7月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます
令和元年7月7日 護摩焚きで河上さんがお話して頂いた内容です。

質問1
 私は、「君が代」が好きですが、「君が代」は畏(おそ)れ多いと聞いた事があります。毎日お祈りの時に「君が代」を斉唱しますが、余り意味がわかっていないのに良いのでしょうか?凄く気持ち良くお祈りができます。

河上さん
 ありがとうございます  またお会い出来て嬉しく思います。
「君が代」なんですけども、「君が代」の「君」という意味がね、大事なんですね。「君」というのは、極(きわ)まる身(み)、極身(きょくしん)と書くんです。これ、真(まこと)の神さまのことなんですね。「君が代」というのは、真(まこと)の神さまの御働きを言葉で歌で現してあるんです。だから「君が代」を歌うと、真祈りになっていくんです。今まで何で「君が代」を歌っても真祈りにならなかったかというと、「君が代」の「君」というのをね、肉体のお身体をお持ちになっている天皇陛下というふうに、みんな勘違いしてたからですね。何でそれじゃ、真(まこと)の神さまは天皇陛下じゃなくて、真(まこと)の神さまなんだっていうことなんですけども、これが真祈りの一番大事な大事なとこなんですね。皆さんの御働き、皆さんの全部御働きなんですけども、どの方もみんな、真(まこと)の神さまの御働きなんですよ。それをどう実観(感)としてわかっていくかが真祈りなんですけども。だから、「君が代」の「君」も勿論天皇陛下なんですけども、天皇陛下の働きはそのまま、真(まこと)の神さまの御働きなんですね。すべては真(まこと)の神さまの御働きだけって実観(感)できたら、真祈りであり、悟りなんですけども、その一番大事なところの集大成をね、「君が代」は歌ってあるんですね。だから、あんまり理屈で意味を考えずにですね、理屈をこねずに、素直に「君が代」歌うと気持ちが良くなるのは当然です。

質問2
 地獄が無条件の幸せを感じる為にあるように、人それぞれが抱える困難や障害、悩みといったものも、感謝を深める為にあると考えればよろしいでしょうか?

河上さん
 その通りです。よくですね、あの人仕事もせずに怠けてるって言って、責め合うんですね。でも、仕事をせずに怠けている人というのは何かっていうと、地獄の体験が足らないから、神さまの働きの素晴らしさがよく理解出来ずに怠けちゃうんですよ。どの方もみんな等しく、本来悟った真(まこと)の神さまと不離一体の自分なんですね。その自分の真(まこと)の神さまと不離一体の悟った自分というのを、自覚するしないに関わらずですね、みんな心に持っているわけですよ。例えば、この世でずるく生きてね、さぼって、上手く楽して生きた人は死んでからどうなるかというと、死んでから最初の60日間位なんですけども、その間に自分が今回地上で何をしてきたかという事を自分の本心の光にあぶられてですね、浮かび上がってくるわけです。その自分の本心の完璧なすがたと自分の不完全なすがたを比較してですね、ほんで、この不完全さを完璧に自覚し直す為にということで、自分で選んで地獄に下りていきます。この地獄が必要なのかどうかと言ったら、必要であるんですよ。神さまが必要で御創りになった、神さまが御創りになったんじゃないんですけども。みんなが言葉で創ったものですけども、地獄があるわけです。その地獄に下りていって、色んな苦しみを体験してはじめてね、勿論縁者の苦しみも一緒に体験するわけですけど、はじめて一生懸命生きる、真剣に生きるという事をね、わかるようになるんですね。この世での、この世で逃げ回って、死んでから体験するということになるわけですけども。この世での不幸・不運・病気、色んなものがありますけども、この世で体験する方が地獄で体験する1万分の1以下で済むわけです。だから、この世で色んな苦労をした方が早く悟れるんですね。自分を自覚してないでしょう。だから何で自分こんなに不幸なのとかね。何で自分生まれついて、こんなに病弱なのって、僕の場合そうでしたけども、何でこんな病弱なの、喘息なのって、こう思ってしまうんですけども、自覚していないから。でも運命としてね、受けざるを得ないじゃないですか、逃げれないでしょう。それを体験することによって、本当の幸せがわかるんですね。

