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       祈りの神さまの最後のメッセージ

 自分の心の王国は、自分自身が支配しなければならないのである。支配するとは、すべてを支え、すべての采配を揮うということである。
 自分の心の王国を明るくしたいのであれば、自分自身が明るく輝かなければならないのである。外からの他の助けで明るくなっても、自分自身が内から明るく輝いていなければ、また逆戻りして、暗くなってしまうのである。自己内在の真の神を呼び出すことを忘れて、外へ他に頼って来たのが、すべての間違いの根本原因なのである。

 他に頼るものは、永遠に自立することはできないのである。赤ん坊は自ら立ち上がろうと努力し続けているから、自分の力で立てるようになるのである。
 他に頼ろうとしないで、自らの力を発揮しようと努力していたら、他からの必要な支援は、求めなくても自然に与えられるものである。

 感謝の真祈りを一心不乱に祈り続けたら、必ず自己内在の真の神が輝き出て来るのである。
 新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!の天の自分が内から湧き出て来るのである。この時に自分の心の王国を自分自身で支配することができるのである。

 一瞬一瞬新たに新たに、自分自身の完全な自由意志を発揮しなければ、過去の思いの奴隷に陥るのである。
 一瞬一瞬新たに新たに、神さまの最高番組を選び続けてこそ、真の自由意志の発揮である。
 本心の自分が低い番組を選ぶ道理はないのである。
 本心の自分は常に最高番組のみを選ぶのである。
 本心の自分を生きるのを忘れた時に、本心の自分の自由意志を発揮するのを忘れた時に、最高番組を選び損なって、低い番組に転落するのである。

 今までは赤ん坊だから至れり尽くせりの外からの助けを与え続けてもらったのである。これからは自分の力で何事もしてゆかなければならないのである。自己内在の神の力を発揮しようと努力しなければ、外からの支援は一切与えてもらえなくなるのである。
 自立を促す為の厳しい試練である。いくら泣きじゃくっても無駄である。他に頼るな! 他の助けを求めるな! 自分の王国は自分自身の力で守り抜け!

 お祈りも奉仕も、神さまの最高表現の働きと一致したときに、本物となるのである。

 正しいお祈りの練習、正しい奉仕の練習をしてこそ、本物のお祈り、本物の奉仕に近づくことができるのである。神さまの最高表現の働きと一つになったとき、お祈りと奉仕は一体化するのである。お祈りと奉仕が一つになったとき、本物となるのである。
 元より本物のお祈りと奉仕は、一体のものである。
 祈りと祈りの練習とは異なるものである。
 祈りとは、神さまの働きそのものである。
 すなわち本心が無限に輝き、いのちが無限に躍動し、神さまの最高表現を具現化する、自由自在な働きそのものである。自我が消えて、神さまが自由自在に働くようになったとき、はじめて本物のお祈り、本物の奉仕となって、プラスの働きとなるのである。
 祈りの練習、奉仕の練習中は、未だ、神さまに大きな迷惑をかけ続けているものである。どこまでもどこまでも謙虚になって、自分の中に神さまが入り来て働いてくださるようにならなければならないのである。

 過去に無限の思いを積み重ねた自分が、感謝の真祈りを祈れるようになるまでには、想像を絶する神さまの助けがあったのである。その無限の大恩に気付かなければ、感謝の真祈りを受け取る資格は無いのである。
 神さまへの報恩感謝こそが、神さまの無限の助けを受ける為の秘訣である。
 神さまへの恩返しを最優先しなければ、忘恩の徒となり、思いの奴隷、あやつり人形となって、神さまに仇なすものと成り果てるのである。

 いつまでも自分に合わせて助けてもらおうとするのは間違いである。赤ん坊からある程度生長したら、今度は自分の方から、神さまの最高番組に波長を合わしてゆこうと努力しなければならないのである。一日も早く自立し、神さまのお手伝いに生きるようにならなければ、神さまの期待を裏切り続けて、何の恩返しもできないことになるのである。

