今回の護摩焚きでは、参加された方に「印可書」が配布されました。
これはその「印可書」に関するQ&Aです。
<印可書についてのQ&A>
Q この印可書の持つ意味について教えてください。?
真(まこと)の神さまの一番の願いは、真祈り(まいのり)を伝授して全ての思い・我(が)を消すことなんですね。そうしたらね、”虚”の世界が消えて、全ての問題が消えるの。
それだけが神さまの願い、目的なのね。
真祈り(まいのり)とは何か?真(まこと)の神さまの祈り。真(まこと)の神さまの働きそのもの。
真祈り(まいのり)の伝授は、真(まこと)の神さまが降り立たないと伝授にならないのね。真(まこと)の神さまの働きはどれだけ大きいか。それは、はかりしれないのね。
言葉だけでいくら説いていても、みんなまだ実感がないの。感覚の実感も、観ずる方の心の目で見つめる実観も、まだまだ浅いの。
今回、真祈り(まいのり)の本当の秘奥義(ひおうぎ)を伝授するための印可書(いんかしょ)が、神さまからプレゼントされるのね。
でもね、本当に真祈り(まいのり)の秘奥義(ひおうぎ)を体得している人には、この印可書は必要がないの。
では、印可書の意味とは何か。修了書・卒業証書、秘伝を伝えるための秘伝書、奥義書(おうぎしょ)という意味もあるよね。
しかし、本当の印可書は本当の悟りを開いているかを、神さまが認めてくれるかどうか?。その段階を評価して、本物かどうかをしっかりと認定してもらうのね。
でもね、それだけだったら何の役にも立たないのね。悟りへの道を歩む過程において、色んな難関、関所が一杯あるの。
この関所を通り抜ける時に、神さまの的確な導きと、無限の大きい護りが要るのね。だから、その関所を通り抜ける通行手形にこの真祈りの秘奥義を伝授するための印可書はなるのね。
これを持っているから、護り続け、導き続けてもらえるの。本当の悟りへの最短コースを歩ませてもらえるの。何もなければ受け取れないし、導きも護りも何もないのね。
これはお金では買えない、無限の価値のある貴重なもの。粗末にしたら、悟りへの道は歩めないのね。自分の命よりも、もっともっと大事なものなのね。
”虚”の世界の、肉体の生命、魂の生命は取るに足らない。本当の真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分という大きい自分から見たら、生命なんてゼロと同じなの。
小さい肉体意識の自分と同じレベルに見ていたら、本当のものは受け取れないのよ。だから、生命よりも、何よりも大事なもの、大切なものという受け取り方が、絶対に必要になるの。
そして初めて本当の悟りを与えてもらうための、本当の悟りを開くまでの大事なお護りに真祈りの秘奥義を伝授するための印可書はなるのね。?
一つの言葉でも、本心の自分が答えを出すのと、思いの自分が答えを出すのとでは、正反対になるのよ。
常に本心側に立って、答えを出そうとしても、答えが無限通りあるのね。思いを全部消してもらって、我を全部消してもらってからが悟りへの第一歩なのね。
本心の自分の側に立って、真祈り(まいのり)の秘奥義(ひおうぎ)に行くまで無限の段階があるのよ。思いが全部消えたから、本当の悟りが開けるか?、そんな思いが消えたくらいでは悟りとは違うのね。そんなもの悟りとほど遠いものなの。
思いが消えて、そして自他を分け隔てる我(が)が全部消えて、初めてそこが出発点なの。そこからこの奥義書(おうぎしょ)が必要になるのよ。本当の導きと護(まも)りが必要になるのね。
○真祈り(まいのり)の全体図について
Q なぜ螺旋は左旋回だけなのでしょうか?
虚の世界は、プラスとマイナスと二つに分けている。左旋回がプラスの方、右旋回がマイナスの方。
霊と体に分けたら、左旋回が霊の方で、右旋回が体。そういう意味で、分かりやすく説明した時に、左旋回と右旋回と言うけれど、
神さまの世界では、左旋回だけ。プラスだけという意味で、左旋回にしているのね。だから右旋回のマイナスは無い、という意味なの。
ただ、神さまの螺旋の左旋回と言うけれども、神さまは本当の自由自在なの。形も無いんよね。だから左旋回に光が流れる時に、何かパイプのようなものがあって、
その中を通り抜けるような感覚は無いの。自由自在でも、本当の法則通りにスーッと流れるの。それは、枠にはめられて流れるのではない。枠は要らないないのね。
枠がないから、無茶苦茶に流れるのではない。枠が無くても、本当に必要な法則通りの動きしかしないの。それは、無限の無限の波の交流によって、成り立っているとも言えるし、それでもまだまだ浅い見方なんだけど、ここが違うの。
虚の世界は、枠の中を、パイプの中を流れようとする。そうしないと、枠やパイプが無かったら、他へ漏れてしまう。何故か?それはね、中心に帰一していないからなの。その違いがみんなが想像する以上に大きい。
自由自在でありながら、神さまは一つの最高の生き方を選べるの。それはね、絶対の中心無限大の外に帰一しているからなの。
Q なぜ真(まこと)の神さまから降り注ぐ光は物質ではないのに、なぜ表と裏があるのでしょうか?この表と裏には、どういう意味があるのでしょうか??
パイプの裏表と表現するけれども、本当はパイプがないから、裏表がないから表裏一体。
それでいて、パイプがあるように、表裏があるように、動いている。これも本心の心で見るのと、我(が)の思いの心で見るのと正反対に解釈するのね。
本心で見るのは、神さまの心を真意を神意を汲み取ろうとする。本当の深い深い意味を汲み取って、理解しようとする。表面の言葉に縛られないのね。
言葉に縛られないから自由に奥を深く深く理解しようとするが出来るの。思いの心の方は、言葉にとらわれる形にとらわれる。いろんな形の縛りの中でどうしても見てしまう、考えてしまうから、ちょっと矛盾するな、とか思ってしまうの。
神さまの側に立とうとしたら、本心側に立ってみたら、一切の矛盾が消える。すべては完璧なる一つなのね、だから単なる表面の言葉ではないの。表面の言葉の解釈だけではなくて、すべて正反対なの。それはねどんな言葉もそうなのね。
本心と思いの心とは正反対に解釈してしまうのね。
例えば、精神統一とか、精神集中。これは本心と思いの心では正反対の行動をとるの。思いの心は、精神統一と言うと、一点に集中しようとする。精神集中も同じなのね。
周りがわからなくなるくらい、一点に集中しようとするの。この小さく閉じこもろうとする心がねこれは思いの心なの、我の心の小さい一点への集中なのね。でも本心の集中は正反対。無限大へ心を広げるの。
神さまの本当の大きい御心の中へ心を広げていく。一点じゃなく、無限大に広げる。同じ精神統一、精神集中と言っても、解釈が違う。正反対になるのね。
一つの言葉を解釈するときに、必ず本心側に立って、神さまの辞書に合わさないとダメ。神さまの辞書は、一つの言葉でも、幾通りにも入れ子構造重層構造的に解釈があるの。
10通りくらいではないのよ。プラスの大きい解釈が、本当は無限通りあるの。常に常に一瞬一瞬新たに新たに本心側に立たないと、とらわれてしまうの。
本当の左旋回がどういうものかも、言葉だけの理解だとわからない。奥へ奥へ入ったら、形を越えているから。単なる形を見ての左旋回ではないのね。表面から奥へ奥へ外へ外へきりがないのね。
Q なぜ螺旋なのでしょうか?どういう意味があるのですか?
たとえば、旋回の螺旋が、直線ではないところも、違いが大きい。螺旋だと相似形の姿をとって順番に移り変わることが出来るよね。
円だったら、小さい円から大きい円に順番に広がることができるの。だから、入れ子構造の最初の一番簡単な姿を表わしているよね。
本当の入れ子構造の姿は、単なる模型的な小さい相似形の姿の比較ではないのよ。それはそれは奥が深い。表面の解釈と奥深い解釈とは全く違うの。
同じ左旋回、螺旋と言っても、言葉の解釈が、奥へ入るほど、複雑になる。単純なものではない。ここも順番に体得していくしかないのね。音楽のひびき、色彩のひびき等々をはるかに超えたものなの。
言葉だけではね誤解を招くのね。特に思いの心では誤解のしっぱなしになるの。本心側に立っても、まだまだ浅い解釈で終わる。
だんだんと奥深い複雑なものになって行かないとダメ。それが形を越えているだけに、どこまでも奥深いの。はてがないの。
Q 絶対の中心とは場所のことではないと聞いているのですが…
絶対の中心というのでも、どこか一定の場所があるのではない。一番大きく与える立場。
どこにあるか。神さまの御心は、どこまでも奥深いのね。
入れ子構造でも無限に奥深い。一番奥深い、入れ子構造の一番奥の奥の奥。そこもまだ、絶対の中心かどうかわからない。まだもう一つ奥があるかもしれない。
大きく与える立場はそう。これも空間的に見て、場所を指定するようなものではないんよ。入れ子構造、重層構造、異次元構造、全部が合わさった、全部のおおもと。
場所じゃないから、どこでも、全部が絶対の中心にもなるし、ならないかもしれない。これはやっぱり自分の自覚。本当に大きく与え続ける本心の立場の自覚。つまり総責任者の自覚。
本当の愛の深さの自覚。大きくなるほど、絶対の中心に近いのね。
それでも本当の絶対の中心に立つというのはまだまだ難しい。更に、奥があるの。自分を支えてくれる大きい無限倍の支えという盤石の支えがあるの。
でもね、たとえそれだったらとしてもまだまだ絶対の中心ではない。まだ奥へ入っても、まだ、無限の無限倍の支えがあったら、やはりまだ絶対の中心ではないの。
だからね、まだまだ自分が小さいの。自分が大きい立場だと言って、そこで行き止まりでは、自分がまだ未熟だ、ということ。絶対の中心から程遠い。終点とおもってしまうような頭打ちではダメなの。
更に奥がある、更に奥があるという方が、絶対の中心に近い。絶対の中心を認めていることになるのね。
絶対の中心に立つことは難しいけれど、絶対の中心を受け入れて認めることはまだ出来る。それがねどこまでも大きく深くなっていくのね。
Q渦巻き同士が、干渉も邪魔もしあわないのは、なぜですか?
