河上さんのお話
10月護摩焚きで河上さんがお話して下さった内容を載せさせて頂きます。

ありがとうございます
今月もお話できて嬉しく思います。やっぱり昨日の夜遅く、やっとおまけが来ましたので、皆さんの真祈りのお蔭ですので、真祈りありがとうございます。

今日はですね、真の本心の自分というのをちゃんと説明しろという事ですので、質問も無いようなので、その辺を詳しく説明致します。

真の本心の自分というのは何かというとね、みんな故郷ってあるでしょ。故郷っていつも、実際の故郷は形が変わっても心に残っているじゃないですか。そういう感じで、真の自分の故郷というのが真の本心の自分であり、真の本心の真の神さまそのものなんですね。それが本当の真の自分の故郷なんです。この世の故郷を思うような感じでね、真の神さま、真の本心の自分というのが故郷のように解る時が来ます。呼吸にちゃんと「宇宙神ありがとうございます」って、なんでと思わずにね、素直に乗せていれば必ず来ます。

今回は、緩やかな悟りを皆さんに伝授してますので、半年で解る人もあれば、1ヶ月で解る人もあればと、色々人によって時期が違うんですけど、なんでと思わずに、神さまが一番いつも良いようにされていると素直に思ってですね、「宇宙神ありがとうございます」と呼吸に乗せていれば、必ず、必ず皆、真の本心の自分を故郷として感じ取れます。それを感じ取れるとどう変わるかというと、地獄の底も感じ取れます。地獄の底も真の本心の自分も、同じように天国そのものだったんだというのが実感(観)できます。必ずそこまでいきますのでね、素直に「宇宙神ありがとうございます」と呼吸に乗せていって下さい。忘れたというのでも構いません。思い出した時にどんどん乗せるようにしていれば大丈夫です。

 そこで、本心の自分っていうのは何か?本心の自分というのは何かというのを理屈では色々と先生が説明されていますし、文章されていますので、今は感覚的なことを今日は説明しろということなのでね。感覚的なことを説明しますけど、感覚的にはどういうことかと言うと、本当は逆なんですよ。説明上言いますけど。腕のこっちの本体が本源の世界、真の神さまだと思って下さい。このずーっと腕が伸びた指先の、この爪の部分ですね、これが皆の本心なんです。今、これ説明の便宜上、一部分だけを言いましたけども、これが全部になるんです。全体にこの爪の本心の自分が全体に存在するんです。それ、なんでかと言うと、真の本心の自分と言うのは、真の神さまをお互いに与え合う存在なんですね。理屈じゃなくて。真の神さまを与え合うから真の本心の自分なんです。真の本心の自分を与え合うと、すべてのすべてが真の本心の自分に真の神さまになるんですね。

一番大事なところは、今、これ説明の便宜上、時間軸を取ってね、ここから現れて、こういうふうに出てきてこうなって、この指先が全部すべてに散らばっているというふうに時間軸をとって説明しましたけども、神さまの創造というのは、一瞬一瞬新たなんです。一瞬一瞬新たというのはどういうことかと言うと、時間軸が無いんですね。現れた時は、同時にすべてに存在しているんです。これをね、感覚的に思っていて下さい。時間軸で取ってどうこうどうこうと思っていると、いつまでも悟れないの。それは部分に囚われているから。すべては自分なのね。すべては自分と言うのは、一瞬一瞬同時に存在しているということ。そして一瞬に消え去って、また一瞬後、一瞬一瞬新たですから、また新たな創造があって存在しているんです。その創造という言葉があった瞬間に、すべてに存在しているんです。順番に拡がっていくんじゃないんですね。順番に拡がっていくのは、陰の世界なんです。

