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9月勉強会 by 河上 2023年09月15日(金) 21時54分
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令和5年9月河上さん勉強会お話し−1(20230910−1)

質問:ありがとうございます。先月の勉強会でも、お二人が分かりやすく説明して頂いたんですが、「真(まこと)のプラスの言葉」と「虚の世界の両極に分かれたプラスの言葉」の違いなんですけども。どうしてもプラスの言葉だと、無意識の癖で安心してしまうところがあって。でも、説明では、お話の中では、真(まこと)のプラスの言葉以外は、すべて、プラスもマイナスも、マイナスなんだというところのお話がありました。中々、その違い、区別というところが無意識のうちにできなくて。何度も説明を聞くと思うんですけども、今回の説明をお願いします。

河上さん:はい。虚の世界のプラスの言葉というのはね、自分にとって都合の良いことをプラスに言うの。小さい自分にとってね。だから、自分にとって都合が良かったらプラス。だから、家族が健康でありますようにとか。身近な例で言うとね、娘が幸せでありますようにとか、お父さんが病気が治りますようにとかね。年を取ってきたら、親父が病気が治りますようにとか、治って良かったとか、健康で良かったとかね。自分にとっての結果が、都合の良いこと、プラスですけど、それってマイナスだというのが、中々、みんな分からないんですよ。その虚の世界の結果をね、要するに現実を掴むと言うんだけど、それが、どうこうというのが、なんで意味を成、中々、みんな分からへんのね。
 それって、もうちょっと分かりやすく言ったら、ゲームで勝った負けたと言ってるだけで、分かります?ゲームで勝ったても負けてもというだけで、ゲームで勝手も負けても、まあ一緒やろ?楽しんだだけで。それだけなんですね。だから虚の世界での、その人にとってのプラスというのは色々あってね。例えば、冬山に登るのがプラスの人がおるわけでしょう?あるいは42キロのマラソンを走る人が楽しくてプラスなんでしょう?あるいは野球でも将棋でもそうだけど、麻雀でもそうだけどね、ポーカーでも。ルールで縛って、その中で勝った負けたをプラスマイナスと言ってるわけ。小さく言ったら、そういう形やし、大きく言ったら、自分の生活での幸せとか幸せでないとか言うのを、プラスマイナスだと言ってるわけね。

 でも、自分にとっての幸せは、他の人にとったらマイナスなんですよ、この虚の世界では。例えば、たくさんお給料を頂くということは、儲けたということでしょう?それって他が安月給で働いた人がいるからのおかげで、自分にたくさんのお給料が来てるだけで。それって、先生のお言葉で言えば、ようけ(たくさん)給料を貰うのは借金なんだと。

 それの最たるものが、宝くじに当たるのが一番の大きな借金だとおっしゃるわけだけど。だから、虚の世界のプラスって宝くじが当たったら幸せってなるわけですよ。極端で言うと分かりやすいと思う。宝くじが当たったら幸せ。でも本当は、みんなのマイナスのお金を集めて、当たるんでしょう?宝くじって喜んでお金を出さないよね。ギブ&テイクで。当たったら取らぬ宝くじの皮算用やと言ってね。当たったら皆におごってあげるからなとか、色々言うわけだけども。実際はマイナスのお金を貰うから、ものすごく不幸になるんですけどね。宝くじで言うとね。

 でも、それは普段のお給料でもそうよ。大して働いてないのに、ようけお給料を貰う人ととね、一杯働くけどもお給料をあんまり貰えない人とあったら、どっちが幸せかと言ったら、先生は、一杯働いてお給料を貰えない人の方が幸せだと言うわけですよ。

 だから、お釈迦さまはね、阿難さんに、托鉢に行く時に金持ちの家は行くなと。明日食うお米にも困っているような貧乏人の家に行って、托鉢をしてこいって言うわけですよ。阿難さんは、そんな生活に困ってる人からお金を取ってどうするんですかって。素直だからね、阿難さんは素直に聞けるのね、虚栄心がないからね、聞くわけ。そしたら、お釈迦さまはおっしゃるわけね。今、先生のおっしゃったようなことを。金持ちのお金はマイナスで意味がないんだと。貧者の一灯がね、本当のプラスで値打ちがあるんだとおっしゃるわけですけど。本当にその通りで、この世のプラスなんてのは所詮マイナスなんですよ。

 いつも言うように、100個のあんぱんを、100人に神さまは用意してるわけ。だから要するに、今が一番良いようになってるっていう意味ですけども。ちゃんと今が一番良いように、全知全能の神さまが、この虚の世界といえどもしてるわけ。その人にとって一番のことしか神さまは用意してないの。でも、みんな文句を言ってね。あんぱんで言うと、私は5つ食べたいわとか、あるいは明日のあんぱんも確保しとかなくっちゃって、3つ4つって取るわけでしょう?要するにお給料をようけ取るわけや。そしたら、あんぱんを食べられない人が出てくるわけでしょう?100人のうちからね。そういう感じで、自分にとってあんぱんをたくさん取ったというのはプラスです。でも、食べられないマイナスの人が出てくるの。それって借金なんです。

 だから、この世は言葉通りになるって言ってね、自分は幸せになるとか言うのは間違いなんですよ。それを先生は口を酸っぱくして色々と説明するんだけど、みんな分からへんの。言葉通りになるという、自分に都合の良いところだけを捉えてね、プラスさえ言っていたら良いんだみたいにやるわけですよ。現実を掴んでな。現実を掴んだ時点で、要するに、今の自分がマイナスだから将来プラスになりますようにって、現実を掴んで言った時点でマイナスを積み重ねていることすら気付かないくらいにね、みんな自分が正しいと思ってるの。この前の護摩の話じゃないけどな。それで何も分からんようになってるわけよ。もう、只々それだけよ。

宮野さん:多分、先程の、その自分に関しての話を多分ね、自分にとっての話を分かりやすく、まあ、分かってるとまでは分からない、なんとなく理解はできるんやと思うんですね。ただ、例えば、人に対しての言葉、「私、病気になってん」とか言う時に、「え!大変やな、大丈夫か?」とか言うね。もしくは、その人にとって、なんか悪いことが転じて、良くなったのって、「ああ、良かったな」っていう、その「良かったな」という言葉はプラスの言葉やないのか。その人にわざわざ嫌なこと、マイナス的な言葉をかけることが、どうなんだろう?それ。プラスの言葉で言ったことやのに、そのプラスの言葉が、あかんのちゃうか?という風なところの、その見極めが難しいのかなという。

河上さん:いやいや、実際はあかんよ。

宮野さん:そりゃ、勿論あかんねんけど、そこが分からないんじゃない?

河上さん:実際はあかんねんけど、因縁因果も何も知らん人にね、「病気になって良かったな」って言ったら叩かれるからね。その慰めの言葉としてね、好転反応とかね、どうこうというのは言ってあげたら良いですよ。この世の、ある程度の常識の線で従ってやらないと、後ろ指を指されるからな。それは適当に合わせてあげたら良いけども。でも、ちゃんと本当のことを知っておいてね、印可書をね、その人に気付かれないように奉読してあげることが、真(まこと)のプラスの言葉を駆使することになるわけですよ。

 だから、この世の虚の世界のプラスをどうこうっていじったって、結局はマイナスを重ねているだけというのをね、要するに現実を掴んでどうこう言うのはマイナスを重ねているだけっていうのに早く気付かないとあかんねんけど、みんな現実を掴んでどうこうしましょうってなってるわけ。現実を掴んでどうこうしますってどういう意味かと言ったら、自分の力でどうこうしましょうってやってるわけよ。

 真(まこと)の神さまだけってなったら、神さまが一番良いようにしてるだけ、しか出えへんの。真(まこと)の神さまだけになったら、そしたら自分の我も真(まこと)の神さまなんかっていう言葉は出えへんわけよ。もう神さまが一番にしてるだけって喜ぶだけなの。喜んだら現実を掴んでへんから、サラサラと流れて、すべては良いように変わるんやけどね。現実を掴んでいる間は変わらへんの。

 現実を掴むということは全知全能の神さまを汚しているでしょう?この世を作ったのは神さまと違うの。みんなの言葉で作ったの。マイナスの虚の言葉で。虚のプラスであろうがマイナスであろうが、虚の言葉で作ったことであって、神さまをお作りになった世界ではないの、この世はね。皆が自分の言葉で、自分のルールで自分を縛って、色んなすがた形になって、いろんな能力になって楽しみに来てるだけよ。映画館に入っている状態よ。そうでしょう?映画館に入ったら、その映画の主人公に、みんながなって見るわけでしょう?楽しいも悲しいも色々あるけど、どれもその状態に、みんなそれぞれ自分の映画を作って楽しんでるだけよ。

 なのに、その自分が作った、自分の責任で作った現実を掴んでな、「神さまはこんな不幸なことを(自分には)してる。」とかね、「神さまは私にこんな目に遭わせてる。」とかな、神さまを汚すわけでしょう?それって自分が正しいと思ってるからや。神さまが正しいと思ってへんの。全知全能の神さまを信じ切れたら、自分の力なんかこれっぽっちもないって分かるから、文句は言えへん。

 だからいつも言うように、ちょっとでも文句が出たら、「宇宙神ありがとうございます」に投げ込まないと、真祈りの伝授を受けてないんや。先生の中で一番古い大先輩の言うこと一つよう聞かない。自分が正しいと思ってるからや。(僕の言うことを試しに)聞こうともせえへん。

 別に聞かんでも良いけどな。それくらいね、みんな自分が正しいから抜けへんの。現実を掴んで。それで現実を掴んで文句を言うわけよ。

 でも、その現実は誰が作ったん?あなたや!ということすら気付けへんぐらいな、ゲームの中に没頭してるの。だからほら、映画、怖い映画を見てね、小っちゃい子がそうでしょう?怖い映画を見て、それにもう抜け切れないから、夜寝るのが怖いって言うわけでしょう?「あの映画のオバケが来るから怖くて寝られへん、お母ちゃん寝られへん。」って言ってる状態よ、みんな。もう、その映画を見てることすら忘れてる。

 でも、どの運命も、どの自分の運命もね、今やってる仕事も、もう、その男という役割も女という役も、全部ね、自分でこれをやりたいって言って選んで、これを味わうと言って選んで来てるだけや。自分で選んで来て、何を文句を言うか、やねんけども。映画に没頭したら、普通はオカルト映画を見ても、怖かったなあって、楽しみやけど、本当に小っちゃい子みたいにのめり込んだらね、もう夜も眠れないくらい怖くなるはずや。あるいは、昔やったら、石原裕次郎の映画を見たらね、みんな裕次郎の歩き方をして映画館から出てくるくらいな、それになり切るみたいな感じやな。その状態になってることすらみんな気付かない。

 それで、尚且つ(なおかつ)、人の助けを求めてね、助けてもらって良かったってなるの。生活保護を受けられて良かったな、なんてのたまうひとが出てくるの。大変やからそれは早く抜け出さないとって教えれる人も一人もいない。先生の教えを50年受けてきた人間ですら。それくらい、みんな現実を掴んで現実から逃げられへん。でも、その現実を作ったのは自分だって気付かないと抜けられへん。まあ、抜けなくても良いんだけど、楽しんだら良いだけなんだけどね。

 楽しまれへん。現実をもっと楽しまないとあかん。自分が楽しむために来てるのに。それがプラスとマイナス、現実の虚の世界の。

 ちょっと質問して。よく分からない顔してる。

質問:マイナスの事柄とか、自分で文句を言うということは、比較的気付きやすいんですが、例えば、周りの方のプラスの行い、プラスのすがた、まあ現実を掴んでると思うんですけども、それに対して褒めることっていう、そのプラスの言葉…

河上さん:それは褒めておいたら良いけどな、褒めてサラサラと流しておいたら良いの。要するに掴まないというのが大事なの。だから結果に一喜一憂するなって言うやん。例えば、良いことをその人がしはっても、結果的にうまくいかなかっても、褒めておいたら良いということよ。そうだけど、現実の言葉、現実を掴んで、現実のプラスの言葉に振り回されてマイナスになっていくのはね、結果を掴むからや。

 あの人は勉強できへんとかな、あの人はサボってるとかな。色々あるやん?結果を掴んでしまったら、もう本当にマイナスを駆使したことになる。本当の駆使になっていくんや。

 サラサラと結果を掴まないで、この世的に合わせてね、楽しんでいたら良いの。演劇やからね、映画やからね。落語の世界よ。「なんか面白い奴が集まってワーワー騒いでおります。」やったら良いわけや。そうやのに、落語やったら、「ちゃんと取った出汁を捨ててしまったんか、アホたれが!」って言ったら、それはもう現実を掴んでるの。「あーあ、せっかく出した出汁を流してしまって、もう面白いのばっかりが集まって、ワーワー騒いでおります。」って言ってたら良いの。

 そこがな、大事やねんけど、中々、みんなサラサラと流されへんの。だから先生は手振りをつけて、サーサーサーってサラサラサラって言ってるのにな、変な宗教みたいに言うから、それも、凄い言霊やってんで。「宇宙神ありがとうございます、サーサーサー」というのはな。凄い言霊やってんけど、みんな分からへんし、先生を疑うからや。先生が仰るんだから間違いないってやったら、ちゃんとみんなあの時スッと悟れてんけどね。疑ってやな、変な宗教みたいに言うからやな、もうそれやったらって言って終わるの。

 先生の苦労が色々あるねんけど、みんな分からへんけどな。分かる?今ので分かった?結果を一切掴まない、サラサラと流したら、この世的に適当に合わせてね、褒めてあげたり慰めてあげても構わないの。でも、「本当に、がんになって大変ね」って掴んで慰めたってあかんの。相手にはね、「がんになって大変ね、きっとなんとかなるよ。」って言っといたら良いの。で、印可書を奉読したあげなあかん。「宇宙神ありがとうございます」の中に全部投げ込んでいかないとあかん。

質問:がんを掴んで、それをプラスに変えようというのが掴んでること?

河上さん:もうマイナスにしてる。神さまはがんを作れへん。人間が勝手に作ったやつやから、神さまに任せたら簡単に治るんや。でも、人間がな、どうしようって掴むんや。風邪ひいた時もそうや、熱が出てきた、どうしようって掴むから余計に悪くなるの。「ああ、これで神さま、ちゃんとしてくれた、良かった。」って言ってたら良いのにな。

 だから先生は、熱を出そうが、咳痰が出ようがね、「神さまはラクさせてくれへんな。」って感想は述べられるけども、それで辛いとかは一切おっしゃらない。喜んではっただけや。

質問:現実を掴んでプラスに変えようということが、既に掴んでるマイナス…

質問:そうそう、だから先生のセクハラ騒ぎの時でも、僕はその騒いで先生を疑った現実を掴んで怒ったから、めちゃめちゃ先生に怒られた。「現実を掴むんやったら、当分来るな。」って言ってな。

 分かる?だから何があっても印可書に、印可書奉読に戻ったら掴んでても離して貰えるから印可書がラクなの。「宇宙神ありがとうございます」でいくんやったら、掴んだ自分を必死で自由意志で「宇宙神ありがとうございます」の中へ投げ込んでね、気にならなくなるまで「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込まないといけない。ひたすら。「宇宙神ありがとうございます」で祈っても、「あいつ、あんなんしてる。」とかね「あの人がんやって。」思ってしまう間はあかんの。先生から「宇宙神ありがとうございます」って聞いてんやったら、そこまで真剣にやらなあかん。みんな先生を疑っているから真剣にできへんの。「宇宙神ありがとうございます」を祈っても何も変わらへんわってどこかで思ってるから、こんな面白い事になってるんや。はっきり言うけど。

 印可書はな、本当に印可書読んでいても大丈夫かなあ?と思っていても、それを吸い込んでくれるように先生がしてくれてるから、僕は印可書をお勧めしてますけども、「宇宙神ありがとうございます」でいけるで。その代わり、本当の真剣さが要る。もうお祈りができなくて、もう先生に迷惑がかかるから、もう…って泣いて先生に謝った、僕のような感じの真剣さが要る。この中で誰がな、必死で先生の言うとおり、お祈りしようとしたけど、できませんって言って泣いて謝った人がおるか。みんな甘すぎるんや。でもそんなん言ったら付いて来られへんから印可書って言ってるやん。

 これで大体分かった?もうちょっと?

質問者:いや、かなり…。

河上さん:質問してや。今、大事なところやからな。あなたを責めて言ってるのと違うし。だけど、みんなが思ってる疑問なの。代表して聞いてくれているから、本当に、ちょっと徹底して質問して。

質問:今ので聞いた理解なんですけども、がんを掴んでいる周りの方がいてて、「あ、良くなったら良いのにな」っていう、そのプラスの思いは虚のプラスの思いで、掴んでる思いだから、マイナスだという。

河上さん:そうです。

質問:神さまは一番良いようにしてるんだから、サーサーサーと流していればよい。

河上さん:そう。それでサーサーサーって流されへんやろう?本当は、あの人ががんやって掴んだ思いをね、必死で「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込むの。宇宙神ありがとうございます、宇宙神ありがとうございます…まあ、僕の時は「ありがとうございます」やったけど、本当は「天之造化主尊」やったけど、ありがとうございますの中に投げ込んでね、あの人ががんっていうのを忘れるくらい。絶対健康って思う必要もないの。もう神さまだけって。要するに、神さまだけってなったら良いの。すると病気は治るの。これが病気治しの秘儀やってん。

質問:それが今では、印可書というプラスの言葉で…

河上さん:そうそう。誰でもできる状態に、先生がしてくれはったんや。だから先生やったら病気を治してくれたのにとかね、甘えている時代ではないの、もう。それは、おまけで先生が、みんなの甘えを聞いてくださった時代で。これからはみんなが先生の働きをするんやって言ってるやん。

 それで、働きをするためには、印可書が一番ラクで、先生の神さまのお手伝いになるからね、印可書を奉読してねって、ここまで柔らかく言って分からんのやったら、好き勝手したらええんねんけどやな。「宇宙神ありがとうございます」に、ただ本当に投げ込んでいかなんね。「ありがとうございます」の十文字でもそうやねんけどね。

質問:がんの方が今までいてたとしたら、治りますように、というマイナスの思いをしていたけども、今与えられている印可書で、真(まこと)のプラスを…

河上さん:ひたすら奉読するだけ

質問:奉読すれば、神さまが一番良いようになってるんだなっていうことが分かる。

河上さん:そうそう。

質問:縛りが取れたということですね。

河上さん:そうそう。だからね本当はね、この世的なゲームでルールで、要するに自分の言葉で縛って楽しみに来てはるから、がんを楽しみに来てる人もいるの、本当はな。だから絶対に治さなくちゃいけないはないの。

 ただ、印可書はね、凄いもので、こっちが奉読するだけで、むこうの心にも印可書が響き渡るんよ。そしたら、その人が、がんを楽しもうと縛ってる、楽しもうのルールを外すから病気が治るの。それを昔は、「天之造化主尊」でね、放り込んで、病気治しをしてたんよ。でも、なんぼ病気を治してもな、喉元過ぎたら熱さを忘れて元に戻っていくからな。もうこんなんしてても意味ないなってことで、おまけは止めはったんや、先生。

 で、まずはみんなが印可書できるぐらいまでは、綺麗にしようと。自分が正しいとの思いを消そうと。お前の真祈りが足らんからって怒られてやね、ひたすら本当にしたんや、ひたすら、命を削って。本当に削りに削ってしたんや。だから本当はもうちょっと早く死ぬ予定やねんけど、なんかおかしい状態やけど、そないしてしたんや。それで99%、この前の護摩で言ったように、みんなの「自分が正しい」という思いを消しました。本当に消してるからね。でも残りの1%は自分の自由意志で投げ込んで貰わないと、悟りって言えへんの。それだけや。もう、そこだけや。

 だから、この現実を掴んで、病気が治るとか治らへんとか要らんの。いつも言うように、神さまが良いようにしてるだけで、あとはサラサラ流していったら良いねんけど、流されへんから印可書奉読に持っていったら良いというのがラクかなあと。テレビショッピングと違いますけどね、個人の感想であって(笑)。

宮野さん:あの、「投げ込む」っていう、先程のね…

河上さん:「投げ込む」が難しいんやな?

宮野さん:そう。「投げ込む」が難しくって。必死になって、例えば「宇宙神ありがとうございます」の場合、護摩の時も必死になって…

河上さん:淡々と読むだけ。

宮野さん:そう。「淡々と」なんだけど、先程言ったみたいに、がんだったのを忘れるぐらいに必死になる時に、必死になると「我」が入る場合と「淡々と」の、その差が難しいところかなと。

河上さん:うん、だけど、その「我」が入っても良いから、「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでね、そのがんを忘れる状態に持っていかんなんね。それがその、「ありがとうございます」とか「宇宙神ありがとうございます」とか「天之造化主尊」もそうやってんけど、ある意味難しいわけやね。そこまでひたむきに神さまを信じ切るという。それで、印可書は何が凄いかと言ったら、「本当に真(まこと)の神さま、(ちゃんといいように)してくれるんかなあ。」みたいなね、不安があったままで大丈夫やから凄いの。

 要するに、小っちゃい子がね、「お母ちゃん、お手伝いするよ、ちょっとキュウリを切らせて大根を切らせて。」って来るわけや。お母さんがお料理しててね、トントンと大根を切ってるキュウリを切ってる時にね、小っちゃい子が来てね、「お母ちゃん、お手伝いさせて。」って来るわけや。そしたら、そんなん、手伝いをさせたら余計時間がかかるし、まともに切られへんのも分かってても、そのお手伝いする気持ちが嬉しいから、お手伝いさせるのね、親というのは。神さまもそういうものなの。

 だから、印可書を奉読するというのは、もう本当に拙いね、真祈りにもなっていない状態でも、「お手伝いをしたい!」という気持ちの隙間を通して神さまがパンッ!と(光を通して)してくれるの。

 だから、印可書は神さまのお手伝いというところだけは信じ切ってくれて、やって頂かないと。「印可書を読んだらええんやろ?」ではあかんの。それで、奉読って言わせてもらってるわけ。

 印可書を読めとは言わへんのね。先生も読めとは言わなかったんは、その「お手伝い」というのが分からないとあかんから。でも、奉読というのは「捧げ奉る」やからお手伝いになっていくんでね。「奉読」という言葉を選びましたけども。それだけやねんな。

 で、要するに、現実無視できる、現実を掴まない、現実無視できるのが一番大事やねんけど、現実は、先生の言葉を借りて言うと、遠い遠い過去の結果なの。で、色んな人は、マイナスの、今言ったね、現実を掴んでどうこうっていったマイナス言葉を積み重ねてるから、今使った言葉が現われてこないから、余計現実は変わらないものや、正しいものやって勘違いしていくの。

 本当に先生のように真祈りに入ってしまうと、出した言葉はすぐ出るから、なんでも言葉通りに現実も変化するというのが分かるからね、言葉も選びはるし。だから滅多なことで、「あの大バカ者め」っていうことを先生はおっしゃらないけど、まあ何人かには言いはったけどね。それくらい先生は言葉を選びはったの。でも今は印可書があるから、「あのサボったヤツめ」とか「あのアホタレめ」とか言っても、印可書でなんとかなるよというだけです。そこまで小っちゃい子がやれるように先生がしてくださったのね。

 それでも、「宇宙神ありがとうございます」を選びたいという人は、そりゃもう、それで良いって。でも、本当に命懸けでやったら良い。「聞いてる」ではあかんの。「私たちは『宇宙神ありがとうございます』って聞いています。」ではあかん。聞いたら実行せえよ。なんで実行せえへんねや。

 だけど出来へんねんって。最初にね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せましょうね、真祈りは難しいから、そうして乗せましょうねって言ってね、乗せ切れた人が一人もおらんの。まあ乗せきれないのを分かっていて言ってたんだけどね。それぐらい、その簡単な言葉ほど逆に言うと難しい。一呼吸ごとに「宇宙神ありがとうございます」を乗せるだけやねんで。でも忘れるやろう?で、忘れた自分をね、責めてもあかんし、なんて言うんかな、責めずに「ああ、しまった」と思ってひたすらしないとあかんのやけど、それすらもできへんの。まあできへんのは承知の上でやっててんけどね。だから印可書だよっていう風に持っていくのに時間をかけてるんやけど。

 印可書やったら、ひたすらしょっちゅう読まれへんからね。読める時にひたむきになっていくの。ちょっとトイレに入っている間にとかね。ちょっと、さあ寝ましょうって寝る時に寝ながらとかね。自分の中で絶対に印可書が読めるという時間ってあるわけやから、その時にひたむきになっていくから、その時に、さあ寝ましょうという時に印可書を読むだけで神さまのお手伝いになるってこんなラクなことないの。

 でも、それをそこまで詳しい説明をせえへんのは、それはみんなが創意工夫をしてね、自由意志で、創意工夫をしてやって頂きたいから。あんまり、そこまで言ったら自由意志を縛り過ぎになってね、こっちの体が、あと動かんようになるから、言えへんと言って、今言ってるけどな。

 もう難儀なものやな。みんなが自由意志で創意工夫をして神さまのお手伝いをしようとしたら良い。

 神さまのお手伝いをしなさいって、先生がこの本のポスティングの時に、言いはったわけやね。だれも聞いてへんの。聞いてたらな、「私たちは『宇宙神ありがとうございます』って聞いています。」なんて無責任なことは言えへん。聞いてるぐらい分かってるわい。実行せえよ。実行せえへんやったら何にもなれへん。神書も読まないと何にもなれへん。飾っといてどうすんねんとか思うけどやな。まあまあ、それは良いから、とりあえず印可書を読んだら神さまのお手伝いになるから、しようねって言ってるだけ。で、この世的な…
 ああ、どうぞどうぞ。

質問:この間の護摩で、護摩の時の話で、知恵の実を食べるっていう。それを聞いてから日常生活を送っていると、100%知恵の実を食べながら生きてるということに気付いて…

河上さん:そりゃ、みんなやってるよ。それを現実を掴むっていうの。

質問:だから、何かをする前に、自分が、そのどうしても過去の経験が浮かぶので、印可書で消して…

河上さん:そうそう。せめて、「神さま!」って呼んでからする。そうそう。

質問:で、そしたら、神さまの知恵で、考えてやるんじゃなくて…

河上さん:すっと動く。

質問:そういうことだったんですね。

河上さん:そうです。そうそう。

質問:それが分かったというか。

河上さん:あの映画の「ランボー」の話で良く分かるやろ?現実を掴んで、結果を掴んでするんやったら、みんなも怪我したらな、あのマッチの頭の薬を削ってな、(傷口の上に)並べて火をつけないと(笑)

質問:それが、最初に聞いた時は、どうやって…?だって絶対考えてからやるんで、どうしたら、それで印可書を…

河上さん:そうそう。だから、みんな「自分が正しい」があるからね、正常な意識を保ってるしね、自殺をしないで済んでるから、凄い微妙なバランスやねんで。だけど、その「自分が正しい」と思った分だけ、神さまの光を受け損なってるの。要するに「自分が」というのは「神さまとは違うもの」と分けてるからよ。で、真(まこと)の本心の自分になったら良いだけやな。で、そこを印可書を通してなれるよというだけでね。それで普段も、自分でどうこうって思ってもね、まず「神さま!」って思ってからする癖を付けていくとね。

質問:印可書までじゃなくても、その時に一瞬、「神さま!」って…

河上さん:そうそう。だから、印可書がない時代はね、「お祈りをしてからせえ!」って、(みんなに言ってん、それで)僕は、うるさい言って嫌われてんけどな。みんな、その「お祈りをしてからせえ」の「お祈り」が分からへんから。

 それは、やっぱり自分の判断で自分が正しいと思っているから。そしたら、先生の話を聞いても分からんしな。そりゃ、自分の正しい範囲以外のことは受け取られへんもん。そしたら永遠に「因縁因果の輪」や言うねんけど、堂々巡りするわけよ。自分の正しい常識の範囲以外は一切受け取れへんから。でも大概の人は「常識に従って」とかね、「過去の経験に基づいて」ってやるわけよ。それで、この因縁因果の世界へ流転するの。

 で、この世界で流転してたら良いねんけど、最後は地獄で流転するの。それで、血の池地獄とかね、八寒地獄とかね、八熱地獄とか恐ろしいところへ連れて行ってもな、自分の判断の中で逃げ回るの。中々、みんな頑固やねんで。あの針山を登る苦しみの中でも自分の判断から離れへんねんな。もう散々やって疲れ果てさせて、初めてな、自分では無理って分かって地獄から出てくるねんけどね。それを追い回す鬼さんの役目は大変やねんから(笑)痛いの分かっててさせなんからね。

 でも、痛いでないと気付けへんの、みんな。幸せやったらな、今で良いって思うの。でもそれは違うのっていうのがな。要するに現実のプラスがプラスでないねんっていうのが、中々、みんな。「今、幸せやからええやん。」て言うわけよ。「今、家族が健康やからええやん。」って言うの。いや違うねんっていうのがな。今、家族が健康ということは、将来、大変なるよということなの。この世はプラスとマイナスがね、糾える縄のように交互に来るわけ、誰でも。

 で、お釈迦さまはせめてちょっとでもと思って「中庸(ちゅうよう)が良い」と(おっしゃった)。幸せ過ぎてもあかんし、不幸すぎてもあかんし、中庸で喜んどけって言うわけ。今が一番良いようになってるというのを、あの時はもうちょっと柔らかい言葉で言ったわけやけど。

 今が一番良いようになってるのだから喜べ喜べって、お釈迦さんもちょっと言うねんけどな、中庸という言葉で。分からへんの。「大金持ちになりたい」ってみんなやるわけよ。「良い車に乗りたい」とか「良いお洋服を着たい」とか。それで、次、大変にな目に会っていくねんけどね。

 でも、所詮は虚の世界のプラスマイナスなの。それを乗り越えるのは、「自分が正しい」という「自分」を捨てなあかんねんけど。それが、みんなできへんから、自分というのを「我」というねんけどね、自分というのを消せないから印可書奉読で。で、普段は「神さま!」って呼ぶ癖を付けたら良い。そしたら分かってくるわ。だけど実際ね、車の運転でもそうやけど、いちいち過去の経験に基づいて運転してたら事故起こすで。一瞬の判断でやってるやん。ああいう感じになっていかないと。

 だから野球でもそうやけど、ホームランバッターっていうのは、もう、いちいち、練習に練習を重ねた結果、「自分がバットを振る」を超えるねんな。そしたら、ホームランが出るの。だけど、過去の経験に基づいて理屈で言ってる間は、「ストライクが来たら、振ろう」ってやってるわけよ。「ストライクが来たら振ろう」と言ってるうちは当たらへんの。自分が振ろうとしてるから。

 それは剣道でも、なんでもそうやんねんけど、自分がどうこうと思ってるうちは達人になれへんの。達人になると、その自分が消えてるねんけど、それだけではあかんわけよ。「神さまだけ!」ってなるまで行かないとあかんのやけど、殆どの人は、イチロー選手でもそうやけどね、名人・達人の段階で止まるの。神さまと繋がれへん。で、先生は印可書を作ってくださったわけ。この世的に、名人・達人にならんでも、印可書を読んだら、真(まこと)の本心の自分を自覚できるよって。
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令和5年9月10日河上さん勉強会−2(20230910−2)

質問:テレビで指の生まれつき指のない男の子が、施設に預けられたんですけど音楽を聞いてるうちにピアノを弾きたくなって、ある日弾いてみようと思って触った事もないのに指もないのに全部弾けたっていうのを、やっててそれはそういう、だから教わらなくてもできたりするのですか?

河上さん:ああそうそう。だからその人はそういう自分にルール作ってね、指が動かないとか、いろんな縛った状態でそういう事ができるように楽しむためにこの世に来はった訳や。で、またそういうのを見て他の人が感動するでしょう?「人間の能力は無限やな」って、その為やね。

 マラソンの選手でもそうでしょう ?なんであんな40何kmもひたすら走るんと思うけどやね、近道したら終いやん(笑)。そうやろ。それをルールにのっとってその40何キロのコースを坂ありね、もう必死で走るわけでしょう? あれも自分で色々な状態を限定作って、ルール作ってね、その中でどんだけ神さまの命を発揮できるか、楽しんでいるだけよ。 走るのが苦手な人から見たら苦痛やけどな 、走るの楽しんだ人にとったら楽しみや。 それは冬山登山でも何でもそうやん。 ラグビーでもサッカーでもね。 サッカーなんか手を使ったらあかんわけでしょう?あんなん手使ったらしまいや。で、その手を使わないという縛った中で、どんだけ、できるかをお互い楽しむわけでしょう?

 だから本当にみんな自分で作って、自分の運命も作って自分で楽しみに来ているだけやね。 それに気づいたら楽しみに来ているだけやから、結果どうこうて気になれへんね。気になれへんようになったら、苦しみと違って楽しみやね。で、マラソンでも本当にオリンピックで優勝できる人は限られているわけやんか。そしたら普通はそんなもん自分なんか絶対無理やっていう人でも、ボストンマラソンなんか走るわけでしょう?それは楽しみやからや。結果掴めへんから、ボストンマラソン出場できるんや。結果を掴んでいる人やったら 、優勝ね、せめて3着までに入らないんやったら出られへんってなっていくけどな。 オリンピックでもみんな出るわけでしょう? 結果掴まないからや。掴んでいるようやけど、掴んでへんからや。

 で、又ね、そのように頑張ったな、凄いなってみんな褒めてくれるわけでしょ?金メダル取れへんかったからあかんとは言えへんやん。今ちょっとややこしい風潮はあるけどな、だけどなそういうもんや。みんな楽しみに来ているね。 結果は関係ないね。

 だから空海さんはね 高野山でもね、ほとんどのところは 未完成で残しはった。それは結果を掴まさないっていうのと、もう一つは一瞬一瞬新たに変化していくっていうのを、示しはったわけやね。わざとどっかを未完成に置いてあるわけやけどね。東寺もだけど。京都の東寺もどこか未完成で置かれているのは、その一瞬一瞬新たを教えたかった。その一瞬一瞬新たが分らなあかんのだけれども、一瞬一瞬新たは印可書を読まないと分かれへんね。自分がどうこうしようと思っているうちは、一瞬一瞬新た違うね。自分がどうこうしようとしているのは結果を掴んでいるからや。今の結果も過去の結果もね。で、その辺が理屈で言ってそうかなーじゃなくて、もう実感として、湧くまで行かなあかんからね。

 「宇宙神ありがとうございます」はそこまでたどり着くのに大変なわけよ。本当にその人が神さまに対して 絶対の信があって真剣でないとあかんね。私たちは「宇宙神ありがとうございます」で聞きました、では困るね。でも大概の人は真剣さがないからな、いや、ないのが普通やねんで、責めて言うてるのと違うで。

 だからそこに投げ込まれへんねんな。で、真剣さがなくてもちゃんとお手伝いになっているって信じてくれたら印可書奉読は、神さまがちゃんと連れて行くよっていう最後の大おまけ、若しくは護摩木を書いてくれたら連れて行くよっていうね、護摩に参加してくれたら連れて行くよっていう、もう最後の先生の大おまけよ。病気直しの大おまけをしても仕方がないっていう事でね、

  先生がこのシステムで行くという事で、事細かい事を指示していかれた。そんでそんなん言われても「 僕の言う事なんて誰も聞きませんで」って言ったら、先生がニッと笑って、神さまはちゃんとするやろって言って、「ああ、はいはい」。文句言ったらあかんな、でここまで来てます。

質問者: ありがとうございます。

河上さん:どうぞ。

質問:先ほど人類の言葉で、この社会ができているという事ですが、本当に正確に言うと自分の見ている世界がという。

河上さん: そうそう。うん。だから自分の見ている世界しかないね。ただあっちの世界、死んだらね、本当に自分の見ている世界しか出ないから、余計に堂々巡りするね。で、この肉体があるこの世界だけが、自分の見ている世界、あなたの見ている世界、あなたの見ている世界が重なるの。だからちょっと他人の世界を垣間見る事ができるわけ。それが救いやね。

 だから先生は先生の描いている理想世界を皆さんの心の中に重ねてくれはったわけよ。だから先生を慕ってくるんやけどね。で、理想世界を重ねるという事は光を重ねるからお清めができたの。お清めの原理やねんけどね。病気直しの原理でもあるねんけれども。そういうのができるのがこの現世の大おまけや。

 だからお釈迦様は肉身得難しと言うねんけどね。肉身得難し言うて、こんな大事な世界に大おまけの時に生まれているのに粗末にしたらあかんて 言ってお釈迦様は言うんだけれども、みんな文句を言って、私はこんな不幸でこんなダメで言って、みんなお釈迦様に文句を言いいにくるわけよ。それをそんなもん言うててもあかんのじゃ言うてもあかんから、合わして合わしてね、いろんな方便を使ってくださったわけ。

 だからみんな自分の世界しか見ていない、本当はね。でも先生の良いプラスの世界を見せてもらっているからね印可書を読もうかなっていう気になる。もう先生が自分の体に全部ふりわけて、自分の体で全部消してしてくださったんや。ちょっとぐらいお前もこの後ぐらいはせいとか言われて、一杯ありましたけれども。

質問:まあ見ている世界はそういう事だと思うんですけれども、例えば自然そのものは神さまが作られたわけですね?

河上さん:そうです。だから 自然、動物もみんな神さまがちゃんと作られてね、ちゃんとしてあるの。でも人間の側の思いをつけて人間側の思いから見てね 色々なマイナスをのせるのね、

 だからせっかく神さまが チャンとした絵を書いているのに、それに落書きをするわけよ、思いで。それでどんな落書きをするかといえば、例えばね、人間の思いで見たら、自分が正しいっていう思いで見たら、弱肉強食の世界でしょ? 動物は。でも本当は捧げ合いの世界やね。だから上の方の虎さんとか、大鷹とかね、駆除してしまうとねずみさんがいっぱい増えるとかね、鹿さんがいっぱい増えるとかオオカミ駆除したから鹿さん一杯増えるとかね、いうて弊害が出るでしょう?ちゃんとしたバランスが勝手に崩れるわけよ。人間の勝手な思いで。

 それは今、石油掘ってね、勝手に使うんでしょ?人間が。それ地球霊様の体や。それを勝手に使うから、だんだん崩れて凄い状態になっているね。ちゃんと木を植えて炭にして燃料として使っていたらええねんけど、人間が増えすぎてるのもあるし、贅沢しすぎているのもあるし、もうぐちゃぐちゃやねんて。それの集約した形が戦争として出てくるけどね。でももうそれももう追いつかなくて、でも護摩でだいぶ消しているねんけれども、いよいよ切羽詰まってきて、また今地震があったでしょう、外国でね。いう感じであれがが止まらずにどんどん来たらちょっと大変やね。

 土曜日のそうですね、朝9時半頃がもの凄く大変でね、もう日本が揺れそうで大変やってんけど、どうなるかと思ったぐらい、もう何とか消しましたけれども。いつまで先生がそのおまけをしていいっておっしゃるかは、僕には分らないからね。おまけがあるうちにみんな印可書を奉読してください。本当にお願いします。

 消せる限りは消すし、止めれる限りは止めるけど、先生がもうええ言ったら終わり。 僕の意志ではどうしようもないです。そういうぐらい切羽詰まっています。

 人間が何でも食い尽くすやろ?木も山もお魚も何もかも 食い尽くして。みんなで分け合ってね、捧げ合ってやってたらこんな食いつぶしは無くていいのにな。そのようになっている事を、自分はみんな関係ないって思っているやん。そんな事はないで。この日本で極楽のような生活を送っているのは食い尽くしてるで。

  栓ひねったら水出るねんもん。その動力から何からどこからとってんねん? 地球霊王様の体から取っている。本当は水を汲みに行くか、山の水を引いてくるかとかせんならんのに。ポツンと一軒家見たらわかるやろ、水の大変さ。「 田舎暮らしはな、大変なんじゃ」と言って、お婆さんが凄い山登って水場を整備しに行くやん。あの水場でも枯れるんよ。枯れるからまた湧いたところに行って、そう引いて来るとか、もう大変やねんな。だけど皆そんなせんですむわけや。

 勝手に命の大元である 琵琶湖の水を飲んでいるね、みんな。 関西の人はな。関東の人は、霞ケ浦 の上の何とか湖の水を飲んでいる。どっちも大きな湖は全部、命の素やねんけどね。それも必要なだけ使ったらいいんでしょ?でもみんな贅沢に使うやん。

 先生はお風呂に入る時ね、洗面器いっぱいのお湯しか使われへん。だから先生の服すぐこの首のところ 垢だらけになって 奥さんがよく困ってはった。それぐらい 洗うのでも石鹸でも水でも始末してね(大事にしてね)、石鹸っていうより、水を始末して入られたからね。でもあんまりそんなん言うと、また色々あるから言わんまま来ていますけど。みんな先生の真似をしようとして体調を崩すからな。体調を崩したら意味ないから。

 先生が3週間断食をされて1週間食べはってっていうのを続けてはったんやね。それはようせんから3日断食して1日だけ食べてってやってて、栄養失調なって倒れかけたから、先生は断食やめられて、食べるようになりはった。僕のように自分の側の勝手な思いで真似をしたらあかん。

 でも本当はみんな今食べている3食をね、1食にするだけで十分やね。本当はな。でも3食を食べなあかんて勝手に自分で縛って無駄なものを食べてるね。これ忘れてや、極端な表現で言っているからね。だけど本当はそないしたら人類全体に食べ物が行き渡るからね、戦争も起これへんね。だけど、今そんなん言ってもね、無理やから、先ず印可書奉読してください。印可書奉読をしたら神さまのお手伝いになるから。そしたら大きく変わります。

質問: 少し話は変わるんですけれども、先月の勉強会で祭壇はいらないと話がありまして凄く心に来たんですけど、もう少し詳しくお話しして頂けませんか?

