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 宇宙絶対統一神の自己表現のすがたが、マイナス無限大からプラス無限大にわたる無限の無限の種々様々な世界と現れているのである。例えば、明と暗について考えてみると、神の本質は絶対の光(無限の無限の大光明)であり、その光を暗(表現の場・素材)に向かって放射してゆくと、表現の最初の出発点であるマイナス無限大の暗(無限の大光明を吸収してしまうブラックホール的暗)は、加えられた光の量に比例して段々と和らいでゆく。そしてマイナス無限大の暗は、無限の大光明を吸収して“0”の暗にまで変化してくるのである。更に光が加えられるにつれて、小さな星明かりのような状態から、段々と青空に太陽の輝くような明るさに変化してくる。そして無限の無限の大光明が加わると、プラス無限大の明るさがそこに表現されてくるのである。即ち神・絶対の光・無限の無限の大光明が、暗という素材(表現の場)を使って、そこにどれだけの光が加えられたかということに比例して、明るさを光一元に表現しているのである。

 人間は神の分身として、各自の自由意志によって、どの段階の表現の場にも自由に立つことができ、その表現をどのような角度からでも自由に眺めて楽しむことができるものなのである。光源に背を向けて、影を映して、より一層暗く眺めるのも自由なら、光源に真っすぐ向いて、降り注ぐ光を浴びて、より一層明るく眺めるのも各自の自由なのである。そのように人間一人一人は神に代わって、いろいろの立場に立って、いろいろの角度から、神の自己表現のすがたを、自由自在に眺めて楽しむ役目を与えられているものなのである。それとともに人間各自の立っている場に、人間自らが本心の光を輝かして、その場を更に明るく変えてゆくこともできるし、想念感情の業の心を積み重ねて、神の光を遮って光を和らげることも自由にできるものなのである。神と人間の共同作業で織り成す妙なる表現を、ある時は神という立場から、ある時は一人一人の人間という立場から、自由に眺めて自由に楽しんでいるわけである。

 全大宇宙には上記に例としてあげた明と暗だけではなく、善と悪、愛と憎、正と邪、楽と苦、自由と束縛、美と醜、真と偽、信と疑、上と下、大と小、幸福と不幸、平和と戦争、・・・・・・・・・・等々、対比されるものは無限に存在するのである。神の御心の中には、絶対の善(無限の無限の善)、絶対の愛(無限の無限の愛)、絶対の正(無限の無限の正)、絶対の楽(無限の無限の楽)、・・・・・・・・・・、というように絶対なるものが無限に存在しているのであり、それらのすべてが善一元に、愛一元に、・・・・・・・・・・、というように、マイナス無限大からプラス無限大の表現をとっているのである。瞬々刻々移り変わる全大宇宙の表現を、“今”の一瞬に、どれだけ楽しむことができているであろうか? 感謝行の大切さを痛切に感じる次第である。