真(まこと)の問答集


どれだけ真剣に問いかけているか?が大切なんですね。

真剣なほどね、まいのりが必要なんです。

真(まこと)の神さまは、いつもいつも本当に必要なものだけを与えてくれるんですね。

本当に必要なものだけをね、つまり真(まこと)の言葉を真剣に自分の自由意志でね 唱え選び続けるのが、

本心の生き方なんです。

お釈迦様は、弟子が三回聞いてきたときに時に、

始めて口を開いて、少しだけ教えを説いたんですね。

また言葉だけではなく、蓮の花を拈(ひね)ってみせて、(ひねるとは、左旋回の多層構造を示す)

その意味を得度した摩訶迦葉(まかかしょう→第二祖になる)尊者に悟りの印可を与えたんです。

又お釈迦様の先生である維摩居士(ゆいまこじ→中国では、老子さまとしておられた→ゆいまとは、唯一偉大なという意味→すべては完璧なる一つを指す)先生は、

「維摩の一黙百雷の如し」で、無言の説法をしたんですね。この無言というのはね、真祈りがすべてであることを示されたんですね。

真(まこと)の神さまからの答えは、常に先に先に

「声なき声」となって降り注いでいるんです。(これは、我(真(まこと)の神さまのこと)汝の求めるに先立ちてすべて与えたり!ということです。)

言葉で波を合わせたら、なんでも一瞬で現実化してくるんですね。

ですから、本当に真剣な切実な問いかけをしたら例えなにも感じなかっても、

現実化に必要なわずかな時間はね、褒め称えて喜んで感謝して待てるはずなんですね。

どんな人でもね 真剣で素直であれば必ず答えは受け取れるんです。

 

目次

 

第1部


1.神さまが願っていることとは・・・

23.総責任者とは・・・・・・・・・・


2.真祈りとは・・・・・・・・・・・                                                               24.虚栄心について・・・・・・・・・

3.本当の人生の目的とは・・・・・・                                                               25.言葉通りの法則・・・・・・・・・

4.支える生き方について・・・・・・                                                               26.自由自在とは・・・・・・・・・・

5.支え合いとは・・・・・・・・・・                                                               27.言葉通りとは・・・・・・・・・・

6.本心の自分とは・・・・・・・・・                                                               28.十界について・・・・・・・・・・

7.本心の自分に戻るために・・・・・                                                               29.振替えとは・・・・・・・・・・・

8.本心開発とは・・・・・・・・・・                                                               30.与えると受ける・・・・・・・・・

9.神さまのお手伝いとは・・・・・・                                                               31.与えると支えるの違い・・・・・・

10.真(まこと)の神さまを感じ取るために・・                                                               32.本当の愛と虚の愛の違い・・・・・

11.真(まこと)の神さまと出会うためには・・                                                               33.真実の世界と虚の世界の仕組み・・

12.護摩木の祈り言葉に隠された言葉                                                               34.一大循環の相象とは・・・・・・・

13.真(まこと)の神さまをとらえるには・・・                                                               35.真(まこと)の神さまと天照大御神様の違い・

14.真(まこと)の神さまと一対一になるとは・                                                               36.絶対の中心とは・・・・・・・・・

15.本当の幸せとは・・・・・・・・                                                               37.入れ子構造とは・・・・・・・・・

16.真(まこと)の自由と平等・・・・・・・・                                                               38.借金返し・恩返し・絶対奉仕・・・

17.真(まこと)の平等・・・・・・・・・・・                                                               39.本当の感謝とは・・・・・・・・・

18.真(まこと)の自由・・・・・・・・・・・                                                               40.直観とは・・・・・・・・・・・・

19.虚の世界を消すには・・・・・・                                                               41.お祈りの段階・・・・・・・・・・

20.我を消すには・・・・・・・・・                                                               42.本当の光一元とは・・・・・・・・

21.謙虚さについて・・・・・・・・                                                               43.無色透明とは・・・・・・・・・・

22.神さまに降りてもらう生き方・・                                                               44.上から降りる生き方・下から上がる生き方


第2部

45.肉体の自分の勉強から本心の自分の勉強へ・・

46.護摩焚きの一大変化について・・・・・・・・

47.真(まこと)の問答・・・・・・・・・・・・・・・・・

48.神さまに直接質問するには・・・・・・・・・

49.本物の新たな生き方・・・・・・・・・・・・

50.本心からとらえた、支える・支え合う・・・・

51.本心からとらえた、恩返し・・・・・・・・・

52.全てを適材適所に配置する自分とは・・・・・

53.本心は虚の世界をどうとらえるのか・・・・・

54.真(まこと)のプラスの言葉・・・・・・・・・・・・・

55.全託とは・・・・・・・・・・・・・・・・・

56.真(まこと)の神さまがしてくださっているの意味・・・

57.今一番必要なこと・・・・・・・・・・・・・

参考資料・真祈りへの地図

 

第1部

1

「真(まこと)の神さまが願っていることは、何ですか?」

 

真(まこと)の神さまが 願っていることはね、何かというとね。

 

全ての思いを消してあげたい・・だけなの

いつもいつも真(まこと)の神さまはね、みんなを本当の意味で幸せにしたいだけなの。

真(まこと)の自分に自由意志でね 気付いてほしいだけなのよね。

本当の人生の目的をしっかりと把握してね 真祈りしてほしいだけなのね。

真(まこと)の本心の自分に戻って、常に神さまと共に生き、共に喜び共に楽しまんという、愛の深い自分に変えてあげたいだけなのね。

真(まこと)の幸せをいつも味わってほしいだけなのね、いつもいつも一瞬一瞬新たに新たにあらたかに絶対の中心という最高の状態にいつもいてほしいだけなのね。

本当に幸せな人をね 一人でも多く生み出したいだけなのね。

地獄に墜ちて、何億年苦しんでいる人を1秒でもほっとけないのよ。なぜなら、すべては完璧なる一つだから、すべて自分なのよね。

真祈りを伝授して全ての思い・我を消し去り、虚の世界の全ての問題を消しきってしまいたいだけなのよね。

 

真(まこと)の神さまの願っているのはね、みんなの本当の幸せだけなんですね。本当の本物はね 無条件の幸せなんよね。

 

どれだけ神さまの願いを自分の願いにしようと、真剣に願っている人でもね、その真相は神さまの無限分の一以下なの。常に常に真(まこと)の神さまの方が真剣に願っているのね。真(まこと)の神さまはね  いつもいつも きついきたない危険な立場に立ち続けて真剣に働き続けておられのよね。

 

だから今一度、しっかり自分を見つめてほしいの。何が幸せかってね。 真(まこと)の自分とは何かってね。 何のために生きるのかってね。 その目的も願いも、しっかりと正しいものに定めてほしいのよね。

 

真(まこと)の神さまの願いを生きることがね。真(まこと)の神さまの目的を生きることがね。大切なんよ。

みんなに大きい幸せを与え続けることがね。それがね自分も大きい幸せを与え続けてもらえる自分になるの、本当に全体に支えられている自分になるのよね。

 

真(まこと)の神さまが、真(まこと)の自分というね。神さまの願いと自分の願いが1つになったらね 本物なのよ。 一切の我を消し切って 謙虚にみんなで支え合おうというのがね、真(まこと)の神さまの本当の願いなのよね。

 

ありがとうございますを唱えることがね、嬉しい!楽しい!幸せ一杯!大きな喜び一杯!と唱え続けることがね、 大きい幸せをすべてのすべてに与え続けていることだからね、1回唱えるごとにね幸せがね大きくなるね。
 一回唱えるごとに大きくなるのが、幸せが大きくなるのが、無条件の幸せなのね。新たなる無限の無限の幸せが、無限に無限に一杯ってね 自分の心の奥底から湧き上がるね。無限というのはね、有限ではないから、どこまでも大きい幸せで、限界がないの。すべては完璧なる一つなのよね。

 

誰でもね、日に日にそして一瞬一瞬新たにあらたに大きく幸せが変化していくのよ。幸せだから、祈るね。幸せだから、祈ってね 幸せを与えるね。与えるからね、与え続けるからね また大きい幸せになるよね。また、その大きい幸せを与えたいから、与えて嬉しいから幸せだからね。祈って与えるね。祈って幸せをどんどん大きくして与えるね。それが、真祈りのありがとうございますなのよね。

 

真祈りのありがとうございますになるとね 必要なものが、前もって全部整っているということにね、気付くね。今、太陽が必要だからね、太陽を作っているのではないよね。みんな先に先に与えてくるよね。空気もね、もう先に循環しているよね。神さまの与える必要なものはね、全部先に先に与えてくるよね。すでにそうしてもらっていることに、本当は、気づけばいいだけなのよね。それが、小さくではなくね、大きく大きく眺めてもね、必要なものをすっと与え続けてもらっているよね。

 

心の奥底からね みんなを幸せにしたい、支えたい、というね この気持ちが出てくるのもね、神さまが与えて下さっているのよね。みんなを支える力も全部ね、必要に応じて与え続けてもらうのね。与える心を起こせば起こすほどね、大きい力が湧き上がるのよね。必要になったらね、いくらでも湧き上がるようにしてくれているのよね。




2

「真祈りとは何ですか?」

 

 

真祈りとは何か。どういう風にね 定義するか。まず一番大きい立場であるね、絶対の中心からね、全ての全てに。入れ子構造的な世界を全部含んだね、全ての全てにね、真(まこと)の神さまを与え続けることよね。 どういう風にかというとね。 一瞬一瞬、新たになのよね。 これは大変に大事なことなのよね。

 

一番大事なのはね やっぱりね 、一瞬一瞬、新たにという言葉なのよね。この絶対の中心から舞い降りてくる神さまの働きはね、一番大きいところから全ての世界・次元を通り抜けてね、舞い降りてくるよね。一言でいうと 大きい支えあった与え方というね。 それが一瞬に舞い降りて舞い戻るね。真(まこと)の神さまが与えてくるというのは、言葉に現わせないくらい大きいのよ。例えば一つのらせんの動きですら、そう。これが全方向からだから、無限倍になるよね。  一点の立場に立つ自分に対してね、大きいものをね 

一瞬一瞬新たに新たに全方向から与え続けててくるというね 与え続けるというのはね凄いよね。一回一回切り分けて、新たに新たに与え続けてくるね。もちろん一回きりではないね。連続した一つではないね。一回一回が新たな与え方で、大きく与えてくるね。その与え方が、ところてん式にずーっと連続するのよ。本当に一大瀑布のように降り注ぐの、これは本当にすごい事よね。でも、これも一点に対してなんよ。まだまだ小さいのよね。神さまの与え方はね、一点だけではないのね。全ての全てにね。無限の無限に与えるのよね。

 

真祈りというのはね、本当はね、マイナスを消すためではないよ。虚を消すためでもないよ。この真(まこと)の神さまの働きの全てを全てに与え続けるお祈りよね、最高のプラスを全てに与え続けるお祈りよね。本当はね、真祈りとはね マイナスは一切相手にしないのよ。最高のプラスというね、本当に必要なものを永遠に与え続けるお祈りなのよ。真(まこと)の神さまをね、全体へね、すべての全てへ与え続けることなのよね。そのためにね、たんたんと、ギブアンドテイクを捨てて、一切報い求めることなく、たんたんと、祈り言葉を唱え続けるのよね。

 

祈りと真祈りの違いは、何か。いくら本心の自分が祈ったとしても、本心の自分の祈りも、まだ真祈りではないのよね。本心の自分の祈りの内側から 真(まこと)の神さまが降り立ってくださって、本心の自分の奥底から真(まこと)の神さまが 湧き上がってそして通って、通り抜けてくれる、その時から、本心の祈りが真祈りに変わるのよね。

 

真祈りは、真(まこと)の神さまが自分自身を与え続ける相象(すがた)。真(まこと)のプラスだけを与え続ける相象(すがた)。一大循環の相象(すがた)で、本当に必要なものを的確に与え続ける愛の相象(すがた)。これが真(まこと)の祈り、真祈り。真(まこと)の神さまが降り立ってする祈りが、真祈りなのね。

 

どうしたら真祈りになるのかというとね。やはり神さまの願いを、目的を、わが目的として 神さまと共に 持って生きないと気付けないよね。虚の世界はプラスが少ないから不便なのね、だからもう少し楽になりたいと求める心を起こしてしまうのね。それをプラスで受けようとするとね、結局は求める心だからマイナスになるのよね。じゃあ 与える心にしてもね、自分の持っているプラスだけを与えようとするね、それは小さい小さいものだけなのね。与える心をね 真(まこと)の神さまを与えるという大きい生き方が必要になるね。これをね支えあいの心というね。

 

真祈りの実行・実践をするには、どうしたらいいか。真(まこと)の神さまが降り立つのはね、必要なだけしかね。本当に必要なだけしかね降り立たないのよ。例えば この地球の色んな問題を消すために降り立って頂く 、でもねこれはね、本当はね小さすぎるのよ。いくら地球を守るため、地球の問題を全部消し去るためにと言っても、願いが小さいのよね。地球だけがマイナスが一杯というのではないんよ。この虚の世界の全大宇宙には、もっとひどいところが、いっぱいあるんよ。虚の世界全体を見たら、地球なんて、無の一点と同じなのよね。

 

この虚の世界全体を、本当の意味で、消し去る、それくらい大きい気持ちが必要なのよね。そしたら真(まこと)の神さまは いつでも、自分の中へ入って、内側から心の奥底から湧き上がり 後押し、応援をしてくださる。真(まこと)の神さまの後押し・応援は、いつも新たなる下座について、下から下から押し上げるようにして無限倍・無限倍で降りてくるのよね。





3

「本当の人生の目的って何ですか?」

 

人生の目的も、色々あるね。何のために食べるの?生きるために食べるの、って言うよね。何のために生きるの?食べるために生きるのって。って言うよね。 こんな風に、同じところでぐるぐる回って、目的を定めたつもりでいる人も多いよね。

 

小学生に、何のために勉強するの?って言ったら、中学校に入学するためって。何のために中学で勉強しているの?って、高校へ入学するため、って。それで、大学へ行くため、いい会社へ就職するため、素晴らしい人と結婚するため、ってなっていくね。色んな目的があっても、本当に最終の究極の目的になるかどうかって言うとね、ものすごく難しいよね。

 

肉体の人生だけを考えていたら、結局は答えになっていないのよ。肉体の人生だけでもね 部分的には、それぞれ色んな目的、種類が無限にあるんよね。でも、最後の究極の目的を定めないとね、答えになっていないよね、本当の答えはわからない。悟りを開くためって言ってもね、そしたら何のために悟りを開くの、ってなるよね。それはまだ答えにならないね。虚の世界を救うためとかね、消すためとかね 言ってもまだ、本当の目的ではないんよ。

 

真(まこと)の神さまの目的と一致するところまで行かないと、ダメなのね。では 真(まこと)の神さまの目的は何かっていうとね。真(まこと)の神さまは、自分の全てをすべてのすべてに与え尽くして、一大循環の相象(すがた)になりきっているのね。その真(まこと)の神さまと不離一体になって、真(まこと)の神さまを生き切って、永遠に光源と光の流れとなってすべてを輝かし続けることよね。それがね 真(まこと)の神さまの目的をしっかりと生き続けることになるのね。

 

真(まこと)の神さまの願い・目的をしっかりと、自分の願い・目的に変えて、全力を尽くすことが大切よね。本当はね 自分が真(まこと)の神さまに近づくのはね 不可能なの。でもね、真(まこと)の神さまが自分に降りて近づいてくださるのはね、いとも簡単にされるのよ。

 

真(まこと)の神さまに使って頂いた時にね、悟りを開くのよ。悟りを得るのではないんよ、開くの。たとえばね 花でもね、つぼみをね 自分でね 開くわけにいかないよね。自分の力では開かないよね。中から、神さまのいのちが湧き上がってきてね 働いてね、つぼみが花開くよね。それと同じなんよ。神さまが自分の中に降りて下さって、自分を使って下さった時にね、たんたんと自然に悟りの花が開くのよ。悟りを得るっていうのは、自分が神さまをつかみに行こうとすることだから。求める心となって神さまとは響きが合わないのね、小さい自分の意識で悟りを得たと思っても、開かないんよ。

 

神さまの御用に使ってもらう、神さまの願いを、目的を生きる、これが本当のもの。神さまが降りてきて、自分を使って、現実化してくれる、神さまだけにしてくれる、これが、悟りが開いたということ。本当の悟り。神さまが出て来てくれたら、神さまだけになる。それを本当の目的にするのが、正しい生き方。




4

「支える生き方について教えて下さい。」

 

本当の自分の生き方、本心の自分の生き方は、支える生き方。真(まこと)の神さまを与えるという、支える生き方。絶対の中心から、下から大きく支え続けて、必要なものを与え続ける。一番下から支えるというのは、力が要る。全体を支える、みんなを支えるというのは、一番力が必要になる。力が無かったら、押し潰されておしまい。支えるという生き方の時に必ず、真(まこと)の神さまが潰されないように、支えに出てくる。必ず守ってくれる。

 

自分の生き方と同じ波のものしか、自分は受け取れない。真(まこと)の神さまの働きは、本当の支える心を起こさないと受け取れない。支えるというのは、本当に下座について、下から全体を押し上げるように、支えるように大きい力を発揮しないといけない。昔から縁の下の力持ちと言うけれど、自分を出さずに、大きい力を出して、大きい建物を支える。一番大変な仕事。でもそれが真(まこと)の神さまの力が降り立つすがた。本心に戻るためには、この支える生き方が、絶対に必要になる。

 

自分が大きく支えようとしたら必ず、真(まこと)の神さまからの、絶対からの大きい支えが、常に無限倍出て来て支える。必ずその無限倍が、自分を通して力が湧き出るように、出てくる。それで支える練習をどんどん積み重ねて、入れ子構造的に大きい自分に戻っていく。常に無限倍の支えをもらって、大きく大きくなっていく。それで絶対の中心へ近づく、真(まこと)の神さまにどんどん近づいていく。真(まこと)の神さまと一体と言っても、小さい一体と大きい一体がある。入れ子構造的に大きい支え方をする人が、真(まこと)の神さまと本当の一体感を味わって、大きくなっていく。どこまでもどこまでも、大きく大きくなっていくのが大事。

 

支える生き方ってどういう生き方か。木が枝を張って茂っている。根はその木の枝の方向と同じように、張られている。そうしないと倒れる。根が枝の向きと逆にきていたら、ひっくり返る。必ず枝の下に根が来ている。枝が大きかったら、根も太い根がぐっと張っている。これは支えるため。根の働きって、全体を支える大きい働き。大津波がきても、波を防ぐだけのしっかり根を張った木がずっとあったら、津波を防げる。防波林になる。津波の影響が軽く済む。

 

根っこってどういう働きか。根が広がって、張り巡らされるのは、腐ったもので一杯の汚い所。肥料ってみんな腐ったもの。一番汚いところへ、自分を置いて必要なものを吸収して、養分を与える。根っこはきれいなところへは出ていない。ある意味では、人間の社会で言ったら、人の尻拭いばっかりする。人が悪い事をしたり、失敗したりした尻拭いをする。人の出来ないことは、全部自分が引っ被ってする。足りないところを全部補わないとダメ。一番損する大変な役目。まず神さまの支えがどれだけ凄いか、これに気付くためにも、自分が支える練習をしていかないとわからない。これをしないと神さまのバックアップは無い。謙虚に謙虚にならないとダメ。神さまの本当の支え、バックアップは、支えに生きた人しか波が合わないから、出てこられない。

 

根は、どこに根を下ろしてもいいわけではない。真(まこと)の神さまに自分の根を下ろさないと、本当の不動の大地に下ろさないと、全部流されてしまう。根をしっかりと真(まこと)の神さまの盤石の大地に下ろさないと、ちょっとした業想念の津波が来ただけで流される。真(まこと)の神さまだけをしっかり相手にしないと、自分の全てをそこに与え尽さないと根は下ろせない。やっぱりどこに根を張るかが、大事。また根が無かったら全部枯れてしまう。切り花が一時的に栄えているように見えても、すぐ枯れて消えてしまう。

 

根が一番大事。根をしっかりと張る。真(まこと)の神さまの本当の不動の大地へしっかりと根を張ること。そしたら自分も支えてもらえる。みんなを支えることも出来る。津波に流されそうになったものも止めることが出来る。本当に根をしっかり張ったもの同士が手を握ったら、どんな大津波でも防げる。だから真(まこと)の神さまのお手伝いというのは、根をしっかり張らないとお手伝いにならない。

 

支えるという時に、外から倒れかかったものを、棒を当てて支えるような、外からの支えは本物ではない。中からの支えでないとダメ。中からというのは、一番の中は、絶対の中心。絶対の中心から真(まこと)の神さまを与えて、芯柱を入れる、本当の支柱を入れる。これが真(まこと)の支え。それが大きいものも小さいものも、全てに対して、実の世界も虚の世界も、全てに芯柱を入れてあげる。そしたら、本当の独り立ちした、それぞれの幸せがそこにある。これが真(まこと)の祈り、真祈り。それも、秘奥義の真祈りになる。



5

「支え合いとはどういう生き方ですか?」

 

真(まこと)の神さまの願っていることを、本当に必要なことを自分一人で出来るか?どれだけ能力があっても、自分一人では何もできない。例えば、自分がどれだけ本心の自分になって、無限力があっても、今の地球を救うことは、できない。全体に支えてもらわない限り無理。みんなに支えてもらって初めて、実行可能になる。

 

自分が上に出たら、誰も支えてくれない。自分が一番下からみんなを支えようとしない限り無理。もう徹底して自分が下から全体を支える、みんなを支えようとしたらいい。必ず、周りから全部が支えてくれる。その支え合いの力が、本当の力になる。支える生き方を実行したら、必ず支えてくれる人が一杯出てくる。それで「支え合う」になる。

 

真(まこと)の神さまが出てくるのが支え・支え合い。自分が支えようという気持ちになった時、真(まこと)の神さまが全体を通して、支えるすがたで出てきてくれる。真(まこと)の神さまの世界、真実の世界は、支え合いだけの世界。支え合いの場にしか、真(まこと)の神さまは降り立たない。

 

だから、小さいことから全部、支え合いに生きる、これが本心の自分に戻る最短コース。それ以外にない。どうしたら真(まこと)の本心の自分に戻れるか。どうしたら一番早く戻れるか。支え合いに生きること。だから、まず自分が一番下座について、みんなを支えようとすること。それだけ。そしたら、みんなが支えてくれる。支え合いになって出てくる。そこへ真(まこと)の神さまが降り立つ。そしたら、本心の自分に戻る。最短コースで戻れる。言葉だけではなく、身近な日常生活全てにおいて、それを実行して本物になる。身近なこと全てにおいて、支え合いに生きるだけが、本当の生き方。

 

日常生活の全てが本心をしっかり自覚するために与え続けてもらっている勉強材料。支え合いの勉強をしている。本当に、みんなを支えようとしたら、支えてもらっていることに気付く。今さら、支えてもらうのではない。支えてもらっていることに気付く。本当の支え合いだけになっていることに気付く。

 

支え合いとはどういうすがたをとるか。日本ミツバチのすがたを見ると、よくわかる。ミツバチの巣の周りに、時々、スズメバチがやって来る。スズメバチはミツバチを取って食べてしまう。エサにする。スズメバチは強い。小さいミツバチをパッとくわえるのは速い。一瞬にぱっと捕まえられる。

 

ミツバチは、どうするか。スズメバチが来たら、周りのミツバチが全部、何百って大勢が、さっと集まって、大きい体のように、全体が大きい生き物のように動く。スズメバチが来たら、全体を大きく浮かび上がらせて、何か大きい生き物がいるような感じで追い出す。そうすると、スズメバチがふっと下がる。一匹だったら、さっと捕まえに行けるのだけど、そういう風にみんながわっと動くとやっぱり飛びつけない。

 

ところが、スズメバチが来なくなったら、みんないなくなって、まだスズメバチが来る可能性もあるから、ちょっとだけ門番みたいなのが残っているけど、あとはみんな他の仕事に分散している。スズメバチが2匹3匹来た時には、外から帰ってきたミツバチが全部そこに集まる。数がものすごい。海で小さい魚が集まって、大きい塊になって動くのとよく似ている。襲われないように、大勢がたくさん集まって、化けものみたいな姿をとって動く。日本ミツバチの生き方を見ていたら、危険な時は、自分の身を捧げて全体へ奉仕しようとしている。そして、役割も自由自在に変化する。必要な役割へスッと移れる。

 

支え合いというのは、真(まこと)の神さまの一大循環の相象そのもの。絶対の中心から、的確に必要なものを与え続けているすがた。必要なところへは沢山、少しでいいところには少しだけ。本当に必要なだけを与え続ける。押し付けていない。沢山は与えていない。密かに、自分の正体を隠して、必要なだけ。本当に必要なだけを与え続けるすがたを、全体に全てに対して取っている。

 

6

「本心の自分とは?」

 

本心の自分とは、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分となって降りた、そのすがたのこと。

 

それも、最高の神さまのすがただけ。

一番新しい、一番大きい、最高の神さまだけが、真(まこと)の神さま、それが真(まこと)の自分。

絶対の中心に立てる自分であり、全てに大きく、真(まこと)の神さまを与え続ける自分。

 

本心の16項目

 

①真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分

②一切の我の無い、無色透明の自分

③元から真(まこと)の神さまと一体の悟った自分

④常に全体を支える自分

⑤すべてを適材適所に配置する自分

⑥一切の責任を自己に帰す総責任者の自分

⑦永遠無窮の自分

⑧完全円満完璧な自分

⑨無限に無限に大きい無限大の自分

⑩一瞬一瞬新たなあらたかな自分

⑪絶対の中心から無限に無限に輝いた自分

⑫すべてと一体の全一・絶対の自分

⑬全知全能無限力の自分

⑭一切の縛りの無い自由自在な自分

⑮微塵も求める心の無い、必要なものを的確に与え尽くすだけの愛の自分

⑯無条件の幸せ・喜び・安らぎで一杯の自分

 