河上さん:祭壇を作ると、まあ形式ができるやん。形式出来ると自分のところが一番って思いたがるね。で、本当は「宇宙神ありがとうございます」を出した時はね、先生はこれを作る予定と違ってん。だけど何もないとみんな不安がるから、これをしてん。でも護摩の会場の額は何れ燃やしたいと思っています。あそこにこの「宇宙神ありがとうございます」の額を置くと舞台が祭壇になってね、これが一番って言い出して全部が崩れるから、何れ勝手に燃やします。勝手に撤去して燃やします。はい。みんなの総意でって言ったらまた揉めるから、もう僕の責任で燃やします。護摩の会場のは、いずれ。それぐらいね、その自分のところが一番って言った時点で偽物になるの。要するに自分の所って言ったら神さま以外のもの作っているでしょう?真の神さまだけやから一番もクソもないね。でも教えを立て、組織を立てたらこの教えが一番、この組織が一番ってなるね。もうなった途端に全部崩れるね。

 それは一番最初は「ありがとうおじさん」って勝手にみんなが名前付けてん。先生は「つけたらあかんあかん」て言うねんけれども、みんなつけるから、押し切られてやってて、ぐちゃぐちゃになったんや。名前でもね。

 だからもう先生って呼ぶのは松下先生お一人で十分っていうて、先生を作ったらこの先生が一番って言い出すね。そしたらもうあかんね。真の神さまだけあって誰もないね。「みんな真の神さま、みんな光」やって言っているのに。「光分けられへん」って言ってるのに、まだ分けようとするか、みたいな感じやねんけどな。それは結局自分が正しいってね、自分の経験に基づいて判断する癖があるから、自分のところが一番って言いたなるね。

質問: まあ私の部屋の床の間と言うんですか、いつのまにか祭壇風にまつっているんですけど・・

河上さん:いやいや自分がね、自分の好みでするのは構わへんね。でもそれをね、これが標準形式であるとかね、これええやろって人に見せたらあかん。だからホームセンターで売っている神棚を買ってきてな、自分がそれを気にいってたら祀っても構わないけれども、それを人に見せたらあかん。あるいは見せても、「これが一番や」って言ったらあかん。それだけよ。

 だから五井先生は「神」っていう字を書いてしはっただけやけれども、本当は五井先生もあれは作りたくなかってんけれども、みんなが不安がるから作っただけや。真の神さまだけっていうのは空気・光・水でしょ?無色透明やから作りようがないんやて。 作りようのないものを作るからややこしいね。 でもな、どうしても「自分のところ一番」って言いたいね、みんな。言いたいからほら「日本が一番」とか「アメリカが一番」とか「ロシアが一番」とか言いたいから戦争になって行くんやんか。みんな、動物、マウンテング(自分の方が相手より上と示そうとする行為)するんやな、上に立ちたがる。

質問: 家の祭壇をですね、全て無くすと凄く自由だなと感じたんですね 。

河上さん: うん。ほんなら無くしたらええやん。

質問:無くして良いですね。まあアドバイスが頂ければ。自分の思う通りやったらいいですか?

河上さん:適当に叩き壊してゴミ箱に捨ててもいいし、それが いややったら 護摩のところに持ってきて最後に燃やしたらいいやん。

質問:はい、分かりました。ありがとうございます。もう1点ですけれども、昔、先生が例えば給料なんか貰ったたら、一度神棚に、供えて…

河上さん:そうそうそう。

質問:お礼して神さまから頂くと。

河上さん:そうそう。だから形をした方が神さまから頂いたって言う気持ちになる人は形をとったらいいし、そんな一々とらんでもな、会社の社長から貰ったと違って神さまから頂いたって、すって思ったらええだけやね。 でもその辺が微妙に思えんかったら 印可書奉読したらええだけや。いう感じやねんけど。

質問:だから神さまが無限大の外、はるか彼方と

河上さん:そうそう。

質問:思えたら、そう思えたら、何所の場に居っても、その場でありがとうございますと?

河上さん:だから印可書は凄いやろ?あの冒頭がすごかってん。だから逆に言うとね、自分が正しいと思いこんでいる人は印可書を選ばれへんね。だって「絶対の中心、無限大の外遥か彼方」って自分を退きひらくやん。自分が消えるから不安でしようがない。で、その人らのために「 宇宙神ありがとうございます」をね、先生は残してくださった。で、どうしても,今生で選びきれない人のためにね、最初の強い光の印可書はね、わざとね、みんなの目の前で燃やしてしまいはった。でないと印可書を選び取れない人が行き場を失うからね。先生は「全員連れて来い」っていう指示やから、全員が連れて来れるようにしています。そんで 「宇宙神ありがとうございます」を選んだ人がどうしても投げ込み切れんかっても、必死で投げ込もうとしてくれていたら、引っかけて来れるけどもね。私ら「宇宙神ありがとうございます」って聞いています、だけでやろうともしない人は引っかけようがないから、もうそれは仕方がない。 本人の自由意思やね、やっぱり。神さまの方に向いているか、向いていないかっていう事や。

 まず神さまに向かなあかんね。で、恥ずかしがらずに呼ばなあかん。でもその呼ぶ神さまが小さいからややこしかった。でも印可書やったら無限大の真の神さまとしてね。「 宇宙神ありがとうございます」を選ぶ人は「宇宙神 ありがとうございます」は真の神さまそのもので信じ切ってくれなあかん。「 宇宙神ありがとうございます」で大丈夫やろうか?とかねやっぱりどこかでみんな否定するからややこしい。

 だから「宇宙神ありがとうございます」って言いながらね、殺人を犯してもええんか?とかね。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せましょうねってやった時にね、次の護摩で質問が来たわけよ。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せたら真祈りしているんだから 呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せながら殺人をしてもええんか?強盗してもええんか?っていう質問が来たんだけど、そんなん論外や。もう根本から先生の事を信じていないし、聞いてへん。

 そんな理屈を言っている暇はない。まあ理屈言うてる人は好きにさせるけどね。「全て真の神さま」って先生 言ってるやん。「みんな光」やて言ってるやん。それをよけといて、自分は正しいって判断するからそんなおもろい質問が来るね。自分の我も真の神さまか?とかな、おもろい事言うのは自分が正しいから抜けきられへんね。「全て真の神さま」って言ったら「自分が正しいはない」んや。自分が無いねんから。

 だから印可書はね、自分が信じきれんかっても冒頭で自分を無限大に広げていくからね、大丈夫よって言っているね。印可書の凄さやね。あれを最初みた時に震えた。こういう風にするんかみたいな。先生が命に代えて作ってくださった印可書や。本当に命と引き換えにあの冒頭を作ってくださった。でも自分が正しいと思っている人はもう拒否して拒否して拒否した。責めて言っていると違うで。

 だから選べない人はどうぞ 「宇宙神ありがとうございます」に縋ってください。「 宇宙神ありがとうございます」が「ありがとうございます」が 光そのもの、真の神さまそのものって信じきってね、縋ってください。単なる言葉やと思ったら何の意味もないです。

 だけどそんなもん印可書もそうやろ。単なる言葉やいうたら何の意味もない 読むだけで、分らなくても読むだけでお手伝いになっているところだけは信じてください。そこだけは要ります。

 それでも印可書が真の神さまそのものと思うよりは楽やろ?お手伝いなるって思う方がな。それぐらい印可書はおまけが多い。「みんな真の神さまを思え」って言うたってな、思われへんねんて。みんなの思う神さまは小さいね。

 で、今までは「真の神さまを思え」っていうのは不可能やったから、いろんな宗教の形にして色んな色合いに付けた光にして神さまは降ろして下さったわけや。それぞれの何々の大神とかね、色々な神さまの名前がついた宗教があるわけ。あるのに自分ところが一番って言い出してな、喧嘩になっているわけでしょ?神さまが絶対の愛なのになんで神さま同士で喧嘩になるねんっていうのは、「自分が正しい。自分のところが 」って言って それぞれの教えを汚していっているだけやねんけど、汚している事すら気づかないぐらいね、自分が正しいと思ったら何も見えへんね。でも自分が正しくないと思うと自殺するからな、正しいと思っていていいから 印可書奉読してたら神さまのお手伝いになるよ、っていうのが一番楽やと思うね。

 もう終わりが近いから(河上さんの寿命)本当に最後のところを説明してます。後3年あと4年,3年で終わるからな それまでに みんなしっかりと悟ってな。

宮野さん:「悟ってな」っていうのと8月8日と、悟っているとの関連性を・・

河上さん:いやもう既に悟っているから自覚してほしいだけよ。 ただ 8月8日過ぎたから、なんて言うの、まあ練習やね。真祈りの練習に、本当に真祈りの練習に入った。要するに神さまのお手伝いしてっていう練習に入ったわけやね。それだけに逆に言うとつまらない思いを入れていたらどんどん病気になるよっていう、つまらない現実を掴んでね、マイナス思ったらおまけが無くなったから、どんどん病気になるけど、それはそれでその形で使って頂けたっていう事を分かって欲しいという。病気になって、ああこういう風に使って頂いてよかったなあや。「なんで病気になった?」と 思わないでね、という事で8月8日以降はそうなったんでね。

 ただ肉体に現れてくるのは3ヶ月とか半年とかな、せやろ?悪いものを食べていても影響が出てくるのはズレるやん。 それはある意味救いやから。うっかり現実を掴んでマイナスを作ったんを忘れて印可書に戻っておいたら大丈夫やけど、ずっと楽しく現実を掴んで遊んでいたらそれなりの状態に体がなります。これからは。

 なっても修理をしないからね。言うてこんかったらおまけをせん事もないけど、言うてきたら知らんからなって言って、言うて脅かしてな、真剣になってもらおうと思って。

 まあそれぐらい その8月8日を過ぎて地獄とこの世がピタッと一つになってきたんでね。 色んな意味で、逆に言うたら病気も治りやすくなったっていう事です。逆に言うたらややこしい病気も出やすい。どっちも両方向に出ます。だから印可書奉読をひたすら、自分が奉読したら縁者に全部響くからね。親類縁者兄弟友達に響いていくから、皆さん印可書奉読は責任重大です。

 深夜勉強会をやめたのはそれくらい体力的にググって落ち込んできてん。色んな意味で大変やねんけどね。だけど約束やから、あと4年間は持たせますけれども。もうかっくん行けるかな? はい 。

質問:なぜ4年なんですか?

河上さん:先生がそれでええって言ってるから。僕の都合はない。まあ先生がいて、神さまの都合やな。神さまの都合、神さまが良いって言ったら、ただそれだけ。

質問: 護摩焚きの成功が続いていけば結果次第でどんどん状況も変わっていく?

河上さん:勿論、そらそうよ。だけど今の状態では。だって誰も護摩の会場の額を下ろそうなんて言い出せへんもん。 誰か何時か言ってくれるかなって思っていたけど、もう勝手に自分でやります。ここはね、まあちょっとお祈り来るときでも何か無いと不安やから残しておきますけどね。でもこの形が一番とかいらない事を言わないようにね。ちょっとした墓石のようなものやね。

 モニュメントやね。で、こんなん言うとな、理屈言いはな、そしたら印可書ここに書いたらええやん、とかな言い出すからな、そういう問題ではないね。本来は一切の形はいらんね。 組織も立てない、教えも立てない、そういう事は一切の形を立てないや。だから護摩の時に ほら貝を吹かへんしな、白い衣装を着てこうしないしなっていう。ほら貝吹いたらかっこええでやっぱり、始まる時。そのために大きいホラ貝も用意をしてんけどな。「吹いたらあかん、ほら吹くな」って言って怒られた。(笑)

まずその「教えを立てない組織を立てない」という意味をね、実感として分って下さい。 みんな光やから「みんな祈っている悟っている救われている」やね。 「みんな既に悟っている救われている祈っているや」、もうそれだけ。「みんなみんな神のみ光み力み命や」。分けようがないねんていう。そこが実感として分かったらもう何の怖いものも、不安もない。怖いでなくて 不安が無いねんな。死ぬとか生きるとかもうない。すると、このもう尽きた寿命をどう延ばすかも分るから無理に伸ばしてるけど、もう、ちょっと、あんまり文句は言わんけど。死ぬ時って体が硬直するやん。 それ毎晩硬直する訳。毎朝伸ばさなあかんね。結構大変やねんで。

 大体死ぬ時ってな、先言うといてあげるわ。本当に体ぶわーって(熱く)なってね。次にバーッて冷たくなるね。それで無色透明になっていくね、思いが無かったらな。思いがあったらその思いの世界が見えてくるね。で、見えた世界に自分が行くの。それがどんなに掴んでいるかによったら地獄やったり、決まった世界に連れて行かれるじゃなくて、自分がそこへしか、そこが良いと思って行くんよ。

 護摩の時に話したように 神さまの世界は光そのものやから、掴みようがないの。そしたら自分が光やったら掴みようがあろうがないとか関係ない。だから大丈夫やけれども、地面ないと不安な人は、ふっと見ても地面なかったらな、地面のあるところまで降りるわけよ。 地面のあるところはあちらの世界で言うと地獄なんよ。もうちょっと気持ちが薄い人はって順番に上がっていくだけ。それでもみんなが思っている天国っていうのは、まだしょせん形があるわけよ。 極楽って言うでしょ?まだ形があるのは偽物よ。 無色透明の輝きだけになるね。はい。

質問:死にそうになった時は印可書を奉納?

河上さん:印可書を必死で奉読したら無色透明になって大丈夫。だからな、本当に自分の心に沁み付くぐらい印可書を奉読しとかんとな、うろ覚えやったら死にそうになったら、思い出されへん。で、その時慌てても、もう目も開けられへんから読まれへんからな、それを言ってねんけどな。

 だから、音楽ってあるでしょう?音楽っていうのはまあ真の神さまに近づいていく響きそのものやね。 音って見えないじゃないですか? みんなが感じる音楽っていうのは丁度肉体が踊る感じの響きやね。でも本当の音楽は数式そのものやね。で、数式というのは本当は光そのものやね。一番奥の奥のっていう感じやね。だけ、を言うとくわ。分る分らへんは別にして、一応説明しておかんとな。 やねんけど、その数式ですらね、一々に考えなくても閃いて分るというものばかりなわけよ。 音楽ってそうでしょう?いちいち考えなくても響いてきて感じるじゃない?ああいう感じで音楽の真髄というか、本当の部分は数式で感じれるね。それは見事に美しいものよ。

 それはみんなが思っている極楽世界があってね、このきらびやかな、どうこうっていうそんなものじゃない。本当の重層構造に重なった、先生のおっしゃっる無限の無限の輝きが無限に無限に一杯で美しいねんで。

 本当はね、その世界にいつも自分が立っているのよ。皆さんもね。それが自覚できたらこの肉体がペットのような存在である事がわかるわ。自分のペットよ、可愛い。するとね、ペットにちょっとこういう何て言うの?猿回しがね、お猿さんに芸を教えるじゃない。 そんで 色々な事をさせるやん、そういう感じやね、皆さんの肉体というのは。

 それでその優秀なお猿さんを持ちたい人は優秀なおさるさんを持ってきて色々な事をするしな、ちょっとどんぐさい子で行きたいなっていう人はどんぐさい子でいって。ただそれだけ。たったそれだけやね。その動き難いものを動かして楽しむか、自在に動かして楽しむかだけでね。

 でもゲームでもあんまり簡単やったら面白くないや。だからこの世で IQ 200以上でね、天才で何でもこなす人という人はある意味面白くないわけよ。そんなん別に真の世界行ったらもっと凄いねんから。だから余計に凄い人ほどね、わざとどんくさくして降りてくるね。

 それ分かってな。そしたら本当に楽しんでいるのわかるし、で、そのペットの方が印可書を奉読してくれたら、もろに真の本心の自分が使いやすいねんな。で、本当に自在になっていくね。

 本当は真(まこと)の本心の自分が(肉体という)ペットを作ってやってんねんけれども、ペットの方が勝手に自分が正しいってやっているからな、勝手に動き出したわけよ。で、ややこしいね、今。でも印可書を奉読してくれたら真の本心を自分が(ペットの肉体の自分を)自在に動かせるから一気に治まるね。だから肉体が少々ね、つらい状態になっても文句言ったらあかんね。

 だからね、走る事で真(まこと)の本心と自分が繋がっている人はマラソンが苦痛じゃなくて楽しみなわけよ。 雪山登山で登山の部分で真(まこと)の本心の自分とつながっている人は 雪山登山が楽しいてしゃないね。 みんなそれぞれ他の人から見たら何やねんと言うのを楽しいやろ。 それは本当は仕事も楽しんでるはずやね。うるさい、小うるさい上司で、給料ようけ貰えんでこき使われているの楽しんでいるはずや、本当はね、でも文句を言うからいよいよ分らんようになってくるし。大事なところやで、今。


令和5年9月河上さん勉強会お話しー3(20230910−3)

質問:この事とずれるんですけど、この間からも噂話がダメっていうので。そう聞くと、なんか常に噂話しかしてないなと思って。

河上さん:そうよ。だからその噂話には乗ってあげたらええけどね、「印可書」奉読して消していったらええ。

質問:自分もしてて楽しいなって。(笑)

河上さん:楽しまな乗られへん。せやろ?噂話してる時にね、1人しらけててみ、 「なんやこの人!?」とかって怒られるで。だから楽しんであげたらええねんで、キャッチボールをな。だけど、「印可書」奉読して消していくね。

質問:してもいいけど、楽しんでさらさら流して、「印可書」で。

河上さん:そうそう。 映画でもな、あれ作りものって分ってるけど、楽しめるでしょ?そういう感じよ 。ほんまに作りもんって思い込んでしもたら、この前説明したけど、オカルト映画見たっておもろないで。 「あー、ここでびっくりさせるためにあれがびゅっと出てきよるねんな」とかね。「お、天井走っとるやん。どないして撮影したんかな」って思ったら面白くないやん。でも、「いやー」ってこう、みな楽しむやん。そういう感じで楽しんだらええね。 でもすぐに真(まこと)の(本心の)自分に戻さなあかんから、「印可書」奉読したら戻れてるわけ。

 「印可書」奉読してる時は真(ま事)の本心の自分と繋がるの。その繋がり方が、奉読が深まればね、余計深くなるしっていうだけやね。 でも、1回でも奉読して頂くと、繋がるんでね。で、それは護摩も一緒やから、騙してでも1回は護摩に連れて来いって言ってあるんだけど、 なんとか本心と繋がらそうと思って言ってますけども。ちょっとでも繋がったら、それが機縁になって。水でもそうでしょ?ちょっとの穴から漏れ出したら、 どんどん大きくなる感じでね、色々とやっています。

質問:先生の録音を聞いてる時にぱっと聞こえた事で、「どこかに探しに行くんじゃないよ」っていうような事を言ってらっしゃった時があって、私、その話を今回初めて聞いたかもしれなくて、その時に、あっ、 今更だけど今が1番に良いようなってるって言い聞かせつつも、やっぱりどこかに探しに行こうかと思っていた事に改めて気付かされる…

河上さん:みんな隣の芝生は青いやから(笑)

質問:やっぱり現実のマイナスを掴んで、それを「印可書」で消そうみたいな事をしちゃってるやん。違うやん。もう今ここは…

河上さん:ここがそのままやねんけどもね。 だから、イエスの言う「be heaven at hand」やねんね。「天国は今ここにあり」やねんけど、みんな気づけへん。

質問:実際現実でも、現実的に、私が周りの人に感じてる時の方が、多分、ひたすら「印可書」にすがるしかなくて、 多分「印可書」ガァーっといっぱい言えてて、で、その後、ちょっと現実的なプラスの事が巡ってきたりしちゃうと、多分自分でいる。で、またガァーっときて、うわーだから「印可書」やんかみたいな。

河上さん:だから、現実のプラス来たら、次は必ずマイナス来るからね。

質問:だからやっぱりその波に溺れちゃって。

河上さん:その因縁因果の波というのは、結局は地獄と一緒で、神さまは気づかすためにそういう風にしてあるの。 ただ、マイナス来た時にね、みんな耐えられんで余計崩れるからな、中々加減が難しいね。それで、殆どの人は プラスがあって、マイナス巡る時のマイナスには大おまけで消してんね。それすらも気付かんくらい、みんなね、流されてる。 だけと、そうして戻っていったらいい。

質問者:もうひたすら「印可書」奉読します。ありがとうございます。

河上さん:そうです。だから地獄と今繋がってるからね、こうしてお話すると、地獄の人が今大きくな、かなり改善できた。よかった。みんなのいい質問でした。

 そういう意味では本当に一気にどっちにも変わる時代になったの。みんながマイナスで辛い辛いって言ったら、ほんまに一気に地球が滅びるし。ただ、もうどうしても「印可書」選びとれん人いうのあるからね。絶対にその人はおもろいやっちゃ以外言うたらあかん。頼むで。うっかり「あの人ら選ばれへん」って言うたらえらい事になる。マイナスに思ってるからな。

質問:今本当に目の前に強烈におもろい人が居てるんですけど。

河上さん:強烈におもろいやつね(笑)。

質問:後ろから、羊飼いのようにっていう教えもよぎるので。でも、それがよぎる時って、やっぱり、どこかで自分が上に立って、この人なんとかしたらなっていう虚栄心が同時発生してる。

河上さん:そうそう。虚栄心を使ってね、愛の心を呼び起こすからね、一概にどうこうではないね。

質問:日頃の仕事にしても、私、虚栄心のお陰で動けてるって本当に思えちゃってて。

河上さん:虚栄心で一生懸命させるとこがあるからね。だから、さっき言ったように、ただ自分が正しいと思ってるから、気狂わずに、自殺せずに済んでるとこがあるわけよ。だから、その微妙に虚栄心の心というのは必要なんやね。真(まこと)の本心の自分を自覚するまでは。

  だから、虚栄心って消しにくいし、最後の虚栄心が消しにくいのはね、最後の虚栄心消すときは凄い不安なんよ。もう誰もがね。で、今のあなたの形で持っていってたらええねんけど、先生はもう、先生を慕って、村人とか来た人とか、そういう人にはね、もう大おまけでお清めして、もう後ちょいというとこまで持っていくわけよ。

 それで、もう最後の虚栄心だけは自分で消してもらわなあかんから、「あなたは悟った」ってやるわけ。それで、うっかり人に言うて崩れるねんけど。それぐらい、その虚栄心というのは、最後まで持っとかなあかんし、消さなあかんしというね、微妙なバランスのものなので。 1番大事なのは、虚栄心のある自分を責めない事よ。要するに、虚栄心すら神さまがいいように使ってるからね。それが分かると楽なんねんけど、自分の虚栄心と思うやろ。それ結局自分…

質問者:そうですね。

河上さん:うん、そうやねん。結局、なんやかんや言ったところでね、自分のものは一切ないね、本当は。だけど、自分が正しいと思った時点でね、自分のものを作るわけよ。で、虚栄心も自分のものとするから、ややこしくなっていくね。 神さまから頂いたものとしてたらね、ちゃんと神さまは虚栄心を利用して、肉体の特性のためにね、虚栄心を利用して肉体って動きたがれへんわけよ、しんどいの嫌なんや。でも、虚栄心を使って、限界破りさせるとかね、ちゃんと使ってきてるわけ。 だから、「いつも喜んでたらええで」やね。今が1番になってると喜んでたらええというのは、その、自分が虚栄心が出ても喜んでたええ、一生懸命したらええねんっていう部分なのね。

 で、間違ってもその虚栄心を責めるとね、結局は全部神さま命でできてるから、虚栄心でも、食欲でも性欲でも、神さまの命でできてんね。当たり前や。みんな光やから。で、神さまはそれを利用して、なんていうんかな?肉体側を上手く使ってるだけやからね。それを責めたりしたらあかん。

 例えば、1番分かり易いのは性欲やね。性欲というのは子孫を作るためだけやったらな、こんなに沸かんでええねん。動物ってそうでしょ? 繁殖期だけ性欲出るわけや。普段出えへんね。

 それは子孫作るためだけのもんやからね。で、人間はいつも出んね。それなんでか言うたら、男と女と分けた時点で、男と女が本来1つのものだよと知るためにあるね。でも、喜んでしてたらええのにな。こんな性欲してて、汚い自分やとかって変に責めるから、もうややこしなんね。

 それはお釈迦さまでもイエス様でもね、尼さんとこう、分けてどうこうだって一切してないのに、後の人間が分けてね、一生結婚したらあかんとかって、いらん事を、結局自分とこ1番にしたいがためにね、結婚したらあかんとか、するわけよ。で、それが逆に性欲を変に歪めてしまうねんな。それだけやねんけどね。

 もう、全然イエスさま、お釈迦さまの言う事、みんな聞いてへんね。それは、教えを立ててね、組織を立てて、祭壇作ったからや。そしたら、他所よりも凄いと思わさんなんから、もう仏門に入ったら、結婚したらあかんとかな、あるやん?尼さんになったら結婚したらあかんとか、もう凄い、(いろんな縛りを)作るでしょ?

 で、それをする事によって、一般の人からね、「あの人らは性欲を克服してる凄い人たちや」って。要するにあれは虚栄心やね、本当は。だから、親鸞さんはね、結婚したの。で、おめかけさんも作ったの。そういう、誤解を消すためにね。だけど、みんなはね、「親鸞は汚れてる。結婚しよった、子供作りよった、あれを作りよった」って、ボロクソに言うね。親鸞さんの方は元より後ろ指さされんのは覚悟の上やから、 なんでもするんやけどね。そういう部分や。

 だから、虚栄心が あるからどうこうって思わずにね、もう全部神さまが必要で揃えてるというのは間違いないね。怒りっぽい自分も神さまが必要で揃えてるんよ。それによって体験する事で知る事があるからよ。優しい自分というのもそれによって、その人にとって必要な体験を勉強させたいから神さまが用意してるだけやね。

 だから何もかもどれも喜んでて、神さまが1番良いようにしてるっていつも言うやろ。神さまが1番良いようにしているって喜んで、その中で反応してる自分を楽しんだらいいね。ただ、自分の中で自分を思わず責めそうになったら、「印可書」奉読したらいい。

質問者:はい、ありがとうございます。

河上さん:それで、うっかり人を責め続けるとな、もう誰も口聞いてくれへんようになるからすぐ分かるわ。人を責めすぎたって(笑)。 それは言葉に出さんでも、心で責めてたって、相手は気づくもんやで。恐ろしいもんやで。で、口聞いてくれへんようになる。僕の中学校時代とか、そんなんがそうやってん。なまじ全部見えて分かるから、ついつい、しらけるねんな。そしたら、「偉そうにしてる」とかな、もう本当に無視された。「人を小馬鹿にしてる」とかな言われて嫌われた。

質問:面白い、面白いっていう風に思う、その事にする事が、 徹する事だ、「印可書」奉読をす事が徹する事にも繋がるというか、イコールだっていう風に思っていて。 で、ほんとに、実際そう思うと面白いんですね。色んな人が。

河上さん:みんな面白い事するやろ?

質問:面白いし、自分自身も滑稽というか、凄く面白いし。自分でゲームを作っては、上手くいかない事、上手くいかないゲームを作っては、上手くいかない事を確かめてるみたいな。

河上さん:上手くいかない事こそ面白いな。ゲームってだからステージ上がるようになってある。

質問:面白いな、面白いなって、思い続けていて、実際渦中にあって、後で見てもやっぱり面白いなと思える。で、その中で、どこかこう、面白い面白いって思ってると、凄くこう、 おぼつかない感じになって。で、前のパターンに暗示しようとする時が出るというか。

河上さん:あ、それは出るで。もう癖として残ってるもんは、最後の最後まで絞り出してくるからね。

質問:で、徹するっていう事を考えた時に、考えるというか、した時に、本当に徹し切るっていうところが、やっぱり、甘いなって自分が 思う事がありまして。で、その、本当にこうもうひたすら「印可書」を奉納し続けるだけだと思ってるんですけれども、やっぱり甘さっていうところを、自分の甘さをやっぱり許してあげるっていう事が大事だなと。

河上さん:大事です。甘い自分を許さなあかんねんで。先生のようにな、厳しく厳しくできる人はおらん。 先生だけ。でも、先生は昔はそのまま厳しかったからな、僕には厳しかったよ。 でも、厳しくしたって誰もついてけえへんっていうのを、先生お分かりになられて、本当に優しくなられた。そんなに先生甘いの?優しいの?っていうのは(僕は)いつも思ってたけど。

 でも、それはなぜかって言うと、今言ったように、甘い自分という材料を使って神さまが教えてる部分があんね。だから、どれもこれも必要な材料やねんな。で、それを、お料理がそうやねんけど、 どれも残さずに全部食べたら、栄養が偏れへんねや。だけど、お肉好きやからお肉だけしか食べへんって言うたら、栄養偏るでしょ?あるいは、野菜しか食べへんっていうのも、それも偏るわけ。全部全体的に食べてこそ本物やろ?

 そういう感じで、自分に与えられて持ってきた素質というのはね、全部必要やね。甘い自分も必要やね。怠ける自分も必要やね。で、その例えば怠ける自分があるからこそ、怠ける人が分るね。勉強できない自分があるから勉強できない人の気持ちが分かるね。それくらい必要なもんや。それを責めたらあかん。

 なまじ勉強できると教える時に難儀するんよ。なんで分かれるのかなってね。それで、勉強できへん状態にまで自分をいっぺん落として、 落としてっていう表現もちゃうねんけど、制限して、そっから立ち戻って教えるんやけどね。そういう感じやね。だからもう統一力やねんけど、神さまって呼ぶ力、神さまって縋る力がいるねんな。まず神さまやね。

 だけど、みんな「自分が正しい」があるからね。甘い自分とか、考える自分とか出てきて、何もかも見えんようになっていくね。甘い自分、怠ける自分、考えてもわからん自分という材料を使って楽しまなあかん。本当はね、その勉強がいるね。

 だからなまじ何でも出来る人は神さまと繋がれへんもん。できてしまうからな。できへんからこそ、神さまと繋がる。僕はお祈りできなかったから、繋がってん。どうしても先生の言うように呼吸に込めて、(その当時の昔に→50年前)先生に教わったわけよ、呼吸に込めなさいというのは。

  で、1分間息を止めて、ひたすらに祈って、そのあと息を吸って、僕の場合はね、一呼吸毎みたいに甘くはなかった。1分間息止めて、ひたすらに祈って、で、1分間息して、また1分間息止めて、ひたすら祈ってっていってね、仕事のない時、そうして。で、仕事とか動居てる時は、 一呼吸ごとに乗せてって言うて厳命されたんや。で、もうなんぼやっても、どっかで途切れて失敗すんねんな。で、もう泣いて先生に謝って、「もうとても先生の期待通りできないんで」って言って謝った時に、ボソっと先生が仰った、笑いながら。 「河上さんの本心は、ずっと祈ってるやないか。」それで、はっと気づいてんけど、それはなんで気づいたか言ったら、そこまで必死でもうね、したからや。でも、それもお祈りできへんからしたんな。

 だから、お祈りできへんから、お祈りできへんって思い込んでる皆にお話ができるね。 最初からできてたら、話してもみんなに通じんない。だから「印可書」も、「お前やったらもうちょっと光弱めれるから弱めといてくれ」って言って、第二の「印可書」を作らされたわけや。それは、お祈りできへん苦しみを知ってるお前やったらできるやろ、という事やってん。みんなの気持ちが分かるやろという事でしました。

 だから、河上の作った「印可書」嫌いな人は「宇宙神ありがとうございます」言ってください。あるいは、先生のお作りなった「印可書」でいったらええねんけど、燃やしたからあれはあかんねんと思う人はね、「宇宙神ありがとうございます」が残ってるから、それで行かれたら大丈夫です。

 でもお願いだから神さまを呼ぶ事を忘れないでね。もう間違っても、神も仏もあるものかって思わないでください。もうそこまで思われると持っていきようがないね。やっぱりちっちゃい子でもね、「お母ちゃん、お母ちゃん」って来るから連れていけるんで、お母ちゃんもなんもいらんねんってどっか行きよったら、もう探しようないって。やっぱりちっちゃい子はどっか行ってもお母ちゃんって泣いててくれるから、要するにお母ちゃんって呼んでてくれるから探せるわけでしょ?

 だけど、神も仏もあるもんかって言ってしまうと、もう泣きもせえへんから、どこにおるかも分らへんっていう状態になって。どこに居るか分からんって、こっちは居てるとこ分るねんけど、引っかけても手掴んでくれへんわけよ。で、全ては綱引きやね。ロープは垂らするけど、自由意志でロープを掴んでくれんと連れていかれへんねん。で、必死で光の強い人には太いロープを垂らせるわけよ。で、光の弱い人には細いロープを垂らすね。で、どっちにしたって掴んでくれなあかんね、自由意志で。選んでくれなあかんねんけど、選んでくれない人は連れていきようがない。

 そういう問題やな。だから、色々と苦労してます。苦労してるというより色々と楽しんでます。おもろいなって。良い?

 結局はみんなの自由意志です。自由意志で何を選び取るかが全てです。だから、神さまが絶対なんとかしてくれるわ、でいいんだけど、なんとかしてくれと言った直後からは、一切文句言ったらあかんね、喜んでなあかん。ちょっとでも文句言うたら、なんとかしてくれてへんってなるから、神さまを離した事になってね、で、地獄落ちる。

 だから地獄に落ちてもね、神さまが何とかしてくれる、神さまが良いようにされているって喜んでたらスっと上がるんよ。でも、「なんでこんなとこで、こんな痛い目せんなんの?こんな熱い目せんなんの?」言うてるうちはあかんね。「自分が」があるから。

 だから、三途の川をね、本当は渡らんで、スっと済むねんけどね。だから本当は地獄よりも楽なね、三途の川の石積みをさせるわけよ。で、石を積み上げていくねんけど、鬼さんが来て、蹴って倒すねん。「なんでここまで積み上げたら行ける言うてんのに、倒すねん」って文句言うてるうちはあかんわけよ。「もう神さまが1番良いようにしてるんだ」って、倒されても喜んで積んでたら、自分が消えるから、地獄行かんと悟れるねんけど。そこでまだ文句言うてるとしゃあないから、三途の川を渡らされて。渡ったら最後、地獄の大アトラクションに入れる。入場券を買ったようなもんやな。

 で、その三途の川の石積みでもね、人をいじめてきた人は、その河原で積ませて貰われへんねんな。冷たい川の中へ入って、 川の中の石を拾ってきて、積まされるねんな。余計大変やね。

 まだ人にええ事してきた人は、 あったかい状態で積むだけで済む。それでも自分が正しいが皆あるからね。その自分が正しいが消えるまでは石積みさせられる。それでも「自分が正しい」って言ってる人は三途の川を渡らされる。

 神さまは気づくように気づくようにしてるんやで。でも、「自分が正しい」と思ってうちは気づけへんねん。「なんでこんな目に合うん?」って言うね。1番ええ目にあってんねんけどな。それを先生は「大難を小難に。小難を無難に」って仰ってくださってるのに文句言うね。五井先生が「文句言いなさんな」って言うのにな。文句言った時点で神さまを離してる。 

 「喜べ喜べ喜べ」って先生言うのに。「こんな痛いのになんで喜ばなあかんねん」って文句言うね。本当はそれだけの痛みで済んでんのに。

 本当は簡単な事やねんけどね、自分が正しいと思ってたら、もう不都合な事ばっかりやね。自分が正しいじゃなくて、神さまがいいようにしてるって喜んでったらええね。もう難しい理屈もいらんね。そしたら教えも組織もいらん。みんな光や。そんなん教えのうち入れへん。みんな真(まこと)の神さまや。 神さまが1番良いようにしてる。今が1番良いようになってるだけや。

 教えって言えへん。組織もいらん。教える人もいらん。文句言うたら、言うた文句を祈り言葉に印可書に、どっちにでもいいけど投げ込んだらいいだけや。組織もいらんし、 お金を出さんでもええし。ただ護摩は維持したいからね、護摩木の分ぐらいはみんな出してねってお願いしてますけども、出せる範囲はね。

質問:先ほど動物のお話とかが少し出てたと思うんですけれども、私が比較的近い地域に熊が出まして、とあるの方の手を、噛んだりとか…

河上さん:熊を撃つわけでしょ?

質問:で、その後は、ちょっと私、どうなったかは存じないのですけどやっぱり、住民の方が非常にやっぱり心配されてますし、で、観光地でもあるんで、非常に有名な…

河上さん:だけど大元はね、人間が勝手に木切って、どんぐりの木を切り倒すからや。どんぐりの木を残しといたら、クマさんの食べ物残ってるから降りてけえへん。人間がクマさんの食べ物を奪いとったから、どんぐりの木を切ってね、勝手に杉を植えたんや。杉を植えたってクマさん食べられへん。それが大元の原因や。本当は上の杉の木を切ってね、どんぐりの木をどんどん植えていったらね、クマさん困らへん。食べるもんないから、そら食べもん探しにくるよ。人間でも食べるもん奪われたら、他所に食べるもん奪いに行くや。それが戦争でしょ?で、大元の原因は全部人間が作ってる。動物のせいではない。

質問:最近は、非常にやっぱり、どこの地域でも、大雨が降りますと、山からスライド…

河上さん:そうよ、どんぐりの木やったら山崩れ起これへん。杉やヒノキはね、根が浅いね。だから、保水力もないし、土砂崩れ起こすね。でも、どんぐりとか、ナラ、クヌギとかはね、こういう木は、根が根深って言うて、根が深いね。保水力もあるし、山は崩れへんね。

質問:それで、あちこちで、そういう地滑りで、もう山肌があちこちで出始めてるんですね。

河上さん:出てる、出てる。

質問:で、やっぱり急斜面のところが、もう山肌がこう現れて、もう本当に、私がもう今までに見た事のない光景が、もう普通にどんどん、どんどん、それが広がってきている状態が…

河上さん:そうよ、もう最後やもん。地球霊王様も怒りまくってるもん。それで。

質問:それで今から、どういう風な心がけや。もし、その…

河上さん:いや、まず真祈りよ。まず真祈りしないと。例えば山の地主さんはね、スギ、ヒノキを植えて儲けたいわけでしょ?で、また国の補助金が出るから、スギ、ヒノキ植えるには、植えたら補助金出て生活できるからね、それを植えるしかないんや。でも、みんなが真祈りしてね、そういうのではなくて、っていう風に行くしかないね。理屈で言うたら、みんなの利害があるから誰も動けへん。で、果たして間に合うかどうかぐらい、本当はせっぱってんねんけどな。ウクライナの問題でもそうだけど。

質問:うち地域の中に、本当に、こちらにまつわる、お墓参りしたり、天皇のお墓だとかいうのがあったりもして、かつて私もそこには行ったりできたんですけど、やっぱり、クマさんのエリアになっているので、やっぱり、もう…

河上さん:もう行ったらあかんよ、危ない。

質問:そしたら、そこが、もう誰も、人たちが入らなくなると、もう、ますます、あれって言ったら変なんなんですけど、そうなっていくのをただ放置するだけで宜しいですか?