又、神さまの本当の働きとは、どういうものなのですか?
そして、無限の無限の渦巻きが支え合うとは、どういう姿なのでしょうか。
干渉も邪魔もしあわないのは、無色透明だから。無色透明の中には、色んな色の透明なものが全部含まれる。
細かく分けたら無限の光になる。更に透明でない光も、一つの透明な光の中に全部含まれる。
無色透明の光の中には、ありとあらゆる光が全部含まれるの。
神さまの場合は、単なる光ではない。光源と光の両方同時一切多として存在するの。輝きそのものよね。
輝きというのは、光の進軍、光源の進軍。本当の光源と光の流れ、これが輝きなの。
無色透明の輝きというのは、神さまの本当の働きの全てをあらわしているのね。
だから一つの渦巻きだけを見ていると、絶対の中心、一番大きいところから、一番小さいところ、本当の無の一点まで、スッと降りてスッと戻る、一瞬に戻る。
一瞬に現れて、一瞬に戻る。そうしたら、他の渦巻きと全然連携が取れてないかと言うと、違う。全部連係が取れている。同じ働きは絶対にしないの。
全部異なる働きになる。全部違う働きをするというのは、連係が取れているから出来る。そのおおもとが真(まこと)の神さまなのね。
単に真(まこと)の神さまと表現するけれど、全てを異なる姿で、異なる渦巻になって、表すおおもとが、真(まこと)の神さま。
だから一瞬一瞬新たに新たに新しい全く違う新たな真(まこと)の神さまなの
常に全体が大調和した、一大調和の姿を取る。完全円満完璧大調和なの。
必要なものを的確に与え尽すのでも、本当に必要なものを的確に与え尽すと言っても、無色透明が一番なの、無色透明だから一瞬に必要なものに変化出来るのね。
一瞬一瞬に新たに新たに、何にでも変化する。だから必要なものを即座に、的確に与え続けられる。例えば透明な赤い色だったら、瞬間に透明な青にはできないよね。
一瞬に変化出来ないの、対応出来ないの。つまりいったん赤を削除して、それから青を持ってこないといけないでしょ?。それでは瞬間にはできないのね。
だから常に無色透明で移動しないといけない。それで何を必要としているか?、受ける側の必要性に応じて、瞬間に変化するのね。
与える側と受ける側との違いはね。与える側は、全部用意していないとダメなの。そして受ける側が必要なだけを受けるのね。又、受け取るれるだけを受け取るのね。
受ける側には段階が無限にある。透明な光を受けるのか、透明ではない色々な有色の光を受けるのか、必要性が全部一瞬一瞬変わるの。
本当に必要性に応じて瞬間に変化するのは、無色透明な光、輝きだけなの。そういう意味で、真(まこと)の神さまの動き、流れは、全部無色透明なのね。
無色透明は、絶対干渉し合ってないし、邪魔し合ってないし、ぶつかり合っていないんよ。それはね正体が消えて無いから・・・・・。
でもね本当の連係プレーは取れているの。同じ螺旋でも、角度は全部違うし。方向も全部違うし。縦横無尽なの。だから全方向に、全部向いている。
だからね単純に同じ方向から同じ方向へとは違うの。それがそのすべてが本当に真(まこと)の神さまによって全体が一つに統一されているの。
だから全部連係して連なって循環しているの。人体の血液の循環ぐらいではない。無限億万倍素晴らしい循環なのね。
これがね真(まこと)の神さまのね一大循環の相象なの。
真(まこと)の神さまの世界においては、それぞれ意識ある者がね、本当に一切の我のないね、無色透明の自由自在心のものがね、無限に無限に存在しているの。
その人がどの立場に立つかによって、何が必要かは全部違うよね。みんな同じものは必要としないの。
全員が一瞬一瞬変化させながら、全部違うものを必要とするの。
今必要というものと、次の一瞬必要なものは違うのね。
それが、全員が全部違う。それに対応出来る、真(まこと)の神さまの与え方は、本当は無限倍素晴らしいんよ。
だからね人間の人知をはるかに超えている。思いの心なんて遥かに超えている。そんなものでは、想像も何もできないのよね。
本心の自分に戻ったからって、無限分の一もまだわからない。本当に与え尽す神さまの側がどれだけ凄いか。想像を絶するのよね。
神さまに与えてもらってというのは、まだ小さいんよね。無限の無限の渦巻きがあって、全部が本当に必要な働きをするから、支え合いになるのよ。
大きい目的に応じて、全体が必要な働きのお手伝いを全部しているのね。
そうしたら神さまの本当の目的は何か。それは、全てに対して、本当に必要なものを、本当に必要なだけ、的確に与え続けることなのね。
この目的に対して、みんなが自分の役割を演じきる。一つ一つの渦巻きが全部そう。
渦巻きというのはある意味では、一個一個の天照大御神さま、光源の働き。だから一個一個の天照大御神さまは、神さまの御心のままに、
本当に必要なものを与えるお手伝いをしている。大きい循環の中に自分を置きながら、更に自分も、螺旋に循環して動きながら・・・・。
だからねみんなね本当の意味での連携(れんけい)プレーなの。誰一人どの一つを欠(か)いても足りないの。
自分一人ぐらいはしなくても大丈夫、ではないんよね。
みんな、それぞれのひとりひとりが自分一人が絶対必要なの。
又、不必要なものはひとつもないのね、他の全てもどんなものも絶対必要なの。
同じ働きは、どの天照大御神さまも同じことは絶対にしていない。全部違う働きになっている。そこがまた違う。
本当の一大調和の姿を取るの。
だからね五感や六感、思いの世界の感覚と、本当の神さまの世界とは比較にも何もならないのよ。
たとえば、本当に濃い霧が立ち込めて、何も見えない状態の世界と、霧が晴れて全部見通せる世界と、比較したらよくわかるよね。
霧も無い、晴れて無限の彼方まで見通せる世界と、本当に濃い霧が立ち込めて一センチ先も見えない状態の世界と比べたら、よくわかる。
思いの世界は何も見えていないの。本当に思いや我が消えて、本心の立場に戻ったと言っても、まだ、表面の浅い無限の世界なのね。
とても無限の彼方までは見えないし、次元が変わったら、奥深い姿はもっと見えない。次元に応じて全部違う世界があるのね。
虚の世界がそうだけど、一つの次元で、無限の宇宙があっても、違う次元の虚の世界がまた、無限にあるの。
更に上があって、上があってと、無限の段階の次元の宇宙がある。虚の世界ですらそう。
それは、全部本当の神さまの世界の残像の一部が映っているから。神さまの世界がもっとすごい姿をとっているから、その残像ですら、奥深いのよね。
全部が全部無限の段階に分かれている。宇宙の星の動きもほとんど全部が左旋回なのね。
Q どうしたらこの真(まこと)の神さまの働きにもっと気づき、実観を深めていくことが出来るのでしょうか?又、今回なぜ、神さまが印可書を降ろしてくださったのでしょうか?