 いよいよ真(まこと)の世界、真(まこと)の神さまの世界でも、新しい神さま・古い神さまって色々あって、なるんですけど、あっちの真(まこと)の世界ですらね、色んな体験を積んだ神さまが尊敬されるし、大事にされるしってなるんですよ。それ何でかって言うと、地上に降りてきて苦労して、ほんで、もう一遍、真(まこと)の世界に戻ると、同じ真(まこと)の神さまの光ですけども、その光の感じ方がもっと深く感謝して受け取れるわけですよね。その為にわざわざ苦労するわけです。
この地上でね、ゲームで遊ぶ時もそうでしょう。簡単なゲームで遊んだって楽しくない。喜びが少ない。でも本当に難しいゲームをやってね、達成した時の喜びって凄いじゃないですか。雪山登山がそうですよね。寒い所が苦手な人やったら、何であんなん行くの?ですけど、わざわざ寒い所に行って、凄い苦労して登山してっていうね、そして頂上登った時の達成感って半端じゃないですか。そういう本当の達成感というのは、真(まこと)の神さまの深い深い響きの悟りというよりも響きなんですけども、真(まこと)の神さまの深い深い奥の奥の奥っていうことに繋がっているわけです。だから、どの方もね、自分はもっと苦労して深く悟りたいと思う人程、この世では、わざと不幸な運命を選んで生まれてくるんですね。それを生まれてきたことを忘れてね、文句言っているだけですけども、何でって思わなくなったら、その体験が自分の血となり肉となってね、凄く役立つんです。だから、基本的には今の質問の考え方でいいんですけども、それを自分が選んでしてきた、選んでしてるっていうのを思い出して下さい。すると、わざと選んでしているから、雪山登山はそうでしょう。自分で雪山に寒い所に行って登るんだって思うから行けるんで、そんなんそんな気のない人が突然そういう所に放り込まれてたって、かなんかなんって逃げるじゃないですか。でも、この世の運命・不幸というのは、自分で選んできているからね。どの形であっても、これが良かったって思って、こなしていくのが大事なんですね。

 こなしていく時の一番注意しなくちゃいけないことは何かというと、結果に一喜一憂しないということなんです。要するに、達成できるできないは関係ない。体験できることが大事なんです。それがわかれば、この世の不幸でも何でもスーッと消えていくんです。何で消えるかということですね。そんなん言うけど何で消えるねんっていうことで、やっぱり理屈で言わないとみんなわかってくれないんでね。ちょっと理屈で言いますけども。不幸とか病気とかっていうのは、求める心なんです。この世の波というのは、本来平穏でふわーっとしているんですよ。それを求める心だと引っ張っちゃうのね。引っ張っちゃうとグーンと沈んで、不幸とか運命になるんです。その波がくると次は、グーンと持ち上がって幸せな所に行っちゃうんですね。波瀾万丈になるんですよ。それが今生で繰り返すか、生まれ変わる中で繰り返すかは、その人によって違うんですけどね。過去世で凄い貧乏して苦労をした人は、今生では楽して出世してね、大金持ちになっているとか、それは色々ありますけども。どっちにしても求める心で引っ張った、引っ張ったが為に波瀾万丈になっているだけなんです。でもそれを与えに与え尽くす支える心になって、「ありがとうございます」って受け止めていくと、自然な波に変わるんですね。すると一遍に何でも消えるんですよ。

 だから、結果に一喜一憂しないということが大事なんです。今こうだからどうじゃなくて、ただただ神さまが、求める心も一緒なんです。神さまがその人にとって必要な体験だからわざと求める心を起こさしたとこはあるんですよね。だって、真(まこと)の神さまと本来の自分は不離一体なんですからね。わざと引っ張って体験しているっていうのをね、病気の人でも運命の悪い人でもそれをわかって下さい。それがわかれば、悠々と一つ一つこなしていけるんです。一つ一つこなしていく為には、結果に一喜一憂しないなんですよ。だから例えば、僕の場合そうですけど、字が下手なんですね。上手になろうとして練習する。でも中々上手くならない。でも上手くならなくてもいいんだ、ただ淡々と練習するのがいいんだって思い切ると、一気に直るんですよ。何でもね、結果を気にするから。例えば、英語の勉強がそうなんですけども、英語が私、苦手だっていう人はね、凄く結果を気にするのね。だからこの単語10個覚えなあかんっていうと、その単語が10個覚えるまでは、もうそこから離れられないの。ほんで結局、何もできなくなっていくんです。英語に関わらずですけどね。でも、結果に気にしない人は、まあ10個の内3つ覚えたからいいやって、また次いくんですよ。そうこうして3つ覚えているのが増えていけば、勝手に100になって、1000になっていくって、結果を気にしないんだけど、結果が整ってくる。

