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     縛りを解く・自由自在な本心の自分に戻る

 宇宙の大神さまは『自由』の本体です。それゆえに大神さまの分霊分身である人間も、『自由』を本質として持っているのです。だから人間は自由を縛られることを、極端に嫌うのです。ところが最初から何の縛りも無い状態では、本当の自由を発揮する場が無いのです。それでは本心の自分は、少しも喜べないのです。そこでわざわざ縛りの多い状態の中に自分を置いて、本心の無限力を発揮して、無限の種々様々な束縛を克服しようとするのです。そして大きな自由を発揮できた時、高度な自由を発揮できた時に、無上の喜びと生き甲斐を感じることができるのです。例えば自動車で、障害物の何も無い砂漠の中を、いくら走り回っても、少しも喜べないのです。また自動車で道路を走る時、他の自動車のことを思いやらずに走りまわれたら、さぞ自由で楽しいことだろうと言うのは、幼稚な自由の発揮です。衝突事故を起こしたら、すべての自由が奪われてしまいます。高度な自由を発揮する為には、まず安全が確保されなければならないのです。その為には交差点では一旦停止し、譲り合って、安全を確認して、進まなければならないのです。また運転技術を磨いて、安全を確保しながら、スピードを出せるようにしなければならないのです。うなぎが障害物の多い所を楽しむように、人間はそれ以上に、障害物に戯れて、より高度な自由を発揮し、より大きな自由を味わうことができるのです。

 真実の自由には、常に適当な限定が付きまとうのです。全体の調和とみんなの幸せを守る為に、愛の心で、自らの自由に限定を加えるのは、本心の真実の自由の発揮です。決して命令されたり、強制されたりしての、自由の限定ではないからです。どのような小さい事柄であっても、命令されたり、強制されたりしてするのであれば、そこには本心の自由が無いので、喜びは湧き上がってこないのです。人間は常に本心の自由を発揮してこそ、喜びを感じるのです。命令や強制は、人間を奴隷状態に置こうとするものです。本心の人間は、思いやりの心で、必ずその束縛を、「無」にまで粉砕しようとするものです。命令される前に、強制される前に、それ以上の仕事を果たそうとするものです。本心の人間に対しては、命令や強制は必要ないのです。本心の人間に対して必要なのは、信頼と感謝です。本心の人間は、みんなの幸せに必要ならば、大所高所から、みんなの幸せの為に、全体の調和の為に、自らの自由意志によって、愛の心で奉仕しようとするのです。そこにこを高度な大きな自由の発揮があるのです。

 過去・現在・未来という現象時間に惑わされている間は真実の幸福をつかむことはできないのです。真実の幸福を得るためには時間・空間を超えて絶対の世界に超入しなければならないのです。絶対の世界の「今・ここ」を把握しなければならないのです。そのために必要なことは「ひたすらなる祈り」です。

 過去・現在・未来という現象時間においては、「今」というものは 一瞬後には既に過去になってしまっているのです。一秒後は勿論過去です。否1万分の1秒後も、1億分の1秒後も、無限分の1秒後も既に過去です。果たして人間に1万分の1秒後も、無限分の1秒後も既に過去です。果たして人間に1万分の1秒という短い時間を把握することができるでしょうか? そしてその短い時間を使って何かを為すことができるでしょうか? これは誰の目から見ても不可能です。だとすれば人間はこの世に生きることはできないということになるのです。

 だから人間がこの世で生きて食べて生活しているというのは錯覚です。それはちょうど映画のフィルムの静止している一駒一駒がスクリーンに映写されて連続して動いているように錯覚して見ているのと同じことです。それでは本当の人間は一体どこにいるのでしょうか? 本当の人間は絶対の世界に実在していて、そこから心のフィルムを現象世界に投影させて、その映像を眺めているのです。

 番組を楽しんでいる本当の自分と、番組の中で演じている自分とは、別個です。このことをしっかりと自覚して、神さまの最高番組(無限の無限のチャンネルの一番上)を楽しむことが、人生の本当の目的です。

