ぐ新たなプラスを選ぶ。業想念の方は、求める心が必ず出てくる。本心の方は、求める心は微塵もない。与え尽すだけになる。

 常にプラスの言葉だけを使って、新たに新たに受け直して、与え尽す側に立ったら本心の自分。その本心の自分は常に、真(まこと)のありがとうございますに波が合っていくから、祈れば祈るほど本物になる。


◇41

 本心の自覚を深めて輝いたら、まず霊的な幸せが一杯になる。神さまと一体、神さまに愛されている、生かされている、という実感が深くなる。その霊的な幸せが大きくなったら、自然に心は明るく幸せな状態に必ずなる。輝いてくる。魂も、本当に輝いた魂になる。そしたら肉体に必要な物も、的確に循環してくるから、何不自由ない状態で、幸せそのもの。余分な物もきれいにそぎ取られて、必要な物だけが循環してくる。物でも一杯あったら幸せと違う。ありすぎたら邪魔になる。循環しなくなる。本当に必要なだけが常に循環し、この循環も速くなるほどいい。本心が輝いて、霊的な幸せが感じられたら、精神的にも肉体的にも本当にスピードが速くなって循環するから、全てが幸せになる。

 どんな姿も奥から投影されてくる。真(まこと)の神さまの世界から虚の世界へ、光が投影されて、上から順番に、下へ下へ、光が送られてくる。まず奥でしっかりと幸せを掴まなかったら、末端は幸せになれない。反対にしてたらみんな崩れるの。支えが全然ないの。真(まこと)の神さまの支えが、本心の自分の支えがいるの、霊魂魄の幸せには。まず神さまの支えをしっかりと感じ取らないと。そして霊的な幸せを十分に受け取って、それで精神的にも肉体的にも幸せ一杯になる。奥からの投影。


◇42

 神さまの本当のお手伝いというのは、本心の自分が、神さまの一大循環の世界に立って、真(まこと)のありがとうございますを唱えることなの。

 自分の見ている世界、虚の世界全部背負って、マイナスも何もかも全部背負って、一大循環の流れの中に立てばいいの。それでありがとうございますって、祈りの行をするの。そしたら一大循環の流れって、光の流れはスピードが速い、無限のスピードで流れて、虚の世界の全部、背負ったのを浄め尽くしてくれるの。

 本心の側に立って、虚の世界の全部を背負って、一大循環の光の流れの中に自分を置くことよ。その時に真(まこと)のありがとうございますという祈りが必要なの。

 本心の自分が、真(まこと)のありがとうございますを駆使できる。一大循環の中に自分を置くことが出来る。自分の背負ったすべてを、一大循環の光の流れで、洗い清めることが出来る。最初の洗い清めるは、初歩の段階。次は大きく、マイナスのない状態で、プラスを大きくしていく行。

 本当の神さまのお手伝いに生きるというのは、小さくではないの、大きく。一人が虚の世界全部、洗い清めようとする。一人でも大きい働き、出来る。でも大勢が同時に同じ働きしたら、すごい大きい働き。みんなが同じ働きをすれば、本当に完璧な、一体感の行。これが一大循環の働きの姿そのもの。本当の支え合いの、さざれ石が巌となっているという、本当の完璧な一体感の行になる。

 神さまが必要な全部、してくれてる。人のすることは邪魔しているだけ。邪魔しなくなることが本当のお手伝い。掴んだり余計なことするのが、邪魔なの。神さまの本当のお手伝いは、一切の我を消すこと。そのために神さまの中に融け入ることだけ。元から神さまは全部、全部してくれているから、神さまの働きと自分が一つ同化したらいいだけ。最高のお手伝い。

 神さまの現れと、眺めるのでもそう。新たなすがた新たなすがたという風に、一瞬一瞬を切り分けて眺めないと。それがところてん式に連続してもいいんだけど、古いすがたと見るのは間違い。過去を掴んだら残像だけで生きているの。新しいの全部見逃している。常に新しいすがた、新しいすがたと受け直さないと。本当の神さまのすがたではない。

 本心の自分は形ではないの、意識。神さまの自由自在な意識。形があるものは、これが自分と掴んだら、一瞬一瞬変化してるから、自分でなくなる。今Aというすがたを現わした。次Bというすがたになった、別人じゃない?形にとらわれたらみんなそう。形が変化したら自分でない。形の変化と関係ない自分が、本心の自分。永遠に変わらない自分は、自由自在な意識の自分。この自分は何でも掴めるけれども、何も掴まないで、全体を眺めることも自由にできる。自由自在に立場を変えて、眺めるだけの自分がいいの。掴まない自分。そしたら全てを眺めて楽しむだけ。

 一大循環の流れと一緒に流れるいうのは、いいことないの。押し流されてることになるから。末端まで飛ばされてもダメだし、循環して戻ってもダメなの。全体を大きく眺める方が大事。どの立場に立ってても、そこで全体を眺められたらいい。そういう、自由自在な自分がいい。


◇43

 真(まこと)の神さまは、新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神として出てくる。まず自分が真(まこと)の神さまを相手にしてみようとしたら、虚の世界のこのばらばらのすがた全部消えた方がいい。自分の周りに無限の天照大御神様が、一番末端に現れてると見る方がいいの。

 この世のみんなをどう見たらいいのか。肉体だけを見るのではなしに、奥のいのちの霊の自分を、お互いが眺めあったらいいの。みんな無限に輝いて素晴らしいという風に。そしてそれをさらに大きくしていって、無限大に拡大したすがただったら、一人一人が天照大御神。

 みんなをどう見るか。みんなを天照大御神様と見て、入れ子構造的に大きい天照大御神様と見て、最後は、真(まこと)の神さまそのものになったら、みんなが消えるの。真(まこと)の神さまだけ。真(まこと)の神さままでホントに近づいたらそう。真(まこと)の神さまそのものに成り切ったら、みんなは必要ないの。

 どこまでもどこまでも大きく拝み続けて行ったら、一つになるの。真(まこと)の神さま一つになるの。自分の他に、他に何か無限にいてて、どんどん素晴らしく拝み続けて、真(まこと)の神さまだけに成り切ったら、自分と神さまと一対一の関係になってる。自分の他には真(まこと)の神さまだけ。そしたらその時は自分も消えてるの。真(まこと)の神さまだけになるの。

 虚の世界のいいものは全部、本物の世界から映し出されているだけ。
 ただ本物と模型の違いがある。模型の方が単純化されて、複雑ではない。単純化されて小さい。本物の地球は素晴らしい、中身がいっぱい詰まってて、地球儀は模型、中身空っぽ、何もない。表面だけちょっと似たような姿とってる。虚の世界ってみんなそう、模型の世界だから。ただ、本物の映しとして、ちょっとはいいものもあるというだけ。

 言葉通りに受け取るのが本物の世界。虚の世界は自分の言葉通りに、幻、錯覚として言葉で生み出して感じる世界。だから言葉で作る世界。ただ実体はないの。もともと無から生まれて無に戻る、虚の姿だから実体は何もない、儚い虚しいもの。中身が全然ないの。

 だから単に波の変化っていうの。例えば海だったら、海は実体がある。表面の波はあるけど実体はない。波の変化だけで消えてなくなる、すぐ。海自体は実体があっても、波自体は実体がない。変化だけ。だから一大循環は海流の流れと似ている。大きい流れで、スピードで、動き回っているけど、虚の世界は一番表面の波の変化だけ。

 絶対の中心から、一大循環の相象をそのまま受け取る。新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!これも無限のスピードで、循環してるすがたで受ける。本当の一大循環の相象で受ける。

 そしたら神さまを新たに新たに受け直していることになる。一瞬も油断できない。新たに新たにというのは、真剣勝負。ちょっと油断したら惰性に流れる。






          ありがとうございます



 宇宙大の打ち上げ花火がポンと上がるとする。一瞬全部闇にならないとダメなの。それでまたポンと上がって、また闇になる。それぐらいの切り分けがいる。連続しているんだけども、一瞬闇に戻すくらいの放し方が必要。ダブらせたら、残像で繋がってしまったらダメなの。切り分けて新たに新たにって、ところてん式に繋がっていても受け直す、その真剣さが大事。

 入れ子構造的なありがとうございますで確認しないと、入れ子構造のすがたは確認できない。だからありがとうございますの一言の中に、無限の無限のありがとうございますが備わってこないと。その練習をするの。本心の自分は真(まこと)のありがとうございますを唱える練習をずーっと続けて、その一回のありがとうございますに、無限のありがとうございますが備わるようになってきて、更に無限の無限のありがとうございますが、備わってくるように練習するの。それで本物になっていく。

 真(まこと)のありがとうございます唱えたから、それで卒業じゃないの。そこが出発点。無限の無限のありがとうございます、入れ子構造のありがとうございますになるまで、祈り続ける。

 末端から順番に絶対の中心に戻って行く。末端だとまだ小さい受け直し。絶対の中心に近づくほど、無限の無限のありがとうございますが備わったありがとうございますを唱えるようになっている。それで絶対の中心に立った自分というのがわかるの。何も掴まない自分。眺めるだけの自分。全体が、全部が自分、という自分。一番幸せな自分なの。


◇44

 例えば、追突した加害者と、追突された被害者があるとする。どっちが悪いの?結果見て、どっちが悪いといえない。これは、先に運命のひな形が、心の世界に出来上がっている。その作った原因は、戦う、争う、ぶつかり合う心が一杯溜まって、それが運命のひな形になって、大事故起こして死ぬようになっている。その大きいマイナスを消すために、その当事者が選ばれる。消すための役目の人が。この時は、本当に縁の深い、助け合える、支え合える、善因縁のものが選ばれるの。そうしないと、大きいマイナスをお互い助け合って支え合って小さく消せない。心の世界の大きいマイナスの運命を消すため。結果として形に現れたのは、万分の一の軽さで消されたというだけの結果。

 加害者が悪いというのは思いの心。過去を掴んで、現実を掴んで、勝手なこと言っている思いの心。本心の心はそうではない。もっと大きく眺めて、心の世界に作り上げてしまったマイナスを、いかに早く大きく軽く消そうかと考えて、消すためのパートナーを選ぶ。

 それで大難が小難に、大きいマイナスを軽く消してもらえてるの。その消してもらった結果が現実。神さまの愛念で、愛で、大きいマイナスを小さく消してもらえた、結果だけが現実に出ている。



ありがとうございます



 殺す側の殺人鬼と殺された側の被害者というけど、これもね、マイナスの言葉一杯溜めたら、殺人を無限回犯すような業が生まれる。一回殺したら、殺されて殺す業が消えるのと違う。殺すという業はさらに大きくなるの。一回人殺ししたら、次平気で人殺しする。どんどん人殺しの業が大きくなって出てくるの。これでは業が消えないの。死刑になって償いが出来るか、出来ない。それで消えるものと違うの、業は。

 殺されるという業もどんどん増えるの。殺すという業も増えるの。両方が雪だるま式に増えていくの。どっちも消えない。増える一方。それをいかに消すか。神さまの光がそこに降りなかったら消えないの。