我の自分が、神さまに近づいてこの16項目のような自分に成ろう、といくら頑張っても、絶対に不可能。真(まこと)の神さまが降り立って下さって、初めてこの16項目を持った、本心の自分に戻る。

 

本心の自分の生き方には、どんな生き方があるか。

常に新たな生き方、総責任者の生き方、支え合いの心の生き方、神さまのお手伝いの生き方。

どれか一つを選んだらいいだけ。何か一つしっかり生きたら、もう本心の自分の生き方になる。

 

7

「本心の自分に戻るためには、どうしたらいいのでしょうか。」

 

我の自分では何をしても、本心の自分には、戻れない。絶対不可能。思いの自分、我の自分が、いくら本心に戻ろうとしても不可能。絶対不可能。我の自分は我を積み重ねるだけ、思いの自分は思いの自分を積み重ねるだけだから、永遠に不可能。我を消して、思いを消して、本心に戻してくれるのは、真(まこと)の神さまの働きだけ。真(まこと)の神さまの働きが、常に降り注ぐから。

 

虚の世界全体へ、真(まこと)の神さまの大きい働きが降り注ぐ。思いだったら、思いを半分引き受けて、波を合わせて消し続ける。人の自由意志を絶対縛ることなく、半分取って消し続ける。常に半分取って、波を合わせてくれる。半分取った分を消して高め上げてくれる。それをずーっと続けてくれる。小さい自分、色んな無限の種類の我が自分の中にあるのを、色んな段階で消し続けてもらって、初めて、我のない自分、本心へ戻してくれる。

 

本当は、虚の世界の全部が、真(まこと)の神さまの大きい愛の働きによって、自分の我を消してもらっているすがた。でも消し続けてもらっていると受けるだけでは気づかない。受けるだけの心は、無限に小さい生き方。同じ虚の世界を見るのでも、消し続けてもらっていると全体をとらえるだけでは、小さい。今度は消し続ける側、支える側、支え合う側に立たないとダメ。自分の責任で虚の世界の全部を消す、この立場に立って初めて、真(まこと)の神さまの生き方と一致する。だからバックアップが大きく降り注ぐ。

 

本心に戻るためには、お祈りをするのが根本。加えて、色んな勉強がいる。全てにおいて行き届かないと。本心を生きようという生き方にならないと。人生に起こる一つ一つ、日常に起こる一つ一つ、全てが、神さまが与えて下さっている本心開発の勉強材料になっている。どんな一つも大事。しっかりと本心を生きようとしたら、本心が大きく輝いてくる。それを忘れたら、我を積み重ねる一方。どんな小さいことも、一瞬一瞬、大事に生きないと。必要なことを追いかけたらいい。しっかりと必要なことだけをするのが大事。余計なことをしないこと。

 

本心を輝かす、最高の方法が、真祈りのありがとうございます。真(まこと)の神さまを与え続けて、中心の中から、みんなの本心を無限に無限に輝かす。真(まこと)の神さまを中から与えて本心を輝かす。これが真(まこと)の神さまを与え続けるっていう祈り。それでみんなの本心を中から輝かす。それで本心が輝いて、我が思いが、自然に消えていく。

 

だから我や思いの自分と、戦うのではない。自分が光り輝くことで、闇を退散させて消してしまう。光と闇とが闘うのではない。光が出てきたら闇は退く。光を消したら闇が忍び寄る。だから光は必ず勝つ。常勝不敗、無敵の天忍穂耳尊の生き方。それもみんなで、真祈りで祈りあって支え合っているから、全方向から光をもらっている。だからどこにも闇は存在できないような守り方をされている。みんなから真祈りを祈ってもらって、真(まこと)の神さまを与え続けてもらう。だから本心は最高に輝くしかない。

 

8

「本心開発とは?」

 

本当にどこにも真(まこと)の神さま以外ない。本当に真(まこと)のプラス以外ない、一大循環の愛の働きしかない。本当に一大調和のすがただけ。本当の支え合いのすがただけ。全体が完璧な一つになっている。言葉も真(まこと)のプラスしかない。全てが本当に無色透明の輝きで一杯のすがた。その中に全部含まれている。本当に清らかな流れ。神さまの流れは、絶対の中心かららせんを描いて、一瞬に舞い降りて舞い戻る。

 

この一瞬に全てしてしまう、この働きの中には、汚れがない。汚れが溜まらない。どんな汚れがあっても関係がない。一瞬にして清らかな流れを与えてくる。全てがそう。だから全体の舞い降りるすがた全部が、一大循環の相象全部が清らかな流れ。それを感じ取れるように、神さまは、本心の自覚を大きく大きく与えようとしてくる。本心の能力を授けてこようとしてくる。それが、本心開発。

 

本心の幸せは、神さまの与えてくるものを全部味わえる。同じ幸せでも、自分の味わえる無限の幸せ、これでは足りない。みんなの味わう無限の幸せを、更に無限倍にして全部自分の中に取り込むのが、本当の本心の幸せ。そこまで自由自在な自分に戻って、みんなの幸せを中に大きく取り込む、これをみんな目指す。本心開発というのはそこまで行かないと本心開発ではない。本心を閉じ込めていく。

 

本心をどんどん開いていくのは、一瞬一瞬が本当に真剣勝負。本当の能力を開発しておかないと出来ない。自分はこれしか出来ないなんて自己限定したらおしまい。無限の能力を開発していかないと、神さまのプレゼントは味わえない。急な川の流れでも自分がさかのぼって泳ぎ切らないとダメ。鯉の滝登りみたいに滝でも登らないとダメ。登れなかったら流されるだけ。惰性に流されるようだったら、本心の力を使っていないことになる。どんな急流でも登らないとダメ。

 

どんな問題が出て来ても、自分の能力を引っ張り出す勉強材料。難しい問題が出てくるほど、それに取り組まないとダメ。それを解決する能力を、引っ張り出さないと。地球を守るっていう位の問題は、本当は小さい問題。地球を守るためにどうしたらいいか。地球上の問題全部、解決するためにどうしたらいいか。これでもまだ問題が小さい。この問題ぐらいは、全部自分が一人でもしないとダメ。

 

どうしたらできるか、真剣に考えて、本当に地球を守る、この働きを具体化させないとダメ。ここでまず、根本は、お祈り。そして本心の無限力を発揮するために、言葉通りになるっていう、絶対の法則があるから、自己限定の言葉を絶対に使わないことが大事。

 

奥にある能力は使わなかったら出てこない。使ったら出てくる。みんな使わないで奥にしまったままだったら、出てこない。しっかりと使ったら使っただけ出てくる。難しい問題にこそ、取り組まないとダメ。困難に戯れるくらいの気持ちでないと、本当の能力は出てこない。

 

例えば、本心が出てきたら、怪我したのがサッと治る。その場でサッと消える。どれだけ本心を引っ張り出すまで、限界を破って耐えられるか。色んな発明発見がそう。ギリギリまで追い詰められて、もうこれが無かったらどうしようもないというところまで追い詰められたら、発明、発見が出てくる。みんな本心の中に全部持っている。神さまが全部用意して与えてくる。それは、本当に必要としないと引っ張り出せない。具体的に引っ張り出さなかったら、何もしていないのと同じ。

 

人間って、肉体の人間でも能力を大きく与えてもらっている。普通全力を出して、これ以上出ないって限界まで出した人で、4分の1という。25%しか出していない。まだ75%の余力がある。肉体の自分ですらそう。魂の自分、本心の自分、奥の自分はその無限倍持っている。どんな力でも本当は発揮できるはず。必要だったらいくらでも出てくる。出せないのは、みんな自己限定してマイナスの言葉で自分を縛っているだけ。

 

みんな自分のマイナスの言葉で自分を縛るだけ。人の言葉ではない。自分の言葉で自分を縛っている。本心の自分を忘れて、自分を言葉で縛っているだけの話。自分のマイナスの言葉で自分を縛り続けてきた。過去の縛りなんて、本当に自分が支えようとしたらすぐに消える。全体を支えよう、総責任者になって本当に力を発揮しようとしたら、過去の言葉の縛りは一瞬で消える。本心を生きて支えようとしないから、出てこない。本心を引っ張り出さない限り、言葉の縛りを消す力は出てこない。いくら言葉で唱えたってそんな力はない。

 

本心が使う言葉に、力がある。思いの心でいくらプラスの言葉を唱えたって、そんな力はない。マイナスは消せない。偽物。本心の自分の使う言葉は、力がある。支えに生きる自分には、力がある。真祈りを祈るというのでも、本心の自分が祈ったら力がある。思いの心でいくら真祈りといっても力はない。ここは区別しないと。全て本物と偽物がある。本当に自分が本物を生きているか、偽物に負けているか。常に自分を見つめないと、偽物になっていたら負けている。

 

神さまは、その人その人に応じた、必要なものを的確に与え続けることによって、その人の本心開発をしてくださっている。例えば、地獄に落ちた人を可哀想にと思うかもしれないけど、本当は違う。地獄に落ちてでも、無限力を発揮する場を与えてもらっている。怠けて何もしない人を、どうしたら動かせる?自分は病気だから、怪我をしているから動けないと言って、何もしない人をどうしたら動かせる?

 

みんな言葉の縛りで、自分で勝手に自己限定して、自分を縛って動かないって頑張っているだけの話。それをどうしたら動かせるか。優しい愛の女神さまが、閻魔大王のような怖い顔をして、鬼のすがたで、鉄棒で叩きまわる。叩かれて痛いから、動く。逃げ回る。動ける、逃げ回れる。針の山に追い立てる。針の山へ行ったら痛いから、這い上がるようにしてでも山に登っていく。じっとしていない。痛いからいくらでも動く。じっとしていられない。そしたら無限力が出てくる。どんな状態でも、どれだけ病気で動けない、怪我で動けない、絶対動けないと頑張っていてもいけない。どんな状態でも本心が動き出す。そのために地獄がある。八大地獄って用意されているのがそう。どこまでも本心を引っ張り出そうとしてくれる。

 

怠けていて幸せになれる道理はない。本心はそう。何もしなかったら本心は幸せではない。無限の能力を発揮して、みんなを幸せにして幸せ。みんなを幸せにする働きを大きくしなければ、絶対幸せにはなれない。だから支えに回らないとダメ。本当にみんなを幸せにする生き方は、支えに生きること。怠けて幸せなんてありえない。本当に全力を振り絞って、みんなを一人でも支えに回らないとダメ。そしたら必ず本心が輝き出てくる。幸せな自分に戻っていける。一瞬一瞬、真剣勝負。

 



9

「神さまのお手伝いは、どのような気持ちですればよいのでしょうか?」

 

神さまのお手伝いをする上で、大事なのは、気持ちの持ち方。

「神さまのため」という気持ちでするのか、「神さまのご用に使ってほしい、お役に立ちたい」という気持ちでするのか、それによって、中身が大きく違ってくる。

 

我の心はみんな、神さまのために何かしているって責任転嫁する。世の中の色んな宗教の生き方を見てみたらよくわかる。神さまのために、って言って戦争を起こしている。神さまはそんなこと、絶対に願っていない。みんな神さまをだしにして、神さまを隠れ蓑にして、自分の好きなこと、勝手なことをやっている。神さまのためになんて言ったら、ものすごく高慢な、傲慢な生き方。自分が神さまのお手伝いに生きるって言っても、神さまへの恩返しに生きるって言っても、本当は、万分の一も億分の一も出来ない。無限分の一も出来ない。

 

だから神さまのためになんてならない。みんな自分のため。自分を助け上げてもらう、救い上げてもらうためだけ。神さまのためなんて言ったら、大きい我がある。一言そんなこと言ったら、高慢な、傲慢な我の強い人ということになってしまう。自分は神さまのことなんて何も出来てはいない。神さまの足を引っ張って、迷惑ばっかりかけて、助けてもらってるだけで、何の役にも立ってない。

 

でも神さまの御用に使って欲しい、お役に立ちたい。この願いは謙虚。ちょっとでも神さまのお役に立ちたい、御用に使って欲しい、お手伝いさせてほしい、本当に神さまの手足になるまで、護って導いてほしい、という願いだから。

 

だから神さまのお手伝いを本当に命捧げてすると言っても、謙虚さが大事。謙虚にならないと真(まこと)の神さまの助けは降りてこない。我の主張のあるところへは、絶対、真(まこと)の神さまは出てこない。謙虚に謙虚に、どこまでも謙虚になったところへ、真(まこと)の神さまはすっと出てくる。自分が出た時、神さまは引っ込む。どんな小さい我でもダメ。我が出た時は、神さまは奥に引っ込む。我を捨てた時に、それも謙虚に謙虚になった時、初めて出て来てくれる。神さまのお手伝いがしたい、御用に使って欲しい、何か恩返しがしたい。そういう本当に謙虚なところへしか、降りてくれない。

 

何のためにお手伝いをするのか。結局は自分のマイナスを全部消してもらうため。地球を守るって言っても、地球のマイナスを消すって言っても、本当は全部自分の、自分自身のマイナス。自分の無限の無限のマイナスを消してもらうために、真(まこと)の神さまを利用して使っているようなもの。マイナスを消さずに自分が救われるわけがない。

 

本当は、神さまのためでも、人のためでもない。自分の過去のマイナスの借金を消してもらうため。そのために、神さまの助けを受け、みんなの助けを受ける。だからどこまでも謙虚さが必要。自分がしているなんて、絶対言えないはず。本当に自分を救い上げようとしてくださっている。

 

自分自身のマイナスを消してもらってすくい上げてもらうために、お手伝いに生きる。それも本当は、神さまが全てを総動員して助けてあげようって、助けに降りてくれるすがただけ。だから自分が何かするのではない。絶対に違う。自分を本当に助けてもらうため。

 

そのためだったら、自分が全責任を持つ。自分が本当の総責任者になって、神さまの助けを受け入れる。マイナスを消すために、自分のすべてを捧げ尽くす。地球に満ち渡った、全てのマイナスの言葉を消しきるぐらいの、大きい責任は持とうとする。全てが、過去の自分のマイナスの言葉が、増幅されて大きくなったすがただっていうぐらいに。

 

そしたらまた気持ちがちょっと変わる。謙虚になるほど、本心が輝く。そういう気持ちになったら、本心が輝いて出てくる。神さまの助けを受けやすくしてくれる。我がひっこんで消えていく。

 

どうしたら真(まこと)の神さまのお手伝いになるのか。真(まこと)の神さまが大きく支えようとして出て来てくれている、それにピタッと寄り添うようにして、邪魔さえしなければいい。神さまに寄り添うようにして、その御心を汲み取ってお手伝いをすればいい。そしたら真(まこと)の神さまと一つに融け合う。真(まこと)の神さまの働きと一つになる。神さまと一つに融け合った時、真(まこと)の神さまの大きい力が、自分の中を循環するようになる。本心の自覚を大きく与えてもらう。

 

本当の力が湧き出る、自分の中を通り抜けるようになる。これが自分一人でと言うと、絶対に無理。自分一人で大きく支えることなんか不可能、出来ない。潰されてしまう。でも真(まこと)の神さまのお手伝いでぴたっとくっつくのだったら、大丈夫。神さまのお手伝いという気持ちで、その働きのお手伝いをちょっとする。そうすると真(まこと)の神さまの中に入っていける。入れてくれる。それが本当に自分を大きくする一番の道。

 

我の自分、思いの自分から、本心の自分へ戻る、そのためにも真(まこと)の神さまのお手伝いをしたら、すぐに本心の側に戻してくれる。さらに本心の自分が神さまのお手伝いにちょっと寄り添うだけで、どんどんどんどん大きい本心に戻していってくれる。これが本当の本心開発の最短コース。

 




10

「真(まこと)の神さまの働きはどうやったら感じ取れますか?」

 

真(まこと)の神さまの与えてくるものは何か。絶対に同じものは与えてこない。存在するもの全部、違うものばっかり。違うものを取り揃えて与えてくる。二度と同じものは与えない。必ず変化させて与えてくる。これが根本の原則。

 

一個の原子でも、例えば、水素原子だからみんな同じかって違う。一個一個の水素原子がみんな顔も働きも違う。もっと細かい素粒子もそう、みんな働きが違う。そしたら大きいものも小さいものも、全部違うものばっかり。同じものではない、全部違う。神さまは、全部違うものを与え続けて来ている。そしたら宇宙にただ一つのものばっかり。同じものは無い。全部違うものばっかり与えてくれている。これがどれだけ幸せか。同じものが沢山あったら、一つでいい。全部違うとなったら、一つ一つが無限の価値を持っている。

 

それはこれから与えてもらうものではない。もうすでに与え続けてもらっているもの。常に降り注いでいる。それにいつ気付くか。マイナスに見て文句に言うようなものは何もない。本当にプラスばっかり。

 

マイナスに見えるものもプラス。まずマイナスが勉強材料っていう意味でとらえてもプラスだけど、自分のマイナスを身代りに背負って消してくれているというのも、大きいプラス。神さまの愛のすがたは全部、マイナスをいかに軽く小さく消し去ろうかと、助け続けてくれる。必要な勉強材料だけはちょっとだけ残してっていう、そういうすがたで助け続けてくれる。どんなマイナスも、大きい勉強材料になると同時に、大難は小難になっている、また無難に済ましてくれている。だからマイナスは、本当はマイナスではない。大きいプラスに変化したマイナス。更にその上に、プラスを一杯、更に本物のプラスを降り注がせる。一瞬一瞬、新たに置き換えて来ている。

 

この神さまの愛の働きにどれだけ心が向いて、感じ取れるようになるか。そのために何が必要か。支える生き方をとること。まず虚の世界に転落して、残像をつかみ続けて、マイナスの言葉を一杯使って、地獄のどん底に落ちて、そこからどれだけ大きい助けを受け続けてきたか、これに気付かないと。これは助けてもらうだけでは気づけない。助ける側に立たないとわからない。

 

昔からことわざで、親の心子知らずって言う。子供が子供の間は親の苦労も何もわからない。親の愛なんてわからない。自分の思い通りにならなかったら、腹を立てて文句を言う。でも自分が親になって子育てするようになったらよくわかる。ああ親の心ってこうなんだ、どれだけ苦労して子育てしてくれたのか、ちょっとは気付く。

 

そしたら、真(まこと)の神さまの愛の働きがどれだけ凄いか。地獄に落ちた自分を引っ張り上げるのに、どれだけ大きい働きをしてきてくれているか。これも、自分が求める心では気づかない。無限分の一も気付かない。受けるだけではダメ。自分のものを与えてもダメ。やっぱり、真(まこと)の神さまの本当の支え方、それを真似しないとわからない。それで支える生き方を練習する。そうすると、ちょっと感じ始める。

 

支える心で祈るのが、神さまの愛を感じ取るための本当に必要な生き方。それで支える心で祈る。宇宙船護摩木も支える心で書く。みんなそのために神さまが用意してくれている。本当に本心の自分をしっかり生き続けられるように。神さまの愛を、本当にひしひしと感じとれるようになるまで、神さまがあの手この手を差し伸べてくれている。神さまが一人ひとりの中に一生懸命入ろうとしている。みんなの中に入って、助け続けようとしている。

 

ちょっとだけ、ちょっとだけ、真(まこと)の神さまの側に立って考えてみたらいい。そしたら、真(まこと)の神さまの愛の本当の働きがわかってくる。そしたら、その邪魔をしないように生きられる。だから、ありがとうございますと唱え続けることによって、本当の意味で神さまの愛を感じ取る。また神さまを本当の意味で愛すること、愛の交流が起こる。ひたすら、ありがとうございますと唱える、祈り続けるのが、神さまを愛していること。神さまとの愛の一体感が、心の交流が、起こる。一番幸せな自分に、もう即、戻してもらえるはず。もう全体が真(まこと)の神さまの愛となる。真(まこと)の神さま以外、何もない。全てが真(まこと)の神さまだけ。

 

 




11

「真(まこと)の神さまと出会うためには、どうしたらいいのでしょうか?」

 

真(まこと)の神さまに出会うために、真祈りをどこまでもどこまでも祈り続ける。もう本当に絞り込まないと難しい。絞り込みがないと、余計な事へ心を向ける。真(まこと)の神さまと会う為だけに、真祈りを祈り続ける。大きく大きく祈り続ける。

 

真(まこと)の神さまを与え続けたら、真(まこと)の神さまがバックアップで循環してくる。その時に、本当の意味で出会う。循環してきて、自分の中を通り抜けるから、本当の実観がある。表面に出てくるのを見ても、表面に出会ったというのは違う。真(まこと)の神さまとの本当の一体感の実観はない。表面を見たというのと、自分の中を通り抜けたのは違う。表面を見たのは、自分と神さまとが離れている。

 

太陽を見て、「ああ太陽と一体化した。」と言っても、太陽と一体化したのとは違う。太陽の表面を見ただけ。太陽と自分とが離れている。でも、太陽が自分の中を通り抜ける、太陽が自分の中に入ってくる。それを実観するのは本物。

 

だから、真(まこと)の神さまが自分の中を通り抜けないとダメ。それで、与え続けるという真祈りが必要になる。与え続けて、通り抜けてもらう。それも大きく与え続けて、大きい真(まこと)の神さまが通り抜けてくれる。その時に本当の実観が生まれる。

 

真(まこと)の神さまと本当の意味で出会う為に、真(まこと)の神さまを本当の意味で実感(観)する為には、自分の自由意志による願いが絶対に必要になる。もう、それだけに絞り込むくらいの真剣さが必要になる。甘くなったら、負けてしまう。どういう言葉を選んで使うかが大事。

 




12

「護摩木の祈り言葉に隠された言葉を教えて下さい。」

 

護摩木に書く言葉、「真(まこと)の神さまは一大循環の相象で、厳然と今ここに在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!真(まこと)の神さまだけ!」が真(まこと)の神さまの全体像を現わしている。この祈り言葉は、相当言葉を省略して、簡単に現わしている。

 

本心の自分だったら、一を聞いて十以上悟る。一を聞いたら百、悟るかもしれない。本心の自分だったら、そういう生き方をとる。だから沢山の言葉を聞いたから、わかるのではない。本心は常に、言葉がなくても、神さまの心を汲み取ろうとする。ぱっと観ずる。神さまは何を願っているか、何を必要としているか、言葉なしで観じる。

 

神さまだけを相手にする。真(まこと)の神さまの願いだけを生きようとする。真(まこと)の神さまが必要としているお手伝いだけを、しようとする。だから神さまの御心をしっかりとらえようとする。真(まこと)の自分が、どれだけ真(まこと)の神さまを正しくとらえているか、大きくとらえているか。これが一番大事な問題。

 

「真(まこと)の神さまは、絶対の中心、一番大きい立場から、本心の全ての全てに、真(まこと)の神さまを、真(まこと)のプラスを、全体像を、無限に無限に一杯与え続け、受け続け、一大循環の相象をとって、厳然と今ここに在します。

絶対の中心から、入れ子構造的に、重層構造的に、異次元構造的に、ところてん式に、全方向から無限のスピードで、一瞬一瞬、新たに、間断なく間隙なく、一大瀑布となって、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯となって降り注いでいる。

一番新しい、そして一番大きい、真(まこと)の神さまの中に全ての全てが中に内在している、真(まこと)の神さまだけが独在している、真(まこと)の神さまだけ。」

 

絶対の中心から出てくる真(まこと)の神さまは、入れ子構造で一段階落ちたら、無限分の一になる。二段階落ちたら無限の無限分の一になる。小さくとらえて真(まこと)の神さまとは言えない。爪の先の垢ほどのものをつかんで、ああこれが真(まこと)の神さまだって言ったら、笑われる。真(まこと)の神さまと言う限りは一番新しい、絶対の中心から現れる、一番新しい、一番大きいすがたがそう。一番大きいすがたの中に、真(まこと)の神さまの全てがある。全ての全てが中に、実在している。そこにすべてがある。

 

だから一番新しい一番大きい真(まこと)の神さまが、独在する神さま。一人存在する実在する神さま。それ以外は違う。どれだけ立派な神さまが一杯真実の世界にいるからって、部分の小さい神さまではダメ。一番新しい一番大きい神さまだけが、真(まこと)の神さまとして独在する、ただ一人存在する。それをしっかりとらえて、真(まこと)の神さまだけって断言して、祈る。それが、真祈り。

 

 




13

「どうしたら真(まこと)の神さまをとらえられるのでしょうか?」

 

神さまの世界をかんじ取るのも、言葉通りにかんじ取れる。どういう言葉を使っているか。かんじ方が、二通りある。五感六感、感覚の感と、心の目でしっかり見るという観。どう違うか。感覚の感は、五感六感も同じだけど、表面の浅いすがたを見る。観察の観、これは奥のすがたを見抜く。

 

すがたにも二通りがある。相のすがたと、象のすがた。相のすがたは、表面からは見えないすがた。木の木目って、外から見えないけど、木目がちゃんとある。これが相のすがた。奥のすがた。表面は象のすがた。両方合わせて相象(すがた)。

 

真(まこと)の神さまは奥を見抜かないと、何もわからない。表面では何もわからない。五感六感で見る、感じるものは、すべて偽物。この世で何を感じても、真(まこと)の神さまではない。真(まこと)の神さまを観じるには、奥深いすがたをしっかりと見抜かないとダメ。入れ子構造のすがたを、重層構造のすがたを、その他すべて奥深いすがたを全部見抜くのが、神さまを観じるという観。それも、真(まこと)の神さまをどれだけ大きくとらえるか。同じ真(まこと)の神さまといっても、ピンからキリまでがある。

 