今、あちこちで真祈りの会をして頂くようになりました。こちらから一切お願いしていないです。皆さんが自主的に自由意志でやろうという事で始まったわけですけども、真祈りの会をする側も受ける側も主催する側もそれに参加される側もね、一番の注意点は何かと言うと、すべては真の神さまだけということが注意点なんですね。すべては真の神さまだけと言うのは、具体的には何かというと、「なんで」と思わないことです。わかりますか?「あ、真祈りしてるのに、腕が痛くなったわ。なんで?」「この子、入試落ちたわ。なんで?」「うちの主人、首になって帰って来たわ。なんで?」って言う間は、真祈りになってないんですね。真祈りと言うのは、もうすべてが真の神さまの働きだけ。現世的には、後は良くなるだけっていうことなんです。それが理屈抜きにわからなくちゃいけない。理屈で考えていると、何でも「なんで?」となるんです。「なんで自分は癌になったんや」って言うわけですね。違うんですね。真祈りのすがたをとって清(浄)める役目の人と、癌のすがたをとって清(浄)める役目の人って、みんな役割が違うんです。だから、癌になったから悪いではない。逆に言うと、癌になったから良いでもないんですね。すべては神さまが真の神さまの御働きによって、良いように、肉体側の感覚から言えば、良いように使って頂いてるだけ。だから、先生がよく言われたように、一生七難八苦の連続でいいんだっていうのはね、神さまが良いように使って頂いているんだから、有難いだけ。この世的にはどんなに七難八苦でもいいんだっていう、それが無限の無限の幸せなんだって、無条件の幸せなんだって、先生仰るわけですね。それが自分のチェックポイントとしてね、思う時にどうするかって言ったら「なんで」って思うか思わないか。それだけです。「なんでこんな目に遭うの?」「なんでこんなんなの?」「なんで上司にこんなボロクソに言われるの?」と思っている間は、真祈り出来て無いの。真祈り出来ていたら、すべては神さまの御働きですから、有難いだけなの。だから、「みんな悟っている!祈っている!救われている!」なんです。「既に悟っている!祈っている!救われている!」たったそれだけなんですね。だから、「なんで?なんで?」と思った時は、虚栄心で真祈りしていると勘違いしていると思って下さい。どんな状態も「ありがとうございます」って受け入れる勇気がないと、勇気でもないんですけどね。そのままなんだけど。それがわからないとダメなんですね。

だから「なんで地獄があるの?」っていう質問もあったんですけど、なんで地獄があるのかっていうのは、無条件の幸せを知る為なんです。地獄の体験を積むと、何があっても有難いだけなんです。血の池地獄でも針の池地獄でも三途の川の石洗いでもね、八寒地獄のカチンカチンに寒い、身動きが取れないところでもね、それを体験したら、この現世がどれだけ幸せかっていうのがわかるんですね。それがわかる為の体験として、地獄がある。でも、もう少し深く掘り下げて言うとね、その地獄さえも天国なんです、本当はね。それはもっと実観になるので、説明のしようが無いんです。でも、すべては天国なんです。すべては光なんです。この現世の感覚で、思いで歪めて、酷いように見てるだけ。たったそれだけです。

現実無視というのがね、難しいということなんですけど、現実とはどういうものかと言うと、本当は絶対の中心、無限の外ですけども、例えば、地球の中心が絶対の中心とするじゃないですか。その中心の周りはもう全部、説明上、海だと思って下さい。中心から神さまの創造・変化がどーんと出るわけですね。そしたら、奥からずーっと拡がってきて、緩やかな波になる、表面が。それが神さまの本来の完璧な創造なんですね。ところが、その細かい部分を観る為に、本心の自分というのが分かれて出てくるわけですけども、それを観ているうちに、一瞬掴むんですね。手を入れて。それで、ちょっとしぶきが立つ。しぶきが立った時に、白いしぶきが立つと、それはこの世では苦しみなんですね。苦しいから、もっと楽なものを求める。幸せなものを求める。求める心で引っ張っちゃうんです。引っ張っちゃうと余計に波が立つんですね。それで波立って、しぶきになったとこがこの現実です。しぶきというのファーッと散って本源に戻っていくでしょ。この現実のどんなすがたもファーッと消えて、本源に戻っていくだけなんですね。だから、それを信じ切れて、それが解れば、その現実の途中経過を見てね、苦しむことはないんですよ。
 
以前、食べ物でお話したと思うんですけど、美味しいご馳走がある。でも、食べないと腐ってくる。その腐っているところを見てね、臭いし汚いし嫌だって言うわけですよ、みんなは。現実掴むと言うのは、そういうことなんです。腐っているところだけを見て言うんです。こんなに腐ってどうしようってやるわけですよ。でも、その腐ったところは、そのまま肥料として使えるわけですよ。大きく活きるわけですよ。肥料にしようと思うと、腐らさないと肥料にならない。発酵させないとね、肥料にならないじゃないですか。その途中は臭いじゃないですか。その一部だけを掴むとね、苦しみなんです。

