35すべては神さまの愛の現れ

 神はすべてのすべてであり、すべては神と一つのもの、神そのものです。人間が「自分」と言っているものも、決して神を離れて存在しているのではないのです。神から切り離されたものは何ひとつとして存在することはできないのです。神は無始無終、おのずから厳然と存在するものであり、そこから分岐して全体の一部分として存在しているのが「人間としての自分」です。神は絶対者であり、全体者ですから、神の他には何者も存在できないのです。だから人間は常に神と一体であり、神の部分であり、神と一つにつながっているものです。神と言う光源から放射された光が人間であり、神という全体の部分を構成するものが人間なのです。

 

 人間は『神の愛は無限に深く無限に大きいものである』ということを心の底から信じなければならいのです。心の奥底では、みんな 神の絶対の愛を信じているのです。表面の想念感情に惑わされて神の愛を疑うことの無いように、奥底の心を、本心を常に引き出して輝かせていなければならないのです。

 

 自分一人の力だけでは生きてゆけないけれども、大勢の人々の力を合わせることによって、人類は幸せに生きてゆけるのだというように、神さまの存在も働きも無視した、人間の力だけで生きてゆけるのだという考え方も、非常に傲慢な間違った考え方です。神さまから切り離されたら、人類の只の一人も存在できないのです。自分は勿論のこと、他のすべての人も物も、神さまから切り離されたら、一瞬たりとも存在することはできないのだということを、しっかりと肝に銘じておかなければならないのです。神さまの他には、頼るべき何者・何物も存在しないのだということを、正しく理解しておかなければならないのです。

 

 神のいのちが自分のいのちと現れ、神の心が自分の心と現れ、神の姿が自分の姿と現れているのです。その神のいのちが、心が、姿が、どの程度現れているかによって、無限の無限の色々な表現が存在しているのです。そして、その表現を支えているものは「神の力」であって、神以外の何者でもないのです。神の力はすべての力でありすべての力は神の力です。だから神の力を離れた「自分だかの力」というものは決して存在しないのです。神の力が自分の力と現れ、神の力が自分努力と現れ、神の力が自分の能力と現れているのです。指一本動かすのも、神の力によって動かしてもらっているのであって、決して「神を離れた自分」の力ではないのです。

 

 それにもかかわらず「神を離れた自分」が存在していると錯覚し、自分の力で生きているのであると思い違えている人が非常に多いのです。それは本心を忘れて、想念感情の奴隷に陥っているからです。想念感情というものは常に部分に執着し、自由を失い、全体を見失い易いものだからです。だから決して「本心」を忘れてはならないのです。本心の自分は常に明るく、正しく眺めて、全体の中の部分としてすべてを見てゆくことができるのです。宇宙のすべてを神と一つのもの、神の現れ、神そのものであると認めてゆくことが「感謝」であり、その感謝を積み重ねてゆけるものが本心の自分です。「本心の自分」とは常に「感謝している自分」です。本心の自分を忘れてはいないか、本心の自分をどれだけ輝かしているかのバロメーターは、今自分は、どれだけ深く感謝できているかということです。

 

 「宇宙のすべては神さまの絶対の愛の現れである!」と断言してこの真理の言葉を 繰り返し繰り返し 心の中にたたき込めば 次第に次第に神さまの愛を深く信ずることができるようになってくるのです。例え地獄のような環境に置かれても、心が業想念で一杯の状態であっても、一切拘わりなく、「宇宙のすべては神さまの絶対の愛の現れである。」と一瞬一瞬思い返しては、ただひたすら「ありがとございます」と感謝し続けてゆけばよいのです。そうしているうちに必ず現象のすべての移り変わりの中に、神さまの愛を見い出し、感受することができるようになってくるのです。すべてのことに感謝できる心、これが悟りの心即ち本心(本源心)なのです。

 

 人間は本来、宇宙の大神さまと一体です。この真理を素直に肯定できるのが、本心の心です。これを傲慢に否定するのが、業想念の心です。人間が無限の無限の幸せ一杯に生きることが、大神さまの御心・願いなのですから、人間が幸せに生きる為に必要なものは、「既に」豊かに与えられているのです。だから本心の自覚を深めて、宇宙のすべては大神さまの愛の現れであると、心にしっかりと確認することです。“生かされている!”この事実に気付けば、無限に深い感謝と賛嘆と喜びの心が、自然に湧き出して来るにちがいないのです。

 

 宇宙のすべては大神さまの愛の現れです。太陽も月も星も地球も、鉱物も植物も動物も、すべての人々も、自分一人を幸せにしようとする、大神さまの愛の化身なのです。何故に財欲の奴隷となって私物化する必要があるのでしょうか?