本当に神さまの働きを、本当の意味で実感する、感覚的に実感する、それだけでも、大変なことなのね。
本当の実観は、思いを全部消さないとダメ。思いや我があったら、ものすごく邪魔をする。正しく何も感じとれない。
五感六感の感覚は、思いの感覚。絶対それを消しきらないと本物にはならない。全ての思い、我を消してもらって、初めて、
本当の実感が、感覚的な実感が生まれてくるの。でもねその感覚的な実感では浅いの。表面だけなのね。
本当の心の目で深く見る実観の方が、正しい実観なの。
そのためには無限の洞察力、無限の推理力、無限の達観力が必要なの。それでないと、奥深いものが観じ取れない。実観出来ないのよね。
では、いかにみんな思いにとらわれているか?。みんな思いを大きく拡大して見すぎているよね。
今回なぜ、神さまが印可書を降ろしてくるか?。
真(まこと)の神さまの世界が、どれだけ大きいか素晴らしいか!。ここへ、心を向けさせるためなの。
思いの世界は、あるように見ているけど、無いんだと教える為に降ろされたののね。
だから、思いの世界、虚の世界は、全く無い、ゼロ以下っていう位に見ないとダメ・・・・・。
いい?、みんな虚の世界を拡大して見すぎているのよ。真(まこと)の神さまの世界から見たら、虚の世界は無いんよ。思いの残像が、あるように感じているかだけなの。
思いの霧が立ち込めていると言うけれどもね、本当は無いんよ。
神さまの世界を見る人にとっては、残像の世界なんて本当は無いんよ。
本物を見ていたら、残像なんて起こらない。本物を見るのを忘れたら残像があるように思う。
どこに残像があるか、本当は無いのにね。
印可書はこの違いを判らせようとしてくる。
真祈り(まいのり)の伝授は、真(まこと)の神さまの世界だけなんだっていう実観を与えるために印可書を通してするの。
そのために想いという(自分と他人を分け隔てる妄想という)本心の実感を邪魔する思いを、スーッと消してあげようと神さまが働くんよ。
だから思いさえ消してもらえたら、本心の実観(じっかん)が、霧が晴れるように出てくるのね。
○十界について
Q 真(まこと)の真(まこと)の十界と、真(まこと)の十界と、十界と、ミニ十界、それぞれの違いを教えてください。
また、「降り立つ姿」で十界のそれぞれに波を合わせて同じ姿をとる、とは、どういうことですか?
特に真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を読み続けるということは本当に何の為にしているのですか?
また、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱える効果はどれほどすごいのですか?
そして、何故?真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱える人が必要になるのですか?
今までは虚の世界を分けて十界と言ったけど、これは、思いの世界の話なのね。
思いの心を相手に説いている。なぜなら、すべてをバラバラに見ているから。
十界と分けて、階級をつけている。差別している。これは思いの心に対する説明なの。
単なる十界と、ミニ十界がある。 これは思いの心に対する説明なの。
真(まこと)の十界と、真(まこと)の真(まこと)の十界は、本心の心に対する説明になるの。
さらに今回は、本心に対する説明を加えている。
真(まこと)の十界と、真(まこと)の真(まこと)の十界とは何か?。
真(まこと)の真(まこと)の十界というのは、真(まこと)の神さまが思いの世界をスーッと消そうとして、消すために降り立つ姿なのね。
では、どういう消し方をするか?。
真(まこと)の神さまの働きは、常に、半分背負う。半分背負って消す。そしたら波が合うの。
一番上から、一番下まで、半分背負ったら、同じ姿をとることができるの。
そういう波の合わせ方よね。なんでも半分取って波を合わせるの。
だから仏界も、菩薩界も半分取って、同じ波。地獄も餓飢道も同じ。半分取って同じ波だから、同じ姿を持つの。
地獄へ降りて半分取っても、自分も地獄の姿をとる。それで半分取って消してしまうの。
一瞬同じ姿をとって消すんよ。
これがね、真(まこと)の神さまの真(まこと)の真(まこと)の十界の姿なの。
一瞬一瞬思いを消し続ける姿なの。
真(まこと)の十界は、思いを消してもらう方。バラバラに見ていたらダメ。全体を一つに見るの。十界全体を自分と見るのね。
真(まこと)の神さまが、自分の思いを全部、十界の全ての思いを全部消しきろうとしてくれていると受けるのよ。
そう言う意味でも本心の自分は常に自分が全て総責任者なの。
いちいち切り離してバラバラに見ない。人の分、自分のものと分けない。総責任者は全部自分のものとして受けるのよ。
そしたら、その思い全部、虚の世界全部、十界全部が自分なのね。
自分を助け続けてもらう姿なのね。
だからね半分ずつ消し続けてもらう姿そのままが、自分を助け続けてもらっている姿になるの。
だからどんな地獄絵図を見ても、この地獄絵図を半分消してもらったと受ければいいのね。
苦しいつらいって文句を言わずにね・・・・。
本当はネ、半分消すって大変なことなのよ。半分消してもらえるだけでも大きな大きな大きい助けなのね。
本来どの十界の姿も、全部半分消してもらっている姿なの。どんなにつらくて苦しいて痛くて大変でも無限に無限に有り難い姿なのよ。
どれだけたくさんの思いを、マイナスを消してもらっているかわからないんよ。
それはね、言葉ではとても表現できないの。
そしてね、それを受ける側で、全て自分の総責任者の立場で受けて、プラスに見て喜ぶ生き方がね。これが真(まこと)の十界の姿なの。
だから、どんなにつらくて苦しい痛い熱い寒いときでも、消していただいて喜んでありがとうございますと感謝しているだけで本当はいいんよね。
そしたらね、今まで十界って、バラバラに説いて自分はどの心境かって言っていたのが、いかに捉われた見方かわかるでしょ?。
まず、比較している、差別しているじゃない?、小さい自分を掴んでいるじゃない?。どの菩薩界にいようが仏界にいようが、小さい自分になってしまうじゃない?。
本心から見たら、そういうことがいかに小さいか?。
いかに過去を掴んでしまっているか?。
でもねその十界でも大きいのよ。まだまださらに小さい小さいミニ十界が生まれてくるの。
思いの心を生きていると、どうしても視野が狭くなるのね。
どんどんどんどんさらに小さく小さく掴み続けるのね。
だから、本当の十界、真(まこと)の十界ではなく、普通の単なる十界とミニ十界との違い、これもものすごい大きい差があるのよ。
大きい十界の仏、仏界、菩薩界は、どんな姿をとっているか?。
仏界の仏さまは、宇宙が自分と言う。荘厳極まりない姿をとるのね。
本当の慈愛の塊のような姿をとられるの。
菩薩界の菩薩はどんな姿か。本当の観音様とか、普賢菩薩とか、勢至菩薩とか、色んな最高の菩薩の姿をとる。神通力がある。変身自在なのね。
それでもまだ小さい。単なる十界。真(まこと)の十界でも真(まこと)の真(まこと)の十界でもないのよ。そこが違う。
みんなこの、真(まこと)の真(まこと)の本当のものを、真(まこと)の真(まこと)の十界を生きないといけない。全体を自分として受けないとダメ・・・・・。
それが本心の生き方。
本心でないと、真(まこと)の神さまはそこへ降り立たない。
真祈り(まいのり)の伝授なんて受けられない。
真祈り(まいのり)の伝授は本心でないと受けられない。
思いの心が受けるのではない。
だから、修行してではない。反対。修行したらダメ。
修行して上がっていこうと言うのは、思いの心なのよ。
本心の自分は、
いつも新たに受ける心。
いつも新たな自分。
いつも新たな自分に真(まこと)の神さまに降り立ってもらう自分。
でも、大きい十界を生きて、本当の菩薩界、仏界に上がったら大したもの。
声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)でも大したもの。
小さいなりに、本当のプラス思考で、一切マイナスを認めない。(どんなにつらくて苦しいときも、ああ、神さまが一番良いようにされると喜べる心)
マイナスの言葉も使わないし、マイナスを相手にしない。
見ざる聞かざる言わざるを徹底出来ている。
本当のプラス思考、全てをプラスに解釈できる、翻訳し直せる、これが大きい意味の声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の心境の人。
菩薩界、仏界に上がったら本当の神通力がある。
いろんな奇蹟が自由自在に起こせる。そこまで行けたら、まだまし。
でもまだ、みんなそこまで行ってない。
だから、ミニ十界にいて錯覚している。小さく落とし穴にはまった姿。
思いの心を生きたら、我の心を生きたら、ミニ十界にはまり込む。
これは、自分で作った落とし穴なのよ。
いい?最初に落とし穴があるのではないんよ。
自分が落とし穴を作って、そこにはまりんでしまうんよ。
現状に不満をいうことによって落とし穴ができるんよ
真(まこと)の神さまは全知全能でなんでもお見通しだから
今が一番良いようにされているのに文句を言って自分で自分のはまりこむ穴を創って入ってしまうんよ。
そうなったら、井の中の蛙と同じで、狭い範囲しか見ていないのね。
だから、有限の世界をあると見ているのは、まだミニ十界。
無限の彼方を見ることが出来て、大きい十界になる。
でも、マイナスをちょっとでも認めたら、偽物になる。
もう全部、プラスにプラスにだけ見たら、真(まこと)の十界になり、真(まこと)の真(まこと)の十界になる。
それでもまだ、思いを相手にしている間は、虚の世界になる。十界になる。
思いを相手にしない真(まこと)の神さまだけを相手にするのが、本物の世界になる。
だから、いかに真祈り(まいのり)が、真(まこと)の神さまだけを言葉にしているか。