 両方の役割がいるの。人殺しの業を消そうと思ったら、人殺しの姿がいるの。その罪の償いの罰を受けるのがいるんだったら、殺されて罪を受ける姿がいるの、両方いるの。両方消さなかったら、消えたって言えないの。

 悪役と被害者と両方いるの。それをどう消すか。だから本当に仲良しの、支え合う人でないとできない。殺す側も殺される側も、仲良しだから、背負って消せるの。大きいマイナスを軽く消すための、神さまの愛の計らい、仕組み。

 支え合うところへ、神さまの大きい助けが降りてくる。マイナスを大きく軽減してくれる。

 神さまの愛はそういう風に全てを通して働いてくる。だからプラスに受けてこそ、本心の生き方。全てをプラスにプラスに受けてこそ、神さまの愛を受け取れる、本心の生き方。それを反対にマイナスに見たら、神さまの愛を拒絶して、業想念一杯積み重ねて地獄まで行く生き方。どっちを選ぶか。正しいのは、プラスにプラスに受ける生き方。

 地獄絵図を見ても、プラスに受けられる。みんな自分の身代わりに、マイナスを背負ってくれて、殺す方と殺される方の両方の役を受けて、消してくれてる。すごい愛の働き。そういう風に受けたら、地獄は地獄と違う。神さまの愛の計らいの、素晴らしいもの。本心は常に全体を見通すから、大きい立場で、大きいマイナスを消そうとするから、よくわかるはず。

 心に溜めこんだ大きいマイナスをいかに軽く早く消そうかとするの。みんな消すための役割という風に見たら、もう大きいプラスばっかし。

 消されたら神さまが現れる。虚の世界が消えて、真(まこと)の神さまの一大循環の世界が、厳然と現れてくる。ありがとうございますを捧げるしかない、全てに対して。本当の全てに対して、虚の世界の全てにもありがとうございますしかない。

 自分の出来ることって、ただひたすら真(まこと)のありがとうございますを捧げ続けて、恩返しするだけ。そしたらみんなが支えてくれてる。ホントに助けてくれてる。これに気付く。助けてくれてるの、みんな気付かなかった。気付けばいいだけ。気付いたら幸せになる。ホントの大きい愛の働きばっかし。

 神さまと一体の自分は、みんなを支えようとする。神さまが、みんなが支えてくれるの、元から一体だから余計支えてくれる。元から神さまと一体の自分だから、みんなと一体だから、支えるのは喜びで支えるの。支えずにおれない、という愛の一体感から来るの。


◇45

 自分が無色透明だったらいいの。透明人間だったら、どんな流れにも押し流されない。流れを掴んだら、途端に流れと一緒に押し流される。末端まで押し流されたら、どんどんどんどん遠ざかっていく。掴んで掴んで掴んでとなると、小さく小さくなってさらに、スピードが遅くなって流れを止めていくの。

 そういう世界が虚の世界だから、まず虚の世界は、過去の無限の言葉で一杯、積み重なった世界になっている。それがいつ消えるか。消えない。積み重ねたもの、消えない。形に現れたから消えるかって、そうではない。積み重なる一方、虚の世界はね。消す場所がない。落ち葉がどんどん積み重なったらどうなる?消えていかない。堆積するばっかし。それで消す場所がいる。

 循環していたら、神さまの世界に戻って消してもらえる。きれいになって元に戻って行く、全部消えていく。循環してなかったら溜まる一方。

 だからこの世が何のためにあるか。この肉体を光のパイプとたとえてるけど、ある意味では焼却炉。あの世の虚の世界に溜まったごみを、どう焼却するか。肉体に持ってきて焼いて消してしまうの。焼くというのも、光の循環で焼かないとダメ。本心の自分に戻って肉体の光を通して、溜まったごみを全部中へ入れて、焼いて消し去るの。循環の中に入れるから消えるの。

 業をどこで消すか、神さまの世界に戻したら消える。神さまの世界に戻すために、この世が用意された。光のパイプとして、焼却炉として、あの世のごみを、積み重なったマイナスを全部、この世を通して神さまの世界に戻して消そうとしている。この世に持ってくるから、消しきってもらえる。あの世の救われたい人は、この世にすがって憑依し、光のパイプへすがってくる。思いを消してもらいたいからすがる。すがった分だけ取ってもらう。ただこの光のパイプが、マイナスの言葉、業想念で一杯だったら、あまり役に立たない。光を送り込むわけにいかないし、焼くほどの力、全然ない。溜めるだけの、ごみ箱にはなるけど。すぐ溢れる。

 もともとこの肉体をもって生まれてくるときは、あの世から代表で生まれて、光のパイプとしての焼却炉としての役割を果たしますという、気持ちで出てきてるはず、みんなね。心を大掃除してお祈りして、光を一杯降ろして、あの世の人を救うために、代表で生まれてるの。あの世の人はそれを期待してるの。だからごみをどんどん送り込んでくる。待ったなし。特に地獄のどん底というのは、無限の落ち葉で押し潰されてる。上からいくら神さまの光注いでも、下まで光届けるのは大変。

 真(まこと)のありがとうございますが祈れるようにならない限り、横線は消えないの。虚のプラス、いくら加えても、マイナスは消せない。虚のプラスはマイナスが付いた縦線。十字。なんぼそれを降り注がせても、横線が積み重なる。縦線だけが降り注がないと、マイナスは消せない。本心の自分のお祈り、真(まこと)のありがとうございますが加わった時に初めて、真(まこと)のプラスだけという、縦線が降り注ぐの。

 本心の自分がありがとうございます、唱えるのは、新たなる無限の無限のプラスが無限に無限に一杯という、縦線を与えること。どこへ縦線を与えても、マイナスが消えていく。そのお祈りしてる限りはマイナスが消えて全部なくなる。本心側に立って祈っている人には、マイナスは見えない、何もない。

 一番下の地獄へ行くまでに、到達するまでに時間かかる。ありがとうございます、唱え続けて、末端まで行くのは大変なの。一番先に救わんならんのを、後回しにしてしまう。肉体に本心の光降ろしたら、一番下から救える。真(まこと)のプラスだけというお祈りをしてたら、肉体を道具として光のパイプとして最初から低い世界を救うために用意されたものだから、ちゃんと機能を果たすようになるの。

 自分はお祈りさえすればいいの。真(まこと)のプラスの光を降ろすだけのお祈りさえ出来たら、それで済むことなの。それで真(まこと)の神さまだけ、真(まこと)のプラスだけ、一大循環の相象だけ、これを徹底して、断定的に祈り続けて、自分が確信できるところまで行く。この世と、神さまの世界とどっちが真実かって。言葉通りなの。この世の方が、現実性があると言うのだったら、この世の言葉を使いすぎてる。真(まこと)の神さまの世界が本物だ、全てなんだと言うのだったら、しっかりお祈りできている。


◇46

 神さまの世界だけというとこまで、祈り続けた人が、真(まこと)のお祈りをしてる人。虚の世界がない、って断定できないと、現実を相手にしてるの。常に、神さまの世界だけ、神さまだけ、本当のプラスだけなんだって。一大循環の無限のスピードのこの愛のすがただけなんだ。これを本当に実感するまで、もうそれしかないと言えるまで、徹底して祈って祈って祈り抜くの。それが本心の自分のする本当のお祈り。真(まこと)のありがとうございます。

 真(まこと)の自分が真(まこと)のありがとうございますを唱える、というのは、真(まこと)の神さまを、全てに対して与え続けること。そしたら全てから同じように真(まこと)の神さまを感じさせてもらう。まず与えないと受けられないの。神さまの世界は。与えたら受けられるの。与えたら、循環して、入ってきて受けられるの。受けるだけなら一回きりなの。与えてなかったら循環してこないから、一回きりなの。永遠に受け続けるのは、与えたら受けられる。だから与える心で与え尽すの。真(まこと)のありがとうございますは真(まこと)の神さまに与え尽すの。真(まこと)のプラスを全てに対して与え尽す。一大循環の愛のすがたをすべてに対して与え尽す。与え尽すのがありがとうございます。


◇47

 お祈りってね、祈り言葉をホントに淡々と唱えるのが正しいの。淡々というのは、何も交えない、という意味。無心の心で、それが一番効果が大きい。神さまの中へ融け入りやすい。ありがとうございます、一言でね、神さまは融け入る。真(まこと)のプラスの中へ融け入ったらいいだけ。一大循環の中へ入るだけ。ありがとうございます、ありがとうございますって。そしたらもう、虚の世界、すーっと消えていく。真(まこと)の神さまだけという感覚が出てくる。実感になる。無心で淡々と唱えるありがとうございますが最高の力を発揮する。言葉通り、真(まこと)の神さまが出てきてくれる。

 無心に唱えるのがいい。静かな喜びの中に、本物があるの。祈り言葉をしっかりと選んで淡々と唱えていたら、一番早く変わる。

 何も考えないで、無心に淡々と。これが本物のお祈り。真(まこと)の神さまだけ、ってお祈りになるの。

 色んな思いを出すと、波が違うの。虚の世界を救うためになんて言うても、ダメよ。これも間違う。あの人を幸せにするためにというのも間違いなの。真(まこと)の神さまが全て、真(まこと)の神さまだけ、真(まこと)の神さまの中へ入ればいいだけ。ありがとうございます、淡々とありがとうございますって神さまの中へ入ればいいだけ。その時全てが解決されてる。

 真(まこと)の自分を思い返して、真(まこと)のありがとうございます唱えたら、虚の世界は最初から無関係。何もないの。自分が選んだ通りに、自分の駆使した言葉通りになる。新しい言葉の通りになる。虚の世界の、マイナスの言葉全部消さないと、本心の自分に戻れないのと違う。新たな言葉が一番威力がある。力があるの。ただそれが本物かどうか。真剣に選んで、使っているかどうか。本心の自分に戻って、真(まこと)のありがとうござます唱えて、本当のプラス言葉を駆使出来たら、すぐに戻る。

 寝食忘れて祈るという、これ試されるの。美味しいもの食べる方がいい、お祈り忘れてね、これ我なの。ああ、お祈りの方が楽しい、と言うのだったら、寝食忘れて祈っている。お祈りがホントに楽しくならないとね。神さまと出会う、神さまのことを思うだけでああ幸せっていう、そういうありがとうございますになってきたらいいね。何食べても、寝てもいいの。ただ、どっちに価値を置くか。お祈りの方にホントの価値置いたら、寝食忘れて祈っている。



ありがとうございます





◇48

 この世でどんな生き方をしても、この世の生き方が原因にならない。過去の残像を消すための場所だから、もっと奥の根本の原因。一番の原因は、一番最初の言葉。本心の自分の言葉。絶対の中心から降り注ぐ、新たな言葉。本当の新たなプラスの言葉を駆使する自分が、一番幸せな自分になっていく。

 すべて新たな、新たな。真(まこと)のプラスは、新たなプラス。新たな真(まこと)のプラス。一大循環の相象は、無限のスピードで循環するものだから、新たになる。それでも新たな一大循環の相象という風に、もひとつ新たなって確認がある方がいい。一大循環の全体像をとらえるのでも、新たな全体像。常に新たな新たなって。そうすると新たな自分は本心の自分。常に新たな自分が本心。おおもとでしっかりと、プラスの言葉を使うと、末端まで光り輝く。