 人間は本心を輝かす時、各々独特の個性ある素晴らしさを表現することができるのです。何故に名誉欲の奴隷となって、ダイヤモンドのような本心を磨きださずに、ダイヤモンドにペンキを塗るようにして、自慢し合う必要があるのでしょうか?

 本心の自分は「愛する」ことによって、無限の幸せを感じることができるのです。対者の自由を縛ることなく、ただ対者の幸せだけを願って、報いを求めないで、与えきりに与え、尽くし切に尽くすところに、本当の喜びが湧き上がるのです。何故に色欲の奴隷となって、尊厳無比なる人間を、快楽を得る為の単なる道具にする必要があるのでしょうか?

 食物は大神さまの生かす力、大神さまの命そのものです。必要なだけを、無限に深い感謝を捧げて頂くべきものです。食事は大神さまの命を頂く厳粛なる儀式です。何故に食欲の奴隷となって、無茶食いする必要があるのでしょうか?

 睡眠は、魂が大神さまの御元に帰って、働く為のエネルギーを補給していただく為にあるのです。何故に睡眠欲の奴隷となって、本心の自己表現の使命を忘れ、貴重なる時間を浪費するのでしょうか?

 五欲を解脱するためには、感謝の心を輝かせて生きてゆけばよいのです。

 

 体心霊包の女体を有する女性と、霊心体包の男体を有する男性とは、外見上は同じ肉体のようであっても、根本的に異なる神性を賦与されているのです。この二つの相反する神性の持ち主が、相互にその特質を発揮して、大調和の楽土を地上に建設しつつあるのです。本来男女に尊卑は無いのです。どちらも尊厳極まりないものです。その意味では男女は平等です。しかしその賦与されている特質は同じでは無いのです。それを不平等と言うのは間違っています。それは相互に敬愛し、助け合って、その特有の美質を発揮することによって、より素晴らしい・美しい・愛に満ちた神聖恋慕性を表現しようしているのが、最初からの神の御心であり、計画であるからです。

 

 女性にとっては、外部環境は己が魂です。女性は環境によって変化するものです。女性は環境の変化によって、どんな人格にも性質にも風俗習慣にも変化してゆける特能を備えているのです。女性は自己の外部環境から吸収したものを、再び外部環境に投影して新たな環境を作り上げてゆくもの、即ち環境の作成者・環境の母です。従って女性は外部環境から、常に自分にとって必要な、素晴らしいもの・善きもの・美しいもの・幸せなもの等々を、しっかり選んで心に取り入れなければならないのです。無差別に何でも心に取り入れてしまうのは愚かな生き方です。それは環境の奴隷であって、環境の母としての女性の特質を真に活かしきっているのではないのです。女性の特質を最高に活かしきっている状態というのは、宇宙のすべてを神の愛の現れと礼拝感謝している宗教的信仰に見出すことができるのです。自己の外部環境である宇宙が、神の大慈愛の現れであり、無限に素晴らしく・無限に美しく・無限に善きものであると、心にしっかり感受してゆくことは、この世に神の国を、地上天国を実現してゆく最高の生き方となります。

 

 男性にとって大切なことは、自己を深く掘り下げ、本心の自分をしっかりと把握し、与えて与えて与え尽くす本心の生き方を徹底することです。偉大な発明発見等は、自己を深く掘り下げた男性の手によってなされています。愛深き・善なる行いをしている男性は、自己を深く掘り下げ、与え尽くす本心の自分をしっかりと生きています。自己の掘り下げ方が浅いと、肉欲から生ずる五欲の奴隷となり、自分勝手な・わがままな・思い通りに生きようとする我利我欲の、他に求める生き方となり、環境を破壊し・みんなを不幸にしてゆくのみです。自己の思い通りに貫徹し、自己の尊厳を確立してゆくのは、男性の特質で、それを活かす為には先ず自己を深く深く掘り下げることです。