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 “新年”という言葉を深く深く受け止めてゆける人は、幸せを無限に深めてゆける人である。去年があり、今年があり、来年がある、という意味の去年から今年に移り変わったというような新年の捉らえかたでは、まだまだ浅い捉らえかたである。過去・現在・未来という現象時間に惑わされている間は真実の幸福をつかむことはできない。真実の幸福を得るためには時間・空間を越えて絶対の世界に超入しなければならない。絶対の世界の“今・ここ”を把握しなければならない。そのために必要なことは“ひたすらなる祈り”である。

 過去・現在・未来という現象時間においては、“今”というものは 一瞬後には既に過去になってしまっている。1秒後は勿論過去である。否1万分の1秒後も、1億分の1秒後も、無限分の1秒後も既に過去である。果たして人間に1万分の1秒という短い時間を把握することができるだろうか? そしてその短い時間を使って何かを為すことができるだろうか? これは誰の目から見ても不可能であることは明白である。だとすれば人間はこの世に生きることはできないということになる。なぜなら人間は生きてゆくためには食事をしなければならない。その食事をいつ取るかということを考えてみると、未来はまだ来てないから未来に食事をすることは不可能である。過去は既に過ぎ去ったものであるから過去に食事をすることもまた不可能である。現在の今食事をするといっても、無限分の1秒後にはその時間は既に過去となってしまっているから、その短い時間の間に食事をすることはこれまた不可能と言わなければならない。

 だから人間がこの世で生きて食べて生活しているというのは錯覚である。それはちょうど映画のフィルムの静止している一駒一駒がスクリーンに映写されて連続して動いているように錯覚して見ているのと同じことである。それでは本当の人間は一体どこにいるのか? 本当の人間は絶対の世界に実在していて、そこから心のフィルムを現象世界に投影させて、その映像を眺めているのである。心に絶対の世界の至美至妙完全円満大調和のすがたをどの程度受け入れたかによって心のフィルムの出来具合が決まり、そのフィルムを現象世界というスクリーンに投影したときにそれぞれの運命という映像が映し出されるのである。

 新年の“新”は中心の“心”であり、奥深い“深”であり、真実の“真”である。今年一年間に現象世界のスクリーンの上に運命として投影される心のフィルムに、祈りに祈って、絶対の世界の真・善・美・聖を正しく焼き付けることが、そして絶対の世界の素晴らしさをこの世に現してゆくことが“新年おめでとうございます”の本当の意味なのである。