 自分を隠して隠して、一番下に落とすの。真(まこと)の神さまの前に立ったら本当にそう。真(まこと)の神さまだけって大肯定するの。比較なんか出来ない。いと小さきもの、いと小さきものってへり下るだけ。それでないと真(まこと)の神さまの前へ出られない。どれだけ真(まこと)の神さまだけって、言えるかどうか。自分を出したら、真(まこと)の神さまはどっか遠くへ行ってしまう。真(まこと)の神さまだけって言わないと。神さま呼び出せない。出てきてくれない。ここに自分がいてる、ここにあの人がいてると言うたら、出しゃばっている。出しゃばったら神さまは引っ込む。だから自分が出ても人が出ても、何が出てもダメなの。全部隠れてしまわないと。真(まこと)の神さまだけを、呼び出さないと。

 やっぱり言葉選び。ありがとうございますだけを選んだら、真(まこと)の神さまだけになるけど、他の言葉選んだら、他を出している。マイナスの言葉使ったら、ここにマイナスがあると、マイナスを表に出している。それだったら神さまは引っ込む。この世のどんなプラスも、言葉にしたら、ここにこういうプラスがあると出しゃばってる。出しゃばったところには、真(まこと)の神さまは出てこない。引っ込んでしまう。

 真(まこと)の神さまだけを呼び出さないと出てきてくれない。これが絶対。真(まこと)の神さまと出会うためには、真(まこと)の神さまだけを呼び出さないと。両方呼び出して、真(まこと)の神さま出てきたら、他は全部消えるんだから、不平等。だから神さまはそれをしない。神さまは力あるからね、他の呼び出した方を大事にしなさいと言うだけ。

 他の言葉使って呼んでいるのに、真(まこと)の神さま飛び出せない。絶対そう。邪魔したら悪いからって。だから真(まこと)の神さまだけに、絞り切れたら出てきてくれる。だからつまらんプラスの言葉マイナスの言葉いらない。真(まこと)の神さまだけを呼び出すのだったら、本当のプラスの言葉だけ。

 だんだんと、ありがとうございますの一言が真(まこと)の神さまに近づくの。単に言葉じゃないの。一言のありがとうございますが真(まこと)の神さまになってくる。必ずそうなっていくから、ありがとうございますで、真(まこと)の神さまに出会う。



ありがとうございます



◇49

 真(まこと)の神さまの世界を掴んでも、絶対の中心に近いところは大きい自分。どんどん末端に行くほど小さい自分。また虚の世界掴んでも虚の自分。形を掴んだら、そういう風にいろんな形が分かれる。真(まこと)の自分は、自由自在の意識。掴んだものではないの。本当の自由自在の意識のみんなに、真(まこと)の神さまを与え尽す。真(まこと)のプラスだけ与え尽す。一大循環の相象だけを与え尽す。これが真祈り。

 形掴んだら、その時はそれ一瞬だけの形。掴んだのは自分と違う。真(まこと)の自分が掴んだというだけ。その一瞬。次何を掴んでるか、次また変わる。ホントの自由自在な意識のその人に与えるの。その人がどこにいようが関係ない。何を掴んでるかは関係なしに、常に真(まこと)の神さまを与え続けられるわけ。

 自由自在という言葉の自由というのは、自分の意志通りに、どこへでも行けるという意味。自在というのは、立場を移してどこにでも立てるという意味。どこにでも行けて、どこにでも立てる、これが自由自在なの。

 本心の自分、自由自在の意識の自分はそう。絶対の中心にも行って立てる。絶対の中心に近い所にも行って立てる。入れ子構造の末端にも行って立てる。虚の世界にも行って立てる。どこへでも自由自在に行って立てるの。これが自由自在という意味。

 六道は必ず求める心がある。声聞・縁覚・菩薩・仏は、求める心がないの。声聞・縁覚は、まず神さまの愛を受けようとする、プラスに受けようとする。声聞・縁覚は受けることを重点に置いている。菩薩は受けるのではないの、与えっぱなし。恩返しに、愛に生きて、与えるだけ。

 過去を掴むほど小さくなっていく。菩薩は、掴んで掴んで小さくなっている。小さい自分。仏の方が大きい。宇宙が自分って大きい。同じように与え尽そうとする。与えて与えて、与え尽そうとする。与えるから、今の自分の中を一大循環の相象、真(まこと)の神さまが通り抜けてくれる。

 ただ自分というものがあるから、まだその自分の中を通り抜ける。その大きさが、菩薩でも段階がいろいろある。大菩薩は大きい。大きく光が流れる。仏になったら、もっと大きい。宇宙全体の光が流れ込む。
◇50

 ただ、与えっぱなしでないと、神さまの応援・後押しがないから、何を消そうとしても消せない。縦線だけにならないと。特に虚の世界で、救いに立つときは、みんなの思いを、横線を全部消すために、与えっぱなすの。与える心で祈り言葉しっかり使わないとね。

 祈らないと、何も与えてないの。ぼーっとしてたら、何も与えてないの。ぼさーつ(笑)。
 祈り続けるということが大事。祈ることが与えていることなの。祈ることが循環させるの。だから与える心で、ありがとうございますを唱えることが、真(まこと)のありがとうございますになってくる。神さまのバックアップの大きい力のある祈りに変わってくる。でもそれを一回一回祈らないと、力ないの。

 だからぼーっと眠って、座ってるだけでは、足りないの。祈り言葉をしっかり唱えないと。一回一回確認しながら。与えるという意味で唱えるのが大事。静かに無心に淡々とでいいの。祈り言葉を唱えると、与えることになっている。循環を後押ししている。

 みんなが祈らないと、循環が正しくならない、加速していかない。祈るほど、スピードが速くなる、加速するの、与える量が増える。スピードを速くするためにも、祈らないとダメ。祈り言葉をしっかり唱えるというのが、一番大事になって来る。

 ただ無心でいいの、淡々とでいいの。ありがとうございます、ありがとうございます、唱えてるだけで、与える心で唱えるだけで、一大循環の相象が、そのまま自分の中を通り抜ける。その一大循環の相象、本当の真(まこと)のプラス、縦線だけのプラス、それが必要なところに流れる。

 真(まこと)の神さまを与え尽そうとしているの、全ての意識あるものに対して。もし一人の人が虚の世界の、思いの中に入ってても、その人に与えるのは、真(まこと)の神さまを与えている。ついでに虚が消えるだけ。マイナスが消えるだけなの。でも与えるのはいつも真(まこと)の神さまを与える。全てに対して。真(まこと)の神さまだけを与え合っているわけ。最高のものを与え合っているの。だから自分にも最高のものが与えられる。それは絶対の中心からはもちろんだけど、全ての意識あるものが、全部が、自分に対して最高のものを与えようとしてくるの。
 常に、全体から、全てから、最高のものを、与えてもらっている。
◇51

 本心がどこに立っているか、全部立つ場所が違う。みんな、どこに立ってても、本心の自分が立ってる。意識ある自分が、立ってる。真実の世界に立とうが、虚の世界に立とうが、みんなそう。

 言葉の通りに自分がなってる。だから真(まこと)のありがとうございますが必要。真(まこと)の神さまという意味の、ありがとうございますがないと、自分が真(まこと)の神さまになれない。だから一瞬も忘れたらダメ。ありがとうございます、真(まこと)のありがとうございます、忘れたら、真(まこと)の神さまから離れてしまう。その時の言葉通りの自分になっている。

 自分はどこにいても、言葉通りになる。どこにでも立てる。だから今、自分が肉体と思って、肉体の中に立っている。それ以外自分はない。ありがとうございます、真(まこと)のありがとうございます唱えたら、神さまの世界に立つ自分になる。

 自分が沢山あるのと違う。自分の意識は一つ。その一つの意識をどこに置くか。最高の言葉の中へ自分を置かないと。自分の自由自在な意識一つ。大事なのはその意識をどこへ置くか。

 言葉のところに自分がいてる。
 色んな勉強も、必要な時はあっても、勉強が必要なのと違うの。祈りが必要なの。最高の祈りが必要なの。一つの言葉に絞り切って、本当の祈りが必要なの。だからありがとうございます一言でいいの。本当に真(まこと)の神さまと一つになりたかったら、ありがとうございます一言だけでいいの。そしたら真(まこと)の神さまが全てになる、真(まこと)の神さまだけになる。完璧な自分、永遠の自分、本当の心の安らいだ自分。ありがとうございますだけになりきらないと。寝ても覚めても。24時間+α。

 どれだけありがとうございます唱え続けているか。唱え続けている人は、真(まこと)の神さまの中にいてるの。虚の世界なんか見てない。真(まこと)の神さまだけを感じ取って生きているの。
◇52

 借金に二通りある。神さまの世界を掴んで自分のものにしたというのが、根本の借金。だから虚の世界、全部借金の世界。虚の世界の中でプラスの世界とマイナスの世界ある。マイナスの世界がマイナス一杯積み重ねて、業想念を一杯積み重ねた借金があるの。最初の段階は、マイナスの大きい借金を消す生き方が必要になる。その時に、借金しまくる人がある。そういう人はまだ助けないの。サラ金でもそうでしょ。借りて借りてどんどん増やす人は、助けても意味ないから、助けないの。

 自分が心を入れ替えて、借金を返そうとし始めたら、その借金の肩代わりをしてくれる人が増えてくるの。縁ある人から、縁ある神さまから応援が来るわけ。真剣になるほど、応援が大きくなるの。その借金を肩代わりして返してくれる。借金がある時は、借金取りが来たら働くに働けない。返そうにも返せなくなる。借金取りが来なかったら、働く時間が出来てくる。働いてちょっとでも返していける。まず借金取りが来ないようにしてもらう。肩代わりで借金を返してもらうの、先にね。それで助けてもらったのを感謝して受けて、恩返しに生きようとし始めるの。

 自分が働いて恩返しに生きて、この借金を返していくの。それがまた人助けというすがたで、自分の借金と同じものを返していくわけ。人に返してもらったのはまだ、借金返したのと違うね。自分で返してないから。だから今度は自分で自分の分ぐらいは返していくの。これが恩返しの生き方。菩薩・仏ってみんなそう。恩返しで人助けして、自分の借金を全部自分の力で返したい、そしたら本当の借金返し。

 それを更に進めると、虚の世界の全てを消しきっていく生き方。自分を与え尽して、与え尽して、一切の我を消しきっていくの。我の無い自分に、無色透明の本当の本心に戻ったら、これですべての借金消えてしまう。

 恩返しも二通りある。虚の世界の恩返しと、真実の世界に戻っての恩返しと。真実の世界に戻っての恩返しになれば、安心よね。あとはもう、一大循環のままに幸せだけが循環するの。
        ありがとうございます












