ありがとうございます 神書 3-38  無限の無限の安らぎが一杯!

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我の心で報いを求めてする善行は無価値


 『景徳伝燈録・三』に、中国の梁の武帝が達磨大使に向かって、「朕即巳来、造寺・写経・度僧、紀するに勝(た)ゆべからず。何の功徳ある」と問うたのに対して、達磨大使は「無功徳」と答えているのです。功徳とは功能福徳の意で、世の為、人の為にする、善行の結果として、神仏より与えられる果報・恵みのことです。武帝は「即位して以来、仏法興隆の為に、寺院を建立し、写経をし、僧を育て上げてきたが、その数は非常に多くて数えきれないほどです。それほど世の為、人の為に、善行を施して来たのですから、きっとご褒美として、数えきれないほどの果報をいただけるに違いない。それはどれ程のものでしょうか」と質問したのです。それに対して達磨大使は、「何の褒美も貰えないぞ!」と一喝したのです。何故でしょうか? 武帝のどこに間違いがあるのでしょうか?




 「自分が、自分の力で、これだけのことをした」と言う時は、人は大きな間違いを犯しているのです。これは傲慢な・我の強い・業想念の心です。自分のすべては、神さまから与えられたものなのです。生命も心も肉体も、一切が自分のものでは無く、神さまから与えられ、預かっているものなのです。自分の力や努力でしたものは、何一つとして無いのです。すべては神さまの力によって、させていただいているのです。この道理の判らない心では、業想念の心では、神さまから与えられる無限の果報を、決して受け取ることはできないのです。だからこそ「無功徳」と一喝されるのです。




 「寺院を建立させていただけた」ということが、神さまから与えられた無限の果報そのものなのです。慢心してそれに気付かないとは何と情けないことか、本心の自分をどこかに置き忘れているのです。悪行の限りを尽くして、地獄の苦痛を味わっていても当然なのに、こんなに素晴らしい善行をさせていただけた、と謙虚な心で無限の感謝と喜びを捧げてこそ、本心の心・悟りの心・無限の功徳を受ける心なのです。謙虚に感謝し喜ぶ心こそが、一瞬一瞬新たに、無限の功徳を受け続けられる本心の心なのです。




 我の心で報いを求めてする善行は、本当の善行では無いのです。それは我の心で汚れた塵埃と同じものであって、全く無価値なのです。だからこそ感謝されることもなく、顧みられることもなく、嫌がられて捨てられて当然なのです。どんな善行をさせていただくにしても、本心の謙虚な心・素直な心・感謝の心・喜びの心・奉仕の心でさせていただいてこそ、無限の無限の幸せで一杯・無限の無限の功徳で一杯となるのです。




 百人の会社を経営するにも、我の無い心(中心に立つ心)になって、百人の社員に助けていただいている、万人のお客様に助けていただいている、と感謝一筋の拝む心になってこそ、神さまの加護を大きく受けて、みんなの幸せに貢献できるのです。