 すべてね、この現世でも、あちらの世界でも神さまの世界でも一緒なんですけども、結果を気にしたらできなくなる。何でダメかというと、結果を気にするというのは求める心だからです。だから真祈りも一緒なんですけども、自分が真祈りできないと卑下慢になってね、私なんかできないから私一人別にいいじゃないって思う事が、本当は大きな罪なんですよ。結果はいいの。だから例えば、上手い人はオーケストラでいいますとね、上手い人はバイオリンとかそういうのを担当して主旋律を弾かせるわけですよ。でも下手な人はトライアングルとかね、簡単にできることをさせるわけです。でも、オーケストラとして一つなんです。だから、ようけ(たくさん)できたからいい、ちょっとしかできないからいいじゃないんです。それはこの現世も同じなんですよ。真祈りをようけ(たくさん)しっかりできる人がいいじゃないの。たくさん真祈りをできる人、ちょっとしかできない人、その全部が一つ、一つなんです。どれが欠けてもダメなんです。だから一人、目立ってね、これだけの効果の真祈りができるってやったってダメなんですよ。ちょっとしかできない真祈りが全部揃ってはじめて、一つの、本当の真祈りになる。だから印可書には、すべては完璧なる一つっていうんですけどね。その完璧なる一つというところがね、みんな中々わかんないんです。自分という自ずから分けるものをもってね。自分と他人を分けて比べようという癖がついているから。この自分と他人を比べるのが虚栄心ですけども、その虚栄心によって、何もできなくなっていくんですけどね。
何もしないのが大きな罪なんです。神さまの働きというのは、大きな大きな働きですから、一瞬一瞬新たに、結果じゃなくてね、支える側に回ることが大事なんですね。そういうことがわかってくると、自分の不幸とか不運も気にならないし、先月お話しましたけど、真(まこと)の悟りというのは、どんなに痛かろうが何があっても心が揺るがないんだっていうのは、そういう意味なんですよ。だから今、本当に病気のすがたをとっている人、いらっしゃると思うんです。或は、非常な不幸なすがたで苦しんでいる方、身内にもうすぐ死ぬという人がいて苦しんでいる方とか色々いらっしゃると思うんですけども、どれもこれもがね、神さまが一番いいようにしているんです。それをわかって、悠々と真祈りできることが大事なんですね。勿論現世的には、一生懸命に色々したらいいんですよ。でも、した結果が報われないと思ったら、もうしたことすらも無駄になっていくんです。結果が報われるか報われないかは関係ない。自分が支える側に回ったということが大事なんです。それをしっかりと覚えておいて下さい。支える側に回るだけでいいんだ。支える側に回るのはどうするんだ。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠めるだけで支える側に回ってるんですよ。だからね、真祈りを難しいと思わずにね、悠々と呼吸に「宇宙神ありがとうございます」と籠めながら、色んなお仕事や日常の御三どんをして頂いたら、一気に世界は変わって、プラスに変わるんです。そういうふうに思い直して下さい、ということです。

司会者
 ありがとうございます
事前にお受けしてる質問は今の2点なんですけども、ご質問のある方いらっしゃいますか?よろしいですか?じゃあ、無いようでしたらお話の方よろしくお願いします。