◇53

 虚の世界に下から上へ昇ろうとする生き方と、上から下に落ちていく生き方と二通りある。同じ世界に住んでるのでも、上から落ちてきて同じところにいるのと、下から上がってきて同じところにいるのと、両方あるの。真実の世界から落ちたばっかしの仏・菩薩もあるの。下から苦労して、助けてもらって、努力に努力を重ねて上まで上がってきた菩薩・仏もあるの。同じではないの。

 この世も、あの世の縮図だから、心境落としていく人と、心境上げていく人と、二通りあるの。この世の両方のすがた、どちらもあの世のすがたを軽くするため。上から下に落ちるのを軽くするために、上から下に落ちるのは、早く落ちるのは嫌だから、できるだけ途中で止めてくれるの。それが、この世の上から下に落ちるすがた。下から上に上がるのは早い方がいい。出来るだけ早く、引き上げてほしいの、あの世で早く上げてもらうための、この世のすがた。

 この二通りあるというのを、しっかりと見てないと、どれがどれだかわからなくなる。

 自由意志で、どんな言葉でも選び直せる。下へ落ちようとしたら、落ち続ける言葉を選び続けたらいい。でも途中でUターンできるの。自由だから。言葉を変えたら、途中でまたUターンして、真実の世界にも戻れるの。全部が地獄まで落ちないの、一部が落ちるの。代表で。
 真実の世界が入れ子構造で、絶対の中心に近いものは大きくUターンする。同じ原理。虚の世界も、高い世界ほど早くUターンする人が多い。末端に行くほど、Uターンが少なく小さくなっていく。


◇54

 救いに立つのでも二通りあるの。下から上へ登っていく人は、下に巻き込まれない。でも上から下へ、救いに立とうとしたら、巻き込まれて落ちていくの。

 虚の世界に落ちた新米が、経験のない人が、救いに立ったら、そこに巻き込まれて、落ちてしまう。溺れている人を救うのでも、水泳の達人だったら上手に助ける。でも経験のない人は、いくら自分が泳げても、しがみつかれたら泳げない。そういう人は、一緒に溺れてしまう。

 神さまの愛の働きを大きく感じ取って、本当の恩返し一筋の心になった人が一番、力があるの。

 どのマイナスを消すか。落ちていく人のを軽くするために消すのか、上がってくる人の分を消すのか、色々なの。あの世から色んな人が消すものを持ってくるから、混ざり合ってるの。沢山混ざり合って、一つのとこへ持ってきて、消そうとする。

 ごみの収集は、一軒一軒から出たごみ、全部集めて一か所で燃やす。それと同じ。あの世のマイナスもいたるところから、早く消してほしいもの集めてくる。

 本心側に立つ自分は、総責任者、全ての責任を自分に持ってくる。自分一人でも消そうとする。だからどんな消し方をしてくれるのも、自分のマイナスを消してもらったと、受け取るのが正しい。まず自分一人でも消さんならんから、自分のマイナス、全部ね。自分が、責任もって消す、そういう決意を持ったマイナスだから、誰が助けてくれても、自分の身代わり肩代わり。

 この世のマイナスの無いすがた、無難のすがたも、大きい肩代わり。大勢が大難を無難に変えている、そういう助けをして助けてくれている、という見方が大事。この世の全てが、自分の身代わりにマイナスを大きく消す、手助けをしてくれている。こういう受け方がいい。その根本は、真(まこと)の神さまの愛の計らいで、すべてを動員して、消し続けて、助けてくれている。

 真(まこと)の神さまを与えたら、虚なんかない。自分が相手にするのは、真(まこと)の神さまだけになる。どこへ与えても、真(まこと)の神さまだけを与えているから、自分には真(まこと)の神さましかないの。それが全てなの。それを連続して与え続けたら、無色透明の自分の中を、神さまが通り抜けるだけ。本当の意味で、受けたことになる、真(まこと)の神さまを受け続けたことになる。表面のちょっと受けるのと違うの。自分の中を通り抜けたら、神さまそのものを全部受けたことになる。それが連続して永遠にずーっと続く。

 だから与え続けるありがとうございますがいるの。本心の心で、無色透明の自分が、真(まこと)のありがとうございますを、ありがとうございます、ありがとうございますで真(まこと)の神さまを、真(まこと)のプラスを、一大循環の相象を与え続ける。全てに対して。



      ありがとうございます


◇55

 受ける時に、現実に形に現れた七難八苦の方を掴むか、新たな神さまの愛を掴むか、なの。形の方を掴んだら落ちていく方。七難八苦の方を掴んだら落ちていく側なの。逆に神さまの愛の方を掴んだら、受け直したら、上がっていく方なの。

 現実の方を見て、世界に、色んなマイナスが一杯あると見ると、落ちていくの。どんな姿が周りに見えても、消えて行っている、消してもらってる、ありがとうございますと見ると、上がっていく。

 それで神さまの大きい愛だけを、感じ取ろうとするの。
 上へあがる菩薩は、突き放すの。与えたと掴まないの。謙虚になって、神さまのお蔭で、神さまの力で、神さまの働きで、自分は何もしてないけど、神さまが与えてくださったという感覚。
 自分を掴まないの。自分のしたことも掴まないの。これ上へあがる生き方なの。

 真(まこと)の自分は、本当の自由自在な無色透明の自分。だからこれが自分、これが自分のもの、一切掴んでない自分。真(まこと)の神さまが自分の中を通り抜けるだけ。だから一切、自分も自分のものもないの。

 真(まこと)のお祈りは、真(まこと)の神さまを与え尽す、真(まこと)のプラスを与え尽す、一大循環の相象を与え尽す生き方。どこにも自分というの、出てこないの。

 祈ると言うのは、与えること。与え続けるのが祈り。形は相手にしないの。虚の世界にいてるから、その人が虚のすがたかって違うの。どの立場にあっても、みんな自由自在な、無色透明の意識。形で差別はしないの。全てに対して真(まこと)の神さまを与え続ける。真(まこと)の神さまだけを与え続ける。真(まこと)の神さまだけが全てに降り注がれていく。

 透明なガラス玉一杯ばーっとここに撒いたとする。見えないの。触ったら感じるの。見るよりも触る方が、感じるの。無色透明な神さまが自分の中を通り抜けてくれたら、見てないけどもわかるの。これが真(まこと)の神さま、真(まこと)のプラス、一大循環の相象って、体で感じるの。肌で感じる。そういう感じ方の方が、見て感じるよりも、遙かに上なの。だから与え続けることによって、自分の中を通り抜けたら、本当に受け続けて、感じたことになる。これが真(まこと)の神さまを受け続ける、感じ取る一番の、唯一の方法。
 真(まこと)の神さまを、与えて与えて与え尽し続ける、これをみんな目指すの。

 下から上へあがろうというのは、言葉を順番にプラスに変えていけばそうだけど、絶対の中心から、新たに新たに出てくるという風に見たら、一瞬で変わる。一瞬に与えっぱなしになれる。最初から断定すればいいの。無色透明の自分!一切の我の無い無色透明の自分!そこでもう何も掴んでない。過去も過去世も掴んでない。今の自分の立場を掴んでない。一切の我の無い無色透明の自分はそう。本当の白紙の状態で出発点に立っているの。そのあと、今選んで使う言葉の通りになるの、すぐに。

 それが本当の自分。自由自在な無色透明の自分。絶対過去や過去世には縛られない。また言葉にも縛られない。常に新たな今を、生きようとする。それも神さまと同じように与え続ける生き方。それも大きく大きく与える生き方。


◇56

 常に真(まこと)の神さまだけ。真(まこと)の神さましかないの。真(まこと)の神さまが全て。一瞬一瞬がそうなる。ありがとうございますという、真(まこと)のありがとうございますのお祈りがそう。虚の何も相手にしていない。常に真(まこと)の神さまだけ。これから真(まこと)の神さまに出会うのと違う。元から真(まこと)の神さまだけ。全部が真(まこと)の神さまだけ。それ以外何もないの。虚の世界に対してでも、真(まこと)の神さまを与えたら真(まこと)の神さま。もう一瞬の隙間もなく与え続けたら、虚なんかないの。真(まこと)の神さまだけ、常に真(まこと)の神さまだけ。

 過去も過去の残像も何も関係ないの。いつも真(まこと)の神さまだけがいい。真(まこと)の神さまだけと断定する限りは、自分があったらだめよ。常に無色透明の自分と、断定的に言っていること。真(まこと)の神さまだけというのは、我のある自分はないという意味。ここに自分があると主張しないために、真(まこと)の神さまだけと言い続けている。ありがとうございますはね。

 ありがとうございますとずーっと唱え続けてないと、我の自分が出てくる。光のないところは、闇が忍び寄る。プラスを与え続けないと、マイナスに見える。祈り続けたら、真(まこと)の神さまだけ。祈りを忘れたら、我の自分が出てくる。だから、一瞬の隙間もなく徹底する。ありがとうございます、ありがとうございます。真(まこと)の神さまだけって。断定の祈り。それを徹底するだけ。

 絶対過去を掴まない。マイナスの一言、絶対使わない。最高のプラスの言葉だけを使って、新たに新たに、受け直すために与え続ける。祈り続けたら、与え続けたこと。自分が祈り続けたら、周りの全てが祈り続けてくれている。自分と同じ姿で助け続けてくれるの。支えてくれている。だから、自分の祈りが、より完璧になる。


◇57

 祈りというのは、言葉を与えるの。宣言してる。どういう言葉を与えるかによって、祈りに色んな種類、段階がある。
 真(まこと)のありがとうございますを祈り続けて、真(まこと)の神さまを与え続ける。与え続けることによって、無色透明の自分の中を真(まこと)の神さまが、流れ入って、中を通り抜けて循環してる。無色透明の自分であるから、与え続けて中を通り抜けて循環してくれる。与え続けることが受け続けることになる。また神さまの全てを、心行くまで味わって実感できる。

 だからすべて本当は言葉通り。自分の選んで駆使する言葉通りに全部決まっている。

 祈りを忘れたら、何も与えてないことになる。一回ありがとうございますを忘れたら、その空白が生まれてる。与えてないというのが、そこに生まれているの。与え続けてこそ、循環を助けている。祈らなかったら、止まってしまってる。循環が、止まってるの。

 だから本心の自分は祈り続けないと。一瞬たりとも、休むことなく祈り続けてこそ、本心の自分。

 真(まこと)の神さまを与え続ける、一大循環の相象を与え続ける、循環が止まらないように、スピードを加速していくの。そしたらお祈りがずーっと続く。みんなからも、同じように祈りを与え続けてくれる、自分のした通りに与え続けてくれる、バックアップが無限倍。虚の世界に落ちること絶対にないの。虚の世界に落ちた人は、与え続けるお祈りを忘れたの。

 本心の自分のお祈りは、与え続けるお祈り。それも真(まこと)の神さまを与え続けるお祈り。真(まこと)のプラスを与え続けるお祈り。一大循環の相象を与え続けるお祈り。与え続けたら、受け続けることが出来る。

 与え続けるお祈りに変わったら、どんなマイナスも一瞬に消せる。病気でも瞬時に治る。

 与え続ける、ありがとうございますは、一大奇蹟の連続になる。真(まこと)の神さまのバックアップが一杯になるから、どんなマイナスもすっと消える。自分の自由意志で選んで、実行するだけ。