一番大きい、本当の真(まこと)の神さまとは何か。絶対の中心、一番大きいところから、一番新しく出てくる神さま。一番新しい、一番大きい、最高のすがたの神さまが真(まこと)の神さま。その中に全てがある。真(まこと)の神さまの全体、全貌、全相を現わすすがた。それだけが、本当の真(まこと)の神さま。それ以外は小さい。入れ子構造でも、一段階落ちるだけで無限分の一。一瞬過去になったら、今新しく出てくるものと比べたら、比較にならない、古いもの。

 

一番新しい、一番大きい最高のすがたの真(まこと)の神さまだけを指して、本当の真(まこと)の神さまと断定する。それ以外、真(まこと)の神さまなんて言えない。小さいものを真(まこと)の神さまなんて言ったら、無礼千万。だから正しく真(まこと)の神さまをとらえて、これが真(まこと)の神さまなんだと断定して、ありがとうございますと唱え続ける。ここまで行ったら真祈り。それ以外は違う。マイナスの言葉の意味。プラスのようで、神さまから見たらマイナス。

 




14

「真(まこと)の神さまと一対一になるとは、どういうことでしょうか?」

 

①真(まこと)の神さまが、みんなに、全てを与え尽そうとすると、どうなるか。例えば、虚の世界で、太陽の光を受ける時には、一人ひとり受ける光が全部違う。一部しか受けられないから、一人ひとり受けるのは、無限分の一になっている。こういう関係は一対一ではない。一対一というのは、Aという人だけを相手にして、残り全部、真(まこと)の神さまとして与え続ける。Bという人に対しても、Cという人にも同じ。その人以外の残り全て、全部を真(まこと)の神さまとして、その人その人に与え続ける。だから、常に一対一になる。

 

具体的に説明すると、例えば、この世でこの肉体という立場に立ったとする、その時にどう真(まこと)の神さまの愛を感じるか。自分以外の周りの全部が、真(まこと)の神さま。真(まこと)の神さまの変身のすがた。でも、この肉体のレベルまで降ろしていこうと思ったら、天照大御神様では出来ない。真(まこと)の神さまの真実の世界は、末端が無限の天照大御神様だから、そのまま出てはこられない。虚の世界にその残像の光を降ろすには、光があまりに大きすぎる。

 

どんどん小さくして、肉体のレベルに合わせたすがたをもって、この天照大御神様が模型の分身をどんどん小さくして、派遣してくる。Aという一人の人を幸せにするためにどうしたらいいか。Aという人に、今、必要なだけを与えるだけでは足りない。Aという人に、今この世に生まれてくるという小さくなった原因がある。過去をつかんでつかんで、残像の中にはまり込んで、思いを一杯積み重ねて、マイナスを一杯無限に積み重ねて、それを背負って降りているはず。

 

そしたら今必要なだけを与えるのではなく、過去世の無限のマイナスのすがたを全部消さないといけない。大きいマイナスがあるのを消すために、どうしてあげたらいいか、これが本当に必要なことになる。溜めたこの思いを、マイナスを、派遣された天照大御神様の模型の分身がちょっとずつ背負ってくれる。順番に。順番に次から次へと流れるように、小さい模型のおもちゃの天照大御神様のすがたを取る。肉体人間の、Aという人の思いを順番に少しずつ削り取って、循環して戻って行く。つまり、自分以外の全てが、天照大御神様の振り替えのすがたになる。

 

今、肉体の自分という立場に立っているとして、肉体の自分の一人に対して、真(まこと)の神さまが、全体となって目の前に現れる。どの立場でも、自分と真(まこと)の神さまと、一対一の関係になる。みんな振り替えてくれている。自分のマイナスを、少しずつでも背負って、循環して消し続けてくれている。一瞬一瞬が、新しい天照大御神様の分身。どの人を見てもそう。一瞬一瞬、違う天照大御神様が、次から次へ舞い降りては、少しずつ、マイナスを、思いを、汚れを取って消し続けている。

 

②信仰の極致は、真(まこと)の神さまと自分を一対一の関係に置くこと。

これはどういう意味か。一切の我の無い無色透明の自由自在心、これが本当の自分、真(まこと)の自分。この本当の自分が真(まこと)の神さまを与え続けることで、自分の中を循環する。無色透明の自由自在心と自分の中を通り抜ける真(まこと)の神さまの一大循環の相象(すがた)と両方が自分になる。

 

真(まこと)の神さまの全てを受け直した時に、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分になる。真(まこと)の自分の全てを真(まこと)の神さまに捧げ尽くして、恩返しでお返しすると自分が消えて、真(まこと)の神さまだけになる。

 

真(まこと)の神さまの全てを受けるというのは、一大循環の相象(すがた)の全部。この全てを受け取って、初めて、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。そして、その全てをまた、真(まこと)の神さまの方へお返しする、絶対の中心に戻す。

 

だから、常に、唯一無二、絶対の独り神、独在の、真(まこと)の神さまだけ。神さまの他には何もない。ただ、独り神だけ。唯一無二、絶対の真(まこと)の神さまだけ。その神さまを受け入れた自分はただ独り、我れが尊い、唯我独尊。真(まこと)の神さまである自分の他に他人はない。真(まこと)の神さまの全てを受け入れた自分、ただ一人。

 




15

「本当の幸せって何ですか?」

 

①神さまの愛を本当に実感するのが、本当の幸せ。これが根本で、後は枝葉の幸せになる。幸せというのは、常に新たなる無限の無限の幸せが、無限に無限に一杯って与えてもらっている。この無限の幸せというだけでも大きい。なぜ、無限の無限の幸せって二つ続けるのか?この意味は?

 

まず幸せというのは、顔が全部違う。無限の幸せがあったら、幸せの顔が全部違う。無限の幸せだけでいいのかと言うと、入れ子構造で、無限の無限の幸せになる。更に、色んな幸せが重なり合って、重層構造の無限の無限の幸せになる。でも、無限の無限の幸せでは、終わらない。それが全方向に満ち渡る。無限に、ところてん式にずーっとつながって、無限に、奥に無限に、全ての幸せをまとめて一つにして、そこにある。それで、無限に無限に一杯という。このように、まず幸せそのものが、新たなる無限の無限の幸せが、無限に一杯というすがたをとる。

 

次に、与える側は、その幸せをいかに与えるか。与えて幸せを感じる。どれだけ与えたか、与えただけの幸せを感じる。与える幸せの程度が、量が、全部違う。だから、みんなが与える側に立って、色んな与え方をする。その全てを束ねて、本当の与える側の新たなる無限の幸せが、無限に無限に一杯。

 

また受ける側ある。受ける側の幸せも全部違う。人の受けている幸せは、全部一人ひとり違う。色んな幸せを感じている。また人間だけではない。動物も植物も、何もかも全部そう。みんなそれぞれが、色んな幸せを受けている。虚の世界も、真実の世界も全部そう。だから、受ける側の幸せも、全部束ねたら、新たなる無限の無限の幸せが、無限に無限に一杯。

 

幸せそのものと、与える幸せと受ける幸せと、全部一つにして、真(まこと)の神さまの幸せ、無条件の幸せ。

 

一人の人の体験することって、本当に小さい。無限に小さい。だから本心の自分は、みんなの体験を全部、自分のものにする。自由自在な意識で、みんなの中に入り込んで、みんなの体験を全部自分が体験しているように感じる自分に、戻っていくこと。そしたら、みんなの体験が、みんな自分の体験になる。本当の大きい幸せになっている。みんなの体験が自分の体験、みんなの幸せが自分の幸せ、そういう気持ちになる自分が、一番進歩が速い。幸せも大きくなっていく。

 

どうしたらそれが実感できるか。真(まこと)の神さまを言葉にするだけ。ありがとうございますって真(まこと)の神さまに心を向けるだけ。ありがとうございますで、真(まこと)の神さまを呼ぶだけ。ありがとうございますで、真(まこと)の神さまを褒め称える。ありがとうございますで、真(まこと)の神さまに感謝する。ありがとうございますで、真(まこと)の神さまに恩返しをする。全て、真(まこと)の神さまだけを相手にする。常に、自分の他には真(まこと)の神さまだけ、一対一の関係に自分を置く。そうすると真(まこと)の神さまが全体となって、全てとなって、自分を幸せにするために、色んなすがたで出て来てくれる。同じすがたではない。全部違うすがたで、出て来てくれる。

 

②元々が、一大循環の相象の中に自分を置いてもらっている。でも一大循環の相象というのは、新たに新たに受け直せる世界。新たに新たに受け直さないと、その中に入っていられない。ある時ふっと循環の中から外れてしまう。その原因は何か。過去をつかむこと。過去をつかむと、過去の残像の中にはまりこんでしまう。その時には、新たな受け直しが出来ていない、忘れてしまっている。

 

太陽の光も、新たに新たに降り注いでいる。でもちょっと他へ心を向けたら、太陽の光の降り注ぐすがたに目がいっていない、忘れてしまっている。わからない。気付いていない。

 

真(まこと)の神さまの与えてくるものも、そう。無限の無限の素晴らしいものを与え続けてもらっていても、そこへ心を向けない限り、忘れて気付かないようになってしまう。常に真(まこと)の神さまに心を向けないとダメ。真(まこと)の神さまの絶対の愛が、どういう風に自分を守り導き続けているかって、嫌と言うほど実感できないと、本当に幸せにはなれない。そのために、真(まこと)の神さまを思い続ける。心を向け続ける。感謝し続ける。恩返しに生き続ける。真(まこと)の神さまから離れないための方法を、実行しないとダメ。

 

一番いい方法は、みんなを幸せにするために、本当に必要なものを与え続ける、絶対の愛である真(まこと)の神さまの真似をしようとすること。みんなを幸せにしようとして、本当に必要なものを与えようとするだけで、真(まこと)の神さまとピタッと生き方があってくる。そうすると神さまに愛されて、必要なものを順番に与えてもらっていることに、気付きやすい。与えてもらっていることに気付けば、幸せ。そのために神さまの真似をする。

 

③本心の自分に戻らない限り、本当の幸せは味わえない。そして真(まこと)の神さまのお手伝いに生きない限り、本当の無条件の幸せなんて湧き上がらない。だから本当に真(まこと)の神さまのお手伝いに生きるまで、そこまで変えようとしている。そしたら無条件の幸せが湧き上がる。本当に真(まこと)の神さまと一体という、本当の愛の一体感が湧き上がってくる。これが本当の幸せ。

 

例え、一人でも苦しんでいたら、自分は幸せになれない。みんなが本心の自分に戻って、本当に自由な心に戻って、平等を感じ取るまで、愛の一体感を感じ取るまでに戻してこそ、自分も幸せになる。一人でもそこから外れていたら、自分は本当の幸せとは言えない。

 

だから、一人残らず、本当の自由と平等を極められるところまで、みんなを連れて行こうという気持ちで、本当に、必要な大事なことを命懸けで実行していかない限り、まず自分が幸せになれない。神さまの支えをもらえない。本当に必要なことをしたら、神さまの支えが出てくる。神さまに支えてもらえなかったら、本心の喜びなんか出てこない。

 

だから、命懸けで祈る。本当に祈って祈って、祈りぬいて、真(まこと)の神さまのお手伝いに生きて生きて、生き抜いてって、本当にみんなを支えて支えて、幸せを与えていかない限り、幸せになれない。いくら働いて、お金を得て、贅沢をして、自分が満足したって、幸せの内に入らない。そんな生き方は、思いの我の最低な生き方。

 

 

 



16

「真(まこと)の自由と平等について教えて下さい。

 

幸せの二大要素は何か。自由と平等。虚の世界でも、自由と平等を旗印に、それを手に入れるためにみんな努力してきている。ところが、自由と平等、両方を手に入れるのは、虚の世界では不可能。平等を求めたら自由がなくなる。自由を求めたら平等でなくなる。虚の世界を眺めたら、全部そうなっている。みんなを平等にしようと思ったら、悪平等になる。男女も平等、貧富も平等だって言う。

 

でもそこには自由が一切なくなる。自由を縛られたままになってしまう。そしたら、自由を先に求めたらどうか。自分勝手なわがままな自由を発揮するとどうなるか。貧富の差が大きくなる。差別が大きくなる。本当の平等を全部崩されてしまう、平等を全部破壊してしまう。だから自由と平等、両方を手に入れるわけにはいかない。虚の世界はそう。

 

そしたら真(まこと)の自由と真(まこと)の平等はどこにあるか。これは神さまの世界にしかない。まず、真(まこと)の平等とは何か。一人ひとりの本心の自分に立ち戻ったら、気付く。神さまの世界には、無限の無限の本心の自覚を持った自分というのが、無限に無限にいる。その一人ひとりが、平等という立場に立とうと思ったら、みんなに同じものを与えていないといけない。

 

だからすべての無限の無限の本心のみんなに対して、真(まこと)の神さまは、真(まこと)の神さまの全てを平等に与え尽す、与え続ける、永遠に。だから平等は絶対に崩れない。みんな平等に真(まこと)の神さまを与え続けてもらえるから、えこひいき、差別は一切ない。

 

そして一方、真(まこと)の自由はどこにあるか。自由を縛られたら幸せでなくなるから、自由というのは、自分がどういう言葉を選ぶか。自分の選んだ言葉を駆使することによって、言葉通りの自分になれる、言葉通りの世界になる、言葉通りの運命になる、言葉通りに神さまからのプレゼントを受け取れる。ここに自由がある。一人ひとり全部自由に、自分の選んだ言葉通りに受け取れる。この自由は絶対に崩れない。真(まこと)の自由と真(まこと)の平等が、神さまに保障されている。一人の例外もなく全員に保障されている。

 

これに気付いたら、自分の幸せは絶対に崩れない。自分が選んで駆使する言葉通りに、神さまから全てを受け取れる。他は無関係。神さまの世界を受け取る、一大循環の相象を受け取る、これは自分が選んで駆使する言葉通りのものを受け取れる。虚の世界は、自分が選んで駆使する言葉通りの世界を作れる。

 

全て、自分の言葉通りのものになる。他は一切無関係。そうでないと自分の自由はない。他の何かが影響してくるのだったら、自分の自由はない。他は一切関係なしに、自分自身も、自分の世界も、自分の運命も、自分の言葉通りになる。これは絶対、一人ひとり変わらない。

 

だから自分が、しっかりと自分の自由意志で好きな言葉を選べばいい。そしてそれを繰り返し駆使して、神さまの与えてくるものを言葉通りに受け取ればいいだけ。自分が小さくなったら、小さい自分の世界になる。自分が大きくなったら、大きい世界が自分の世界になる。言葉通りに無限に大きくも、無限に小さくもなる。言葉通りに無限のプラスにも、マイナスにもなる。自分の選んだ言葉通りに必ずなる。例外は一切ない。ここに本当の自由、本当の平等を神さまが完全に保障している。

 

これに気付いたら、自分が幸せになるには、言葉選びだけ。何でも神さまから受け取って味わえる。神さまの世界にないものが、虚の世界のすがた。虚の世界は、実体がない言葉通りのものを作り上げて感じるだけ。中身はない、実体はない。神さまのものは、実体がある。言葉通りに、言葉で表現する実体が、循環して流れてくる。必要なものを、的確に与え続けてもらえる。だからこの本当の自由と本当の平等は、本心の自分でないと気付かない、わからない。本心の自分に対して、神さまが与えている、保証している。

 

それで神さまは、本心の自分に引き戻そうと一生懸命になってきた。本心に戻りさえすれば、自由と平等が本当の意味で分かる。そしたら幸せは絶対に崩れない。無条件の幸せは絶対崩れない。永遠の幸せは崩れない。

 

 



17

「真(まこと)の平等についてさらに詳しく教えて下さい。」

 

本当の自由も本当の平等も、真祈りの秘奥義を伝授してもらって、体得しないとわからない。

 

印可書にもあるように、一点に向かって、一瞬一瞬、無限通りの渦巻きが降りる。他の一点に対しても、同じように降りる。無限の一点に対して、無限の渦巻きが降りる。その一つ一つの渦巻きが全部違う。同じ渦巻きは無い。Aという一点で全部違う無限通りを受け、隣のBという一点でまた全部違う無限通りを受けている。Aの受けているのと、Bの受けているのと、渦巻きが全部違う。無限の点があったら、全部が違う渦巻きになる。同じ渦巻きは一つもない。これは、すごい事。

 

本心の自分ですら、どの一点をつかんで、どの一点の立場で受けても、平等は無い。その段階では、みんな平等ではない、みんな違う。無限の差別。同じものは何一つ受けていないから、全部違うものばっかりだから、差別だけ。そしたらどこに平等はあるか。

 

いくら本心でも、一点をつかむ本心の心ではダメ。全ての無限の点に、自由自在に立てないとダメ。全ての立場に立てて初めて、全部受け取れる。本当の本心の自分でも、一番自由自在な心に戻らないとダメ。どの立場にも立てる自分。これは真祈りの秘奥義を伝授してもらわないと出来ない。そこに入ったら、本当の自由自在な自分。どこにでも自由自在に入れる自分。全てにも立てる。その自由な自分だったら、神さまの与えてくるもの全部を受け取れる。そこまで行って初めて、みんな平等。

 

虚の世界の平等は嘘。男女平等なんて嘘。格差を無くすなんて嘘。みんな偽物ばっかり。同じものが何一つないのに、平等に与えるわけにはいかない。一人一人の運命が全部違う。みんな言葉通りの運命を作り上げている。一人一人の使う言葉が全部違う。同じ運命なんて絶対ありえないこと。虚の世界ですら全部違う。それをわざわざ違うものを同じように見て、悪平等で振り分けてというのが、大きい間違い。

 

虚の世界には、どこにも平等なんかない。真実の世界でも、つかんだらない。どの一点をつかんでも、平等でなくなる。本当に一切の我のない、無色透明の自由自在心という、何もつかまない自分にならないと、本当の自由は無いし、平等も味わえない。本当の平等というのが、真(まこと)の神さまとの愛の一体感。本当の平等がわからなかったら、幸せは本物ではない。

 

 



18

「真(まこと)の自由について、さらに詳しく教えて下さい。」

 

虚の世界で、この世でみんなが言っている自由って、自分勝手なわがままな、自分本位の自由。これは他の自由を邪魔している、浸している、奪っている。例えば、交通法規。自分が自由だから、交通法規を無視して車を運転したらどうなるか。どれだけみんなに迷惑をかけるか。赤信号を無視して走ったら、青信号で走ってきた人をはねたり、車にぶつかったりする。みんなの自由を奪っている。

 

自分勝手なわがままな自由は、人の自由を奪っている。その自由を発揮したら、必ず自分の自由を大きく奪い取られていく。そしたら自分の自由は全く無くなってしまう。ゼロになっていく。必要なこともせずに、自分の好きなことを好き勝手にやっているのは、みんな人の自由を奪っている。

 

本当は世の中に必要なことをしなかったら、生かしてもらえない。自分の好きなことをして遊んでいる、好きなことをして喜んでいたら、人の自由を奪っていることになるから、自分の自由を奪いとられる。そうすると、どうなるか。必ず業想念の大きい波にさらわれる。渦巻く濁流に翻弄される。竜巻に舞い上げられた木の葉みたいに振り回される。こんなのは自由とは言わない。自分の自由はどこにもない。振り回されているのは、自由とは言わない。無限の業力で振り回されたら自由なんてありえない、苦しいだけ。自由の発揮というのは間違い。自分の自由に、思い通りにするのは、全部大きい間違い。人の自由を奪うだけで、自分の自由が奪われていくだけ。

 

本当の自由を手に入れるにはどうしたらいいか。本心の自分は、自分の自由を全体に与える。みんなを自由にしようとするだけ。自分の自由に生きよう、ではない。みんなの自由を生かそうとする。みんなを自由にしようとする。みんなの思い通りに、願い通りにかなえてあげようとする。自分の自由は全部捨てる。全体に与え尽す。そしたら全体から、全ての自由を捧げてくれる。そしたら自分を縛るものは何もない。

みんなが自分を最優先にして、自由にしてくれる。何が必要でもサッと与えてくる。だから自分の持っている自由を無限倍にして返してくれる。どういう場に置かれても、自分の自由を最高に生かしてくれる。自由自在になる。

 

自分の自由を全部神さまに捧げなければダメ。みんなを支えるために、自分の自由を使わないとダメ。自分のために使ったらダメ。全体を支えるためだけに使う。これが神さまの生き方の一つになっている。神さまの大きい支えで、自由を与えてもらえる。神さまの支えが出て来なかったら、幸せなんかあり得ない。幸せになるために必要なものは何一つ、与えてもらえない。空気が欲しいといっても、空気を与えてもらえなかったら幸せになれない。太陽一つそう。もうすべてが神さまから与えてもらえなかったら、幸せでなくなってしまう。

 

だから、自分の自由は、必ず神さまのために使わないとダメ。神さまというのは、全体、みんな。みんなを支えるためだけに、使いきる。この自由は自分のために使ってはダメ。みんなの為だけに使ったら、みんなも同じように、自分に対して、自分の自由を捧げてくれる。それで自分の自由が、無限倍に大きく与え返される。この自由でないと、本当の自由自在心に戻れない。

 

 




19

「虚の世界を消すにはどうしたらいいのでしょうか。」

 

虚の世界はどうして生まれるか。ちょうど闇を見た時に、ガラスでも鏡になる。闇に向いた時に、虚が生まれる。そしたら闇はどうして生まれるか。光を与えて与え尽したら、闇は無い。ところが光の与え方が足りないと、自分の前が闇になる。真(まこと)の神さまを大きく大きく与え続けないと、自分の前に闇が現れる。その時に、自分のすがたが鏡に映る。それが虚のすがた。その虚のすがたを見て、これが自分とつかんだら、つかんだ自分が思いの自分。

 

真(まこと)の神さまが、全ての全てに与え尽すために、光を放射して送り込む力はどこにあるか?光源が停止していたとしたら、光を直線でしか放射できない。神さまは、全ての全てに光を与えるために、自らが左に回転して光をらせんに放射させている。

 

虚の世界の作り方は、その真(まこと)の神さまの働きの一部を小さく模型として取り出して、左旋回と右旋回で組み合わせる。左旋回の方が霊で、右旋回の方が体となっている。霊と体とを組み合わせて生命体を作る。

 

虚の世界では、他の全てが相対の両極に分かれるから、プラスとマイナスも同じように全部振り分ける。それで左旋回の割合が多ければ、プラスが多くなる。色々な割合で左旋回と右旋回を組み合わせて、マイナスの極からプラスの極までの色んな表現の組み合わせを作る。だから虚の世界には、地獄から極楽まである。このように、虚の世界は、最初にプラスとマイナスを両極に振り分けて、その組み合わせで出来ている。だからマイナスを消すために、虚の世界のプラスをいくら加えても、永遠に消えない。

 

どうして消すか。真(まこと)のプラスだけの旋回にしないとだめ。虚の世界のプラスっていうのは、十字の横線のある縦線、プラス。真(まこと)の神さまの世界のプラスは、縦線だけ。それも無限の降り注ぐ縦線。縦線だけのプラスが降り注いだら、マイナスの横線も、十字の虚のプラスも全部消せる。神さまの働きは無限のスピードの循環。止めたものではないから、循環だから、マイナスも虚のプラスも、循環の流れと縦線のプラスで一瞬に消せる。

 

そのためには、本当の真(まこと)のプラスだけの言葉を加えること。マイナスを一切相手にしない生き方がいる。だから真(まこと)のプラスだけの言葉を加え続けて、プラスマイナスに分けたのをもう一回、真(まこと)のプラスだけに置き換えないといけない。そうしないとマイナスは絶対消せない。

 

真祈りは、真(まこと)のプラスの言葉だけを与え続ける。真(まこと)の神さまだけを与え続ける。真(まこと)の神さまのプラスだけを与え続ける。マイナスを一切相手にしない生き方。これで初めて虚の世界を消せるようになる。

 

本当は、虚の世界は無い、ということが根本。でも、無いのにあるように思う。虚の世界は、言葉通り。虚の世界の時間・空間というのも、虚の世界は無いのだから、時間も空間も無い。経験・体験の連続を時間に広げて見るのも無いのだし、空間という広がりで止めて見るのも無い。元々無いものをあるかのように言葉で錯覚している。

 

虚の世界があると錯覚しているのは、虚の言葉を使っているから。真(まこと)のプラスの言葉をしっかりと駆使出来たら、真実の世界だけって、本当に実感が湧く。断定できるように必ず変わる。

 

だから、一瞬一瞬の言葉選びが大事。言葉選びで言葉通りに全部なっている。特に、虚の世界は言葉通りに錯覚している。虚の世界は無いものをあるかのごとく、言葉通りに思っている錯覚。でも、真実の世界は、言葉通りにあるものを実観する。錯覚ではない。実観する。真実に観じる。真実の世界と虚の世界の違いって、この違いだけ。でも、どちらも言葉通り。全部言葉だけ。

 

虚の世界で言葉通りになるのは、虚の世界では、無いものをあるように錯覚するから。虚の世界は、真実の世界と違うけど、本心の自分は真実の世界の記憶は持っている。だから、その記憶を元にして、色んな言葉を使って、想像力逞しく、言葉通りに何でも作り上げて感じる能力がある。本当は全部仮説。仮定、錯覚。真実の世界だけが本物を観じる、実観する。過去の言葉は関係ない。

 

だから、真実の世界の記憶が多いほど、プラスの言葉を多く使うから、虚の世界もプラスの言葉でいいもの一杯の世界が作れる。でも、あくまでも、それは真実の世界と比較したら無限分の一以下のつまらない世界。単なる言葉だけの錯覚の世界。これが本当に分からないと、虚の世界に溺れてしまう。虚の世界が素晴らしいと思い込んだら、そこから抜けられない。本当は無の世界、何もない世界、真実の世界と比較にならないつまらない世界ってわからないと、真実の世界に戻りたいという願いも起こらない。ここが大事なこと。

 

