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 人間にとって何よりも大事なことは、本心の自覚を深めてゆくということである。本心とは、本当の心であり、真実の自己であり、無始無終の永遠不滅の生命である。本心の自己は、金剛不壊身であり、歓喜常楽身であり、真清浄真無垢身であり、宇宙遍満の虚空身であり、何ものにも縛られない自由自在身であり、無限の無限の大光明身であり、すべてのすべてなる絶対身である。この本心の自覚は、真理の言葉(祈り言葉)によって、呼び醒まされ、引き出され、深められてゆくものである。そして 本心の自覚の深まりに比例して、その人の感じ取れる真実の幸福は、無限に大きく深いものに変化してゆくのである。

 この反対に、真理の言葉(光の言葉・明るい言葉・善い言葉・美しい言葉・真実の言葉・慈愛の言葉・賛嘆の言葉・感謝の言葉等々)を駆使することを忘れ、怠っていると、いつの間にか“迷いの言葉”(闇の言葉・暗い言葉・悪い言葉・醜い言葉・虚偽の言葉・残酷な言葉・けなす言葉・不平不満不足の言葉等々)の奴隷となって、本心を覆い隠し、本心の自覚をくらまし、本心から遠ざかり、四苦八苦の不幸のどん底にまで落ち込んでゆくのである。

 人間は 本心の自分をしっかりと生きることによって、真実の幸福を無限に深めてゆけるのである。本心の自分を忘れたり、見失っていては、真実の幸福は決して手にすることはできないのである。業想念の奴隷となって、感覚の喜びだけを追い求めても、その喜びは偽のつかの間の喜びであって、必ず苦痛に変ずるものである。例えば 美味しい食物も 食欲の奴隷となって食べすぎれば胃が痛くなって見るのも厭になるだろうし、美食に慣れると美味しい食物が手に入らなくなったり、病気で食べられなくなったりすると、餓鬼道に落ちたように苦しんだりするものである。五感の感覚の舌からくる味覚の満足だけを追い求めていては、その喜びは必ず苦痛に変じてゆくところの浅い浅い偽の喜びでしかないのである。どんな食べ物も神さまの生かす力の現れであり、神さまの生命であり、神さまそのものである。自然に与えられるものを食べるということは、本心の自分にとっては、神さまとの生命の交流・光の交流・愛の交流・心の交流であって、本心の自覚を深めてゆくための神聖な行事なのである。それは食べ物を神さまと拝み、徹底感謝で受け、神さまと一体化してゆくことなのである。

 本心は常に神さま(無限の無限の幸福の本体)を仰ぎ見て、降り注がれて来る幸福をより多く受けようと感謝一筋に生きる心であり、業想念は常に神さまに背を向けて、過去の消え去ってゆこうとするもの(しゃぼんだまのようなもの)を追い掛け、つかんで、消えたときに、嘆き悲しみ苦しむ心なのである。本心を生きるか、業の奴隷となるか、その選択は各自の自由に委ねられている。本心を生きる為には、すべてを神さまの現れと常に拝み続けてゆくことである。