 与えるお祈りを実行したら、神さまのバックアップがあるの。無限倍、入れ子構造の無限倍の、応援が常にあるの。それが本心の祈り。真(まこと)のありがとうございますという祈りになるの。

 自分が実行しないと、同じすがたで助けてもらえない。支え合いの神さまの世界は、自分のした通りに支えてくれる。自分が支えなかったら、誰も支えてくれない。自分とそっくりさんが、周りに現れる。虚の世界もそうだけど。実の世界もそうなの。自分が与えた通りに与えてくれる。これは自分の自由意志を、絶対縛ってこないためなの。

 自分の生き方と、同じものを与えてもらえないと、人は自由を縛られた状態。自分の定めた通りに、実行した通りに、同じすがたで、全体から、無限倍の助けが来るの。これが本当の原理、法則。だから与え続けるお祈り、これが実行出来たら、神さまの世界になる。


◇58

 プラスの言葉を与えたら、貯金。マイナスの言葉を与えたら、借金。マイナスの言葉一杯言われたら借金返し。
 自分にマイナスが、借金がなかったら、マイナスの言葉を言われるほど、貯金が増えるの。その貯金は、人助けに役に立つの。本当の人助けの力がたくさんほしい人は、良いことしながら悪く言われるほどいい。

 貯金を増やしとかないと、助けてあげたいときに、さっと助けられない。どんな助けもさっと助けないと、時間かけてたら、マイナスってみんな利息増えて、どんどん膨らむから、追いつかないの。一気にさっと助けるのが、本当の助け方。大きい貯金をぱっと与えないと。元の借金の元金をパッと消せない。

 だから人助けを本当にしたいと願う人は、大きいマイナスを自ら背負うの。悪く言われる方を選ぶの。ひどい仕打ちを受ける方を選んで、人助けの徳を増やすの。それを人助けしたい人に与えて、さっと根本から助けるの。それが菩薩行の姿。
 仕事でも、人の嫌がるきつい・危険な・きたない仕事を喜んでするのが菩薩の仕事。

 ありがとうございますの、本当の意味が分かるほど、それを選ばずにおれない自分が、必ず出てきている。選び続ける自分になっている。本当の価値がわからないと選べない。あとは、選び続けたらいいだけ。一回選ぶごとに、大きい力が降り注いでいる。自分の過去のマイナスも、縁者のマイナスも、どんどん消されている。心がどんどん軽くなる。

 縁者の分も全部、自分の心を通過して、神さまの世界に送り返している。自分が神さまへ送り返す、通路になっている。その通過するときに、ありがとうございますがあったら、全部形に出ずに、全部消える。マイナスの思いという風に感じずに、すうっと消えていく。

 自分がこのマイナスを、借金を、本当に減らそうとしているかどうか。表面のこの世的な楽だけを、求めていないかどうか。本当に借金を減らそうと言うのだったら、この一生、七難八苦の連続でも喜ばないと。大難を小難にして、ずーっと連続して消し続けてもらっている、借金がどんどん減って、ああ有難いという気持ちで、この世のマイナスは、喜び勇んで受けないといけない。


◇59

 本当のお祈りは、密かなお祈り。人にあの人お祈りしてるなんて、気付かれたら、自分が出てくるから。人に自分というのを、認められてしまうと、有名なの。本当の働きは、神さまをそこへ与えて行くだけ。真(まこと)の神さまをそこに、与え続けるのが本当の働き。でも自分の持っているもの与えるのは、まだ我がいっぱいついたものを与えて、マイナス。だから徹底して自分を隠さないと。

 自分の名が出た時に、どうしたらそれを消してもらえるか。いいことして悪く言われるほど、我が消える。消してもらえる。神さまの働きだけになって来る。でも油断すると、みんなが名を出してくれる、困るの。悪く言ってもらった方が、消してもらって、我の無い自分に戻れる。

 常にいいことをしながら、悪く言われる方がいいの。悪く言われるのが、有名税払ったことになるの。それで本当の働きが大きく加わって来る。本当の救いの働きをさせてもらわない限り、幸せじゃないから。

 真(まこと)のありがとうございますというのは、密かに真(まこと)の神さまを与え続ける働き。

 本当のお祈りをするために、有名税で、マイナスを我を、消してもらうのが一番幸せ。悪く言われても、言われても、それをプラスに変えていくのが本物。

 だから悪く言われるほど、喜んで、いいことをし続ける。それも密かに祈り続けるというのが、一番幸せな生き方。

 本当の自分は、一切の我の無い無色透明の自由自在心。
 形を見て、その人がそこにいると、決めつけられない。過去にそこに意識を置いていたかもしれないけど、今は置いてないかもしれない。今どこにその人の意識があるか、わからない。またどれだけ大きい立場で、全体を見てるかどうかもわからない。小さい中に入っていると、決めつける方が、自分が小さくなっている可能性が大きい。

 だからみんなの本心を見るんだったら、一切の我の無い無色透明の自由自在心を見ないと。これが根本。



               ありがとうございます





◇60

 真(まこと)のありがとうございますを、祈り続けることが、真(まこと)の神さまを与え続けている、真(まこと)のプラスを与え続けている、一大循環の愛のすがたを与え続けていることになる。その生き方だけが、虚の世界の菩薩をも、バックアップして助けているすがた。虚のすがただけだと力ないの。真(まこと)の神さまの助けが、連続してずっと来ない限り、虚の世界は一瞬に力消えるの。虚の世界で、菩薩がいいこと出来るのは、真(まこと)の神さまの光が、降り注いでいるから。

 どんな場合でも、真(まこと)のありがとうございますを祈って、光を送り続けるというのが、根本的に一番大事な生き方。それが出来る人が、みんなを菩薩として、使ってるの。みんなに菩薩行させることになる。自分が一人菩薩では、たいしたことない。みんなを菩薩にしてしまう生き方。虚の世界の、全ての菩薩に、ありがとうございますって、真(まこと)のありがとうございますを捧げ尽くして、真(まこと)の神さまを与え続けて、真(まこと)のプラスを与え続けて、一大循環の相象を与え続けて、本当の菩薩行に変えていくの。プラスの働きも、マイナスの働きも同時に、大きくマイナスを軽減させる働き。

 ホントの自分は元から、一切の我の無い無色透明な自由自在心の意識。祈り続ける自分は、全体を自分として受けられる自分。無限の菩薩がいてたら、無限の菩薩が自分。だからこの世の人も、あの世の人も、全てを菩薩行に使えるのが、本心の自分。

 虚の世界を救うためだったら、虚の世界に真(まこと)の神さまを与え続けないと。一瞬でも与えるのを忘れたら、虚の世界になる。だから祈り続けるしかない。祈り続けてこそ、真実の世界。祈りを忘れたら、虚の世界になっていく。

 神さまの愛によって、マイナスを消してもらうための、受け場が必要になる。それがお祈りとか奉仕の生き方。そしたら、万分の一、億分の一に、済ましてもらえるチャンスを与えてもらうの。だから、そういう場を自分が選ぶか選ばないかで、大きい違いになる。

 色んなマイナスの姿を勉強するのも、お祈りの必要性を感じ取るためにしている。お祈りを忘れないように、命がけでできるようにって。祈り続けないと解決せんから、それで祈りを忘れずに済む。

 この世の奉仕作業は、何かをしているのと違う。大きいマイナスを消し続けている、消し続けてもらっている場。
 だから、どれだけ大きく喜べるか。大きく神さまの愛を感じ取れるか。これだけ。

 与え尽くす恩返しの奉仕作業というのは、みんな、お祈りをしやすくするためのもの。与え続けるお祈りは、与え尽くす自分でないとできないの。だから、奉仕作業をしている自分が、与え尽くすお祈りを一番しやすい、しやすくなるの。

 真(まこと)のありがとうございますは、絶対他力の祈り言葉。それだけを祈ったらいいんだし、バックアップが大きいから、邪魔するもの全部消し続けてくれて、祈りやすくなって、最短コースで本心の自分に戻る。
                  ありがとうございます
◇61

 マイ、私の、為すこと、マイナスよね。過去を掴んだ自分って、みんなマイナスの自分。
 虚の世界というのはみんな、過去に積み重ねた言葉、思いの投影。だから走馬灯とか、影絵。光がどれだけ強く放射されるかによって、影絵も明るい影絵、暗い影絵って、生まれる。明るいほどホントはいいの。それも全方向から光が来ると影が消えるの。
 真(まこと)のありがとうございますを祈り続けてこそ、真(まこと)の神さまを、真(まこと)のプラスを与え続けることになる。それが全てに対して、与えることになったら、全方向から真(まこと)の神さまが、真(まこと)のプラスが、大きい光になって、全体から降り注ぐ。そしたらどこにも影も闇もない。

 日常生活の中で、どれだけ真剣に、ありがとうございますと唱え続けられるか。虚の世界の影絵として何しても、あまり大したことない。虚の世界全体へ、どれだけ大きい光を投げかけるか、与えていくかが大事なだけ。

 真(まこと)のありがとうございますを祈るということは、真(まこと)の神さまを与えること。真(まこと)のプラスを与えること。一大循環の相象を与えること。だから祈り続けることで、真(まこと)の神さまを与え続けたら、それも全ての全てに対して与え続けられたら、虚の世界が消えていく。影もマイナスも闇も全部消えるの。

 神さまの愛の光をどれだけ感じるかで、プラスに感じるの。だから下から上を見てではない。神さまの方へ向いているから、プラスを感じる。
 だから神さまの光を、与え続けて、浴びせ続けて、感じやすくしていく、と言うだけがプラスの生き方。

 真(まこと)の自分、本心の自分は、過去を掴まない自分。一切の我が無い自分、無色透明の自分、自由自在心の自分。その自由自在の自分が、ありがとうございますを唱え続ける、祈り続ける、与え続ける。それも心の奥深くで、密かに。

 だから表面ではない。表面の影絵の世界、走馬灯のような世界ではないの。真(まこと)の自分、本心の自分のすがたは、無色透明だから、形に現れない。ただ、ありがとうございますを祈り続けて、大きい光を与え続けるの。全ての全てに対して。これも形ではない。全ての、自由自在心の一人ひとりに対して。真(まこと)の神さまを与え続ける。どこまでもどこまでも、与え続ける。

 無限のマイナスが積み重なって、その意識を邪魔してても、そんなの無関係なの。真(まこと)の神さまを与え続けたら、邪魔するもの全部消えていく。真(まこと)の神さましかないようにしてしまえば、自由自在心は、真(まこと)の神さまだけを感じ取る。

 過去のマイナスの言葉を、積み重ねたから、どうのこうのはもう、必要ない。真(まこと)の神さまさえ、与え続けられたら、過去の全部は、消されていく。一人ひとりの自由自在心は、真(まこと)の神さまを感じ取る。お互いがそういうように、与えあえば、みんなが全方向から、大きい光を与え続けて、影も闇も全部、どこにも存在できないようにしてしまえる。

