8月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます
令和元年8月4日 護摩焚きで河上さんがお話して下さった内容です。

質問
 印可書を全部、暗記したので毎日唱えていますが、唱えている時、頭を空っぽにして、そらで唱えています。すなわち印可書の内容を理解しながら読んでいるわけではありません。それでもいいのでしょうか?

河上さん
 皆さん、ありがとうございます、今月もまた、お会い出来て嬉しく思います。
印可書なんですけども、印可書というのは、いわゆる紙に書かれた文章ではないんですよ、本当はね。だから、先生は読めと仰っしゃらなかったのは、色んな意味があるんですけども、神さまと先生との約束事で、これを奉じる時、唱えるではないんですね。神さまに捧げる時、真(まこと)の本心の自分の座に立たしてあげるよという、約束事のものなんです。だから、印可書の内容をね、理解しようとか、これはあーやこうやと思う必要はないんですよ。只々素直に、神さまのいのちの響きがそこに書かれてあるんです。まぁ、音楽のような感じなんですね。音楽というのは、歌詞がなくてもですね、その旋律だけで雰囲気を感じて、こう、うっとりするじゃないですか。歌謡曲であっても、民謡であっても、クラッシックであってもなんですけどね。印可書は神さまの音楽なんです。だから、本当に頭を空っぽとかいう説明も要らない。只々淡々と読めば、そのまま神さまの響きになる。だから、読んでいるうちは、自分は本心の座に立っているんです。
 だから、説明してくれという時は説明はしますけども、その説明の内容をね、どうこうって考える必要はないんですよ。前にイタリア旅行で説明したと思うんですね。イタリアの国って、そのイタリアの旅行のパンフレットを見てね、あーこうだこうだって、こう言っても、実際コロシアムに行ってみたら、そんなもん理屈抜きにもっと凄いじゃないですか。この現世(うつしよ)の出来事の古い古い遺跡のコロシアムでもね、実際に行ってみないと体験しないとわからない。
印可書も同じなんですね。真祈りをしないとわからない。真祈りをしないとわからないんです。だから、印可書を読むことは真祈りそのものですから、淡々と読まれたらいいです。ほんだら、印可書のメロディーが心の中に入り込んできて、ほんでフワッとわかるようになるんですよ。だから何もあんまり心配されずにね、ただ先生と神さまの約束事、先生の願いが神さまが聞き入れられて、これを読むものには真(まこと)の本心の自分の座、いわゆる悟りに立たせるよということですので、それを信じてね、淡々と読んで下さい。

質問2
 道端やお寺で見かけるお地蔵さまや観音さまに向かって印可書を唱えることは、神社で印可書を唱える事と同様、いいことなのでしょうか?

河上さん
 あのこれはね、道端にある祠(ほこら)というのはですね、色んな意味があるんですよ。いわゆるマイナスの怨霊を封じこめて建ててある祠もあります。その場合は、「あなたは此処に住んで下さいね」「よっしゃ、気に入ったから此処に住んでやろう」という感じで住んでおられるので、無理に印可書を唱えることはないの。だから、神社仏閣であろうが何処であろうが、或は古墳であろうがその遊園地であろうがね、どこで印可書を唱えてもいいんですけど、その唱えたくない時は唱える必要がないと、そう思って下さい。
それともう一つは、大事なのは、自分が印可書を唱えてやるではダメなんですね。只々神さまの御働きが自分を通して、印可書を相手に捧げるという感じでね、只々印可書を奉納するという感じで唱えて下さい。それでないとダメです。
 ほんで、例えば神社に行った時は絶対に鈴を鳴らしたらダメですよ。それわかって下さいね。お賽銭は入れてきて下さい。でも出来たら音のしないものを入れた方がいいです。どういうことかと言うと、この世の怖い怖い人のお家に行ってですね、扉に小銭を投げつけて、呼び鈴をバンバン鳴らして、ほんで前で大声で怒鳴ってるような感じなんですね。それは誰でも失礼でしょう。だから、出来たら音をせずに入れて、音のしないものを入れた方がいいですけど、呼び鈴もならさず、鈴も鳴らさずね、淡々と声を出さずにですね、唱えて帰ってこられたらいいです。
 それは道端の祠でも同じです。ただ、嫌だなぁ、怖いなぁと思う時は本当に行かないで下さい。「わしは、今ここ気に入って住んでんねんから邪魔せんといてくれ」という状態になってますので、それをどうして区別するんだっていうのはね、離れた状態で自分で印可書を唱えたらわかります。やっぱりやめておこうと思ったら帰ってきて下さい。やっぱり唱えたいと思ったら唱えて下さい。でも自分が唱えるって、印可書を与えるではないんですね。只々神さまが働かれて、逆に言うと、神さまが働かれるからこそ印可書が唱えれるんです。それをわかってね、只々奉納するというだけで、神さまが神さまに奉納するっていう気持ちでね、やってみて下さい。お願いします。