真実の世界に戻るためには、虚の世界が本当に無の世界だということに気付くこと。気付いたら、無限に無限に素晴らしい真実に戻りたくなる。それには、心の向きだけを神さまに向けたらいい。光の方に向いたら闇は消える。光をたくさん与え続けたら、闇は消える。だから神さまの方に心を向けることと、神さまの光を大きく大きく、与え続けること。

 

正しく真(まこと)の神さまの全体を言葉にして受けて、そして与え続ける。与えて与えて、与え続ける。無限に無限に一杯、与え続ける。そしたら闇が消えて、虚の世界が消える。虚の世界の問題を解決するためではない。光で埋め尽くすだけ。真(まこと)の神さまで、埋めて埋めて、埋め尽くすだけ。無限のスピードで、祈って祈って、祈り続ける。どこにも真(まこと)の神さま以外のものは存在できないようにしてしまうだけ。これが真(まこと)の祈り、真祈り。

 

虚の世界では、色眼鏡を見るか、鏡を見るかどちらか

神さまに背を向けたら…=過去を見たら、鏡を見ている。

神さまの方を向いたら…=今にいたら、色眼鏡を通して見ている       神さまの方を向いているのは声聞以上

 

 





20

「どうしたら我を消せますか?」

 

過去をつかんで、思いを溜めて、我が一杯溜まる。我というのは苦しい。みんな思いの縛り。小さく縛られているから苦しい。必要なものが循環してこないから、マイナスで一杯になる。心がまず七難八苦の心になってしまう、苦しい心になる。過去をつかみ続けたら、みんながんじがらめに縛られる。本当の鎖でがんじがらめに縛られるような状態になってしまうから、苦しい。本心は反対。本心は、一番大きいところから新たに新たに、与えてもらったものを受け直すから、元から縛りがない自分に成っていく。

 

本心の自分は、神さまが自分って思う。虚の自分は、肉体が自分、魂が自分って思う。自分を、儚い虚しい存在としてとらえている。そしたら必ず、自分をマイナスに見ている。肉体を自分って思うのは、自分をマイナスに見ている。罪びとって見ている。必ず自己処罰して、破壊へ導こうとする。滅ぼそうとする。だから思いの心は、業の心は、全部破壊して地獄のどん底へ叩き込んで無にしてしまおうとする。

 

虚の世界の我は、偽の我=偽我だけど、真実の世界の我もある。真(まこと)の我、真我。本心の自分も、真我という、神さまとしての我がある。真我も大きい我と小さい我と色々ある。でも真(まこと)の神さまを相手にする時は、その我も、全部消しきらないとダメ。本心の自分ですら、我として残ったら、神さまの働きを邪魔する。だから真我も消さないとダメ。

 

我のない自分はどこにあるか。絶対の中心まで大きくなっていった、自分を一切つかまない状態。自由自在心の自分。どれだけ大きい素晴らしいものでもつかまない、そこまで行く。

 

我のない自分に成るためにはどうしたらいいか。

我をとる方法には、盆栽(凡才)教育と、天才教育のやり方がある。

 

盆栽教育は、自分にはこういう我がある、ああいう我もある、と低い自分の小さい我をとらえて、下から1個1個、自分の我を消していこうとするやり方。このやり方だと、気付かない我は、消せない。プラスの我も残る。下から上がろうとする、無限に時間のかかるやり方。

 

天才教育は、謙虚に一番下の低いところに自分を置く。本心は、自分の無能さ、無力さを知っている。神さまの凄さがよくわかるから、絶対に邪魔をしたくない。そうしたら神さまだけを前に押し出そうとする。本当は、呼吸一つするのも、指一つ動かすのも、神さまがしてくださらなければ出来ないこと。すべて神さまにしていただいている、が根本の在り方。

 

全てにおいて、真(まこと)の神さまだけを前に押し出そうとする。神さまの前に自分が出ないようにする、邪魔をしないようにする。このことを徹底していく。そうすると大きいものから小さいものまで、全ての我が消えていく。これは、神さまに降り立ってもらって、本心の立場に立って、奥から上から、全ての我を消していくやり方。本当の我取りは、神さまだけを前に出す。

 




21

「謙虚とはどういうことでしょうか。」

 

虚の世界でも、真実の世界でも、真(まこと)の神さまの助けをどういう風に受け取れるか。大きくも小さくも、受け取れる。一番大きく受け取れるのは、謙虚になった時。自分を空っぽにしたら、大きく入って来る。自分の中に一杯詰まっていたら、溢れてしまって入ってこない。

 

虚の世界と真実の世界の謙虚さは違う。虚の世界の謙虚というのは、マイナスの極に立つこと。一番下に立つこと。それが虚の世界で一番謙虚であるということ。真実の世界の謙虚というのは、一番大きい立場に立つこと。絶対の中心に立つことが、一番神さまの助けを大きく受ける。真実の世界の謙虚というのは、絶対の中心に立つこと。虚の世界と真実の世界の両方で、自分がどれだけ謙虚になれているか。謙虚に比例して、神さまの助けが循環する割合が、変わって来る。

 

真(まこと)の神さまはどういう働きをしているか。一大循環の相象というすがたで、絶対の中心から、全ての全てに大きい働きを加えている。真実の世界がそれで循環している、ものすごい大きい働きかけ。

 

また虚の世界に降り立っても、どういう救い方をしているか。虚の世界の全てに対して、大きい光を投げかけている。それも光だけだと逃げるから、半分マイナスを背負って波を合わせて、そこに光を降ろしてくる。マイナスは瞬時に消しながら、プラスの光を柔らかく与えてくる。これを一瞬一瞬、ずーっとし続けてくれている。真(まこと)の神さまがどういう風に降り立って、みんなを幸せにしようとしてくれているか。どこまでそれを理解して受けようとしているかが、大事なこと。

 

謙虚なほど、真(まこと)の神さまがどういう風に降り立って、みんなを幸せにしようとしてくれているか、感じ取れるはず。自分が過去をつかんで、小さく小さくなって、マイナス言葉を一杯積み重ねて、無限に借金をして、無限の思い、我を、マイナス、借金を積み重ねている、それも高利の利息付きのものを。そしたら自分が今まで過去を振り返ってみて、いつマイナスを消したかって考えたら出来ていない。残したままのはず。今の自分に出来ていないのに、過去の自分がしたわけがない。そしたら無限のマイナスが残っているってもう一回、自分を見つめて思い返さないと、謙虚になれない。

 

無限のマイナスがあるってわかったら、自分を一番下に落とす。一番下に立って、そこから真(まこと)の神さまの助けを受けようとする。自分にはマイナスがないんだって思ったら、高慢になる。そしたら上の方に立って、神さまに心が向かない。高慢な人は、上から下を見る。神さまの方へ心を向けない。神さまを背にして、自分が上なんだって思って、下を責め裁く。そしたら光は受けられない。助けをちょっと受けたって、小さい背中から。受け方が足りなくなす。だから自分が一番下に降り立ったら、下はもうないんだからって、上を向くしかない。プラスの方へ向ける、神さまの方へ向けるから、全方向から光が降り注ぐ。そしたらみんなのお蔭ってよくわかる。

 

そうしたら、神さまの助けの受け方が上手になる。神さまに向け切って、プラス一元に、光一元に受けようとするから、まず受け方が上手になる。そして、大きく助けてもらっているのがわかるから、自分も恩返しで助けようとする。虚の世界で、求める心から、受ける心、与える心と、どんどん速く進歩・向上する。それだけではまだ虚の世界は抜けられないから、それで支える心を生きようとする。同じ支えるって言っても、小さく支える生き方から大きく支えていく生き方に変化してくる。

 

支えるためには、自分の力では何もできない。神さまから、大きく力をもらわないと支える力は湧いてこないから、それで真(まこと)の神さまを相手にするようになる。常に真(まこと)の神さまの助けを受けて、支える力を湧き上がらせてもらう。自分の力というものは、一切ないという位になる。虚の世界を順番に上げてもらったのも、神さまの光のお蔭だけど、本心に戻っても、もう一つ神さまの大きい光だけで、本心の自分に戻してもらう。その後も、大きくしてもらうのは、真(まこと)の神さまの支えだけで大きくなる。もう一つ大きく神さまをしっかりと心に受け入れていける。更に大きく受けようと思ったら、絶対の中心へ、どんどんどんどん近づかないとダメ。

 

謙虚になって一番下に立つ目的は、全部神さまにお返しするため。お返ししたら全部消してくれる。一番大きくマイナスを神さまに預けて消してもらえる。自分が上の方に立っていたら、マイナスをお返ししない。自分にはマイナスがないなんて言っていたら、一つもマイナスを消してもらえない。残したままになる。どっちがマイナスを消せるか、みんなを幸せに出来るかって考えたら、マイナスを大きく消してもらえる自分が、一番いい。

 

神さまの本当のお手伝いをするんだったら、自分が一番下に降りる。全てのマイナスの責任を自分に持ってくる、そして神さまにすがらないとダメ。それも神さまに助けてって言って、すがってもダメ。一大循環の流れの中に入れること。流れって言うのは、祈り続けないと流れが起こらない。真(まこと)の神さまを与え続けるっていう、祈りを、真祈りをしていたら、流れている。循環が、一大循環の相象と同じ、順流のプラスの流れ。そこへ謙虚な自分が神さまに全部を捧げる、お返しする。そしたら流れでスーッと消える。

 




22

「神さまに降りてもらう生き方とは?」

 

音楽の演奏、色んな楽器を使ってする演奏がある。本当に指揮者に従わないと、一大交響楽の調和した響きにならない。ちょっとでも我を出したら壊してしまう。自分がピアノを弾くのが上手だからって我を出しただけで、全体の調和を乱してしまう。指揮者に従って、本当に必要なだけを、新たに新たに、必要なだけを演奏しないとダメ。だから心に余韻が残っても、正しい生き方が出来ない。どこかに反射して、反響でコダマしてもダメ。全部過去を消しきっていないと、本当の一大交響楽の本当の響きは伝わってこない。

 

だからどれだけ過去を消しきっていくか。新たなものをサッと出さないと。その出し方に、無限の種類がある。色んな出し方がある。必要なだけをサッと出してきて、全体が調和する。それが一瞬一瞬、大きく変化しながら、ずーっと流れる。だからお祈りの一大交響楽は、現実に降りているいろんな祈り言葉を組み合わせてもダメ。そんな浅い小さいものではない。

 

この世の全部を消しきって、奥から出てくる。神さまの全徳の全てが、必要に応じて、新たに新たに出てくる。真(まこと)の神さまの御心のままに、新たな徳性が、色んな輝き方で、全体を支えるために、出てくる。その全体が大きく一大調和のすがたをとって、すーっと流れる。そこまで行ったら、真祈りの一大交響楽が、鳴り響く。

 

でも過去をつかんだら、我の出し合い。太鼓を大きく叩いたら、みんなを妨害する、他を抑え込んでしまう。ラッパを吹くのでもそう。自分が表に出てきたら、我を出している。我の出し合いになったら、騒がしいだけ、雑音だけ。そんなのは真(まこと)の神さまの働きとは、正反対になってしまう。支え合いというのは、常に奥から出てくる。必要なすがたで、出てくる。自分を絶対表に出してこない。必要なだけを、力を添えてくる。全体にとって必要なものだけを出して来てくれる。だから絶対邪魔し合わない。

 

自分の力は、邪魔するだけ。「自分が」って言っただけで邪魔する。「私が」って言っただけで、神さまの邪魔をする。お任せしないと。「私がします!」って言ったら、一瞬で邪魔をしている。何もできないのに。まず無限ピースの違いも分からないのに、どこに配置したらいいかも分からないのに、配置できる訳がない。一切の我を捨てて、「ありがとうございます」で全託しないと。

 

自分が何かをするというのが、どれだけ間違っているか。計らい心がどれだけ大きい間違いか。無為の心は、計らい心を全部捨てないとダメ。老子さんの教えは、無為の心。これは、計らい心を全部完全に捨てきる。神さまが全部してくれているという、徹底した見方。

 

本心の自分は、神さまの本当の凄さを理解しようとする。理解しただけ本心の大きい自分に戻っていく。だから、本当の違いを全部見抜かないと。全ての要素が、全部違う要素。どの組み合わせも違う。だから理解するということは、どれだけ凄い違いがあるか、その違いを見抜く勉強。

 

そしたら神さまの本当の偉大な支えが、どんなものかということが、分かる。大きい支えで支えられて、生かされている。絶対に我なんて出せない。邪魔するだけの我なんて、出したら馬鹿。人が何かをしているのとは違う。神さまが一瞬一瞬、全部置き換えている。一瞬一瞬全部置き換えているのに、置き換えに気づかないだけの馬鹿。

 

人が動かしているのではない、何もしていない。神さまが無限のスピードで、一瞬一瞬、全部置き換えている。全部、無限分の一秒で置き換わっている。一秒で無限回置き換わっている。それだけの働きをしてくれている。

 

人が何かをしているかって、何もしていない。できる訳がない。全部神さまがしてくれている。本当に必要なものを与え続けてきている。プラスだけが流れてくるのが本当の理想だけど、大きいマイナスがあったら、マイナスを消す働きを同時に加えてくる。だから、自然に「去るものは追わず来るものは拒まず」で、全部お任せするのが、神さまに降り立っていただく生き方。

 

 




23

「総責任者とは?

なぜ総責任者の立場に立つ必要が、あるのでしょうか?」

 

責任感のあるところには、神さまが必ず応援に降り立って、マイナスを消してくれる。だから、どんな運命でも開ける。昔、戦後にはご主人を亡くした、子供だけが遺された人が大勢いた。それまで仕事をしたことの無いような人が多かったけれど、そういう人も子育ての為に責任感を持ったら、能力が出てくる。男の人以上に何倍も働いて、子育てをちゃんとする。病気になったら、子供を育てられないから、病気にならない。

 

風邪もひけない。風邪をひいてもすぐに治る。責任感だけで治る。寝てられないから治る。もう責任感があったら、どれだけマイナスがあって、業があって、病気になっていても、全部消える、治る。必ず治してくれる。全部治してくれる。だから神さまに降り立って頂くためには、責任者の立場に立つこと、それもできるだけ大きい総責任者の立場に立とうとすることが大事。

 

神さまの働き・支えは、自分が支える心を起こして、総責任者にならないとわからない。自分が総責任者になったら、どれだけ大勢の支えがあるか、真(まこと)の神さまの支えが降りているかがわかる。

 

心境によって、総責任者はどう違うのか。

 

まず、求める心(六道)がする祈りは、病気が治りますようにとか、世界が平和になりますようにというような祈り。受ける心(声聞・縁覚)がする祈りは、大難を小難に・無難にしていただいたというような、止めてプラスに受け直そうとする祈り。どちらも、マイナスの祈り。自分が過去積み上げてきた借金返しをするといっても、高い縁者から応援を受けて借金返しをする段階まで、まだ本当の意味での借金返しではない。

 

求める心・受ける心では、総責任者にはなれない。受ける心の縁覚の段階で、自分にどれだけの責任があるかということに、初めて気付く。段階ごとにある色んな責任を感じ取って、自分はこれを目指すという気持ちを起こすのが、縁覚。

 

そこから与える心(菩薩・仏)になって、総責任者としての実行が始まる。神さまの力を受けて、責任を持って、お祈りのプラスでマイナスを消そうとする、全てのマイナスに全責任をとろうとする総責任者の立場を目指すようになる。

 

実行の中で、世界全体が自分、地球全体が自分、虚の世界全体が自分、という大きい自分になり、全てのマイナスに責任をとって、虚の世界全体を消すための、大きい祈りになっていく。

 

これが自分で借金返しをしようとする段階。でも、これはまだ虚のプラスの祈り。与えるプラスは、あくまでも虚のマイナスを消すための虚のプラス。本当の真(まこと)のプラスではない。

 

本当の総責任者とは何か。本心の自分を生きる、真(まこと)の神さまの願い、目的を生きる、ここに定めるのが、本当の総責任者。支える心、支え合う心で、全ての全てに真(まこと)のプラスを、真(まこと)の神さまを、本当に必要なものを与え尽そうとする。真(まこと)の神さまに、真(まこと)の神さまを、真(まこと)のプラスを与え尽すお祈り、それが真(まこと)のプラスのお祈り。

 

全てのマイナスを自分の責任として受けるなんて、小さい。マイナスを相手にしたら、知らず知らず、マイナスの言葉を使ってしまう。そしたらマイナスが消えない。思いが積み重なる。本当は反対。真(まこと)の神さまを与え続けたら、マイナスが消える。我も思いも消える。真(まこと)の神さまを与え続ける、真(まこと)のプラスを与え続ける、一大循環の相象を与え続ける、それだけに絞る込むこと。一番大きい自分を生きようとしたらいい。そしたら神さまの側に立てる、神さまの愛がわかる、神さまが自分を通して働くのが、実観できる。

 

全ての責任を自分に持ってこないと、神さまの心はわからない。責任は重たいほどいい。大きい問題を抱えている方が、本当の意味で自分の無力感が、嫌と言うほど味わえる。自分の力で、というのは、やっぱり我が出てくる。自分がしている、自分はこれが出来るではダメ。本当の無力感に打ちひしがれる、打ちのめされるくらいでないと、謙虚になれない。大きい責任感を持つほど、助けは大きいし、支え合いのバックアップが一杯になる。大勢が自分を支えに来てくれる。支え合いのすがたを見せてくれる。

 



24

「虚栄心について教えて下さい。」

 

虚栄心があると我の強い自分。虚栄心と執着心が東西の両横綱。虚栄心の方が東の横綱。一番強い、これに勝たないと本心に立てない。我の無い自分が本当の自分。元々の自分。

 

虚栄心の方が執着心よりも、もう一つ大きい曲者。虚栄心を本当の意味で消そうとする人は、本物になっていく。虚栄心が間違っているって、なかなか気づきにくい。正しいと思いこむ。

 

立派になりたい、虚栄心。立派な魂になりたい、虚栄心。上に上がりたい、虚栄心。上流社会に住みたいなんていうのも、虚栄心。国を富ませたい、も虚栄心。国を強くしたい、勝負の世界で勝ち続けたいも間違い。みんな他を犠牲にする。みんなを犠牲にして自分だけが上に上がったって、大きい借金。借金が虚栄心。でもそれがなかなか手放せない。今の自分の持っているものを手放すのが怖い。

 

上に立とうとするのも、虚栄心。虚の世界のすがたは、みんな虚栄心に負けて上に立ってしまう。自分を出してしまう。これは虚栄心の塊になって負けているすがた。徹底した支え合いというのは、虚の世界の生き方とは違う。本当の支え合う心で下から支える。上に立つのは我の心。

 

みんな大抵、肉体の自分を褒められたら喜んでいる、悪く言われたら言い訳する。みんな自分を守ろうとしている。これも虚栄心。反対でないと。人がどう思うかなんて思っていたら、虚栄心に負けている。自分をよく見せようとしたら、虚栄心。人を一切相手にしない自分にならないと。虚の自分は、反対に最低に落とすくらいがいい。

 

法然さんは日本一の碩学、学者だった。その最高の人が、自分を最低に見る。肉体の自分を愚禿(ぐとく)法然とか、罪悪深重(ざいあくじゅんじゅう)の凡夫とか、最低に落とす。だからこそ、本心を輝かせる。肉体を相手にしていない。阿弥陀様だけを相手にして、阿弥陀様と自分を一つにしてしまう。

 

自分の方から最低に落とさないと。謙虚に、謙虚になるために、自分を最低に落としていくこと。いくら良いことをしても、褒められたら徳は消える、帳消し。良いことをしても、褒められるようだったら、虚栄心に負けている。だから徳が消えてしまう。良いことをして、人に知られないように、人知れずいいことをして、なおかつ悪く言われる。これで徳が残る。本当の徳ってみんなそう。自分のしたことを全部隠さないと。良いことは、陰で陰で一杯する。それで自分は何もしていませんって言う。それで周りから悪く言われるほどいい。徳が残る、徳が増えていく。その徳で自分の心境が上に上がる。

 

神さまは、本心を褒める。肉体を褒めない。人を褒めても自分を褒めても、肉体を褒めるのは間違い。本心の自分と比較したら、肉体の自分はマイナス。ゼロ。それをわざわざ、褒め言葉で褒めても、褒め殺しになる。本心に戻っているのとは違うから、マイナスになってしまう。本心を褒めるのはいい。神さまとして、完璧と褒めるのはいい。それで、その言葉の力で本心を引っ張り出すのはいい。本心を輝かすことはいいこと。本心を離れた自分を褒めるのは、間違っている。虚栄心が強くなるだけ。我を積み重ねる。

 

肉体の自分を相手にしているのは、やっぱり結局、真(まこと)の神さまを忘れているということ。時間がもったいない。全て言葉通りになるのが根本。言葉通りの自分にまずなる。本心に戻りたい人は、真(まこと)の神さまだけを言葉にする。そしたら、本心の自分に戻る。肉体と無関係に、本心の自覚になる。

 

 




25

「言葉通りの法則とは、どういうものですか?」

 

全て言葉通りになるという法則がある。言葉通りの自分になる。だからどういう言葉を選ぶか。見ること・聞くこと・言うこと、全部自分の選んだ言葉。その言葉を自分がしっかりと使いこなす、駆使する。自分が選んで、駆使する言葉通りに全てが成る。これが根本の法則、これが一番大事なこと。

 

神さまの世界は、言葉通りに受け取れる。虚の世界は、言葉通りに作り上げる。神さまの世界は、言葉で作るのではない。神さまがすでに厳然と存在している、それを言葉通りに受け取る。これが神さまの世界のすがた。虚の世界は、自分の選んだ言葉で作り上げる。大きくも、小さくも全部そう。全て自分の選んで使う言葉通りのものが、現実化する。そしたら今の自分がどういう自分か。全部、過去にどういう言葉を選んで使ってきたか、その結果。

 

神さまの世界をかんじ取るのも、言葉通りにかんじ取れる。どういう言葉を使っているか。かんじ方が、二通りある。五感六感、感覚の感と、心の目でしっかり見るという観。どう違うか。感覚の感は、五感六感も同じだけど、表面の浅いすがたを見る。観察の観、これは奥のすがたを見抜く。木目って、外から見えないけど、木目がちゃんとある。これが相のすがた。表面は象のすがた。両方合わせて相象(すがた)。

 

真(まこと)の神さまは奥を見抜かないと、何もわからない。表面では何もわからない。五感六感で見る、感じるものは、すべて偽物。この世で何を感じても、真(まこと)の神さまではない。真(まこと)の神さまを観じるのは、奥深いすがたをしっかりと見抜かないとダメ。入れ子構造のすがたを、重層構造のすがたを、その他すべて奥深いすがたを全部見抜くのが、神さまを観じるという観。それも、真(まこと)の神さまをどれだけ大きく捉えるか。同じ真(まこと)の神さまといっても、ピンからキリまでがある。

 

みんな全て言葉通りに受けている。真(まこと)の神さまから言葉通りに受け取っている。真(まこと)のプラスの言葉は、真(まこと)の世界をそのまま受け取れる。でも、小さいプラスの言葉は、真(まこと)の神さまのすがたではないから、言葉だけの受け方。本当はない、マイナスにしたすがたでプラスを感じる。

 

マイナスは、もう一つそう。プラスではないから、プラスのない状態を言葉通りマイナスに受ける。全部自分の言葉通りに受けている。それも真(まこと)の神さまから、言葉通りに受けているだけ。そこへ他人はもう入れない。自分が自分の使う言葉通りに、受けとっているだけ。最初から最後まで全部そう。

 

真実の世界にいる時は、自分の真(まこと)のプラスの言葉で、真(まこと)の神さまを受け取っている。虚の世界に入ったら、もう一つそう。自分の言葉だけの感じ方をして、受け取っている。だから、全部自分の言葉通りになる。なっている。これからもそうなる。

 

だから、自分の言葉を変えるだけ。真(まこと)の神さまに対して、真(まこと)の神さまのプレゼントを受けるのだったら、真(まこと)の神さまを言葉にしないとダメ。常に、プレゼントを贈ってくれる贈り主は、真(まこと)の神さまだけ。他には何もない。真(まこと)の神さま以外にも何かがと言うのは、間違い。

 

この世の肉体界に降りている自分にとってもそう。真(まこと)の神さまからの全てがプレゼント。誰か他人が与えてくれていると言ったら、真(まこと)の神さまを無視している。一回与えてもらっても、大元の送り主を無視したら、次は与えてもらえない。真(まこと)の神さまの与え方は、絶対自由を縛りたくないから、自分が表に出てこないだけ。

 

でも、受ける側は、無視したら受け取れない。神さまは、認めてもらいたい。認めて、喜んで、自分の自由意志で大きく受けてほしい。神さまが本当の愛なのだって、どこまでも気づいてほしい。早く気づいてほしい。単に、プレゼントとして贈り物を送って、贈り物で喜んでくれるぐらいでは足りない。それはもう枝葉の小さいもの。真(まこと)の愛を感じてほしい。本当に愛しているよって、この愛を観じ取ってほしいだけ。物をもらうなんて、枝葉の小さい無限分の一の愛の感じ方。

 

真(まこと)の神さまの愛を観じることが、本当の幸せ。この一大循環の相象は、この愛を観じさせてもらうためのすがた。物ではない。常に一対一にならないと、本当の神さまの愛がわからなくなる。だから、常に真(まこと)の神さまだけを、その愛のすがただけを、観じ取ろうとする。神さま以外に何も認めたらダメ。真(まこと)の神さま以外何もないという風に、徹底して真(まこと)の神さまを言葉にすることが一番必要。最重要。

 

 

 




26

「自由自在とは、どういう状態を言うのでしょうか。」

 

真(まこと)の神さまは、絶対の愛。与え続けるだけ。それも、どこまでも大きく大きく。だから一番大きい立場に立てる。絶対の中心って一番大きい立場。与える側は、全ての全ての立場から、全ての全ての立場へ、与え続けられる。