河上さん:だから、利害が絡んでるからね、勝手な事が誰もできへんのよね。本当は、クマさんのためにね、どんぐりの木をようけ残さなあかんかってん。どんぐりの木は強いからね、何しても育つから。だけど、人間が石油焚いてね、原子力焚いてね、色んな事するから、どんぐりの木すらも今は病気で枯れるね。だから人間が刈らんでも勝手に枯れ出してる。色んな意味でもう凄い状態やね、本当は。もう地球霊王様はね、松下先生が待ってくれ言うから待ってるけど、「もう待てん、もう待てん」って。「お前にできるんか?」って僕は怒られてんねんけどやね。「みんなに真祈りしてもらいます」しか言いようなくて、護摩を頑張ってね、してますけども、それでも護摩を一時中止しようとする状態に一時なったぐらいね、もう大変なんが来てる。

 いざ、もうノアの洪水のようにね、あれは地軸が傾いたんやけど、いざ、地軸傾き出したら、もう万事休すよ。で、その時の状態の事をもう想定して、色んな話し合いをしてます。イエスの奇跡を表わせるからとかね。それくらい切羽詰まってます。もう今更、あの利害が重なっててね、対応のしようがない。

 ただ、みんなの真祈りが深まったらね、あの山の地主さんも分ってくれてね、「じゃあどんぐり植えよ」とかってなってくるけどね。まず地主さんの了承がいるもん。そんなもんどうしようもないよ。色んなとこで、もう昔とは全然違う状態にね。先生が柿本人麻呂であられた頃に色々とあちこち作ってくださった大事な場所も、もう木が生い茂げて近づかれへん状態になってる。

 危なくて行けないし、まず何よりも生い茂ってね、50年経ったら道も分らへんね。全くもう、この山でこっから入ってんって言うんやけど、もう生い茂って道もないし、ハチさんはいっぱい居てるし、近づく事もできへん。本当は近づいてお祈りしたいんだけど、できないっていうぐらいの状態。本当に、最後の最後に来てるんやって。みんなのんびりしてるけどな。 別にかまへんねん。みんなの自由意思やから。

 先生が僕に仰った事は、きついようやけど、「お前に任すけども、別に人類が滅びても滅びなくてもどっちでもいい」って言われてる。要するに、「みんなの自由意志に任せなさい。 だから一生懸命説明はしてくれ。でも、みんなが自由にどうするかはみんなの総意。」

 ただ、護摩のとこのあの額だけはね、みんなの総意って言うたらまた揉めるやろから、勝手に燃やしますけど、護摩の会場の額は。

 ここのお祈りの部屋のは残します。

質問者:ありがとうございます

河上さん:別に厳しい事言ってないからね。ごく普通に今の状況を説明してるだけですから、脅かしてもないです。 本当に色んな意味で、例えば、北極の氷が溶けてきたりね、もう なるんですよ。で、北極の氷が溶けると地軸が傾くの。重さのバランス崩れるから。で、地軸が傾くとノアの大洪水みたいになるわけ。先生はどの状態に地軸が傾くまでは僕に教えていってるんで、そうなる前になんとかせえよって言われて。そうなる前、あと4年。 みんなね、例えば電気でもなんでも無駄に使いすぎるんや。もっと本当にね、みんなで助け合って、せんなんねんけど、みんな各家族ごとに分かれて住むやろ。暖房1つとっても、電気1つとっても、ようけいるわけや。もっと、仲良く集団生活したらな、食べ物でもロス減るし、電気でもちょっとで済むわけやんか。

 だけどな、できへんやろ?まだ。それは真祈りが沁み渡ってないから。自分たちが正しいがあるからや。その自分たちの正しいをどう真祈りで消していくかや。自分たちが正しいって言ってる間は、教えも組織もいるし、ウチとこが1番、自分とこが1番、自分とこは真(まこと)神さまやから大丈夫とかって言い出すね。違うやろって。その自分というのが間違いやって言うのが分らへん。

 「みんな光や」って先生言うてるやん。「みんな真(まこと)の神さま」って先生言うてるやん。なんでそれが信じれないか。 簡単な事を先生言うてんねんけど、みんな自分が正しいで受け取れへん。

 「そんなん言うたって顔も形もちゃうし、分かれてるやん」。 いや、全部別やから1つやというのが分らへんねんな。同じもんが2つあったら、2つや 。1つって言えへんねんな。全部違うから1つやね。それがわからなあかんねんけど、自分が正しいという過去の結果に基づいてどうこう言ってるうちは崩れるね、バラバラなっていく。

 特にこの現世は、いっぺんバラバラになったものはマトメられへんからね。サラサラと流して消し去っていかなあかんねんけど。 前も説明したように、光の状態やったら、プリズムで七色に分けても、またその七色を合わせると無色透明に戻るんだけど、この現世はその光の反射した、もう一旦反射した段階のとこやから。絵の具がそうやけどね、 絵の具は光を反射して発色してるだけやから、絵の具をいっぱい集めたら黒になる。だからこの世には地獄がある。

 全部1つにしましょうって勘違いして1つにして地獄ができる。一瞬、一瞬、新たに受け直さなあかんのにな。現実を掴んで過去を掴むから、その現実を掴んで過去を掴んで合わせていくと真っ黒になって地獄なる。地獄で済んだらええけど、漆黒の闇までできてる。

 だから一瞬一瞬新たに受け直さなあかん。それを難しいやろから「印可書」奉読でって言ってるわけで。その説明が沁み通らんかったら、人類がそういうのを選んだというだけの事やから。


令和5年9月河上さん勉強会お話しー4(20230910−4)

河上さん:あまりに責任が重いから「先生、そんな絶対みんな好きにするから無理ですよ!」って言ったら、先生が笑って、「好きにさせたらえねん」って言いうから、「お前はひたすら説明だけしてたらえねん」って言うから、聞く聞けへんは皆の勝手と思って説明してるんだけど、ちょっとでも聞いて欲しいから、みんなの自由意志を縛ってね、印可書奉読を言ってるだけで。 

 この世のもんで永続的なものは一切ないというのに気づけばね、一瞬一瞬新たに受け直すしかないって分かるねんけど、何時までも若いと思うやろ?それが一番の問題やね。
 
質問:2点あるんですけれども、1点目は先程のみんな何時までも若いと思うやろ?それが問題なっているという事をもう少し教えて頂きたいです?

河上さん:だからね、本当に一瞬一瞬新たに受け直してたら、死ぬまで若い姿で死ぬね。先生そうやろ?お年寄りの姿と違ったやん。死ぬと思わんかったやん。そないして一瞬一瞬新たに受け直してる見本を見せてくださった。みんなもな、年寄りになってきたら恥ずかしいと思わなあかん。一瞬一瞬新たに受け直してたらな、若い状態で死ぬ。

 やっぱりこの世で自分の選んだ宿命があるから、要するに命を宿すって宿命って書くわけやけど、100年とか50年とか30年とか10年とか60年とか80年って自分でまず長さを決めて降りてくるんよ、その長さ分は嫌でも死なれへんけども、そこから先は嫌でも伸びへん。

 でも、ちゃんと一瞬一瞬新たに受け直してたら、80って決めたら80までは若いままで死ぬ。みんなね、年取っていたから物忘れが多いとかね、年取っていたから体が硬なったとか、勝手に自分で縛っていくん。一瞬一瞬新たに受け直してたら大丈夫やねんけどね。

 ただ肉体が車でもそうやけど、古くなってくるから、手入れとしては毎回筋伸ばさなんとかね、若い時以上に手入れに手間がかかるのは仕方ないよ。車でも中古車になってきたら手入れに手間かかるやん。それは仕方ないけどね。その手入れに文句言い出すからややこしいね。

 ご飯ようけ(沢山)食べたらあかんようになってきたとかね。食べんで済むようになったって喜ばんとあかんのやけどね。お腹一杯食べたいとか文句言うからあかん。ちゃんと真祈りしてたら必要以上食べる気になれへんね。でも食べたら美味しいで食べるやろ?で、必要以上食べて病気になる。その量はあかんやろっていうのを食べるもんな、みんな。気持ちは若いからな、みんな。気持ちはみんな10代の青年少女や、少年少女やな。みんな10代から意識が変われえへん。

質問:2点目の質問です。言葉の使い方の確認です。みんな光、みんな真(まこと)の神さまが,この後何ですけども,みんな不器用を楽しんでるっていう言い方は、落としめてる言い方になるんでしょうか?

河上さん:落としめてる言い方はなれへんけどね。みんな不器用を楽しんでるというと、不器用をうっかり掴むからな。だから、そういう表現をせんほうが良い。落としめてはないけど、怠けてておもろいやっちゃって、僕言ってへんやろ?おもろいやっちゃって言えって言ってるやん。

 うっかりマイナスの表現のほうは一切使ってはあかん。先生も一切使えへんね。おもろいやっちゃだけ。先生の場合はもうちょっと違ったけど。

 だから先生はダメって言われへんわけよ。で、先生に聞いてね、先生がダメって言えへんだったから自分は正しいって、みんな勘違いしてぐちゃぐちゃになっていくねんけど、そうなるのも百も承知で先生は真祈りだけって僕に厳命しはってん。

 もう(全然みんなわかってないから)僕が喋ります、説明しますからって言っても、お前は喋ったらあかんってずっと怒られて。それはまず真祈りでお清めせんとね、何も始まれへんって。

 でも最後の1%は皆にして貰わなあかんから、説明する時期に入った。

質問:おもろいやっちゃって言い切る。もうそれをひたすら繰り返す?

河上さん:もう言い切ってたら良いやん。

質問者:ありがとうございます

河上さん:みんな光やからおもろい芸をしてんね。悪いことはしてない。どうぞ。

質問:もし、答えを仰ってたら申し訳ありません。ぼーっとしてたんかもしんないんですけど、先ほどの三途の川と地獄の話何ですけれども、石積みのところで終わる人と、三途の川を渡って地獄のアトラクションを楽しみに…

河上さん:殆どの人は渡る。

質問:渡っちゃう?その境目って自分で行っちゃうとは思うんですけれども、三途の川を渡ってアトラクション…

河上さん:今が一番良いようになってるって言ってね。結果を掴まなかったら。(大丈夫なんです。それは、具体的には、自分の石積みは横においておいて、ほかの人の石積みをたすけるようなことです。)

 そこまではみんな思い切れへんけど、「鬼さんが蹴り倒すのはそれだけの理由あるんやろ、すいません」って言って、素直にまた積み直せたら結果を掴んでないでしょ?結果掴まなくなったら大丈夫。でも結果はみんな掴むね。段数まで言わんけど、ある高さまで積まなあかんというのがあってね。又、それ言うと、死んでからみんな苦しむから言わんとくけど、それを積もう積もうとするわけよ。そうじゃないね。積むじゃなくてっていう、神さまが一番良いようにしてるだけど、もう分かるかな。結果を掴まなくなったらええね。

質問:文句も言わなくなったらええ?

河上さん:鬼さんが蹴り倒すのはそれだけの理由あるんやろ、すいませんって言って、素直にまた積み直せる人は結果を掴んでへんやんか?だからええね。だけど「蹴り倒しやがって、また積まんねん、何であんな悪さすんね、てんご(悪さ)しやがって」って言うて、みんな文句言いながら積むんや。そう言う時点でもう結果掴んでるやろ?結果掴むって決まったら、もっと掴みたくなって川渡る。

質問:川渡っちゃうのはやっぱり、よっぽど自分であっち行かなあ、あたしあかんわみたいな感じなんですか?あっちいってちょっとあったら...

河上さん:身体がものすごい熱くなってくんね、怒ってるから。ほら、火吹きダルマっていうか、ほら怒ったら真っ赤かに、漫画でも描くやろ?ああいう感じでチンチンなんね、チンチンって。この辺でやかんがチンチンって言い出すわけよ、頭のやかんが。熱うて敵わんから川入りはんね、本当の事言うてしまった。これ知ってても熱なって敵わんから入るよ、みんな。怒るね、みんな蹴られて。「クソタレがって」。

 それで今やったら肉体持ってるからな、みんな怒っても熱なるのがしれてるやん?あっちはな、肉体ないから限度がない。本当にチンチン、真っ赤かになる。

質問:すいません。石積みで、鬼さん何か理由があるんやろうなって思って…

河上さん:要するに文句言わんようになるわけや。「倒されるだけの落ち度が私にあって、ごめんね」とか言うて、すいません、すいませんって言うて、喜んでたらええねんけどな。それは結局喜んでる形やから、文句言ってないからね。

質問:それで許してもらえる?(笑)

河上さん:そうよ。だからトイレに鍵かけられても、怒らんと文句言わへんからスッと行くね。そういう感じでこの前質問あったけど、「トイレに鍵かけられて入られへんようにしましてん」って言うて喜んではるわけよ。だからスッとするね、この世で言うとね。

 石積みも一緒よ。積んでも積んでも倒されても「やっぱり私に悪いことあるんやろう、ごめんね」って言うて積んでたら、結果を掴まんしね、それは結局は喜んでる形やからええねん。

質問:許して貰って...

河上さん:許して貰うんじゃなくて、自分が結果掴めんからスッと行くんや。

質問:そう何ですか?賽の河原…

河上さん:要するに、鬼さんと自分と分けて考えてる人は、そういうのが分からへんね。だけど鬼さんが何かの理由でね、してくださってるんやって言うていくと、自分と鬼さんが一つになってる。鬼さんって真(まこと)の神さまやから、一つになる範囲が大小あろうが、ちょっとでも繋がったらわざわざ降りていくことはない、上へ上がれるやん。神さまと繋がったら無色透明に近づくから、それだけよ。

質問者:分りました。ありがとうございます

河上さん:だから感覚で言うと、宇宙空間にパッと放り出された場所が真(まこと)の神さまの世界や。無限無限の輝きで、あんな真っ暗じゃなくてね。それって地面も何もないわけよ。空中にポンやね。それを喜べる人はいいけどな、大概は不安なわけよ。落ちるんちゃうかな?とかね。ほんで降りていくね。

 その落ちるんちゃうかなという意識というのは、自分が正しいとか文句言う気持ちよ。だから肉体あるうちにね、「宇宙神ありがとうございます」に「放り込む癖」をつけとかないと、どうしようも無くなるなるね。印可書を読める人は「印可書を読む癖」つけとかんとね。

 死んでからやったら、宇宙神ありがとうございますも出えへんね、えぇかげんな気持ちでおったら、「宇宙神ありがとうございますって言われました」というレベルではな、死んだら「宇宙神ありがとうございます」を忘れるね。で、賽の河原から川渡る。それくらい自由意志というのが大事やね。

 だから自由意志で「宇宙神ありがとうございますって言われました」という間はな、自由意志で選び取ってへん訳や、祈り言葉は。

 だから肉体を失うと忘れるね。自由意志で選び取ってたら、もうこれしかないと選び取ってたら、忘れてへんから大丈夫や。それでも投げ込むのが大変やから色々と苦労しはるけど、その苦労もその人にとって必要な体験やからね、別に良い悪いではない。その人の自由意志で選んだ楽しみや。

 そうだけど、地獄も本当は楽しみや。そこまで分ったら地獄からすっと戻れるねんけどね。何事も楽しみってわかった良いねんけど、苦しみって言うから、もうややこしくなるねんけどな。

 だからマラソンで説明するとね。あんなしんどいこと何でするんと思うけど、走ってる人は苦しみと違って楽しみでしょう?っていう。真(まこと)の本心の自分と繋がってる部分はみんな楽しみやね。水泳が好きな人ってね、泳ぐの苦手な人から見たら何で泳ぎに行くんとか思うけどね。面白いんやろ?水上スキーでも何でもね。そういう部分は神さまと本心と繋がった部分やから楽しめる。

 この世に色んな趣味あるけどね、何であんな邪魔臭いことするの? 昆虫採集でも何でもそうやけど、興味ない人からみたら、何でお箸の袋集めてる人なんか何が楽しいねん?と思うけどね。

 それ本心の部分と繋がっててやってたら、それは楽しみなわけよ。だからどうこうじゃなくて、真(まこと)の本心の自分と全部繋がったら、全部が楽しみやね。

 でも自分の自由意志で真(まこと)の本心の自分と切ってね、苦しいって言ったら、自分の自由意志で真(まこと)の本心の自分と切ってるわけよ。切った分だけ苦しい苦しって言って、地獄に流転するのよ。で、苦しいに飽きるまで流転するのよ。でも最後は飽きるわけよ、疲れ果てて。もう無理って「神さま助けて」って言ったらすっと上がるね。

 それでも一番上まで上がらへんけどね、そのレベルではね。それでも神さまって呼べなあかんね。神さま呼べない人が地獄流転する。何でこんな目にあうねんってばっかり言ってるの、地獄降りた人は。自分で降りてんねんけど。そうやろう?「何でせっかく積んだ石、蹴るねん?アホたれが」って文句言うからや。

 ちゃんと神さまの方はその人の自由意識で気付くように気付くようにしたアトラクションを用意してくれてる。

宮野さん:結局神さまと分け隔て、分けてる?

河上さん:そうそう分けてる意識がなくなるまで楽しめるね。

宮野さん:自分っていう物を掴んでるって事を手放すのは自分しかないから、自分自身で手放さないとどうにもならない。それが印可書である。ひたすら印可書を読み続け、自分ってものを何もできない、何もないって無色透明、全て神の神さまだっていうところまで行くってことですね。

質問:そしたら河原で石積みをしたり、川を渡ってアトラクションをしなくても、それはこの世でも十分に出来てる事ことですよね?

河上さん:だからこの先生のところに集まった皆はね、後1%だけまで清めたから、この1%くらいは印可書を奉読してやってよって、宇宙神ありがとうございますってやってよってお願いしてるだけよ。それも自由意識だから、そこから先を強制できない。好きにしてくださいとしか言われないけどね。でも、テレビショップで個人の感想であって、効能を示しものではありませんと言いながら印可書、印可書と囁くね、耳元で。

宮野さん:確認ですけれど、肉体を維持するのに多少なりとも無色透明になってしまうと、肉体を維持するのは難しいので、先ほど言われた1%というところを虚栄心であったりとか、

河上さん:そうやね。だから、癖とかを持つことによって肉体を維持できる。その虚栄心とか癖とかを全部自分が楽しめたらいい。そうやけど、楽しまないと責めるからややこしい。

宮野さん:若しくは掴む、後生大事に。これが自分だと思うから。

河上さん:そう、「こんな怠けておもろいやっちゃうな」って自分で自分をおもろいやっちゃうと言ったらいい。そしたら掴めへんからサラサラと変わって行くんだけどね。

 それでも色んな個性でその人なりのカラーを持ってないと肉体を維持できへんからね。色々と持つねんけど、だんだん持つのがなくなってくると、もう無理かなって、後4年くらいかなって思ってるだけです。
 
宮野さん:それでも神さまは色んな形で使い切られると思うので、必要あらばどの状態も展開はあるってことですね?

河上さん:そうそう、神さまは無限の無限の輝きやからね、みんなの自由意志、ようするに皆の希望に沿ってくださる。

宮野さん:今のところ、皆さんが短い、後わずかな時間がないところでもって、して頂くというのは、「自分の我を外す」「自分の一番大事なものを捨てる」っていう…

河上さん:「自分が正しい」を、どれだけ「おもろいやっちゃうに変えれるか」や。

宮野さん:それが印可書?

河上さん:印可書。印可書を奉読していたら、食欲のある自分、性欲のある自分、色んな自分を楽しめるね。でも印可書を奉読していなかったら、こんな私って自分を責めるんよ、無意識に。それが病気の原因やねんけどね、本当は。あんまりそこまで言うと、みんな病気なるからあんまり言えへんけど。今うっかり言ってしまったけど。色んな意味で病気なんのはそれやね、自分を責めるからや。

宮野さん:自分を責めるっていうのは、自分ってものを掴んでるってことですね?「自分が」

河上さん:或いは、何があっても自分とは関係ない、私関係ないわっていう気持ちやね。

宮野さん:両方ですね?

河上さん:両方。

宮野さん:私関係あるも、私関係ないも同じですね?

河上さん:うん。まだ自分を責めてる人の方が助けようがある。

宮野さん:助けようが?

河上さん:ある。分かってるから。自分と関係ないって言うてる間は自分のこと全然分かってへんから、どうしようもないとこ。だから先生は総責任者の自覚って言うて、全部自分の責任やって一生懸命言うてくれはってんけど、みんな他所事や。おもろいで!

質問:8月8日に真祈りの伝授が完成したというお話の中で、みんな印可書を選び取った?

質問:そう選び取った。印可書を選び取ろうとしてた人はね、選び取れた。
 「選び取れた」と、「自分が正しいを印可書に投げ込んだ」とは別やからな。

質問:ちょっと固まりました。もう一度。(笑)

河上さん:だから自分が正しいがいつも出てくるやん?その「自分が正しい」の「自分を責めず」に印可書を奉読出来たら良い。自分が正しいを何とかする為に印可書を使ったらええ、って選び取れたという。

質問者:はい、分りました。

河上さん:それで護摩の時に説明したけどね。それで「自分が正しい」を印可書に放り込んで一瞬はスッキリするけど、またワッとなるって言うてる。それは縁者やからって言うてるやん。それが最終的に全人類になった状態になったのが先生。なんぼ無色透明になっても、次、背負って消して、次、背負って消してってされたのが先生。その一部は僕はしてます、今もね。

 そういう感じで、先ずみんなは自分の縁者から。縁者が終わったらっていう順番に、永遠に切り無いけども楽しいわけよ。無限のアトラクション。

質問者:分りました。ありがとうございます。

河上さん:ただね、その印可書を選び取れない人が当然ある、っていうのをあまり言いたくなかったんだけどね、8月8日過ぎたから言いますけど、印可書を選び取れないおもろい人があるのは先生の想定内で。で、宇宙神ありがとうございますも残してくださった。

 宇宙神ありがとうございますの場合はね、何があってもとことん筒一杯(精一杯)行ったるぞっていう気迫がいるんよ。ちょっとでも文句を言ったら「しまった」って思って、また「宇宙神ありがとうございます」ってね、もう凄い気迫がいるね。だけど殆どの人は途中で挫折するからね。それでも選んでてくれたら何とかするよ。

 でも「聞いてます」では選んでないからどうしようもない。ちょっとでも宇宙神ありがとうございますのに投げ込もう、投げ込もうとしてたら選んで取ってるけどね。宇宙神ありがとうございますって聞いてるから、何とかなるやろって。選んでないやろう?それ?聞いただけや。電化製品の説明書、取扱説明書をね、見ただけや、読んでない。

 この前有ってん「ホンマに取説読んだんか?」って言ったら、「読んだよ」って「嘘つけ、見ただけやろ?」って言ったら、「うん、確かに見たな」って言うてるの。「あんたな!」って。(笑)

 ランプついたら充電完了やのに充電できへんって怒ってんねんや。「いや違うの、ランプが消えたら充電完了で、ランプがついてたら充電中やって意味や」って言ったら、「そんなことあらへん、ランプついてるから充電完了や」って聞かへんわけ。それで「お前、説明書読んだんか?」って言ったら「読んだよ。取説読んだよ」ってな。「見て、みいや」って言ったら。「ああ、見ただけやったな」って読んでない。

 それくらい皆ね、自分に甘いんやな。取説を見てもう分かったつもりや。ハンディの按摩機やねんけど、繋いだらランプついて充電中って出るの。消えたら充電完了やねんな。そんな簡単なもんやからもう一々読めへんわけや。取り敢えず使い切って電池なくなったから充電しはるわけや。で、ランプついてるから充電完了やな、動けへんねんって、壊れてるわってやってるわけや。

 そんなもんや、みんな。見ただけ、聞いただけやねんな。見ても聞いても実行せんかったら意味がない。実践しなくては意味がない。

 その実践の度合いは神さまは問わへんね、本当は。ちょっとでもしようとしたら行けるね、小っちゃい子のお手伝いと一緒でね。でもどっちにしたって印可書も宇宙神ありがとうございますも、それが神さまお手伝いなんだという部分を信じてくれないと、どうしようもない。

 宇宙神ありがとうございますに投げ込んで行く事が、神さまのお手伝いになるって信じてくれんとね。そこだけは絶対外されへん。ただ、「宇宙神ありがとうございます」って言ったらええんやろでは、それは信じてないからあかん。

 印可書も一緒や、印可書読んだら神さまのお手伝いなるって信じてくれないと。印可書読んだらええんやなでは全然あかんね。そこだけは外せない。先生が先生の言霊で宇宙神ありがとうございますに、ありがとうございますに、印可書に、真(まこと)の神さまそのもって決めてくださって、これを読むときは神さまお手伝いになるって言霊で決めてくださった。そこは信じやんとあかん。そこは先生に対する絶対の信が要る。先生が命に変えて作ってくださった印可書や。それだけは奉読することが、宇宙神ありがとうございますに祈ることが、宇宙神ありがとうございますに自分のマイナスを文句を投げ込むことがね、神さまお手伝いになるというのはそこは信じてください。

 それを信じやんとな、ただ読んだらええんやなって言ったら、それは単なるギブアンドテイクや。神さまを召使いに使っているというだけや。 

 宇宙神ありがとうございますって言ったら、神さま助けてくれるんやろ。印可書読んだら、神さま助けてくれるんやろって。それって神さまを召使い扱いしてる。失礼にも程がある。そこだけは間違わないように。だから印可書は奉読って言ってます。宇宙神ありがとうございますは真祈りって言ってます。真祈りというのは、神さまをこき使う事とちゃう。神さまのお手伝いすること。それを履き違えないようにね。

 宇宙神ありがとうございますしか選び取れない人でも、そこだけは間違ってはあかん。だから宇宙神ありがとうございますって聞いてますではな、全然お手伝いになってない。

質問:仰る、宇宙神ありがとうございますと聞いているという方は?

河上さん:大半や。方がじゃなく、殆どの人がそれで終わってる。

質問:今、お話を集まって聞いてる方、録音で聞いてる方も全てですが、印可書を選ぼうとされている方が多いと思うんですが、宇宙神ありがとうございますって聞いてますっていう方は、多分聞かれない方が多いと思うんですけども。

河上さん:印可書を選ばないよな。

 だから、最初に先生から、本当にすごい人類の命運という責任を受けたわけやけど、余りの重さにね、「やるのはかまへんけど、誰も僕の話し聞きませんよ」って、先生にはちゃんと言うた。

 なら「別に聞く聞けへんはかまへん。お前は、只、ひたすら説明したらええねん」って。で、自由意志縛ってまで説明せい、とは先生おっしゃらなかったけど、ちょっと僕のおまけでしてるけどな、それ以上はええねん。

 そんなもん選んでへん人に何ぼ言ったって、どっちみち聞かへんって。そこは自由意志がいるの。それはみんな真(まこと)の神さまそのものやから、その人の自由意志が最優先される。そんなのはどうしようもないよ。それでええねんって、ほっといたらええねん。

 だから言ってるやん、地獄の体験が必要な人は必ず体験するねん。一度は食べたい激辛カレーよ。二度と食べたくないけども、どんな味かなとは、やっぱ思うもん。

質問:聞く聞かないっていう結果に捉われてるんではなくて、説明だけはさせて貰っているっていう事なんですね?

河上さん:そりゃそうや説明はするよ。だって、大先輩やん、あんまりこんな事言いたくないけどな。みんなから見て僕というのは本当は大先輩や、先ず一度は大先輩の言うこと聞けよ、本当は。聞く気も無いんやろ?聞きたくないんやろっていう人は、それは自由やって。

 普通は先生、亡くなられてね、残された者の中で、一番最初に、22歳のころの先生にお会いしたん僕やから、本当に大先輩やし、先生と一緒に病気治しもしてきたし、古い人はみんな知ってるよ。空飛ぶ円盤作ろうとして色んな事をしてる事みんな知ってるよ。そんな古い人、ほとんどここへ来ないようになったけどな、そういうもんや。

 そうしたら信じる、信じへんは別やけど、一度は聞けよ。聞く気もないんやったらその人の自由やって、そこまでは縛られん。

 一度は聞いて本当にええんか、悪いんかね、判断しはったら良いと思うけど、聞く気もない人は聞かんで良いって。そんな自由意志縛られん、みんな真(まこと)の神さまやで。 

 だから光の勉強会始めるときにね、念を押したんや。「みんなすでに祈ってる、悟ってる、救われてるって思えんかったらすぐやめてください。絶対ここから外れたらダメよ」って。何をしてもいいけども、「みんなすでに祈ってる、悟ってる、救われてる。」みんな光やっていうね。「神のみ光、み力、み命。みんなみんな神のみ光、み力、み命」というとこから、ちょっとでも自分の意識がずれて、みんな悟ってへんと思ったときは、すぐ中止してくださいって厳命した。

 それを守ってくださったから、光の勉強会はうまく来てるね。

 一緒や。それは何か?と言ったらみんなの自由思想を一番優先しなさいや。みんな光やからその人の自由意志が一番大事や。だから、みんな好きにさせたらええんや。勿論、要らんお節介して宇宙神ありがとうございますを選ぶんやったら、こうやでっていうのは、勿論、言ってええよ。

 言うてええけど、普通聞かへん。自分が正しいと思ってるから。

 ここよ「自分の我」というのは、自分が正しいと思ってるから、自分が思う通りにしか宇宙神ありがとうございますを選べへん。そんなら宇宙神ありがとうって言ったら助けてもらえるんやろって勘違いするわけや。それもその人の自由思想やからほっといたら良いの。あとは、体験として分かり合うわけや。

 できたらわざわざ苦しい体験せんと分かって欲しいから、要らんお節介は精一杯するけどね、

 それでもいよいよ、時間が迫ってきただけや。時間が迫ってきたからついつい本当のことを言ってしまう。
 
宮野さん:肉体が全てやって思ってはるからな、みんな。自分が正しいと、死んだ先の事なんか分からないと思ってるから、今が良かったら良いっていう。肉体がある時だけが良かったらっていう意識に、やっぱりどうしても捉われやすいんじゃないかな。

河上さん:肉体の時間ってな、長くて100年。向こうの時間の方が長いっていうのをみんな忘れてん。地獄で何億年って楽しみはんねんで、みんな。

宮野さん:長いアトラクション、お楽しみやな。

河上さん:時間切れないから地獄は。ここで一旦閉園しますとかない?今日は休日ですわ。365日休みなし。

宮野さん:一応説明はしたしね。

河上さん:質問がないようやったら。みんなすっきりしたやろう?もう綺麗にお清め終わってるからね。1%は残ってるから頼むで、印可書で宜しくお願いします。そしたらお祈りして終わります。

 本当に自分の自由意志というのを絶対忘れないで、何々言われたからしなくちゃじゃないからね、自分の自由意志で好きに選んでくださったら良いだけで。もう本当それだけ。それぞれ自由意志で選んだ通りの自分の選んだ楽しみ方をするだけやね。ここだけ忘れずにね、楽しみ方をするだけで、苦しみちゃうからね。

 だから地獄の鬼さんに石を蹴られても楽しいなって思えたらええのよな。文句言うからややこしい。文句言った時点で、神さまから大きく離れた自分っていうのを気づかなくちゃあだけどな。

 中々肉体が全てと思っている人には、肉体にとって都合良い時は良い。だからお酒大好きやね。お酒大好きなのは、本当はお酒飲んだら体、肝臓痛むわけでしょ?脳細胞がプチプチ死んでいって、ボケが早なるわけやんか。でも肉体のその時の気分の良いのが好きで、お酒やめられへん。

 タバコ吸う人でも、甘いの好きな人でも色々あるけど、肉体のその時の一時的な楽しみを掴むわけよ。肉体が全てと思ってるから。で、いずれまた色んな体験して気づくからね。

 でもやっぱり何事も楽しんだよっていうのだけ、ちょっと片隅に入れて貰うと気づきやすい。ではお祈りします。


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9月護摩 by 河上彰延 2023年09月09日(土) 23時01分
PC

9月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年9月の護摩焚きで、河上さんがお話してくださった内容です。

司会者
 事前にお預かりしました質問がありますので、質問からお願いします。お一人の方から2つ質問をいただいていますので一つづつ読ませていただきます

質問1
 いつだったでしょうか、神さまのためではなく自分のために生きると死んだ後、大変なことになると河上さんは前におっしゃっていましたが、そのことについて詳しくお話ししていただけませんでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます おもろいでまた今月もお会いできて嬉しいく思います。

 先生がいつもいつもおっしゃってたことなんですけれども、「一番大切なものを捨てなさい」まず「一番大切なものを捨てないと悟れない」と言うと、もう最初の頃はですね、50数年前ですけども、いつもいつもそれをおっしゃったわけです。

 でも誰もね、「一番大切なものを捨てる」って、その一番大切なものは何なんですか?って誰も聞かないのね、聞かないというか、聞けないというか、その捨てる勇気もないから聞くとこまでいかないと言うか…。別に責めてるわけでもなくそういうものなんですよ。「大切なものを捨てろ」というだけで、「お財布なんかなぁ?」「仕事なんかなぁ?」「生活なんかなぁ?」

 例えば大切なもの何ですか?って聞きに行ってね。生活です、仕事捨てなさいって言われても怖いし。捨てる勇気もないから、誰も聞きに行かないまま終わってるわけですけども。一番自分にとって大切なものというのは「自分」なんですよ。

 だから自分が正しいが基本なんですね、みんな。自分のやってきたことは間違っていないが基本なんですよ。その自分が正しいと思ってるうちは、もう何も見えなくなるんですね。これが自分個人じゃなくて、いろんな団体とか組織になれば、自分とこが正しいってなって、自分とこ以外は間違ってるってなるわけですよ。やっぱり何もわからなくなる。

 その自分というのを捨てないと大変なものになっていくわけですね。その自分が捨てれないまま死んじゃうと自分が正しいでしょう。だから、神さまは正しくないんや。逆の言い方したらね。自分が正しいということは自分以外のものは間違ってると神さまを拒否するじゃないですか。拒否するから勝手に落ちていくんですよ。

 その神さまというのは具体的に、この世のもので例えて、わかりやすく言おうとすれば、空気なんですね。神さまって空気のような存在なんですよ。空気って、息をみなさん止めたら15分も止めたら死んじゃうじゃないですか?15分も普通止めれないけどね。でも空気はなければ生きていけないものです。もう絶対必要なものなんですね。だけども掴みようがなくて、しがみつきようがなくて、頼りようがない。本当は呼吸することによって頼ってるくせにね。頼り甲斐がないみたいな…という感じになるんですけれども。

 真(まこと)の神さまというのは、そういう存在でおられるわけですね。生命(いのち)そのものでおられるから、生命(いのち)として頼ってるわけです、みんなね。本当は頼ってるというより不離一体のものですけど。それをわからずに自分だけが正しい、自分の力で生きている。ほとんどの人そうなんです。自分の力で生きているがある。

 だからこの前のお薬の質問の時に言いましたけどね。病気になった、じゃあどうしよう?自分の力で薬を探して、あるいはお医者さんに行って何とかしようっていうね。その自分があるうちは死んじゃうとね、神さまに縋れないというか頼れないのね。神さまを拒否してるから。拒否した分だけ、例えばこの世でもそうでしょう。空気にはしがみつけないから、掴みやすいものに掴みに行くでしょう。木とか柱とか地面とか、そういう感じで死んじゃうと、地獄の方が、あっちの世界に行くと地獄に行くと物があるんですよ。神さまの世界に行くと光だけで物がないの。

 だから掴みどころのない所は不安で仕方ないから、自分があるまま死んじゃうと、掴みどころのある地獄に自分で降りて行くの。自分で降りて行って、自分が正しいと思ってるから永遠にわからないのね、意味が。自分が今どんな状態になっているか。それを地獄を流転するって言うんですけども。→因縁因果の輪から抜け出せない状態、河上註

 その自分ではどうしようもないのだというのを気付かせるためにですね。神さまは神さまの愛で針山に登らせたり、あったかい臭い温泉や、熱い温泉に入れてみたり、極寒地獄、冷たいところに置いてみたりしてですね、「ああ自分では、もうどうしようもないんだ」って気付くまでいろんなアトラクションを楽しめるわけですという感じのことを、自分があって死ぬと大変なことになるという意味です。いいかなぁ?

司会者
 はい、ありがとうございます 続きましてもう一つの質問です。

質問2
 以前の河上さんの勉強会の中で、1枚の護摩木を書いたら100人以上の縁者を救うことができるというお話が確かあったと記憶しておりますが、これは本当でしょうか?

河上さん
 はい、100人どころではないんですけど、あんまりすごい数言ったらそんなもん嘘やろって言われるんで、まあ100人レベルの話しにしましたけどね。字を書くというのは、自分が書いてるようで書いてない状況になるんですよ。だから昔お勉強でね、お経でもそうですけど、写すじゃないですか、写経って言って。あれ写すのは何かというと、自分がお経を読むとね、自分が読んでるつもりになっちゃうの。でも写してるとひたすら写すのに必死になってるうちに自分で書いてるのが忘れるじゃないですか?それで書くという行為というのは、真祈りに近づけれるわけですね、自分が消えるから。

 それを護摩木という、宇宙船護摩木って先生が言葉で決めてくださったので、宇宙船護摩木には搭乗人員に限りないって先生おっしゃってくれてるからね、本当は100人どころじゃないんですけど。その護摩木に書く行為ということで、例えば「宇宙神ありがとうございます」って書きますけども、自分が「宇宙神ありがとうございます」と祈ってるという意識が消えるんですよ。

 特に護摩木に書く時は、真(まこと)の神さまが降り立ってくださって、手を添えてくださるというふうに先生が言霊で決めてくださいましたので、自分で護摩木に「宇宙神ありがとうございます」と書いてるつもりでも、自分を消えて書いてる状態に大おまけでするよという、先生の大おまけの分が護摩木なんですね。

 それで、その自分が消えて書くということは真祈りですから、真祈りになるともう書いた時点で多くの人に光がいくわけです。それをなおかつ、ここで炎として燃やすことによってですね、この地球上で起こる大噴火とか大火災とか、今、森林火災始まってますけども、ああいう火の洗礼をこの護摩木の洗礼でお清めで小さく収めてるということです。

 火の洗礼から始まる。火の洗礼って何かというと火事であり、あるいは戦争(人々の間の争いであり)ですね。そういうものをこの護摩の会場のこの護摩木を燃やすことで小さく消してるということです。

 だから本当は100人どころじゃないんですけども、まあ皆さんのイメージの中でね、こんな小さい護摩木だから100人も入るかなぁという意識があったので100人って言いましたけど、本当は、本当にたくさんの方の縁者の方に光が行きます。そういう意味です。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます お預かりしています質問は以上ですけども、会場の方で何か質問がありましたら前の方までお願いします。ないでしょうか?すみません、では、私の方から質問一つよろしいですか?