質問3
 勉強会で幽霊の出る所には印可書を貼るとおさまりますと聞きましたが、その幽霊は何処の世界にいかれますか?

河上さん
 これはね、印可書を貼るだけでその幽霊は救われるとそれだけです。だから、どういう理由で幽霊は出てくるかっていうことですけど、それは助かりたいから、救われたいから、悟りたいから出てきています。でも、出てきてもわかってもらえないから、ちょっとわかってもらおうとする形がね、脅かす形になったりするんですけども、でもいちいち唱えなくても貼っておけば、その印可書のレコードみたいなもんなんでね、印可書はコピーでも、だからそのまま貼っておくとその響きで変わっていかれるということです。ただ一気に変わらそうと思えば、素直に印可書を奉納すれば、一気に変わります。それだけです。
 どこの世界かというのは、三千世界すべてからです。三千世界一度に開く梅の花ってあるんですけども、「三千」というのは「無限の無限の」という意味です。無限の無限の世界がね、人間の自由意志によって創り出されているわけです。それをどう収納していくかは、真祈りしかないんですね。その真祈りの集大成が印可書なんで、それで印可書を貼ると消えていくんですけども、どの世界かというのは、無限の無限の世界です。この現世(うつしよ)は無限に無限に在るんですよ。でも実際の真(まこと)の世界はもっと凄いんですけどね、この現世(うつしよ)ですら無限の無限の存在なんです。だから、どこから来てるか?無限の無限の世界から来てます。そのたった一つの幽霊という形でも、無限の無限の存在の影響下になって一つに形成されていると、そういうことです。

質問4
 谷神(こくしん)について説明をお願いします。

河上さん
 谷神(こくしん)とは、一言で言ったら、真(まこと)の神さまの御働きそのものを示す言葉です。例えば、人間の血液の流れ、見えないですよね、表面から。でも凄く大事じゃないですか。でも、心臓を通して大変な働きですよね。そういうきつい、汚い、危険な仕事をそれって谷底の働きなんですね。谷底ってすべての汚れを飲み込んで、清(浄)めて流すっていう働きなんですけども、それで真(まこと)の神さまのことを老子さまはですね、谷神死せず、と呼ばれて、谷神(こくしん)と呼ばれたんです。

質問5
 宇宙神ありがとうございます
韓国は日本に対して色々不満を言ってきて、また問題が起きてきていますが、神さまのご意向でしょうか?何か意味がありますか?食べ物に全然気にせず感謝して頂いていますが、健康食品を勧められますが必要ですか?