 小さい菩薩とか、仏としての生き方ではないの。菩薩の自分、仏の自分と掴んだら、形を掴んだら、小さくなる。真(まこと)の自分は、一切の我の無いというのは、形あるもの何も、一つも掴んでない、という意味。本当の無色透明の自由自在な意識、だから何にも縛られる必要ない、縛られない。
 それで真(まこと)の神さまだけが、常に、自分の中を通り抜ける。自分の中を循環するの。


◇62

 みんなが助け続けてくれて、真(まこと)の神さまが大きい光を、与え続けてくるから、どんなマイナスも、無限の努力をしないと、マイナスを保つわけにはいかない。ホントは地獄絵図と言っても、それを保つのが大変なの。神さまの愛の働きに抵抗して、拒絶し続けても、なかなか大変なの。神さまから見たら、一瞬の、苦しみ。呼吸を止めて苦しいと言ってるだけの話。

 一大循環の相象の神さまの愛の働きって、ホントは止めようがないの。みんな努力して一生懸命止めても、止めたように思っているけども、ホントは止まってない。

 祈りを忘れる、一瞬忘れる方が難しい。ホントは祈り続けている自分しかないの。ありがとうございます唱えたら、すぐに戻っているのに気付く。

 迷っていると言ったら、一瞬、迷った錯覚を起こすだけ。悟っていると言ったら、悟っている自覚に戻るだけ。

 ホント、言葉通りに一瞬、なっているだけ。だからマイナスの方は、一瞬、錯覚を起こしているだけ。実際、マイナスではないの。一瞬の錯覚。だから言葉だけ変えたら、一瞬に、元に戻るの。真(まこと)のプラスに戻ってしまう。真(まこと)のありがとうございますと一言、選んで唱えたら、祈ったら、すぐに戻るの。一大循環の相象に戻るの。真(まこと)のプラスだけに戻るの。真(まこと)の神さまそのものに戻るの。

 祈ることは与えること。自分が与えるから、全体からも与え返される。神さまのバックアップが大きく出てくる。だから祈りに祈れば、絶対、真(まこと)の神さまの自覚って、失われることはない。常に、真(まこと)の神さまの自覚が湧き上がる。無条件の幸せが湧き上がる。

 難しく考える必要、全然ない。一言、ありがとうございますで、一瞬に変わる。元に戻るだけだから、一瞬の働きで変わる。元からマイナスがないから、プラスに戻るのは当たり前なの。マイナスは一瞬の錯覚だけ。本当のマイナスなんてないの、一瞬の錯覚、地獄絵図も一瞬の錯覚。一大循環の本当の愛の働きだけ。一大循環の働きは、本当に必要なものを与える働き。



                  
                  
                  ありがとうございます
                  



◇63

 必要なものって何と思う?
 必要なものを与えると言うのは、真(まこと)の神さまを与え続けること。真(まこと)の神さまと一つに繋がること。真(まこと)の神さまが自分の心の中を通り抜けること。

 真(まこと)の神さまがいつも一大循環の相象で、みんなの自由自在心の無色透明の心の中を通り抜けてくれてる。これが必要なことなの。神さまの働きがそのまま必要なこと。本当の必要なものを与えると言うのは、真(まこと)の神さまを与え続ける、祈り。ありがとうございますを祈り続けること。それが必要なものを与え続けるすがた。

 祈り続けることが、全てに対して、必要なものを的確に与え尽しているすがた。一番楽な与え方。難しくない。ありがとうございます、ありがとうございます、与え続けるだけ、祈り続けるだけ。全てが幸せになれる。

 ありがとうございますを祈り続ける、これだけで、もう十分なの。あと何もいらない。後はありがとうございますの祈りによって、真(まこと)のプラスが降り注いで、全てがプラスになって移り変わるだけ。

 自分とは何か、本当の自分とは何か、これ一番大事な根本命題。自分の一番納得できる答えが正しい答え。だから、これが自分と決めて、納得できるかどうかを、もう一回考えたらいい。肉体が自分だったら、みんな絶対納得しない。必ず寿命がきたら死ぬ、消える。それで喜べるの?満足できる?絶対そういうこと、ありえない。本心の自分がそれを認めない。永遠の自分、完璧な自分、本当に真(まこと)の神さまそのものでないと納得しない。だから、とことん自分を見つめ直さないと。


◇64

 悟りを求めて生きる人は、何十年願掛けするの。絶対に口を開かないってね。本当の無言の行に入るのは、本当に厳しい。
 それは何のためかと言うと、マイナスの言葉を一切使わないための、訓練をしてるの。今度は、神さまのプラスの言葉だけが出てくるようになったら、本当の無言の行をしてるの。神さまの言葉を発してる限りは、マイナスの一言絶対使ってないし、本当の無言の行。マイナスの一言使わないという意味でも、無言の行。神さまの働きと一つになってたら、いいだけ。そしたら全てがプラスの行。

 今というのは真(まこと)の神さまの別名。今を生きるというのも、真(まこと)の神さまを生きるという意味。

 虚の世界は、神さまのすがたの一部を、残像の世界において、それを引き延ばして、一瞬に全部把握できないから、無限の年月に引き延ばして、見ようという世界、感じようという世界。だから時間と空間の両極が現れて、時空一如の原理から、感じる空間が大きかったら、時間が短くなる。それを一瞬に感じ取れなかったら、少しずつ、味わうから、時間が長くなっていく。だから空間が狭まると、時間が長くなる。

 極楽はプラスの多い世界だから、時間の経つのを感じない。時間がわからないくらい、時間消えるぐらいの感覚になる。でも地獄は長く感じる。地獄は空間が狭まって、穴があったら入りたいという世界だから、時間が無限に長くなる。

 永遠の中今というのは、真(まこと)の神さまの世界の、今、神さまの本当の働き。常に最高状態が、連続するの。一大循環の相象が、流動体が、完璧なすがたが、常に永遠に、連続してあるとう意味。

 真(まこと)の祈り、真祈りができるようになったら、今を生きている、真(まこと)の神さまを生きている、一大循環の世界に生きている。

 虚の世界のばらばらの感覚が消えるまで、本物を相手にする。虚を相手にするのと違うの。虚から逃げるのでもない、闇を消すのは、光を持ってくればいいだけ。虚を消すのも、実を持ってくればいいだけ。だから、真(まこと)の神さまだけを相手にするの。それで虚も闇も消える、マイナスも消えてしまう。
◇65

 ウサギがカメを追い越せるかどうか。
 ウサギがカメに追いついたとする。その時間の間に、カメはちょっと前に出てるというの。またウサギがカメに追いつく。その間にちょっと前に出てる。また追いつく、必ずちょっと前に出る。どこまでも、無限分の一秒までね、差がある。だからウサギはカメに絶対追いつけない。

 こういうことはあり得ないんだけど、そういう風に見ると、ウサギがカメに追いついたという現象のすがた、色んな現実のすがたが、嘘ではないかとなるの。だから追いついたのではなしに、離れてるウサギとカメがあって、引っ付いているウサギとカメがあって、ウサギが前に出てるすがたがあってという風に、連続してないのを、つないでるだけではないかって。本当はそうよね。
 だから追い越したというすがたを先に掴んだら、もう勝手に追い越してるの。

 饅頭をいつ食べるのか。過去は過ぎ去ったから無理。未来はまだ来てないから無理。現在と言う一点に限りなく近づこうとしたとする。
 万分の一秒でも過ぎ去ったら過去。億分の一秒でも過ぎ去ったら過去。無限分の一秒でも過ぎ去ったら過去。万分の一秒でも、億分の一秒でも、無限分の一秒でも、まだ来ていなかったら未来。
 過去にもならない、未来にもならない、現在という無限分の一秒を、本当にとらえて食べられるかどうか。不可能。だから食べられない。

 物を手でつかめるかどうか。物も手も原子の集合体。原子は原子核の周りを、電子が回っている。その原子核をピンポン球に例えたら、2km位の半径で電子が回っている。原子と原子を合わせても、通り抜けてしまって、つかめない。

 悟りを求めて修行してもつかめるかどうか。
 ①悟りを追いかけても追いつけない。
 ②無限分の一秒の短い時間では、無理。
 ③つかもうとしてもすりぬけてつかめない。
◇66

 悟りというのは、そういうつなぎ合わせたすがたでは、わからないの。
 悟りはあくまでも、結果を掴むの、先に。今ここから順番に修行して悟るというのだったら、掴めない。順番に段階を追って、悟ろうとするのは、絶対にゴールに近づかないの。すでに悟っていると結果を先に掴んでしまったら、ゴールを先に掴んだら、あとは今どこにいてても、すーっと入ってしまうの。途中どんなつなげ方しても関係ないの。一番最後の結果だけ、的だけ、ゴールだけを掴んだらいい。それが悟りを掴む方法なの。

 だから今を掴むこと。真(まこと)の神さまだけを掴むこと。それだけを言葉にしたら、自分の自由自在な意識がそこにぴたっと、ぴたっと当たるわけ。矢が的に当たるように。そしたら悟った自分、真(まこと)の神さまと一体の、真(まこと)の神さまだけが全てという、実感が湧き上がるの。

 過去現在未来を掴む思いの心で、いくら何かを考えても、違うの。考える心ではわからない。真(まこと)の神さまを信じる心だけ。真(まこと)の神さまは絶対の愛で、完璧。真(まこと)の神さまを信じる言葉が、本当の信になって、本物を実感するの。だから言葉選び。本当のプラスの言葉選びだけが必要で、それをしっかりと唱えるだけが正しい。

 神さまが完璧なすがたで、連続して循環してても、同じすがたは取ってないの。必ず、更に素晴らしいすがたをとるから、それを実感し続けるためには、ありがとうございますを、真剣に祈り続けて、連続させないとダメ。

 この連続というのが一番大事。自分一人が、ありがとうございますありがとうございます唱えても、連続してない。連続させるのは、みんなの全体の助けがないと、連続しないの。みんなに与え尽すお祈りを実行するの。みんなに与え尽すお祈りを実行すると、みんなからも同じように与え尽すお祈りを、注いでくる。それが隙間を埋めてくれるの。与え尽すお祈りが、全ての祈りを受け続けて、隙間の無い連続した本当のお祈りに変えてくれる。祈り続けることによって、神さまと離れることが絶対にないようになる。更に神さまの自覚、一体感が大きく深くなっていく。


◇67

 与え続けるお祈りに、変わったら何の心配もないの。ありがとうございますは、自由自在な意識の全てに対して、真(まこと)の神さまを与え続けてる。祈りというのは、与えるという意味。与えるのが祈りなの。一大循環の相象を与え続けてる、これが祈りなの。

 ありがとうございますと唱えることは、真(まこと)の神さまを与え続けてるの。与え続けることによって、真(まこと)の神さまが自分の中を循環して、全てを受け続けて、味わい続けられるの。与え続けることが、循環を加速して、助けてるから、更に大きい循環が、速くなって、循環が通り抜けてくれる。より大きいものを受けられるというすがたをとるの。

