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 “神は絶対の愛である!”ということは、神の愛の外には何ものも存在しない、神の愛に相対する何ものも無い、即ち 全大宇宙のすべてのすべては神の愛の現れ、神の愛そのものであるということなのである。この絶対の真理を理解し、把握できる心は、業想念の心ではなく、本心の心だけなのである。例えて言えば、太陽を神の絶対の愛であるとすれば、神の愛は太陽から放射されている光線のように、あまねく全宇宙に放射され満ちわたっているのである。これは厳然たる事実ではあるが、その事実をありのままに見て理解し、把握できるのは、青空のように澄み透った清らかな心である。空に浮かぶ黒雲のような業想念の心では、自分の周囲に見えるものは黒雲のような業想念ばかりであって、太陽の光のような神の愛を感じ取ることは全くと言ってよいほどできないものである。

 神の愛に絶対抱擁されている自分を実感できたときに、人間は何ものにも替えがたい真実の最高の無上の幸福を感ずることができるのである。そのためにはどうすればよいのか? 雲のような業想念の心は自分の心では無いと否定し、青空のような本心の心のみが真実の自分の心なのであると肯定してゆくことである。今の一瞬一瞬に 業想念の心を否定し、本心の心だけを肯定する生き方を、どこまでも粘り強く繰り返すことなのである。真理の言葉によって業想念を否定し、真理の言葉によって本心を思い返し、呼び覚まし、引き出し、輝かし、本心の自覚を深めて、宇宙のすべてをありのままに受け入れる青空のような本心の心に成り切ることなのである。

 本心の心は 常に常に 五感六感を超えて 神の愛を直感する。五感六感で感じ取れる現象界の移り変わるいかなる姿にも 決してとらわれることなく、いついかなる立場に立っても、常に今・ここに 神の愛を感受するのである。たとえ地獄絵図が眼前に現れても、そのすべてを神の無限に深い愛の現れであると ただただ感謝一筋に受け入れることのできる心が本心の心なのである。本心の心は いついかなるときも すべての責任は自分にあると知る心である。過去の長年月の間に、本心を忘れ、本心を輝かすことを怠ってきたその付けが無限の業を積み重ねる結果となったのであるとまず認識するのである。そしてその業を一身に背負うことは不可能であるから、愛の天使たちが分担して振り替えて背負ってくれている姿が地獄絵図と現れているのである。“ああ! 私の積み重ねた無限の業苦の重荷を少しでも軽くしてあげようと、みんなが分担して背負ってくださっている! なんと有り難いことだろう!”と苦労を共にしてあげようという神の愛の働きの姿に、喜びの涙を流して感謝しつづけることのできるのが本心の自分であるのである。 本心を自覚せよ! 本心を自覚せよ! そうすれば 無限の幸せは 既に与えられ済みであることにきづくのである。