質問3
 最近、河上さんのお話のCDを、3年とか4年くらい前のお話を聞くことがありまして、なんか最近言われていることと、3年前4年前に言われていることと、大きく違わないし、なんでわかってなかったのかなぁとか。こっちの方が、3年前4年前のお話の方が、なんか良くわかるというか。今の自分にとって、足りないことをズバっと言ってもらっているなぁという気がしています。なにかその…。

河上さん
 ああ、「違い」ね。

質問者
 違いっていいますか…はい。お願いします。

河上さん
 これはね、結局、今言った「自分が正しい」がある間は何も見えないんです。だから自分のとこの教えが一番とかね、自分とこの組織が一番、自分の会社が一番とかって言い出すと、何も見えなくなるんですよ。それの一番小さい形が、今の自分が一番正しくって、っていうのがあるわけですね。だからほとんどの人は、大阪のおばちゃんなんか多いんですけど、「あの子あんなことしてるわ、言ってやらないと」ってやってるわけですよ。自分が正しいと思ってるからね。本当は違うんだけど。

 その自分が正しいと思ってるうちは何も見えない。その自分がね、「印可書」を奉読することによって、どんどん、どんどん消えてきたから、自分がなくなるとなんでもわかるの。それがもっと進んで、「印可書」を奉読して、無色透明になった途端にね、もう透き通るように全部わかりますから。話を聞かなくてもわかります。そういうものなんですよ。

 だから、いつも勉強を教える時に子どもに言うんですけど、「考えるな」と。考えるとわからなくなるんですよ。英語でも数学でもそうですけど、勉強ができる子というのは、例えば英語の単語なんかは、覚えようとして覚えてないの。だから、自然に入っちゃうの。でも、できない子というのは、「これを覚えなくっちゃ」って言ってね、一生懸命に単語を何十回も書いたりするわけ。そしたら「覚えなくちゃ」って言うて単語を書くと、絶対覚えられないんです。何故かわかります?「自分は単語を覚えられない」って決めてるから。自分は単語を覚えられないから、50回か100回書いて覚えましょうってしてるわけですよ。でも「覚えられない自分」って決めている間は、何をやったって覚えられないの。で、それは数学なんか算数なんか特にそうなんですよ。考えないとわからないと思ってる子はね、考えるわけ。考えようとするわけ。でも、最初に「考えないとわからない」って決めてるでしょう?もう「わからない自分」って決めてるから、なんぼ(どれだけ)考えてもわからない。そういうものなんです。

 だから、勉強も統一と一緒なんですけども、神さまに統一、五井先生の言い方ですとね、神さまに統一できたら、松下先生の言い方だったら、真祈りができたら、すべて透き通るようにわかる。それは自分が消えるから。だから自分が消えるまでは、ひたすら「印可書」を奉読されてたら、色んな縁(えにし)のものを聞けば、「あ、本当はこういうことを言っていたんだ」ってわかりますし、先生のお話のテープを今聞き返されたら、「あ、本当はこんなことを言っていたのに、なんでわからなかったの?」ということばかりです。でもそれはわからなかったんじゃなくて、自分が正しいと思ったら、自分の正しい以外のことは受け取れないじゃないですか、みんなね。だから、わからなかっただけなんですよ。

 無色透明の自分という真祈りを駆使する自分になれば、全部わかる。真祈りを駆使する自分というのは、「印可書」を淡々と奉読してたらね、自然になります。そしたらわかります。

 でも、一番難しいところは、結局、ついつい自分でなんとかしようとするのね。例えば風邪で熱が出たと。そしたら、まずは薬を買いに行かなくっちゃ、お医者さんに行かなくっちゃって、「自分が」行かなくっちゃというあるわけですよ。それがあるうちは、ちょっとどうしようもないっていう部分なんですね。それが業の流転とか、運命の流転とか、因縁因果とかっていう部分なんですけどね。自分がどうこうしようとしてるうちは、因縁因果の鎖から抜けられないんですよ。

 「間違っている」、「正しい」とか、色々ありますけど、「正しい」ということは、「間違っている」ことを認めているし、「間違っている」ということは、間違いばっかりにしてるしみたいな、マイナスをどんどん掴んでいくんですね。それで何もかもわからなくなるんで。

 まず自分でどうこうしようとする意識をどう消すかだけなんですよ。それで、その自分でどうこうしようという意識を消そうとする自分が出てきて、またその自分を消すためにっていう、永遠の堂々巡りをするんです。これ、泰山の蛇って言うんですけどね。だから自分でどうこうしようというのを止めて、もう只々、「印可書」を奉読するだけでいかれたら、自分が消えてわかるようになります。

 それで、「宇宙神ありがとうございます」を選ばれる方は、自分でどうこうしようという意識が出た途端に、「宇宙神ありがとうございます」の中に自分でどうこうする意識を投げ込まなくちゃいけないんですよ。でも、そこで何が難しいかというと、自分でどうこうしようとしていることすら気付いてないんですよ、みんな。わかります?みんなその、パッと瞬間的に色んな判断して反応するんですけど、自分でどうこうしようとしてるから苦しいんです。

 なんで自分でどうこうしようとすると大変になるかというと、過去の経験に基づいて判断するからです。この過去の経験に頼る、基づいて判断するのは過去の経験に頼ってるんですけども、過去の経験に頼るということを「知識(知恵)の木の実を食べる」って言うんです。知識を得て「ああ、そうなんや。面白いな」っていうのは良いんですけど、それに頼るとややこしくなるんです。

 それを、もう少しわかりやすく言うとね、例えば映画を見に行くじゃないですか。昔、映画でランボーっていうのがあったんですけども。ランボーさんが怪我をするわけですね。そしたら、火薬をその怪我の上にブーっと塗ってね、でパっと火を付けて消毒するわけですよ。それで、「ああ、すごいことするな、うわー」って言って楽しんでるうちは良いですよ。でも、もしその経験に基づいて、どうこうしようってやることを、「知恵の木の実」を食べてるわけ。ああ、映画であんな風にしてたから、自分も怪我したら火薬を塗って火を付けましょうなんて言うと、「知恵の木の実」を食べたってなるわけ。

 今、極端な表現で説明しましたけども、それをみんなね、無意識にやってるわけ。やって、余計に迷路に入っていって、その迷路に入った人がいっぱいになると、戦争が起こるわけですよ。相手を信じられなくなって。相手が自分を騙すんじゃないかなって。ともかく、相手を信じられないから戦争、喧嘩になるわけですよ。抗争とか争いってそうでしょう?それって、なんで相手を信じられないかって言ったら、「自分が正しい」から入ってるから。自分の過去の経験が全部正しいと思ってるからという部分なんです。

 その「自分」というところでお話を聞いてもわからなかった。やっぱりどこかに、「自分が正しい」というのがあるから、自分の判断基準以外のことは受け取らない。「先生は、そんなん言ってるけど違うわ」って言ってるわけですね、そういう部分です。本当は、お話も文章も読まなくて良いんですよ。真祈りしてたら全部透き通るようにわかるの。わかれば自在に動けるの。

 だからその、野球で言うとね、ホームラン打つのがそうなんですよ。理屈で考えて良いボールが来て、それにバットを当てたらホームランになるわけでしょう?理屈で言ったら。でもそれ、過去の経験に基づいて、そんなんを判断してたら空振りになるわけ。自分というのが消えて本当に…ってなった時にホームランが出るようになるわけですよ。バットに球が当たるようになるわけです。ヒットが出るようになるわけですね。そういう、もうその過去の経験に知恵の木の実を食べない、過去の経験に基づいて、過去の経験でしたことが、自分が正しいというのを消しさえすれば、すべて自由自在になるんですけどね。

 それを中心に立つとか、総責任者の立場に立つとか先生は色々と表現されるわけですけども。そこの部分、「中心に立て!立て!立て!」って先生はおっしゃるわけですよ。じゃあ、中心に立つってどういう意味かみんなわからない。中心に立つというのは、絶対空の世界というね、自分のない世界に入ることを中心に立つっていうんです。「絶対の中心」というのは「無限大の外遥か彼方」でしょう?それって空の世界なんですけども。そこに立てれたら、全部がわかるわけです。自分がないじゃないですか。自分、作れないよね、「無限大の外遥か彼方」だから。それで「印可書」を奉読すると、まず自分を消すわけですよ。「絶対の中心 無限大の外遥か彼方」、自分自分って思おうとしてるんだけど、最初に自分の言葉で「絶対の中心 無限大の外遥か彼方」って空に消しちゃうからね。それで、「印可書」を奉読してると、だんだんなんでもわかるようになってくるということです。

 「宇宙神ありがとうございます」の場合は、その自分という意識があるかないかわからなくても、不平不満が出た時は自分があったという、自分でどうこうしようという、「印可書」読んでる方も一緒ですけども、不平不満が出た時は「なんでこんなことになるの!なんでこうなるの!」って言った時は、自分でどうこうしてる時なんですよ。その時は、「印可書」の方は「印可書」に戻る、「宇宙神ありがとうございます」の方は、「宇宙神ありがとうございます」の中に、「なんでこうなるんよ!」っていう自分の意識を自由意志で投げ込んでいただくということをされたら、自分が消えていきます。

 「印可書」の方がそこは楽かなあと僕は思いますけども、「宇宙神ありがとうございます」でいかれる方は、それで必死で投げ込んでください。ただ、必死になると「自分の必死」が出るから、またその「自分の必死」も「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでという大変さはありますけども。どっちにしても、ひたすらな真剣さが要るわけですよ。

 ただ、「印可書」だと淡々とね、「もう、なんかようわからんけども、この印可書に縋るしかない」みたいな感じでいくだけで吸い込んでもらえますので、「印可書」が楽かとは思いますけども。

 ともかく、その自分が消えたか消えないかで、特に先生の神書なんかそうなんです。神書を読むと、本当に凄いことが書いてあるんですけども、自分があるうちは読んでも全然わからない。自分がなくなれば、「あ、それが絶対の中心に立つことなんか」、「あ、それが総責任者の立場だったんだ」とかね。「結局全部同じこと言ってるやん、みんな既に祈ってる、悟ってる、救われているを、先生が言葉を変えて言ってはっただけやん」っていうのがわかるんですけども。自分のあるうちはね、自分が正しいでしょう?自分が正しいと思ったら、みんな既に祈っている、悟っている、救われているって思えないの。思えないと、(自分以外は自分も含めて)悟っていない人が一杯と言うと、本当は他人も自分も一緒だから、(やはり)自分も悟ってないとなって、わからなくなっていくという。結局、自分の正しいをどうするかです。というところで、どんどん自分が消えてこられたから、わかるようになったということです。

質問者
 わかりました。ありがとうございます

河上さん
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 他に何か会場の方から質問などありませんでしょうか?(会場からの質問はありませんでした)では、ないようですので、河上さん、お話よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます おもろいで1ヶ月過ごしてこられたんでしょうか?あんまり人をマイナスに見ないようにね。これは、普段の生活もそうですけど、趣味の世界になるともっと面白いんですね。趣味の世界になると、どんな絵であろうが、歌であろうがそうなんですけども、直接的な利害関係が発生しないから、もろにね「あいつの所はあかんねん」って、俳句でもね、川柳でもなんでもそうですけども、 僕のやってるオーディオなんか特にそうなんですね。「TANNOYのスピーカー以外はあかんわ」とかね、「そんなんJBLでないとなあかんわ」、「あいつはアホじゃ」とか言って やるわけですよ。

 それくらいね、自分が正しい、自分のとこが一番て思ってたら、もう何も見えなくなるのね。本当はそれぞれに良さがあって、それぞれに、なんて言うんですか、神さまの愛の響きが響いてるわけですよ。ただ、この世は、いろんな種類に、要するに右手と左手に分けて響かすようにね、光の色合いをつけて楽しむ世界ですから。それこそ、ある時は猫さんに生まれてみたり、ある時は犬さんに生まれてみたりね、それぞれの姿を楽しむわけですよ。 楽しんでるのに、「あんなんは脳なしや」とかってみんな言ってるのね。本当は神さまそのものなのにね。そこだけです。

 だから、いかにすべて真(まこと)の神さまってこうわかるかだけなんですけども。その真(まこと)の神さまって、わかるためには、今言った自分が正しいを消さないとダメなんですよ。でも、 自分が正しいを消すとね、一つ間違うと自分はダメだと思って自殺しちゃうのね。だから、あの微妙なバランスの中で、みんな自殺せずにすんでるわけです。真面目な人は、自分が正しくないと思った途端にね、「自分が悪いんだ、悪いんだ、もう自分なんか消してしまないとダメだ」って思って、まあ、会社なんかそうなんですけど、営業に行っててね、もううまく営業ができなくて、部長さんから、もういっぱい責められてね、「お前はダメな奴だ」、「ダメな奴だ」って言われると自殺しちゃうじゃないですか、それこそ追い詰められて。

 それって、「お前は正しくない、正しくない」って言われて、それで、本人も真面目だから、「あ、自分は営業で正しくないんだ」って思った途端に、もう死ぬしかなくなっちゃうのね。だから、微妙なバランスで自分が正しいって思っていないと正気を保てないというのはあります。ありますから、なんていうんですか、自分が正しくないとかね、いらないことを思わずに、ただただ神さま、神さまと呼ぶのが、一番自然な姿なんですよ。その神さま、神さまって呼ぶんだけど、神さまと呼ぶ神さまがね、みんな小さいの、自分の。

 そうでしょう、一人ひとり自分が思ってる神さまがあるんです。その自分の思ってる神さまというのは、真(まこと)の神さまから比べたら、もう遥かに小さいの。だから、ややこしくなっていくんです。じゃあ真(まこと)の神さまってどんな存在だというと、最初に説明したように、空気のような存在ですから掴みどころがないわけですよ。

 そしたら、神さま、神さまって、真(まこと)の神さま、真(まこと)の神さまって呼んでるんだけど、相手は空気や光ですね。空(くう)という、光も無色透明じゃないですか。空気も無色透明、掴みどころがないから不安で仕方がない。で、わからないってなっていくわけですね。真(まこと)の神さまそのものというのを、先生は「印可書」に集約された。あるいは、「宇宙神ありがとうございます」に集約された。あるいは「ありがとうございます」に集約された。集約されたって、それがそのものだって、言霊で決めてくださったわけですよ。

 先生が言霊で決めてくださったので、「印可書」が素晴らしいではないんです。先生が言霊で「宇宙神ありがとうございます」って決めてくださったから凄いんです。「ありがとうございます」の十文字を真(まこと)の神さまそのものっていうのを先生が、言霊で真祈りで決めてくださったんです。それを素直に信じれたらいいんだけど、信じれないから話がややこしい。

 本当は、「ありがとうございます」の十文字だけって先生おっしゃったんだから、それだけですーっといけるんだけど、みんな物を貰ってのありがとうございますから抜けれないのね。それで、宇宙神をつけてみたんだけど、抜けれないから手振りもつけてくださったけど、今度は手振りがね、変な宗教みたいっていらない(余計な)思いつけるから、これもやめて「印可書」にしたんだけど、今度は、光、強過ぎて受け取ってくれないからっていう、いろんな段階で今の「印可書」があります。今の「印可書」が凄いんじゃなくて、すべて先生が言霊で決めてくださったからなんです。それがわかれば、それをいかに信じ切れるかどうかだけです。

 「印可書」だったら、迷ってようが悩んでようがね、自動的に吸い込んでくれる力があるんで楽ですけども、「ありがとうございます」も「宇宙神ありがとうございます」も自分の自由意思で投げ込んでいかないといけないという厳しさがあります。どっちを選ばれても自由ですからただただ、いわゆる五井先生のお話で言うと「恥ずかしがらずに神さまを呼ぼう」なんですよ。恥ずかしがらずに呼べばいいんだけど、呼ぶ神さまがみんな小さい。それでわからない。白光真宏会も素晴らしい教えなんですけども、五井先生がおっしゃる神さまとみんなが受け取る神さまが大きく違う。ここでもそうだったんです。「ありがとうございます」の十文字が真(まこと)の神さまそのものって、いくら先生が言っても、みんなそう思えない、思わないというところです。

 でも、真(まこと)の神さまを呼ぶしかないんですよ。でも空気のような存在、空気を呼ぼうですよね。光を呼ぼうと言われても、「え!」みたいな感じじゃないですか、無色透明だからね。それを「印可書」に凝縮していただいたから、「印可書」をひたすら読んでると神さまを呼んでることになるんです。「印可書」が読めない人があることを当然、先生は想定内です。それで、護摩木を書いてくださいっていうことになってるわけです。護摩木も書きかねる人は、ここへ来て護摩木を燃やすのをお手伝いしてね。あるいは護摩木を作るのをお手伝いしてね。あるいは護摩木を作るお金を出してねということで、護摩にかかわる全てのことをお手伝いしたら、真祈りにするよ、神さまを呼んでることにするよって先生が言霊で決めてくださったわけです。

 だから、そこだけは信じていただかないと、「そんな護摩に出て何になるん」とかね。「護摩木書いて何になるん」とか言ってる間は、ちょっといかないですけどね。でも、どっかで神さまを呼ぶしかないのね。それはなんで神さまを呼べるかというと、皆さんが真(まこと)の神さまそのものだからです。

 ただ、真(まこと)の神さまである自分を忘れ去ってるから、それをどう思い起こすかというと、言霊、真(まこと)のプラスの言霊を駆使することによってしか思い起こせないわけですよ。その真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分というふうに先生言ってくださったけど、みんな駆使できないのね。要らないこと思うわけですよ。「あいつ間違ってるやん」かとかね。「俺は正しい」とかね。「俺よりあいつの方がわかってる」とか、俺の方があいつよりわかってるとかね。それが、マイナスの言葉というのがわからないの。

 真(まこと)の言葉を駆使する自分というのは、すべて真(まこと)の神さまといったら、真(まこと)の言葉を駆使する自分なんですよね。でも、すべて真(まこと)の神さまって言いつつね、自分の我(が)も真(まこと)の神さまなのか?っていうくらいわかってない。

 だから、やっぱりどうやっても自分が”正しい”から、誰も抜けれないんだっていうのを先生がもう色々とね。本当に 先生も、こんなん言うと怒らんけど、本当、先生と二人で苦労しましたよ。どう言ったって、みんな神さまというとこに辿り着かないなぁということで、先生が、もう最後は、これはもう何をしても無駄だと、真祈りだけだ。

 お前の真祈りが足らんから、どんどん予定が遅れるじゃないかと怒られてね。先生の真祈りにプラス、このピラミッドのように裾野の真祈りがいるんですよ。その最初の一段目がお前なんだから、お前が真祈りできなかったら何も始まらんって怒られっぱなしで、50年きたわけですけども、それがちょっとずつ成功して、護摩が始まって、どんどん裾野が広がってきたんですね。それが広がってきたから「印可書」が進めれるようになってきました。

 だから、最初の護摩で「印可書」を使えなかったのは、そこまで裾野が広がらなかったからなんですけども、 今は「印可書」があるので、一気に、本当に一気に変わっていくと思います。そのためにも、淡々と「印可書」を読める方は読んでください。読めない方は護摩に関するお手伝いをしてください。「護摩木を書いてください」あるいは、「宇宙神ありがとうございます」に自分の不平不満を全部投げ込んでください。ともかく、不平不満が出た時は、自分が正しいと思い込んでる時よ。そうでしょう、自分が正しいから正しくないこと見えて不平が出るわけ、わかります?

 だから、不平不満が出た時は「印可書」に「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んで、投げ込んで投げ込んで、それもできない時は、もう文句言いながらいいから「護摩木を書いてください」それで 進んでいこうと思っています。

 ともかく、自分が”正しい”を消すだけなんですよ、理屈で言えばね。理屈で言うてわかるくらいだったら、とっくにね、 先生が50年間されてきたことで成功してるはずなんですけど、結局、みんなの自由意思で選び取っていただかないと進まないから、みんなの自由意思で選び取ってもらえるまでは、どうしようもないんですよ。

 でも、みんなの自由意思でなんで選び取れないかというと、いろんなマイナスの思いを自分の中に重ねて見えなくしてるんです。自分が”正しい”というマイナスの思いが、 自分がというマイナスの思いで、みんな見えなくしてるわけですね。

 先生は僕におっしゃったことは、ともかくね、もう何をしてもこれはもうダメだと、病気治しようが何をしたって、みんな、一時、喉元過ぎれば熱さを忘れるね、変わらないということで、もうひたすら、真祈り以外は何もないんだということで(眞祈りひとすじに命をかけることができない僕に)怒られました。

 ひたすら真祈りで、皆さんの自分が正しいって意識をね、どんどん消したんですよ。本当にね、今、はっきり言いますけど、99%消すのに成功してます。でも、残りの1%は、何があっても皆さんの自由意思で消していただくしかないんですよ。全部100%消すことは可能なんですけれども、100%消すと、みなさんは単なる操りロボットで、真(まこと)の神さまの絶対の自由は発揮できてないから、なんて言うんですか、悟りにならないの。

 真(まこと)の神さまというのは、絶対の自由ですから、その自分が正しいというマイナスの意識を、自分の自由意志で神さまに投げ込んでいただくしかないんです、最後の1パーセントは。それを今、この護摩を通してやっていただいてます。「印可書」を通してやっていただいてます。宇宙神ありがとうございますを通してやっていただいています。

 「宇宙神ありがとうございます」でやられるときはね、投げ込みにくいから、「手振り」を入れると投げ込みやすくなります。「手振り」入れてるうちは、あんまりものを考えてる暇ないからね。だから、いろんな自分のやりやすいことを使ってですね、その自分が”正しい”というマイナスの思いを、最後の1%、本当にもう皆さん、最後の1%だけにしたんよ。後、本当に綺麗にしたからね。その最後の1%は、皆さんの自由意思で投げ込んでください。

 皆さんが投げ込んだ途端に縁者ががっと来て元に戻りますから、また投げ込んでください。そうして、自分の縁者のものを全部投げ込んだら完成なんです。それが続くだけです。だから一瞬なんかすごくスッキリしたんだけど、また元の木阿弥(もとのもくあみ)やねん、私あかんわと思わずに、あのどんどん。なぜかというと、先祖も自分なんですよ。先祖と自分を切り離してるうちはわからない。縁者というのは全部自分の先祖ですけども、死んだ子供も、お父さんも孫も一緒なんですけども、全部自分なんです、本当はね。

 自分だから自分に縁があったんですけども、それを全部、 その方々がみんな悟れなかったのは、自分が”正しい”と思ってるから。

 その自分が”正しい”というマイナスの意識を、どんどんどんどん「印可書」と「護摩」と「護摩木」と「宇宙神ありがとうございます」と「手振り」を通してね。自分の自由意思で投げ込んでください。それによって 一気に世界が変わります。皆さんが変わるだけじゃなくて、本当に世界が一気に変わります。

 これからはね、本当に海外の人がすごく日本を頼りにしてくるんですよ、無意識に。それで日本に頼ってくるの、それこそ、小さい幼稚園の子のようにね、お母ちゃんって言って頼ってくるんですよ。その時に日本人が母性愛を持ってね、受け入れてあげれないとダメなんですけども。今、真祈りしてたら大丈夫ですよ。真祈りしてたら、よしよしってやれますけども、真祈りしてなかったら、なんやこいつら来やがって、仕事減るし、生活苦しくなるしってなってね、それこそ地球が滅ぶるんですよ。もう本当にね、お母さんってそうでしょう。自分食べるもんがなくなってきたら、自分の食べるものを減らしてでも子供に食べさすじゃないですか。その愛がいるんです。それは真祈りを通してしかできない。これだけしかパンがないのに、こんなにようけ人いてるのに、1個のパンでどないするねんじゃないんですよ。

 真祈りしてたら、イエスのおこなった奇跡は皆さん現わせますから、その時ちゃんと実感できますから、今から真祈りしててください。「印可書」を読んでてください。「宇宙神ありがとうございます」と「手振り」をしてください。「護摩木を書いてください」そしたら、本当に食べ物はないんだけども、ちゃんとみんなに分け与えられるようになります。

 その奇跡を見せることによって、みんなが真祈りを真似してくれてね、一気に世界が変わります。本当にね、もう全世界の人が日本目指してきますから、皆さんがちゃんと受け入れることができなかったら、大変になるんですよ。そのためにも、「みんなおもろいやっちゃ」でいってください。「あいつダメやなぁ」って言わずにね。みんな、世界から来た方も、皆さんおもろい奴やと思ってよしよしとしていかなくちゃいけない。

 それが、ちゃんとできますからね。イエスの奇跡なんて簡単なことなの。自分が”正しい”と思わんかったらできる。自分が”正しい”と思ってるうちはね、例えば、こんな1個のパンを、例えばこの会場の100人の方にね。分けようないやんって。

 それ、自分が”正しい”と思ってるからですよ。(過去の経験に基づいて判断しているから)。

 神さまが絶対の愛だったら、ちゃんとするっていう信念だけの問題なんです。イエスは、自分が正しいなんて思ってないから、3333個にあの時、分けれたんですけども。みんな、本当に欠片しかもらってないんですよ。でも、その欠片を口入れるだけで、1個のパンを食べただけの効果があったわけです。

 そういう奇跡はちゃんと起こせますからね。それが実際起こせるようにならないと、世界変わらないから。皆さんができるんです、それを。先生やったら病気治してくれたりとかね、もうそういう時代は過ぎたの。甘える時代は過ぎたの。皆さんがすべての人に愛を与える時代が、これからは来るんです。皆さんはちゃんと真祈りできて、できますから。そのためにも、最後の1パーセントはね、自分は正しいを祈り言葉に、「印可書」に投げ込んでいってください。もう、後は、そのちょっとの練習だけです。それができたら、本当に、何事も悩まずに透き通るようにわかるという表現も本当は違うんですよ。悩まずにすっすっすっとやっていったら、あ、うまくいけたっていうそういう感じです。わかるじゃなくて、わかるとわからなくて、もう自然に体が動いてるんですよ。

 合気道の達人がそうなんですね。相手を投げようとか云々は思ってない。自然に構えられて、相手が倒れてるとなるんですけど、その領域に皆さん、もう、もうすぐなりますから、後は自分が正しいと思ってる意識を「印可書」に、「護摩」に 「宇宙神ありがとうございます」に、「手振り」に投げ込んでいってください。よろしくお願いします。また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://www.youtube.com/watch?v=5zRCZUzGHYM&t=238s

 宇宙神ありがとうございます


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9月光の交流会 by 河上彰延 2023年09月09日(土) 22時12分
PC

令和5年9月光の交流
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年9月光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。

 自由自在もね、本当の自由自在っていうのは、真(まこと)のプラスの言葉を選べるかどうかで決まるのね。自由自在に選べるかどうかってね。本当に選べたら自由自在が本物。でも現実に心奪われたり、また、その心に溜めた思いに負けたり、色んな他に影響を受ける場合は自由自在じゃないよね。全て言葉通りになるっていうのが絶対の法則だけど、最高のプラスの言葉を選べるかどうか?真(まこと)の神さまから自分に必要なものを的確に受け直せるかどうかよ。

 真(まこと)のプラスの言葉を自由に選べたら、全部支配できる。自分自身も言葉通りになるし、自分の住む世界も言葉通りだし、自分の運命も言葉通りだし、全て新たに、今、選ぶ一言で支配できるの。だから、過去は関係ない、現実も関係ない。今、新たに一言。本当に自由に選べたらいいよね。そしたら、その人は本当の自由自在になってるって言える、本心の自分よ。

 本当の幸せっていうのは、この真(まこと)の神さまからの愛の贈り物、一大循環の相象(すがた)をしっかりと受け取ることよね。受け直せて幸せなのね、本物。思いの世界はそうじゃないよね、思いの世界は思い通りになって喜ぶだけの世界ね。一大循環の相象(すがた)を受けてるんじゃないよね。思いの世界は小さい思い通りになってるだけの姿よね。それが自分の都合のいいものをプラスに感じて、それで喜んでたら、思いの心を積み重ねるだけになる。

 一大循環の相象(すがた)を受けられたら、過去全部消えるの。神さまの光が強いから。愛の光が強いから過去を全部消し切ってくれるの。思いを全部消してくれるよね。だから、さらに自由自在になれる。最高のプラスの言葉を選べて、また一大循環の相象(すがた)を受け直せるようになるのね。だから、思い通りになって喜んだらダメなの、それも思いを溜める、積み重ねるの。

 だから神さまのプレゼントを一大循環の相象(すがた)を受け直さないとね。それは本当のプラスの生き方になる。

 だから、自分の選んだ言葉で、真(まこと)の神さまから何を受け取るか?受け取る、受け取り方が本物でないとダメよね。小さいもんだったら偽物。だから元は一大循環の相象(すがた)無限のスピードなのね。無限のスピードだから、それもお互いが与え尽くし合って、支え合って、部分と部分が区別できない状態よね。お互いが交流し合ってるから、もう無限に複雑に入り組んでしまうでしょう。だから、部分と部分の切り分けができないよね。だから、本当の全体が一体感を保ってるのね。

 ところが、その流れを止めてごらん。流れを止めたら、全部、部分と部分が区別つくじゃない。部分と部分の区別がついたら、これバラバラに見えるの。流れ止めた世界が虚の世界よ。だから、流れを止めたら虚の世界に転落するのね。これは、思いの心が過去を掴んで止めてるからよね。本当は循環の流れを止めるわけにいかないよね。誰も止める力なんかないからね。ただ、思いの心で過去を掴んで止めてるの。止めたのは過去の残像、足跡、思いの姿よね、止められるっていうのはね。

 過去の一瞬を掴んで止めた状態に思いの残像として見てるだけなのね。それは、虚の姿よ偽物なんよね。それでバラバラに見える。みんな、部分と部分の違いがわかる。対立しているのが見える、差別がわかるっていうのね。みんな、虚の世界よね、

 思いの残像の世界、みんな。これ、流れをもう1回戻さないとダメよね。一大循環のプラスの流れに戻ったら、また全部が一つに見えてきてね。だから、真(まこと)の神さまの、最高のプレゼントを受けるのは、一番早い、スピードの早い循環のすがたを受けること。末端にいくほどスピードが緩やかになってくる。それが止まったら虚の世界よね。逆流を起こしたら、もう一つマイナスが大きくなる。

 虚の世界、五感や六感の世界いるけど、虚の世界も循環してるよ。循環してるけど、みんな、多分思いの心だと循環してるように見えない。太陽から来てる光、無限に早いスピードで受けられないよね。光がそこに一筋あるって向いてるだけで止めててね、1秒間で地球を7周半するって言ったってね、見てないよね、そういうはね。

 もう、全部そうなんよ。大きく変化してるっていうふうに見て、初めて虚の世界でも循環ってわかるのよね。でも、虚の世界においてすらね、まだ、止めて止めて止めて見てるじゃない。過去を掴んで、さらに過去を掴んでよね。今じゃなし過去を掴んで止めて見てるよね。これを止めないように流れを元に戻していくようにしていくのが必要なの。

 虚の世界においても、常に新たに受け直すっていうね。真(まこと)の神さまの世界とは、全然違うけどね、虚の世界でもスピード緩やかでも、新たに受け直すっていうのがいるよね。ちょうど循環が戻ってくるでしょう。それが、もっともっと、スピードが早くなってくるほど、真(まこと)の神さまの世界に近づいてくる。

 だから、循環を元に戻す方法、与え尽くすだけがいいよね。それも、恩返しが一番いいのね。全体から与えられてるものを恩返しの心へ、全体へ返していくの。その循環が、だんだん早くなってくる。与え尽くす心でなかったら、逆に求めたら逆流を起こす。プラスの循環が止まるだけじゃないよね。逆流、マイナスの循環になる。そうなったらマイナス増える。

 だから、恩返しだけが正しい生き方よね。与える与えるばっかり、報いを求めないで与えるばっかりっていうのが恩返し。これも虚の世界の恩返し、まだね。本物の恩返しは、一大循環の相象(すがた)を絶対に掴まない。自分のものにしないっていうのが恩返しよね、本当の恩返し。

 一大循環の相象(すがた)をただ眺めるだけ、無限のスピードで循環してるのを眺めるだけよね。止めて、掴んで止めて、自分のものにしてお返しするんじゃないのね。流れるまま、それが真(まこと)の恩返し。そこまで行かなかったら恩返しになれないよね。掴んだら、もう恩返しじゃないのよ。掴んだら虚の世界に転落する。真(まこと)の真実の世界っていう、ここはもう掴まないのね。循環の流れを掴まずに、ただ褒め称えて、感謝して喜ぶぐらいよね。

 そしたら、いつも神さまの全体を受け直せる。掴んだら小さい部分を掴んでしまうのね。小さく小さくなっていく。掴まなかったら大きく大きくなっていく。だから、新たに新たに眺めるだけっていうのが恩返し、真(まこと)の恩返し。

 幸せも虚の世界の幸せと真実の世界における幸せと大きく分けられる。でも虚の世界の幸せでも、これも本物と偽物があるよね。思い通りになるのは偽物ね。借金いっぱい積み重ねるから偽物になる。本物の幸せ、虚の世界における本物の幸せは、新たに新たに受け直す生き方よ、受け取った幸せよね。借金のない幸せ。本物の世界が写し出されてくるような幸せよね。でも、まだ本物じゃないのね。本物が写し出されて見えてくるっていう、思いの色眼鏡を通して。

 虚の世界におけるのは、二通りあるのよ。真(まこと)の神さまに向いた時は、色眼鏡を通して見るのよね。色眼鏡を通して見ると、光は真(まこと)の神さまから全部くるのよね。プラスは全部、真(まこと)の神さまくるんだけど、それが色眼鏡を通しただけがマイナスされるよね。でも、真(まこと)の神さまの光やプラスが映ってくる、見えてくるのよね。

 その太陽が輝いてる時に、空に雲があったら、雲が思いの色眼鏡よね。黒い雨雲だったら太陽見えないよね。薄雲になったら太陽光入ってくるよね。そんな感じよね。思いの色眼鏡が薄くなるほど光が感じられる。それは全くね、全く神さまの方へ向かなかったら、色眼鏡を通すんじゃないね。今度、逆に光の方から闇の暗い方へ心を向けたら、神さまに背を向けた時、これは小さいものに心向いたらそうなのね。

 神さま、無限大の外遥か彼方だから、全方向どっち向いても遠くを向くと神さまの方に向いてるの。でも、小さい部分へ心を向けた時は、反対に背を向けてるね、神さまにね。その時は闇にマイナスに向いてるのね。その時に周りが全部鏡になる。

 ちょうど窓ガラスがあるじゃない。お昼は外が明るいから外の景色見えるの、でも、夜になると外が暗いじゃない。暗い方を向いた時の窓ガラスは鏡になってるじゃない。同じよね。神さまに背を向けた時、小さい部分に心向けた時、この時に闇に心向けてるのね。だから全部自分の姿を鏡に写してる、写し出されるよね。その時に見えるマイナス全部、色眼鏡を通しても鏡写しても全部、自分のマイナスの言葉よ。

 そういう世界があるんじゃないのね、色眼鏡のマイナスの言葉。自分の溜め込んだ思いのマイナスの言葉。だから、マイナスは全部自分のマイナスっていうのが正しい見方なんですね。自分の世界のどこかにマイナスがあって、自分と関係のないマイナスっていうのは間違い。本当は、マイナスは全部自分のマイナスって見ないと消せないのね。

 神さまは、真(まこと)の神さまはプラスだけ。どこにもマイナスはないのね。だから、神さまから一大循環の相象(すがた)を受け直してる限りは、真(まこと)のプラスだけが降り注いでる、大きく大きく。

 だから、マイナスがちょっとでも見えて、感じられたら、ごめんなさいと謝らなダメ。神さまごめんなさい。神さまにはマイナスがないのに、「あ、マイナスを見てしまって、掴んでしまって、言葉にしてしまってごめんなさい。」って謝る。そしたら消してもらえる。「真(まこと)の神さまだけ!」「真(まこと)のプラスだけ!」「ありがとうございます」って言えるよね。

 本当にね、例えばマイナスの言葉使う人あるとするでしょう、人のこと言ってるようだけど違うの、自分のことを言ってるのよ、みんな。人がマイナスっていうのは違うの、自分が同じマイナス持ってるから言うの。自分が神さまの世界に心向けて、プラスの言葉を使ってて、思いを消してもらって輝いてる人は、人を見てマイナスには見えないし、見ないし、言わない。幸せだけで喜んでるだけ。言葉はプラスの言葉しか使わない。

 マイナスの言葉で人を攻めてる人、見てたらよくわかるね。その人が同じマイナス持ってる。そっくりそのままに持ってる。だから、自分のことを言うのよ、みんなね。言葉で表現する時は、自分自身を言葉で表現してる。だから、人のことをマイナスに見て言ってるって言うんじゃないのね。自分が、その同じマイナス持ってるって言ってるのね。恥ずかしいよね、本当はね、マイナスの言葉をそういうふうに言うと、自分自身の表現なの。

 隠せないよ、これも同じよ、鏡に写るように写る。自分自身、どれだけマイナスあるかをやっぱり見せつけられる。実際、周りに写る環境は、自分の心の鏡よね。そしたら、自分自身の持ってるものがマイナスなの。

 だから、それをもう一回、過去を掴んだ、現実を掴んだ状態で、この言葉にしたらマイナスの言葉になるの当たり前よね。そこでやっぱり大事なのは、新たに選ぶ一言。本心の側の自分が自由に選んでこないとダメ。思いの奴隷になっててね、本心の自分を自由自在な力を発揮しなかったら、結局発揮しなかったっていう自由を発揮しているのよね。本当の自由自在を発揮するようになったら最高のプラスの言葉を選んでこそ、本当の自由の発揮よね。

 でも、それを、力を使わなかったっていうのも自由の発揮だけど、積極的な力発揮じゃないね。持ってる力を出さなかったっていう、消極的な自由なの。そしたら、運命の奴隷になって、惰性に流れていく。それもその人の自由だけど、幸せにはなれないよね。

 だから、本当の幸せ、本心の自分の幸せは、真剣に本当に命がけで、神さまのプレゼント受け直さないとダメ。だから、真剣な努力が必要なの。新たに新たに、一瞬一瞬、新たに新たに受け直すっていう努力が必要なのね。一回プレゼント受け取ったから後もう惰性に流れていいんじゃないのね。常に新たに新たに、神さまの最高のプレゼントを受け直す。

 一瞬一瞬、真剣でないとできない。新たに新たに受けるんでもね、過去の全部を神さまにお返しして、お返して、新たに受け直さないとね、忙しい。そこまで真剣にならないと、神さまの最高のプレゼントを受け続けるわけにいかないよね。一回だけ受けていいんだったら惰性に流れてもいいんだけど、永遠にずーっとね。さらに大きいプラスのプレゼントを受け直そう思ったら、一瞬一瞬が真剣勝負よね。

 常に今よりもさらに大きくプレゼント受けないとダメだから、油断できないよね。その真剣な努力を神さまが要求してくる。無理やり与えて、そのままってないよね。受け取る自由意思をしっかりと確認するために、その真剣さを要求する。無理やり押し付けてないよっていうだけよ。一大循環の相象(すがた)、必要なものを的確に与え尽くす神さまの愛のプレゼントでもね、無理やり押し付けてない。受けるに任せてる。その人の自由に任せてる。だから、真剣に受け直してくれないと、受け取れないっていうふうになってる。

 ただ、その真剣って言うんでも難しいことじゃないのよね。一瞬一瞬、新たに受け直すっていうんでも眺めてるだけでいいの。ただ眺めてるだけで受け直せるの。難しいことを要求してないよ神さまはね。ただ、眺めて、褒めて、感謝して喜べばいいだけよね。だから、プラスの言葉をしっかりと使いこなせばいいのね。言葉通りのものを受け取れる。

 虚の世界は過去の言葉を全部積み重ねて溜めてるからね。同じ言葉通りになるんでもすぐに出ない。たくさん溜めた人は、今使う言葉、後になって出てくるね。過去に使った言葉が先に出てくるから。マイナスの言葉でいっぱい溜め込んだ人は、マイナスを先に現実化するから、今プラスの言葉使ったからすぐにプラスが飛び出すかって、そうでもないからね。

 でも神さまの一大循環の相象(すがた)は、真(まこと)のプラスの言葉を今、選べたらそれがすぐに、波が合えばすぐに受けられる。過去を無関係にしてね。過去の全てを消せるのよね、神さまの大きい光はね。