 無限のスピードというのは、決まってないの。限界ないの。このスピードという数値ではないの。どこまでもどこまでも、速くもなるし、遅くもなるの。更に速くしよう、加速しようというのが、正しい。

 ありがとうございますが、単なる感謝やお礼だったら、なんの力もない。プラスの言葉ではあっても、なんの力もない。循環させる力なんかない。一瞬、ちょっと小さく受け取るだけの力。それもプラスにちょっと受けたという位の力。

 一番自然なすがたに、元のすがたに戻るだけというのが、お祈り。
 神さまの働きを邪魔しない、というのが大事なの。邪魔しない生き方が、お祈り。難しいのと違う。神さまの愛の働きの邪魔をしなかったらいいだけ。だから我を無くしたらいいだけ。これが自分、これが自分のものって、つまらんものつかんで、神さまの働きの邪魔さえしなかったらいいの。全託してお任せ。本当に生かされてるんだし、必要なもの的確に与えてもらっているんだし、無条件の幸せがいつも湧き上がるようにしてもらっているんだから。全て、叶えられている。必要なもの、全部与えられている。それを、自然に受け続けるだけ。

 だから一番自然な、一番楽な生き方に戻ること。本当の赤ん坊になること。神さまが本当の親で、赤ん坊の自分を見守り続けてるというすがたに戻ること。
 だからどこにもマイナスがないし、我が出なくなる。すーすーだけになる。がーがーはうるさいけど。

 みんな引っかかるのは、言葉よ。すがたじゃない、形じゃない、言葉。だからプラスの言葉を真剣に唱えてたら、マイナスの言葉が入ってこないの、引っかからないの。自分が本当にプラスの言葉だけを真剣に唱えた時は、マイナスの影響一切受けない。


◇68

 祈り続けて、真(まこと)の神さまを派遣すればいいの。そうすると、相手に応じて一人一人に合わして、必要なものを与え続けてくれたら、みんな欲の心、消えていく。

 みんなひとりひとり願うことが違うから、願っていることを与え続けたら、みんな欲の心から解放されていく。
 虚を消すのも、真実を与え続けて消す。虚の色んな姿を消すの、全部そう。真(まこと)の神さまだけ与え続けたら、ちゃんと消していってくれる。自分が消そうというのは、巻き込まれるからダメ。ありがとうございますだけを唱えてて、全部神さまに任せる。そしたら、地獄絵図を見なくて済むようになる。

 本当の真剣さがあるかどうか。砂漠を旅して、一滴の水が欲しいという時の真剣さと比べてごらん。本当にそこまで真剣かどうか。
 お祈りもそう。そこまで必要性のあるお祈りだったら、真剣なお祈りに変わる。すぐに。本当の力のあるお祈りにすぐ変わる。

 みんな、お祈りを反対されたら、お祈りがしやすくなる。とことん邪魔し続けてあげたら、誰が反対しても、お祈りするようになる。甘い勧め方したら、お祈りできなくなる。

 大抵、途中で捨ててしまうの。絶対必要と感じない。分かったつもりで卒業する。やっぱり自分で選んでない、という所がまず一番の問題点。人に勧められたら、人の支配を受けているという感じ。干渉されたとか、自由を奪われたとなる。そしたら、お祈りが浅くなる、甘くなる。そのうちに分かったつもりで卒業して終わり。

 だから、とことん反対された人のお祈りは、絶対崩れない。誰が反対しても大丈夫。それは、自分で選んだから。みんなに勧められて、お祈りしている人は、まだ心配。自分で選んだ人のお祈りは、絶対崩れないの、ずうっと続いている。
 苦労して手に入れたものは、価値があるから手放さない。

 他を先に悟らせようとして、自分は一番最後という人が悟るの。自分が先に悟りたいという人は悟らない。偽の悟りで終わってしまう。神さまのバックアップがないと、本当の悟りになれない。だから、支えるという事が大事。

 どんな分野も同じ。支えに回った人が、そこの場で一番上に押し上げてもらう。支えるのが一番力がいる。会社でも、上に立っている人は力がないから、すぐに落とされる。でも下から全部支えようとした人は、社長になっても本物だから、みんなから支えてもらって、本物の社長。


◇69

 真(まこと)の神さまの一大循環の相象がどれほど素晴らしいか、これ一番大事な根本。その一大循環の相象を一瞬止めて、掴んだと思うだけで、虚の世界が生まれる。本物との違い、どのぐらいの違いがある?
 無限の無限のゼロとの比較。だから虚の世界、掴んだと思う虚の世界全部、何もないの。ゼロ。

 最初に一大循環の相象を掴んで、これが自分と掴んだら、これが虚栄心。これが自分の物って掴んだら、執着心。過去を掴んで積み重ねたのが業想念。業想念の東西の両横綱。これが虚栄心と執着心なの。両横綱の下に一杯いてるの、業想念の色んな違いのすがたで、一杯控えてるわけ。下に一杯無限に。

 一切の我の無い、無色透明の、自由自在の自分。ここへ戻らないと、虚栄心があるの。

 過去を掴んで掴んで、掴むごとに、我が出てくる。掴み続けて、我が無限に一杯になったのが、一番下。我が多いほど下なの。我が少ないほど上なの。一回だけ掴んだ我だったら、仏界の最高の世界。一回しか掴んでないから、我が小さい、少ない。我を無限に無限に積み重ねたら、地獄のどん底。我が多い。

 上へ昇ろうとしている人は、我を消そうとしている、減らそうとしている。降りていく人は、我を増やし続ける。

 自分を認める、他人を認める、これ虚栄心。自分のことを言ってないと言っても、周りに全部自分の心を映しているから、自分の世界、自分なの。虚栄心の全体というのは、自分の見ている世界全体。小さくなってるのは、視野が狭いというだけで、全体が自分と思えないだけの話。ホントは全部自分なのに、気付かないだけ。



                  ありがとうございます





◇70

 自分が悟りたいというのが、なぜ虚栄心か。自分があるから。自分があるとまだ、虚栄心なの。もし自分が無くなったら、真(まこと)の神さまだけ。一大循環の相象だけ。これに徹底しないとダメ。

 どれだけ自分を立派に磨いても、自分がある限り、悟りではないの。真(まこと)の悟り、本当の悟りは、真(まこと)の神さまだけと徹底できないとダメ。自分があり、他人があったらダメ。

 自分よりも、他を先に悟らせようとするのが、なぜ大事か。他を悟らせようとするのは、自分がないからいい。自分がまずない。自分を無くそうという生き方。自分のことはもう、相手にしないという生き方。

 他を救おうというのでも、形を掴んだら、虚栄心。まだ負けてしまっている。形ではない。悟らせようというみんなは、一切の我の無い自由自在心のみんな。そこへ真(まこと)の神さまだけを、与え続ける。悟りを与えるというのは、真(まこと)の神さまを与えること。無色透明の自由自在心に、真(まこと)の神さまを与え続けたら、悟らせたことになる。そういう悟らせる生き方。みんなを先に、彼岸に渡したいというのは。

 自分のことは最後でもいい、みんなを幸せにしたい、最高のものを与えたいという、真(まこと)の神さまを与え続ける、ありがとうございますを与え続ける、徹底して与え続けるだけになると、真(まこと)の神さまだけ。そして自分に与え返されてくるのは、みんなから同じように、真(まこと)の神さまだけが与え返される。そうすると自分の受け取るのは、真(まこと)の神さまだけなの。自分が与え続けるありがとうございますよりも、全体から与え返されるありがとうございますの方が、無限倍になって返って来る。

 だから先に他を渡そうとする人は、一番先に、渡してもらえるの。それで自分のこと忘れて、他を渡そうとする、みんなを悟らせようとする、真(まこと)の神さまを与え続けようとするのが、正しい。無色透明の自由自在心は永遠に消えない、本物は消えない。でも形は、一瞬掴んだだけの形だから、何でも掴める。

 大きく掴んでも、小さく掴んでも、掴んだだけがその時の自分だけど、掴んだら、虚の世界。形を掴んだら虚の世界。掴まなかったら、循環のままに眺めているだけだったら、真実の世界。

 掴んだら、一瞬掴んだら、ちょっとしか掴んでない。ゼロに等しい。一大循環の相象が無限に無限に素晴らしい。それが永遠に続く、永続する相象。だから掴まないように眺める。眺めるというのは、全体を見ること。大きく深く。

 入れ子構造のすがたも、重層構造も、ところてん式のも、全てを見抜いて、一大循環の相象を見るの、これが眺める。

 与え続けるお祈りに、気付き始めて、実行し始めて、ありがとうございますと唱えることが、真(まこと)の神さまを、一大循環の相象を与え続ける、与え続けてることになってる。だから虚栄心は、自然に消える。消そうというのは、大変なの。我の心では虚栄心は絶対に消せない。

 真(まこと)の神さまを与え続けるお祈りをするだけで、全ての虚栄心を消すだけの力が、流れ込んでくる。循環が元に戻ったら、循環に気付いたら、虚栄心は消えているの。循環に気付いたら、虚栄心は元からないの。
 真(まこと)の神さまだけ。真(まこと)の降り注ぐプラスだけ。本当の一大循環の愛の働きだけになる。


◇71

 ありがとうございますを与え続けてないと、真(まこと)の神さまの中心に立てない。自分だけがありがとうございますを唱えてるのだったら、途切れる。ありがとうございます、次のありがとうございますの間、途切れてる。これだったら、隙間ができる。立ち続けてない。

 その隙間を埋めてもらうために、みんなに、ありがとうございますを与え続けてもらわないと。そのために、自分はありがとうございますをみんなに与え続けるの。みんなに与え続けるありがとうございますだから、みんなから無限倍になって、ありがとうございますが与え返されてくる。

 与え続けてもらえるから、1回のありがとうございますが無限の無限のありがとうございますに変化する。それで、連続したありがとうございますになる。隙間のないありがとうございますになる。常にありがとうございますの真(まこと)の神さまだけになる。自分も他人も出てこない。全部消えてない。真(まこと)の神さまだけが連続する。



             ありがとうございます





◇72

 悟りへの道、自力、他力、絶対他力と、大きく3つに分ける。
 自力は自分があるから、本当の悟りへは絶対到達できない。他力も自分と他、他力と分けている限りは、これも、虚の悟りで終わってしまう。絶対他力はなぜ、悟れるか。絶対と言うのは、自と他がないの。自他がないから、自他のない助けの力、これは真(まこと)の神さま。絶対他力は、真(まこと)の神さまのことなの。だから、ありがとうございますは、絶対他力の言葉。真(まこと)の神さまだから、悟れる。自も他もないから悟れる。その辺の区別は、大事。

 自力はどれだけ修行しても、難行苦行、何をしようが悟れない。自分があるかぎり。自分が消えていかない。虚の世界の他力で、どれだけ助けてもらっても、全て消しきる力はない。真(まこと)の神さまが出てこない限り、虚の世界、消してもらえない。本当の悟りにはならない。