真祈りすることによって、虚の世界を言葉にしないか。
真(まこと)のプラスの言葉だけっていうのは、本当に真(まこと)の神さまだけを言葉にするのね。
だから、真祈り(まいのり)は、真(まこと)の神さまを与え続けて、真(まこと)の神さまで埋め尽くして、真(まこと)の神さまだけになっているっていう、断定の祈りなのよ。
それ以外したら、真祈り(まいのり)でなくなってしまう。真祈り(まいのり)でないと、真(まこと)の神さまはそこに降り立たない。また思いを積み続ける。
思いを消すのではなく反対になってしまう。だから、真(まこと)の神さまだけを言葉にする。
特に、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を読み続けるということは本当に何の為にしているか?。
真(まこと)の神さまが降り立つため。
印可書を読むことによって波を合わせて、波が合っているから降りてくれる。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を読み続けることによって真(まこと)の神さまに波が合っているから、真(まこと)の神さまだけを表現する言葉になっているから、言葉があって、波が合って、真(まこと)の神さまが降り立ちやすいのね。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を読み続けるのは、愛の心で真(まこと)の神さまに降り立ってもらおうと思ってしている。だから、真(まこと)の神さまがスーッと降りる。
必ず、一人一人に、無色透明の光になって、輝きになって、降り立ってくれる。
そしたら、何が起こるか。
通り抜けたところの思いがスーッと消える。
消してもらえる。思いを消して、我(が)を消してもらえる。
思いが減って、我(が)が減ったらどうなるか。真(まこと)の神さまのことがわかり始める。
今までは、虚の世界か真実の世界かの比重が違っていた。
どっちを大きく見るか?。
思いを消してもらうにつれて、だんだんと神さまの世界が本物と分かり始める。
今までは、虚の世界が本物と思っていた。ところが、神さまの世界が本物と分かり始める。
だんだんと、思いが消えるにつれて、神さまの世界だけなんだってわかってくる。実感が与えてもらえる。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱えるのはただ唱えているだけというそんな浅いものではない。
思いを消し続けてもらう姿。
自分だけのではない、自分も含めて、縁者や大勢の人の思いを消してもらう。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱えている人の思いだけを消しているのとも違う。
神さまはみんなの思いを消そうとしている。真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱えている人のだけを消そうとはしていない。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱える人が一番大きく消してもらうことは確かだけど、大きく全体の思いを減らそうとして、消そうとしている。
真(まこと)の神さまは、人の自由意志を絶対尊重して働く、動くのね。
だから、本当は、思いを消してほしくない人つまり現実をあると思っている人には、近寄れない。
自由意志を無視して、おせっかいに強制的には出来ない。
だから、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱える人が必要になる。
思いを消してほしい、みんなを幸せに変えてほしいっていう、この願いを持って動く人が、神さまに実際に降りてもらえる働きかけができる姿をとる。
だから、真祈り(まいのり)を祈る人、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱える人が必要になる。神さまはそこへしか、実際降りられない。
降りたら、大きく思いを消せる。その人の思いも縁者の思いも、みんなに助けが行くように、みんなの思いを消してほしいっていう願いも、神さまが受けて働ける。
だから、この真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続ける威力は凄い。台風が来ていても、台風が消えたり逸れたりしてくれる。真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続ける威力の方が遥かに大きいから。
台風でも思いを浄めてくれるけど、印可書の思いを大きく消す力が桁外れに大きい。真(まこと)の神さまが降りたらそう。
それでだんだんと真祈り(まいのり)を祈れる本心の自分へ一人一人戻してもらう。それでみんなの心に真祈り(まいのり)を伝授するための印可書が降りてくる。
それでなかったら降りない。必要ないから。みんなが、真祈り(まいのり)を祈れるようにだんだんと変わってきている。
本当は、これが大奇蹟というより一大奇蹟(いちだいきせき)。
本当はね、何億年、どんな修行しても思いがなかなか消えないのよ。
何の修行もなしに、神さまのお手伝い、神さまに使ってもらうだけで、大きく思いが消える。何億年かかっても消えないものが、さっと消える。
それで、本心の自分に戻って、真祈り(まいのり)を祈れるように変えてくる。これが本当の大奇蹟。
これもみんなが本当の意味で、支え合いの心を起こさないとダメ。支え合いというのは、自分が総責任者にならないと出来ない。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けるのも、お手伝いのつもりでただ読んだらいいやろ、ではダメ。自分が総責任者の立場に立って、新たなる下座に立って、たった一人でも真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けるさせていただくという気持ちになって、
初めて全体の周りの神さまの支えがよくわかる。
真(まこと)の神さまの支えが、全体の支えが、みんなの支えが、もう本当に涙が流れるくらい嬉しくなって実感(実観)しないとダメ。これが支え合う姿。
その為に、自分が総責任者にならないとダメ。自分が総責任者になって一人でもしなければならないとなったら、
どれだけ支えが大きいか、ものすごい支えを与えてもらっているかを実感(実観)する。
その実感(実観)が真(まこと)の神さまの支えを受け取る自分になる。
だから、自分が何かして、ではない。
神さまの支えがいかに大きいかを感(観)じ取ること。どれだけ真(まこと)の神さまの支えが、無限に無限に大きいか。
これを感(観→かん)じる自分が、本心の自分になって、真祈り(まいのり)を祈れる自分になる。 神さまの支(ささ)えがわからなかったら、何もわからない。
だから、周りの人が自分を支(ささ)えてくれているという受け方が出来ないとだめ。
だから自分が総責任者になって、みんなに支えてもらっていると、いやと言うほど味わわないとダメ。
それが根本にあって、真(まこと)の神さまの支えが実感(実観)できるようになってくる。
もし、自分が300万回一人で唱え続けなければならないとなったら、大変。本当に神さまの助けを受けて悟り開くために、絶対必要となったら、
どんな事があっても自分一人でしなければならない。でも一人でしたのでは、支え合いになっていないから、
本当の真(まこと)の神さまの支えと言っても、実感(実観→じっかん)するまでにはいかない。小さい。
それよりも、みんなに支えてもらって300万回真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けることが出来る神さまの御手伝いが出来ると言う方が、神さまの支えが大きく実感(実観)できる。
1人でするよりも、みんなで支えてもらってする方が、神さまの支え、助けが大きい。そのために、総責任者になる人を、1人でも増やしたい。
一部の人で終わったら、本当は良くない。総責任者になる人を、1人でも増やしてあげたい。その人が真(まこと)の神さまの助けを、大きく受ける。
思いを大きく消してもらえる。真祈り(まいのり)を祈れるように早くなる。
そしたら冊子を作るのでも、護摩木を作るのでも、お金でもそう。1人の人がお金を持っていて全部したら、それで終わり、楽だろう、というのは間違い。
1人の人が総責任者になってもダメ。少なくても一万人位が、総責任者の気持ちになって、少しづつ自分がお金を出して、
それで残り全部に助けてもらって、支えてもらってと言う気持ちになった方がいい。そうでないと、本当の支えの姿の中へ降り立つ神さまは、降り立ってくれない。
真(まこと)の神さまが降り立つのは、必ず支え合いの中にしか降りない。神さまの世界は、本当の支え合い。
だから、常に支え合いを目指す。自分一人で何でもしたらいいのとは違う。反対。みんなに助けてもらってしないとダメ。
みんなに支えてもらって、一つの事を成し遂げた時に、神さまの助けを大きく受ける。
みんなの支えを無視して、神さまと直接取引して、自分一人神さまの助けを大きく受けた、なんてことは絶対にありえない。
みんなの支えを受けられる自分が、真(まこと)の神さまの支えを大きく受ける。ここを間違えたら損をする。
だから個人プレーで、どれだけ能力あっても、しても意味がない。真(まこと)の神さまは降り立たない。思いを、我(が)を積むだけ。
だからみんなに支えてもらって、みんなに助けてもらってというのが、一番大事。そしたら本心の自分に早く戻る。思いも大きく消してもらえる。
今日は特別の神さまからのプレゼントが降りた日です。
皆さん、真祈り(まいのり)の秘奥義(ひおうぎ)を伝授(でんじゅ)するための印可書(いんかしょ)を受け取られたと思いますけれども、これは神さまの大きいプレゼントです。