 

与える側は、一人の人に対しても、無限の与え方をしなければならない。人がどの立場で受けてくれるかわからないから、全方向から、どの立場でも受けられるように、大きいらせんを与える。それも新たに新たに次から次へと、与える。一人の人に対してすらそう。そしたら、全ての人にって、ものすごい。

 

だから与える側は、無限の無限の立場を持って、どこまでも大きく大きくなっていく。受ける立場っていうのは、やっぱり一点になる。一つの立場で受け取る。全体から、全方向から受け取るにしても、一つの立場で受ける。受けるというのは、一点だから、どれだけ大きく受けても、与える側と比べたら、無限分の一以下。その受け方が、どんどんどんどん小さくなる。全体ではなく、部分で受けるようになると、どんどんどんどん小さくなる。受ける側は、どこまでも小さく小さくなっていく。

 

虚の世界というのは、一大循環の相象がどんどん小さくなっていく世界。与える側に立つのを忘れた時に、虚の世界に転落していく。常に大きく大きく与え続けていないと、虚の世界になっていく。受けるというのは、どれだけ大きく受けても小さい。やっぱり自分の興味あるもの、関心のあるもの、そういうものだけに限定されて受けようとする。そのすると、どこまでもどこまでも、小さく小さくなっていく。その受け方が下手になると、マイナスになる。

 

一点をつかむと、一人ひとり座標軸を作る。一点をとらえたら座標軸の原点が出来る。どういう座標軸を作るかってみんな違う。プラスとマイナスに振り分けたり、善と悪に振り分けたり、色々相対の両極に分かれる振り分けを、縦線と横線でする。お金儲けが一番大事という人は、損得ばっかりの、儲かった損したという座標軸を作る。勝ち負けの世界だったら、勝ち負けの座標軸を作り上げる。その人にとって一番大事な興味のあるものを要素にして座標軸を作って、その人の世界・運命を作り上げる。

 

一人ひとり、どの立場に立って、どういう座標軸を作って、その人の言葉通りの世界を生み出しているか。虚の世界全部が、その人自身の責任で作っている世界。まず、座標軸を決めている。どいうものをそこに表現しようとしているか、一人一人みんな違う。興味のある対象がみんな違う。みんな共通していない。プロ野球選手だったら、一生野球のことだけが頭にあると思う。他のことに関心がない。

 

与える側は、無限の無限の大きい与え方。受ける側は無限の中から一つ受けるだけ。その一つの中もまた細分化されるから、小さくつかんだらその中のまた無限分の一くらいしか受けようとしていない。無限の無限分の一くらい、それをその人の言葉通りに座標軸に表現して、楽しんでいる。

 

小さい自分になってしまうと、受けて喜ぶだけで終わる。それも小さく小さく受けて喜んでいるぐらいの一生に、なってしまう。本心の自分に戻るのではなく、反対に小さく小さくなってしまう。一点をつかんで、執着してとらわれた、縛られた生き方。

 

本心の自分は、自由自在心。一点にとらわれない。一点をつかんで執着しない。だから無限の立場に立って与え続けられる。立場が自由自在だから、与え続けることが良くわかる。でも過去をつかむ思いの心に陥ったら、一つの立場に縛られてしまう。一つの立場に縛られたら、その立場にしか立てなくなる。思いの心は全部そう。一点をつかんでしまう。その立場に縛られていく。

 

だからまず一点という立場をつかまないこと。本心の自分の立場に戻ろうと思ったら、自由自在な心で、全体の立場に立つこと。そしたら何が本物か、何を与えたらいいかわかる。でもちょっと忘れてしまったら、一点をどうしてもつかんでしまう。一点の立場に立ったら大きく縛られる。

 

真(まこと)の神さまだけっていう言葉、本当の真(まこと)のプラス言葉が本当に自由自在に使いこなせる自分というのは、本心の自分、自由自在の心でないとわからない。思いの心、我の心は、一つの座標軸、一つの立場に縛られているから、一つの意味でしかとらえられない。自由自在の本心の自分だったら、常に全体に支えられたすがたとしてとらえる。だから、一つの言葉の奥が全部、残りの言葉全部が支えに回っているとわかる。全てを一つにとらえる。完璧な一つにとらえる。

 

だから、常に完璧な一つというとらえ方が大事。そしたら、真(まこと)の神さましかないのが良くわかって来る。他に何もないってわかる。本心の自分が真(まこと)の神さま以外何もないってわかる。だから、いかに自由自在な自分に成っていくか。受ける立場だったら、間違う。一点しかつかまないから。立場が一つに限定されるから。それで間違う。本心の立場に戻るのは、絶対、与え続けないと、大きく与え続けないと忘れてしまう。

 

真祈りで、どこまでも大きく大きく与え続けようとしたら、自由自在な自分に戻れる。その自分は、本当の意味で真(まこと)の神さまをしっかりととらえられる。完璧な一つって、よくわかる。だから、支えに回らないといけない。全体を支えようという立場に立たないと、すぐに思いの我の心に陥っていく。支えよう、支えようという気持ちがないと、本当に全体から支えてもらえない。全体から支えてもらったら、自由自在な本心に戻っていく。

 

だから、自分の立場を完全に捨て切って、初めて自由にしてもらう。自分の立場を守ろうというのは、一点を守ろうとしている。一点をつかんで、放そうとしていない。それで、小さくなっている。我の自分になる。でも、自分の立場を捨てた人は、みんなの立場に立てる。みんなが自分の立場を与えてくるから、全ての立場に立てる。

 

自分から求めるのではない。自分の立場を全体に与えるから、周りの人が同じように、自分の立場を与えてくる。与えてもらった立場が自分の立場。だから、自分の立場を全体に与え尽くすこと。

 



27

「言葉通りとは?」

 

一つの座標軸の世界に入ったら抜けられない。抜け出すのが大変。大勢の人が、それぞれ色んな立場に立っている。一人ひとりの世界が、一つの立場の座標軸の、一つの世界。他と同じ立場に立とうと思ったら、その人の立場に自分を置かないと出来ない。だから難しい。同じ場という波の世界ですらそう。波の合う同じような世界ですらそう。立場が違うから。そしたら次元が変わったらどうか。もう一つ大きく違う。無限の次元の違いがあったら、全然中身が違う。

 

だから自分の世界は、自分だけの世界。他の人の立場は違うし、次元が違うから、みんな他の人の見ているのは全部違う。ここにいる人も、みんな違う。何に興味を持っているか全部違う。同じものを見ていない。自分の関心のある、興味のあるものしか見ていない。この部屋一つ眺めて、今何を見ているか考えてご覧。時間を気にする人は時計だけを見ている。全体なんか見ていない。多分一人ひとり全部違うことを見ている。違う世界。共通の世界ではない。その人の世界は小さく限定された世界になる。みんな共通しているように思うかもしれないけど、違う。一人一人の世界は違う。

 

だから自分の世界というのは、自分の責任で自分が作り上げた自分の座標軸で定めた世界だけ。それも言葉通りに定めている。だから、言葉が必要、大事。どんな場合もプラスの言葉を使う人は、全部プラスに見えるはず。どういう状態でも、マイナスの言葉を使ったらマイナスに見える。言葉通りにみな感じる。

 

それはもう、自分だけの世界。他の人は、プラスの言葉を使ったら、全部プラスに見ているはず。マイナスの言葉を使う人は、マイナスに見ているはず。それはもう、全然違う。すれ違っている。波が合わない。全然合わない。だから、自分自身だけの世界になる。言葉通りの世界になってしまう。

 

どれだけ言葉の縛りにあっているか。プラスだったら、まだいいけど、マイナスの言葉の縛りにあったら大変。マイナスというのは、過去の言葉の縛りが多い。過去のマイナスに縛られる。本当のプラスは、新たに降り注ぐから、過去のではない。常に、新たに新たにって、本当のプラスが降り注いでくる。本当のプラスを新たに受けた言葉。

 

もし自分がマイナスの言葉を周りから聞かされたら、周りの人がマイナスの言葉を言っているのではない。自分がマイナスの言葉を選んでいる。周りの人は関係ない。自分がマイナスの言葉を選び続けたら、周りの人がマイナスの言葉を聞かせてくれる。また、自分も言っているかもしれない。本当に、見たり聞いたり言ったりして、選んでいる。あの人がマイナスの言葉を言った、これは無い。みんな自分の選んだ言葉が出て来ているだけ。

 

だから、本当に自分がプラスの言葉だけを選び続けていたら、プラスだけを感じる。自分がまず、真(まこと)のプラスの言葉を選んだら、神さまの世界になって来る。波が合って、神さまの世界をかんじ取れるようになって来る。だから、自由意志でしっかり選ばないと。そしたら、見ること、聴くこと、言うこと全部、プラスだけになる。




28

「十界それぞれの定義を教えて下さい。」

 

虚の世界のとらえ方に、十界という見方がある。

 

十界にもいろいろある。

真(まこと)の真(まこと)の十界、真(まこと)の十界は、本心の心に対する説明になる。

ただの十界とミニ十界、これは思いの心に対する説明になる。

 

自分がどの立場に立って虚の世界をとらえているかが、その違いになる。

 

真(まこと)の真(まこと)の十界とは、全てが真(まこと)の神さまのプラスの働き、みんなをすくい上げる愛の働きのすがた、真(まこと)の神さまが思いの世界をスーッと消そうとして、消すために降り立つすがただと、とらえること。そしてその救う側に立つのが、真(まこと)の真(まこと)の十界。

 

真(まこと)の神さまは、どういう消し方をするか。神さまの働きは、常に、半分背負う。半分背負って消す。そしたら波が合う。一番上から、一番下まで、半分背負ったら、同じすがたをとる。そういう波の合わせ方。半分取って、相手と波を合わせる。だから仏界も、菩薩界も半分取って、同じ波。地獄も餓飢道も同じ。半分取って同じ波だから、同じすがたを持つ。地獄へ降りて半分取っても、自分も地獄のすがたをとる。それで半分取って消してしまう。一瞬同じすがたをとって消す。これが真(まこと)の神さまの真(まこと)の真(まこと)の十界のすがた。思いを消し続けるすがた。救っていくという立場が、真(まこと)の真(まこと)の十界。

 

真(まこと)の十界は、救われる側の見方。みんな神さまの愛の助けで、救われていっているという見方。真(まこと)の十界は、思いを消してもらう方。バラバラに見ずに、全体を一つに見る。十界全体を自分と見る。真(まこと)の神さまが、自分の思いを全部、十界の全ての思いを全部消しきろうとしてくれていると受ける。本心の自分は常に自分が全て総責任者。バラバラに見ない。人の分、自分のものと分けない。総責任者は、全部自分のものとして受ける。そしたら、その思いの全部、虚の世界全部、十界全部が自分。自分を助け続けてもらうすがた。だから半分ずつ消し続けてもらうすがたそのままが、自分を助け続けてもらっているすがた。だから地獄絵図を見ても、この地獄絵図を半分消してもらったと受ければいい。半分消すって大変なこと。大きい助け。

 

どの十界のすがたも、全部半分消してもらっている、無限に無限に有り難いすがた。どれだけたくさんの思いを、マイナスを消しているかわからない。言葉で表現できない。それを受ける側で、全て自分の総責任者の立場で受けて、プラスに見て喜ぶ生き方。これが真(まこと)の十界のすがた。

 

十界は、虚の世界を十の世界がバラバラにあるととらえて、その中で、一人一人の意識の置き所が何処にあるか、と見る見方。真(まこと)の真(まこと)の十界や、真(まこと)の十界と比べると比較・差別のある、小さい自分をつかんだ、過去をつかんだ見方。

 

みんな言葉通り・信念通りに、自分の意識をその中に置いている。自分の意識を言葉の中心に置く。今の言葉もそうだけど、言葉の集積の中にも、その中心に自分の意識を置く。どういう言葉を積み重ねたかによって、十界の違いがある。上の方はプラスの言葉が多いし、下の方は、マイナスの言葉が多い。

 

さらに思いの心を生きて、視野が狭くなると、ミニ十界に陥る。ミニ十界は、さらに狭い範囲しか見ていない有限の世界。思いの人間界の世界では、まだミニ十界に入り込んでいる。今の地球上の色んな宗教団体の教えは、みんなそう。いくら自分が教祖になって偉がって自分が菩薩行をしている、菩薩だと言っても、人間界の六道の人間界。本当の菩薩界・仏界ではない。勝手に、自分が思いの心でミニ十界に墜ちて、その中にはまり込んで、自分を勝手に菩薩や仏だと言っているだけの話。無限の彼方を見ることが出来て、大きい十界になる。もう全部、プラスにプラスにだけ見たら、真(まこと)の十界になり、真(まこと)の真(まこと)の十界になる。

 

真(まこと)の神さまだけを相手にするのが、本物の世界になる。まだ思いを相手にしている間は、虚の世界。本当は、そういう十界という差別の世界が消えないといけない。差別があったら対立しているし、完璧な一つではないから、本当の一体感がない。真実の世界には、救いに立つという発想はない。絶対の愛が、虚の世界の愛と違うところがそこ。やっぱり虚の世界の愛は、大犠牲精神の愛で救いに立っている。

 

それでも神さまは、地球を守らなければいけないとか、地獄の縁者を救わなければならない、というように導いてくださっている。それは、みんなの心境・成長段階に合わせて言って下さっている。何のためか。みんなの意識を絶対奉仕にまでもっていくため。それによって、神さまの助けが絶対必要、絶対奉仕が絶対必要になるっていうのを目指している。

 

真実の世界、真(まこと)の真(まこと)の十界、真(まこと)の十界、十界、ミニ十界、その違いは、自分が自由意志でどこに意識を置くかだけ。元々大きい太陽を見たら、闇なんか感じなくなる。闇を捜す方が難しい。ここが絶対の中心って言ったら、もう虚はない。ここが神さまの世界って言ったら、虚はない。

 

 




29

「振替えとはどういう働きなのでしょうか。」

 

振替えという言葉、なぜ振替えって言葉を使うのか。采配を振るっていう言葉がある。棒に細かくした布を束ねたのを振って、采配っていう。大将、指揮官が、部下の兵卒に采配を振って、自分の自由自在に、手足のように動かす。でも本当は、そんな意味ではない。

 

神社で、お祓いしてもらう時に、御幣(ごへい)というのがある。紙がたんたらに切ってあって、麻の紐が一杯になっている。そういうので祓ってくれる。あれが何を意味するか。たんたらのシデっていうのが、らせん構造の入れ子構造のすがたを表す。

 

玉串奉奠(たまぐしほうてん)の、榊の玉串は、天照大御神様の象徴。榊が永遠のいのち。絶対の中心から、らせん構造で全て広がっているすがた、これを象徴している。玉串奉奠をする時は、根の方をぐるっと回して、捧げる。これには、根こそぎという意味がある。一番根本から全てをという、神さまに対する捧げ方を現わしている。神さまから受けたものを、全て、根こそぎ、全部神さまにお返しするすがた。常に真(まこと)の神さまと一対一の関係、真(まこと)の神さまだけという立場に立つため。

 

お祓いに使う御幣も、一本一本の糸のような麻紐が、真(まこと)の神さまの、天照大御神様の愛の光を模している。それを振ることによって、本当に与えている。天照大御神様が、的確に必要なものを与え続けるすがた。

 

本当の采配を振るとは、神さまが、古いものと新しいものとを置き換え、取り替えて、必要なものを与え続けること。真実の世界は、全て振替えになっている。新しいものを次から次へ与えるのが、振替え。本当に必要なものを与え続ける。古いものは要らない。今目の前に与えてもらって、古いものはもう要らないもの。それと新しい必要なものを与える、取り替える。入れ替える、取り替える。より大きいプレゼントを与えようとし続けてくる。神さまが、その采配を振るい続けて下さる。

 

真実の世界は常に、振替えられている。虚の世界も振替え。順番に古いものと、今本当に必要なものとを取り替えていくすがた。常に、一人の人に対して、常に全体が、そうし続けている。

 

だからもし自分が今、地獄の亡者になって、苦しみ続けているとしたら、同じ地獄に住んでいる人みんなが、自分のマイナスの振替えをして、背負って消し続けてくれている、本当の真(まこと)の神さまの愛の極致のすがた。自分以外のみんなが、真(まこと)の神さまの愛のすがた。自分のマイナスを振替えて振替えて、みんなが振替えてくれて循環させながら、消し続けてくれている、それも新たに新たに、ずっと消し続けてくれているというすがた。

 

地獄だけではない、どの世界にいても同じ。自分に必要な助けを与え続けてくる。どの段階も同じ。波が合わないと出来ないから、神さまは、自分と同じすがたを取り続けて助ける。波を合わせてくるというのは、自分と同じすがたで、周りのみんなが助け続けてくれる。自分の持っているものを順番に、みんなが背負って助けてくれている、消してくれている、新しいものに置き換えてくれる。神さまの側から見たら、そういう風に見える。

 

求める側から見たら、どういう見方をするか。同じ振替えっていう言葉を使いながら、やっぱり小さい見方しかしない。人間は、男の人が42,女の人が33で厄年。その時、どうやって厄を祓うか。マイナスの運命にならないように、持っているマイナスを何かに振り替えて、とってもらおうとする。そうしたら厄年の人は、みんなに何かをプレゼントする。プレゼントに自分のマイナスをくっつけて、もらってもらう。そうするとマイナスが少なくなって、助けてもらう、厄払いになる。

 

また色んなマイナスの病気とか悪いものを持っているとする。まず紙で人型を作って、その自分の身体を撫でて、マイナスの波を移す、移した人型を神社とかお寺で燃やしてもらって、消してもらう、これも振替えになる。

 

また施餓鬼(せがき)供養も振替えかもしれない。目連尊者のお母さんが餓飢道に墜ちていて、それを救ってもらうために、衆僧(しゅうそう)供養というお祈りの出来るお坊さんに、色んな供養をすることで、マイナスを背負ってもらって消してもらって、お母さんの運命を変えた。でもこれは、求める側から見た見方。いかに小さくて、中途半端な見方か。自分以外の全てが真(まこと)の神さまの愛のすがたに、見えていない。

 

だから求める心ではわからない。受ける心でもまだわからない。小さくしか受けていない。与える側に立っても自分のものを与えるだけだから、まだ小さい。支える側に立たないとダメ。支える、真(まこと)の神さまを与えるっていう立場に立ったら、わかり始める。支え合う立場に立とうとしたら、もう一つよくわかる。

 

だから、全て真(まこと)の神さまだけ、真(まこと)の神さまの本当の絶対の愛のすがただけ、真(まこと)のプラスだけになる。降り注ぐ真(まこと)のプラスだけ。本当の一大循環の愛の相象だけ。必要なものが的確に流れ込んでくる。

 

自分が祈ろうとするよりも、真(まこと)の神さまが祈り続けてくれている。全てが祈り続けてくれている。そして、振替えし続けてくれている。一大循環を加速して、早く必要ないものを押し流して、消してくれている。新しい必要なものをより早く与え続けようとしてくれている。どの次元段階でも全部そう。

 

 




30

「虚の世界では、与える方が受けるよりも上と勉強しました。

真実の世界では、どうなのでしょうか?」

 

神さまの世界は、本当は受けると与えるとが、分かれない。一つだから、受けると同時に与えている、与えると同時に受けている。循環だから。上手に受けた方が、たくさん与えられるから、真実の世界では受ける方が上と説明しているけど、本当は神さまの世界には、上下は無い。受けたら即、与えている、受けただけを与えている。与えたら即、補充が来る。本当の循環だから全部そう。

 

でも虚の世界は、やっぱり上下が付く。プラス・マイナスがあるから、相対に分かれているから、求めるよりも受ける方が上、受けるよりも与える方が上。虚の世界では、どちらがプラスが多いかによって判断する。与える方が、プラスが大きい。受ける方はその一部しか受けていないから、プラスが小さい。求める方は、もう一つプラスがないから、求めている。だから上下の差別が付く。

 

 




31

「与えると支えるの違いは何ですか。」

 

虚の世界と真実の世界の与え方は、全く違う。虚の世界の与え方は、上から与える。太陽の光が、みんなに降り注ぐような感じの与え方。上から与え続ける。真実の世界は違う。下から支え続けて与える。ここが大きい違い。

 

与えるは、まだ自分のものを与える。支えるは、神さまを与えるということ。神さまに降り立ってもらうこと。

 

例えば、ここに来て、トイレ掃除をする、道路掃除をする、お手伝いしていいように思うかもしれない。これはまだ借金返しか小さい恩返し。与えようとしている段階。

 

支えるというのは、違う。支えるは、神さまのお手伝いだから、大きく下から全体を支える必要がある。支えるというのと、ちょっとお手伝いというのは違う。支えるには、無限の力がいる。大きく支えようと思ったら、大きい力がいる。一番大事なところを大きく支える。一番大変な仕事を支える。これが支える。残った仕事をちょっとするのは、支えるではない、借金返し、小さい恩返し。これでは神さまが降り立たない。

 

だからここでの奉仕だから、支えるになっているか、というと違う。常に、全体を支えないと、真(まこと)の神さまは降り立ってくれない。だから大きく全体を見て、何が一番大事か必要か、一番大事なところを支えないと。

 

ここでも我の自分は間違う。勘違いをする。全体のために何かをしているように思う。本心の自分だったらわかるはず。本心の自分は、神さまのお手伝い。神さまが一番大事で必要とすることを、一番大事で必要なものを、自分が全力で支える。まず真(まこと)の神さまは一番大事なところへ降り立つ。だから全体にとって、今何が一番必要か。その一番必要なところを自分が支えに行かないと。そうしたら、真(まこと)の神さまが一番自分の中に降り立って下さる。

 

 





32

「本当の愛と虚の愛の違いは何ですか?」

 

神さまの世界の本当の愛と、虚の世界の愛とは全然違う。

虚の世界の愛は、大きく分けたら5つになる。

大犠牲精神の愛、思いやりの愛、寛容の愛、赦しの愛、一体感の愛。

これは虚の世界の愛。

 

 苦しんでいる人の身代わりに、そのマイナスを背負って、自分が責任を持って助ける、これが大犠牲精神の愛。色んな助け方がある。

 次が思いやりの愛。相手の立場に立って必要なものを与えていくというのが、思いやりの愛。

 次は寛容の愛。マイナスに見ずに、そのままスッと受け入れる心。マイナスも何もかも全部プラスに見て、受け入れる心。どんな状態も、プラスマイナスや善悪に決めない。そのままスッと受け入れる心が寛容の愛。

 次が赦しの愛。常に新たに新たに受け直す生き方の愛。過去を一切相手にしない。過去を一切相手にしない、常に、新たに新たにという愛。だから過去を消せる愛。

 最後は一体感の愛。真実の世界もそうだけど、本当の一体感の愛がないと、全てが自分と言えないと、本当の愛ではない。間違う。自分と他人という風に分かれていたら、一体感は全然ない。そういうのは愛とは言わない。この5つが虚の世界の愛。

 

 でも真(まこと)の神さまの愛は、それでは足りない。真(まこと)の神さまの愛は、対立しない絶対の愛。愛する方と愛される方とが分かれていない。ここがまた違う。だから支え合いの愛。一大循環の愛。これが本物。本当のプラスだけ。ここまで行かないと真(まこと)の神さまの愛がわかったとは言えない。虚の愛がいくらわかっても、真(まこと)の神さまの愛とは違う。だから支え合いが必要になる。下から支える本当の徹底した支え合いというのは、虚の世界の生き方とは違う。

 

 

33

「真実の世界と虚の世界の仕組みについて教えて下さい。」

 

 真実の世界、真(まこと)の神さまの世界はどういう仕組みになっているか。絶対の中心というのがある。この絶対の中心は、一番大きいところ。この虚の世界では、中心っていうと、例えば円の中心って一点。でも真(まこと)の神さまの世界の中心は反対。一番大きいところが、絶対の中心。そこから無限の無限の天照大御神様が舞い降りてくる。これが入れ子構造的に大きく大きく舞い降りて、大きいものが小さく舞い降りてくる。一番末端が、一つ一つの天照大御神様。この天照大神様が、無限の無限の大光源。一番小さい天照大神様ですら、そう。だから真(まこと)の神さまの凄さは、もう想像を絶する、言葉では表現できない。真(まこと)の神さまのすがたは、静止していない、止まってない。無限のスピードで、一大循環の相象をとって、存在する。だから完璧な流動体。流れる、動くすがたの流動体。

 

 だから真(まこと)の神さまの世界は、止めて見る世界ではない。本当に無限のスピード。無限のスピードで循環する相象。本当は止めることが出来ないけど、これを一瞬止めて見た時に、止めて見たと思った瞬間に、虚の世界になる。思いの残像の世界。一瞬つかんだら、流れを受け損なう。それで虚の世界が生まれてしまう。

 

 虚の世界っていうのは、過去を一瞬つかんで、残像の世界にはまりこんで、その世界の中で、思いを積み重ねて、虚の世界が生まれてくる。虚の世界は、一人一人の言葉通りに作り出される世界。本当は実体がない。言葉通りに生み出して感じる世界。

 

 虚の世界は、言葉通りに何でも作れる世界。今までの地球のすがたを眺めていたら、全部相対の両極に分かれたすがたで、作り上げられている。プラスがあれば、必ずマイナスがある。光があれば、必ず闇がある。

 全て相対の両極に振り分けられて、生み出される。それは全て無から、相対の両極に分かれて、その組み合わせによって、全てが生み出されて、存在して、現れては消えていくすがたをとっている。プラスを生み出したら、対極に必ずマイナスが生まれる。プラスとマイナスが常にバランスをとる世界。だから今までの歴史を眺めても、マイナスを消すために、いくらプラスを加えても、マイナスは消えなかった。

 