 自由自在な本心の自分に戻り、一切の縛りから自由になることが、悟り・解脱です。本心の心で自由自在に生きることが、無限の無限の幸せを感受する為には必要です。心が何かに縛られているという奴隷状態になっていては、決して真実の幸せを感受することはできないのです。心が自由自在な主人公の立場に立ってこそ、真実の幸せを掴むことができるのです。それでは自分を縛っているのは、一体何者でしょうか?その正体さえ突き止めれば、この問題は簡単に解決するのです。

 自分を縛っているのは、果たして外部環境にあるものでしょうか? 環境の所為にしたり、他人の所為にすることが、本当に正しい考え方なのでしょうか? もし自分以外の何かが自分を縛っているのであれば、その何かが変化して、自分を縛らなくなるまでは、永遠に自由にはなれないということになるのです。自分以外の何かが、自分に自由を与えてくれるのを待っていたら、それは永遠に訪れては来ないでしょう。

 本当の自由を得る為には、『自分を縛っているのは、自分自身なのである!』という考え方を受け入れなければならないのです。神さまは自由の本体ですから、神さまの分身である本心の人間にも、同じ自由の徳性が与えられ、本心の人間は本来、自由自在です。この本来自由自在な本心の自分を忘れるところから、種々様々な縛りが夢・幻のように現れてくるのです。形に縛られていると見えるこの世も、本来自由自在な自分が、愛の心を表現する為に、自分の自由意志で、形の自由に限定を加えた姿です。決して心の自由は縛られてはないのです。
 
 しかしながら自由自在な本心の自分に戻るまでは、形の縛り・心の縛りがまだ残っているかのように錯覚してしまうのです。五欲の心に代表される「求める心」は、他人の自由を縛ろうとする業想念の心です。自由自在な本心の心は、決して他人の自由を縛ろうとはしないものです。本心の自分は、他人に対して縛りになるような言葉を使うことも無いのです。本心の自分は何事をする場合も、他を縛ろうとしないから、決して縛られることは無いのです。業想念の心で他を縛ろうとする時、それが自分に返ってきて、自分自身を縛ることになるのです。

 本心の心はいつも自由自在です。もし何かに縛られていると感じるならば、その時は本心の心を忘れて、業想念の心に陥っているのです。無限のスピードと無限のパワーを持っている本心の自分を縛れるものは、何一つとして存在しないのです。この世的な縛りも、本心の自分を縛ることはできないのです。本心の自分は、十の仕事を強いられたら、二十の仕事をするのです。上着を奪われたら、下着も脱いで与えるのです。だから何者も本心の自分を縛ることはできないのです。本心の自分は、どんな環境でも、一瞬に消せるのです。本心の自分は、どんな環境でも、新たに創れるのです。本心の自分は、どんな環境の中でも、自由自在に活躍できるのです。

 何者も自分を縛ってはいないのです。縛られている、と錯覚し続けているだけです。鶏を強く抱き締めて、地面に寝かせ、周りに白墨で線を引くと、鶏は縛られているものと錯覚して、じっと動かないでいるのです。これと同じように、すべての縛りは、自分自身の思いの縛りです。縛られているという思いが、自分を縛っているのです。

 過去世からの自分の思いに、いつまでも縛られているのは、愚の骨頂です。本心の自分は、今を新たに、自由自在に生きることができるのです。過去世からの業想念・自己限定の思い・どんな縛りも、本心の無限力を発揮して、吹っ飛ばしてしまえばよいのです。業想念の心を自分の心として、いつまでも掴んでいないで、本心の心の立場に立てば良いのです。何事に対しても、全力を出し尽くし、他に頼る甘えの心を捨てて、他を幸せにする為に、与えて与えて与え尽くすことです。そうすれば本心の心が完全燃焼して、大きく輝くのです。全徳の無限の無限の輝きで一杯!の自分になる為に、いつも限界破りに挑戦し困難に戯れるのです。大きな目的・目標を掲げ、前進するのです。
 祈り言葉を駆使して、本心の無限力を引き出すことです。本心の心を自分の心として、しっかりと生きることです。