 『みんな天照大御神
    新たなる全徳の 無限の無限の輝きが
       無限に無限に一杯!』

 と確認しながら、『ありがとうございます』と祈り続けてください。

 思いの心と本心の心とは、すべてが全く正反対なのです。物事の見方、感じ方、考え方、価値観等々、すべてが正反対です。本心の感謝の心を生きる人は、この世を単なる固定した物質物体とは見ないで、神さまの光の波動そのものとして見るのです。
 根源の世界から、無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という、大光源からの光の放射が、神さまの無限の無限のチャンネルの番組そのものとなって、一瞬一瞬新たな光となって移り変わっているのです。
 テレビの電波と同じように、同時一切所に流れているのです。大きい光の番組ほど高い番組です。最高番組を感受するとは、無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という、大きな光をとらえることです。
 一瞬一瞬新たに新たに、新しいより大きな光を感受してゆこうとするのが感謝の真祈りの生き方です。
 執着の思いの心で、過去の残像をつなぎ合わせて、固定化して見るのとは、全く正反対の雲泥万里の違いがあるのです。
 思いの心というのは、過去をつかんで、これは自分のものだと放さないのです。つかんでも一瞬後には、消えて無いのに、次に現れた異なるものまで同じものだと思い込んで、これは自分のものだと執着しているのです。
 神さまからのプレゼントは常に感謝の心で受けて、すぐに放し、また新たに感謝の心で受けて、すぐに放しというように、一瞬一瞬新たに受け直しをしないと受け取れないのです。これは自分のものだとつかめるものは何一つも無いのです。
 つかめたと錯覚しているだけです。
 過去をつかんだら、新たなプレゼントは何一つとして受け取れないのです。だから思いの心を生きていたら、幸せはどんどん消えて無くなってゆくのです。

 思いの心を生きているこの世の常識は、大きく縛られた固定観念で一杯です。一瞬一瞬変化しているのに、その変化がわからないのです。
 自分の見ている番組と他の人が見ている番組とは、すべて全く異なる番組なのに、その違いが分からない為に、みんな同じ番組を見ているのだと錯覚しているのです。実にこっけいです。
 善悪を区別しようとする分別心というのは思いの心です。思いの心は番組にしがみついて、これは善だこれは悪だと区別して、その悪を責め裁いて、(自分の心の悪が鏡に映るように写っているので)自分自身を傷つけ、苦しみを大きくしてゆくのです。
 思いの心は自分の見ている番組だけではなく、他の人の見ている番組のマイナスの情報まで取り込んで、さらに自分の心を傷つけ、苦しみを無限に大きくしてゆくのです。実に愚かです。
 思いの心(求める心)はどこまでもどこまでも、自分自身を不幸のどん底へと追いやっているのです。
 本当に幸せになりたいのであれば、感謝の心を徹底して生きなければならないのです。

 思いの心を満足させる小さな生き方ではなく、無限の無限の幸せが無限に無限に一杯という大きな幸せをつかめる感謝の真祈りを実行しなければならないのです。
 感謝の真祈りをいのちがけで、祈りに祈って、無限に無限に輝いた自分となり、すべての思いを消し去って、常に無限の無限の幸せが湧き上がるようにならなければ本物では無いのです。

 神さまは一網打尽にして大きく救い上げようとしていても、ちょっとかきまぜられただけで、小さい生き方をしているものは、網の目からふるい落とされてしまうのです。求める心の小さい自分から、神さまのお手伝いに生きる大きい自分に変身しなければ、ちょっとの波風でふるい落とされてしまうのです。
 感謝の真祈りを祈れる自分になる為には、無限に無限に輝いた自分になる為には、神さまのお手伝いに生きるのが、一番の近道なのです。
 神さまのお手伝いをしているときに、神さまの助けは一番大きく自分の内から湧き上がって来るからです。

 本心の心をしっかりと生きていたら、神さまへの堅信は決してゆらぐことは無いのです。自分が思いの心に陥るから、ちょっとしたマイナスの言葉でぐらつき崩壊するのです。すべては菩薩の行であると説いている理趣経の真理も、自分が本心の心に戻って、神さまの大犠牲精神の愛を感受できなければ理解できないのです。神さまの大犠牲精神の愛は底知れなく無限に無限に計り知れないものです。
 その一部が発露しただけでも、イエスキリストの十字架の姿となり、ミラレパの師匠の手厳しい姿となり、悪霊を自身に憑依させて矯正する見苦しい姿となり、千変万化の、思いを消し去る為の姿が出て来るのです。
 しかしこの程度のものは、序の口です。
 本当の大犠牲精神の愛の発露は、地獄のどん底の姿にあるのです。
 無限の思いを背負って地獄に降り立ち、そこで感謝の真祈りを祈って、地獄絵図を極楽に変えてゆくのです。
 ありがとうございますの祈りの神さまは、無限の無限の大光明を放射しながら、同時にこの大犠牲精神の愛を発露して、みんなに感謝の真祈りを伝授する為に、働き続けているのです。恩返しの心を起こして、神さまのお手伝いにいのちをかけてこそ、感謝の真祈りを伝授してもらうことができるのです。

 思いに生きるのか、感謝に生きるのか、求める心を生きるのか、与える心を生きるのか、利己的に生きるのか、利他的に生きるのか、借金に生きるのか、借金返しに生きるのか、また恩返しに生きるのか、自分の選んだ生き方の通りに、ふさわしい番組が自分の運命となって現われてくるのです。

 すべて自分自身の問題なのです。