 先程、地獄も本当は天国なので、素晴らしいところなんだって言うのは何かというと、地獄全部を見たら完璧なんです。一部だけ捉えるから、凄い苦しみ。地獄も本当は天国の一部なんです。一部の部分の部分を見過ぎたら、苦しみという感じなんですね。だから、全体・全相を観るというのが大事なんですけども、先ず現実無視する為には、そのしぶきが消えていく、例えば、食べ物が腐っても肥料となって美味しい作物に変えるんだっていう、全体をスッと感覚的に信じ切れるというか、受け止めないとダメなんですね。それができるようになると、簡単に現実無視ができる。

だから、「あー風邪引いて、どうしよう」じゃないんですね。風邪引いて熱が出てきたから、いよいよ治るんだと思えるし。「うちの子、試験に落ちてどうしよう」だけど、試験に落ちたからもっといい体験ができるんだと思えるんですね。全部、神さまがその人に一番必要な体験をさせますので、「何で私だけこんな目に遭うの」って言っている間はダメなんですよ。必要な体験というのはね、早くしておかないと、結局損なんです。利息がついて。だから、どんな苦労、自分にとってですよ、自分にとって苦労でも喜んでしていかなくちゃいけないね。それで、苦労を苦労って、なんで苦しみだと思うかと言うと、その苦しみから逃げ回っているからです。逃げ回ると凄い苦しいの。でも、積極的に「じゃあ、喜んで受けていきましょう」とやるとね、楽になるし、すぐ消えちゃうんですね。それは何でかと言うと、喜んで受けるというのは、神さまが良いようにされてると信じ切れているからですよ。神さまが良いようにしてくれていると信じ切れなかったら、喜んで受けれないよね。神さまを信じ切れないうちは、苦しむの。地獄にいてる亡者達ってどうかというと、神さまを信じ切れないよね。神も仏もあるものかと言って、地獄に下りていくわけですね。信じ切れないからいつまでも苦しいの。例えば、針山の山を登っていてもね、「あー神さまが一番良いようにされているんだ。嬉しい。」と言って登れたらね、一瞬で登り切れて、スーッと消えるんですね。積極的に喜んだら消えるんだけど、逃げ回っているうちは、もう鬼に追い回されてね、地獄の場合だったらいつまでも苦しむ。だから、どんな自分の運命であろうと病気であろうと、喜び勇んで受けないとダメなのね。それは、真の本心の自分という存在以外は存在しないからです。思いの自分というのは、単なる自分の言葉で、ただ理屈で創っただけ、なんですね。

だから、本当は、どんな苦しみも喜べるのに、苦しいと思うのは、自分の理屈で創ってね、逃げ回るからです。「なんで私だけこんなに虐められるの?」ってね。でも、虐められる必要のある時は、虐められるんですね。だから、イエスは、「上着を取られたら、下着も与えよ」と言うんです。「上着取られて、困ったな」って言っていたら、マイナスに受け止めているんですね。でも、積極的に「じゃあ、上着持って行ったんだったら、下着も持って行きなさいよ」ってしたら、それは積極的に苦労に立ち向かってますから、楽なんですよ。だから「十里のこうえきを強いられば二十里を行け」っ言うよね。10キロ歩きなさいと言うところをね、「じゃあ、私は20キロ行きますよ」と言ったら、積極的であるから苦しくないんですよ。それを「10キロ歩け?えー10キロもこのくそ暑い中、歩くの?」ってなったら苦しみなんですね。

何でも積極的に喜んで立ち向かう、それは神さまに対する絶対の信があるからですけども、絶対の信が真祈りそのものなんです。だから、「なんで」は無くなるんです。堂々巡りになってきますけども、理屈で言うとね、堂々巡りになるんだけども、結局はみんなそこの「なんで」で掴まる。「なんで私だけが」って掴まる。でも本当はね、すべては自分なんですよ。すべては自分なのに、分けて、自分とは関係無いっていう存在を見るから、ややこしくなるの。だから、ほとんどの人は、先生の側に来てね、大きな勘違いをしたんです。それは虚栄心で「私は祈れている」って、みんな思い込んでいた。虚栄心で「私達は祈っている」って言うから、ややこしくなるんですよ。「私達は」じゃない。「みんなで」祈っている。「みんなが」祈っているなんです。だけど、「私達は」祈っているって、みんな言うのよね。「私は祈っている」いや、私は祈られへんのって。「全員が」真祈りするから、真祈りになるの。既に全員が真祈りしているんです。わかります?全体、全相で見たら、みんな真祈りしているのね。部分に捉えたら真祈りできてないと見えるの。できてないじゃなくてね。ごめんなさいね。できてないと見えるだけなんですね。それを直観的にというか、感覚的にスーッと解るようになると、悟りやすい真祈りなんです。そこに行くまでの間はね、もう素直に、先生が呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せなさいよと言ったら、素直に乗せていればいいの。