河上さん
 先ず健康食品から。健康食品はね、見て自分が欲しいと思ったら摂って下さい。こんなん要らんわーと思ったら摂らなくていいです。もうそれだけです。何でかと言うと、その人によって食べ方って色々ありますし、一番の健康法は、ありとあらゆるものをちょっとずつ食べるのがいいんですよ。でも、お一人住まいの人だったら、やっぱり食べ物残るからね、だから偏ってくるわけですよ。だからそういう方は、健康食品で偏った分を補助されるのは十分だと思います。
 それから、今の政治的な話ですけどもね。別に神さまの御心ではないです。人間の欲望の流れのままに移り変わっているだけです。あんまり公の録音で言えないですけども、日本が輸出しているものを軍事的に利用してね、多くの人のいのちに関わるようなことにまで使っているので、ある国の要請に応じて、日本政府は輸出を止めたということです。それをどうこうというても、民族全体の思いの流れというのがあるんですね。それは真祈り人がどれだけいるかにかかっているわけですけども。比較して真祈り人が少ないと、ああいう風になって流れていくということです。
 日本もそんなにうかうかいうてられなくて、ここにいらっしゃる真祈り人が全部やめちゃったら、あっという間に大変なことになります。でも、真祈り人を増やしてね、お互いに喧嘩せずにね、支え合うという世界をね、再現していこうじゃありませんか。真祈りというのは、表面から言葉でね、どうこう言って人を変わらすということがダメだとわかった人が、使う技というか、祈りなんですね。
例えば日本でも、人を殺したら、こういう刑法でこういう罰則があって、ちゃんと決まってるわけじゃない。だからそれを読んだら人を殺したらダメだなぁってわかりますよね。でも人殺しはやっぱりある。或は、人を傷害暴行したらこんな罪だよってわかってても、やっぱり腹が立って殴る、っていうことがあるわけですね。だから、外から、法律や戒律、まぁ色んな律でですね、人を変えることはできないですよ。だから先生は組織を立てないとおっしゃったんですけどね。組織を立てるとはどういうことかというたら、戒律を立てるということです。でも戒律では、法律では、人は変わらないの。真祈りでしか変わらない。真祈りよって、皆さんの真祈りによって、真祈りとは何かというと、真(まこと)の神さまに降り立って頂くことが真祈りなんです。だから「宇宙神ありがとうございます」って呼吸に籠めたら、自分の回りにいる人の心の中に自分が降り立つんですよ。真(まこと)の本心の自分が、それを真(まこと)の神さまが降り立つと言うんですけど、そうすることによって、相手の内側から真(まこと)の本心が湧き上がっていくんです。そして変わるんです。全部内側から変わるんです。その為に、真祈りは最強なんですよ。

 だからね、皆さん呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って籠めてるだけだなぁと思っておられるわけですけど、実際は、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って籠めるだけでね、自分の縁ある人すべての人の心の中に、自分が降り立つんです。真(まこと)の本心の自分が。それを真(まこと)の神さまと言います。そうすることを繰り返すことによって、相手が変わっていくんですよ。それは職場の雰囲気も変わります。色んな自分に関連するね、属している部分、全部変わっていくんです。町内会でも変わります。だから是非ね、真祈りは最強っていうのを信じてやって下さい。

 この現世(うつしよ)の出来事はね、すべて未完成なんですよ。だから常に常に一瞬一瞬新たに新たにね、受け直していかないと、変わらない。でも殆どの人は、現実を掴んでね、お祈りしても病気が治れへんやん、すぐ治れへんやんとかね、こう否定するわけですね、真祈りの力を。だから否定しながらやったって効果はないわけです。わかります?だから如何に現実を無視できるかなんです。現実は常に未完成なんです。その未完成の現実は放っておいたらいいの。新たに受け直した、新しい真(まこと)の本心の自分という、新しく完成されたすがたを相手の心の中に入れていくの。すると、どんどんもっといいもの、いいもの、いいものに変わっていくんですね。
だから如何に結果に一喜一憂しないとか、現実無視とか色んな表現をしますけども、結果を気にせずに真祈りし続けることができるかです。先生のお言葉を借りたら、大戦争の最中(さなか)、爆弾が爆発して、砲弾が身近で飛び交って爆発している時でもね、完全平和を思えて、真祈りできなあかんと仰るわけです。でもそれが本当なんですよ。だから、実際に戦争に行かれた方、うちの父親なんかは行った世代なんですけども、父親は助かって、横の人は吹き飛ばされてる。或は、父親が撃たれて墜ちたから、後の人は進んで行ってやっぱり砲弾に吹き飛ばされて死んだとかね。もうその必ずいいようになるんです、お祈りしている人は。
 だから、真祈りが最強だということをね、現実を無視して、できたら絶対大丈夫なんですよ。それをわかって下さい。だから熱があってしんどくて、真祈りしているけどしんどくてダメなんだって言うんじゃなくて、真祈りしててしんどいからこそ、一番いいんだっていうのがわからないと真祈りが最強にならない。自分で真祈りを否定する形になるんでね。だから、必ず真祈りですべてを悠々とね、どんな状況が見えても真祈りに入って下さい。