河上さん
 護摩の時にね、前に出て「宇宙神ありがとうございます」というのはどういう意味か?というふうな質問が一つきていたんですけど、これは総責任者の自覚を深めてもらう為です。この護摩の会場で、自分一人あってもなくてもいいやと思うんじゃなくて、此処で真祈り、前に出て真祈りするということで、先生と同じ立場に立って祈るんだという、覚悟と決意とね、自覚を持ってもらう為に、前に出てお祈りしてもらっています。だから、この形がいい悪いじゃなくて、総責任者の自覚を持つということが必要ということです。総責任者の自覚とは何かと言ったら、すべては完璧なる一つというね、みんな自分だと思えることです。理屈言いに言わしたらね、自分と他人、分かれているじゃないかっていうことですけども、例えば自分の足の小指、普段意識しないじゃないですか。意識しないけど自分でしょう。だから、そういうもんなんですね。形の上で分かれて見えるけど自分なんです。もっと正確に言えば、すべて真(まこと)の神さまなんですけども。その総責任者の自覚を持って頂く為に、前でやって頂いてます。ほんで、そんなん言ったって前でやったって何も変われへんわって、今までそういうふうに返ってきたわけですけどね。そこが結果に一喜一憂しないというとこなんですよ。結果を掴んでいる間はね、永遠にできない。だから、皆さん歩いてるじゃないですか、普通に、ごく普通にね。それって、赤ん坊の時は歩けないでしょう。でも赤ん坊の時は、結果を気にしないから歩けるようになったんですよ。でしょ?四つん這いで、ハイハイしてね、最初に歩き出す時って、本当にフラフラして歩けないわけじゃないですか。でも結果気にしてたら、私なんぼ頑張っても歩けないから、もうダメだわって言って、歩けなくなるはずなの。でも、赤ん坊の時は結果気にしないから、歩けるんですよ。何で結果気にしないかって言ったら、赤ん坊の時は自分と他人を分けてないの。他人の事を気にしてない。だから、親が歩いていることも気にしてないし、勿論同じような赤ん坊が歩いていても気にしない。だから歩けるの。だから、本当にすべては一つで、結果を気にしなくなったら、すべては一遍にプラスに転じるんですけどね、中々色々あります。

 ほんで、天の岩戸が開かれたのは、もっと具体的にどうなのか、どういう意味なのかっていうふうな質問がきてまして、天の岩戸が開かれたということは、大きく天地に光が降り立ったということなんです。天地に光が降り立ったということはどうことかというと、降りると昇るが同時の状態なんですよ。ほんで、特にこの会場はいつも護摩をする時は、強く光の柱が立ちます。何でこの会場で真祈りの伝授ができるのかっていうことですけども、何でかって言うと、それ簡単なことなんですね。この会場に来て「宇宙神ありがとうございます」って祈る時は、支える心になってるんです。支える心になるとね、光の柱の横にスーッと立つと、吸い込まれちゃうんですよ。支えるから。自分が光の柱を支えようとするの。わかります?自分が光の柱を支えようとするのがこの会場で「宇宙神ありがとうございます」って祈ることなんです。支える側に回ったら、光の柱に吸い込まれてね、真(まこと)の神さまと不離一体になるんです。それを毎月毎月、不離一体の自覚をね、自覚なくても体験していくことによって、不離一体の自覚が湧いてくるんですよ。

 真祈りとは何かですけど、真祈りとは真(まこと)の神さまと不離一体の自覚を得ることなんです。じゃあ、真(まこと)の神さまと不離一体の自覚を得ることって何かと言うとね、無条件なんですよ。無条件の喜び・無条件の幸せ・無条件の輝き、もう兎も角(ともかく)、無条件で光輝いた喜び勇んだね、ワクワクした自分。具体的には、無条件に「宇宙神ありがとうございます」「ありがとうございます」って湧く心です。だから、皆さん真祈りが自分ができるようになったなぁっていうのはどこで観るかっていうと、無条件にいつもいつも喜びが湧いてたら、「ありがとうございます」って湧いてたら、「宇宙神ありがとうございます」って湧いてたらね、無条件です。だから自分にとって都合の悪い事が起ころうが何しようが、無条件に湧き上がるようになったら、本物です。そやけど自分に都合の悪い事が起こってきたらどうしようってなった時は、反省して下さい。ちょっと真祈り途切れたなぁっていうことでね。真祈りってそういう簡単なことなんです。

