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ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

14-1

かく いひちぎりて すなはち なは みぎりより ぬぐりあへ 
如此云期     乃詔汝者自右廻逢

あは ひだりより めぐりあはむ とのりたまひ
我者自左廻逢

ちぎり をへて めぐります ときに いざなみの みこと まづ 
約寛以廻時          伊邪那美命    先言
あなに やしっ え−をとこを とのりたまひ
阿那邇夜志愛袁登古袁

のちに いざなぎのみこと あなに やしっ え−− をとめを とのりたまふ
後   伊邪那岐命  言 阿那邇夜志愛袁登賣袁

おのも おのも のりたまひ をへて のちに その いもに 
各言竟之後             告其妹曰

をみな こと さきだちて ふさはず とのりたまふ
女人先言不良


伊邪那岐命(霊、霊魂)は永遠に左旋し、伊邪那美命(体、肉体)は永久に右旋するのであります。
中心の御柱に対して、霊が左旋し、体が右旋するのは、双方のすべてが融合一体化するための、即ち霊体一如するための根本神律であります、また根本礼拝の姿であるのであります。
「アナニ ヤシッ エ− ヲトコヲ」「アナニ ヤシッ エ−− ヲトメヲ」は、神聖恋慕の極致の声宇宙の初発を観る聲であります、また天地の合一する気合でもあります、そは礼拝・祈祷・神楽の極致であるのであります。
「アナニ」は、本当にたとえようもなく美しく・素晴らしく・素敵なものに対する、この上なき強い感動の言葉でありまして、対者の相互が、すべてを捧げ尽くし合って、彼我一体とならんとする至情の発露の一瞬になるのであり、互いに全愛情を傾けて相対する姿であるのであります。
「ヤシッ」は、渾身の力を込めて、必然に発する気合であります。無限の無限の強い感動のすべてを、精神を集中して、相手に打ち込む、注ぎ込む、与え切ることであります。
「エ−」は、「エ−−↑」と語尾が上がるのでありますが無限の力が働いて、お互いのすぺてが一つに溶け合って彼我一体となる愛の極致の姿であります。
 真に一体となったとき、絶対・永遠の生命・無限の歓喜に帰入するのであります。
「(ヲトコ)ヲ、(ヲトメ)ヲ」の「ヲ」は、終極の大結果を確認して、無上の満足を得た強い詠歌の余情を示し、彼我一体の絶対抱擁の甘美に浸り切った時の状態を示すのであります。
 本来霊体に尊卑は無いのであります。ただ体は区別差別を本位とし、先ず個々の成立を自ずと求めるものでありますから、必然的に利己主簑に陥って行き詰まりやすいものであります。従って常に霊の指導を必婁とするのであります。体主靈従では必ずや不良なる事件が続出してくるのでありますから、常に靈主体従でなければならないのであります、ということを教えているのが 女人先言不良 (をみなことさきだちてふさはず)であります。常に神さまのされることには決して失敗もやり損ないも無いのであります。
 新しい発明・発見・創造には常に数多くの試行錯誤がつきものであるかのように創造して見えているのは、神さまの最初からの計画であるからなのであります。私たちは常に全体を広く深く達観することが出来なければ、神さまの御心を正しく理解することは不可能なのであります。

!4-1

しかれども くみとに おこして みこ ひるこをうみたまふ 
雖然    久美度邇 興而   生子水蛭子

この みこは あしふねに いれて ながし すつ
此子者   入葦船  而   流去

つぎに あはしまを うみたまふ こも みこの かずに はいらず
次   生淡嶋        是非不入子之例

 久美度邇 興而(くみとにおこして) は、組むべき方式に準拠して、という意義であります。
あらゆる組合せ「ムスビ」を示すためには、それが最高の組合せでなかっても、その結果をしっかりと確認しておくことは大切なのであります。
 宇宙の構成において、最初に光(ヒルコ)の状態が生まれ、次に星霧星雲(アハシマ)の状態が生まれたのは、自然の順序でありますから、決して失敗という意味ではないのであります。
 まだ整然と完成された組織紋理が描かれていないいう意味での、不良というわけであります。
 水蛭子(ひるこ)は、「ヒカルコ」即ち光波に代表されるところの電磁波を表しているのであります。
 電磁波発生は四体(精体・気体・液体・固体)の中の精体の威力の発揮であって、伊邪美命の最も強烈な威力あるものでありますから、霊の発動をも凌駕し、先んじて現れたところの必然の行動・行事であるわけであります。
 葦船(あしふね)は、アシが脚力・速力という意味で、すべての速度を保って流れてゆくものを指おります。
電磁波は皆それぞれに異なった遠カをもって大宇宙を進む葦船であります。
光というものは、原子が変化するときにできる原子配列の余剰分のエネルギーが原子の外に放出されたものでありますから、流し棄つというのであります。
 ヒルコは物質的な光であって、この世においては最高に素晴らしいものでありますが、霊的な光は更に更に無限に無限に素晴らしいものなのであります。