 真(まこと)の神さまの世界には実体がある。真実の世界は、言葉通りに受ける世界。真(まこと)の神さまが全ての大元の一体感のすがた。バラバラのものをくっつけるのとは違う。一大循環の相象、無限のスピードで本当に循環する、完璧な流動体。単なる形あるものを与え合うのとは違う。

 

 本当の与え尽くし合うすがたは、すごい。一瞬一瞬新たに、絶対の中心の一番大きい立場から、入れ子構造的に、重層構造的に、異次元構造的に、ところてん式に、らせん構造で、一大瀑布となって、全体から降り注ぐ。それで循環している一大循環の相象をとる。これはすごいこと。

 

 真(まこと)の神さまが、自由自在心の自分の意識の中を、目の前を通り過ぎて、循環してくれる。本当に真(まこと)の神さまだけを、見せてもらうだけ。実際、肌に触れるように、実観させてもらうだけ。その他に何もない。本当は、最初からそう。真(まこと)の神さま以外、何もない。真(まこと)の神さまだけがあって、真(まこと)の神さまだけを与え続けてもらって、受け続ける。

 

 




34

「一大循環の相象(すがた)とはどういうものなのでしょうか?」

 

 一大循環とは、真(まこと)の神さまの、真祈りの全体像のこと。

絶対の中心、無限大の外遙か彼方、無限の無限の彼方から、全方向から、すべてのすべてへ、左旋回の渦巻きとなって、一瞬に舞い降り、舞い昇る。無色透明の輝き(光源と光の流れ)が、表を通って無限大が無限小となり、裏を通って無限小が無限大となり、絶対の中心へ戻ってゆく。一点に向かって無限通りの光の渦巻きが、一瞬一瞬、新たに降り注ぐ。無限の一点に向かっても、同じように降り注ぐ。無限の無限の渦巻きは、無色透明の輝きとなって、お互いが干渉し合うことも、邪魔し合うことも全くなく、お互いに支え合って、その輝きを増すだけ。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、一大循環の相象の完璧極まりない一つの流動体となっている。

 

 虚の世界は反対。一つの道から循環していく同じ螺旋でも、右旋回・左旋回がある。循環していって、末端から戻れるかというと、戻れない。もう力がない。そして裏を通るか、通れない。螺旋に戻さないとダメ。そういう通路が無かったら戻れない。だから真実の世界と虚の世界の循環は、全然違う。

 

 一大循環は、血液の流れのように流れている。真祈りのありがとうございますが、流れている。真祈りを祈ることが、循環を加速する働き。どんどんスピードを上げる。限界のない無限のスピードで、祈れば祈るほど加速していく、スピードが上がる。みんなが祈って祈って、支え合って、どんどんスピードを上げていく。

 

 一大循環の相象ってどういうすがたか。本当に必要なものが、的確にさっと与えてもらえる。要らないものが全部さっと消える。どれだけ幸せなすがたをとるか。時間がかからない。最高のものが、必要なものがさっと来る。これが一大循環の相象。それも大きい立場から見ても、小さい立場から見ても、全部がピタッと決まる。

 

 絶対の中心から全ての全てに、真(まこと)の神さまを無限に無限に一杯与え続ける。与えることが即受けること、受けたら即与えている、これが循環。一番大きく与え続けて、一番大きく受け続けて、一瞬一瞬変化している、これが循環のすがた。受けてから与えるのではない。与えたから受けるのではない。受けると与えるが同時。これが、真(まこと)の神さまの一大循環の相象。無限のスピードで、全部動かして、必要なものを的確に与え続けている。無限に大きい入れ子構造のすがたから、一番無限に小さい入れ子構造のすがたまで全部、本当の一大循環の相象をとっている。その全体が、真(まこと)の神さまのすがた。

 

 どうしたら実観していけるか。神さまの全てと、自分の全てを交換しないとダメ。自分の全てを捧げ尽くす。そうすると、神さまの全てが入って来る。また自分の全てを捧げ尽くす。また神さまの全てが入って来る。与え尽す、捧げ尽くすというのは、全部なくさないとダメ。何も残らないまで尽くしてしまう。出し尽くす。これが必要。そうすると心の交流が起こる。

 

 普通はちょっとだけ捧げる。ちょっとだけ捧げたって、ちょっと入って来たって交流にならない。循環交流というのは、全てを交換しないとダメ。置き換わらない。例えば、器に汚れた水が、一杯入っているとする。神さまが新しいきれいな水を一杯注ごうとする。全部開けて、サッと投げ出したら、いっぺんにスッときれいな水に置き換わる。でも器の中の汚い水をちょっとだけ神さまに捧げたって、交換でちょっと入ったって、汚れも濁りも何もとれない。全部交換しないとダメ。

 

 神さまに対しては、常に新たに一回投げ出して、もう一回受けて、またそれも全部投げ出す。常に新たに新たに、全てを置き換えてもらうのが、本当の正しい生き方。これが本当の一大循環の相象。過去の全部を投げ出さないと、本当の循環は起こらない。

 

 本当にどこにも真(まこと)の神さま以外ない。本当に真(まこと)のプラス以外ない、一大循環の愛の働きしかない。本当に一大調和のすがただけ。本当の支え合いのすがただけ。全体が完璧な一つになっている。言葉も真(まこと)のプラスしかない。全てが本当に無色透明の輝きで一杯のすがた。その中に全部含まれている。本当に清らかな流れ。神さまの流れは、絶対の中心かららせんを描いて、一瞬に舞い降りて舞い戻る、この一瞬に全てしてしまう。

 

 この働きの中には、汚れがない。汚れが溜まらない。どんな汚れがあっても関係ない。一瞬にして、清らかな流れを与えてくる。全てがそう。だから全体の舞い降りるすがた全部が、一大循環の相象全部が清らかな流れ。それを感じ取れるように、本心の自覚を神さまは、大きく大きく与えようとしてくる。本心の能力を授けてこようとしてくる。

 

 一大循環の相象を与え続け、受け続けて実観するのは、一大循環の相象が自分ということ。一大循環の相象が本当の自分。自由自在な意識で、実観する自分。

 

 自由自在心も自分だし、一大循環の相象も本当の自分。本当の自分は、何もない自分ではない。一大循環の相象そのものが、真(まこと)の自分。だから、神さまの全てが本当の自分。それが根本で一番大事なこと。そこから離れたら、偽の自分。偽我になって、無限に小さい自分になってしまう、幸せから遠ざかる。

 

 本当の一大循環の流れを妨げることは、絶対不可能。虚の世界に入ったから、虚の世界に転落したから、一大循環の相象を観じ取れないだけ。必要なものを的確に与えてもらえているのを、受け取れなくなったというだけの話。本当は、一大循環の流れなんて、止めることも不可能だし、邪魔して止めることはできない。一大循環の相象は、ずっと永遠にある。変わらない。ただ自分の受け方が、我を出すにつれて、受け取れなくなっていくだけのこと。

 

 




35

「真(まこと)の神さまと天照大御神様の違いとは?」

 

 まず、天照大御神様の定義の仕方が、虚の世界の天照大御神様の定義と本物とは違う。虚の世界の天照大御神様は、古事記に書かれているように、イザナギ、イザナミの神さまの両親から生まれてくる神さま。プラスの側の神さま。でも、それは虚の世界の天照大御神。本物は全然違う。本物は、もっともっと無限に無限に、偉大な神さま。末端の一個のこの天照大御神様でも、虚の世界の天照大御神様の無限倍、無限倍。

 

 最初に、「天照大御神様、今ここに在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯」、この意味が、ありがとうございますである、と説明して、ありがとうございますのお祈りに入ってきた。最初は、みんなまだ、過去をつかむ思いの心で唱えている。思いの心というのは、過去をつかんで止めている。止めた形で唱える。循環で唱えているのと違う。過去を止めて、天照大御神様という光源としてつかむのでも、止めた形の天照大御神様。ちょうど太陽のように、光源としての天照大御神様という感覚でとらえている。

 

 それは、まだつかむ練習をしているお祈り。いくらプラスに最高に受けても、止めて受けているお祈り。これは、本心のするお祈りではない。まだ業想念の心。我の心、思いの心でするお祈りになる。求める心、神さまを求める心、神さまのプラスを受ける心、これはまだ本心ではない。

 

 本心の自分は、与え尽くすお祈り。無限のスピードで循環するすがたをとらないと、与える生き方ではない。それで、「真(まこと)の神さまは一大循環の相象で厳然と今ここに在します」、という本心のためのお祈りに切り替えてきた。だから、みんなが思いの心から本心側へ、心の立場を移し始めた。それはもう、与える側の心になってきたから。求める心、受ける心だったら、まだそれはできない。与える心に置き換わってきたから、本心側に立ちやすくなった。

 

 本心側の自分のお祈りは、真(まこと)の神さまを一大循環の相象でとらえる。この一大循環の相象の中に、入れ子構造の無限の無限の天照大御神様が無限のスピードで循環している。光源が循環する。光の循環ではない。光源の循環が、一大循環の相象。光の循環は、1個の天照大御神様の中の循環。1個の天照大御神様の中が光の循環。真実の世界は、真(まこと)の神さまの中の相象は、一大循環でも光源の循環。全然違う。

 

 

 同じ天照大御神様でも、入れ子構造的な大きい天照大御神様から末端の小さい1個の天照大御神様まで、色々ある。真(まこと)の天照大御神様は、入れ子構造の一番大きい天照大御神様。でもまだそれでも、真(まこと)の神さまとは違う。まだ小さい。

 

 真(まこと)の神さまは、他にまだ自由自在心の全てを中に持って、一大循環の相象をそれぞれに、みんなに与え続ける相象をとって、それを全部束ねている。なおかつ、絶対の中心を中に持っているのが、真(まこと)の神さま。入れ子構造の天照大御神様は、絶対の中心から循環して出てきている相象。絶対の中心をまだ指していない。言葉の定義だけでも、もう本当は言葉では説明しきれない、神さまのものすごい偉大さがある。

 

 天照の天(あま)というのは、完璧な全大宇宙という意味。その完璧な全大宇宙の光源としての天照大御神様が、照る、照らす、自ら照り輝きながら他を照らす働きをする。両方する。自ら輝く、照り輝く。これを自然なすがた。なおかつ、他を照らす働きをする。それが支え合いになる。全体へ真(まこと)の神さまを与え尽くす、照らす働きをする。それでまた、全体から自分を照らしてもらう。照らすから照らされる。それで、大きい力をもらう。無限倍の力をいつも支えとしてもらう。それがずーっと連蔵して、永遠に続く。

 

 でも、自由自在心の自分は、その天照大御神様のどれもつかまない。全体を自分の中を通過させるだけ。つかんだら小さくなる。つかまないで循環させて、その循環を眺めるだけが、本当の自由自在心の自分。これが真(まこと)の神さまを常に感じ取る、真(まこと)の神さまと一体の悟った自分。つかんだら小さくなる。いくら一大循環の相象をつかんだと言っても、つかんだ途端、一瞬つかんだだけの相象になる。永遠に、無限のスピードで循環する相象は、把握できなくなる。

 

 だから、絶対につかまない自分がいい。無色透明の自由自在心。一切の我の無い無色透明な自由自在心。一瞬でもつかんだら、我がそこに生まれる。一切つかまないというのが、我の無い自分。これを目指す。つかむというのがなくなったら、虚の世界は消える。

 

 

 




36

「絶対の中心とは?」

 

 真実の世界、真(まこと)の神さまの世界はどういう仕組みになっているか。絶対の中心がある。この絶対の中心は、一番大きいところ。神さまの世界は、最初が絶対の中心で、一番大きい。大きいものが小さくなってずっと一点にまで来る。虚の世界では、中心って言うと、円の中心のような一点。でも真(まこと)の神さまの世界の中心は反対。一番大きいところが、絶対の中心。そこから無限の無限の天照大御神様が舞い降りてくる。これが入れ子構造的に大きく大きく舞い降りて、大きいものが小さく舞い降りてくる。

 

 絶対の中心というのは、どこにあるか。一定の場所があるのではない。一番大きく与える立場。神さまの御心は、どこまでも奥深い。入れ子構造でも無限に奥深い。一番奥深い、入れ子構造の一番奥。でもそこもまだ、絶対の中心かどうかわからない。まだもう一つ奥があるかもしれない。大きく与える立場はそう。これも空間的に見て、場所を指定するようなものではない。入れ子構造、重層構造、異次元構造、全部が合わさった、全部のおおもと。場所じゃないから、どこでも、全部が絶対の中心にもなるし、ならないかもしれない。これはやっぱり自分の自覚。本当に大きく与え続ける自覚。本当の愛の深さの自覚。大きくなるほど、絶対の中心に近い。

 

 でも本当の絶対の中心に立つというのは難しい。いくら奥に入っても、更に、奥がある。自分を支えてくれる大きい無限倍の支えがある。それだったらまだ絶対の中心ではない。無限の無限倍の支えがあったら、まだ絶対の中心ではない。まだまだ自分が小さい。でも、更に奥がある、更に奥があるという方が、絶対の中心に近いことになる。絶対の中心を認めていることになる。絶対の中心に立つことは難しいけれど、絶対の中心を受け入れて認めることは出来る。それがどこまでも大きく深くなっていく。

 絶対の中心というのは、言葉で表現できない、底しれない奥深いもの。ここは、常に新しいものを生み出す場所。同じものを循環させているのではない。新しいものを生み出してくる。だから、二度と同じものは何一つ作らない。二度と同じことは繰り返さない。常に異なるもの、それも小さいものから大きいものまで全部そう。異なるものを生み出してくる。常に新しいものを生み出してくる。

 

 単なる循環のパイプではない。そこから常に新しい新たなもの、より素晴らしいものを生み出してくるところだから、本当に言葉では絶対に表現できない。それが相象というすがたで出て来て、入れ子構造の天照大御神様の相象をとる。これ一つを見ても、ものすごいこと。一段階の入れ子構造の上でも、底しれない奥深い働き。これが一段階ではない。無限の段階を繰り返す。底しれない奥深さが絶対の中心に全てある。

 

 神さまの世界は、絶対の中心を元にして、循環している。循環と言うのは、神さま自体が回転する。中心に立って、全体を振り回すように、回転する。全部が、ちょうどコマのように、風車のように中心を元にして、循環して回転している。一番大事なのが中心。中心がないとコマでも回らないし、中心に本当の力がある。台風の目でも、中心がどういうものかというと、真空度が高くなるほど、大きい台風。

 

 真空度が高いというのは、我が無い、思いがない。本当の真空状態になると、吸い込む力が強くなる。逆に、高気圧の方、与える心が大きいと全体へ光を振りまく。全体へ流す働き、与える働きが大きくなる。高気圧と低気圧と、両方神さまの働きとして見た時は、高気圧は与える働き。低気圧は、絶対の中心へ戻す働き。引き戻す働き、吸い上げる働き。両方の働きで循環している。

 

 与える愛の心が大きいほど、吸い上げる働きも大きくなる。これは、同時に一つの働きとして循環している。与えることが吸い上げること。吸い上げることが与えること。まったく一つの働きとして循環している。神さまの働きは、常に一大循環の相象(すがた)をとり続けている。中心を元に常に回転している。全部、大きい中心を元に動いている。またその小さい中でも中心があって動いている、これも入れ子構造的に全部動いている。銀河系宇宙全体も、太陽も、地球も、すべてがそう。

 

 常に、中心と言うのは、中心軸はあるけれども、本当は、形は無い。形でとらえると間違う。表面のすがたは中心ではない。本物の中心は、自分がない。一切の我を無くして、中心になっている。一切の我のない無色透明の自由自在心。これが絶対の中心。我があったら、一つの立場が生まれる。小さい立場になる。とらわれた立場になる。これでは絶対の中心に立てない。一切の我が消えて、本当に無色透明でないと、自由自在心でないと、全ての全ての立場に立てない。一番大きい立場、絶対の中心に立って、初めて真(まこと)の神さまがわかる。

 

 例えば、天皇陛下は日本の国の中心。天皇陛下は一切の思いを捨てて、我を捨てて、神さまの御心に、一つに一致しようとする。だから思いやりの心一筋になろうとしている。自分の全てを捨てているから、中心になっている。自分があったら我になる。自分を捨てただけが、中心に近づく。肉体でも、心臓・肝臓・腎臓…大事なものが全部、中にいっぱい備わっている。目に見えないところの部分ほど、大事な働きをする。陰で働くすがたの方が、大きい働きをしてくれている。

 

 だから常に、謙虚に謙虚に、我を死に切って、中心に従う。みんなが中心に従ったら、本当の大調和のすがた。常に大調和のすがたで循環する。この中心定めが、常に必要になる。何を中心に置くか。

 

 真(まこと)の神さまを中心に置く。真(まこと)の神さまの願いを生きる、真(まこと)の神さまの目的を生きる。真(まこと)の神さまを知っている人は、よくわかる。ありがとうございますと唱えたら、そこが中心。自然に、中心に帰一した生き方になる。真祈りのありがとうございます、真(まこと)のありがとうございますは、中心定めの言葉。この一言で中心が定まる。それで全体を調和させる働きに変える。絶対の中心を元に、大きく動く、本当の神さまの動きそのものの、循環のすがた。本当に必要な循環を神さまはしてくれている。

 





37

「入れ子構造とはどのような仕組みのことですか?」

 

 真(まこと)の神さまは、その絶対の中心、一番大きいところから必要なものだけをずっと順番に降ろしてくる。末端までずっと降ろしてくる。1番最低の人が、最小単位の一個の天照大御神様が、無限にいるという世界。

 

 例えて言えば、その天照大御神様が放送局のようなすがたをとって、無限のチャンネルの番組を持つ。その放送番組が現象の現れの「象」の方のすがた。放送局の天照大御神様が、木目の「相」の方。

 

 真実の世界の1番最低・最小単位である、1個の天照大御神様は、無限の無限の大光源。それが無限に集まったら、1段階上の天照大御神様になる。その1段階上の天照大御神様がまた無限に集まって、また1段階上の天照大御神様になる。それが、上にずっと、絶対の中心まで続く。もう無限に無限に続く。これが入れ子構造。

 

 本当の入れ子構造というのは、この木目の天照大御神様が、入れ子構造で、本当に複雑に無限に積み重なっているすがた。入れ子構造というものの根本に、その天照大御神様の入れ子構造のすがたがある。

 

 だから、原子が、細胞が、人体が、地球が、宇宙が、入れ子構造で広がると言うけれど、これは虚の世界の小さい相似形のすがたの一つの表現。まだまだ入れ子構造までいかない。相似形という、虚の世界の模型の模型の小さいすがた。それでも、小さいものが相似形で順番に広がるというのも、入れ子構造を理解するには必要だから、その一部を表現している。でも、虚の世界のものでは、まだ本物の入れ子構造は、わからない。

 

 やっぱり、天照大御神様の本物をとらえないと、本当の凄さはわからない。単なる形ではない。天照大御神様という光源は、太陽みたいな形ではない。本当に無限のスピードで循環する流動体。流動体の入れ子構造は、もっと無限に複雑。全部らせん状に放射されて、複雑に組合わさる。全体が一つの、完璧な一つの流動体。切り分けは、絶対できない。完璧な一つになる。そこまで行かないと、本当の入れ子構造はわからない。やっぱり、お祈りを深めて、奥義、秘奥義になったらわかる。

 

 





38

「借金返し・恩返し・絶対奉仕の違いを教えて下さい。」

 

 人の積み重ねたマイナス、これは全部大きい借り、借金。借金返しがいつできるか、借金をいつ消してもらえるか。消す方法に3つある。

 

 自分が一生懸命プラスを与える働きをして、借金を返していく、本当の借金返し。でもこれは、一人の力では必ず限界が来る。大きい借金は消せない。表面でも大変。借金返しの気持ちは、必要だけど、それだけでは借金は、帳消しに出来ない。負けてしまう。

 

 次、自分の力で限界があるからって気付いた人が、神仏にすがって助けてもらおうとする。これが恩返しの生き方。だから徹底して恩返しに生きたら、+αの助けが加わる。高い神仏の徳の力を補充してもらって、借金を減らしていく。早く本当の借金が消えていく。

 3つ目は、虚の世界の神仏では力が足りない。だから本当の神さまの力が必要になる。絶対奉仕がいる。この命、神さまの御用にお使いくださいって自分を投げ出すこと。絶対奉仕に生きる。そしたら真(まこと)の神さまが、自分の中を降り立って通り抜けて、働いてくれる。これで本当の借金がさっと消える。

 

 一人ひとりまだ、無限の借金を持っている。高利の利息付きの借金。棚上げされた状態で、まだ持っている。この世だけでも、色んなみんなからの大きい助けを受けているから、これも借金。いくら自分が働いたからと言っても、自分の働いた量よりも、助けを受けた量の方が大きい。この世だけ見ても借金の方が多い。まだ返していない。自分がどれだけこの世で働いたって、借金は返せない。この世の一生の借金も返せない。だから恩返しに生きる生き方が正しい。

 

 恩返しは、神さまの助けを大きく受ける。恩返しってどういう働きか。お金儲けとは関係ない。自分の持っている能力を全部活かして使って、世の中のために、全体のために、みんなのために無償で働くこと。生まれてこの方、助けてもらっているだけ。恩返しのために、この一生タダで働いてもいいくらい。みんなの幸せのために与え続けた方が、正しい。それが恩返し。恩返しをしている人は必ず、全体から大きく支え続けてもらえる。恩返しに生きた人は運命が大きく開く。どれだけ八方塞がりでも、恩返しに生き始めたら、運命がガラッと開く。全体からの助けが大きく入ってくる。どの程度の恩返しか、種類も段階も色々だから、恩返しのやり方で助けの受け方も変わる。

 

 でもそれよりも絶対奉仕が必要。絶対奉仕は自分の働きとは違う。真(まこと)の神さまが自分を使ってくれる働きだけ。自分と神さまとが分かれない。神さまの働きだけって認めた時からが、絶対奉仕。神さまに使ってもらうのが、本当の正しい生き方。ただ神さまに使ってもらうチャンスって少ない。いつも使ってくれるとは限らない。そのチャンスを大きく活かせたら、大きい徳をもらえる。借金返しにも無限の段階がある、恩返しにも無限の段階がある、絶対奉仕にも同じように無限の段階がある。全部違う。大きい違いがある。だから自分がどの生き方を選ぶか、どれでも選べる。

 

 本気で自分の無限の借金を返そうと思ったら、一番効果のある生き方を選ぶしかない。借金返しの生き方だったら、何億年かかっても返せないと思う。恩返しに生きるんだったら、やっぱり一番高い神仏にすがらないとダメ。でも地球全体の借金やマイナスを消そうと思ったら、それでは足りない。その時は、真(まこと)の神さまの助けを大きく受け取らないと出来ないから、絶対奉仕が絶対に必要になる。

 

 





39

「本当の感謝とは?」

 

 総責任者の生き方は、全部を自分として中に納めて、感謝する。全体を見て、全体に感謝するような生き方。

 

 では感謝とは何か。

神さまの働きを、観じ取ること。

 

 感謝の謝は、言うに射ると書く。神さまの生きている言葉、言霊が放射される、この神さまの働き、一大循環の相象が、謝。

その一大循環の相象を、大きい自分の中に還流させて観じ取る、それが本当の感謝。

 

 





40

「神さまを直接把握する、直観について教えて下さい。」

 

 「ちょっかん」には、直感と直観がある。

 

 例えば、太陽の光を直接感じる時に、色眼鏡も、霧も通さずに、直接見た太陽の光は、はっきりしている。そういう直感という意味もある。でも、これは、真(まこと)の神さまを知る、把握する、そういう直観ではない。小さい浅いもの。

 

 真(まこと)の神さまを把握するのは、観察する方の観がいる。同じ「ちょっかん」でも、直接観察して、区別がわかる「直観」の方がいい。般若心経には、観自在菩薩とある。観自在菩薩は、観音様の観。観音様というのは、本心の自分という風にとれるけど、救いに立つときに、全てを見て、何を必要としているかをはっきりと区別して観る。一人一人が何を必要としているか、見極めがつかないとダメ。それを自由自在にできるのが、観自在菩薩、観音様。そうでないと、救いに立てない。一人ひとりに合わせて、必要なものを与えないと救えないから、違いをはっきりと見極める。

 

 真(まこと)の神さまとは何か?本当に真(まこと)の神さまを把握するためには、この「観」がいる。細かいところまで違いが全部わからないと、ぼやっとしていたのでは、まだ観じたとは言えない。受ける側から見るのと、与える側から見るのとでは、全然違う。同じ感じるというのでも、五感・六感は受ける側から。だから、神さまのすがたを本当に観じるって、受ける側からでも、観じるという方の観察の方は、大きい深いもの。それでもまだ浅い。これを与える側から、しっかりと分けて見るのが、本当の観音様の観自在菩薩と同じ意味の直観にあたる。

 

 根本の真(まこと)の神さまとは何か。どういうすがたを持っているか?一大循環の流れ、相象そのものが、何一つ同じものがない。一つとして同じものはない。そして、二度と同じことを繰り返さない。一番大元がそう。一番入れ子構造的に大きいものが、無限にあったら、全部違う。根本が全部違う。大きく違う。それを順番に入れ子構造的に小さく、縮小してくると、大元が違うのだから、縮小したものも全部違う。お互いを比べたら、全部違う。同じものは何一つない。これが末端まで行って、一個の天照大御神様という風にとらえても、無限の天照大御神様は、全部違う。一番大元が違うのだから、その縮小したものも全部違う。

 

 虚の世界に入る時は、残像。違うものをとらえて、残像として見ても、全部違う。一番大きい残像も全部違う。これがどんどん小さくなって、模型的になって、おもちゃのような模型になって、小さくなっていく。でも、元になるものが全部違うのだから、本当は全部違わないと嘘。だから、末端に行って、一番下の無限に小さいものも本当は、大元が全部違うのだから、その模型も、縮図も、全部違う。大きいものも、小さいものも、全部何一つ同じものはない。これが根本。