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平成26年8月2日ありがとうございます護摩でのおはなし
真(まこと)の神さまの世界は、一大循環の大調和の世界、一切のマイナスのない世界なんです。
ところが思いを溜め続けると、思いの霧が立ち込めて、本当の姿が見えなくなってしまうんですね。
それでマイナスがあるかのように錯覚する世界が虚の世界なんです。
まずこの虚の世界がなぜ生まれたのか?。
真(まこと)の神さま(真(まこと)の本心の自分)の働きは全てに対して、本当に必要なものを的確に与え尽す愛の働きだけなの。
それは、ただただ 大きく大きく、愛を与え続けるだけなの。
一番大きく与える立場から、本当の一点にまで、与え尽してくるのね。
ところが、無限大から無限小に降りる時に、一番小さいところに来ると、与え方が小さくなるんです。
大きく与える立場に立っている時は良かったけど、同じ神さまと共に与え続けていても、下へ降りるほど、小さくなるほど、与え続けるのを忘れてしまうんです。
その時に、残像を掴んでしまう。
本当はネ、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分、本当の本心の自分は、真(まこと)の神さまと同じように与え続ける自分。それも、大きく大きく与え続ける自分なんです。
この本当の自分の生き方を一瞬でも忘れた時に、過去の残像の中にはまり込んでしまうのね。
そしたら過去の残像っていうはまり込んでしまった、思いの世界が本当にあるのか?、本当は無い!。与え続けるのを忘れた一瞬の姿だけなの。
虚の世界は、本当は無い。
マイナスの世界は、本当は一切無い。
本当は、思いの霧も無いの。真(まこと)の神さまを与え続けることを忘れただけの話。
いいですか?本当に無いものをあるかのように錯覚するのが、虚。嘘なの。与え続けることを忘れた自分は、思いの奴隷になってしまう。
思いの霧の中にどっぷりつかってしまったような錯覚を起こす。それでこの虚の世界があるように思いこんでしまう。
マイナスが一杯の、地獄絵図までもがあるように錯覚するの。
でもね本心の自分に戻ったら、無かったことに気付くの。
元々どこにも虚の世界は無い。本当は思いも無い。真(まこと)の神さまの本当の輝きだけがあるだけ。
今回、神さまは、これを本当の意味でみんなにわからせようとしてくるの。
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真祈り(まいのり)を伝授する、この真祈り(まいのり)というのは、真(まこと)の神さまの祈り、真(まこと)の神さまの働き。本当に必要なものを的確に与え尽す、愛の働きそのもの。
だから真(まこと)の神さまが降り立っている姿なの。今ここに真(まこと)の神さまだけというこの見方が、真祈り(まいのり)。
だから常に真(まこと)の神さまに降り立ってもらうこと、これが真祈り(まいのり)を祈る本心の自分に戻ることなの。
そのために何が必要か。
いったん思いがある、虚があると錯覚した自分がどうしたら元に戻れるか。
それはね、もう一度、本来の与え続ける自分に戻ればいいの。
これが恩返しなの。(恩返しとは本来の与え続ける本心の自分に戻ること)
一番末端に降り立った時に、与えるのを忘れるのね。結局恩返しを忘れたことになってしまうの。
恩返しを忘れなかったら、循環が止まらない。
掴んで、残像、思いを溜め続けることは絶対にない。
恩返しさえ忘れなかったらよかった。(恩返しとは本来の与え続ける本心の自分に戻ること)
もう一回恩返しを思い出して、実行する。
虚の世界、残像の世界でも、真(まこと)の神さまの素晴らしさが一部映って、どれだけ霧が立ち込めても、明るさ、光は、届いているのね。
プラスがないのではない。本当の漆黒の闇のような真っ暗闇ではない。どれだけ霧が深く立ち込めてもそうよね。
本当に身動き(みうごき)一つ出来ない、手枷足枷(てかせあしかせ)で、本当にがんじ絡(がら)めに縛られたような、桎梏(しっこく)の闇ではないんよね。
だからプラスを数え始めたら、無限にあるの。
虚の世界に堕ちているから、何も与えてもらってないのではないの。
虚の世界でも、無限の無限のプラスが、一杯降り注いでいる。そのプラスを数えあげたら、無限に一杯あるの。
そうしたら恩返しの心を起こせるはずよね。神さまは無償で全てを与え尽してくれているの。
本当に必要なものは、虚の世界でも、この世でも、与え続けてくれている。
では、何が必要か?。
太陽が必要だったら、太陽を与えてくれている。
空気が必要だったら、空気を、水が必要だったら水を、与えてくれている。
本当に必要なものは、的確に循環させて与え続けてくれている。
これは真(まこと)の神さまの、真実の世界の、残像でも映しでも、ちゃんとそこに素晴らしいものが一杯備わっているのよ。
だからどれだけ神さまからのプレゼントが降り注いでいるか、これに気付くこと。プラスを数え上げること。
そしたら恩返しの気持ちが自然に起こる。万分の一でも、億分の一でもいい、恩返しの心を起こしたら、循環が始まるの。
恩返しを忘れたら循環を止めてしまう。それが一番の大きい問題になる。溜まっていくというのは、循環を止めたから。
ちょっと恩返しの気持ちを起こすだけで、循環が始まる。どんなマイナスでも、運命が開ける。本当に必要なものが、次から次へと、奇蹟的に循環してくる。
まず第一番目は、恩返しの心を生きること。
次に、神さまのお手伝いに生きる。神さまに使ってもらうこと。神さまに降り立ってもらうこと。
そのためには、自分の命を、この命をどうか神さまの御用にお使いください、とひたすら祈ること。願うこと。
真(まこと)の神さまは人の自由を絶対に縛ってこない。強制的に、奴隷のようには扱ってこない。人の自由意志を最高に尊重して、使ってくれる。
だからこの命を神さまの御用にどうかお使いください、とひたすら真剣に祈り続けること。願い続けること。そしたら真(まこと)の神さまが自分の中に降り立って下さる。
そしたらどうなるか。
真(まこと)の神さまは無色透明の輝き。この輝きという言葉は、光と光源の進軍。雄々しく突き進む、軍隊の突き進む姿と同じ。(軍隊の進軍とは、一分間に約300歩進むペースで、50分間に6キロメートル歩く、これはかなり、早足で、今風に言えば駆け足に近い→編者注)
天照大御神様の入れ子構造の大きい光源が、無限のスピードで進軍する。光が大きく流れる。本当の無色透明の輝きとなって降り注ぐ。
そしたらどんな思いでも、どんな我でも、一瞬に消える。どれだけ濃い霧が立ち込めても、スッと消える。
そ したらマイナスが無かったと、すぐに気付く。視界がさっと開ける。虚の世界がある、マイナスがあるというのは、本当の錯覚だったと気付くよね。
霧が晴れたら、プラスだけと、よくわかるよね。
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だから思いをどれだけ消してもらえるか。思いを消す力は、真(まこと)の神さまにしかないの。
虚の世界のどんな神仏も、勝手に思いを消すわけにはいかないの。
虚の世界の姿ではダメ。真(まこと)の神さまが降り立ってくれたら、虚の世界の思いが消える。
そのために、この命を神さまの御用にお使いくださいと投げ出す。そして神さまが降り立って自分の中を通り抜けてくれる。
そしたら過去の無限の思いも我もスッと消える。だから本気になって、この命を投げ出せば、すぐに変わる。
ところが思いが一杯溜まっていると、投げ出せない。そしたらどうしたらいいか。
思いを消して欲しいという人、本心の自分に戻りたいという人が、支え合って相乗効果を起こすと、神さまが降り立てる。
この護摩焚きもそう。大きい相乗効果を起こすために、護摩焚きを行っている。一人一人のお祈りだけでは、なかなかまだ真祈り(まいのり)は祈れない。
この命を神さまの御用にお使いくださいと、いつもひたすら祈り続けることもできない。
それを大きくカバーしてもらうために、お祈りの相乗効果を起こすようにしている。だから一人で祈るお祈りでは、力がない。
何億年、自分一人で祈り続けても、たいしたことは無い。だからこの百年、祈り続けても、大きい変化は起こらない。本当に、思いを全部消せるか、消せない。
この真祈り(まいのり)と言うのは、言葉だけではない。本当に真(まこと)の神さまが降り立ってくれないと、真祈り(まいのり)にならない。
そしたら、真祈り(まいのり)は、神さまの降り立つ姿、支える姿だから、普通のお祈りを真祈り(まいのり)に変えるためには、一日24時間祈り言葉を唱え続ける、
この自分を大きく支えてくれる姿が出てこないとダメ。これが24時間+αの祈り。+αがどれだけ加わるか。これによって決まる。
この+αとは何か。自分は24時間ひたすら祈り続ける、これを目指せる。でも小さい。
まだ真(まこと)の神さまを、呼んで降り立ってもらうところまではいかない。そしたらこの+αがどれだけ大きく加わるかによって決まる。
まず肉体人間を背後で守護霊さん、守護神さん、守護の神霊が大勢護っている。御先祖様も護ってくれている。
救済の神々さまも一杯護ってくれている。その支えを受けてお祈りをしている自分になるかどうか。自分一人で祈るのでは、支えを受けていない。
背後の全ての護りを本当の支えとして受け取らないとダメ。しっかりと認めないと。守護霊さんだけの護りでもそう。
守護霊さんを無視していたら、助けを受けられない。いつも守護霊さんありがとうございますと感謝する人、認めている人は、大きく助けてもらえる。
だから背後から大きく助けてくれている、支えてくれている全てに対して、感謝し続けないとダメ。
そしたら虚の世界でも、+αが大きく増えてくる。そしたらその+αが真(まこと)の神さまを呼んでくれる。
