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        神我一体への道-感謝と報恩の誠を尽くす

 神さまと自分との間の、循環・交流を促進してゆくことが、神我一体への道です。神さまの絶対の愛の働きは、一切の報いを求めないで、自分のすべてを与え尽くす、順流の流れです。だから神さまと交流する為には、自分も順流の流れを起こす必要があるのです。ただ感謝一筋に、自分のすべてを捧げ尽くす、絶対奉仕の生き方が、順流の流れを起こすのです。神さまと自分とが、相互に与え尽くし合うことによって、循環・交流が起こり、融合・一体化してゆくのです。本心の心の自分は、『感謝(すべてを神さまから受ける)と報恩(すべてを神さまに捧げる)の誠を尽くす』ことによって、神さまと密接に交流し、神さまと一体化し、その輝きを増してゆくのです。

 神さまは常に、人々の願い・求めに先立って、新たなる全徳の無限の無限の輝きと現れ、大光明を放射し続けているのです。その神さまの大光明の放射を、真理の言葉を駆使して、新たなる今・ここに感受することが、感謝の誠を尽くすことです。過去のすべてを心から離し、謙虚な心・マイナスの極に立つ心になって、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、光一元に仰ぎ見て、実感してゆくのです。『新たなる全徳の無限の無限の幸せが一杯!』(全大宇宙のすべてのすべてに、新たなる無限の無限の幸せが降り注ぎ・満ち渡り・満ち溢れている!)という光景が心に浮かび上がり、実感できるようになるまで、無心に祈り言葉を唱え続けるのです。祈り言葉を無心に・一心不乱に・真剣に唱え続ければ、心の向きを神さまに定め(心の波長を合わせ)、心に神さまを招き入れることができるのです。神さまが与え続けて下さっている、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、どのように受け入れるかは各自の自由です。プラスに受ける人、マイナスに受ける人、大きく受け入れる人、小さく受け入れる人、その受け方は千差万別です。受け方の違いによって、各自の感受している世界が異なっているのです。

 神さまから受けたすべてを、神さまの御心を実現する為に、与え尽くしてゆくことが、神さまとの交流する為の秘訣です。『ありがとうございます』という感謝の心は、神さまの順流の流れに、自分のすべてを任せ切る、全託の心です。謙虚な心で恩返しに生きられる、最も自然な心なのです。
 『ありがとうございます』と唱えれば、天照大御神の新たなる全徳の無限の無限の輝きが、必ず大光明燦然と降り注ぐのです。その光の流れに自分を任せれば、過去世に積み重ねた無限の業想念も、洗い清められ・消し去られて、感謝の心・本心の自分が輝き出てくるのです。

 感謝の心が深くなれば、必然的に神さまへの奉仕(恩返し)の為に、自分のすべてを捧げ尽くしたくなるのです。本心の心が大きく輝いていて、報恩の心が自然に湧き上がって来るのです。億分の一の恩返しもできないけれども、自分のすべてを捧げ尽くして、大恩に報いようとするのです。神さまの御心を汲み取って、謙虚に・素直に、全力を尽くして、奉仕しようとするのです。恩とは、すべての因(もと)になる心、神さまの愛の御心を意味しているのです。報いるとは、与えられた幸せを与え返すことです。報恩の誠を尽くすということは、神さまの喜ぶように、みんなの幸せの為に、自己のすべてを捧げ尽くして、無私の心・空っぽの心・神さまの心に戻るということです。愛するものと愛されるもの、与えるものと与えられるものが、全く一つに同化してこそ、呼吸のように自然な循環となるのです。神さまと人とは、本来一体です。無限の無限の愛は自然に循環しているのです。感謝報恩の誠を尽くすとは、元からの自然な無限の無限の幸せで一杯の自分に戻ることなのです。
 感謝の心が深くなれば、神さまの御心を正しく感受する為に、一心不乱の『祈りの行』が始まるのです。神さまの御心のままに、神さまの御心に適った、正しい生き方になるように、真剣な『祈りの行』が最優先されるようになるのです。先ず祈りに祈って、祈り続けながら、神さまの御心を正しく感受して、最も必要なことから順番に、全力を尽くして奉仕するようになるのです。神さまへの絶対奉仕に生きる自分が、神我一体と成り、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯に成るのです。