 だから、同じことなのね、過去世の無限の借金でも、借金返し、本当はしないと早くしないと損するんだけど、同じ借金返しでも、早くするほどいいよね。利息はつかないから、早く減っていくよね。でも、それも本当は大変なのよ。七難八苦の姿は、みんな借金取りの姿よ。借金を取りに来てくれてる姿なのね。その借金取りが来てる中で、しっかりと働いて、プラスの与えて返さないとダメなの。借金取りが来てるから、働かないで返せなかったら、借金増えるのよ。全然返してないってなるでしょう。

 いろんな理由つけてもダメなのね、借金取りはいろんな姿で出てくるね。七難八苦っていうのもそうね。七難の火難って怒りの心でも天まで登るぐらい燃えさかる、これ火難の一つでしょう。腹立つから、もう仕事辞めたって言ってね、仕事せんとふてくされたら、もうそれだけで借金取りが来てるけども、何も返してない状態で借金を増やしてる。

 水難って悲しみに溺れて涙を流して、何もしないっていうのも同じよね。これも借金取りの姿よね。そのまま仕事も何もせずにじっとしてたら、恩返しも、借金も何もできないね。そしたら借金がまた増えていく。

 八苦の中でも例えば、病苦って病気の苦ってあるじゃない。病気だから何もせず寝てたら、病気治ってからって言うてたら、借金取り来てるけど、何もせずに返してないことになる。だから、七難八苦関係なしにどんな状態でも、こう働いて、プラスのもの返していかないと借金減らない。

 でも、いくら働いてもね、返せるどおりがないのね。利息が高いから返しても利息の方が増え続けて、借金を増やしてる。それでは永遠に返せないからって、うまく救済の神さまが守護霊さま守護神さま含めてね。救済の神さまが応援に、応援に立ってくる。本当に借金返しする気持ちがあったら、肩代わりして助けてあげるよっていうふうにね。その時に恩返しの心を起こせばいいね。借金返しの気持ちだと永遠に不可能だけど、恩返しの気持ちを起こして、同じ働きするんだったら、この肩代わりしてもらえるね。

 守護霊さんも守護神さんも救済の神さまもってね、一生懸命身代わりになって、背負って消し続けてくれる。それが恩返しの生き方になるね。それでも恩返しでも、まだまだ本物じゃないから。ただ、真(まこと)の神さまの大きい力まで受け取れないから最初はね、これが本当の恩返しになったら、一大循環の無限倍の大きい支えの力で押し上げてもらえたら無限の借金、瞬間に消える。

 だから、本当の恩返しの気持ちになったら、過去世の借金、マイナス、思い、全部すぐに消える。ただ、本当の恩返しになるまでが、やっぱり虚の世界だから、いくら救済の神さまが力があっても、守護神さん、守護霊さん、一生懸命働いても限界がある。徐々にしか消せない、大変なのよね。だから、どれだけ早く本物の恩返しの心になるかどうかよ。

 だから、表面的に良い事があって喜んでたら、これ、借金返しと反対なのね。借金増やしてる方なの。借金をしてプラスが与えられてるって状態ね。それは、借金が一方で増えてるの。思い通りになったっていうのはね。これもある意味では怖いのよ。それよりも七難八苦が来てる方がいいの。七難八苦が来てて、なおかつ一生懸命働いて、借金返ししてる方が、借金が減っていく可能性が大事。それを見てて守護霊さんも一生懸命応援する。守護神さんも一生懸命助ける。救済の神さま大勢が快挙して応援につくのね。それで、借金を思いをどんどん減らしてくれる。そしたら、本当の恩返しの気持ちにどんどん、どんどん変えてきてくれる。

 それで一大循環の相象(すがた)を受け直せるような恩返しの生き方になったら、思いが全部消えて、虚の世界が消えて、そこまで行かないと本当の喜び方にならないね。同じ幸せって言っててもね、思い通りになっての幸せは偽物。思いをどんどん消してもらうのが本当の幸せ。思いがどんどん消えていって、心が軽くなって、幸せな心が湧き上がってきてっていうね。これ、まだ本物の方へ近づいていける。

 本物の本心の心になった時は、恩返し一つにならないからよね。与え尽くすばっかしの心になったら、無条件の幸せってね、無限に無限に湧き上がってくる。与え尽くすことが幸せっていうね。無条件幸せってそうよね。条件がつかないっていうのは与え尽くして湧き上がる幸せなのね。求める心の、思いの心の幸せは条件つけての幸せよね。全部そうよね。条件をつくのは、思いの心の、求める心の幸せよね。これ、みんな偽物だから借金。

 だから、最高のプラスの言葉だけを使わないとプラスを与える本当の働きにならない。肉体使ってする働きは大したことないのよね、言葉よ。本当のプラス言葉を選んで、それを使いこなせるかよ。これは本当のプラスの働きなるね。でも、マイナスの一言は、これみんなプラスを破壊するの一言で。これは大きいマイナスの働きしたことと同じなの。だから、絶対マイナス一言相手したらダメなの。見るだけで、聞くだけでね、ダメなの。マイナスの一言選んだらダメなの。これは大きいマイナスの働きになるから恩返しや借金返しにならない。大きい借金を積んだこと、増やしたことになる。

 だから、一瞬一瞬、新たな一言、最高のプラスの言葉を選ばないと、後は自然に任せる。まず、プラスの一言選んでお任せよね。そした借金返しでも万分の1の軽さで消してくれる。マイナス絶対出ないから言えないよね。借金返し早くしよう思ったらマイナスが出てくるけど、ただ、軽く済むの。「ああ、万分の1に済ましてもらえてありがたい」って言わないとダメ。「マイナスが出た大変」って言ったらね、またマイナスを積むの。必ずプラスの言葉で受け直さないと。何かマイナス出た時にね、「ああ、こんなに軽く済ましてもらえた」って言わないとね。プラスの言葉で受けないと反対になるよ。

 病気になったら「ああ、ありがたい。」って言わないと。「大きいマイナスを消してもらえた。」「大難を小さい小難に変えてもらった。」もう本当は普段からみんなそうなんだけどね、何も出ない時は、大難を無難に変えてもらってるんだけど気づかない。それで、小難を出さないとダメって言ってね、出してくるんじゃない。無難に変えてしまったら、みんな気づいてくれないから恩返しの心を起こさないからダメだってね。だから、ちょっと気づくように残しとかないとってね。だから、大難を小難に出してきても、また文句言う人あるよね。ちょっと病気しただけで、「ああ大変」病気を治さんなんて思うよね、反対よ。「ああ、病気になって心を清めてもらってありがたい」って言わないとダメなのに。そしたら勝手に消えてしまうのに。やっぱりマイナスを掴んで言葉にしてるから、これが恩返しじゃないのよね。マイナスを積み重ねてることになる。

 だから、マイナスの一言、絶対相手にしない自分っていうのを目指さないとダメ。どんな時もそうなのね。必ずプラスに翻訳するって。本当の「ありがとうございます」を言えば、真(まこと)の神さまと出会うんじゃない、最高のプラスだけの神さまと。

 そこでね、現実はどうのこうのって言うたら選んでないんじゃない。マイナスの言葉選んだことになるじゃない。過去の残像、過去の言葉の現実化した古いものを選んだことになるよね。そうじゃないよね、今、新たな一言。真(まこと)の神さまと出会うための言葉でないと、最高のプラスの言葉でないと選び方が自由になってない。

 周りのせいにして、環境のせいにして色んな理由をつけても、みんな他のせいにしたら、マイナスが何倍も増える。自分が増やしてることになる。自分の一言がこだまする。あちこちの鏡にぶつけるから、全部跳ね返って返ってくる、何倍にも増える。他のせいにしたら、全部そうなのね。自分の一言じゃない。自分のマイナスの一言、これ、自分に返ってくるだけなんだけど、たくさんに反射させたら、みんな何倍にもなるよ。大きく反射させたら万倍にも億倍にもなるよ。自分の一言がね。

 だから、他に、他のせいにしたら、みんなそうなるのよね。世の中のせいにしたら、世の中全体から跳ね返るのよ。あの人のせいや言うたら、あの人から跳ね返ってくる、何倍にもなってね。絶対違うの。みんな自分の言葉、自分の言葉だけが自分に返るの。真(まこと)の神さまにはプラスだけだから、マイナスはないよ、絶対ないよ。「真(まこと)のプラスだけ!」どこを探してもプラスだけなのね。それをマイナスの言葉で思いの残像の中へはまり込んでね、マイナスを感じるのね。でも、マイナス感じたって自分の心の中だけで感じてるんだし、現実と違うよね。思いの残像の中で感じるだけの話だから、言葉変えたら全部消える。

 だから、本当の自由自在な自分を生きるっていうね、これが一番必要なの。真(まこと)の自分。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。これ本当の自由自在の心を生きることなの。悟りを開くってね、仏教だと仏になるって言うんだけど、仏っていうのは、ほどける。いろんな縛りからほどけて、自由自在になるっていう意味よね。だから、仏教の悟りの極致は、自由自在な心っていうよ。

 本心の自分に戻る、本当の悟りはね。本当のプラスの言葉だけを、新たに新たに選び続ける自由があるっていうところでね、そこが本当の自由自在。言葉選びが他のせいでって言うんだったら、もう奴隷よね。だから、病気してても、「無限健康」って言えないとダメ。「完全健康」って言えないと、無限に元気に働くって言えないとダメなの。「ああ、しんどい」って言うたら、もうダメ、反対よね。現実をもう本当に完全に無視しないと自由に言葉使えない。

 本当に自由に言葉を使えたら、その言葉通り全部なる。全部支配できる自分になる。本当に言葉通りよ。「ありがとうございます」だけが正しいよね。「真(まこと)の神さまだけ!」「自由自在心だけ!」「真(まこと)の自由自在だけ!」絶対、他のせいにしたらダメ。

 自由自在になりましたね。

質問
 世の中の人ってスケジュールに縛られ、時間に縛られ、予定に縛られてっていうのもあるじゃにですか、そういうのも変わってくるんですかね?

先生
 自分が縛れてる。世の中の人って言うたらダメね、自分の中にある全部ね。だから、自分が自分を縛っているよ。みんな自分の縛りマイナスって言わないとね。真(まこと)の神さまには一切の縛りがないって言わないとダメなのね。言葉変えたら全部消えていくね。

 だから、虚の世界でも無限に段階があるよね。マイナスの世界無限にあり、プラスの世界無限に段階があるね。だから、因縁因果って言うけど、因縁因果でも不昧因果、因果昧(くらま)さずってね、悪いことをしたら必ずむくいがくるとかね。良い事をしたらプラスのおかげが出てくるって言うけどね。でも人間も本当にそういう因縁因果の世界を超えないとダメよね。虚の世界でもね。因縁因果に落ちないっていう世界ね、プラスだけの世界に戻っていかないとね、虚の世界ですらそうなのよ。

 不昧因果じゃなしに落ちない不落因果にならないとダメなの。高い世界へ上がったら、虚の世界で高い世界上がった人は、もうね、全部生まれ変わりなんかないって言うの。元からないって言うのね。魂の生まれ変わりなんてないって言うね。因縁因果に落ちない、断言するの。どこにもマイナスはないって言うのよね。そこまでいったら、不落因果の世界でね、虚の世界でもね。

 言葉が違ったら、そういう自分の世界が全く言葉通りの世界になるから、他の世界とは全然違う世界になる。不昧因果で因縁因果でっていう世界は、その言葉通りの因縁因果よ。マイナスある。悪いことしたら罰を受けてむくいを受けるっていうね、これ言葉なのよ。そういう言葉使ってる限りはそうなる。でも、プラスだけなんだって言ってね。不落因果でね、そんな落ちないっていうふうに本当にプラスの言葉だけ使い続けた世界は、虚の世界だったら、本当にプラスだけの世界。だから、全然違う世界。言葉通りに違う。だから、波の違いは、全部言葉の違いなの。本当に言葉の違いで、波が違う、世界が違うのね。

 だから、その言葉が、本当のプラスの言葉になったら、真(まこと)の神さまの世界を現す言葉になったら、真(まこと)の神さまの受け直しができる。これはもう、最高のプラスの言葉になったら、そうなる。だから、言葉だけで変わる。だから、自分の使う言葉通りの世界に住んでる、本当はそうよね。だから、自分の言葉を変えていかないとダメよね。

 現実の世界こうだからっていうふうに言葉を使ったら、やっぱり、その世界に自分が住んでるのよね。だから、その世界の言葉をまた繰り返してるとまた同じってことになるからね。だから、現実を言葉にしないっていうね、完全に無視して、プラスの言葉を選ぶ方がいいよね。そうしたら変わってくるのね。自分の住む世界が変わる、まずね。まず、自分が変わって、自分の世界変わる。波が変わってしまうから違う世界になるのね、自分の世界がね。

 だから、他の人を変えるんじゃないのよね、自分の世界を変えるんじゃないのよね。自分を変て、世界を変えて、波を変えるだけ。他の人の自由を縛って、変えられない。みんな自分が変えるの自分の世界を自分自身を。どこまで変えて神さまの世界に戻れるかよね。神さまの世界を受け直せたら本物になる。本当の自分に戻ったって言えるね。だから、自分自身を変えるだけよね。世の中を良くするんでも、人を変えるんでもないの。自分の言葉を変えて、自分を変えるだけ。それが正しい生き方よね、それでないと変わらない。

 はい、ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://www.youtube.com/watch?v=8pOyl5_nifc&t=404s

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/09/03(Sun) 22:18 No.3024 [返信]


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8月勉強会 by 河上 2023年08月18日(金) 21時58分
PC

令和5年8月河上さん勉強会−1前半(20230813−1前半)

質問:質問3つ預かってます。1つずつ読みます。宇宙神ありがとうございます。いつもありがとうございます。
 いつも食事の支度をする時など、「印可書」の録音を流し唱えながらやっています。私はイヌを1匹買っているのですが、 「印可書」を聞いているのでしょうか?その時に何か思ったりしているのでしょうか?この世には動物と話の出来る人が何人かいるようなのですが、言葉というよりテレパシーみたいなもので会話しているようです。っていう質問です。

河上さん:あー、はいはい。全ては完璧なる一つなのね。みんな真(まこと)の神さまで、 ニャンコさんもイヌさんもね、おサルさんもシカさんもトラさんもライオンさんも、みんな真(まこと)の神さまには変わりない。 で、それを、この世的なゲームでね、意識的に分けてるから、分からないだけで、分けなければ、自然に響き渡るから。テレパシーとかそんなんじゃなくて、本来一つやからね。
 右手の感覚から言うて、左手がちょっと痛いなとかね、そういう感じの伝わり方です。だから、みんな自分の言葉で縛ってルールを作るの。だから例えば、イヌさんの言葉は分からないって、自分で縛っているから、イヌが何喋ってるか分からないってなるだけでね。縛らなければ、分かるようなるんです。で、その縛りを解く方法、それが「印可書」であり、宇宙神ありがとうございますなの。
 で、「印可書」の場合はオートマチックにその縛りが解けますけども、宇宙神ありがとうございますの時は、 イヌの言葉が分からないという気持ちを、宇宙神ありがとうございますに投げ込まないとダメなんですよ。イヌの言葉が分からないというのが 消えるまでね。で、それは自分の自由意志で投げ込まないと受け取って貰えないんでね、宇宙神ありがとうございますの厳しさですけども。どれを使っても、そういう風にしていくしかないんですよ。

 で、なんて言うのかな、先生がね、「教えをたてない、 組織をたてない」と仰ったことが、今だにみんなよくわかってないね。教えも組織もたてなかったら、バラバラになるんじゃないかみたいな感覚なんですけど。バラバラじゃなくて、本来真(まこと)の神さまで一つだから、教えも組織もいらない。なんで教えも組織もいらないかって言うと、教えというのは私の教え、 組織というのは私の組織というてね、自分という神さま以外の存在を認めると、組織や教えがいるの。神さま以外のものを認めなかったら、全部真(まこと)の神さまだから、自分というのが消えるんですよ。

 で、その最初の全て真(まこと)の神さまというとこをね、理屈で考えて、すべて真(まこと)の神さまって言うてる人は受け取ってないから。例えばね、この前質問があったらしいんですけども、「全て真(まこと)の神さまやったら、自分の我も神さまか?」みたいな質問が来たというわけですよ。それってね、自分で全て真(まこと)の神さまと言いながら、真(まこと)の神さま以外の自分を認めてね、 自分の我がどうこうって言ってる単なる屁理屈なのね。

 全て真(まこと)の神さまと言ったら、もう自分は無い。だからちょっとでもその自分の我というのがあるうちは、それを全部宇宙神ありがとうございますの中に投げ込まないと。
「印可書」読んでない人に限って、そういう屁理屈言うんだけど、全てもう真(まこと)の神さまやったら、もう自分はないの。

 自分がある内は全ての真(まこと)の神さまって言葉を言ってるだけで、響かせてない。祈ってないって言うんですけどね。それだけなんです。だから、それが進むとね、「祭壇がいる」なんて言い出す。「祭壇を作りましょう」とかね。

 先生は祭壇を一切作られなかったでしょ?それは、祭壇を作ったら、自分の祭壇という神さま以外のものが出てくるから。

 だから、今までの宗教が全部ね、虚の世界の宗教だというのは何かと言うと、自分のというのがあるわけ。それを先生は宗教の縛りって言うんですけどね。組織の縛りって言うんだけど、自分の宗教が1番だという縛りを作った以上は、そっから抜けれないの。「自分の」という意識から。

 で、「自分の」という意識があったら、全て真(まこと)の神さまにならないから、もう身動き取れないんですよ。 で、中にはね、バカバカしい宗教があって、「うちは真(まこと)の神さまだから大丈夫だ」って言うわけです。真(まこと)の神さまと言う時は、「ウチは」はないの。「自分とこは」というのはないの。 なのに、真(まこと)の神さまだから、自分とこは大丈夫だっていうね。そういう矛盾してることを言ってることすら気づかない状態に、自分で自分を縛っちゃうの。

 良い悪いを言ってるんじゃないですよ。自分という意識、神さま以外を認めた時点で縛っちゃうの。縛ったら、自分で縛ってるから、自分の縛りだから解けない。誰も解いてあげることもできない。自分で自分を縛ったからね。自分の自由意志で縛ってる以上は、自分の自由意志で解くしかない。

 その全て真(まこと)の神さまというとこ。それを絶対の信とか、色々表現しますけども、神さまが1番良いようにしてるとかね。 そこがみんな分からないのね。で、自分と他人を分けて、「あいつは良い目してる」とかね。「あいつとこは良い」とかね、「うちの方が良い」とかね、「自分とこの方が優れてる」とかね、「自分とこが1番だ」とかって やるわけ。それはゲームの世界でしょ?

 学校の運動会で言えばね、本来は同じ全校生徒じゃないですか。でも、わざと赤と白に分けて、どっちが勝ったとか負けたという運動会というゲームをしただけで、「赤勝て、白勝て」ってやってるだけで、終わったらおもろかったなでしょ?

 なのに、この虚の世界に自分で自分を縛ってしまうとね、「あいつとこより俺のとこの方が優れてる」とかね、色々やり出すわけ。それゲームでやってるんやから、別に、負けたら負けたでまたゲームをやり直したら良いだけなのにね。そのゲームというのに気付かない。虚の世界というのは、ゲームだというのに気付かないとこが全てです。ゲームだから、神さま以外のものをルールとして作っただけで、 本来は真(まこと)の神さま以外は何もないというとこですね。

 それがイヌの言葉が分からないっていう、ごく、みんな常識としてね、イヌの言葉分からないって決めてる部分は、みんなで常識として、みんなで自分を縛ってるだけ。誰もあなたを縛ってないんだけどね。

 だから、その縛りが解けたら、「印可書奉読」してたらね、イヌの言葉も、ネコ言葉も分かります。言葉が分かるというより気持ちがすっと分かります。

質問:ありがとうございます で、同じ方から翌日に質問が来ました。昨日、 我が家のイヌについて質問しましたが、元々心臓に持病のあった愛犬が 午後急変し亡くなりました。まだ実感が分からないのと、ただただ寂しく辛い思いがあります。イヌにとっても突然のことで、今空の上で何を思っているのか気になります。亡くなったイヌに「印可書」を唱えても良いでしょうか?よろしくお願いします。ありがとうございます

河上さん:唱えてあげてください。でもね、唱えてくれてるのはイヌの方なんだけどね。人間の方は自分とイヌと分けてるでしょ?イヌさんの方は飼い主と自分を分けてないの。で、飼い主さんが心臓病で倒れそうだから、喜んで身代わりとなってね、倒れてくださっただけなのね。

 だから、イヌに本当は教えて貰わなあかんけどね。イヌさんの方が「印可書」をたくさん奉読してたと思います。で、もちろん奉読してあげてください。 ありがとうございます

質問者:ありがとうございます

宮野さん:それ、先ほどの話の中で、元より心臓病があったイヌとなってるけど、そういう縁で来たの?

河上さん:心臓病のあったイヌじゃなくて、飼い主のを移してくれただけ。 だから、なんていうのかな、もちろん縁というか、この世のルールはね、 過去世の記憶を消してるから、分かりにくいけど。でも、消してるからこそ、イヌの姿となって来れたわけ。

 もし、過去世の記憶を消してなかったら、お前なんか来るなってなるんでね。で、人間で近寄られると「お前なんか来るな」ってやっぱり言う縁があるから、「お前なんか来るな」って言われない姿となって来てくださっただけです。それで良い?

質問者:はい、ありがとうございます

質問:宇宙神ありがとうございます。先日の護摩炊きでのお話で、 マイナスを認めず、「おもろいやつ、おもろい人やな」と言って受け直すと仰っていました。とてもよく分かりました。
 私は身内のことになるのですが、「おもろい人やな」はちょっと他人行儀っぽくなってしまいますので、「ほんまにおもろいわ、おもろすぎる」を使っているのですが、これで大丈夫でしょうか?

河上さん:大丈夫です。心でマイナスと思っててもね、言葉で受け直すからね、 少々心でマイナスと思ってても、「おもろい、おもろい」って言ってたら、プラスに変わっていきます。だから「印可書」なんですよ。

 あいつ腹立つなと思いながらでもね、「印可書」奉読すると、自動的に消して貰えるのは、そのためなの。只、宇宙神ありがとうございますは、なんて言うんかな、もうちょっと光が一筋の強さだけなんですね。「印可書」はいろんな強さの光を、散りばめてあるから、自動的に弱いとこから吸い取って貰えるんだけど。宇宙神あありがとうございますは、強い光で、ドンって来てますので、自分の自由意志で、どんどん投げ込まないとダメです。

 で、緩やかな真祈りの伝授を、頑張ってしてきたわけですけど、この8月8日をもって、一旦終了になってしまいました。

 で、この8月8日以降はね、本当にマイナス思ったらもろに自分に現れますから、頑張って真祈りしてください。

 だから、宇宙神ありがとうございますを選び取った人は、 ちょっとでも文句が出たらね、ちょっとでも「あいつ怠けてるやないか」とかね、色々あるじゃないですか。「もっとしっかりせよ」とかね、「言ってやらなあかん」とかって思った時は、その気持ちを宇宙神ありがとうございますに自分の自由意志で投げ込んでください。投げ込めたら一切文句言わなくなります。

文句言うてるうちは投げ込めてないから真祈りになってないと反省して頑張ってください。

 で、「印可書」の人はもうちょっと緩やかに、もうなんか出るごとに、ひたすら悩むごとにね、ひたすら「印可書」奉読してください。もう8月8日以降は待ったなし。まあ、本当の時間切れになっちゃってね、大変なんですけど。 ある意味、それぞれ皆さんが自分の選び取った役割で、いろんな形で消していくということになります。

 で、「印可書」選び取った人は何回も洗い直して消せるし、宇宙神ありがとうございますを選び取った人も、本当に投げ込めたら何回も洗い直して消せます。

 只、投げ込まずに文句言ってたら、 その文句の状態を体に表して消すだけです。どっちにしても、その人にとって1番の得意技ということになりますから、良い悪いではないです。

皆さんの自由意志で選び取った姿を取るだけです。だから、「癌になりました」って文句言ってこないでね。自分で選んで癌になるだけです。ありがとうございます

質問者:ありがとうございます 以上です。

河上さん:質問ありますか?

質問:基本的には「印可書」奉読なんですけど、真(まこと)のプラスの言葉を駆使することで、「印可書」奉読では長いという場面では、宇宙神ありがとうございますや、ありがとうございますを…

河上さん:そう、あのね、駆使するというのは、本当に、駆使なんです。ということは、ちょっとでも文句出たら駆使してない。

 だから出ても良いけどね、出る毎に、ほんとに 宇宙神ありがとうございます、ありがとうございますに投げ込んでいかないとダメなんですよ。それで、投げ込めたら、受け取って貰えたと信じきれないとダメなの。

 「印可書」はその辺がね、あやふやでも大丈夫なんだけど、ありがとうございますとか、宇宙神ありがとうございますが、なんで上手くいかなかったか言うと、その、投げ込んでるつもり、自分は。つもりだけども、「これで、大丈夫かな」ってまた自分で疑うのね。自分で自分を。それで潰しちゃうの。

 だから本来真(まこと)の神さまの自分だから、必ず宇宙神ありがとうございますに投げ込める、受け取って貰えると信じ切れなあかんねんけど、中々その辺はね、真(まこと)の神さまと1対1という厳しさがあるんで、そう思ってやってください。 はい。

質問:あと、「印可書」の話で、「印可書はダブルの螺旋」って仰られてて、 その意味がちょっと分かりづらかったんで教えていただけますか。

河上さん:あ、ほんとは三重の螺旋なんですけどね。螺旋というのは何かと言ったら、強い光と弱い光と真ん中の3つを組み合わせて螺旋構造を描くわけ 。それは何かというと、網目なんですよ。強い光と言うのは大きい網目。真ん中の光はもうちょっとちっさい網目。で、弱い光というのは細かい網目です。要するに、心の小さな人を拾う為に弱い光がいるわけ。細かい網目でないと抜け落ちるでしょ?でも、弱い光のままだったら、いつまでもラチあかへんから、 弱い光で拾っといて真ん中の光持って行って、強い光で焼き殺すみたいな(笑)。焼き殺すという表現はあかんけど、焼き消してしまう。

 神さまと自分といって、神さまから離れたマイナスの思いを消してしまうということです。
それが「印可書」の場合は、三重螺旋構造で自動的に引きずり込んで消すわけですけど。宇宙神ありがとうございますとか、ありがとうございますの場合は、自分の自由意志で投げ込まないとダメなの。それがね、投げ込んでるつもりだけど、さっき言ったように投げ込んだけど、投げ込めたかなとかね、 受け取って貰えたかな、とかね、これで大丈夫かなって思っちゃうわけ。思ったら投げ込んでないんや、それは。という厳しさがあるということ。 どれを選ばれても自由です。

質問:「印可書」の場合は不安があっても大丈夫という?

河上さん:そう。自動的に吸い込んで消してくれるんでね。それで一生懸命「印可書」って言うんだけど、みんな自由だからね、自由意志だから何を選ぼうと自由ですよ。どれが良いじゃないです。

 只、やはりこっちの方がやり易いんちゃうんっていう、テレビショッピングしてるだけで、あくまで個人の感想であって、効果効能を示すものではない、個人の感想です。(笑)

質問:宇宙神ありがとうございますも本来はダブルだったのが?


河上さん:いや、そんなことはないです。宇宙神ありがとうございますをダブルにしようと思うと手振りを入れたら良いんです。分かるでしょ?手振りって考えてる暇ないでしょ?要するに、考えてる暇がなくなったらオートマチックになってくるんですけど、考える隙間がある時は厳しいという事。

質問者:ありがとうございます

質問:ありがとうございます 8の字体操、四股踏みを素直に体験された方の感想なんですけども、「若返ったんちゃうの」とか、「なんか肌つやようなったね」って言われてるそうです。

河上さん:そらそうなります。なるって言うてるやん(笑)。

質問:実際、僕がそういう風に聞きました。で、僕の感想なんですけども、 8の字体操も、四股踏みも、ちょっと体が硬く感じる方は、 真祈り体操から始められると、真祈り体操っていうのは、全身運動だと思うんで。

河上さん:いや、そうだけどね、真祈り体操を出来へんから作ったんだから。逆に、どっから入っても良いのよ。四股踏みもね、最初はもうほんとに、足がこう外向かなくても、普通のこの状態でね、こうしたら良いのよ。そうしてるうちにどんどん筋肉がつくし、柔らかなるしで、理想の形に持っていけるけどね。その最初から5分間しなくちゃいけないとかね、縛ったらもうできなくなるし、体潰すの。

 で、四股踏みは特に、しつこく言ってるんだけど、「やっててしんどなったらすぐ止めてね」って何遍も言うてんのに、しんどなってもするから、ややこしなるね。

  で、真祈り体操はね、最初から最後まであるから、途中でしんどいなって思っても止めにくいでしょ? それで四股踏みにしたの。この8の字もね、「印可書」読みながらって言ってしまったから、「印可書」終わるまで止めにくいじゃない。それで取り敢えず、それもやって良いけど、四股踏みやったら、「ちょっとしんどなったら止めてね。で、また思い出した時にしてね」っていうことで言ってます。

質問:じゃあ、最初から本来の形を求めるんではなく。

河上さん:うん。だからね、結果に縛られるなとか、結果を掴むなって言ったって掴むじゃない。だから、四股踏みの場合は、「しんどいという結果があったら止めてね」って言ってるから、結果を掴むでも、無理がない。

 5分間 と違うからな。只、本当に慣れてきたら四股踏みをしながら「印可書」読めるよとかいうのは言いますけど、しんどなったら止めてください。その代わり、四股踏みの場合は思い出すたびに(しょちゅう、どこでも)出来るじゃない、場所問わずに。だから凄く良いって言ってるの。

 真祈り体操とか、この8の字はね、場所と時間取るでしょ?すると、やる回数が限られるじゃない。その方が悪い。しょっちゅうするっていうのが良いね。

 なんで思い出した時にしょっちゅうすぐ出来るのが良いかって言うたら、それは一瞬一瞬新たに近いから。本来みんな一瞬一瞬新ただから年取らないね。でも、自分で縛って、一瞬一瞬新たに自分は受け取れないってやっぱりするねんな。先生やから出来るけど、私らできへんわって無意識に自分で縛ってんねんで。先生誰も縛ってないのにな。それで、年取るね。 

 それで年取ったから物忘れひどくなったとかね、年取ったから歩けなくなってきたとか、年取ったから体硬なったとかな、なんらと自分で自分を縛って、自分で言い訳するし、縛りをしてな、するわけよ。で、これが進むと、宗教カルマって言って、自分とこの教えは1番だって言った途端に、自分で自分を縛って、一切見えなくなっていく。

 自分とこが1番じゃない。全て真(まこと)の神さまというのが中々みんな分からへん。なんとか自分とこってしたい。で、した途端に全部分からんようになんねん。

 だから、この宇宙神ありがとうございますの額もね、作るなって言うのは、祭壇みたいにしようとするんよ、みんな。で、祭壇にした途端に、この宇宙神ありがとうございますが1番って言い出すね。

 だから それは自分とこが1番だって言った時に全て帳消しなるの。 みんな真(まこと)の神さまって言うてるやん、もう分からんかなみたいな感じや。

 それ、自分とこがって言うた途端にね、国と国との争いまで発展するわけよ。でしょ?だから、「お前とこから来て働くな」とかね、「勝手に国入ってくんな」とかってやるわけでしょ?自分とこって言うてるからや。みんなどこ行っても自由だし、どこで働いても自由だし、どこで遊んでも自由だし、どこで何食べても自由だよってしたら喧嘩ならないのにな。来るなとか、来る以上お金払えとか。関税でしょ?

 或いは、他所へ物を売る以上はお金払えとか、消費税やろ?あないして縛り合いしてやな、喧嘩なんねん。

 その自分とこはというのがあるうちは偽者。みんな真(まこと)の神さまというのは、自分がないということやね。もうそこを、ほんとね、そこをもう分からなあかんねんけど、理屈で考えるとすぐ分けようとするね。

 理屈で考えるなというのは、考えるというのは、自分とどうこうって考えようとするから。で、そのスタートで自分って言うた途端に崩れるね。何もかも見えなくなる。

 だから、「ここは宗教ではない」って何遍も言うてるやん。「教えも組織もない」って。それは自分がないから。自分があったら、自分なりの教え,自分なりの組織ができていくの。すると、「 あいつ、わし先輩やのに顔立てんと勝手にしよった」とかな。どこでもやるやん。ブロック長の顔立ててないとかね、あれがそうや。自分があんね、あるうちは偽物や。

 それで此処でもそうや、僕の方が古いのにとかってみんなやるわけや。だから先生は1番古い僕を隠しときはったんや。いざとなったら1番古い人間出してきて、「ワシの方がここに古くからおる」って言うてね、自分という意識を持たさんように、先生が用意周到に隠して隠して。

 それで先生亡くなられた後の、最初の護摩に喋って良いですかって(先生の奥さんに)言ったら、(許可をもらえて)喋らせて貰えて、ああしてスタートしたわけや。

 それでスタートにね、55年以上の古い人は僕以外におれへんから、誰も抵抗できなくなって、自分が出しにくくなったから、上手くここまで来たんや。これ、自分を出してたら、「私の方が教えの先輩だから」って言って、ぐちゃぐちゃなってるよ。

 その「自分が」っていうのがあかんねんて。「私が」っていうのがあかんのよ。これが分からなあかんね。「全て真(まこと)の神さま」って先生言ったやん。「みんな光や」や、別の言い方したら。光というのは分けられへんね。 分けた時点で偽もんや。だから組織も教えもいらんね、みんな光やから。それ以降は何の説明がいるか?だけやねんけどな。

 あまり簡単すぎてみんな不安なって、なんかこう作ろうとすんね。作るなよって、先生作ってないね。もう50年前から先生は「みんな光や」って言うてんね。もうって思うけどね。

 だけど考える癖があるやろ?で、考えるいうのは自分と分けて、相手と引き比べてどうこうかなってするわけや。で、引き比べたら虚栄心が出るわけや。それで、あいつより偉いか負けてるか、勝ってるか負けるかになるわけやな。そしたら卑下満なるか増上慢になるかどっちかや。もう永遠に分かれへん縛られて、自分で自分縛ってるだけやけどね。「あいつより俺の方が偉い」って言った時点で自分縛ってるから見えんようになんね。

 「みんな神さま」と言ったら縛りがないから透き通るように全部分かるんやけどな。それを何度も先生は説明してんねんけど、誰も受け取らんとここまで来たんや。でも、光の交流会を起こしてくれてね、あの、先生の昔話をもう一遍起こしてくれたら、ちゃんと言うてはること変わらへんねんで。(と改めてみんなわかるはず)。

 それが未だに分からんのは困んねんけど、でも、護摩のおかげでね、やっとみんな分かるようになってきたんや。良かった。

 だけど、「自分とこが1番」とか、「自分が」とか、「この祭壇」って言う時点で自分の祭壇や。「この額が」って言ったところで、自分の額、自分のとこの額になんね。そしたら分け隔ててるから、神さま以外のもんなってしまう。

「宇宙神ありがとうございますの祈り言葉だけ」って言うたら、分け隔ててるから偽物なっていくね。 だから先生はいろんな祈り言葉を残してくださってんけどな、すぐ、なんか自分の選んだんが1番みたいな言い方をしたいから、「これだけ」とかって言い出すねんけど、「これだけ」って言うたら、もう偽物よ。

 「全て光や」って言うてるやん!「全て神さま」って言ってんのになんで分からんかっていう感じで、おもろいなと思っていつも見てんねんけど。

質問:そういう分け隔てる気持ちを持ちながらでも素直に「印可書」を淡々と奉読することによって、縛りも解ける?

河上さん:そう、「印可書」か護摩やね。「印可書」か護摩はオートマチックにそれしてくれてるから。だから、「印可書」選べなくても護摩だけはな、何しても来てくれって言ってお願いしてるわけ。

  騙してでも連れてこいって言うのはね。でも、あんまり言うと、また語弊があるから言わんとくけどな。だけど護摩に来てください。はい。何があっても、ちょろっとで良いから。最初から最後までおらんで良いから、ちょろっとでもええから来てねって言ってます。

 或いは護摩に関するお手伝いしてね。護摩の会場に来なくても良いけど、護摩に関するお手伝いしてねって言ってます。

質問:または、来たくても来れない方、行ってみたいって誘ってみたい方に、護摩木を書いてもらって、参加してもらうことも、護摩炊きに参加することに等しい。

河上さん:そうです。でも、刑務所入ってる方だったら、護摩木がないからね、もちろん紙でも良いですよということ。でも、護摩の会場を維持するためにもね、護摩木を買って頂きたいから、護摩木って言っています。

質問者:分かりました。ありがとうございます

河上さん:もう兎も角ね、「みんな光や」から離れたらあかんね。みんな光やから、「すでに祈ってる、悟ってる、救われてる」や、光やもん。 でも、自分でね、カラーリングするわけよ。

 自分はどんくさい奴やとか、自分は勉強できへん奴やとか、色々あります。自分は男やとか、自分は女やってして、その役を楽しんでるだけよ。本当そうなの。で、ニャンコさんも「今回は自分、猫で行きたいわ」って言って、ニャンコさんなってきてるだけよ。それ、勘違いしたらあかん。イヌさんも一緒やけどね。

 「あの人に恩あるから、あの人のお手伝いしたいから」と言って、でもイヌでないといけないから、今回はイヌで行きましょうって来るだけやからな。だから、イヌ、ネコやから、アホやから分からへんとはちゃうからな。その辺は恐ろしいもんやで。

 ちゃんとみんな助けてくれる。

 本当にね、どれもこれも助けてくれるだけやね。只、小さい自分の意識から見たら、「あいつてんご(悪さ)しやって(しよって)、あいつ邪魔しやがって」ってなんねんけど、本当はその形で助けてくれてるだけよ。要するに、「あの人が邪魔して、この仕事上手くいかなかったわ」と言ってもね、本当やったら破産するぐらい大変なことを、その形で消してくださっただけなの。
本当の話よ、これはね。

 だけど、ちっさい自分の意識から見たらね、「あいつ邪魔しやがって、てんごしやがって、わけ分からんことしよって」とか言ってね、文句言ってるわけや。

 或いは怠けてる姿で目の前に来る人もそうよ。本当やったら、自分が 調子悪くて動けなくなるのを、その人が身代わりに怠けてる姿で、動けない姿を(身代わりに背負って)見せてくれてるだけなんだけどね。本当はたったそれだけやねんけど。

 だから、「立ち向かう人の姿は鏡なり 己が心を写してや見ん」やけど。本当はもうちょっと進んでね、「立ち向かう人の姿は、真(まこと)の神さまなり、己のマイナスを消してくれてるだけ」やねんけどな。だから今が一番良いようになってるって言うてるやん。

 今が一番良いようになってるって言うてるのに文句言うからややこしいね。只、文句言うたら「印可書」か「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでください。言うなって言ったって出るからね。それは癖のもんやから仕方ないよ。でも、出ても投げ込んで消したら良いだけ。

 もう8月8日過ぎて待ったなしやから、色々、 うっかりマイナスに思いすぎて「印可書」とか真祈りし損なった人は体に不調が出ますけども、こっちに持ってこないように(笑)。自分で頑張って「印可書」読んでください。

 その、本当にね、もう地球霊王様が、先生に任せますということで、先生との話し合いでね、地球霊王様と先生の話し合いで、先生に任せますだったんだけど、本当に待ちきれないって地球霊王様が言ってきてるんで、だからもう仕方ないんで、8月8日から以降は、 みんなの自由意志で選び取った姿を現してもらって消す形にしますから、もうちょっとだけ待ってくださいと(地球霊王さまに)お願いしています。

 だから、「印可書」奉読頑張ってしてね。し損なうと体に色々と現れますけど、現れた形で消えたからよかったと思ってくださいね。そしたら、すっと消えるから。それを「こんな病気になってどうしよう」って言った途端に掴むじゃない。だから、なかなか楽しめるよ。はい。痛みを(笑)。



令和5年8月河上さん勉強会1−後半(20230813−1後半)

宮野さん:確認なんですけれども、今が一番良いようになっているというのは、よく護摩の時皆さん宣言されている、「どうぞこの命、神さまの御用にお使いください」って言っている事とは一緒ですね?