 それで、絶対他力の真(まこと)の神さま、ありがとうございますに縋る(すが)るだけ。縋り続けるの。
 みんなと力を合わせて、支え合って、神さまに縋ったら、落ちこぼれがない。みんな、神さまに縋るって、一本の糸よ。この一本の糸は離したら終わり。みんなが一本の糸を神さまに繋げたら、綱になるの。一本糸が切れたって、綱から落ちることは、絶対にない。綱で押し上げてもらうの。

 神さまの救いの綱というのは、みんなが、この救いの綱になっているの。お祈りする人、全部がネット。何重にもなったネット、粗い目のネット、細かい目のネット、一杯あるの。それを全部組み合わせたら、最高の救いの綱。それで、落ちこぼれないように、みんなを引き上げてくれる。だから、支え合いが正しい。


◇73

 あるのを消すのではない。無かったと気づくだけが、虚を消している。一大循環の相象に気付くだけ。支え合いの中に、一大循環の相象があるから、支え合いのすがたの中から、感じ取るの。どんどん感じ取っていく。そしたら、元に戻るだけ。真(まこと)の神さまだけと戻るだけ。その確認が、ありがとうございますなの。

 無限の無限の虚栄心があっても、真(まこと)の一大循環のすがたと比較したら、何も無いということになる。そしたら、少々の虚栄心なんか元から無いと言える。全ての虚栄心まとめても、何も無い。それに気づいたら、虚栄心なんか探してもない。だから、どっちを先に認めるか。ありがとうございます、真(まこと)の神さまだけと言ったら、虚栄心とか虚の世界、無いの。元から無い。


◇74

 菩薩という言葉は菩提薩捶(ぼだいさった)の略。菩提というのが、真実の悟り、最高の悟り、本物の悟り。悟りへの道を歩むもの、これ菩提薩捶、菩薩なの。真実の悟りって、自分一人、悟ったというのは偽物。みんなが悟らないとダメ。だから、自分一人だけ悟ろうという生き方は、間違っている。本当の菩薩行にはならない。小さい菩薩行かもしれないけど。菩薩行にも本物と偽物があり、小さい、大きいがある。段階が色々ある。

 本当の菩薩行は、みんなを悟らせる生き方。それも真実の悟りを与える生き方、これを実践するのが菩薩。報いを求めず与え尽くすにしても、悟りへの道を歩ませる与え方。

 いくら必要なもの与えても、例えば、お腹がすいている人にご飯与えたって、悟りとはあまり関係ないかもしれない。いくら報い求めず与えていても、まだ菩薩行とは言えない。真(まこと)の悟りへの道と、違うかもしれない。根本に真(まこと)の悟りを置かないと。

 本当に悟りを開くために必要な物は何か、ほとんど何もいらない。本当に生きるため、悟りを開くために必要かって考えたら、家なんかいらないし、服も着た切りすずめでもいいし、食べ物も質素なものでいいし、必要な物って何もない。太陽があり、空気があり、水があり、もう全部与えてもらっている。必要な物は先に全部用意されている。逆に多すぎる。

 神さまは一生懸命光の循環をよくして速くして、悟りへの道を加速しようとしているけど、色んなものがありすぎて邪魔になっている。循環を止めているものがいっぱいある。これが自分にとって必要、大事と言うのは、執着している。執着心が、止める働きをしている。本当に何もいらない、何もなかってもいいというくらいの気持ちが必要なの。それで、新たに受け直す。必要な物を新たに受け直す。


               ありがとうございます




◇75

 同じ菩薩でも上へ昇っていく、本当の悟りへの道を歩むのと、下へ落ちるのと両方ある。落ちる人は、現実を、過去を掴んでいる。マイナスに見ている。何かマイナスに見ている。例えば病気の人を、いじめている人を、救わんなんとか。これも、マイナスに見ていること。あの人は、そういう因縁持っていると言ったら、人のせいにしている。そしたら、自分が菩薩と言いながら、そこから落ちる生き方を選んでいる。菩薩として上へあがろうとしたら、みんなを悟らせようとしたら、最高のプラスを与え続けるしか方法ない。だから、本心の自分をしっかり思い返して、真(まこと)のありがとうございますを祈り続けて、真(まこと)の神さまを与え続ける。これを実行すること以外、みんなを悟らせて、菩薩の道を歩ませるわけにはいかない。

 大きい意味で菩薩行をみんなにさせるというのは、真(まこと)の神さまを与え続けるお祈りを実行する以外、不可能。小さくだったら色々言えるけど、あの人は菩薩、この人は違うと分けるんだったら色々言えるけどね。みんなを菩薩行に、菩薩として見ようと思ったら、大きい光が循環しないとダメね。どんなマイナスも万分の一に、億分の一に変えるだけの大きい光がいる。

 あの世のどんなマイナスが出てきても、必ず万分の一に済ませるというくらいの光が降りたら、この世全体が菩薩の働きの姿、菩薩界。

 お祈りする人が支え合って、本当に大きい光を流せたら、この世全体を菩薩界にして、みんなを菩薩に変えていける。そうするとみんなが悟るのが速い。虚の世界消えて、真実の世界に戻る。

 みんなと一緒に祈るという気持ちがあったら、みんなが菩薩になって自分を助ける。その助け合いの中で、大菩薩としての生き方で、この世を菩薩界に変えて、本当の菩薩行をみんなにさせていく生き方。

 いじめ、いじめられて、殺し、殺されて、相対の両極の姿に分かれる姿なんて、本当小さい波に見えてくる。大きい海の海流のように、大きい光の流れを流すだけ。この世に流して、あの世を全部きれいに大掃除してしまうの。この世が本当の光のパイプ。本物のパイプに置き換わる。あの世を大きい光で流して、この世から吸い上げてしまうの。真実の世界へ。そういうお祈りが、真(まこと)のありがとうございます、本当の真祈り。それを、ただひたすら実行するだけ。ありがとうございます、ありがとうございます。そしたら、必ずその結果は出てくる。



ありがとうございます












◇76

 大菩薩のトンネル(笑)、この世は。
 トンネルと言うと、なんか暗い感じだけど、光のトンネル。みんなこの光の大菩薩トンネルを通り抜けて、真実の世界へ救われてゆく。

 トンネルが二重になっている。中のトンネルと、外のトンネル。外から大きい光が降りて、下まで降りるの。中のトンネルを通って上へ吸い上げてしまう。この世のトンネルに来た時は、薄まっているの、みんな。それで万分の一なの。

 真実の世界からものすごい圧力のある強い光を降ろしてるの、下まで。万倍に光降りて、万分の一の軽さにスーッと上がる。その循環を早くするほど、どんどんきれいになっていく。この世のごみ処理したら、循環もっと早くなって、スーッと引き上げられて、上がっていく。

 虚の世界の菩薩界とか、仏界の、みんなが光を注いでくるの、この世に向けて。真実の世界からも大きく光を降ろしてくる。大きい光を降ろして、吸い上げて消してしまうの。この世が一番、大事な働きの場。神さまへ捧げ尽くす働きの場を、この世として用意されてる。だから神さまに向かって、ありがとうございますと言わないと。神さまへありがとうございますって捧げないと。

 そうすると循環が、速くなる。上へ上がる循環が、速くなったら、吸い上げる能力が高くなる。一回ありがとうございますと言うのが、加速してるの。吸い上げの加速。だから大事なの、ありがとうございますと唱えること自体が、一番大事なの。


◇77

 天の岩戸開きというのは、みんなの本心が輝いてきたという意味。真実の自分が、輝きを増してきたということは、自分の神体、霊体が輝いてくるの、大きい光がそこにスーッと注がれてること。大きい力が加わっている。押し流す力が大きくなってる。

 天の岩戸が開いて、みんなの本心が出てくると、お祈りが本物になる。溜まってるものを押し流して、消す力が、万倍・億倍になるの。一人ひとり見てもそういう風に、本心が輝いて降りて、具体的に大きい働きの光が降りて、循環させる力が加わってるの。一人の人でも、本当の天の岩戸開いて、本心輝いたら大きい働きになる。それが大勢増えてきたら、もっと大きい働きになる。一人ひとりの本心の輝きの総合体が、天の岩戸開き。

 みんながお祈りすればするほど、本心の天照大御神がどんどん降りてくる。大きく扉が開かれてる状態。本当の光のエレバーターがすーっと通ればいいの。この世全体が、光のエレベーターになればいい。瞬間移動ぐらいの。それが光の柱よ。

 みんなの心境が本心に戻ってきて、天の岩戸が開いてくる。本物の祈りになってきたから、天の岩戸開きになる。みんなの思いを消してもらって、本心拝み出してもらって、具体的に本心が輝いて、お祈りできるようになったのが、天の岩戸開きのすがた。


◇78

 真(まこと)の神さまに気付く為に、自分が無色透明になるの。無色透明の自分の中を循環する、それで気付くの。でも自分に我があると、我の方に心行ってしまってるから、無色透明に気付かない。真(まこと)の神さまが循環してても気づかないだけ。我があるというのは、無色透明を色眼鏡で見てるという意味。本当は循環してるのは、無色透明の循環。ところが色眼鏡がちょっと邪魔して無色ではない、と見るの。

 我があると、濁って見える。我というのは、過去を掴んだ、これが自分という我。過去を掴んだら、自分が我になっている。何も掴まない生き方がいい。掴まないために与え尽して、祈り続けて、循環させてしまったら、何も掴まない自分、眺めるだけの自分になったら、無色透明になっていく。

 だから祈り続けるしかないの。祈りをやめたら、ストップかかってる。祈り続けて、送り出すほど我が消える。祈らなかったら、止めてしまうの。本心は祈るのが仕事。祈り続けて、流れを加速するのが、役割。祈り続ける役目を持っている。祈って祈って、祈り続けるのがいい。そうしたら、無色透明。祈らずにおれない自分、それが無色透明の自分。

 絶対の中心から、新たに出てくる光、無色透明。入れ子構造の天照大御神様、本当の無色透明のすがた。一大循環の相象、無色透明の光の循環。止めた時から、有色の透明なすがたをとって、濁っていくの。我が増えるほど、濁るの。だから掴まなかったらいいだけ。元から無色透明の循環。無色透明だから、全部見通せるようになってる。本当の形は無色透明の中に全部ある。完璧な金剛不壊の本物のすがたがある。

 無色透明でないと、全体が一つにならないの。融け合わないし、見通せないから。色が違ったら合わない。濁ったら遠くが見えない。

 透明人間になるために祈り続けないとダメなの。祈り続けたら透明人間に必ずなるの。みんなの応援も受けてね。支え合って祈るほど、速く透明人間になれる。透明な光の強さって、強烈よ。どんなマイナスでも、一遍に消せる。過去のことなんか関係ない。現実なんて無関係。今新たに。真(まこと)の神さまだけという祈り。











  ありがとうございます









真祈り・ありがとうございますは

① 一瞬一瞬新たな、新たな祈りです。
② 無限に無限に輝いた、灼(あらた)かな祈りです。
③ 真(まこと)の神さまに与え尽す祈りです。
④ 永遠に与え続ける祈りです。
⑤ 隙間の無い、連続した祈りです。
⑥ 一大循環を加速する祈りです。
⑦ みんなで支え合う祈りです。