 

 それで過去・現在・未来と見ていくと、一瞬一瞬、新たに全部置き換えてくる。変化する。同じものは持続しない。一瞬に変わる。全部置き換えてくる。新しいものばっかり出てくる。その変化もものすごい。新たに新たに、出てくるすがたが、違う。大きい変化があるから、だから全ての全てが、新たなる無限の無限の変化が、無限に無限に一杯。新たなる無限の無限の違いが、無限に無限に一杯という風になる。その違いをしっかりと見極めるのが、与える側から見た直観。これが本当の真(まこと)の直観。神さまそのものを直接把握する直観。この直観が一番大事。だから、真祈りを祈り続けて、一切の我を消しきって、大きい与える自分になって、初めてこの直観が本物になる。ここを目指す。

 

 閃きとかそういう直観は、虚の世界の浅い小さいもの。午前三時の霊感とかもそう。昼、みんな起きている時は、思いを一杯出し続けて、霧が一杯立ち込めてくる。煙が一杯。それで疲れて寝始めたら、守護霊さん、守護神さんが一生懸命心を浄める。そうすると、霧が晴れ、思いが鎮まって、晴れてくる。その時間が午前三時。その時に一番、少し次元の高いところから、霊感、閃き、導きが降る。降ってくるのを感じやすいのが、午前三時の霊感・閃きという。そういうのを直観という人もある。これもピンからキリまで、程度が色々。分類したら無限に分かれる。これも本当に真(まこと)の神さまを全て把握して、直接観じる直観ではない。限定した浅い意味の直観。だから、一つの言葉でもどれだけ奥深いか。想像を絶するくらい深い。

 




41

「お祈りの段階とは?」

 

 本当の自分は、一切の我のない本当に無色透明の自由自在心の神さまの意識。この本当の自分、本心の自分の祈りに、段階がある。一大循環の相象、新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します、って現れる、これをどうとらえるか。とらえ方に差がある。

 

 一番最初は、定義のありがとうございます。表面をちょっととらえている。真義になったら、天照大御神さまの無限の無限のチャンネルをとらえている。本義になって初めて、天照大御神様を直接とらえる。奥義になって初めて、入れ子構造の天照大御神様をとらえる。秘奥義になったら、初めて絶対の中心に立って、本当の一大循環の相象を与え尽くす生き方をとらえる。

 

 真祈りには、段階がある。本心の自分が立つ立場が全部違うから、本心の自分に戻ったからと言っても、祈り方に無限の段階がある。絶対の中心にまで戻らないと、秘奥義のありがとうございますは、唱えていない。真(まこと)の神さまの祈りは、秘奥義のありがとうございますより、更に奥。絶対の中心をも含めた、大きい与え方をし続けている。

 

 






42

「本当の光一元とは?」

 

 虚の世界で言うプラス一元、光一元は、本物とは違う。例えばマイナスの極に自分を置いたら、絶対の零に自分を置いたら、周りが全部プラスに見える。ゼロまで大きいプラスに見える。虚の世界で、自分の立場をマイナスの極に置けば、そこを原点に置けば、残り全部がプラスには見える。でもそれは真(まこと)のプラスの一元とは全然違う。虚の世界の小さいプラス一元。光一元と言っても同じ。

 

 本物は一番大きい、無限の無限のプラスが大きく降り注ぐプラス。虚の世界のプラス一元は、小さいプラスを無理矢理プラスに見ているような、プラス。同じ光一元、プラス一元と言っても、全然違う。本物は無限に無限に大きいプラス。偽物は無限に無限に小さいプラス。だから虚の世界はあくまでも小さい模型。

 

 地獄を、マイナスの極をゼロに置いて、後全てを見渡したらプラスに極楽に見える。でも、そういう見方では、本当の幸せにも何もならない。本当のプラスがないから。比較上のプラス。他と比較して、自分がプラスと思っているだけ。そういうのは本当のプラスではない。虚の世界はみんな、比較してプラスマイナスを決めている。他より自分の立場が上だったらプラスと思う。他より自分が低かったら自分がマイナスに見える。思いの世界、思いの心を生きている世界って、みんなそう。人と比較しては、ああ幸せだ、不幸せだといっている。そんなのは本当の幸せではない。他と比較するようだったら小さいマイナス。いくらプラスと言い張ってもマイナス。

 




43

「無色透明について教えて下さい。」

 

 無色透明の中には、色んな色の透明なものが全部含まれる。細かく分けたら無限の光になる。更に透明でない光も、一つの透明な光の中に全部含まれる。無色透明の光の中には、ありとあらゆる光が全部含まれる。神さまの場合は、単なる光ではない。光源と光の両方。輝き。輝きというのは、光の進軍、光源の進軍。本当の光源と光の流れ、これが輝き。無色透明の輝きというのは、神さまの本当の働きの全て。

 

 必要なものを的確に与え尽すのでも、本当に必要なものを的確に与え尽すと言っても、無色透明が一番、一瞬に必要なものに変化出来る。一瞬に、何にでも変化する。だから必要なものを即座に、的確に与え続けられる。例えば透明な赤い色だったら、瞬間に透明な青にはできない。変化出来ない、対応出来ない。赤を除けて、青を持ってこないといけない。それでは瞬間にはできない。だから常に無色透明で移動しないといけない。それで何を必要としているか、受ける側の必要性に応じて、瞬間に変化する。与える側と受ける側との違い。与える側は、全部用意していないとダメ。受ける側が必要なだけを受ける。

 

 受ける側には段階が無限にある。透明な光を受けるのか、透明ではない色々な有色の光を受けるのか、必要性が全部一瞬一瞬変わる。本当に必要性に応じて瞬間に変化するのは、無色透明な光、輝きだけ。そういう意味で、真(まこと)の神さまの動き、流れは、全部無色透明。無色透明は、絶対干渉し合ってないし、邪魔し合ってないし、ぶつかり合っていない。正体が消えて無いから。

 

 でも本当の連係プレーは取れている。同じらせんでも、角度は全部違う。方向も全部違う。縦横無尽。全方向に、全部動いている。だから同じ方向から同じ方向へとは違う。それが本当に真(まこと)の神さまによって、全体が一つに統一されている。だから全部連係して連なって循環している。人体の血液の循環くらいではない。無限億万倍素晴らしい循環。これが真(まこと)の神さまの一大循環の相象。

 

 神さまの世界においては、それぞれ意識あるもの、本当に一切の我のない、無色透明の自由自在心のものが、無限に無限に存在している。その人がどの立場に立つかによって、何が必要かは全部違う。同じものは必要としない。全員が一瞬一瞬変化させながら、全部違うものを必要とする。今必要というものと、次の一瞬必要なものは違う。それが、全員が全部違う。それに対応出来る真(まこと)の神さまの与え方は、無限倍素晴らしい。人間の人知を遙かに超えている。思いの心なんて遙かに超えている。本心の自分でさえ、まだ無限分の一もわからない。

 

 本当に与え尽す神さまの側が、どれだけ凄いか。神さまに与えてもらってというのは、まだ小さい。無限の無限の渦巻きがあって、全部が本当に必要な働きをするから、支え合いになる。大きい目的に応じて、全体が必要な働きのお手伝いを全部している。

 

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「上から降りる生き方、下から上がる生き方の違いとは?」

 

 人間は、自由自在にどの立場にも常に、新たに、言葉を定めて立てる。下から上がろうとするのも、一つの道。一番上から降りようとするのも一つの道。

 

 下から上がろうとするのが、盆栽(凡才)教育。木でも鉢に植えて、枝を剪定して手入れして、人工的に手を加えたものを盆栽という。大木にならない。人の手を加えたら、盆栽に終わる。花の種を蒔いても、いつ芽が出るかって見つめたら、なかなか出ない。双葉が出て成長し始めるのでも、見つめたら止まってしまう。人でも同じ。寝ている時に成長するという。見つめることは、過去をつかむこと。縛りを与えること。だから成長が止まる。置き換えが遅くなる、悪くなる。良くならない。下から1+1は2と勉強しようとしたら、盆栽教育に終わる。過去をつかむから。過去をつかんだら必ず縛られる。進歩が必ず遅くなる。

 

 地獄から心境を上げて、本当の悟りの世界に到達する為に、下から上がろうとしたら、無限の年月をかけても上がれない。不可能。過去の縛りでがんじがらめになるから。大勢の神仏に助けてもらっても、なかなか縛りが全部消えるまでいかない。年月がかかりすぎる。

 

 でも上から舞い降りるように、言葉を定めて降りることもできる。天から舞い降りる天才教育。どちらを選ぶかは、みんな自由。天才教育は、最高のものを与え続ける。最高のものだけを習う。神倣うというのと同じ。神さまの真似をするというのと同じ。そうすると進歩が早い。早く本物が降りてくる。

 

 神さまがするのは天才教育。下から積み上げて育てる盆栽(凡才)教育とは違う。上から降ろす。神さまを受け入れたら、神さまの無限力、全知全能がスーッと降りる。最初から分かった自分。全部答えがスーッと降りて来る。

 

 例えば、お祈りも、色んな仕事の能力もそうだけど、支え合いの気持ちで、一緒に仕事をするだけで、その能力をみんな高め上げてもらえる。一つに融け合ったら、以心伝心で、高い能力の人の心がスッと移る。そうすると、スッと身に付く。全部そう。

 

 一番能力が開発されて伸びるのは、支え合いの中。だから支え合いが必要。一人でありとあらゆる能力を身に付けるのは大変。でも、能力のある人の中へ入ったら、周りの人の能力を全部自分のものに吸収できる。これには、支え合おうという気持ちが必要。大きい力を必要としないと、神さまの助け、後押しは入ってこないから。

 

 支えようという気持ちで、大きい力を必要とした時に、必要な力が神さまから与えてもらえる。それが周りの人の能力を全部吸収するようなすがたを取るかもしれないけど、本当はもっと奥からの神さまの力が流れ込んでくる。

 





第二部





第2部

45

これから勉強の仕方が、ガラッと変わると聞いたのですが…

 

 これからは、本心の自分として神さまの教えを正しく受けて、正しく実行するというのが、必要。今までは肉体の自分が、受け取って勉強してきた。これは間違い。肉体が自分ってつかんでいるのは、我の心、思いの心。肉体を自分と思うのは、大きい間違い。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分、これが本当の自分と定めないとダメ。

 

 これからは、本心の自分が、神さまの教えを受けて、正しく実行して、本当の悟りを開く。だからガラッと切り替える必要がある。そうしないと、全ての教えを正反対に受ける。我の自分と本心の自分の受け方は、正反対。これが一番大事なポイント。

 

 どんな言葉も、本心の理解・解釈と、思いの心の理解・解釈は、正反対になっている。今までの肉体の自分としての解釈は、全部間違っている。もう一回本心の側に立って、全ての教えを受け直したら、本当の理解が進む。神さまのことが良くわかって来る。神さまと一体感が深くなる、実感できる。

 

 もう一回、本心の自分に立ち返って、勉強し直す。これが今、神さまが真剣に願ってくれていること。そこに行かないと、真祈りの伝授が不可能。肉体の自分が、真祈りの伝授を受けることは、絶対できない。思いや我では、神さまの光を受けたら、降りたら、瞬間に消えるだけ、何も残らない。

 

 本心の自分でないと、真(まこと)の神さまを受け入れることは不可能。だから本心の自分に立ち返って、そこで真(まこと)の神さまを受け入れる。本当に自分が無色透明の自分に戻らないと、神さまの世界の無色透明が見通せない。本当の水晶のように中が無色透明で、全部奥にすがたかたちがちゃんとある。入れ子構造のすがたが厳然とある。それを奥の絶対の中心まで、全部見通す。無色透明だから見通せる。見通す自分は、無色透明の自分でないと出来ない。元は、一切の我のない、無色透明の自由自在心。これが本心の自分の定義。この自分に立ち返って、神さまをしっかりと受け入れる、これが必要。

 

 




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「最近起こった、護摩焚きの一大変化について教えて下さい。」

 

 今回(平成27年8月)の護摩焚きから大きく変化したことは、何か。すべて神さまにお任せの護摩焚きになっている。段階ごとに、この世だったら100%お任せ。一段階上がったところでは、1000%さらに1万%、もっと上だと1億%、1兆%。神さまの世界に入ったら、無限%。完全な全託になっている。だから人は何もしていない。神さまだけが、本当の力を奮ってきてくれた。今まではこの世を中心に、この世から何かをしようとしてきた。これはみんな我の力。本当の力は何もない。我の力だけを、発揮しようとしてきた。大きい間違い。

 

 今回からは、正反対。神さまの働きだけが、全てになってきた。だからこの世から何かをするのではない。神さまの世界から、神さまの一大循環の相象が、そのままスーッと全てを通って、全ての段階を通って降りて来るようになった。これがどれだけ楽な生き方か。今の地球を救うにしても、この世から人がするのは不可能、いくら頑張っても絶対不可能、いくら頑張っても何もできなかった。

 

 本当の無力感を、絶望感を味わうところまで、みんな行っているはず。だから神さまが本当の力を発揮してくれる。真(まこと)の神さまの力は、言葉では表せられない。無限%の働きを全部こなして来て、各段階ごとに、必要なものを的確に降ろして来てくれる。今回はみんなの本心を大きく輝かせてくれた。みんな思いを大きくとってもらっている、消してもらっている。本心を大きく引っ張り出して、輝かせてくれている。もうすでに出来ている。本心の自分をしっかりと生きられるように変えてくれている。

 

 みんな、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分、真祈りを祈る自分に戻る。真祈りの伝授。真(まこと)の神さまが、ずーっと願い続けてきたこと。これを、真(まこと)の神さまの働きだけで可能にしてくれている。今日かなりの人が、この世の人も含めて、あの世の人も大勢、真祈りの伝授を受けている。本心の自分として、本当に真(まこと)のプラスの言葉を選んで使える自分に変わる。一大奇蹟が起こっている。普通は不可能。何億年、無限の年月修行しても不可能なことを、神さまがいともたやすく可能にしてくれた。何が起こったかって、段々とその実感が湧いてくるはず。自分だけではない、周りの人にも起こってくるはず。あの世の人にも大勢起こる。

 

 今までは、みんなには、火がある程度ついてから、護摩木を入れてもらっていたけど、今回からある程度の量の護摩木を最初から入れてある。それは、火をつけてから、光を世界に送るのではないから。反対。同時一切処に、全部いっぺんに燃やす。神さまの光を先に送ってしまったから。その結果が、この世の護摩焚きに出てくる。そしたら残り福として、木漏れ日がちょっとはふりまかれるかもしれない。でも虚の世界は大きく先に、清めて来てくれている。後の残り福なんて大したことない。だから見方が、今までと正反対。逆転しているのは、みんなを本心側に戻しているから。本心の自分だったら、これが正しい。

 

 原因は、神さまの絶対の中心にある。この世に一切の原因はない。結果だけ。どれだけ神さまの助けを受けてきたか、受け入れたか。この結果が現実になる。原因は、神さまの御心の中だけにある。この世に一切の原因はない。もしこの世に原因を持ってきたら、大きい我の心。自分がこれをしたからよくなったなんて、大きい我の心になってしまう。だから正反対になっている。

 

 今回からこれを元に戻してくれている。その前にみんなを本心に戻したった、神さまの方は言っている。先にみんなを本心に戻したよって、言ってくれている。ありがとうございますって、受け入れたらおしまい。全てをそういう形で見せて、神さまの働きが全てだよってわからせようとしてくれている。神さまの働きの凄さはどれだけ凄いか。無限に無限に凄いなんて、そんな言葉では通用しない。言葉では表現できない凄さがある。

 

 今まで、地球を救うために、いろいろあれこれしないといけないって言ってきている。それで出来たかって、何もできない。当たり前。神さまの働きを無視して、認めてないから、現実化して降りるわけはない。反対の心、我の心だったから。自分達が何かしたら、マイナスばっかり積み重ねている。自分達には何もできないって、本当の絶望感に陥って、無力感に陥って、その時に本当に神さまにすがったら、神さまが降り立ってくれる。神さまが全部して降り立ってくる。その時から救われていく。だから同じ護摩焚きのように見えて違う。中身が全然違う。受け止め方が正反対だった。どれだけ感謝しても感謝しきれないものが、湧いてくるはず。

 

 本当の一大奇蹟が降り注いだ。これが今日の護摩焚き。神さまの働きだけの護摩焚き、これが本物。人がする護摩焚き、これは我の偽物。だからガラッと変えてもらった。一番奥から順番に、段階を追って、ずーっと必要な働きを降ろしてくれた。これをしっかりと肝に銘じておいてほしいと思う。

 

 






47

「真(まこと)の問答とは?」

 

 本心の自分の質問に、本心の自分が答えないと本物ではない。まず問答という言葉、門。虚の世界でも、無限の段階がある。一つ一つの段階に、見えない関所、門関がある。無門関って、目には見えないけれども、きちっと区分けできる門がある。上に上がるとしたら、その門を開けていかないとダメ。何が必要か。上に上がるのは、与える心を起こして、与えたら門が開く。上へは門を押せばいい。反対に、下への門は、引っ張ったら開く。求める心を起こしたら、門が開いて下へ落ちていける。どれだけ大きく与え続けるかによって、上への門はどんどん開かれていく。逆に、求める心を強く起こしたら、一番下まで落ちていく。門というのはそういう意味。

 

 答え、問答の答えの方は、竹かんむりに合うと書く。竹というのは、中が空っぽ、中空。無我・無心・無欲の心。それで謙虚で素直。そこへ神さまが、その時の心境に合わせて必要なものを降ろしてくるのが、答え。虚の世界は対立する世界だから、質問する人、答える人は別個。でも本心の世界、神さまの世界は対立していないから、神さまも自問自答。自分が質問を出して、自分が答えを出す。質問が即答え。分かれていない。質問と答えが分かれない。質問したら、即、答えになる。

 

 何のためか。これは理解を深めるため。本心の自覚を深めるため。理解という言葉、理というのは、真理、神さまの働き。神さまの全て。それをわかる、解釈できる、無限通りに解釈できる、区別がしっかりとつく。理解というのは、神さまの働きをしっかりと深く、わかること。それが本心の自覚と一致している。理解が深くなったら、本心の自覚が深くなっている。

 

 虚の世界の問いかけは、わからなくても鵜呑みにして思い込んで、それを実行しようとする。だから自分が納得していない、答えになっていない。人の意見。まず自分が納得していないから、実行しないと思う。答えは見つからない。まず我の心の質問は、みんな偽物の質問。全部、我欲の願いを叶えるための質問。答えもそれに合った答えしか出てこない。でも、本心の自分の質問は本物。本物は、本物が答えとして降りてくる。自分が本当に納得できる答えになる。

 





48

「神さまに直接質問するには、どうしたらいいのでしょうか?」

 

 神さまに質問して問いかけたら、神さまが全部必要でないものを消しきって、必要なものを全部与えてくる。神さまが答えとして降り立って、全部消してくれる。だから心境をガラッと変えてもらえる。神さまは、そういう答え方をする。

 

 祈り言葉を唱えることが、神さまへの質問。例えば、「入れ子構造的に」と言った時に、入れ子構造という質問になっている。その時、真(まこと)の神さまが入れ子構造に降り立ってくれる。実感させてくる。「重層構造」と言ったら、重層構造の凄さを目の当たりに感じさせてくる。「異次元構造」と言ったら、無限の次元のある世界をサーッと出してくる。真(まこと)の神さまが降りて、実感させてくる。「全方向から」って、これも実感させてくる。「無限のスピード」って、ものすごい事。五感や六感の感覚では、全然わからない。これも、真(まこと)の神さまが降り立って、実感させてくる。「ところてん式」って、ところてん式も、この世のところてんではない。本当に隙間なく、無限の力で押し出してくる力。これも全方向から全部そう。全ての言葉が本当に、一体化した言葉。どれだけ凄いかって。

 

 その言葉を質問として出した時に、神さまが降り立って、実感を与えてくる。それで、何回も何回も祈り言葉を繰り返す。真剣に、命懸けで、神さまに問いかける。神さまが降り立ってもらったら、実感が降りて来る。その為の祈り。

 

 答えを受け取る時のヒント。自分が何もできないんだ、ということに気付くこと。何もしようとしないこと。自分が何かしなければというのは、大きい間違い。自分にできることは、何一つない。全くの無力。神さまが全部してくれている。まず生かしてくれている。存在させてくれている。必要な勉強を順番に与え続けてくれている。その背後に、どれだけの大きい支えがあるか。

 

 悟りへの易行道、絶対他力の一番易しい易行道が、どうして生まれたか。普通は自力。自力で山あり谷ありの困難な道を、悟りへ向けて順番に登っていったり、降りたりして、悟りの道を歩む。自力では絶対不可能に近い。無限の年月をかけても、悟れない。それで他力が生まれる。でも他力も、阿弥陀様でも、五劫の間、無限の年月修行に修業を重ねて、やっと阿弥陀様の悟りに達した。それで自分の到達した境地へ、南無阿弥陀仏一言に縋りついた人を、そこまで引っ張り上げる約束事をしている。でもこれもまだ本物ではない。

 

 本当の絶対他力の易行道、これは真(まこと)の神さまが全部する。阿弥陀様の支えくらいではない。阿弥陀様の無限の無限倍大きい支えをまず用意してきている。山あり谷あり、どんな障害も全部消しきって来る。その下に盤石の支えが、全部下からずーっと降り立って、道の全てを全部支えてきている。その支えが全ての色んな神々のすがた。だから、このありがとうございますの絶対他力の悟りへの行、一歩その道を歩むだけでも、無限の無限の神仏の大きい支えがあるから出来る。自分が何かするのではない。自分には何もできない、したらダメ。自分がしているというのは大きい間違い、大きい我になる。生かされている。お祈りをさせて頂いている。神さまが全部してくれている。

 

 勉強も同じ。気付きを与えようと思って一生懸命、神さまが必要な勉強材料を与えてくる。自分がするとなったら、無力な自分がするから、負担になる、苦しい。でもこれが神さまからの大きい愛のプレゼントと考えたら、拒絶する方が間違っている。そのままありがとうございますになったら、全部与えてもらえる。

 

 だから自分が何かしているというのは、大きい錯覚。大きい我になる。自分には何の努力もできない、全くの無力、これに気付かないと。自分のすることと比べたら、守護霊さんでも、万倍・億倍の力を持っている。守護神さんはもっとすごい。さらに本心の自分だったら、無限倍・無限倍。その本心の自分でも、真(まこと)の神さまの前に立ったらゼロと同じ。真(まこと)の神さまの本当の盤石の支え、無限の無限の支えが、無限に無限に一杯、絶えず降りつつある。その支えで、絶対他力のありがとうございますの行がある。

 

 自分が何もしていない。したらダメ。神さまの愛を、支えを受け入れるだけ。そしたら一番楽になる。もう本当に血液の流れのように神さまの光が、循環する。ああ、ありがたい、この気持ちだけ。無条件の幸せだけが必ず循環する。だから我を出さないこと。真(まこと)の神さまに、全体に、みんなに大きく支えてもらって、今自分が存在している。ああ幸せ一杯、これでいい。そしたら全部問題が消えて、答えだけになる。

 

 だからどんな問いかけもしないと損。マイナスも、消してもらう。プラスに置き換えてくれる。みんな変に遠慮して、神さまの愛を拒絶しているところがある。遠慮というのは間違い。もっと神さまに甘えた方がいい。





49

「本物の新たな生き方とは?」

 

 新たな生き方とは、過去をつかまない。一瞬一瞬、新たに新たに、神さまの御心を受け直すだけ。過去をつかんで、これが自分、これが自分のものとつかんだ途端に、思いの心になる、それが我の心。我の心、思いの心では、新たに新たに、神さまが与えてくれるものを受け取ることはできない。

 

 だから、過去をつかまないこと。マイナスの言葉なんか使わないこと。無限のプラスの言葉を使ってもまだ足りない。一瞬一瞬が、連続しているなんて言うのは、過去をつかんでいる。一瞬一瞬を真剣に切り離す。今受けたものを、全部消しきるくらいの気持ちにならないと。そうしないとまだ過去をつかんでいる。一瞬全部消して、また一瞬新たに受ける。また全部消して新たに受ける。一瞬一瞬の切り分けが大事。

 

 そうすると、本当の違いが分かる。神さまの与えてくるものが、同じものは何一つない。二度と同じことを繰り返していない。その大鉄則に気付く。無限のものを与えたら、無限のもの一つ一つが全部違うもの、また一瞬後、与えてもらう無限のものが全部違う。この違いが分かるほど、幸せが本物。その違いが分かるまで、神さまは本心の大きい自分に、戻そうとしてくる。真(まこと)の神さまの本当のプレゼントは、無限に無限に素晴らしい。それを本当に感じてこそ、値打ちがある。

 

 今までは、このような説明をしてきた。でも、これまで説明してきた過去をつかまない、という新たには、まだ偽物の新たに。

 

 新たな生き方には、現実の中の新たにと、真(まこと)の神さまからの新たにがある。真(まこと)の神さまからの新たに、が本物の新たに。

 

 今新たに絶対の中心から出てくるすがたから見たら、この世のすがた、現実は、遠い過去の残像。いくら現実の中で、新たにといっても、遠い過去に変わりはない。虚の世界でも、波が低くなっていくほど、時間が延びる。虚の世界まで来たらかなり古くなっているし、虚の世界の低いところと言ったら、ものすごい年月が経っている。神さまの絶対の中心から見たら、大昔に終わったこと。

 

 一番正しい新たには、絶対の中心まで行かないと。一番新しい、一番大きい神さまを受け直す、そこに全部がある、という見方。常に新たに新たに、って新たにという言葉を使っているほど、どんどん奥へ戻っていく。無限分の一秒まで絞り込んだ新たに、になる。

 