河上さん:そうです。だから「神さまどうか神さまの御用にこの命をお使いください」ってね、本当の自分の本心から言ってなくても、口に出したら、それは有効やから使って貰うようになったわけです。(本当は、どうかこの命神さまの御用にお使いください。と投げ出したら一切の文句が出なくなるんだけど・・・(笑))

 だから真祈りが出来ていなくても「私は真祈り出来ていますから真祈りの伝授を受けなくても大丈夫です」って言い切ってくれた人は、そのまま使って頂けるって言う事です。

 だから一応色んな人に古い人にも特にね、「お祈りしてますか?」って僕はたずねたの。そしたらみんな「してます」って言ってくれたから「良かったなあ」です。

 やっぱり神さまに使って貰えた方が良いからね、それが一番。で、その病気になった時に文句を言うでなくて「使って頂けて良かったな」って思えたら大きな働きになりますから。だからこっちに持ってこないでね。説明したやろ。持って来なかったら黙って消すんだけど、持ってきたら知らん顔するからね。

宮野さん:それは持って来ない、持って来るって言うのは、今の状況に文句を言って、何とかしてもらおうってギブアンドテイク・・・

河上さん:そうそう。文句言うぐらい迄やったらまだ良いよね。ただ(なんとかしてくれといろんなものに)頼ったら終わりや。頼ったら、もう神さまの側に立っていない。

 神さまのお手伝いをしているうちは救いの側ね。神さまの働きの側に立っているからすっと消えるわけ。そこなんですよ。この病気治して欲しいって言った途端にね、神さまに頼っているわけ、甘えているわけ。今までは先生は甘えてきても直してあげたわけ。だからよく「先生だったらすぐ直してくれたのに」って言う声を聞くんだけれども、それは甘えても良い状態の時だったから、これからは甘えて頼っている人は見捨てられるの。

 先生のお話のようにね、神さまのお手伝いの側に立ってくれ、一切の報いを求めずに与え尽くす側に立ってくれって、ずっとずっと同じ話をされて来ているわけよ。その通りに皆さん実行されたら良いの。だから病気になっても喜んで「ああ、使って頂けて良かった」って言うたらスッと消えるんだよ。「こんな病気になってどうしよう?何とかしてくれ」って言った途端に、酷くなっていくね。

 逆に言うとね、これからは皆さんがご自分でどんどん奇跡が現していける訳。神さまのお手伝いが出来て良かったと思った途端に。

 でも「こんなんになって、どうしよう」と思った途端に、すごく悪化します。どれもどれも必要な体験だからね、やっぱりお手伝いの側に立つのが良かったんだと分かるまでは、色んな事を、勿論、自分の自由意志で選んでいるのよ、そうでしょう?神さまのお手伝いに立ちたいっていうのも自分の自由意思だし、助けて欲しいっていうのも自分の自由意志だから。神さまはその自由意志を大事にされますから、どうぞ色々と体験してください。

 ただね、本当に8月8日が過ぎたから、どっちにでも、極端にスッと現れるから、あの病気も神さまのお手伝いに使って頂いて良かったと思ったらすっと消えるます。本当にそれが極端ですからね、「どうしよう?助けて」って思った途端にどんどん悪くなりますから。大丈夫。

 ただ先生に縁のあった人はね、大なり小なり神さまのお手伝いをしたいと思うから、先生に近づいた。先生のところに来たの。そうでしょう?先生のところに来た人は本当に人数が知れている(少ない)わけでしょう?全人類から見たらね。

 その何故かと言ったら本当に神さまのお手伝いをしたいっていう人はこれだけしかいない。でもこの人達がお手伝いの姿、要するに真祈りの姿を現したら、全人類に響くの。あの音叉で説明したけれどもね、こっちの音叉ピンって響かしたらこっちも響くでしょ?それは本当に真祈りの響きが出たら最強だから、真祈り最強だからアッという間に変わるのよ。ただそれを相乗効果で先生のおっしゃる相乗効果でね、みんなで真祈りをしたら何億倍なるからっていうんで、それの一つの象徴が護摩です。でも毎日毎日が護摩ですからお願い致します。

質問:このまま護摩焚きが進んでいけば、地球霊王様は喜んでくださいますか?

河上さん:そらそうよ。もちろん真祈り、真祈りの響きがドーンと響いていったらね。でも護摩が中止になったら、またその時、神さまはどうしてくるのか分からないけど、はい。その仮の話は止めとこう。

質問者:ありがとうございます

河上さん:だから本当に真祈りの伝授を先生から受け止めれていたらね、数式も全部受け止めているから、「私は先生から真祈りの伝授を受けた」っていう人は、どうぞ数式を出してください。もう出しても大丈夫です。言って意地悪言うてるか?(笑)

 本当ね、色々あるんだけれども、ただ数式を出してもね、みんなは数学苦手だからね、もう出さずに行こうという事にしています。だから護摩で行こうという事になったんで、護摩で行きたいと思います。

 もちろん真祈り出来ている方には随時数式はうつして(伝授して)いますけれども、気づかないだけ。はっと浮かび上がるようにしてあるから大丈夫です。

 先生のやり方ね、真(まこと)の伝授。まず相手の本心を響かす、で本心から湧き上がってくる。でも「私は受け取ってないわ」とか、「私は分からないわ」とか、「私はお祈り出来ないわ」とか勝手に自分で縛って、気付かないだけ。

 で、いつまでも気づかないとね、すごい地震とか津波とか来てね、食べ物とかなくなった時に、イエスのような奇跡を現さなくちゃならないの。その時に現せるようになって初めて気づく。

 そんな状態で気づくよりは、ごく自然な状態で気づいてほしいからね、頑張って護摩もして、印可書も奉読してお願いしますって言っているわけ。

 「宇宙神ありがとうございます」を選ぶ人は覚悟を決めて投げ込んでください。ちょっとでも文句が出たら「宇宙神ありがとうございます」って祈り切れていない、反省してね。だからどれを選んだって本当に大丈夫だからね。

宮野さん:あのね、たぶんね、さっきから「投げ込んでください」っていう表現が、中々たぶんちゃんとピンと来にくいと思うのですが。

河上さん:文句が消えるまで祈り続ける、唱え続けるという事です。

宮野さん:はい。ありがとうございます

質問:そういう場合、無意識に文句を言っている場合はどのように投げ込むのでしょうか?

河上さん: 文句が出ないぐらい「宇宙神ありがとうございます」って言い続けるんだけどね、 だから印可書が何でオートマチックかというと、長いから 文句言っている暇がないんよ。「宇宙神ありがとうございます」は、短いからな、 言っているうちについつい文句出てくるね。その難しさってって言っているだけ。だから文句の少ない人は「宇宙神ありがとうございます」でいけるの。大丈夫、大丈夫。 人を責めない人は大丈夫。「おもろいやっちゃ、宇宙神ありがとうございます」でやってください。

宮野さん:あの「印可書の吸い込んでいく 」という表現も前にされていたと思うんですけど、その特性も文句が出ました、でもあの…

河上さん:うん、 文句あってもね、要するにね 、文句が出ましたというのを気づかんで出る人が多いわけよ。それが難しいね。真祈りの難しさやね。文句言ってないつもりで文句を言ってるのよ。 みんな無意識にな。 それが 印可書 やったらさっき言った三重構造だから順番に こうベルトコンベアで引き上げていく感じでね、 エレベーターなんだけれども印可書は、どんどんエスカレーター なんだけれどもね。引き上げて行って消すから、「もう、何かもう」と思った時は印可書、印可書ってお願いしているわけです。

 だけど、「宇宙神ありがとうございます」やったら自分文句言うてないからな、文句をほんまは言ってるねんけども、言っている場合があってね、中々大変なわけです。

 ただ文句を言いなさんなやね、文句が出る間は偽物なの。「全部自分やで」って先生言うてるのにね。真の神さまやっでって言うてるので、文句の出るはずがない。出た時は真の神さま以外のものを認めているわけ。

 それを祈り言葉、真のプラスの言葉でしか受け止めれないから、真の神さまは。

 真の神さまが降り立つのは真のプラスの言葉のところだけなんです。

 だから最初に先生は本配りをしようと言ったわけよ。真のプラスの言葉だけを書いた本をポスティングする事によって、日本全国に真の神さまが降り立てる場を作ろうとしてはったわけや。で、実際その本を読む読まないに係らず、ただ置くだけでね、真の神さまが降り立つ場を作って行けたんだけれども、その配る人が、「ただ配ったら良いやろ」ってなってね、真の神さまが降り立てないようにしちゃったの。その本は素晴らしいんだけれども、その本の上に「配ったらええんやろ」ってね、「これを配る事によって病気治るんやろ」とか色々あるんですけれども、マイナスを被せちゃったのね、それで一旦中止になった。「護摩だけで」、「印可書だけで」ってなっていったんですけどね。

宮野さん:多分「配ったらっ良いんやろ」っていう意識じゃなくって「配らなアカン」っていう感じが・・

河上さん:ああ、どっちも一緒やな。

宮野さん:多分そんなふう言わないと、多分、そんな風に思っていないのにって。

河上さん:そうかそうか。「配らなあかんねやろう」っていうのも、その自分の自由意志に

宮野さん:「あかんねやろ」じゃあなくって、「配らなあかん」ていうこう、言われているから数字を出さなあかんていう感覚?

河上さん:自分の自由意志でなく、配っているというのがマイナスなんです。配りたいで配らなね。で、その辺が難しいから、印可書やったら、どうこう読むだけでって先生持っていってくれはった。最後の大おまけよ。どう思っていても印可書やったら、っていうふうに先生してくださっただけ。

宮野さん:どの形であっても先生が残された物っていうのは神さまの方を向くようにっていう

河上さん:そうよ。神さまに向くようにっていう神さまの愛が、色々な形となって現れているだけです。

 だから「天の造化主の尊、産霊精霊守り給え、幸栄え給え」って言うとパッと光差し込むんやけどね、ほんまにこんなんで通るんかなって思うから、ややこしくなってね。

宮野さん:ほんまにっていう疑いがあるから、ほんまにっていう疑ったままの、自分の言葉通りの

河上さん:そうそうそうそう、そういう事。で、印可書はほんまにそうかなって思っていても、「そうかな」って思うマイナスも吸い込むように先生が作られたわけね、それだけ。長いもんな印可書、考える暇なくなってしまうわな。

宮野さん:その印可書であっても8月の8日をもって、一旦伝授が終わる?

河上さん:伝授が終わったの。後はもう選び取って読むか読まないだけで。もちろん他を選んでも別に間違いではないからね。ただ、難しいよっていうだけで、それだけですね。

 だから体不調が出てくる人があるんでね、その時の説明を今したわけ。だから不調が出てきても「使っていただいて良かった」と思ったら、後それで印可書を読めたら良いけどね。「どうしよう」って言ったら「どうしよう」になってくる。

宮野さん:その体が不調であるだけでなくって、身の回りで起こる・・

河上さん:もちろん生活的な色んな。

宮野さん:災難あったりとか、

河上さん:車の事故とか色々あると思うよ。

宮野さん:よく最近ある、水の事故だったりとか?

河上さん:そうそう。

宮野さん:そういう事ですね。

河上さん:本当にね、地獄とピタッと一つだから。向こうからちょっかい出しやすいね。けど逆に言うとピタッと一つやから印可書読んだらいっぺんに向こうが消える。分かる?今までみたいに遠くないからね。だから表裏一体やから。

宮野さん:チャンスタイム。

河上さん:チャンスタイム。どっちとっても自由です。

河上さん:どうぞ。

質問:ありがとうございます 護摩の日が今年は元旦という事で祝日と重なったんですけれども、今回8月6日は広島の原爆の慰霊の日と重なったのですが、それも何か?

河上さん:そうそう、もう、いよいよもう節目でね。節目もあるし地球霊王様が「本当に待てない」って言うわけ。「ほんと待てない」って言うんで、まあちょっと地獄と一つにして、色々頑張ってるんですよね。

質問:慰霊の日と重なる時は相乗効果ある、お清めは?

河上さん:そうそうそう。だから地獄と表裏一体にしたから、護摩が慰霊の日と重なったりとか、チャンスになるわけ。

質問:護摩がオートマチックに始まっているのはその日の護摩が一遍は閉じて、来月までは・・

河上さん:いや、ずっと毎日護摩なんですよ。護摩なんだけど、その何て言うんかな、それを再確認してそれを象徴的に広げる意味で毎月の護摩があるわけです。で、護摩がなくなるとね、向こうの世界から見て真祈りなくなったって見えるわけ。するともう大変になっていくんでね。

 今、結構大きい台風とか来ていますけれども、あっちの世界はもうとっくになっているのね、先生が生きておられる時から もう何遍も先生仰ったんだけれども それを何とか押しとどめて、ここまで持ってきましたけれども、もう押し止めなくて良いからっていう事なんです 。それぐらい真祈り人が増えたし、少々何が起こってもみんな心揺るがないって、先生言うんでね。

 だから行きましょうか、みたいな感じで、待ったなしで。いよいよ今までの机上の練習は終わって実施訓練みたいな。まだ実践と違って実施訓練です。この実施訓練のうちに慣れておいてくださいね。

質問: 以前は歩いている時とか、「転ばないように気をつけてください」て仰っておられたんですけれども、 今は車の運転とかも

河上さん: もちろんそう。だから一呼吸ごとにね「宇宙神 ありがとうございす」って乗せて運転した方が良い。歩くのでもね 。

質問: 普段のすべてにおいて気をつけて?

河上さん :そうそう、だから 「う」 だけでも「あ」だけでも「す」だけでも良いって言ってるようにね、本当は「ありがとうございます」で良いんよ。なんて言うんかな、「あ」が1でね、あんまり本当の事言って良いのかどうか、あれなんだけれども。 5が中心なんですよ。5という数字が。「ありがとうございます」の「ご」が「5」なんですよね。でそれを中心に5+5が10でしょう。「あ」が1で「す」が9なんです。「あ」と「す」足しても10 でしょう。「り」と「ま」 を足しても10なんですよ。数字の数霊学、言霊的に言うとね。全部10になるようになってある。で、「ありがとうございます」が真の神さまそのものの響きになってあるわけですよ。

 でも物を貰っての「ありがとうございます」って、なんぼ先生が(ありがとうございますは真の神さまそのものって)言ったって、物を貰っての「ありがとうございます」から(なかなかみんな)抜けへんから、あえて宇宙神を足しています。そういう意味ですね。

 それでもまだみんな分からんから(また)印可書になったわけで。もう只々、本当は「宇宙神ありがとうございます」と手振りだけでね、行けそうだったんだけれどもね。惜しかった。

質問:印可書以外にでもどうしても他の祈り言葉を唱えたい時は、手振り?

河上さん:そうです。要するにね、先生がいくら祈り言葉出しても、みんなの自由意志で喜んでしないと意味がない。それが手振りの時は、みんなの自由意志で喜んでしなくなったの。これ変な宗教みたいだとかね、これおかしいわと思う人がね、増えたの。そんなんもあって立ち消えになっちゃったんだけど。本当は印可書よりも覚えやすいし手振りしやすいしな、簡単で良かったんだけれども、まあみんなが選んだ結果印可書になった。

 あくまでも先生はみんなの自由意志の中でみんなが一番やりやすいみんなの総合的な意思の中で作り上げて行かれるからね、それで印可書になっただけです。
 
質問:8月8日以後、プラスもマイナスも極端に出るという話はよく分かる分かるんですが、伝授が終わったっていうのがもう一つピンとこないです?

河上さん:ああ、だから伝授が終わったっていう事は印可書を選び取れた人が、もう確実にみんな印可書を選び取れたっていう事です。あの私印可書を読もうとしているけれども、読んでるけど「本当に大丈夫なん」と思わなくても大丈夫です。やっと伝授が成功したんです。 

 だから護摩でもね、護摩の時のお話でも、この前の護摩のお話はやっと本当の事が言えたっていう事です。今までの宗教はね、みんな自殺という事を問題にしてぐちゃぐちゃ言って、それで神さまは救うのか、救わないのかって言ってね、神さまの事を言って。

 それで「お前とこの神さまはよう救わんけど俺とこは救うんじゃ」みたいな、そういう物言いする宗教が多かったわけです。

 もう「それ止め(もう、それやめ)」と。ワシとこが1番、自分の所が1番と言うのをやめ、と言うのが中々言っても分かって貰えないのが、この前やっと人類的にね、受け止めて貰えそうだったんで、この虚の世界がゲームであるのがすっと通ったと思います。

 だから自殺もそういうゲームの中に入って楽しんでいるだけ。それを迷路の形で説明しましたけれどもね。あれでうまく説明できたと思っている。

 ハッと気付いたらね、「僕もこのゲーム止め」で、そうでしょう?ゲームって上手くいかなくてもスイッチ切ったら終いや。もう失敗したから「このゲームやめ」でええわけや。

 なのにやめようとしないで掴むからややこしいんですけどね。そういう意味では護摩のおかげで、皆さんの印可書奉読のおかげです。

 自分の所の教えが一番って言うバカタレがもう要らんていうのが、皆もう分かって来たと思います。だから祭壇もいらないし、教えもいらんし、組織もいりません。

 だからちょっとでも自分のところ一番っていうたら、自分が残っているからね、全て真の神さま、全て光やっていうのが分からんっていう事です。

 全て光やが分からんっていうのは、神さまを否定したという事。神さまを否定したっていう事はゲームの世界に入ったという事です。ゲームってそうでしょう?神さま以外のものを作って楽しむわけや。敵と味方を作って楽しむわけや。神さまは敵と味方はないの。だからいつも言うように学校の全校生徒は仲良しやけれども、運動会ていうゲームにして赤と白に分けて競うけど、終わったら楽しかったなという、勝っても負けても楽しかったなあや、ていうのがホンマやのにな。

 負けたから次こそ闇討ちしても勝ちに行こうとかね、するのはね、そこを掴んでしまっているだけよ。運動会で赤組に負けたから次、給食出さんようにしてでもやり返そうと思えへんやん?

 何でそこは分からんかな、やけどね。でも自分の所が一番っていう教えの縛り、組織の縛りがあったらもう抜けられへんのね。

 で、「自分とこ一番っていう」のは気が楽なんよ。自分が何もせんで良いから。全て真の神さまって言ったら、ひたすら印可書を読んでね、神さまに添うとしようしかないけど、「自分の所が一番」って言ったらもう何もせんでも安泰やから。それで俺は先輩やから、お前ら分かってないから、てなるわけや。みんな光やのになあ、おかしいなーって感じやねんけど、それも分からんぐらい自分を自分で縛って見えなくなる。

 だからね、みんな真(まこと)の神さまやったら自分の我も神さまか、みたいな、わけ分からん事を言い出すわけよ。

 みんな真の神さまやったら自分がないんや。だって自分で宣言したんやろ。みんな真の神さまって、そしたら自分の我もない、神さまだけや。

 っていう簡単な事がなあ、教えの縛りに入ったら、組織の縛りに入ったら分かれへんね。それも自分が縛って分かれへんね。だれも分からんようにしてるんと違う。自分が自分で分からんようにしているだけ。

 だからここは便宜上この額があるけどね。みんなこんな額を作らないようにね。お願いだから。こんなん作った途端に自分のところ一番って言いたがるね。言うたらもう終わりよ。 

 「みんな光や」どの形の光をとっても良いね。だから先生は「どの宗教も間違ってへん」っておっしゃるわけや。だけど自分のところが一番て言ったらそこは間違い。だから宗教同士が争うでしょ?自分のところ1番って言ったからや。

 みんな真の神さまって言ったら真の神さまの現れが片方はこの形であらわれ、片方はこの形であらわれる、言うだけでね、喧嘩にならへんのにな。おかしな話や。だいたい戦争の大元は宗教どうしの争いやからな。何のために神さまは救いの光を降ろしているか分かれへん。 

 神さまがあくまでもね、ちょっとでも小さい子に分かるようにね、限定した教えというのを作られただけでね、その最初の本意を忘れてね、「自分とこ一番」って言うからややこしい。

 だからイエスが白人のように言うんやろ。白人と違うのに。自分の所一番やからや。そない言うたらもうおかしなる。

質問:だからこれから印可書を選ばれる方も当然、伝授できる?

河上さん:伝授出来る。うん。これからは皆さんが印可書奉読されたら、多くの人に伝授していけるわけよ。音叉をポンって響かせるとね、周りに鳴らしてない音叉も響きだすね。そういう時に入った。

 逆に言うと「あいつあかん」って言い出したら、そのあかんが増えるからな、「おもろいやっちゃ」で行ってやっていう。うっかりな「あいつ、サボってるな」って言うたらな、そんな人ばっかり周りに集まってくるから大変やで。「おもろいやっちゃ」で行こう。

 それで「働く人ばっかりや、ええね」っていうのも逆の言い方であかんね。分かる?虚の世界のプラスマイナス言ったらあかん。なんしか「みんな真の神さま、おもろいやっちゃ」で行かな。

 例えば「よう働く人ばっかり周りに居てて、良いわ」で言うのは逆に言えば「働かへん人おるわ」って決めているわけよ。常にマイナスを言っているわけ。だから虚の世界のプラスマイナスっていうのは、もうどっちも決めてるから大変なん。だから「おもろいやっちゃ、真の神さまがおもろい演技しているだけ」で行かな。それで「おもろいやっちゃ」って言ってる。「楽しいやっちゃ」「真(まこと)の神さま楽しい事をしてる」「中々抜群の名演技で楽しい事をしてはるな」でやって行かな。そしたら、真のプラスを駆使する自分で行ける。

 でも「よう働くわ」とか「ようサボるわ」は、あかんね、どっちも。「よう働くわ」って言う事は「サボる人がおるわ」って言ってるわけやし。

宮野さん:あれやね「あの人良い人ばっかり、ええ人ぎょうさん集まりはんね」とか「ええ人ばっかりやな」って言うのも一緒やね。

河上さん:一緒、一緒。

宮野さん:ええ事一杯あるねという事も、無いっていう事の裏付けがあるから。

河上さん:だから「今が一番幸せ」って言っているのにね。これからもっともっと幸せになるよってそんな事言うからマイナス作る。「もっともっと幸せ」っていう事は「今はマイナス」って決めているわけよ。今が一番幸せって言ったらずっと今が一番幸せ。もっともっと幸せもくそもない。

宮野さん:誕生日とかでそれをね、良く言われる。ますますって言われるんだけれども。

河上さん:「ますます」って言ったら「今あかんで」って言うてるから、マイナス。

宮野さん:よく聞きますけれども。ますますが結婚式で、益々のご繁栄、ますます円満なとか言われるじゃない。それはこの世界としてはとってつけて、セットもんで言わなあかん言葉ってあるでしょ?

河上さん:虚の世界の特性としてね、比較してどうこうっていう世界、ゲームってそうでしょう?比較してどうこうの世界だから、どっちを言ったって、もう特定していくからややこしなるの。

宮野さん:これはあえて別にこの世のゲームを楽しんでるという意味では、あえてわざわざその例えば結婚式だとか、お誕生日とか誰かのお祝いとかする時に…

河上さん:ますますのご繁栄とかね、言っても良いよ。

宮野さん:言っても良い?

河上さん:言って良いけどな、後、印可書を読んでおいたら良いね。

宮野さん:そういう事ですね。

河上さん:でも印可書を読む事によって、その集まりにきた人の心に響くからね、また、その時読まなくても後で読むだけでね、だから変わります。だから○○だけが1番とかね、(大変になるだけ、でも、自由意志だからね)どうぞどうぞ。


質問:ありがとうございます 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)さんの歌で「敷島の大和(やまと)の国は 言霊(ことたま)の 佐(たす)くる国ぞ 真福(まさき)くありこそ 」って言うお歌があるんですけれども。その「まさしくありこそ」っていうところが分かりづらいですけど?

河上さん:真のプラス、真の光だけ、無限の無限の輝きで一杯とかみんな光やっていうのがそれや。

質問者:ありがとうございます

河上さん:だからまさしく、真がつく。「ま」ってまさしくとか真(まこと)のとかね、真祈りとかね、無限の無限の輝きっていう意味が「ま」。まったき、完璧とかね。

 だからお家の色んな宗派とかね、真言宗とかあるいは天理教とか色々な宗教に在籍されていて良いんですよ。印可書を読まれたら、その宗派の響きに印可書が響き渡りますから。そのためにも縁があって在籍してるんだから。自分の意思があるないに関わらずですけれども。お嫁に行ったらね、嫌でも何々宗、になってしまうしね。今やったら。



令和5年8月河上さん勉強会―2前半

質問:私は仕事がら不特定多数の方とお会いするんですけど、これから出会う未知の不特定多数の方々に対しても、印可書をお薦めというか、お伝えする機会があると思うんですが、8月8日が過ぎても真祈りの伝授は私自身のあり方で出来るということで・・

河上さん:そう。だから8月8日を過ぎたから、皆さんが真祈りの伝授をするようになるわけ。要するに、今印可書を選び取ってくださった方への真祈りの伝授が完成した,自覚あるないに関わらずやで。

 だからこの人には印可書を渡したいな、という時は、渡されたら響き渡ります。勿論、形の上で渡さなくてもひたすら印可書を読まれたら、自分に縁のある人がどんどん変わります、という時代に入った。そのために、地獄とピッタっと一つにしたからね、どの形でも響き渡るようになっています。でもあいつ怠けてるわとか、あいつずっこいわって言ったらえらいことになるよっていう。

質問者:ありがとうございます。

質問:8月8日の日というのは、真祈りの伝授が完成した日、真祈り人が伝授を受けた日?

河上さん:完成したの。自覚あるないに関わらずやね。だから自信があろうがなかろうが関係なく、今まで通り印可書を奉読してくれるだけで良いの。ただ、これからは皆さんが印可書を奉読したら、本当に自分の親戚とか色んな縁のある人に本当に響くようになるから。

 でも諸刃の剣(つるぎ)だからね、あいつ怠けてるみたいなマイナスでうっかり言ってしまうと、自分に縁のある人がどんどん自分に悪さしてくるという事よ。色んな意味で自分に悪さしてくることが増えたら、印可書を読めずにマイナス言ってたなと思って。だから間違ってもオモロイ奴やでって言ってる。

質問:諸刃の剣ということは草薙の剣の働き?

河上さん:いやいや、言霊は本来そういうもんなの。だから、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分になれって先生仰るわけで、プラスの言葉を言う人間になれとは仰らないでしょ?

 だから、草薙の剣というのはプラスの言葉とマイナスの言葉の両方の働きという意味や。
だけど真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分は真(まこと)の神さまの「みんな光や」が響き渡るという事。そこが大事。

 今の宗教はプラスを言えとかね、プラスを言ったら将来良うなるとかね、所詮プラスマイナスの世界をやってるわけよ。虚の世界をいじろうとしてるね。虚の世界をいじったって直れへんの。虚の世界をいじろうとするから俺とこが一番や、自分とこの教えが一番やって言い出すの。虚の世界をいじってる暇はない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使したら、真(まこと)の世界がそのままここに現前するようになる。「みんな光や」になんね。みんな演技してるけど、「光や」を自覚してやね、演技してる自分を楽しめるようになる。そしたらどんくさい自分を演じながらも、何でも分かる自分が分かる。

質問:おめでたい日だったんですね。(笑)

河上さん:そうそう。

宮野さん:めでたい、めでたいけど、気をつける。

河上さん:厳しくなる。不用意な事は言えんで。

宮野さん:本当に真(まこと)のプラスの言葉だけしか使えなくなるとこだよね。

河上さん:だから何があっても「オモロイやっちゃ」やで、「楽しいやっちゃ」!

宮野さん:この世的に言うプラスの言葉は必ずマイナスがセットされている。うん、そう。「ありがとうございます、あなたやっぱり金賞ですよね、ありがとうございます」って言われたら、それは出来てない人がいるから、あなたがプラスな人なんでしょ?この世的にプラスな人なんでしょって褒められる言葉であったわけです。真(まこと)のプラスの言葉ではない。

 何かと比べて光ってるからあなたが上に上がっただけの話。という事はあなたは何かを、下を踏みつけているよねって話だよね。そこらへんがセットもんやから、本当にこの世のプラスの言葉っていうのは決してプラスではない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使するっていうのはそこじゃない。この世のプラスの言葉を何万回、何千万、何兆回言わせたって、そんなものは何の

河上さん:役にも、たたない。

宮野さん:はい、ありがとうございます(笑)
 
質問:ただ単にお目出度い日ではなかった。(笑)

河上さん:そうそうそう、そんな皆が思う程単純なもんではなくって、大きく光が通った。もう護摩のお陰よ。

 要するにね、何でかって言うと、護摩以外だとやっぱり要らん事を考えるの。考えたらその分さっき言ったように、良い人って言った時は、悪い人がいるから良い人やって言ってるわけで、要らん事が響くんだ。

 護摩の場合はその同じ状態でやってるんだけど、護摩の会場で印可書読む、宇宙神ありがとうございますって言うことは、増幅効果を持たせてあるから少々のマイナスをどんどん消していってね、という事です。

 それから、例えば暑い暑い日やったらね。「楽しい暖かさやな」、寒い寒い日やったらね。「クーラーが効いてよく効き過ぎてるな、楽しいな」って言わんなんの(言わないとあかんの)。

 「寒くてかなわんわ」言うとあかんの。「暑くてかなわんわ」言ったらマイナスにとってるから何でも「楽しいな」って。

 だから先生は真夏に厳冬の冬を思えでしょ?真冬に真夏を思えって仰るのは、本当はそういう意味や。なんでも「嬉しい。楽しい」。でも嬉しい楽しいって思えって、先生が言うとね、言葉だけでね、「嬉しい、嬉しい、嬉しい、楽しい、楽しい、楽しい」って言う人が出たからその説明もやめたの。中々難しいんだよって、本当の意味を伝えるのはね。

 形の上だけで。嬉しい嬉しいって言ってる事は悲しい事があるって言うことになるから、あかんの。形の上だけで楽しい楽しいって言うことは悲しいことがあるから楽しいって言ってるから、結局意味ないの。

 真(まこと)のプラスの言葉を駆使するっていうとこが大事やねけど、真祈りをするって言うとこが大事やねんけど、そこが中々な、みんな分かってくれへんかった。でも護摩のお陰でやっとこの前かなり説明できたと思う。

 自分のとこが一番という自分が在るうちは偽物やっていうのが分かってくれたと思う。自分があったら違うね。自分があることは、みんな自分は正しいと思ってるでしょ?という事は、自分があることは、自分以外の他人は間違っているって、やっぱり無意識にどこか思ってるわけや。

 そしたら自分がって言った時点でマイナス認めるから永遠に苦しむ。只々、それだけ。「楽しいやっちゃ」ばっかりで行かんと。「みんな楽しいやっちゃ」って。

宮野さん:無色透明だもんね。

河上さん:そうそう。

宮野さん:不離一体の自分。自分というのを真(まこと)の神さまと不離一体。そうすると無色透明。そうしたら自分ってもんは存在しないじゃない。ただこの世と肉体としてこの状態を遊んでるだけ楽しんでるだけっていうだけ。そうしたら「我」ってもんは存在しない。そうしたら不平不満がない。只々、おもろいやっちゃで、

河上さん:文句が出るわけがない。

宮野さん:そう、面白い事起こってるなぁ!次はどんな風に楽しませて貰えるのかな!ワクワクするなぁと、色んな事を只々、楽しむだけ。

質問者:きっちり楽しみたいと思います。(笑)ありがとうございます

河上さん:だからね、若い時は思い切り苦労せいって先生は仰る。どういう事か言うと、先生、だからこの村でもね、先頭に立って倒れるまで作業された。それどういう意味か言うたら、自分の力ではどうしようもないというのを自覚してほしいから。自分という意識の力では何事もできないというのが、それやったら分かるの。だから先生を見習って必死でやった僕は大丈夫やったけど、誰が必死で他の人がやらんかった言うだけ。いや、責めて言うてんちゃうで。それくらい若い時は突き詰めてやらないと。だから本当に夜寝られへんじゃなくて、(疲れ果てて)こてっとしか寝えへんくらいな、必死でやったもん。

 この村でもね、ご飯食べた後、みんなゆとり持ってやってるからね、「先生、甘すぎませんか?」とか言うたけど、これ以上やったらみんな逃げるしなとか言ってはって、それはそれで。いや、責めて言うてるんちゃうで、みんなに合わせて先生してくださっただけ。ただ甘くした分だけ分かりにくくなったいうのもある。

 それは仕方ない。でもそれくらいね、真(まこと)の神さまだけってのは、自分がどうこうしようと思ってる内は分からへん。でも殆どの人は何かあったら自分でどうこうしようと動くんよ。病気してもな、薬買いに行かなくちゃとか。お医者さん行かなくちゃっていうのは自分でどうこうしようと思ってるわけ。

 それが一番の問題やねけども、中々自分でどうこうっていうの消えへんね。それはもう色々と若いうちやったらガムシャラにするとね、自分ではどうしようもないんだって分かってくるね。

 分かってきたら本当に神さまに投げ出せるようになって自在になんねんけど、投げ出せないわけよ、みんな。神さまに投げ出せずに何とか自分で何とかしようとしてんね。何とか出来へんくせにな。それだけやねんけどな。

 それは本当に自分が必死で色んなことをせんと分からへん。やっぱりどっかで自分で何とかしようと思ってるから、何とかしようとやってやって失敗して失敗して初めて自分ではどうしようもないんだって分かって初めて悟れるねんけどな。

 だけども、そんなん言うてたら誰も悟れんからな、印可書読むだけで良いって言って、大まけにしてるから。でも印可書読むだけやけど、若いうちは必死でやれ!やらないとやっぱりどっかで若いだけに自分でなんとかしようとしてしまう。

 年取るとな、もう疲れ果てて動かれへんからね、自分で何とかも出来へんねんけど。若い内は体動くだけにな、ついつい自分でなんとかしようと思ってしまう。

宮野さん:優秀な人もだよ。

河上さん:優秀な人もな、勿論そうやね、そんなん別に、みんな○○けどね。

質問:確認なんですけども、お話を伺って、日常で自分の個性で求める気持ちとかマイナスを心で思うことっていうのがあるんですけど、やっぱりそうであっても、今のお話からお聞きして真(まこと)の言葉を駆使するってことに徹するっていうことは、そういう気持ちが湧いてきた中でも、自分で選んで印可書を淡々と本当に奉納し続ける。

河上さん:そうそう、もうそれしかない。

質問:それ以外の言葉を使うとしたら面白い…

河上さん:そうそう、楽しい状態やね。

質問:違う言葉を挟んでしまったら、間髪入れず次の瞬間に印可書を奉納するという。

河上さん:そうそう、それで仕事の上で追い詰められたら、「楽しい状況になってきたな」って、野球で言うと、2アウト無死満塁やから楽しいや。何もせんと完投でピッと勝ったらゲーム見たって楽しくないやん?どっちが勝つか分からんっていうのが楽しいわけでしょう?で、一緒で、自分の仕事が行き詰まって本当に出口がわからんようになった時にこそ、楽しい状態って思ったら出口も見える。楽しい状態のいうのは自分でどうこうしようと思ってないから。自分でどうこうしようと思っている時は、もう苦しい大変やって言ってるわけ。

 でも楽しい状態の時は神さま任しきれてるわけ。「もう八方塞がりで楽しい状態になってきたわ、神さまどうするのかな、楽しいわ」って言えるわけやね。でも自分でどうこうしようと思ってたら、こんなのもう自殺するしかないんちゃうんってなってしまうけど、最後はな。

質問:細かいところなんですけども、印可書を奉読する、面白いということが大原則っていうところはあった上で、今こそ神さまだっていうところが少し外れて言いずらくって、みんなお身内だと意識で印可書を奉読することは?

河上さん:良いです。それで良いです。

質問:すごい困ったなっていうことが起こった時に、印可書見ながら必死でちょっと助けてって、思ってる瞬間あると思うんですけど、とにかく必死で印可を奉納し続けるっていうことも時としてはありうる?

河上さん:あります。楽しいって思いたくても思えないくらいね、やっぱりどっかに自分で何とかしようと思うから詰まるんやけどね。どっかで自分で何とかしようというのがあるから自殺せんで済んでるしな、微妙なバランスのとこにあるから、「ひたすら自分で何とかしようというのは印可書奉読することだけ」って思い定めてやって下さい。そこが大事なの。「自分で何とかしようという意識は印可書奉読するだけ」って思ってたら、自分で何とか神さんのお手伝いしたいになっていくから変わる。

 自分で自分のことを何とかしたいと思ってるうちは苦しいよね。でも自分で神さんをお手伝いしたってなった途端に自分が消えるから楽になっていく。
 
質問:今質問された事とちょっと被るんですけれども、先ほどから伺ってると、自分でプラスと思ってる言葉にはマイナスがついてたりとか、自分が良いって思って言ってることが実はそうじゃなかった。じゃあ、これ言ったらどうやねん?とか、これ言ったらこうなって、ああなってとか、そうなる前に分からなくなったら…

河上さん:印可書。

質問:印可書を奉納しとくと。

河上さん:みんなね、自分が善いって思ってる基準があるでしょ?でも相手はその基準と違うんよ。それに何で気づかないかって言ったら、やっぱり無意識にね、みんな光や、みんな神さまやと思ってるから、自分の基準も相手の基準って思いたくなる。それは真(まこと)の本心、真(まこと)の神さまという自覚があるから余計そう勘違いするんだけど、でも自分の基準は偽物なんやな。

質問:偽物なんですか?

河上さん:そうそう、神さまの基準だけは本物や。それは印可書奉奉読して出てくる言葉だけを選んだらいい。そういうもの。

質問:自分の基準は今までの経験値みたいなのとか、そんなんで自分の基準を決めちゃってるんですか?

河上さん:そうそうそう、自分と他人分けだして、あの人の方が偉いとか色んな中の基準があるやん?あの人より私の方はここがええわとかね。あの人より私の方がここがあかんわとかいう基準の中でね、やるから「増々幸せになるよ」とかね、要らん事言い出すね。今が一番良いようにしかなってないのにね、増々も糞もないね。

質問:またその時に分け隔ては止めとこうってまた思っちゃう。

河上さん:止めとこうと思ったら分け隔ててんねんな。「みんな光や」やのにな、分け隔てって言葉は説明の言葉であって存在はしない、というのが分かったら良いんだけどね。「みんな光や」で分かれへんから分け隔てやめとかね、説明してるけどね。

質問:その言葉を使う事によって、分け隔てしてますよって。

河上さん:だから先生は本当にね、口で説明するのをやめられたわけ。諦めはってん。

 もう祈りしかない。お前もしっかり祈らんかって、むちゃむちゃ怒られてな、命をかけて、命を削って祈れって怒られてね、で、命を削って祈ったから後4年なっただけやけどな。別に大したことはあれへん、先生の指示通り。

 もうそれぐらいね、真(まこと)の神さまだけって持って行かないとあかん。
 
質問:日常生活で話をすることあっても、先生がされたようにその言葉じゃなくお祈りって?

河上さん:そうそう、だから普段から印可書を読んでいたら勝手にね、心が神さまに響くからね、ちゃんと正しいことが言えるようになる。

質問:あと世間一般でよく聞く言葉なんですけれど、聞くっていうか、私が勝手に聞いてるんだと思うんですけれど、いや、なんかこう会話聞いてたら、「なんかね、元気そうやね」って言ったら、「いや、そんな事ないね、あそこが悪くって、ここがどうの」って、それってやっぱりあれですよね、本当に神さまにケチ付けてると共に、

河上さん:大体50過ぎた人の特徴ね、病気自慢。「ここ痛いねん、あそこあかんねん」って病気自慢しだすね。そうしたら「いやいや。私はここ痛いよ」ってもっとあいての上を言い出すんだよね。向こうも負けんとこと思って「もっとここが痛いね」って言い出してね、大体、みんな50過ぎたら病気自慢する。「私はね、血糖の平均値がね6.5よ」とかね、「お前7か、あかんな。俺6.5やぞ」とかね、違うやろ?6以下でないとあかんのじゃとか思いながら聞いてるけど、面白いやろ?