 その無条件で湧く為にはどうするかって言ったら、自分が無くなることなんです。自分があると、何でこうなるのって思って、無条件が無くなる、条件が付くんですね。だから真祈りしない人は、自分で条件付けてね、自分の願いが叶ったら嬉しい。思い通りになったら嬉しい。人が言うこと聞いたら嬉しいって、条件付くわけです。条件付いたら幸せっていうのは、その条件が外れたら不幸せになるの。真祈りしない人は、その思い通りになった、ならないで、嬉しいか悲しいかの波を繰り返すわけですね。それを輪廻転生というわけですけども。
だから、どうか真祈りに戻ろうということだけ。真祈りとは何かって言ったら、無条件に喜ぶこと、感謝できること、色々ありますけども。先生が、ありがとうございますの16項目とかね、印可書とか残して下さっていますけども、あれが自然に湧いてくるようになったら、真祈りが完成してます。真祈りの入り口に立っている時は、いつも申しますように、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せて下さい。ほんでね、病気とか不幸の結果に一喜一憂しない。いつもこれが一番神さまがいいようにされているというのをね、わかって下さい。神さまの光を水に例えると、バーッと水がいくとその泥に染まって色が付くじゃないですか、それが病気や不幸の状態です。でも新たに新たに新しい水を送ったら、全部薄まって綺麗になっていくでしょう。新たに新たに新しい水を送るというのが、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せ続けることなんですよ。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せている時は、一瞬一瞬新たに新たに、真(まこと)の神さまの光を、いのちを、喜びを受け止めているわけです。ほんなら結果なんていいように変わっていくだけなんですね。でも、結果気にして、まだまだ痛いねん、まだまだ汚れてるねん、まだまだ病気やねん、まだまだ喘息やねんと言うと、それは、またマイナスを自分で創ったわけですね。で、永遠に繰り返すんですね。だから、いかに結果に一喜一憂しないか。神さまが一番いいようにされるかっていうことをね、念頭に置いて、もう一度ね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って籠めて下さい。もう皆さんね、真祈りの入り口を越えて、真祈りに皆さん入っているんですよ。自覚してないと思うけどね。折角入ったんだから、ずっと奥に入っていきましょう。その為には結果を気にしないことです。
 
 質問があったらお願いします。そんなん言ったって病気やとか、色々何でもいいです。
無いようなので、兎も角(ともかく)ね、真祈りというのは、簡単なんです。それを勝手にできないとか、難しいって決めてるだけ。それ何でかって言ったら、結果に一喜一憂するから。結果を気にするから難しくなる。でもね、全知全能の神さまがね、その人に一番いいようにしかしないじゃないですか。真祈りしなくても一番いいようにして下さる。なら真祈りしてたら、もっといいようにして下さる。それを信じ切れるか切れないかだけです。自分の自由意志でね。今まで、例えば先生、印可書出されたけども、読めとも一切仰らないのは、仰らなかったのは、自由意志で選んでくれることが大事やったからです。
今回も同じです。本当はね、先生が印可書出された時に、それを選び取れなかった人は、まぁ落第だったわけです。でも、それを何とかということで、お願いして、今の形があります。ある意味、今回のこの現世では最後のおまけだと僕は思います。次は無いと思いますけどね。この、それを素直に受け止めて、するかしないかは皆さんの自由意思です。でも折角ここまで簡単になったんだから、是非やってみて下さい。今までだったらお祈りの部屋に何日も通ってお祈りしなくちゃいけないとかね、色々あったんですよ。でも、その縛りも全部解けて、ただただ呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠めながらお仕事をするだけで深い真祈りになっているということで、おまけになっていますから、是非やってみて下さい。
3年前はね、護摩木に書くことが真祈りだって先生仰ったんです。だから護摩木を書いてくれ、そこまで先生譲歩して仰って下さったのに、護摩木に書くことを真祈りって中々みんな思ってくれなかった。だから上手く、あんまりいかなかった。でも今は、呼吸に籠めてもらっていますから、護摩木を書く時も真祈り、お仕事する時も真祈り、全部真祈りになりますからね、これで上手くいかないはずがない。でももし上手くいかない人がいれば、結果を気にして自分でマイナスを掴みにいってるからです。それでは永遠に煙草を持ちながら、煙たいな煙たいなぁって言ってるもんですから。だから本当に最後のチャンスなんで、是非自分の自由意志で選び取って下さい。結果さえ気にしなかったら、あっという間に変わる、今は晴天の真祈りの時期ですのでね。是非ご自分の自由意志でね、選び取って下さい。お願い致します。
 また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

音声はこちらからどうぞ
https://youtu.be/m-EdXKfanXY

宇宙神ありがとうございます