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 お祈りは 悟りを開くためのものである。即ち 神の御心に波長を合わせ、神の御心と一体化し、神の御心を行じ、神の御心を現すことがお祈りである。逆に言えば、神の御心に波長を合わせなかったら、神の御心と一体化しなかったら、神の御心を行じなかったら、神の御心を現さなかったら、未だお祈りにはなっていないのである。祈り言葉は 天と地をつなぐ光のエレベーターなのである。祈り言葉によって天に昇り、祈り言葉によって天の光を地にもちきたすのである。祈り言葉によって天に昇れるのは、あくまでも天より降り来った光の自分(本心)のみである。地上より涌き出た雲(業想念)は決して天に昇ることはできないのである。だから業想念を決して決して自分であると思い違えてはならないのである。業想念をつかんではならないのである。業想念を相手にしてはならないのである。業想念は地上への執着から生まれ出てくるものである。地上への執着は業想念(雲)を生み出し、その業想念は本心の自分が天に昇るのを妨げようとする。

 天に昇るためには、地上のいかなるものにも執着してはならない。執着している限り地上に縛り着けられて決して天に昇ることはできないのである。頭上を覆う業想念を相手にしてはならない。相手にしている限りは業想念の場から離れて天に昇るというわけにはいかなくなってしまうのである。業想念はあの手この手とありとあらゆる策を練って、天に昇ろうとするのを、誘惑し、脅迫し、妨害してくる。業想念を否定し、無視し、決して相手にしてはならないのである。相手にすれば業想念の思う壷にはまってしまうことになるのである。なぜならそれは業想念と同じ立場に立てば決して天には昇れなくなるからである。次に心すべきことは、業想念は多くなればなるほど、その誘惑と攻撃は大きくなって天に昇るのを妨害してくるのであるから、頭上を覆う業想念の雲を今以上に厚くしないことである。そのためには地上の一切のものに執着しないことである。更には業想念の付着したものを自分のものにしてつかまないことである。とりわけ不労所得には想像を絶する多くの業想念が付着してきて、天に昇るのを妨げられるだけでなく、いずれは業想念の渦巻きに巻き込まれて四苦八苦することになるのであるから、決して安易に不労所得を私物化してはならないのである。業想念に負けることのない光の強い自分になるまでは、できるだけ業想念の厚い場所に物に人に近寄らないのが賢明である。何よりも何よりもまず真実のお祈りが出来る自分になることこそが大切なのである。業想念の奴隷にならないためには、常に本心の自分を光輝かしていなければならない。心から一切の業想念を捨て去り、神の御心のみを受け入れてゆくことである。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・