どんな苦しみも、「あ、神さまが一番良いようにされるんだから、喜んで立ち向かっていこう」と素直に進んで行けばいいんですよ。それができれば、楽に越えていけるし、あっという間にみんな悟れる。本当はみんな、すぐに悟れる状態にあるんだけど、自分でね、ブレーキ踏むの。「なんで」って。「なんで私だけこんな目に遭うの?」って。「なんで私だけこんな大変なことになるの?」ってね。本当は大したこと違うんだけどね。それがわかるのが、悟りです。本当は簡単なことだったんです。でも、自分と他人を分け隔ててね、あの人より自分が祈っているとかね、あの人より自分が祈れてないとか、そういう分け隔てた虚栄心がすべての邪魔をしているんです。それだけをね、真祈りの会をしている人は特に思って下さい。みんな光やっていうのが、大原則なんです。そう見えない自分を責めてもダメだし、真祈りに変えていくだけ。だから、真祈りの会する時は、物凄く祈ってない人って見えるけども、それを忘れて、ただただ「宇宙神ありがとうございます」って呼吸に乗せるんですよっていうことを、参加する人に言って下さい。ともかく、人の姿を見て苦しむんですよ、みんな。人の姿を見て。それは、本当は自分の姿なのに。本当は、すべては自分ですから、どこの場所に現れている人も全部、自分の姿なんですね。でも虚栄心があると「あんなひどいこと私はないから」って、こう分けちゃうわけです。分けると余計祈りができなくなる。

 だから先生はね、それはダメだとか、こうしなさいって、一切言われなかったのですね。それは何でかと言うと、色んな意味がありますけども、先生の言葉の力が強いから出せないというのもありますけども、一番は先生にとったら、みんな自分なんです。一歩譲ってみても、みんな愛し子なんです。だから、みんな「よしよし」しかできなかったの。みんなの自由意志で「お祈りします」というのをひたすら待たれた。みんなの自由意志で「印可書読みます」というのをひたすら待たれた。みんなの自由意志で「宇宙神ありがとうございます」って手を振りますというのをひたすら待たれた。でも、今までは、なんで失敗したかと言うと、はっきり言いますけども、なんで失敗したかって言ったら、自由意志でしてないのね。先生が言うからするねん。それではね、祈りではないんですよ。総責任者の自覚を持つということが祈りなんです。総責任者の自覚を持つということは、自分の自由意志でしなくちゃダメなんです。言われたからするでは、まだまだ偽物なんです。 

 だから、真祈りの会を主催される方々はね、特にそこに注意されて、自由意志でして頂くことが大事ですと言って下さい。それで、主催者側はね、皆さまが祈れないと思っているのは、こっちの、私の真祈りが足らないからで申し訳ありませんと謝らなくてはいけない。実際そうですから。主催者というのは本当に厳しい。厳しいけど、なって下さいね。みんなが、先生が、本当に主催者になる人ばかり集めているんだから、みんなが出来るんだから、卑下慢にならなくて、やってみようと思うまでは無理にしなくていいです。いつの時期にそれをするというのはね、もう神さまで決められているんですよ。私だけ遅れていると思う必要もないです。もっともっと後で、真祈りの会の主催者して、真祈りの会を創めようと思うのでいいんですよ。その時その時必要なように、真祈りの会が開かれるようになりますから、それが全世界に拡がって、地球が平和になります。それは必ず来ます。先生が仰っているんだから。でも先ず、ここの先生に御縁のあった方々がね、素直に総責任者の自覚という自由意志をもって、真祈りを創めて頂くのが大事なんです。

何か質問ありますか?