真(まこと)の神さまの働きが本当の意味で加わったものが、本当の+α。この時のお祈りが真祈り(まいのり)に変わる。真(まこと)の神さまが降り立つ祈り。
そしたら思いは絶対出ない。片っ端から消していける。そしたら思いの霧はすぐに晴れる。今ここが一大循環の神さまの世界とわかる、実観する。
だから真剣さが要る。24時間祈り続ける真剣さが要る。それにプラスして、本当に支えてくれているというこの力をしっかりと認めること。
そしたら、真祈り(まいのり)の練習も本物になる。
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次に護摩焚きも同じ。真祈り(まいのり)を沢山集めて総結集して、相乗効果を起こす。そのための、護摩焚き。
その時に、自分がお客さんとして小さく入ったらダメ。総責任者になること。護摩焚きの総責任者。 全ての祈りを総結集する、総責任者になること。
元々本心の自分は、一切の責任を自己に帰す総責任者。なぜ総責任者が大事か。みんなの支えが良くわかるの。
自分一人の時は、周りの支えが何もわからない。自分が本当に総責任者になった時は、自分一人では何もできない。
でも周りの全てに助けられて、一つのことが出来るようになる。どれだけ助けてもらっているか、支えてもらっているか、これに気付く。
総責任者の立場に立った時にそうなる。浅い意味でも、深い意味でもそう。そしたら真(まこと)の神さまの本当の支えが、本当の意味で降り注ぐのに気付く。
そしたら真祈り(まいのり)に変わる。常に真(まこと)の神さまが自分の中に降り立つ。
今、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けることをしてもらっているのは何のためか。真(まこと)の神さまに真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けるところに降り立ってもらって、思いを大きく消してもらうため。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書は、真(まこと)の神さまと波の合う、真(まこと)のプラスの言葉だけを、一杯にしている。
だから真(まこと)の神さまとピタッと波が合うから、愛の心で唱えれば真(まこと)の神さまが必ずそこへ降り立って下さる。約束事になっている。
一回真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱えるごとに、真(まこと)の神さまの無色透明の輝きが稲妻のように走るの。
そしたら真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱える人の思いも、大きく消してもらうのはもちろん、縁者も、関係のない人まで、思いを消し続けてもらえている。
全体の思いが、霧が晴れていく。これも真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続ける総責任者になるほど、真(まこと)の神さまが降り立ちやすい。それでみんなの運動として行っている。
一人ひとりではダメなの。みんなで力を合わせないとダメ。支え合いにならないと、真(まこと)の神さまの働きは小さくしか降りない。
支え合いの姿をとった時に、本当の意味で、大きく真(まこと)の神さまが降り立って下さる。そしたらどれだけ思いが消えるか、大奇跡が起こるか。
想像を超えている。今の地球だけを見ても、解決不可能な問題が、山積み。どうしたら解決するか、考えたら考えるだけ、絶望感に陥る。
どの問題一つ取ってもそう。でもこの思いを消してもらったら、全部消えてしまう。思いを全部消してもらったら、一切の問題が全て消えて無くなる。
解決不可能と見える全ての問題が瞬間に消えるの。そのために、思いを消してもらう運動を起こしている。
真(まこと)の神さまに降り立ってもらうことだけを、唯一無二の目的にして、みんなで支え合って運動をしている。
この支えるというのは、一番力が要る。縁の下の力持ちって言う。下から全部を支えるって一番力が必要なの。
真(まこと)の神さまからの助けは、必要なだけが降りてくる。自分が上の方にいたら、必要な力ってほとんど要らない。
一番下から、全体を支えようとすると、大きい力が必要になる。無限の力が必要になる。そしたら真(まこと)の神さまの支えが出てくる。
必ず自分の中に真(まこと)の神さまが降り立って助けてくれる。これを自分の自由意志で選ばないとダメなの。待っていても降りない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++4
自分を一番責任の重い立場へ置くこと。今の自分では何もできない。
でも全体を支えたい、みんなを支えたい、この立場に置けば、必ず真(まこと)の神さまが力を添えて出てくる。
でも自分が自由意志で選ばなかったら神さまは永遠に降りない。これは本心の自分を生きようとしていないとダメなの。思いの自分ではダメ。
本心の自分を生きる、総責任者の自分を生きる、ここに真(まこと)の神さまは、無限の無限の後押し、応援をして下さる。
そういう人が沢山になれば、本当の支え合いの姿をとるの。一番真(まこと)の神さまが降り立ちやすい。常に降り立って思いを消せる。
一人の人が、本当に真祈り(まいのり)を祈れて、そこに真(まこと)の神さまが降り立って下さる。どれだけ大きい力かわからない。無限の力が降りる。
でも真祈り(まいのり)でなかったら、何万人祈ろうが、思いを消せない。消す力がない。浅い祈りだったら、一万人集まっても力がない。
思いを消すわけにはいかない。いくらプラスの言葉を使っても、プラスの思いを溜めるだけ。思いが増え続ける。
いくら白いきれいな霧だ、煙だと言ってもダメ。厚くなったら黒雲に変化する。
だから真祈り(まいのり)を本当に祈れるようにならないとダメ。だから数ではなく、質が大事。真(まこと)の神さまに降り立ってもらえる祈りが必要なの。
だから支え合いが必要なの。絶対支え合いがないと神さまは降りない。自分が表に立って、上に立つようでは、絶対降りない。
本当の支え合いの中にだけ、真(まこと)の神さまは降り立って下さる。この支え合いがどれだけ大勢の人の輪になっていくか。
自分一人くらい抜けていいのではない。自分一人だけでも、という総責任者の気持ちが必要。今の自分に何の力が無くてもいい。
神さまの御用に使って欲しい、この気持ちが大事。神さまの願いの方が大きい。みんなを本当の意味で幸せにしたい。
全ての思いを消してあげたい。本当の本心の自分に戻って、神さまと共に歩める、愛の深い自分に変えてあげたい。
人の願いよりも、神さまの願いの方が強烈。助け続けようと待ち構えている。ただ人の自由意志が大事。
人の自由意志の願いを待っている。だから総責任者の自覚を持ってほしい、その自覚を深めてほしい。
そうしたら、常に真(まこと)の神さまは喜んで飛び出してきて、降り立てる。
それが本当の意味の、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分という、本心の輝いた自分に変わること。真祈り(まいのり)の祈れる自分に変化すること。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++5
神さまの御心というのは、一瞬一瞬大きく変化する。過去をつかんでいないから。今必要なものを、一瞬一瞬新たに与え続けていく。
思いの心は過去に縛られている。予定が決まったら、予定に縛られる。でも神さまの方はそうではない。今必要なものを与え続けてくる、与えようとする。
一瞬に右に行け、左に行けと変化する。常に真(まこと)の神さまに使って欲しいという気持ちになっていたら、瞬間々々の変化について行ける。
この護摩焚きの時間の始まりも同じ。必要だったら早くなる。予定は関係がない。神さまは一番必要なものを与えて来ようとするから。
昼から始まると言っても、朝から始まるかもしれない。本当に祈っている人だったら、気付くはず。 前もって気づかないと、我が強い。自分が出ている。
神さまの方は、先に先に本当に必要なことをわからせてくる。
本当は途中で何が起こるかわからない。途中のマイナスを邪魔するものを神さまは全部排除して消しながら、導いている、護っている。
それなのに、自分が我を出して遅れていたらダメ。台風が、西北の方へ行っている。
その影響で、あちこちで大雨が降っている、そしたらその雨の影響を受けるようだったらダメ。先を読んでいない。
神さまの心は、全部を見通して、先に先に導いているはず。それに即座に対応をしていたら、一切のマイナスは起こらない。
必要だったら、雨を止ませるくらい、神さまは何でもできる。でも、我を出している人に、必要なものは無い。
本心の自分をしっかり生きようとしている人に、必要なものはちゃんと与えてくれる。全てスムーズにスッと動くように助けてくれる。
自分が本心をしっかり生きようとしているかどうかで決まる。本当に神さまの御用に使って欲しい、神さまのお手伝いに生きたい、
本当の絶対奉仕に生きたいという気持ちが必要。自分が神さまのために何かしているというのは邪魔をしているだけ。
我が出ていたら全部邪魔になる。絶対奉仕というのは、自分が消えないとダメ。神さまだけの働きに変わらないと絶対奉仕にならない。
だから恩返しに生きて、絶対奉仕に生きて、神さまだけを前面に出さないといけない。
恩返しでも、恩返しの恩は、因(もと)の心と書く。一番元の心、根源の心。恩返しは、真(まこと)の神さままで届かなければ、恩返しとは言わない。
本当の恩返しは、真(まこと)の神さままで届けた時に、恩返しになる。途中で止まったものは、全部恩返しではない。