 神さまは、今、与えてくるものを受けてほしい。一番新しいもの、一番のごちそうを食べてほしいというような感じ。だから真(まこと)の神さまは、どこまでも奥に入って来られるように、喜んで喜んで、待ち続けている。

 

 受け取るというのは、必要なもの全部。どれくらい新しいものを受け取っているかどうかは、表面を見ただけではわからない。この世で同じ現実を見ていても、光が大きく通っている人は、一番新しいものを受け取っている。思いの心だったら、過去のものほどいいと思って、これが本物と残像の方を受けてしまうかもしれない。本心の方は、古いものは相手にしない。一番新しいものを受ける。心境によって、必要なものの中身がガラッと変わる。

 

 神さまは過去を繰り返さない。古いものは一回済んだから、二度と同じことをしたくない、与えたくない。より新しいもの、新しいものって大きく変化させて与えていきたいから。

 

 現実の表面が同じように見えても、より新しいものを与える。より新しいものが、よりよく素晴らしくなっている。中身がより光り輝いたものになっている。一瞬一瞬置き換わって、例えば、同じ肉体でも、奥からもう一つ早く換わって来るほど、光り輝く。お祈りが加わるほど、新しいものが近づいてくるから、光り輝く。より光り輝いた、霊化された肉体に変わる。形は同じものを受けているようだけど、中身がより輝いた、より霊化されたすがた。出来るだけ絶対の中心に近いものをもらうと、中身が大きくなって、価値が増える。

 

 中身が大きくなるというのは、奥の支えが加わったすがた。表面だけ見ているのと、奥から支えてもらっているのを見るのは、全然違う。どの奥から支えているか。表面の残像は、浅いところの支えだけ。奥深くとらえていない。一番新しいのは、一番最初から支えてくる。新しいほど、その輝きの程度が入れ子構造になって、スケールが大きい。

 

 過去の残像をつかんだものは、一番奥からの支えはもうない。残像だから切り離される。虚の世界に入った途端に、離れてしまっている。支えがなくなったのは、あまり輝いていない。本当の輝きがそこにない。見る人が見たら一目瞭然。支えのないのはみんな真っ黒。支えが大きいほど、まぶしいくらいに輝いてくる。それが幸せと比例している。

 

 神さまは、みんなに、本当の入れ子構造の大きい支えを気付かせたい、与えたい。だから、一生懸命現実化しようとしている。

 

 






50

「本心からとらえた、支える・支え合うとは?」

 

 本当の支えるとは何か。表面で助け合うことではない。思いの心・我の心は、まだ表面的に支え合う、助け合うと思っている。違う。

 

 神さまは一大循環の相象で、必要なものを的確に与え続けている。これが本当の支え。必要なだけを的確に与え続ける、全てに対する、盤石の支え、無限の無限の支え、これが神さまの支え方。この支えを受け入れたら、自分の中に、神さまの支えが通り抜ける。その時に、自分が支える生き方をとる。自分が支えるのではない、神さまの支えが、自分を通り抜けた時に、支える生き方に変わる。自分の支えではない、神さまの支え。

 

 だから神さまの支えを大きく受け入れる、これが一番最初の大事なこと。どれだけすごい支えか。これに気付くために、やっぱり言葉が、一番最初に必要になる。真(まこと)の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!これを言い続けないと、気付かない。言葉通りの信念が出来上がる。信念通りに受け取れる。今、一つ言葉に使っただけで、すぐに受け取れるわけではない。信念にまで変えないと、受け取る受け場が、出来ない。だから常に、真(まこと)の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!と言い続ける、唱え続ける。そしたら神さまの支えが、どれだけ凄いかって信じられるようになる。そしたら受け取れる。

 

 神さまの支えを受け入れたら、自分は支える生き方をとらせてもらえる。実行できる。そこまで行かないと、まだ支える生き方になっていない。それが支え合うとなったら、全ての人が同じように、神さまの支えを大きく受け入れて、それを全部一つに力を合わせて、大きい働きをすること。これが支え合う。自分一人支える生き方になっても、小さい。皆が、支える生き方になった時、無限倍に大きくなる。その時に、本当の支え合う働きになって、全てを大きく変化させる力になる。だから徹底して、真(まこと)の神さまの支えを受け入れること。これだけが、大事なこと。肉体の自分が、思いの自分が、我の自分が何かすることではない。したらダメ。邪魔するだけ。神さまが全部してくれている。その邪魔さえしなかったら、全てが完璧なすがたで降りて来る。

 

 本心側に立ったら、神さまの支えが、無限に無限に一杯ということが、よくわかる。もう既に与えられている、支えられているって気づく。これから支えてもらうのでも、与えてもらうのでもない。もうすでに与え続けてもらっている、これに気付く。今まで気付かないのは、思いの側に立っていたから。本心側に立って勉強したら、すぐに気付く。

 

 

 





51

「本心からとらえた、恩返しとは?」

 

 虚の世界は、与えてもらったものを受けて、喜んで万分の一でも返そうとしている。これが虚の世界の恩返しのすがた。でも真(まこと)の恩返しはそうではない。どんなすがたで理解するか。

 

 本心の自分の、真(まこと)の神さまへの恩返しという意味は、恩=因の心。一番の本源の心、真(まこと)の神さまの絶対の中心、ここへ立ち返る。絶対の中心へいつも立ち返るのが恩返し。そこから出発して、真(まこと)の神さまを与え続ける生き方をとる。常にそこへ返らなかったら、本当のお手伝いはできない、恩返しではない。一瞬一瞬、絶対の中心へ立ち返るのが、真(まこと)の恩返し。受けたものをちょっとだけ残してお返しするのとは違う。常に、絶対の中心へ、一瞬一瞬、立ち返ること。

 





52

「全てを適材適所に配置する自分とは?」

 

 真(まこと)の神さまは、絶対の中心から入れ子構造的に、一番大きい所のピースを完璧に埋め尽くしてくる。本当に、無限の無限のピースを、ピタッと合わせてくる。一瞬で、設計図通りサッと合わせてくる。それが一瞬一瞬、変化する。まず神さまの世界にあるものは、同じものは一つもない。全て違うピース。そして二度と同じことは繰り返さない。必ず設計図が、一瞬一瞬、変化する。一瞬で全部置き換える。それもピタッと適材適所に合わせてくる。無限ピースを全てピタッと合わせてくる。この設計図を持ってピタッと合わせるのが、支える働き。それが降りなかったら、全部混沌として、プラスは何もない。バラバラで混沌としたら、暗黒の闇と同じ。ピタッと合わせるから、完成された本当のプラスのすがたをとる。これを絶対の中心から、一番上から順番に、本当のピース合わせをして、この世にまで降ろしてくる。

 

 真(まこと)の神さまの世界の一番末端でも、虚の世界の無限倍すごい世界。無限の無限のピースを、一瞬に的確に合わせてくる。この神さまの、一瞬一瞬変化する御心を、本当に最高のものを与えようとして神さまが用意する設計図、これは言葉で表現できないくらい、素晴らしいもの。その設計図に合わせて、全てを振り分けてくる、適材適所に配置してくる。それが一大循環の本当のすがた。

 

 本当に必要なものを的確に与え続けてくる。本当に必要なだけを与えてくる。余分なものは絶対交えない。余計なことを絶対していない。プラスというのは、本当に必要なものを与えてもらった時が、本当の価値ある最高のプラス。必要でないものを与えてもらったら、邪魔になるごみと同じ。本当に、これが無かったら絶対ダメという、本当に必要なものだけを的確に与え続ける。無限ピースを、瞬間に合わせてくる。これが神さまの本当の与え方。本当はジグソーパズルのピース合わせどころではないけれど、例えて言えば、そういう風になっている。

 

 真(まこと)の神さまの働きが、虚の世界に降り立っても同じ。虚の世界の高い神仏を使って、神さまの御心を伝えてくる。虚の世界にも、ジグソーパズルを順番に完成させて、降ろしてきてくれている。一段感ごとに上のお手本がいる。一番奥の一番大きいお手本では、役に立たない。順番に降ろしてきた次の段階のお手本が、この世だったらこの世の、ジグソーパズルの設計図。だから、本当に姿かたちのあるものとして、具体化して降ろしてくれたのが、本当の設計図になる。そしてそれに合わせて、この世の全てのピースを適材適所に配置する。そしたら一大調和のすがたで、完全なすがたが、この世に現実化する。

 

 この適材適所に配置する力、本当の支える、支え合う力、これは真(まこと)の神さまからだけ来る力。他の力ではない。そしたら、真(まこと)の神さまのお手伝いとは何か。絶対邪魔しないこと。神さまが全てしてくれている。一番奥から、一番末端まで、神さまが全部してくれている。全部しようとしている。ところが、それを邪魔するのが、我の心。我の心というのは、ピースが勝手に動き出すこと。どこへ落ち付いたらいいのかもわからないのに、動き回ったら、邪魔するばっかり。

 

 だから、我の自分を生きるのではなく、本心の自分をしっかり生きようとしないと。計らい心を全部完全に捨てきる。神さまが全部してくれているという、徹底した見方になって、一切の我を捨てて「ありがとうございます」で全託しないと。本心の自分は、神さまの御心を汲み取ろうとしたら汲める。一番奥までは行かなくても、途中の神さまの御心を汲みとれる。そしたらピースの肉体を、正しい方向に持っていける。

 

 





53

「本心は、虚の世界をどうとらえているのでしょうか?」

 

 同じ虚の世界を眺めるのでも、本心の眺め方と思いや我の眺め方とは、正反対。本心の自分だったら、虚の世界の一番下に立つ。地獄のさらに下に立つ。そこから、光一元、プラス一元に、真(まこと)の神さまだけを見つめる。そして、神さまの全てを受け入れようとする。だから、マイナスの極で受け入れるほど、神さまのプラスの価値が増す。ただ、真(まこと)の神さまだけを相手にする。真(まこと)の神さまだけしか見えない。マイナスの極に立っているから。途中、いい加減なものは見ない。全部プラスに見える。

 

 本心の立ち方は、常に、一番謙虚な心。プラス・マイナスの立場には立たない。真(まこと)の神さまを受け入れる為に、一番謙虚な立場に、立っているだけ。それも、全てを受け入れる為に。もう、全ての段階を全部受け取るのは、一番下。自分の立場が上だったら、上のすがたしか受け取れない。絶対の中心からは、全てを与えたらいい。その全部を受け取るのだったら、一番下から受けないとダメ。

 

 本心の自分は、自由自在心だから、同時に絶対の中心に立ち、同時に一番下に立つ。立場が変わらない。同じ立場にいる。絶対の中心と虚の一番下のマイナスの極とを、同じ立場に見ることができる。極端に離れたものを、一点に見る。そこで与えて受ける。自由自在心は出来る。上下は無い。与える・受けるが、分かれていない。同時に両方一つになる。だから、虚の世界があるから、マイナスに引っかかるということはない。常に、真(まこと)の神さまだけ。ただ、真(まこと)の神さまの凄さを、入れ子構造で見通すだけ。一番幸せな受け方になるだけ。これが真(まこと)の本心の自分に戻るだけで、出来るようになる。

 

 

54

「真(まこと)のプラス言葉について教えて下さい。」

 

 大きい自分になるには、どうしたらいいか?神さまを受け入れるだけ。神さまを大きく受け入れたら、大きい自分。小さくだったら、小さい自分。だからどれだけ大きく受けてもまだ、神さまの方が大きい。無限に無限に受け入れても、まだ神さまの方が大きい。どこまでもどこまでも、大きく受け入れることがまず、一番大事な必要なこと。それをまず言葉で定める。言葉がまず先に来る。

 

 そこで必要になってくるのが、真(まこと)のプラスの言葉。絶対の中心から、新たに新たに、降り注いでくる神さまの働きの言葉。その言葉を、本当の意味で駆使する。真(まこと)の神さまの一大循環の相象、与え方をしっかりと受け入れること。そしたら、すぐに大きい本心に戻る。言葉通りの自分になる。全て言葉通りになる。

 

 真実の世界も言葉通りの自分。虚の世界も言葉通りの自分。全て、言葉通り。どういう言葉を、自分がたくさん使っているか。全部言葉通りになっている。だから大きい本心の自分の生き方は、大きいプラスの言葉が必要。だから大きく支えに生きようと思ったら、必ず、真(まこと)の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!って、常にそれを受け入れようとしないと。そしたら必ず大きく支える自分に、言葉通りに置き換わって来る。それが全て。言葉を変えたら、変えた言葉通りになってしまう。

 

 普段、日常生活で、何を言葉にしているか。虚の世界があるって言ったら、虚の世界に転落している。ここが神さまの世界って断定、断言すれば、神さまの世界になる。祈り言葉、「真(まこと)の神さまは一大循環の相象で厳然と、今ここに在します」は、なぜ断言するのか、断定しないといけないのか、それを言葉にしないとその世界に住めないから。それを感じる自分になれない。現実に、今ここに神さまの世界があるのに気付かないのは、言葉が違うから。言葉で波が合わない。

 

 祈りの力は、言葉の力。全部言葉の通りに実現している。新たな、真(まこと)のプラスの言葉。これが最高の威力を持つ。過去を全部消せる。最高のすがたを現実化出来る。大事なのは、言葉を正しく理解して、選ぶこと。だから本心の自分に戻って、もう一回、神さまの言葉を理解しなおさないといけない。

 

 

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「全託とは?」

 

 みんなの本当の目的。肉体の人間の目的ではない。本心の自分の本当の目的。真(まこと)の人生の目的は何か。元々、一切の我のない自由自在心、無色透明の自由自在心。この自分が、何を目的とするか。神さまの目的を自分の目的にする。神さまの願いを自分の願いとする。神さまの御心のままに、神さまと共に生きること。そしたら一大循環の流れのお手伝い。本当に必要なものを、的確に与え続けるお手伝い。小さくも大きくも、全部そう。

 

 だから、どれだけ大きい力がいるか。一人の人に必要なものを、的確に与えるだけでも、大きい力が必要。本当にその人の変化を見抜かないとダメだし、一瞬一瞬、必要なものは変わるから、与えるだけでも大変。一人の人に与えるだけでも、与えるものをたくさん用意しておいて、瞬間に、何でも与えられるようにして与え続ける、それを無限の人に対してできるか、って考えたら、本心の自分ですらできない。

 

 そしたら真(まこと)の神さまだけに、すがるしかない。虚の世界の自分がすがるのとは違う。本心の自分ですら、全知全能無限力と言いながら、できない。本当の神さまの働きには、及ばない、全然ついてもいけない。だからこそ、本心の自分は謙虚に、真(まこと)の神さまに全託する。大きい本心の自分に戻るほど、全託が深くなる。

 

 まだ小さく与えている間は、小さい本心の自分。この時はまだ、ちょっとは自分の力を与えられるという可能性があるかなって、錯覚を起こすかもしれない。でも、大きくなればなるほど、もう途方に暮れてしまう。今、与えられる自分の能力を無限倍にしたら、無限倍のものを与えられるけど、神さまの世界は入れ子構造だから、一段上がるごとに、無限倍のものを与え続ける、この働きが必要になる。不可能、絶対不可能。

 

 だから真(まこと)の神さまに降り立ってもらう、自分を通り抜けて自分を使ってもらう。神さまに本当の全託が必要になる。そしたら、いつも神さまと共に歩む。無条件の安らぎ、喜び、幸せが、全部湧くように出てくる。与えただけ、幸せが大きくなる。本心の目的は、この生き方だけ。

 

 






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「全て、真(まこと)の神さまがして下さっているとは、どういうことでしょうか?」

 

 神さまは、全責任をもってみんなを本心に戻して真祈りの伝授をします、という約束をしてくださっている。

だから、本心に戻るのは、真祈りを祈るのは、人の努力ではない。

 

 神さまの働きだけで、全部をしてあげる、という約束をしてくださっている。

 

 本心の自分というのは、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分と降りた、そのすがただけ。

 

 これも最高の神さまのすがただけ。一番新しい、一番大きい、最高の神さまだけが真(まこと)の神さま、それが真(まこと)の自分、ここまで行かないと。

 

 それを神さまが、全部してあげるという意味で約束をしてくれている。

印可書には、そのことが書いてある。

 

 そうすると大事なことは、何か。

どれだけ神さまの気付き、支えを受けるために、気付いていくか、ということ。気付きがちょっとでも増えるほど、みんなが同じように相乗効果で、気付きを大きく増やしてもらえるから、みんなの気付きが多いほどいい。

 

 全てすべて、神さまがさせて下さっている。

 

 神さまに心を向けることくらいは、自分がやっていると思っている?

違う。それさえも、神さまがしてくださっている。

 

 みんな、自分が努力していると思っているけど、絶対努力も何も出来ない自分に落ちた時に、始めて気付く。微塵も努力すらできない、この自分になった時に、初めて100%神さま、無限%神さま、ということが、わかる。

 

 護摩焚きがあるのも、みんながそれに参加するのも、そう。

 

 全てすべて、神さまがさせて下さっている。

 

 本当の全託。

 

 神さまにお任せしたら、楽になる。

全部神さまが、自分を使ってしてくださっている。

 

 これが一番自然で楽なこと。

 

 真(まこと)の神さまを与え続けるとは、どういうことか?

神さまが血液の流れのように、呼吸の様に全部している。

自然な循環を神さまがしている。自分が何かしているのではない。

それにどんどん気づいていくだけ。

 

 過去をつかんでいたり、小さい我の自分があると、邪魔しているすがたに見える。それを神さまが押し流して、循環をどんどん正しいものに戻してくれている。

 

 ただ、我にすがっているのは無理やり流せない。洪水で押し流したら一発だけど、やっぱり神さまは、それをしない。

やさしく柔らかく、説得して納得させながら。ちょっとは時間をかけないといけない。それでいらないものをどんどん無くして、循環を良くしてしまう。

 

 説得も大事だし、納得も大事。

我をつかんでいる手を放す、それも神さまがやってくれている。

 

 新たに生き方をとるとは、どういうことか?

 

 真(まこと)の神さまからの新たにと、現実の中での新たにがある。

 

 大きい絶対の中心から、一番新しいものというのが一番大きいすがた。

虚の世界だったら遠い残像、小さいものになってしまう。

現実の新たには、遠い昔の残像。

真(まこと)の新たには、一番大きい。

入れ子構造的に一番大きいすがたが、絶対の中心から最初に現れるすがた。

 

 でもこれもまた、自分がするのではない。

ちゃんとそれを観じとれるようになって来る。

自分が無抵抗になったらいいだけ。

 

 自分が何かしようとしているのがなくなればなくなるほど、楽になる。

ああ、神さまがしてくれていた、と気付いたらいいだけ。

神さまの働きの凄さがどんどんわかれば、気付けばいいだけ。

 

 これまでは、違いに気付くことの大事さを言ってきた。

でも違いに気付く、というのは、本当は虚の世界に近い。小さいから。

 

 これからは、神さまの凄さに気付く方がいい。

神さまを大きく認めること。

本当の真(まこと)の神さまを、全肯定・大肯定・一大肯定すること。

 

 





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今、一番必要なことは何ですか?

 

 今回、これも真(まこと)の神さまの計画だったと思うけど、地球全部のマイナスの思いをとろう、と決意させられた。でも地球全部のマイナスの思いを、大きく一気にとろうと思ったら、どれだけ大きい力が要ると思う?

 

 この肉体の命なんか、もうどっちでもいい。まず、地球を救う方が大事だから、大きく、大きく消そうと思った。肉体の場で受けてでは、とても間に合わないから、神体の場で受けて、大きく消そうと思った。

 

 宇宙大の神体に、地球の思いを全部持ってきて、そこに本心の大きい光を降ろして、核爆発のように、もう一瞬に思いを吹き飛ばそうと思った。普通なら、神体も肉体も、もう粉みじんになって消えるところ。でも、その瞬間、何百兆という神さまが、総動員されて降りてきた。60兆の細胞1個1個に、何体も高い神さまがいっぱい降りて、飛ばないように、瞬間に接着してくれた。思いを消すと同時に、神体の60兆の細胞全部をくっつけてくれた。一大奇蹟が起こった。それで助けてもらった。

 

 もう、どれだけ支えが大きいか。本当に、地球を救おうとしてくれているというのが、よくわかる。

 

 これをきっかけに、神さまの振り替えの働きが、大きくガラッと変わった。この世や、地球全体に降り注ぐ真祈りが、振替えが、無限倍になった。

 

 真実の世界の神さま、虚の世界の神さま、60兆以上の神さまが総動員で、今この瞬間も、地球全体の思いが、マイナスが、どんどん大きくプラスに振替えされ続けている。

 

 真(まこと)の神さまは、常に、みんなの本心開発のために、そして全体のために、全ての段階のものを総動員で使ってくる。だからみんなも、真祈りを祈って、真(まこと)の神さまの応援を、お手伝いをしてほしい。

 

 どうしたら真祈りになるか。支える生き方をとらないと、真祈りに変えてくれない。地球を支えるという大きい気持ちで、ありがとうございますを唱えてくれたら、神さまが使えるから、真祈りに変わる。それがもう一番大きい、思いを吸い上げる働きになる。

 

 神さまの御心を現実化する方法は、段階ごとに、次元ごとに違う。虚の世界では、低い世界ほど、途中の過程が長くなる。この世では未だ途中の過程が必要になる。例えば、お米が必要なら、種をまいて順を追って育てる必要がある。護摩木が必要なら、木を仕入れて、製材して、護摩木という形にする必要がある。座って祈るだけでは、お米も、護摩木も物質化して出てこない。

 

 だから、座って祈るのは、もう役に立たない。支える働きを、それも下積みの働きをしてほしい。例えば、一輪の花を咲かせるのに、どれだけの支えがあるかって考えてほしい。太陽が要る。空気も要る、酸素も、炭酸ガスも要る。水も、大地も要る。その他に、根の働きが要る。幹の働きが、枝が、葉っぱが一杯あって、って全部が支えないと、たった一輪の花も咲かない。一輪の花を咲かせてもらうのに、どれだけ大きい支えがあって初めて咲くか。これが真祈りになる。支えの真祈り。

 

 神さまのすがたは、いつも支え合いにしか降りない。神さまの世界そのものが支え合いで、必要なものを与え尽してくる。一輪の花が咲くのも、悟りの花も同じ。みんなに支えてもらわないと、もうすでに支えてもらっているということに気付かないと、悟りの花は開かない。

 

 全部平等だから、自分だけ支えてもらうわけにはいかない。他の役割も、全部自分が果たさないといけない。だから先に下積みの一番大変なことを先にしておく人ほど、楽になる。一番しんどい仕事を先にした人が、だんだん楽になって、花開く方の役割を与えてもらえる。ところが先に花が開いたら、後は借金返しになる。順番に楽なことから始まって、最後に一番しんどい目をしないといけなくなる。

 

 だからしんどい仕事を先に、全体のために、いつも支える気持ちでさせてもらう方が、神さまの本当の力が速く降りる。支える力ってそう。神さまは、下積みの方を大きく支えてくる。

 

 本当に、みんなが必要な支えの仕事をしながら祈らないと、全部ダメになる。何もない中で、花だけ開くわけにはいかない。座って祈ったら花かもしれないけど、他のが、全部ない。幹も葉も根も、何もない状態で花が開くわけがない。底辺全部を備えないと、支える力がないと、絶対、上には花が開かない。

 

 だから、その必要な支えを全部、みんなが気付いて、その底辺こそ支えないといけない。そしたら、本当の悟りの花が開いたら、まず、その底辺を支えた人から早く悟ると思う。他を先に彼岸に渡そうとする人が、先に悟る。一番しんどい仕事を早くした方が、最短コースで進める。だから全体を見て、一番何が絶対必要かって、見抜かないとダメ。

 

 でも一番しんどい仕事がいいからって、みんながそこに行っても、他の仕事が出来ない。それだったら、全体が何もできなくなる。その時その時、譲り合って、何がその人にとって一番ベストかって、お互いが見て、役割を決めないといけない。

 

 ありがとうボランティアグループでの奉仕は、全部、役割を決めて、全体で力を一つにして神さまのお手伝いをする勉強。全体を支える、全てを適材適所に配置する本心開発の勉強。

 

 






真(まこと)の問答集・第1弾について

 

 この本は、平成25年7月から27年8月にかけて、ありがとうボランティアグループで行われた勉強会でのお話を中心に、テーマごとに、内容を問答形式でまとめたものです。

 真(まこと)の問答集作りは、まだ始まったばかりです。真(まこと)の神さまに対する問いかけ、真理に対する問いかけが、本物の正解というものに行き着くことはありません。真(まこと)の神さまが、無限に無限に大きく、深いように、どんな問いに対する答えも、ただ際限なく、大きく、深まっていくだけなのです。

 真(まこと)の問答集は、この本にもあった問いを、みんながそれぞれに、何度も何度も神さまに問いかけ、またそこに新しい問いも加えながら、第2弾・第3弾と、より真(まこと)の神さまが降り立って下さる、支え合いの中で作られていくことでしょう。皆さんお一人おひとりが、神さまから直接受け取った、実観あふれる、よりみんなの本心に響く答えがたくさん載った、素晴らしい問答集となっていくことでしょう。

 そのためには、日々、真(まこと)の神さまについての実観・お祈りについての実観を深めていくことが、肝要になってきます。実生活や日常において、この本で神さまから頂いた言葉を、十二分に活用していただくことができたら、幸いです。

 より深い、大きな実観に基づいた問答集を、みんなの手で作っていきましょう。

 

 

 

 みなさんそれぞれが、本心の自分から神さまに問いかけ、直接頂いた答え・実観を、ありがとうございますボランティアグループまでお寄せください。

 

 

 

 

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ありがとうボランティアグループについて

 

滋賀県の山中を拠点に、真(まこと)の神さまのお手伝いに生きようとする、組織や団体ではない、任意のボランティアグループ

 

真(まこと)の神さまや真理について、広くお知らせする活動を行っています。

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