 全託・空・無為の極致に、御稜威(みいづ)・絶対神の御威光を感受することができるのです。全託(自分のすべてを捧げ尽くして、感謝一筋に生きる)・空(すべての根源をしっかりと見つめて生きる)・無為(計らい心を捨てて、神さまの御心のままに生きる)の生き方の極致に、天照大御神(新たなる全徳の無限の無限の輝き)は現前するのです。自我の心を生きようとしている時は、全託・空・無為の生き方は絶対にできないのです。だからある程度は自我の心を生きてみて、行き詰まり・頭を打ち・苦しんで、心から反省するということも必要なのです。そうすればどんなに努力しようとしても、努力すらできないという、本当の無力感を味わうことによって、謙虚に謙虚に成れるのです。

 真の全託の生き方とは、真の神へ自分のすべてを委ね切ることです。『私のすべてを神さまに捧げます。どうか神さまの御用にお使い下さい』と、自我の生き方を放棄することです。そうすれば本心の自分が出て来て、無限力を発揮し、獅子奮迅の働きができるのです。「棚からぼた餅」式の怠惰な甘い生き方とは、正反対です。神さまの御用に使っていただいて、神の国建設の為に、全力を尽くすことです。神さまのお役に立って、神さまに喜んでいただくことなのです。

 真の空の生き方とは、真の神を中心に置いて、真の神の働きだけを見詰めることです。すべての根源に心を向けて、枝葉に囚われない生き方です。真の神とその働きの全貌を見て、全体を達観し、全相を把握し、すべてを活かすことです。すべての部分を、適材適所に・秩序整然と活用して、神の国の秩序・最高理想の相を、現実に現してゆくことです。

 真の無為の生き方とは、真の神の働きだけを、しっかりと捉えることです。一瞬一瞬新たに新たに、真の神の働きは、千変万化自由自在に現れて来るのです。その働きをしっかりと捉える為には、自我の計らい心は邪魔です。自我の計らい心を、捨てて・捨てて・捨て切って、微塵も残さない生き方、真の神の働きを、絶対に邪魔しない生き方なのです。

 真の神が、真の神の働きが、この世に天下って来たら、地上天国・完全平和が実現するのです。地球人類は長歳月、真の神を忘れ・無視し・拒絶し続けて来たのです。その為に地球全体が滅亡寸前の瀕死の重症なのです。今こそ謙虚な謙虚な心になって、真の神の助けを受け入れなければ、救済は不可能なのです。真の神の御稜威によらなければ、地球の滅亡を防ぐことはできないのです。絶対統一・絶対他力・絶対救護の真の神(真の御親)に、真剣に・命懸けで縋(すが)らなければならないのです。

 天地の初発は、常に『今』です。宇宙創造の始源は、常に『今』なのです。過去・現在・未来のどの位置にあっても、天地の初発は、常に『今』です。時間・空間を超越している絶対神が『今・ここに』出現する、その一瞬一瞬が宇宙創造の始源であり、宇宙創造の完成なのです。唯一無二の絶対神が、全大宇宙として動き出で、鳴り出で、姿を現すのは、すべての時間・すべての空間に、同時・一切所(いっさいしょ)です。人間は自己の信念に従って、それぞれに時間・空間の座標軸を定め、『今・ここに』天地の初発を見、天地の完成を見るのです。全大宇宙のすべては、今の一瞬一瞬に、新たに誕生し続けているのです。しかし、その『天地一新! 万物新生!』の真創造のすがたが見えないのは、心の目・霊眼が根本の無明によって覆われているからです。

 ここに『禊祓(みそぎはらい)』、即ち業想念を捨て去り、本心の自覚を深めるという、心の潔齋(けっさい)が先ず必要となるのです。一切の業想念は、執着から生じます。全大宇宙のすべては、絶対神の現れであり、絶対神の所有物です。だから自分の物というのは、何一つとして存在しないのです。本来、無一物、無所有、無所得であり、私有できるものは何一つとして無いのです。

 人は宇宙絶対神の御心に素直に従ってこそ、正しい生き方をしているのです。神さまの為に生きようとし、神さまの為に生きる時、人の生き方は正しくなって来るのです。いつまでも利己的な生き方をしていては、取り返しの付かない事態に陥るのです。

 絶対神の御心を生きる為には、先ず絶対神の御心を、正しく把握しなければならないのです。大恩のある絶対神の御心を理解しようと、真剣に努力すれば必ず判るのです。絶対神への感謝報恩行を真剣に実践すれば、必ず判るのです。判らないから、判ろうと努力しなければならないのです。判らないと判れば、何が何でも判ろうと、真剣に努力さえすれば、判らせて頂けるのです。最初から判ろうとしないのは、論外です。そんな恩を仇で返すような者は、早く地獄に落ちて反省すべきなのです。