質問6
 この間の勉強会で自由意思と自分勝手にしているのが、一応説明頂いたんですけど、やっぱりなんかちょっとわかりにくいんで、もう少し詳しくお願いします。

河上さん
 本当の自由意志というのは、すべては自分という立場。つまり真(まこと)神さまの立場、つまり本心の立場に立っている時です。身勝手という時は、自分と他人を分け隔てて、自分だけ良い目をしようと、良い方に走っている時が身勝手です。いいですか?

河上さん
 他に質問がないようなので、暑いので短めにいきます。
いよいよね、普通お盆というと、13、14,15日なんですけども、どんどん天と地が一つになってきましたので、今年はもう今日からお盆に入っています。多分24、25日位までお盆続きます。この世的な形式的な行事はね、いつものお盆の時期にされたらいいんですけど、それ以外に、この8月の間はね、せめてこの8月の間は、何か誰か思い出したら、お友達でもお父さんでもお母さんでもいいですけど、思い出したら真祈りして下さい。それが供養になります。本当の効果がある真祈りになりますので、この8月いっぱいは、誰彼ってふっと思い出したら真祈りする。ほんだら、自分が意識する・しないに関わらず、相手の心に自分の真の本心の自分が立ちます。それを真(まこと)の神さまと言います。その神さまが立たれて、相手を変えていきます。内側から芽生えていきます。だから是非ね、今月は油断せずに悠々と真祈りに励んで下さい。

 皆さん本当にね、もう真祈りできるようになっているんですよ。後何が足らないかと言えば、先ず結果をちょっと気にしてね、祈ったって大して変われへんわっていう意識で、自分で自分で折角出しているのに、自分で否定してるんですね。それって例えば、泳げる人だったらね、本当は1キロ泳げるのに、そんなん自分は100メートルも泳いだら元気なくなって泳がれへんで、溺れるわーって決めてるようなもんです。それ位自分で自分を縛るということが大変なことなのでね、一番、いつも神さまがいいようにされていると信じて、悠々と真祈りして下さい。もうそれがすべてです。

 ほんでね、いわゆる普段ね、毎日同じように繰り返してるおトイレに行く行為がありますね、その時に自分がしてると思うでしょう、みんなね。そういう小さい事の隙間がね、真祈りを否定するんですよ。だからトイレで大も小も出す時も神さまが働かれて、いいようになって出てるって信じれなダメなんです。それを大して出なかったとかね。出へんから便秘で病気になるわーとかね。やっぱり自分で縛っていくんですね。先ず毎日されるトイレの時に神さまがいいようにされてる、これでいいんだって、真祈りに変えて下さい。食事の時も神さまと共に食べる、神さまの為に食べるですけども、食べてるうちに美味しいなぁーと流されますよね。その時も美味しいなぁと思った時は神さまに捧げて美味しいなって、神さまと一緒で美味しいなって、こう思い直してね、して下さい。そういう毎日の一つ一つのとこの、隙間が段々崩れてきて真祈りが信じれなくなりますのでね、よろしくお願いします。暑いのでこのへんで終わりますけど、何か質問があったら最後にお願いします。