質問
何が起きても良いようになっているんだとは思うんですけど、先生のお話とか河上さんのお話の中でも、真祈りしてやってたら疲れないというお話と、でも真祈りしていても病気になるのも当たり前って、それでもいいというのは?

神さまの働きというのはね、理屈では理解できないです。なんでか?なんでかと言うと、理屈というのは、時間軸を追って感じるんですよ。時間軸を追って感じるから、過去は済んでるし、未来はまだ来ないと思っているのね。でも本当は、過去も未来も同時に発生するんですよ。だから、真祈りすると自分のどんな過去もすぐ消えちゃう。今のお話ですけど、真祈りしていると疲れない、或いは、疲れると言うのも一緒なんですね。その真祈りしていて疲れる時もあるんです。その時は素直に「ありがとうございます」と思って、休むなり眠るなりしたらいいんです。でも、全然疲れない時もある。その時は、真祈りしながら、油断なく進めばいいんです。真祈りしていたから疲れないから何でもできるわーと思ってやっちゃうと、崩れるんです。わかります?何でも出来るわーと思ったら、それはもう自分が出ているの。すべて神さまの御働きだけというのは、真祈りだけなんですね。真祈りすると、天と地が同時に現れるんです。天国と地獄が、この現世的に言うと、天国と地獄は同時に現れるんですね。だから、疲れない自分と疲れる自分が同時に現れる。その時、どっちの姿をとるかは、その場のフィールドに合わせて自由になっているんですよ。それを真祈りしたら絶対疲れないんだって掴むのは、間違い。老子さまの言う、「中を守るに如かず」なんです。老子さまは「中を守るに如かず」って、よく仰るんですね。それみんな、「中を守るに如かず」って言うと、真ん中に立つのがいいんやと勘違いするんですけど、もしそうだったら、老子さまは「中に立つに如かず」って仰っているんです。「中を守るに如かず」ってどういうことかと言うと、もう両極端ですね。無限の無限のプラスと無限の無限のマイナスがいつも同時に、一斉に創造されているよっていうことなんです。今の真祈りの話も一緒で、働ける自分と疲れる自分が同時に存在するんです。どの姿をとるかは、その時によって自在に出るんです。その自在に出るのを自在に受け止めれる、感謝してね、「神さまが良いようにされているんだ」ってね。仕事していて、腕の骨折っちゃって動けなくなっちゃったってなってもね、これで神さまが良いようにされていると思い切れるのが、真祈りしてる自分なんですよ。動ける自分とかに囚われているとね、それ真祈り崩れているわけです。こうならなくちゃならないっていうのは、真祈りが崩れているのね。そうなると、例えば、仕事して腕折って、「あ、動けなくなった。もう大変だ。ダメだ。」とこうなっちゃうわけですよね。だから、それはね、形じゃないね。先ず、真祈りして自由自在に動けるっていう、その自由自在に動けるのは何かと言うと、総責任者の立場なんです。すべての責任は自分にありと思えるから、自分の自由意志で自由に決めれるんです。それが何が起こってもよそ事と思っているうちはね、やっぱり崩れていくんですよ。だから、新聞見てもニュース見ても、或いは、どんな噂を聞いてもね、マイナスを聞いたら真祈りして、無限の無限のプラスが一杯って、素直にできるように、瞬時に、瞬時にできるようになったら本物の真祈りです。でも、あの人大変なことなってって、うっかり心に流すとダメなのね。ちょっとの差ですけど、大きな差になっていきます。それで、ちょっとの差が溜まっていって、現実の苦しみにどんどんなってくるんですよ。真の神さまの御働きだけであるにも関わらず、「なんでこうなるの?」って「なんで」が出るのはその為なんです。「なんで」が出た時は、真祈りからちょっと離れてしまったんだと思ってね、もう一度「宇宙神ありがとうございます」と呼吸に乗せて下さい。「宇宙神ありがとうございます」と呼吸に乗せるとね、理屈抜きに「あ、大丈夫なんだ」っていう、不動心になるんですよ。そこが大事なんです。でも、ちょっとでも神さまの愛を信じ切れないと不安になっちゃう。1分後に死んでも神さまが一番良いようにされているというのがわからないとダメですね。だから、先生は山作業の時でもどんな時でも、凄い怪我をされた時があるんですけど、どんな時でも先生は「ありがとうございます」だけで、文句は言われなかったんです。それを見習わなくちゃいけない。先生の中には、神さまに対する絶対の信があって、絶対の信があって、何があっても一番良いようになっていると確信だけだったんです。だから「ありがとうございます」大きな病気の姿をとられても、「ありがとうございます」だけだったんです。それを信じて下さい。よろしいですか。他に質問ありますか?