例えば、宅急便で誰かが何かを送ってくれた。本当の送り主にまで、感謝の気持ちを届けないとダメ。
宅急便の運転手さんにありがとうございますと言っても、届いていない。途中の段階ではダメなの。
一番おおもとまで届けて、本当の恩返し。みんな浅く見ていると間違う。この世の人に、色々と助けてもらった、その恩返し。
これは恩返しにはならない。真(まこと)の神さまを完全に無視している。どんな恩返しも、真(まこと)の神さまへ届けないとダメ。
そしたら、真(まこと)の恩返し。本当の意味の正しい循環が始まる、起こる。絶対奉仕もそう。自分が、人がしている奉仕は、絶対奉仕にならない。
神さまに使ってもらう、神さまが自分を通して働くだけ、100%神さまの働きだけが、絶対奉仕。
この時に、真(まこと)の神さまが本当に降り立って下さるから、思いも消える、我も消える、プラスだけになる。
もう一つは全託。なぜ全託が必要か。神さまは全て先を見通せる。思いの心では、絶対先が見えない、読めない。
そしたら途中で、方向を間違う。神さまの導きの方が先を読んでいるから、どこを通ったら最短コースかわかる。
でも人の方は、先が見えないだけに順番がわからない。迷路のような通路を通り抜けようと思ったら、全体を上から見通して、
迷路が全部わかる人でないと出来ない。うろうろと同じところを回るかもしれない。今自分が右に行って正しいと思う。
神さまの方は、自由自在に一番最短コースを選んで導こうとする。でも、思いが、我が勝っていると、それに従えなくなる。
マイナスに見える方へは行かない。そこから逃げようとする。表面がマイナスに見える方が最短コースかもしれない。
そこをすり抜けたら、ゴールに早く近づく。プラスの方へ行ったら、ゴールからは遥かに遠ざかっているだけかもしれない。
だから遠ざかったらますますマイナスの世界に入っていく。
全託というのは、神さまの本当の愛を信じないとダメ。神さまが絶対の愛、完璧な智恵で護り、導いてくださっている。
何から何まで全て、一から無限まで全て、100%全て。本当の神さまの愛の働きだけがあるんだって、信じないとダメ。
これを本当の意味で信じ切ったら全託。何が起こっても、心を動かさない。プラスだけ、プラスだけに。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++6
今日のプリントの中で、十界という、虚の世界を、大きく分けて十の階層、十界に分けている。
その十界を、真(まこと)の真(まこと)の十界と、真(まこと)の十界と、単なる十界と、ミニ十界と4つに分けている。
ここで本心の自分の生きる生き方としては、この十界をどうとらえるか。バラバラに見ているのは、思いの見方。
この十界全体を、自分そのものと見ないとダメ。本心の自分はもっと大きい。虚の世界の十界どころではない。
本心の自分は無限に無限に大きい。虚の世界の全てを、自分の過去の残像として見るの。
真(まこと)の神さまの降り立つ姿を捉えないといけない。それも本当の意味で、真(まこと)の神さまと自分とを一対一の関係に置くこと。
これが信仰の極意。虚の世界から抜け出すための唯一の極意。十界をバラバラに見て、そのどこかに自分を置いているようだったら、
虚の世界から絶対永遠に抜け出せない。十界を自分そのものとして全体をとらえる。
そしたら、過去に自分がどういう言葉を使い、自分がどういう思いを発して、どういう行いをしてきたか、この十界の中に全部含まれている。
まだ全部消しきれていない、地獄絵図がある。そこへ真(まこと)の神さまが降り立って、半分ずつ振り替えて消し続けて下さっている、減らし続けてくれている。
それを大きく助けてもらっている、と大きいプラスに受け直さないとダメ。本心の自分は、全体を自分として、大きいマイナスを半分消し続けてもらっている。
思いを消し続けてもらっている、こういう受け方をする。これが本心の自分の受け方。
そしたら思いがスッと消えていく。半分ずつ消し続けてもらったら、どんどん減る。新たに新たに半分ずつ取ってもらって、どんどん減っていく。
思いのない自分にすぐ戻れる。でもこれをバラバラに見て、今自分が菩薩だ、なんて偉そうに言っていてもダメ。
地獄や餓飢道の思いは消えない。自分が消せるかって消せない。全部自分を縛ってくる。
どれだけ菩薩になって、仏になって立派になったと言っても、出来ない。地獄、餓飢道、全部救えない。そしたら全部自分のマイナス。そこに縛り付けられる。
だから十界全部を自分の姿として、大きく受け直さないとダメ。そこに真(まこと)の神さまに降り立ってもらう。
本当は常に、真(まこと)の神さまは降り立って下さっている。思いを消し続けて下さっている。元から消し続けて下さっている。それをしっかりと認めること。
そして喜び続けたら、全部消える。今度は与える側に変われる。十界を消す側の立場に立てる。
真祈り(まいのり)を祈り続けて、無色透明の光を与え続けて、全ての思いを半分ずつ振り替えで取り続けて、大きい神さまのバックアップで、
大きい力をもらって消し続ける。こういう立場に立ったら、本当の意味で、真(まこと)の神さまの本当の支えがわかる。
どれだけ大きく支え続けてもらっているか、気付く。そしたら本心側に戻る。そこからが本当の悟りへの道。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++7
虚の世界から抜けて、本心の世界に戻った、これはまだ違う。本心の自分に戻ってからが、真(まこと)の悟りへの道が始まる。
真祈り(まいのり)の秘奥義というのは、絶対の中心から、真(まこと)の神さまを、全ての全てを与え続ける立場。一番大きい立場。
そこへ戻るためには、どこまでもどこまでも大きい自分に戻らないとダメ。これが本当の悟りの姿。
本心の側に立った、これはまだ出発点。その後、大きい自分に戻って行くために、真(まこと)の神さまの助けが必要になる。
どうしたら、真(まこと)の神さまの助けを受け続けられるか。ここで真(まこと)の神さまへの本当の 弟子入りが必要になる。
思いの自分がどこへ弟子入りしたってダメ。どこへ弟子入りしても、どこも自分から辞めていく。自分の方が偉くなったって離れて行ったりする。
思いの心では、本当は弟子入りも何もない。自分は師匠より上になったと離れてしまう。気に入った師匠だったらついて行く。気に入らなくなったら、離れる。
思いの心はそういうもの。だから本当の弟子入りは絶対できない。本当の弟子入りは、本心の自分が出来る。
真(まこと)の師匠は、真(まこと)の神さま、ただ一つ。他のものは、本当の師匠ではない。真(まこと)の神さまだけが本当の師匠。
そしたら真(まこと)の神さまへの弟子入りはどうしたら出来るか。本心の自分の全てを捧げ尽くさないとダメ。
本当の弟子入りは、自分の全てを捧げ尽くして、本当の意味で恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きること。
そしたら弟子入りが許される。本当の弟子になったら、師匠の真(まこと)の神さまは護り続ける責任が生まれる。
どんなことがあっても護り続ける、これが必要なの。自分で修業して上がって来なさいではない。本心の世界の昇り方は違う。
神さまが助け続けて、心境を上げるの。それで、実感を与えてくる。
本当は出発点から見たら、無限の段階の難関を突破していかないとダメ。色んな厳しいテストがある。
それを乗り越えるために、真(まこと)の神さまの護りと導きが必要になる。1段階上がるだけでも大変。これを真(まこと)の神さまが全部してくれる。
必要な力を添えてくる。神さまの働きだけで心境を上げてくれる。それで、順番に上げてもらう。この許可書みたいなものをみんなもらっている。
これが印可書になるの。これを持っているか持ってないかで、弟子にしてもらえるか、弟子にしてもらえないかが決まる。
自分で弟子になりたかったら、命がけにならないとダメ。自分の全部を投げ出して、それでも弟子にしてもらえるかどうか分からない。
本当に自分が本心に戻っていたら、可能性はある。でも、本心の自分でなかったら、相手にされない。
だから、この真祈りの秘奥義を伝授するための印可書は、神さまからの約束。護ってあげるという約束。御護り。自分から願ってする、もらったものではない。
神さまの方から与えてもらったの。これを大事にする人は、護り続けてもらえる。でも反対に、粗末にしたらそれっきり。
自分が弟子になるのを拒絶したことになる。みんな弟子入りがどれだけ大変かわかっていない。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++8
本当の弟子入りは、微塵も我を出せない。本当の全託は、そう。我を出したら、全託が破れている。
一瞬でも我が出て、全託が破れたら、弟子でなくなっている。そのくらい厳しいもの。
だから、思いがあって、我があって、なおかつ、本心の自分を生きようとして一生懸命になっているから弟子入りを許そう、
という大まけにまけた神さまの愛の計らいなの。一人でも多く本心に戻したい、真祈り(まいのり)を 祈るように変えてあげたい、何億年に1回降りるチャンス。
だから、真剣に恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きること。
本当の支え合いで、本当の力を合わせないと、自分の救われなんか考えていたらバカ。自分は1番最後でいい。
みんなを本心に戻す、真祈り(まいのり)を祈れるように変えてあげたい。その為に自分が縁の下の力持ちでいいの。
みんなを支える方へ回ったら、自分が同じようにみんなからしてもらえる。必ず、自分の姿と同じ姿でしか、神さまの支えは出てこない。
十界の全てがそうなっている。自分が地獄の生き方をとっている人は、周り全部地獄。同じ姿をとって、現れている。
でも、真(まこと)の神さまは、マイナスを消し続けている姿で出て来ている。地獄絵図が、マイナスを半分取った姿で出て来ている。