 結局はみんな、自分と他人比較した中で自分が上に立ちたい、マイナスのことでも。

質問:自分でそういう会話だったら、お互い自分で自分を縛りにかかってるみたいなところもある?

河上さん:縛りにかかってるけど、大阪のおばあちゃんの場合はお互い投げ合って受け止めへんから完璧よ、発散するだけみたいな。全然相手の言うこと聞けへんから。聞いたらあかん。相手の言うこと、聞かんと違うこと言ってるもん。お互い違うこと言い合いして会話が成り立つのは受け流してるの、完璧や。現実無視の最たるもの。(笑)

質問:ちょっと見習うところは見習っていいですか?(笑)

宮野さん:先ほどのしたらあかんの話で、大阪のおばあちゃんの会話の中で乗ったらあかん、言ったあかんじゃなくて、それを「オモロイやっちゃ」なと楽しんどけばいいのよね。

河上さん:そうそう、楽しんでみてたら良いね。空間が歪んでるやんすごいなー。お互いの会話が全然別のことやのに成り立ってる。凄いやんとか。

宮野さん:いつも最後おさまる。

河上さん:収まる、不思議やな。何故か収まる。

宮野さん:技、大阪の。

河上さん:大技やな。
 結局みんな自分の自由意志で色んなものを選び取ってるわけや。その選び取った縁を通して、光を通して頂くだけなんでどの形でもいいです。怠ける形でも基本的にはいいんですよ。

 只、大変な役割になるだけです。だから何を選び取るも重要やし、でも選び取った姿を通して光を先生が通していかれるだけです。その時に体に不調が現れても、何が現れても文句言わずにね、使って頂いて良かったって思い直せたら大丈夫。どうしようって思った途端に、或いはこんだけしかお金ないから不自由や、どうしようなんて言ったらあかん。そのお金の中で喜んでたら良いの。

 でも、みんなの思う幸せと本当の幸せは違うところにあるからね。それが中々微妙なとこやね、小っちゃい子で説明したら分かりやすいね。小っちゃい子の幸せはね、アイスクリーム食べてお菓子食べて一日過ごしたら幸せや。そんなしたら病気になるやん栄養失調になってね。だから、お母さんはね、ご飯食べなさいってやるわけでしょ?これもあれも食べなさい。でもほうれん草嫌いや、あれ嫌いや」ってやるわけやない。

 小っちゃい子にとったらお母さんの言うことは不幸や。でも本当の幸せはちゃんとご飯食べることでしょ?小っちゃい子にとってね。それと一緒で、みんなも自分の要らん欲望を満たすことが幸せやと思ってる。でも本当はそれが苦しみや、というのが分からへんな。

 それは真祈り通して、印可書奉読通してしか気付けんから、「あんた、そんな思ってたらあかんで」って言ったって意味ないの。それって相手の自由意志縛ってるだけやから、余計反発も食らうし、どっちみち言うこと聞かへんて、どっちみちみんな好きにする。

 だから内側から響かすの、印可書で。だから内側からみんな変わるから、いつも先生は僕に中から段々と徐々に変わっていくから、焦るなって仰ってた。

 先生は先生の真祈りを通して、皆さんを中からどんどん変えていかれた。それが護摩の形を通して大きく現れて今に至ってます。全て先生の真祈りのおかげです、本当を言えば。でもそんな言うとね、先生とこの教えが一番とか、又、言い出すからあんまり強調しませんけど。そうじゃなくて、みんなの真祈りで全て変えて行けるという事を分かって下さい。

 みんなの印可書奉読で全てが変わる。それだけ。自分でどうこうしようとは思わないでね。

質問:はい確認です。何回も言って頂いている事なんですけれども、仕事をしていたり、一緒にいると自分と同じものが目の前に現れるということ、目の前に現れてしまって、ついうっかり真(まこと)の言葉を駆使するっていう事から外れそうになるんですけれども、そういう怠けている姿を取って頂いている人を見たときに、何かして頂いているみたいに、なんと面白いんだろうということを繰り返す。その事と印可書を奉納する事が神さまに対する絶対の信に…

河上さん:繋がります。兎も角ね、やっぱりみんなね、どんな仕事に対してもそうやけど、嬉しいってせえへんやろう?やっぱりちょっと嫌やなって思うやろう?そのちょっとが怠けてる人の姿で自分の前に出て来る。狡い人の姿で出て来る。難しい仕事になった途端にね、やっぱり喜んで出来へんやろう?ウワッて思うやん、そのウワッが危ないんやけど、それは仕方ないから印可書を奉納して消していってねって言う事です。

 何で怠けている人出るねんって言ったら、一番の理由がそこやね。仕事の内容は何でも良いんですけど、例えばこの村の敷地を全部掃いて綺麗にしてくださいって言われたら大変や。それを1時間でしなさいって言われたら「うわ、どうしよう?」って思うやん?その「どうしょう?」が危ない。その「うわ、どうしょう?」って言うかと言ったら、結果掴むから、何時も言うようにな。ちゃんとしなくちゃあいけないとか、どうこうしなくちゃあいけないとか勝手に自分で縛って、それで出来へんわって思うから、嫌やわってなるの。結果掴むからなるの。ちょっとでも出来たら良いんだからって喜んでいたら良いのね。

 要するに「元より後ろ指指されるのは覚悟の上や」って、人から何か言われると思うから結果気になるの。人は好きにしか言えへんって明らめたら楽になる。そしたら何でも喜んで出来るようになる。難しい事は難しい事なりに、簡単な事は簡単な事なりに。それだけやねんけどな。

 「うわー、どうしよう?」ってなるの、結果掴んでいるから。どうせ人は好きにしか言えへんって。上手い事やったって、ぼろ糞に言われて何ぼや。

 そういう意味でこの日本という国は凄い国でね、狭い因習に縛られた詰まらん国やって、みんなマイナスに受け止めるんやけど、日本ほど自由自在に動ける国はない、本当はね。それは真祈りしていないと分かれへん。

 先生が柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)であられた時にね、「言霊の幸(さき)はふ国」って言って言霊だけで出来た国っていう風にお清めして下さったから、出来てることやけどね。でもみんな自分の都合で良い悪いって決めて縛り合ってね、この日本はなんて狭い、しょうもない国やって勘違いしているの。それで余計神さまを否定するの。神さまの響きだけで出来た国っていうのが日本の国。それが「言霊の幸(さき)はふ国」って言うの。

 「あしびきの」って言う意味です。光が全てに広がるのを「あしびき」って言います。まあ、あんまり枕詞を解説しても歌のお話しでは無いので。

 まあ兎も角、結果を掴まない事よ。この現世の特性として光が七色に分かれて、現世で無い時は(虚の世界ではなくて真の神さまの世界では)七色の光をもう一辺戻すと、無色透明に戻るねんけど、この現世という物質化した途端に、もう一辺戻すと黒くなるのね。絵の具がそうやろう?

 プリズムで分けた光をそのまま戻すと無色透明に戻るね。でも一旦絵の具という形で受け直したら、絵の具は全部混ぜたら真黒くなるの、灰色にな。この世はそういう事。だから色んな国を一つに纏めて仲良くしようというのは良いけども、一緒くたにしようとしたらあかん。お互いにそれぞれの個性と特性を認めて喜び合ったら良いのにな。そんなん一緒くたにするんだったら、肌の色まで一生懸命色塗ったりややこしい事起こるわな。な?

 だからお互いの個性を楽しんで喜び合うのが良いのにね、何とか一緒にせなアカンとか、お給料を一緒にせなアカンとかね。「同じ給料なのにあいつ働いてへん」とか言うからややこしい。働けん人は働けへん人の働きがあるの。ゴミ箱としてのね。わざわざすることはないけども、して下さっているんやから喜んでいたら良いの。

 怠けもんってそうなんやで。皆のマイナスをゴミ箱に集めて自分で地獄に降りて燃やして下さるだけ。あんまりしたくない役割り。それが分かったら別にな、嫌やって思わへんのやけど、「楽しい人やな」って。



令和5年8月河上さん勉強会−2後半(20230813−2後半)

河上さん:でも、あくまで、例えば、怠けてる人の地獄に降りて燃やす役割でもゲームやからな。それを忘れたらあかん。みんな本物と思うからややこしいの。この現世(うつしよ)は全部ゲームやから。何時も言うように、全校生徒を赤と白に分けて競うようなもので。あくまでゲームやからね。良い悪いはないの、一切。全部楽しい演技、面白い演技、素晴らしい演技や。役者さんってそうでしょう?どんな大悪人を演じても、役者に戻ったら普通の人やん。名演技やん。この現世は常にそればっかりやねんけどな。でも、入れ子構造で色々と重なってなってるから分からんようになる。一番分からんようになる理由は、「自分とこが一番」って言った途端や。

 なんでこの現世というのは「自分のとこが一番」と言ったら分からないかと言ったら、みんな光やから。神さまの光で全部出来てるの、どの姿も。だから自分とこも糞もないの。それを光でないって否定するからよ。神さまでないって否定したら、自分とこが一番って言えるの。そしたら、この額(後ろの大シール)を作ろうとしだす。そしたら、これが一番ってなってくの、無意識のうちにな。形を作ったら、祭壇を作ったら、そしたら、自分とこが一番ってなるの。「自分とこ」って言った途端に神さまを否定してるんよ。それが分からないとあかん。「自分が」って言った途端に、神さまを否定してるの。

 だから、みんな光やったら、「自分が」の我も、「自分」の我も神さまか?みたいな分からん質問が出て来るのはね、「自分が」って言って神さまを否定してるの。なんぼ(どれだけ)みんな光やと言いながらも、「自分の我」と言って神さまを否定して言うから、そんな質問が出るの。

 みんな光やったら、もう自分はないの。だから、良い悪いもないねんけどね。みんな、楽しいおもしろい演技って終わるんだけど。

 そこが絶対の信って言うんだけど、中々みんな、自分のとこが一番って言いたいねんな。それは虚栄心やな。で、それが教えとか組織とか立てると、個人の虚栄心が寄せ集まってね、身動きが取れん位のすごい虚栄心になるの。で、自分の先生は一番って言いだすの。で、先生の方も、おまえら悟ってないって言いだすの。おまえら悟ってないんと違う、「みんな光」や、「みんな既に悟っている祈っている救われている」や。神さまを否定したら分からんようになる。

 それが、自分が動く、自分がなんとかする、自分とこが一番という「自分」や。それが、自分と出た途端に神さまを否定するから、何もかも分からなくなって苦しくなる。で、自分で神さまを否定してな、光がないないって言って、苦しい、闇だらけや、辛い、悲しいって、自分で目を瞑(つむ)って言ってるだけやねんで、本当は。

 みんな光やから苦しいもくそもないのに。まあ、ゲームの上ではな、苦しい苦しいがあるわな。勝ちたいから。でも終わったらしまいや。どうぞ。

質問:私も、「神さまがいるし、我もある」という風な感覚を思っていたことがあるんですが、今の話を聞いての確認で、その、「我がある」っていうのは、我があるっていう演技をしてるっていうことで…

河上さん:そうそう、そうです、そうです。

質問:「我のある自分」という「自分」も、一瞬一瞬掴んでるもので、掴んでは離したら消えていくものっていうこと…

河上さん:そうそう。演技してるんやけど、演技してる自分を忘れてね、演技に入り込んでるの。それを目覚めさせるための印可書なの。で、目覚めたらね、歌舞伎の世界の演技がそうなの、歌舞伎って本当に現実にはない演技でしょう?あるいは能。能とか言ったら、本当に現実的な動きをしないやん?特に能なんかやったら面を被るから、表情を表せないやん。その表せない面で色んな表情を演技するわけでしょう?それ位のものになってる時は、演技してる自分に気付いてるわけよ。

 だけど、いわゆる名演技っていうのはね、それになりきるやん。なりきって抜けれないようになるの、役から。という感じのことになってる訳よ、この現世はね。能や歌舞伎の状態やったらええねんけどね。それで、どうしても、例えば「自分は女」って思い込んでるわけ。あるいは、「自分は男」って思い込んで、そこからが苦しみやねんけどね。女って思った途端に男が欲しいってなるんよ。どの状態でもね。男って思った途端に女が欲しいってなるの。だけど本当は、両方持ってるの。演技をしてるだけっていうのが分かったら、結婚出來ても出來へんでも良いしっていう自在が出來るわけ。でも男って思い込んだら、結婚しないと、女って思い込んだら結婚しないと、結婚して子供を作らないととかね、要らんことを思い出して、そうなると、この一族を守らなくちゃとかね、自分でなんとかしなくちゃって、どんどん入り込んでいくの。で、それをどうしても、そこの入り込んでしまった自分に気付かないからね、

 普通は。名演技だから。本当の名演技だから、迫真の演技になるともう、なりきってるやん。なりきったら気付かへんの。それをどつき倒して気付かせるか、緩やかに気付かせるかやねんけど、どつき倒したら、たいがいみんな嫌がって逃げるからね。それで印可書で緩やかに気付いてもらって。この前はあなたは、8年後に死ぬって言ってちょっとドツイたけどね(笑)たまにはドツキます(笑)

質問:じゃあもう…すごく具体的な事例を言いますと、宿題をしない次男にムカつくけど、それはもう宿題をしない演技をしてるんやなと思って印可書を読むと。

河上さん:そうそう。印可書を読んでたら良い。だから、八方塞がりになっても、楽しい状態やなって思えたら、ちゃんと知恵が涌くから、大丈夫。結果さえ掴まなかったら知恵が涌くの。ところがみんな、せっかく知恵が涌いてるのに、そんなん恥ずかしいわとか、結果を掴んで、ようせえへん(出来ない)。惜しいの、神さまの方からちゃんと知恵を与えるんよ、八方塞がりになっても。その知恵の通りにやれば良いねんで。でも、それカッコ悪いわとかね、そんなん嫌やわとかって、また要らん自分の思いが出るの。結果を掴んで。それで、その知恵を消してどうしようもなくなって自殺ってなるの。たいがいの人は。だから印可書を読んどいて。大丈夫。S先生がちゃんとするし大丈夫。

質問者:ありがとうございます。

質問:ありがとうございます。先程のお話で、8月8日以降というお話があったと思うんですけれども、それで、今後は例えば私の場合ですと、最近コンサートに行ったりだとか、これからの予定としてはお能の鑑賞とかがあるんですけど…

河上さん:いや、楽しんだら良いんやで。

質問:あるんですけど、そこの先々で私は印可書を唱えるさせて…

河上さん:そうそう、それで良い、それで良い。

質問:それは、逆にそういう風な所に行き始めると、逆にこちらに来る機会が減ってしまったりっていうことはあるんですけど、その辺の兼ね合いはどういう風にすれば良いでしょうか?

河上さん:録音があるやん。録音を聞いたら良いやん、こっちの分は。そのコンサートやお能はね、時間が決まってるでしょう?でもその場に行ってお祈りする必要もあるからね。色んな形のお祈りが必要だから、どの役目も果たしたら良い。で、楽しまなあかんで。嫌々行ったらあかんから。それだけや。一番大事なのは嫌々行ったらあかん。例えば、神社にお祈りに行ってくださいという時でもね、嫌々やったら行かん方が良いの。楽しんで行ってください。どの形でも。

質問:ありがとうございます。それと、ごめんなさい、すみません。私の身体上の問題でやっぱり、ちょっとお祈りがちょっと足りない…

河上さん:いや神さまに使って頂いて良かったって思ったら良いの。

質問:で、ちょっと心身に不調きたすことが多々あるんです。

河上さん:不調という形で使って頂いて良かった、だけや。

質問:その不調を抱えながらも、そういう所に行くっていうのは…

河上さん:そうよ、楽しんで行ったら良いの

質問:よろしいですか。

河上さん:例えばね、先生は生活保護は受けたらあかんってずっと仰ってたわけや。でも生活保護を受けざるを得ない立場に追い込まれる人はおるわけよ。その形で色んなものを神さまの働きとして動くだけ。それが生活保護の形なのか病気の形なのかね、痛い形なのか、人によって自分の得意技のところになるんよ。その人にとって一番ラクな得意な分野で神さまが使ってくるだけ。だから、

 私なんでこんなに腕が痛くて上がらなくなったの、じゃなくて、それがその人が一番耐えられる得意なところやから、その形で神さまが使うの。それは肺の病気であろうがなんであろうがね、一緒よ。その人が耐えられるからその形で色んなマイナスを肉体を使って消すしかないからね。

 先生がそうだったでしょう?肉体に熱を出されたり、咳を出されたり、痰を出されたりして、五井先生もそうだったけれども、消されていったわけですよ。どうしても最初は肉体に現せざる得ない部分っていうのもあってね。今日は、ちょっともう足が動かなくてどうしようと思ったけど、そういうのがあるわけね。でもそれを喜んでいたら良いのよ。そうしたらスッと消えてくるの。で、消えなくても喜んでいたらよいの。その、先生がそうじゃない。一生、痰が詰まり、咳が出て、熱が出てね、本当に先生が元気な時って数えるほどよ。それ位ずっと一生ね。でも神さまに使って頂いて良かっただけじゃない。その先生を見習ってね、文句を言わずに頑張りましょう。

質問:ありがとうございます 実は私、今、朝方、河上さんを高速道路のパーキングエリアでお見送りした時に本当にもう、私も周囲の方々も涙が出る位、本当にあの…

河上さん:あんまり人に見せたくなかってんけど、ちょっとどうしても脚が動かなくってごめんな。

質問:本当にお脚がね、本当に私が見逃すのが逆にそれは人間としてどうなのかと思うぐらいの、そういうお痛みのお姿でいらっしゃったんです。

河上さん:あれな、8月でお盆やん。一杯ここに(足にみんなが)縋ってきてな。運転してて、してる時はまだ気付けへんのよ。降りた途端にな、もう氷のようになってアレやってんけど、こんなんでも喜んでたら、こないして、ちょっと動いてお話出來るようになるでしょう?

 ちゃんと神さまが良いようにするから、常に。自分にとって良いようじゃないよ、神さまにとって良いようにするからね。どの形でも喜んでたら良いの。そこが大事なの。どの形でも楽しいなって喜べたら良いんだけど、自分の都合で辛いな、痛いな、嫌やなって言った途端にな、そのマイナスの言葉でより辛くなるの。

 だから今日でも、足が動かなくて冷たくて痛くて歩きかねててんけど、かなわんなとは思ってないの。

 神さまに使って頂いてるからな、と思って。ちょっと目を瞑ってお祈りしながら歩いてからね、気付かんかったんや、ごめんやで。だけど、そないして喜んでたらこうして戻るからね。

 だから、それは先生から伝授を受けたお姿のすべてや。先生は何があっても喜ばれただけ。「これからますます良くなる」なんて、そういうマイナスの言い方はされなかった。何時も々、今が一番って喜ばれただけ。それを何時も僕は見せてもらってきた。先生は何時も言葉に表されないのね。形にして、姿で見せてくださるだけ。

 それを真剣に見るか見ないかだけやから。別に責めて言ってるん違うで。先生から言葉で説明して貰おうと思ってるから、気付かんかっただけや、みんなな。こっちは先生が、元々お会いした時から、滅多に口に言葉に表されないし、僕の場合なんか特に厳しくて、うっかり聞くでしょう?先生に。これはこうなんでしょうかね?とかね。そしたら、じっと目を見つめられるだけよ。

 (お前やったらそれくらい)分かるやろ、それ位みたいな感じでな。もっとお祈りせなあかんのじゃみたいに無言で示されて、常に常にそれやったから、分かっただけでね。

 大丈夫、みんなこれから印可書あるから。そのために印可書があるから大丈夫です。印可書を読んでいてください。はい、ありがとうございます

質問:今、自分の知識で分からなくて、ちょっと興味があって。「エントロピー」をなんとか自分の中で理解出來るようにしたいなあという感覚があるんですけれど。それって、「我」になって、そういう知識を広げるというのは避けて、お祈りの方に自分の時間をエネルギーを注ぎ切るというものが良いのか、自分がエントロピーを理解するっていうのが楽しいと…

河上さん:いや、したいことはな、どうしてもしたいから、そんなん好きになるよ。だけど一番大事なことは、知恵の木の実を食べないことなの。アダムがね、知恵の木の実を食べて、虚の世界に堕ちるんだけど、知恵の木の実というのは知識よ。で、知識を持つのは良いけど、知識に頼った途端に知恵の木の実を食べるということになるの。分かる?

質問:すみません、もう少し分かりやすく…

河上さん:要するに知識を持つのは構わないの。ああ、こんなことがあってんやなあ、ぐらいはね。だけど、それに頼ってしまうの、みんな。

質問:頼る?

河上さん:うん、過去の経験に基づいてどうにかしようとするの、自分が。それを知恵の木の実を食べるっていうの。知識と言うのは過去の経験や。その過去の経験に基づいて、自分がなんとかしようとし出したら、知恵の木の実を食べたっていうの。過去の経験の映画のように見ても良いけども、神さまが良いようにされるって喜んでいたら、エデンの園に居れるんよ。

 でも自分がどうこうしようと思った途端に、お前の好きにしてこいやって言って。エデンの園は神さまが良いようにするって喜べる場所なの。でも自分がどうこうしようという時はエデンの園には居れない。この地上に降りないとあかん。それで、みんな地上に降りて、自分でどうこうしようとしてもがくの。自分ではどうしようもないのに。そこだけよ。

 だから、エントロピーの法則を知ろうとするやん。分かろうとするやろ。じゃあ永遠に分からへんの。なんでか分かる?エントロピーの法則が分からないから、自分が分かろうとしてるやん。分からないと決めているから永遠に分からへん。分かる?

 勉強出來る人ってな、分からないって思わへん。何も考えへん。考えんと読んだらスッと分かる。だから、エントロピーの法則を知りたかったら、何も考えずに読んでみ?分かる。それで、分からなかったら、自分はこんなん必要ないんだと。逆に言うと、読んで分からないのは自分には必要ないなと思って印可書に戻ったら良い。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:この知恵の木の実というところがね、中々みんな分かったようで分からへんねんけど、神さま以外に頼ったら知恵の木の実を食べたってなる。神さまだけやねんな。

 自分でどうこうしようと思うことを知恵の実を食べるということ、自分でどうこうしようというのは過去の経験に基づいて自分でどうこうしようやからね。すると知恵の木の実を食べたことになって苦しみが始まる。だって状況は刻々と変わるわけでしょう?過去の時と違う状況やのに、その過去の事例を当て嵌めてどうこうしようとするんやん。それでみんな上手い事いかへん。発明、発見って過去の事例とは違う、まったく別のことを発見するから上手く行くんよ。それは知恵を得てるの。分かる?

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:だから、聖書はちゃんと正しいことを言ってるねんけどね。受け取るほうが分からへん。それは自分でどうこうしようと思って受け取るから。神さまが良いようにされるって喜んで聖書を読んだら全部分かるねんけどね。

 あと4年しかないからね。聞きたいことは聞いといてください。はい、どうぞ。

質問:7月の護摩が終わった後に、深夜の勉強会はもう、体がもたないからされないということで、僕は聞いたんですけども。

河上さん:はい。あと4年、何があっても持たさないとあかんからね。もう無理はしない。ただ、あと4年のうちに、出來るだけ多くの人にと思うから、不定期でする場合はあります。

質問:番外編のような。

河上さん:そうです。ちょっと自分の体と相談してやから、いつって決められないだけです。それで良い?

質問:はい。あとは、有名な方に…

河上さん:それはずっとやってます。はい。

質問:うまく広がっているということですか。

河上さん:いわゆる、あんまり有名な人というのは、あいつあんなところであんな話聞いてるって後ろ指指されるでしょう?だから凄い有名な方だけど、親しい方ばっかりが集まって頂いて、してます。もう、それは世界的な超億万長者とかね、一杯ありますけども、どの方もして頂いています。どの方もお金を出そうとされるけど断っています。そんなの必要ないからね。真祈りが必要であってお金は要らない。という形です。それとは別に、出來るだけもうちょっと、なんとかしようとは思っています。

質問:色んな分野の有名な方が集まられているんですね。ありがとうございます

河上さん:だから、ちゃんとすべてに真祈りが響くようにね、先生の深慮遠謀の中で、色んな人脈を僕は作らされてきたんでね。だから、「え?それをせな(しないと)あかんのですか?」みたいな感じの中でね、先生がせえっ(しなさい)て言うことは全部したわけです。例えばコンピューターのプログラムとかね、色々あります。どれもそれも、「ええ?そんなん要るん?」という風なことでも、先生がせえって言うからして、それが今にあるだけです。

質問:じゃあ、今後は番外編に、楽しみにしておきます。

河上さん:ああ、そうしてください。それで、ちゃんと録音を出すようにしますから。少なくとも、録音は聞けます。

質問:まあ、今も4年5年と過去の音声があるから、それを興味があれば聞けば良いですね。

河上さん:勿論そうです。

質問者
:ありがとうございます。

質問:印可書の言葉の中で、かっこ付の箇所ありますが、「新たなる真(まこと)の神さまの座に立つ真(まこと)の本心…」、(真(まこと)の神さまに立つ…)、そして(恩返しに立つ真(まこと)の本心の…)、ということがありますけれども、先生の話を聞いていますと、恩返しが大事やとよく言われていまして、あまり、「神さまの座」とか…

河上さん:「恩返し」っていうのがみんな分からないでしょう?「恩返しするためには、神さまの座に立たなあかん。」って言っても分からないでしょう?そうやねんけど。色々あるけど、入れ子構造的にわざわざ組んだの。自動で吸い込んでくれるようにね。そういう意味です。だから、恩返しが分かったら悟りなの。その恩返し、恩返しっていうのは因(もと)の心に戻ることなの。な?だけど、みんな恩返しと聞くとね、恩を受けたから、何かお返しせなあかん位にしか思ってないのよ。本当の恩返しというのは因(もと)の心、漢字がそうやねんけど、因(もと)の心を恩っていうの。因(もと)の心に戻ることや。そしたらね、こないして説明するやん、そしたら、「因(もと)の心に戻ることやねんな」で終わるわけよ、みんな。それをもうちょっと入れ子構造に組み込んで、巻き込んでいきたいから、色々としてますけどね。

 それを別の言葉で言うと、「宇宙神ありがとうございます。」に不平不満も不安も全部な全部投げ込めというのも恩返しなんです。

 要するに一切文句が出なくなったら恩返しが出來ているの。ちょっとでも文句とか、あいつ怠けてるとか思ったら恩返し出來てないんよ。もう、それだけよ。あるいは自分とこが一番って言ってね、自分が出たら恩返しが出來てないの。「自分とこ」という「自分」も神さまに返すの。自分では自分を消せないの。神さましか消せないの。だから何が出ても、神さまに返すのを恩返しというの。それで、その返すというのは、神さまの座に立たないと返せない。神さまの座というのは印可書奉読になる、今ではね。

 ということで、色んなことを入れ子構造的に組んで、光を和らげて過去にすることによってね、光をちょっと和らげられるから、色々と深慮遠謀のもとに、大変色々と苦しみながら作りました。

 困りながらというか悩みながらというか。悩みながらでもないんだけど、楽しんで作ったんですけどね。

 コンピューターのプログラムでいうと、サブルーチンを重ねて、エクセルでいうとマクロ的な働きをするようにね。自動運転が出來るようにしたの。

 それで、印可書の最初一行を読むだけで全部が響くように、ちょっと組んでんけどね。だからまあ、楽しみながら印可書を読んでいてください。印可書読んでたら良いことがあるし、ぐらいで良いから。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:本当、恩返しが一番分かりにくいねんな、ある意味ね。で、先生が、恩返し恩返しって言った時に、「いや、恩返しって具体的にどうするんです?」ってしつこく聞く人もおらんかってな。聞くのも恥ずかしかっただけやねんけどね。みんな虚栄心があって。本当は虚栄心をかなぐり捨てて、「先生、そんなん言うけど、恩返しってよく分からんわ。」って言えたら良いねんけど。言える人が少なかった。それ位虚栄心の中でね、大変だったんですけど。

 そりゃ、虚栄心があって消せないぐらいは、先生は百も承知で。それは、先生の真祈りで消すとなって、ここに来てるわけよ。僕の話が分かりやすいと違うの、先生の真祈りでみんなの虚栄心が消えて、沁み込むようになっただけ。ここを勘違いしたらあかん。

 河上の話が分かりやすいん違う。先生の真祈りでみんなの心の壁が消えたの。で、それを印可書で増幅してな、あ、印可書と違う、護摩で増幅して、ちゃんと先生の予定通り来た。だから護摩が中止にならなくて良かった。中止になりかけて焦ったんですけど。

 だからもう、何があっても神さまにお返しするというところが大事やねんけど、やっぱりどこかでね、自分で何とかしようと思って掴むんよ。ここが問題なの。「もう八方塞がりでどうしようもないから、楽しい状態になったわ」って言ったら掴んでないの。でも「八方塞がりで、なんとかしよう」と思うと掴んでるから、恩返し出來てへん。

 これも恩返しやねんな。楽しい状況になってきたわという時は恩返し出来てるの。そしたら神さまの知恵を受けれてなんとかなるの。

 でも、自分でなんとかしようと思ってるから、神さまの知恵が降りてきても、そんなんカッコ悪くて出來へんわと思うねんな。で、思った途端に全部崩れて、またややこしくなって。余計ややここしくなるねんけどね。だからもう、ボロクソ言われてなんぼや、何でも楽しい状況やって開き直れたら良いねんけどね。「なるようになるわ」ってやつやね。

 まあ、別の言い方で、「何時も神さまが一番良いようにするわ」。その中には自分がボロクソに言われることも入ってるわけよ。「ボロクソになっても神さまが良いようにするわ」、や。その結果を掴まないというところが恩返しでもある。

 結果を掴むということは自分でなんとかしようと思ってるから恩返しにならないの。分かる?恩返しってそれ位奥が深いの。自分がなんとかしようと思ってるうちは恩返し出來ていない。

 でも、そんなんしたら恥ずかしいわとかね、結果を掴むというのは自分がなんとかしようと思ってるの。神さまがするってやったら、何を言われたってやるよ。先生の言う、「もとより後ろ指刺されるのは覚悟の上や。お前もボロクソに言われるのは覚悟の上やろう!」とかって言って、よく怒られてん。覚悟してるのにまだ気になるか!とかって言ってよく怒られてん。

 逆に言うと、その結果ね、自分の身内が崩れていくのも覚悟の上でないとあかん。大きく神さまのためだけに働くから、自分の身内とか自分の一族なんか気にしてたらあかん。そりゃ厳しいもんやで。

 そんな中でもな、あの人、今、どこに誰と住んでるやろうなとか、しょうもないうわさする人もいるけど、放っといたら良いの。言うだけマイナスを掴んではるの、みんな。

 マイナスを掴んで自分で地獄へ降りて行くの。先生が、噂話はあかんって言ってるのにね。推測でものを言ったらあかんってあんだけ先生が言ってもね、分からない。この神書にも書いてあるわ。噂話はあかんっていうことはな。でも分からへん。噂話はな、噂話を出す人よりも、その話を聞いてそれをもう一遍言った人の方が罪が重い。マイナスが重い、多いねんな。要するに(聞いて、言って、想像して思いめぐらすから3倍に)増幅してるから。それ位な、しょうもない噂話に乗ったらあかん。神さまが良いようにしてるだけ。

質問:例えば、テレビのニュースのテレビで見たのっていうことを話題にするっていうのは、それは噂になりますか。

河上さん:なるなる。だって、ニュースって本当か嘘か分からへんやろう?なあ。特に今インターネットが出てね、いわゆる色んな外国のニュースが聞こうと思えば聞けるわけやん、英語やけど。文字でも見れるわけやんか。自動翻訳もあるわけや。そしたら、外国のニュースと日本のニュースを比較してみ?全然内容が違うから。だけど、外国のニュースが正しいとは限らへんで。そうやろう?それ位ニュースといえでも、まあ、適当や。その適当に合わせて適当に逃げとかな。

質問:凄く凄く厳密に言うと、例えば、海外の日本人の野球選手がホームランを打ったんやで、とかいうのもあんまり?

河上さん:いや、喜んでたら良いの。喜んでたら良いわけやんか。良いニュースは喜んでたら良いねや。だけど、悪いニュースをな、どうこうって言ったって、本当のところは分からへん。録音には絶対言えん位、中々ドロドロしたもんや。知らぬが仏が良くてな、知ってるとそれをお祈りして消して行かなあかんから大変やで。分からん方がラクやで。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:これで、恩返しも分かったやろう?自分でどうこうしようと思ったら恩返し出來てない。自分のとこが一番と言ったら恩返し出來てない。何時も々、神さまが一番良いようにしてる、やねんけど。

 そのためには、本当にね、自分、先生で言うね、人の三倍働きなさい、人の十倍働きなさい、や。すると、自分でどうこうしようという意識が消えるから、ラクやねんけど。まあ、そんな厳しいことを言ったら、みんな付いて行けないから、ひたすら印可書を奉読してください。そういうことでお祈りをして終わります。ありがとうございます


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8月護摩 by 河上 2023年08月10日(木) 14時35分
PC

8月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年8月護摩焚きで、皆さんの質問に河上さんが答えてくださった内容です。

質問1
 事情があって外国で暮らすことになりました。護摩木のことでお尋ねします。紙に「宇宙神ありがとうございます」と書くことも可能と聞きましたが、表に黄色のマーカー、裏が黒で書くのは難しく思われます。どのような書き方をしたらよろしいですか?

河上さん
 書きやすいように。

司会者
 書きやすいように。はい、ありがとうございます

質問2
 一人の方から3問の質問を預かっています。一度に全部読みます。
 1、「みんな既に悟っている!祈っている!救われている!」という言葉についてですが、以前に河上さんは、この(みんな)というのは(すべて)ということだとおっしゃっていましたが、この(すべて)というのは、どこまでの範囲をいうのですか?人間だけでなく生きとし生きるものすべてですか?それとも入れ子構造的にみて存在するすべてを言うのですか?

 2、自分の家の部屋には、宇宙から撮影した地球の全体像の写真の絵はがきが貼ってあります。思ったのですが、例えば、この絵はがきに向かって印可書を唱えるのは、地球の波動上昇につながる良いことなのでしょうか?

 3、以前、河上さんは「人間は誰でも死んだら、すぐに真(まこと)の世界に連れて行ってもらえる。その時に、自分が生前におこなった行為を反省して自ら地獄に行ってしまう人が多くいる」とお話ししていたと思いましたが、これは自殺者に関しても当てはまりますか?
私の家族の身内には自殺者が2人います。私が勤めている会社にも知っているだけで数人います。

 世の中には、地縛霊と交信できるような霊感がものすごく強い、本物と言われる信頼できる霊能力者が少なからずいるようですが、その方々は、みな口を揃えて「自殺だけは絶対するな!」と言ってるようです。彼ら霊能力者の話によると、自殺しても楽になるどころか、生前の少なくとも数倍、いや数十倍の苦しみがやってくる。一部の人を除いて、自殺者には、あの世からお迎えも来ない、霊的な力が弱くなってしまって自力で成仏も出来ない。

 つまりどうなるかというと、自殺した行為、例えば飛び降り自殺だったら、その同じ場所で、その恐ろしい飛び降り行為を永遠と自ら繰り返したり、あるいは自分で命を絶ったことを激しく後悔して、現世を苦しい思いで彷徨(さまよ)ったりしている。時が来て、運良く成仏できたとしても、そこでもゼロからやり直さなければならない。

 神さまは、どんな人間も一人たりとも見放さないから最終的には救われるだろうが、救われるまでは、とてつもなく遠回りすることになる。だから、自殺だけは絶対にするな。この本物と言われる霊能力者たちが言う情報は、やはり本当ですか?自殺者は死んだら真(まこと)の世界に、すぐに連れて行ってくれないのですか?

河上さん
 ありがとうございます また今月もお会いできてうれしく思います。

 まず、本物の霊能者はいませんから、一言。本物であれば「すべて光」「みんな光」やって、「すべて真(まこと)の神さま」というのがわかった人だけが本物です。

 自殺者が苦しむ助けられないとというのもありますけれども、それは自分で選んで、自分でこのなんて言うんですか、例えば、難しい迷路をしてね、その迷路の中で、こうパズルの迷路あるじゃないですか。その中で出れなくなって「いや、どうしょう出られへんわ」って言うてる状態です。

 それをどの立場で見るかによって、要するにパズルしている大きな立場で見たら「あぁ迷って面白いわぁ」でしょう。せやけど実際の、昔にありましたけど、今もあるんかな、遊園地なんか行くと人間が入れるパズルがあるじゃないですか。ああいう、その場に立つパズルに立ったら、本当に出られなくなったら「どうしよう」でしょう。

 そういう感じで、どの立場に立って感じ取るかによってですね。苦しみを楽しみたい人は、やっぱり苦しみを楽しむんですよ。これね、迷って苦しんでるとか救われないとかじゃなくて、そういうのを楽しみたくて、みんな自分の自由意志で選んでるだけなんです。

 自殺というのもその大半は、自分では死んでません。取り憑かれて、誘われていってるだけで、本人が死んでないから大丈夫なんですよ。本当に自分で悲観して自殺した人っていないんですよ。たいがいは、上からあっちの世界からですね、引きずり込まれる。だから自殺というのは本来はないんですよ。

 ただ、その引きずり込まれる人は何か言うたら、そういうマイナスが好きな人ね。だから例えば「あいつ同じ給料もらってるのにあいつサボっててずるいわ」っていう人がマイナス好きな人なわけですよ。だから「おもろい奴」って言えって言ってるのに。

 そういうふうなことが、今生だけじゃなくて過去世で積み重なってマイナスが一杯になってるからね。一杯になってるから、どういうんですかね。僕はわざわざオカルト映画観に行かないんですけども、そういう人はオカルト映画が好きなの。遊園地で言うとお化け屋敷が好きなの。僕はわざわざ行かないけどね、お化け屋敷入りたいの。

 それくらいマイナスを溜め込んでくると、今言った体験をしたくなって、体験をされるだけで、いいとか悪いでもないです。

 もちろん亡くなって自殺しても何しても一旦は、真(まこと)の世界へみんな連れて行くんですよ。連れて行くけど、そのマイナス「見たい!見たい!見たい!」いう人は見に行くの。

 なんて言うんですか、例えばオカルト映画、「あんな怖いの観に行かんでええで」って言うたって、みんなあれがヒットするのは行きたいんでしょう。わざわざ怖いの見に行きたいんでしょう。そういうもので、その自由意志を縛ることは誰もできないんです。

 それは、みんな真(まこと)の神さまですから、絶対の自由を与えられて、絶対の自由の中で楽しむ事が、真の(まこと)の神さまの働きですから何を選んで楽しむのも、その人の自由意志なんですね。

 だから、だってそうでしょう?オカルト映画を離れて見てたら、見に行ったって面白くないでしょう。あそこで作り物の何かが出て来て、こういうセットでこういうふうな感じにしてやってるだけやなぁって言うたって面白くない。でも実際その中へ入り込んで「うわぁぁぁ」って、こう言うてるから楽しいんでしょう。

 同じで自殺で苦しむ人もその中に入り込んで楽しんでるだけです。それにハッと気づく時が来るのね。「ああバカバカしい、しょうもない」ってわかったら帰って来るだけ。もうそれの繰り返しです。ただそれが過去世が重なって、入れ子構造でたくさん重なってるからね、そのハッと気づきようがないくらい重なった状態になってるのが自殺された方だということです。

 最初の(質問)何やったかなぁ?