質問7
 真(まこと)の神さま以外を認めた分だけ、マイナスを自分で創り出してるってお話だと思うんですけども、それは日常生活で色んな出来事がありますよね、どうしても。それを先程の現実無視にも繋がるんでしょうけど、どうしてもこう掴むっていう感じがあって、まぁ例えばその出来事に、起きた時に、真(まこと)の神さま以外を認めちゃいけないということですから

河上さん
 自分のものと思っている分だけそう思えちゃうんです。全部神さまからの預かりものが動いてるとなったら、どの形になっても気にならない。例えば仕事でも自分の仕事と思ってるでしょう。ほんだら、その仕事の成績の結果を出さなくちゃいけないと言って苦しむんですよ。でも神さまからの預かりものの仕事だったら、結果は気にならない。するとかえって良くなる。結果気にした分だけね、例えば営業職ですと、お客さんが緊張するの。余計拒否されるの。結果気にせずにこっちが心開くと、向こうも心開いて買ってくれるの、営業やったらね。それは他の仕事でも一緒なんですけども、例えば修理の仕事に行ってもね、こっちが心を開いて修理してたら、文句出ない、少々の修理でも。でもこっちが緊張して、結果気にして修理するとね、あの修理屋さん、こんだけしかできへんのにこんなにお金請求してみたいに怒られるのね。だからいかに、全部神さまからの預かりものと思い返せるかです。
 結局真祈りって何かと言うと、真祈りしたら神さまの光を、要するに真(まこと)の本心の自分が降り立つんですけども、降り立つ範囲がね、自分のものと思ってる範囲しか降り立たないの。だから真祈りしても中々ピンとけえへんという人は、自分のものというものをようけ(沢山)掴んでるわけですね。そやけど全部神さまからの預かりものとしたら、ある意味全部自分でしょう。だから大きく光を受けれて、大きく変わるんです。だから先ず、自分のものと思い込んでる部分を止めてね。だから例えば会社の上司から怒られても気にならなくなる位、神さまに任せきっていけなダメなんです。その結果、首になるんやったら、よしなんですよ。

質問者
 嫌な人が出てきたら、それ神さまの現れってみたらいい?

河上さん
 そうそう、そうです。本当は全部神さまが変身して消して下さっているすがたです。例えば、そんなん言ったって、あの人30年も病気で苦しんでるんやって理屈いいは言うわけですよ。でも実際は、1億年かかって消すことを、たった30年で消しているのに、なに文句言ってるねんっていう感じやねん、本心の側から見たら。そういうもんでね、だから先生は肉体側で一生七難八苦の連続でいいんだって仰るわけですよ。そやけど、それでは皆耐えられへんから楽しい事も出したろみたいな感じですけどね。だから、その中で自分がどれだけ神さまからの預かりものって思い返していけるかだけですね。

質問者
 そうすると真(まこと)の神さま以外のものを認めたことにはならない?