質問
この間、伝授があったって言われて、じゃあ、もう何があってもそうされてるんだと思うんですけど、なんかたまに、それで何か変わった?とか心境の変化とかあった?とか聞かれるんですけど、それはなくていいと私は思ったんですけど…

なくていいです。なんでか?ここでは、なんでか出しますね。なんでか。それは、無色透明の輝きの自分だからです。無色透明というのは、何も無いんですよ。ただただあるのは、ひたひたと湧き上がる幸せな感覚、喜び、幸せだけなんですね。それは自分の奥底から湧くものですから、この具体的に「うわー嬉しい~嬉しい~」とはならない。ひたひたと湧くものだから、本当に不動心になってくだけなんですね。真祈りして何か見えるとか、病気治せるとかね、それは嘘です。真祈りしていたら真の神さまの御働きだけなるんですね。真の神さまの御働きだけになるんです。そしたら、必要な時に相手の信仰心に応じて、必要なだけの病気が治ります。わかります?こっちが病気治しするんじゃないんです。その人の信仰心が病気を治すんです。イエスの言う、「汝の信仰汝を癒せれ」なんですね。イエスがいざりをたたし、見えない人を見えるようにしてって、みんなイエスがしたと言うんですよね。イエスさまがされたって。でも、違うのよね。イエスさまから言うと、ただただ神さまの無限の無限の輝きが無限に無限に一杯ってあらわさんが為なり。聖書には、神の栄光をあらわさんがためなりって書いてありますけど。それだけなんですね。だから、お礼を言ってきた人には、汝の信仰を汝を癒せと仰って、ただ本当のお礼を言っただけなのね。別に謙遜するもされてない。ただ神さまの御働きがイエスさまを通して、その人の体を真の神さまが通り抜けた。その真の神さまが通り抜けた時に、その人が真剣になったから。神さまに対する絶対の信があったから、奇蹟があらわれるんです。すべてはそれだけなんです。

真祈りの伝授も一緒です。いつも先生は、真祈りの伝授をされてきたんです。後は、受け取る側の真剣さだけです。はっきり言います。だから、真剣に素直に受け取れた人は、それがわかります。もう既にね、伝授済んでるんですよ。3年前に。みんな受けてるんです。受けれてるんです。自覚するかしないかだけなんです。その自覚をどうしても私はわかってないと殻を被るから、その殻をちょっと破るためにね、緩やかな悟りということで、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せてもらっていますけど、なんでかと言うと、呼吸というのは、自分の自由意志でもするし、神さまの御働きだけでもできるという、ちょうど自分と神さまとの橋渡しのとこにあるんでね。だから、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せると、一番わかり易い。

最初に説明しましたように、自分の呼吸、本当にスーッと大きく大きく拡がっていってね、自分の故郷のように真の神さまが故郷だったとわかります。それは人に言う必要も無いし、人、人によって自覚の仕方は違いますけど必ず来ます。ここに集った人は、みんなできるって先生仰っているんだから、素直な人はね。信じられない人はできないですよ。受け取る受け取らないは、みんなの勝手だから。素直に受け取れる人は、みんなできると仰っているんで、是非素直に受けて下さいね。素直に「宇宙神ありがとうございます」って呼吸に込めて下さい。そして、真祈りの会する時は、みんな光やってね、ちょっとでもマイナスに見えたら、自分の真祈りが足らんと反省して、主催者は頑張って下さい。もう、ただそれだけです。真祈りの会に横の連絡も何も要らないです。自然発生に集まって、自然発生に消えるところは消えるしという、自由自在な、自由自在な組織制のないのが、本当の真祈りの会です。あっちでする、こっちでする。来月はあそこでしようとか、あんまり縛ると偽物になっていきますので、よろしくおねがいします。後質問ありますか?

無ければ、今日はこれで終わります。
また来月お会いできるのを楽しみにしています。
ありがとうございます

音声は、こちらからどうぞ。 https://youtu.be/rsgjuU1M3-o