ヒルコの出生が先立って起こった為に、霊的発動の威力が充分に発揮されない状態、即ち四魂(奇魂・幸魂・和魂・寝魂)の中の寝魂の威力の発揮に止まったのがアハシマ(淡嶋)であって、一切の原子構成の根本要素でもあり、まだはっきりしない星雲状態の誕生でもあります。

 蛭(ひる)はよく他に食いつくので、執着の代名詞でもあります。一切の執着は全体・全相・大局を観る目を曇らせるものでありますから、この執着を流し棄てることは必要なことであります。又仮に執着を去っても、何事に対しても冷淡になるようでは(独りよがり、個人主義、無責任)、これまた神の道に適わないのであります。それゆえ冷淡(アハシマ)も神業の中には入らないものであります。(つたない解釈の一例であります。)

15-1

ここに ふたはしらの かみ はかり たまひ つらく いま あが うめりし みこ ふきあはず
於是  二柱神議云              今吾所生之子     不良

なほあまつかみの みもとに まをすべし と のりたまひて すなはち ともに まい のぼりて 
猶宜白天神之御所                 即共参上 

あまつかみの みことを こひ たまふ
請天神之命


 天神之御所(あまつかみのみもと)とは、本来 天神諸命(あまつかみのみこともろもろ)と 伊邪那岐 伊邪那美 二神とは一体でありますから、天神諸命は岐美二神の内にあり、岐美二神自体にあたるのであります。だから自己内省・自己省察が天神之命を請うということなのであります。しかし岐美二神は天之御中主神を始めとする神々に対し絶対信頼・絶対帰命しているものでありますから、一切の自我・私心・私念・私意・私欲が無いのであります。
 そこで何事に対しても、もう一度初心・原点・始元に帰って・天之御中主神の神格に徹底し、天神諸の神々の神格に徹底して、天神の律則(律:法律・おきて・音楽の調子・リズム・戒律・・則:規則・天地の大道・自然の条理・手本・模範・・)を深く知り・それに従うということが必要になってくるのであります。
 祖孫は一体であるが、根本の太祖に対して、絶対信順するところに真の神の道があるのであります。
 天意敬順に絶対の本位を立てて、自己省察を行う所にカミナガラの本来の道があるのであります。

 惟神道(カミナガラノミチ)とは、絶対他力主義であり、絶大無比の他力門であります。また自他一如に立脚した他力主義であります。その他力は同時に自力であり、絶対力なのであります。
浄土宗や浄土真宗は他力門と呼ばれているが、古神道は更にその遙か上を行く絶対他力門なのであります。
阿弥陀仏と衆生の関係のような別個の関係に立脚するものではないのであります。
 古神道の絶対他力門は、その根底において、全大宇宙のすぺてのすべては宇宙の大神さまと一体である、一つのものである、という立場から出発しているのであります。
主客を別個に見ることも無く、救済・済度・願求・祈念というようなものを対象にしたものでも無いのであります。
父子一如の他力観であり、自他一如の他力門であります。
宇宙の大神さまと一体の自分、既に悟っている本心の自分に復帰して、天爾本来の光を発揮し、神人一体を実現する道であります。

 宇宙の大神さまの絶対の愛の御手にしっかりと抱かれている事実に気付きさえすればよいのであります。
無限無量の慈愛の護り・自然の恵み・偉大なる神力によって・限りなく愛され生かされているのであります。
幼子(人間)が母親(神さま)の胸にしっかりと抱かれているのは厳然とした事実なのであります。
このことを私たちは決して忘れてはならないのであります。
また疑ってはならないのであります。



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