河上さん
 ならない。消えていくすがた。五井先生流に言うと、消えていくすがた。或は移り変わるすがた。

質問者
 消えていくすがた。神さまの働きで消して下さった。

河上さん
 そうですそうです。水で説明したでしょう、前に。水をバーッと撒いたらその先端は汚れるじゃないですか、水も泥水になるじゃないですか、でも次から次に受け直して新しい水を入れたら綺麗になるじゃない、必ず。この現世(うつしよ)でもそうでしょう。でも真祈りはもっと凄いんですよ。神さまからの預かりものとしてるから、次から次に受け直してるということなんです。自分のものとしたら、もう受け直すのを止めてるの。だから、水も止まって濁る。或は腐っていく。でもそれでも清(浄)めのすがたなんです。そやけど、一瞬一瞬新たに受け直すといことが大事で、その一瞬一瞬新たに受け直すといのが、中々みんなわからないのね。理屈では、一瞬一瞬新たに受け直すんやなって言うわけですよ。一瞬一瞬新たに受け直すってどうするんねんて、いや、一瞬一瞬新たに受け直してますと言って苦しんでるねん。わかったふりをしてわかってないねんけど、わかった気になる。理屈っていうのはそういうもんなんですね。
 一瞬一瞬新たにどうして受け直すかって言ったら、いつも神さまからの預かりものと思い返すことなんです。ほんだら、すべて神さまのいのち、御働きそのものってなって、全部ガラッと変わるんですよ。それを思い返さないと自分のものと掴んでいるから、例えば泥水を桶に溜めて抱えてるようなものなんです。自分のもんやからね。ほんで、臭いなぁ臭いなぁってわけやん。みたいなもんなんですけどね。
だから本当に、受け直す、受け直すとは、神さまからの預かりものって思い直す。それをもっとね、だから、神さまからの預かりものと思い直せたら、おトイレ行った時の毎日のおトイレの行為もね、預かりものだからって安心できるの。ほんだら沢山出たとか、出なかったとか、おしっこ出にくいとかね、要らんことを思わない。ちゃんとなるんです。出にくい時は必要で出にくい。でもちゃんとなって、また出るようになるんです。それを皆、おしっこ出にくいな、おかしいって医者に行くのね。ほんだら前立腺がんとかって言われてね、また苦しむんですけど。自分で苦しみに行くんやから好きにしたらっていう感じなんですけど、それも先ず受け直すこと。受け直す中でね、例えば病気でしたら、お医者さん行きたいと思う時は受け直す中で、神さまからの預かりものと思って、行きたくなったら、それは行ったらいいんです。行ってはいけないというのはないんですね。先ず、全部神さまからの預かりもの、死んで持って行けないものは全部神さまのいのちそのもの、預かりものって思い直せないと、財産一つとってもね、苦しむ。
 ハイ!ありがとうございます

河上さん
 皆さん真剣になってきたのでね、大事な部分が最後に質問がきてよかったですよ。
一瞬一瞬新たというのが一番ね、真祈りでわかりにくいんですね。でも本当に神さまから一瞬一瞬預かり直してるっていうふうに、だって預かりものと思っても、預かってついつい自分のものになってるわけでしょう。そしたら、もう一回預かりものって思い返していかないとダメです。

 例えば何百年も続く老舗がね、それを維持しなくちゃいけないとなった時に、老舗が維持できるところっていうのはね、決まってるんですよ。自分のものとしてないの。すると、そこの和菓子屋でも色々ありますけども、和菓子屋さんでも地域に役立つことをしているんですね。ボロ儲けしてないの、赤字にはならないけどね。それが神さまからの預かりものと思えてることなんですよ。この会社、自分のものと思ったら、もうダメになっていくのね。どんな会社、大きい小さいあっても、神さまからの預かりものと思ったら、ちゃんと役立っていくんです。そのへんがね、ついつい先祖から受け取ってきた、田地田畑やからどうこうしようとかね、思って皆苦しむのね。必ずいいようになるから、減ろうが増えようがなんですけども、心を揺るがさずに神さまに投げ出し続けるかなんです。
 神さまに投げ出していくというのは、全部すべて、神さまからの預かりものって思い直せることです。だから、うっかり水を飲む時でもね、ついつい自分が飲んでるとしてたら、自分の水を飲んでるなんですね。折角飲んだ水も役立たない。神さまからの預かりもののいのちの水を、神さま自身の自分が飲むってね、本心の自分が飲むって思い直していかないと、本当はダメなんです。だからトイレも本心の自分が神さまのいのちが働いて、おしっこが出ると思い直さないと、やっぱり色々差し障りが出てくるんですね。その毎日毎日の小さいことから、全部神さまの御働きと思い直していかないと、深い真祈りにはならないです。その部分をちょっと、この1ヶ月やって頂いて、また来月お会いできることを楽しみしています。

 ありがとうございます

音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/15ltj4N1mVY

 宇宙神ありがとうございます