でも、自分の姿と合わせてくれている。違う姿だったら、受け取れない。波が違うから。
だから、自分が本当の支え合いの姿をとったら、周りの人がみんな支え合いの姿をとってくれる。必ず、自分を支える姿で出てくる。
大勢が自分を支えてくれている。それに気づく。そしたら、本当の支え合いの姿が真(まこと)の神さまの世界の姿。そこに近づいていける。
だから、護摩焚きに参加するのでも、お客さんではダメ。自分が総責任者になろうとした方が、何万倍、何億倍助けを受ける。
必ずそうなる。どれだけみんなを支えようとするか、その気持ち一つ。
真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けるも同じ。自分ひとりが唱え続けているではなくて、みんなに支えてもらってしているという気持ちを深くすること。
どれだけ有り難いか、わからない。本を作るだけでも、億のお金がかかる。300万部全国に配ろうとしたら、どれだけ大変か。想像を超えている。
自分の近くだけでも大変。全国へ回ろうとなったら、ものすごく大変。それをみんな自分の代わりにしてくれている。気づかないとダメ。
自分一人の為に、自分を支える為にしてくれている。そこに気付いたら、本当のポスティングの総責任者。真(まこと)の神さまが、必ず自分の中を降り立つ。
本心の自覚が深くなる。折角のチャンスなのに、我を出して自分が自分がと出たら、忘れてしまう。
本心の自分を生きようとして、しっかり総責任者の自覚を深めようとしたら、何億倍神さまの助けを大きく受けるかわからない。
同じことをしていても、やっぱり効果が大きい方がいい。本当の神さまの助けは、いつも無限倍無限倍。どんな場合もそう。
必ず無限倍の支えが、助けが来る。途中の助けは、どんどん小さくなる。でも、自分の支え合いの姿に応じて、それに比例して、助けが出てくる。
だから、思いの心の自分と本心の心の自分のこの違いをはっきりさせる、これが1番大事。
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次に、本心の自分をしっかり生きようとすること。そしたら、神さまの教えでも、思いの心では、正反対に誤解して受けている。
本心の自分が正しく受けている。思いの心は、必ず歪めて受ける。正しくは受け取れない。必ず歪めて歪めて、受ける。だから、間違った受け方をする。
本心は、正しく受ける。それも、深く深く受け取れるようになる。だから、今の自分の心境に合わせたものしか、本当は受け取れない。
例えば、ありがとうございますの本当の意味は何か、16項目を挙げている。
また、真(まこと)の神さま、真(まこと)の自分って、真(まこと)の自分とは何か、これも16項目挙げている。
でも、心境が違ったら、全部理解の仕方も違う。受け方が違う。全部違う。自分の心境が1段上がるごとに、もう一回受け直さないとダメ。
中身が全然違うようになる。同じ受け方は絶対ない。だから、心境が大きく変化したら、中身がどんどん変化する。
例えば、16項目、真(まこと)の自分の16項目でも、一切の責任を自己に帰す総責任者の自分、この言葉を聞いた時に、どう受けるか。
思いの自分だったら多分、一切の責任を、最初はみんなマイナスと思っている。一切のマイナスの責任が自分にあると思っている。
本当のプラスを与える側の責任なんて気づかない。本心の自分はマイナスを相手にしていない。
本当のプラスを大きく与え続ける自分という責任をもつ。いくらこの虚の世界の思いを消すという立場に立っても、それは無限に小さい。
本当のプラスを与え続ける方が大きい。この責任の方が、もっと大きい。だから自分の心境に応じて、受け方が全部違う。
どの項目を見ても同じ。常に、点検していったらよくわかる。
だから、神さまから降りてくる言葉が、全部そうなの。思いの心で、我の心で受けるのは、全部歪めて間違えて受け取っている。
本心側に立って初めて、正しくプラス側に受け取れる。でもまだ、これは受ける方。受ける方は、1通りにしか受け取れない。
ここで、与える側に変わらないとダメなの。本当の与える側に立った時に、無限通りがわかる。
1つのことを観ても、無限通りが降りているってわかる。受ける方は、1通りにしか受けない。
与える側に立った時に初めて、神さまの無限通りの与え方がわかってくる。同じものではないの。もっと奥に入ったら、無限の無限通り。
もう想像を超えている。それだけのものを神さまは、常に用意して与えようと準備している。与え続けようとしてくる。
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今回をきっかけに、みんな求める側から本当の意味の与える側に変化する。大きく大きく、全ての全てに真(まこと)の神さまを与え続ける。
こういう生き方に変化する。本当の意味のプラスの側の総責任者になる。その為に、神さまが護り続けてあげるという約束事が降りている。
印可書が、単なる修了証書や卒業証書だったら、何の意味もない。そんなものは、虚の世界の印可書。真(まこと)の世界の印可書は反対。
神さまが与え続けて、助け続けて、心境を上げて、その心境の実感を与える。それが神さまの世界の印可書。それを順番にずーっとしてくれる。
どこまで神さまの愛が大きいか、深いか。本当に想像を超えている。
真(まこと)の神さまだけ。あまりにも大きい。虚の世界なんか相手にならない。虚の世界は、本当の無の一点にしかならない。
真(まこと)の神さまだけが全て。真(まこと)のプラスしかない。これも徹底して、真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないとダメ。
マイナスの一言を使っているようでは、また虚の世界に巻き込まれてしまう。真(まこと)の自分の 第一項目、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分。
真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分、真祈り(まいのり)を祈り続ける自分、この自分が全てを支配する自分。
自分の運命は、全部自分の選んだ言葉通りになる。神さまからどんなプレゼントを受けるのも、自分の選んだ言葉通りにしか受け取れない。
虚の世界は、言葉通りに虚の世界の錯覚を起こすだけ。
だから、虚の世界なんか相手にする必要はない。でも、真(まこと)の神さまからのプレゼントも言葉通りにしか受け取れない。
ボーっとしていたら、何も受け取れない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないとダメ。真剣に駆使して受ける。
それも、言葉をどんどん大きくしていかないと。そしたら、与える側の自分にスーッと戻っていく。
与える側が、大きいプラスの言葉を駆使しているから。受ける側は、小さい受け方になっている。
新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯っていう言葉を使っても、受ける側では小さい。
与える側が唱えたら、無限倍大きい。同じ与え方でも、そこまで大きい変化がある。受ける側ではダメ。小さくしか受け取れない。
自分の受けたものを与えたって、大したことがない。本当の意味で、真(まこと)の神さまを大きく与える側に立たないと、本当の与え方にならない。
いつも絶対の中心から一瞬一瞬新たに、真(まこと)の神さまを与え続ける、真(まこと)のプラスを与え続ける、一大循環の相象を与え続ける、
この言葉が必要になる。大事になる。そしたら、思いの世界なんか絶対自分が入っていかない。真(まこと)の神さまだけになる。
思いの世界なんか、本当にないってわかる。断定できる。本当の人生の目的は、真(まこと)の神さまと共に生きること。大きく与え続けること。
肉体の自分の目的なんかない。答えなんか出てこない。肉体がどんな生き方をしても、死んだら消えて無くなる。目的なんかある訳がない。
魂も同じ。虚の世界の全てがそう。生きる目的も何も、成り立たない。
本当の人生の目的は、本心の自分が真(まこと)の神さまの目的を生きること。大きく与え続ける自分になること。
本当の意味で真祈り(まいのり)を祈り続けてほしい。真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けてほしい。神さまが1番願っている。本当の幸せ、無条件の幸せ、本当の意味で湧き上がる自分になってほしい。
湧き上がるというのは、循環する幸せ。全ての幸せが自分の幸せになる幸せ。循環しない幸せなんて取るに足らない。
無限のスピードで循環する全ての幸せが自分の幸せという循環の幸せよね。この自分に早く戻ってほしい。
ひたすら神さまは願って祈っている。それに応えていくのが恩返し。神さまのプレゼントは降り注いでいる。
それを受けて本当の意味で喜ぶのが、恩返し。そしたら、助けを受け続けられる。それが本心の自覚を深めていく。本当の幸せに大きく近づく。
だから、もうこれからは、過去を言葉にしないこと、マイナスの一言を絶対に使わないこと。常に新たな大きいプラスの言葉を連発すること。
連発しないとダメ。それが神さまのお手伝い。そしたら、必ず神さまは降り立って下さる。自分が何もしなくってもいい。
神さまが降りて下さったら、全部して下さる。本当の支えが全体から出てくる。
今日は、そういう意味で、みんなを真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を唱え続けることで、全く正反対の生き方に大きく変えて下さる。やっと、そういう時期になったの。
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