司会者
 「みんな既に悟っている!祈っている!救われている!」です。

河上さん
 この「みんな既に悟っている!祈っている!救われている!」ですけども、これは「光」って分かれないでしょう。みんなというのは「光」という意味です。「光」というのは、この世的には太陽から来た「光」一つだけみたいに思ってますけど、すべてが「光」でてきているんですよ。

 この世的な科学的な言葉で言うと電磁波でできている、波できてると言う事なんですけどね。そういう意味の「みんな」なんですよ。

 例えば円、円周率ってあるじゃないですか。半径がわかってて、直径もわかってて、円周の長さも測ろうと思った測れるわけでしょう。なのに円周率というのは無限に数字が新たな数字が出てきて決まらないでしょう。

 それって、この現世といえども「光」出てきているからなんです。みんなは円って言ったら平べったい円だと勘違いしてるけど実際は螺旋なんです。螺旋だから永遠に円周率の数字が変わるの、わかります?それも螺旋も微妙に開いていくんで円周率が変わるんですよ。ただ、この世的な短い時間でパチンと切るからそう思うだけで、なんでじゃぁ無理数って言うんですけども、新たな新たな数字が出るんかって言うのは、一瞬、一瞬新たにこの世も新生されているからです。

 だから、邪魔くさいから数字でね、数式で表したら一発なんだけど、みんな数字苦手だから、言葉で説明せいと言うことなのでしております。「そんなん言うけど、よく私わからないわー」、「そんな言ったって怠けてる人見たら腹立つわー」とか言うわけですけども。

 それ何かって言うとね「みんな光」なんですよ。「みんな真(まこと)の神さま」なんです。でも、そう見えないんでしょう。なぜ見えないかって言うと「みんな真(まこと)の神さま」って見る方法が自分の言葉で見るの、わかります?自分の言葉で見るの。だから「真(まこと)のプラス」を「真(まこと)の本心の自分」っていうのは、「真(まこと)のプラスを駆使する自分」って先生おっしゃるのね。

 「駆使する」というのは「真(まこと)のプラスの言葉」以外は選ばないということです。ということは、「あいつ怠けてる」とは言わないの、わかります?「あいつ怠けてる」要するに神さま以外のものを認めた時点で、神さまからは100%の光来てるんだけど、神さま以外を認めた時点で、まあ言うたら50とか25とか8%とか3%とかしか受け止めれないの。

 受け止めれない分だけマイナスが見えるの。見えたら余計気になるのね。その堂々巡りで自分の中で自分縛ってね、マイナスで。自分の出したマイナスなんですよ。神さま以外認めないというのは、自分が認めないだけ。自分の出した認めないマイナスで自分縛ってわからなくなってるということなんです。

 それを解くために、その縛りを取るために「みんな光」やとかね「みんな真(まこと)の神さま」とか「みんな既に悟ってる!救われている!」ってこう喝を入れるわけですね。入れられて初めて、ちょっとはそうかな?って思ってくれるんですね。そうかな?って思ってくれる人がちょっと増えたんで、「おもろい奴」と言え、「怠けてる奴」と言うな、「あんなおもろい奴」、「あんなずるい奴」って言うたらあかん。「おもろい奴や」って言って「楽しい人や」って言うたらいい。

 そしたら、マイナスに言わないからプラスに受け止め直せて、ちゃんとわかるようになる。するといつも説明している、わざわざサボってる演技されてるだよ、わざわざずるい演技してるんだよって。

 なんでずるい演技するかって言うと、例えばゴミを拾って最後の処理、燃やすことにするとしますね。そしたら、ゴミを拾っていちいち燃やしに行かなあかん。それってすごい大変なんですよ。燃やす場所も限られるからね。じゃあみんなどうするかと言うたら、ゴミ箱に溜めるんでしょう。ゴミ拾って、ゴミ箱に溜めといて、まとめて燃やすじゃないですか。

 そのゴミ箱の役割をされているのが、皆さんが見てマイナスに見える人、ずるい人とかサボってる人とか色々ありますけれども。それがゴミ箱の役目をしてくださってるわけですよ。
普通は嫌やねん、ゴミ箱の役目したくないけど、わざわざ志願してしてくださってるのね。背負ってそれをまとめて地獄で燃やす。だから地獄の業火って言うんですけどね。わざわざ地獄降りて行ってくださって燃やしてくださるというだけなんですよ。

 だからおもろい奴でいいのね。マイナスって見ちゃダメなの。本当はそういうふうに見直せたらいいんだけど、いちいち一瞬では見ない、腹立つからね。ついつい考えて腹立つから思えないから、おもろい奴っていうふうにもうちょっと柔らかく言ってます。それだけなんです。

 だから、その「みんな」というのは、本当にすべてのすべてのすべてと言うんです。それは円周率が円に見えてるけども、円で完結しているように見えてるけど、本当は微妙に広がって螺旋を描いてるんですけどね。それくらい、すべて入れ子構造で、「すべて光」なんですね。それを「みんな」って言います。

 その宇宙から撮影したというのですけど、この地球の波動上昇という言い方がもうマイナスを掴んでるんですよ。地球が今マイナスだと、で印可書奉読してプラスに変えるんだというのを波動上昇という意味になってると思うんですね。

 でこれが間違いなんです。「みんな既に祈っている!悟っている!救われている!」「すべて真(まこと)の神さま」に気づくか気づかないかであって波動上昇はないの。よく先生は「何の波動を上昇させるんや」っておっしゃったんですけど、その通りで、波動上昇じゃなくて、既に波動上昇させなあかんって言ってる人は、その時点でマイナスを要するに神さま以外のものを認めてるわけです。その分「光」受け止められないから、だんだんわからなくなると言うことです。

 後は?もう全部答えました?

司会者
 もう、ございません。全部です。

河上さん
 次お願いします。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます

質問3
 漢方薬の五苓散(ごれいさん)について。内科医から「脚のむくみの症状が良くなったので、手持ち分を飲み切るのがお勧め」とありました。漢方薬でも症状が改善されたら、服用は避けるのがベターですか?

河上さん
 あのね、これ要するに、何がそういう疑問にもなるし大変なのかと言うと、神さまに頼らずに薬に頼ってるでしょう。薬と神さまが切り離されてるの。漢方薬と神さまが切り離されてるのね。すると、「残りを飲み切る方が良いのか、止めたら良いのか」ってなるわけですよ。

 そうじゃなくて、神さまの愛の光が漢方薬のすがたになって、あるいは風邪薬のすがたになって、あるいは抗生物質のすがたになって表れているだけなんですよ。この世に一切のマイナスはないからね。みんな、薬は毒だと言う人もおるし、あるじゃないですか。あれはマイナスを認めているのね。そうじゃなくて、全部光なんですよ。ただね、薬でもそうですけども、別に薬じゃなくてもいいや。

 例えば食べ物でもそうですけど、なんぼ(どれだけ)良い食べ物でもね、そればっかりを意地になって食べたら毒でしょう、分かります?例えばお砂糖をね、その疲れた時にちょっと食べるから疲労回復に効くわけですよ。でも、お砂糖が疲労回復に効く薬だとしましょう、例えばね。わかりやすいように一番みんなが普段実感できることだからね。お砂糖は疲労回復の薬ですやん、まあ言ったらね。でもそれは、ちょっと疲れた時に舐めるから飲むから、美味しいんであって。美味しいしプラスになるんであって。じゃあそれを「疲労回復に効くんだから!」って言って、意地になって砂糖ばっかり食べてたらね、体が潰れるじゃないですか。すべてそういうものです。

 神さまから来る、砂糖といえども、いえどもという表現はダメですけど、砂糖も神さまから来る光なんです。でもそれをどれだけ受け取るかとかいう知恵はね、やはり真祈りしていないとわからないのね。それって何かと言ったら、例えば砂糖と神さまを切り離してたら、たくさん摂り過ぎるか、摂ったらあかんとかね、極端になるわけ。でも、神さまの愛がお砂糖の形になって、漢方薬の形になって、抗生物質の形になって表れていると喜んでいたら、必要なだけを摂れるんです、それだけです。

 だから、症状が治ったから「神さまありがとうございます」言うて止めても良いし、治ったから「良かった良かった。」と言って飲んでも良いし。その時、勝手に、ちゃんと神さま神さまってね、印可書を奉読してたら、どうするか体が反応します。飲みたい時は飲めば良いし、嫌な時は嫌で止めたら良い。

 でも薬だけに頼っているとね、「やはり、残り全部飲んでしまわないと効かないんじゃないんかなぁ」とかね、「ここで止めたら、またぶり返すんじゃないか」とか、それは薬に頼っているからです。神さまに繋がっていたら、そこは自在になります。ありがとうございます

司会者
 事前にいただいている質問は以上です。会場の方でご質問のある方はいらっしゃいますでしょうか?いらっしゃらないようでしたら、河上さん、お願いいたします。

河上さん
 ともかくね、「すべて真(まこと)の神さま」なんですよ。「すべてみんな光」なんです。もうそれはもう、別の言い方したら、「みんな既に祈ってる!悟ってる!救われてる!」というのはもう大前提なんです。

 既に、「既に悟った自分」なんですよ。「既に真(まこと)の神さま」の自分なんです。真(まこと)の神さまとして無色透明の輝きを持ってるんだけども、まあ映画館で言うとね、無色透明の輝きのスクリーンを見てたって面白くないじゃないですか、飽きてくるでしょう。だから、いろんなカラーリングして楽しむんでしょう。でも終わったら面白かったなぁで終わるわけですよ。そこに皆さん気づいていただいたら、苦しみではない。

 いろんな困難を楽しみに来てるだけなんだっていうね。だから一番わかりやすいことを言うとね、何もせんでええから、ご飯食べてね、素敵なこと、「暇にしといたらいいで」って言うたらね、「暇で暇で叶わんな」ってみんな文句言うくせにね、くせにですよ。忙しなったら「忙しい」って文句言うてね、あるじゃないですか。

 何をやったって文句言うんでしょうっていう。何をやったって神さま以外を認めたがるんですよ。それは楽しみたいからであって、楽しむために神さま以外のものを認める、要するにルールを作ってね。ゲームがそうでしょう。わざわざルールを作って楽しむというのはそういうことです。だから、別に神さまの以外のものを認めてもいいけども、さらさらと流せたらいいんですよ。

 最初から一切認めるなって言うとね。例えば将棋はできない、将棋のルールは一切ないって、こうするわけですから。そうじゃなくて、将棋は将棋で限定されたルールで楽しめればいいけど、終わったら、今回は勝ったなぁ、負けたなぁでさらさらとみんな流すわけでしょう。今回負けたから、次はもう何してても、あいつ闇討ちしてでも勝ちに行かんなんとか、そんなことは思わないわけじゃないですか。そういう部分ですよ。

 それが、この世がすべてだと思ってしまうと、もう最後は戦争になるわけです。そこだけなんですね。だから、それをまずあの分かっていただいて、「すべて光だ」というとこだけを思ってください。そのすべて光って思えない理由が何かというと、神さま以外のものを認めたからです。でもそれは、認めて楽しむためであって、本当にあるんではないというのがわかってたら楽なんです。

 すると、例えば、野球で言いますとね、ツーアウト満塁とか、最終回の9回裏の無死満塁とかあるじゃないか、いわゆるピンチがね。そのピンチの時に、本当にそのピンチという現実を掴んだらね、ノイローゼになるだけで、もうゲームできないんですよ。でも、うわ、すごい大変やな。でもそれを乗り切ったから、勝った良かったなぁ、負けたなって楽しんでるでしょう。

 それ、現実の世界も一緒なんですよ。そのいろんな困難があるから楽しめる。だから、わざわざ好きな人は寒い中、冬、雪山登るんでしょう。何もあんなクソ寒い中、危険を犯して登らなくても、エベレストなんかそれこそ命がけなんでしょう。わざわざそんな登らなくていいのに。困難を楽しんでるはずなんですね。それだけです。

 だから、本当に「一切のマイナスはないんだ」です。ないけども、楽しむためにマイナスを作って楽しんだだけっていうだけです。そこさえわかっていただいたら、なんの問題もない。

 でも、一番はね、じゃあ、自分の前になんであんな変な人来るねん。なんでサボった人が来るねんっていうとこなんですよ。それで、サボった人が来てるからは、もっと働けって言ってやらなってなるんですけど、本当は全部、自分なんですね、本当は。だから、過去世で自分がサボってたら、今生でサボった人が自分の目の前に現れるの、それだけなんです。

 だから、全部自分の姿なんですよ。それはそれでおもろいやっちゃで楽しんでたらいいのにね。わざわざ、また怠けてるって言うてマイナス作るからややこしいんです。だから、先生は過去生に一切のマイナスをお持ちでなかったから、先生のお話を聞きに集まった時ね、どんな人もいい子でしょう。マイナス出さないわね。先生にマイナスないから、わかります?

 僕が喋るとちょっと変な人が来る。それは過去世にマイナスあるからみたいな感じですよ。そういう感じでね、ともかく自分の目の前に出てきた現象は、自分の過去世のいろんな姿です。だから、自分と関係ないと思うのが間違いなんですよ。みんな光やから、全部自分なの。

 だから、どの姿も自分の責任だ。だから、総責任者の自覚っていうんです。どの姿も自分の責任だからっていうだけなんですよ。それをね、あの人が、あんな悪いことしたから、一生かけて、本当にあの人がそんな悪いことしたのかどうか調べるとかね言うのは、違うね。自分のマイナスを調べてるだけ。

 だから、本当もう、ただ、たったそれだけなんですけどね。あの、入れ子構造的になっててわかりにくいのと、もう一つは過去世の記憶を消されてるからわかりにくくなってるんです。

 でも、なんで過去世の記憶を消すかというと、本当に過去の記憶が出るとね、辛くて死んじゃうの。とても自分ではこんなんどうしようもないって言ってね。神さまは絶対の愛だから、どんな状態でも必ず大丈夫なんだよって言ったって、こんなに悪いことしていたら、自分はダメだって、泣いて死んじゃうのね。だから、一切棚上げしますということで、生まれ変わってきてるんです。

 棚上げしたら、喜んで、喜んで、働く、働いたらいんですよ。もう、それだけなんですけどね。要するに働くというのは楽しむということです。いろんな困難を楽しんだらいいだけなのにね。

 自分は運悪いから、こんな苦労してるけど、あの人運が良いから楽してるって勘違いするんですよ。その自分と他人が一緒だというのがわからないから。あの自分と他人が一緒だというのがわからないから楽なんですよ、本当は。全部自分の責任とると大変なんですよ。

 あんまり、自分と他人の分け隔てがなくなっていくとね。やっぱり知らぬが仏は楽やったなって思います。どれもこれも全部、自分の中で消していかなくちゃいけないんでね。だから、まだまだ私、自分と他人を分けてるわと思わずにね、この楽なうちにお祈りできるようにしていきましょうって思っててください。それが、神さまが知らぬが仏に過去世の記憶を消してくださってる理由です。

 それは、神さまの大きな大きな赦しの愛のおかげなんですね。ただ、その赦しの愛の中で甘えてしまってね、また文句を言うからややこしいんですけどね。本当は、本当に、この世というのは、この世の一の苦労が、あの世では何億万倍の苦労なんですね。

 だから、この世という大おまけのとこで肉体を持って、ちょっと楽しむだけで、なんでも消えていくのにね、文句言うからあれなんですよ。でも、そんな言うたって体だるいわっていうのはわかりますけど、そのだるい中で、一つ一つ片付けていきましょう。

 そんなん言うたって体だるくて動かれへんねんってみんな言うんですけどね。それは結果を掴んでるからです。これだけの事をしましょうと思ってやろうとしたら、それは体しんどいし、だるいから全部できないの、全部できないからって言って自分を責める。

 責めるということは、自分は真(まこと)の神さまですから、神さまを拒否することになって、余計身動き取れなくなるんですよ。真面目な人ほど身動き取れなくなるの。だから、今が一番になってるって説明してるじゃないですか。それは、例えば、この会場を綺麗にお掃除しましょうと思ってもね、本当に1m半径しかお掃除できなかったで良かったというのがわからないとダメ。

 あるいは、大体でいいから取りあえず、そこそこ綺麗にしましょうでいいんだけど。例えば、この会場でも石ころ一つも全部取って、本当になめれるくらい綺麗にしましょうなんて思ったらね、2年、3年かかるよ、例えばね。それくらいみんなはそういう結果を掴んで苦しんでるだけなんですよ。

 神さまが、その人にとってできることをできたら、それでいいよって言ってるのに、勝手に自分で結果を決めて、自分はダメだダメだって言ってる。あの勉強できない子はそうなんですよ。ここまでわからないとダメだって言って、余計嫌になっちゃう。ちょっとでもわかったら良かったと思ってると、全部わかるようになるんだけどね。それぐらい結果を掴まないというのは大事なんです。

 結果を掴まないというのは何かというと、神さまの光が無色透明から七色に分かれて、この現世に現れてるわけですけども、この現世の入れ子構造になると、その分かれたやつをもういっぺん、ひとつ一つにまとめて無色透明に戻せないんですよ。戻せないから簡単に消せるの、逆に言うと。だから、この世では、一瞬一瞬新たにに受け直して、喜んでさらさらと流したらいいんです。

 その一瞬一瞬新たに受け直すというとこがね、なかなかみんな難しくて、わかったようでわからないでしょう。それは、例えば、さぼってる人見た時に、あいつさぼってると言うと、もうマイナス掴んで受け直してないのね。でも、「おもろいやっちゃ」って言ったら、受け直せてるわけ。さぼった姿をさらさらと流せたわけです。それをもっと進めて、「おもろいやっちゃ」じゃなくて「印可書を読んだら」、この世の姿をさらさら流して、新たに受け直せるから、よりいいすがたが出てきて、いっぺんに運命でも、病気でも変わるんですよ。

 ただ、ただ、それだけです。本当にね、護摩がどんどん成功して、皆さんの心境が上がってるから、今、本当に深いとこ、説明、簡単にできたと思います。何か質問があったらお願いします。

司会者
 質問のある方、いらっしゃいませんでしょうか?いらっしゃらないです。

河上さん
 そうですか。そしたら、もう本当にね、皆さんね、マイナス認めないでね。「おもろいやっちゃ」って言ってってください。そしたら大丈夫です。ちょっとでもマイナス認めるから自分が苦しくなるのよ。なんでもかんでも先生の表現でいくと名演技してはるなんです。そやけど名演技と思っても苦しいからね、「おもろいやっちゃ」って言うといたらいいんです。「おもろいやっちゃ」で、また来月お会いしましょう。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/CvLzwzuYgPY

 宇宙神ありがとうございます


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8月光の交流会 by 河上 2023年08月10日(木) 14時10分
PC

令和5年8月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年8月光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。

 自分の見たり聞いたり言ったりする言葉。全部自分の自由意志で選んだ言葉よね。全て自分の選んだ言葉通りになる。まずは言葉通りの自分になる。言葉通りの世界ができてくる。全ては言葉通りに現実化して運命として出てくる。

 これ、常に無限の無限の選択肢の中から一つ選ぶ。どんな言葉もね。見るんでも、聞くんでも、言うのでもそうよね。 虚の世界の言葉、真実の世界の言葉、一つ言葉選ぶのでも、無限の無限の選択肢の中から一つ選ぶ。みんな自分の自由意志で選んでることになる。選択肢が無限に無限にいっぱいだから、どれでも勝手に選ぶんじゃないよね。もう必然的に自分の自由意志でしっかりと選んでることになる。

 だから、言葉見るだけで言葉の通りの自分になる。ただ、この言葉は文字の言葉だけじゃない。風景も絵も写真も全部そうよ。だから、見たものが全部自分のものになってしまう。

 お母さんが胎児が中にある時、胎教でね、いい絵を見たり、いい写真を見たり、いい景色見たりしようとするじゃない。美人の女の子を産もうと思ったらね、そうよね。それ見たものが心に取り込まれるのよ、それが現実化するの。警察官でも、ヤクザ担当の警察官ってね、顔つきがヤクザ似てくるっていうね、怖いぐらいに似てくるね。また、嫁姑のいろんな問題あってね、嫌な姑さんって言うてる嫁さんは、いつも嫌な姿を見続けるでしょう。すると自分が必ず、その同じような姑になるっていうね。そっくりそのまま。

 ただ見ただけで、その通りに自分になってしまう。また、いろんな言葉も同じよね。聞くだけで、その言葉通り自分になるの。だから、ニュースを見るんでも、聞くんでも 選ばないとダメよね。それで、一つに絞り込むのよね。祈り言葉に、真(まこと)のプラスの言葉に「ありがとうございます」を選び続けたら、他の言葉を取り込まんで済む。ちらっと見たぐらいだったら消えていく。「ありがとうございます」を唱えながら見るんだったら消える。

 人のマイナスの言葉聞くんでも、「ありがとうございます」ってね、唱えながら聞いたら、全部消える。もし、自分がマイナスの言葉言ってしまった、しまった思ったら、「ありがとうございます」って言ったら消える。すぐに消してもらったらいいよね。「ありがとうございます」って唱えることによって、いらない言葉は全部消し切ってもらう。そしたら、プラスの自分になってくる。

 今の自分がどういう自分かって、みんな過去の自分の選んだ言葉通りになってるの。その人がどういう人かって見る時は、その人の選んでる言葉を見たらわかるっていうね。そっくりそのままになってる。もう怖いぐらいよ、それね。その人の日常で使ってる言葉を見てたらその通りよ、もうね。

 だから、勉強するのでも、その勉強したものに染まってしまう。本でもそうよね、読んだ本に染まってしまう影響を受ける。言葉に洗脳されてるような感じよね。
 
 虚の世界っていうのは、みんな言葉通りに全て創造できるの。言葉で全てを作り上げる、創造する。虚の世界は全部そうよね。プラスもマイナスも全部、言葉通りに創造できるようになっている。人は言葉を自由に駆使できる、使いこなせるから人は創造主なの。どんな言葉でも、その言葉によって創造できるの。

 だから、プラスの言葉をしっかり使える、神さま、仏さまっていうのはね、自分の宇宙を世界を作るの。阿弥陀様にしてもそうよね。西方極楽浄土っていうね、極楽世界を作るの言葉の力で。

 でも、その言葉を正しく使いこなせなかったら、みんな小さいものしか作れないよね。つまらんマイナスの姿だけを作るのね。それはもう奴隷状態よね。自分の自由意志でしっかりと言葉選んで、使いこなせたら言葉は支配してるから、全てを支配できる。でも、現実を言葉にするようだったら、もう奴隷なのね。環境の奴隷、運命奴隷になっている。

 本当は言葉が先。言葉が先で、それを心に溜めて、それを現実化して形に表す。 だから現実に目の前出てるのは、過去の言葉の結果なの。形に出て消えていく結果なのね。だから、消えていくものを掴んで、もう一回言葉にして同じこと繰り返す。だから、歴史を繰り返すっていうこともあるけど、そういう世界は、思いの奴隷になってる人の多い世界よ。

 新たな言葉を選んで使いこなせる世界は、歴史は繰り返さない。常に新しいものが生み出されていく。だから、高い世界はみんなそうなのね。同じことは、二度と繰り返さないというのは本当なのね。常に、新たに、新たに新しいものを生み出してくる。

 だから、どういう言葉を選んでるかって大事なことよね。自分がどういう言葉を選ぶかってね、 自分で選べるようになったら、もうね、心配ないの。言葉を支配できるから全てを運命を支配できる。

 それで、言葉を真(まこと)のプラスの言葉に段々と近づけていけばいいね。そしたら、神さまの世界を感じ取れる自分になる。波が合えば、感じ取れるから。真(まこと)のプラス言葉がいるのね。真(まこと)っていうのは完全な言葉よね。

 だから、神さまの、真(まこと)の神さまの、真実の世界に波の合う言葉が真(まこと)のプラスの言葉。波があった時に感じ取れる。

 (真の世界に波の合う言葉とは、真の祈り言葉→宇宙神ありがとうございます、ありがとうございます、そして、真祈りを伝授するための印可書。さらに、真の祈り言葉を駆使することができたら、一切の文句(マイナス)を言わなくなる、一切の分け隔てがなくなり、すべては、自分、すべては、真の神さまと、理屈抜きに自覚でけて、すべてが透き通るようにわかるようになる。河上注)

 言葉ってね、どんな言葉もみんな定義が全部、幾通りもあるね。解釈が幾通りもあるのね。だから、よく、あの遠慮するっていうのが、なんか美徳のように言う人あるけど、遠慮っていうのは間違いよね。神さまを遠く離して思う。神さまを遠ざけてしまうっていうね、遠慮。本当は神さまを一番身近に感じないとダメよね。神さまをもう目の前に見ないと、本当に神さまと一体という立場に自分を置かないとね。一番身近に間近に見ないとダメなのね。それを遠く離したらダメよね。神さまを遠ざけるのは間違いなの。だから、この神さまを遠ざけるっていうのは、神さまの愛を拒絶することよね。神さまの愛はいりません、いりませんって逃げ惑うことよね。拒絶して受け取らないっていうのがね、遠慮よね。

 神さまの愛を受け取らないとダメよね。受け取るほど神さまの愛を恩を感じるの。 神さまの恩を感じた時に初めて、恩返しの生き方取れる。恩返しは、神さまの愛を恩を感じて有難いからって、一切の報い求めず自分の全てを与え尽くせる、お返しできるのよ。そしたら、一大循環の世界に入るのね。神さまの本当の世界の一大循環の世界に入れるから幸せ一杯になってくるね。

 だから恩返しに生きなさいって言っても、神さまの恩を感じなかったら、知らなかったら、恩返しも何もないの。まず神さまの愛を受け入れないと。一大循環の相象(すがた)が本当の神さまの愛の働きそのものなんだってね、必要なものを的確に与えてくださるすがたなんだっていうのを感じないとダメね。

 一大循環の相象(すがた)が本当の愛の塊よね、神さまの愛の塊そのものよ。愛のプレゼントそのものよね。それをちょっとでも感じたら恩返しに生きるしかなくなるね。

 謙虚っていう言葉もそうよね。へりくだって虚の自分になってっていう、いろんな解釈があるからね。まず、自分を虚しくするっていうのも大事なのよね。我(が)を出さない、 遠慮しないっていうのが謙虚。遠慮っていうのは我(が)が強いの。神さまの愛を拒絶するぐらい強いのよ。神さまの愛を受け入れるのが謙虚よね。それも大きく受け入れる方が謙虚。神さまの全て受け入れるのが、本当の謙虚さ。

 神さまの愛を感じ恩を知るって、それで、恩返し一筋に生きられる。恩返しに生きられるようになったら、もう自然に恩返しが真(まこと)の絶対奉仕に変わるのよね。それで真(まこと)の全託にもなる。全てを神さまの愛の計らいに任せられる自分よね。

 だから、真(まこと)の恩返し、真(まこと)の絶対奉仕、真(まこと)の全託になった時に初めて、今度、新たに受け直す真の(まこと)の感謝が自然に湧き上がってくる。神さまの全てを一瞬一瞬、新たに受け直せる、受け入れる自分になる。本当の感謝の真祈りの自分よね。

 でも、恩返しに生きていかないと、この真(まこと)の感謝は出てこない。恩返しが先よね。自分の全てをお返して初めて循環してくるものを受け入れできる。自分を空っぽにしないと入ってこないからね。まず恩返しがいるのよね。恩返しの中途半端は足りないよね。全部、自分の全てを神さまにお返ししていく方がいい。空っぽになったら、神さまの全てがすーっと入ってくる。大きく入ってくるからね。

 真実の世界から虚の世界に転落した原因。一大循環の相象(すがた)を掴んで自分のものにしたっていう時からよね。恩返し忘れたからなの。恩返しし忘れてなかったらお返してるのよね。一瞬掴んで、すぐお返してるから、掴んで自分のものにはしないのよね。そしたら、一大循環の相象(すがた)の中に入れるの。

 永遠にいつも無限倍の助けを受け続けて、幸せいっぱいになり続けていけるよね。でも、恩返し忘れたよね。一瞬でも掴んで自分のものにしたっていうね。そこから恩返し忘れたから、虚の世界へ転落しただけよね。

 掴んだだけが自分のものになってしまうから、新たなものを受け損なうのね。自分を空っぽにしないと入ってこなくなるのね。循環してても、やっぱり受け入れない自分がね、拒絶してしまう。だから、もう一回、虚の世界から真実の世界に戻るのどうしたら戻れるかって、恩返しに生きるしか方法はないのね。恩返しに生きたら戻れる。

 過去の自分を全てを神さまの方へ循環させてしまえばいいのよね。お返ししますって、お返しする方へ向けたらいいの。そしたら、 無限倍の後押しで、すーっと神さまの方へ戻してくれるから、全部綺麗に清めてくれる。どんなマイナスも神さまの方に向けてお返ししたら消してくれる。

 虚の世界で無限の、この借りを作って マイナスを無限に作って、思いを無限に溜めてもね、神さまにお返ししたら瞬間に消える。だから、過去世の積んだ無限の借金を自分で返そうと思っても不可能。どれだけ一生懸命返そうとしたって、 何億年頑張っても無理なの、できない。神さまへお返ししたら、それで簡単に済むことなのね。

 だから、借金返しに生きるんじゃなくて、恩返しに生きないとダメね。恩返しに生きさえすれば全てのマイナスは瞬間に消えていくの。人の溜めた無限のマイナスって言っても、神さまから見たら、もう本当ないよ。そんな大したことないのね。神さまに向けただけで瞬間に拡散して、すーっと消える。

 だから、ちょっとでも思いがあって、借金があって、マイナスがあるって思うんだったら神さまに預けたらしまいよ。 恩返しに生きようとして預けたら、全部消える。そしたら、新たに一大循環の相象(すがた)を受け入れる自分になる。そして、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分っていうふうに受け入れる。

 これも「ありがとうございます」をしっかり唱えてたら「ありがとうございます」、真(まこと)の神さまが自分になるの。必ず自分になるのよね。真(まこと)の神さまが自分になってくる。だから、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分って受け入れることができるようになってくる。

 真(まこと)の神さまの自覚が湧き上がってくる。本当の幸せな自分になるのね。いつも神さまと一つになって生きる。その自分はもう与え尽くすだけ、恩返しに生きるだけなの。

 神さまと一体感を深くするために、大きくするために必要なことは、自分を神さま与え尽くすだけよ。神さまの中に溶け入ったらいいだけね。どんどん、どんどん大きくしてくれる。いつも無限倍の後押しでね、上、上押し上げてくれる。だから、恩返しに生きるか、恩返しを選ばないか、どっちかよね。

 元々、真(まこと)の自分、本心の自分、恩返し一筋に生きてた自分よね。それを恩返し忘れたために虚の世界に転落したようにね、夢、幻、錯覚の世界落ちてるだけ。もう一回恩返しに生きたら真(まこと)の自分に自覚が戻る。

 難しくじゃないよね。元は恩返し生きてた自分なの。それがちょっと気絶して夢、幻、錯覚に陥ってるっていうだけよね。 呼吸と同じよね、吐いたら吸える自然にね。でも吐くの忘れて吸うばっかしで、呼吸が止まったら、酸欠で気絶するのよ。気絶したら夢、幻、錯覚の世界を陥る。だから、もう一回呼吸すればいいのよね。人工呼吸施す。吐き出させる、吐き出させる。吐き出させたら新しく入ってくる。

 それを何回か繰り返したら呼吸が元に戻る。だから、恩返しに生きるようになったら元の神さまの世界に戻ってしまう、必ずね。

 過去を掴んで、これが自分のものっていうのがね、思いの心なの。過去を掴むのが思いの心よね。その思いの心は必要ないのよね。思いは消さないとダメね、過去を掴む思いは全部消し切らないと縛られてしまう。思い通りになって幸せになるんじゃないのね。思い通りになったら、大きい借金を積み重ねる。必ず思いどおりにならない時になって、七難八苦の苦難の道を歩まなくてはならなくなる。思い通りになるのは大きい借金。

 神さまの愛を受け入れるのは借金にならないけどね。恩返しに生きてる限りはね、借金は絶対にならない。恩返し忘れて自分のものにした時が借金なの、奪ったことになるから、循環してる時は自分のものにしてないから借金ならないのね。

 全て言葉で選んぶのよね。いつも「恩返し一筋、恩返し一筋」って言ってたらね、恩返し一筋の自分よ。言葉通りの自分に必ずなれるよね。借金返し、借金返し。借金返しの自分になるよ、大変よ。苦しいね。

 思い通りにしたい、思い通りにしたいって言うたらね、思いの奴隷になるよ。もうちょっとした言葉の違いでね、 大きく変化する。だから、正しいプラスの言葉を選んでいくっていうのが必要なの。そして、その言葉を繰り返したら、その言葉通りに大きい助けになってくる。

 「真(まこと)の神さま、真(まこと)の神さま、真(まこと)の神さまだけ」って、言い続けたら、真(まこと)の神さまの自分になる。

 「永遠の自分、永遠の自分」って言わないとダメね、「完璧な自分、完璧な自分」「自由自在な自分、自由自在な自分」「与え尽くすだけの自分、与え尽くすだけの自分」ってね、 プラスの言葉いっぱい駆使すればいいのね。反対のマイナス全部消える。

 世界中のいろんな人の苦労を知るだけで、自分の心が立派になるのよ。本当、自分のことのように学べばいい。

 普段、夏の暑い時にね、温度40,50度のところでそうでしょう。塩なんか集めてる人いてるじゃない。塩いっぱい集めて、担いで働いてる人いてるじゃない。温度50度ぐらいになってるんじゃない。そんな中で、体温の35,36度超えて50度の温度の中で働くの大変よ。それでも生きるためにって1日働くんじゃない。日陰に入ってじゃないじゃない。それを、やっぱりしてるんじゃない頑張ってるんじゃない。喜び勇んで家族を幸せにするためにって頑張ってるでしょう。凄いことじゃない。

 だから本当は、そんなんに負けないよね。寒さにも暑さにも負けない。本当の自分はそうよね。言葉さえプラスに使ってたら負けない、絶対ね。みんな言葉で負けてしまうわね。みんな無限力があるのちゃんとね。

 だから、どんな問題に対してもでもそうよ。もし戦争状態でね、鉄砲の弾、どんどん、どんどん飛んでくるところで、その中に置かれたらどうする?弾いっぱい当たるのよ。でも、そういう中でもしっかりとお祈りできたら当たらないよ、弾は逃げていくよ。本当に真剣勝負よ。弾が全部、それは逸(そ)れて逃げて行くのがいいのよ本当はね。

 マイナスの言葉使ったら(弾が)当たるよ。そういう所でお祈りしたら本物になるよ早く。すぐに本物のお祈りになるよ、真剣勝負だから。 絶対絶命の立場で祈るんだからね。

 病気でも、もう絶対死ぬっていう立場に置かれたら、絶対死ぬっていう立場に置かれたら、本物にお祈りになりやすいね。でも、まだ治ると思ったらダメよ。もう死ぬって覚悟を決めたらね、死ぬって覚悟決めて、後1日でも生きてたら、お祈りして恩返しようっていう気持ちだったら治るの。でも、治そう思ったらダメよ、マイナス掴んだままだから、離せてないのね。そうすると病気も治らない。

 だから中途半端じゃあかんのよね。もう絶対絶命に置かれて、全部諦め切って離すといい。そしたら、お任せになる。難病、奇病、全部治る。瞬間にパッと治る時がある。だから、いろんな苦労がいいよ、本当にね。みんなの苦労を奪ったらダメよ。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/aTTjZNp7BOo

 宇宙神ありがとうございます


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7月護摩 by 河上彰延 2023年07月12日(水) 20時53分
PC

7月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年7月の護摩焚きで、河上さんがお話してくださいました内容です。

質問1
 神書558ページのB「一切の報いを求めないで、与え尽くせ!与えて、与えて、与え尽くせば、必要なものは、豊かに与えられるのです。与えることに喜びを見出すのが、本心の自分です。与える心は順流となり、宇宙の無限供給の流れを受け、求める心は逆流となり、求めるものが得られなくて苦しむことになるのです。」とあります。

 報いを求めないときの方が、思いもしなかった良い事が起こったりします。神、大自然は一切の報いを求めてはいません、宇宙の始まりは神の無償の愛と言い切ってもいいのでしょうか?又、お金、領土を求める心の延長線上には戦争があると言ってもいいのでしょうか?

河上さん
 ありがとうございます また、お会いできて嬉しく思います。

 「一切の報いを求めず与え尽くす心」っていうのがですね。神さまのお手伝いをする心という事なんですよ。神さまは一切の報いを求めず与え尽くす心そのものなんですね。その心に添おうと、すぐにはできないじゃないですか、すぐにはできないけれども、お手伝いしようという気持ちを先生はそういう表現でおっしゃったわけです。

 「一切の報いを求めず、与え尽くす心」というのは具体的には何かというと「絶対の中心に立つ心」なんです。それを別名「総責任者の立場」とも言います。

 どちらにしても絶対の中心に立つとか、総責任者の立場に立つとか神さまのお手伝いをするとか、一切を報いを求めずに与え尽くす心、というのは全部同じ意味なんですけれども、どれもなかなか、何となくわかるけれども、得心できる納得できる状態には皆さんないんですね。ないからいろんな疑問が湧くわけですけども。

 その、もう簡単に言うと、その太陽の光を受けようとすると、太陽からの一方向を小さい肉体の自分が受けるだけじゃないですか。神さまは平等に、すべてにたくさんの光を出されてるのに、肉体側の意識の部分だけしか受け取れないのが報いを求める心です、求める心です。

 その「一切の報いを求めず与え尽くす心」というのは、この世的な表現で言うと、太陽の中に入ってお手伝いする心です。太陽の中に入って神さまのお手伝いをする。要するに、すべてに光を送るお手伝いをする、自分は全部送れないですよ。送れないけども、神さまのお手伝いをするために太陽の中に入れさせてもらって、一部でもお手伝いしたら、結局すべてに光を送ることの働きをする事になるわけですね。それを「絶対の中心に立つ」と言います。そこがわかれば、すべては解消するんですけどね。

 「絶対の中心に立つ」ということは、すべての意識に自分を置けるということです。すべての意識に自分が置けたら一切の文句がないんですよ。それを別の言い方で言うと、「神さまにすべてを投げ込む」とか、「一切を神さまに捧げ尽くす」とかどれも同じ意味なんですけれども。

 ともかくそのすべての立場に意識が立てばいいんです。すべての立場に意識を立てるってそんなもん具体的にわかんないよね。

 例えば、肉体を宇宙として考えましょう。肉体も入れ子構造的に、神さまの宇宙の1つの姿ですから、完成された(相象(すがた)です)。

 例えば、肉体の肛門の部分。肛門の部分というのは、しょっちゅう臭いうんこが来るわけじゃないですか。小さい普通の人で言う肉体意識を肛門に(たとえて)、肛門意識になると、「何でわしは、こんな臭いうんこばっかり扱わなあかんねん!理不尽や!」みたいになるわけですね。

 でもそのすべての立場に立つ意識というのは、肉体で言うと肉体とすべての意識が一つ。自分として、肉体を自分として思う意識があるわけじゃないですか。すると肛門の働きも必要、どの働きも必要というのがわかってて、喜び勇んで働けるわけですね。それが、すべての立場に立つということです、その全宇宙的に。肉体だけいうと肉体意識の中の肛門と比べるとわかりやすいと思います。

 それが求める心と与え尽くす心の違いなんですよ。すべてに意識を立つ、立てるという部分だけなんですね。でもほとんどの人は、肉体が自分と思い込んでるから文句が出るわけ。

 肉体が自分という思い込む意識をどうして消すか?要するに、すべて一切を報いを求めず与え尽くす心にどうしてなるか?というために先生は祈り言葉を作ってくださったわけです。

 それは「天之造化主尊(あめのぞうかぬしのみこと)」から始まって、「みんな神の御光(みひかり)、御力(みちから)、御生命(みいのち)」からもうずっとありました。「ありがとうございます」が出て「宇宙神ありがとうございます」、「印可書」が出て「宇宙神ありがとうございます」になったわけですけども。

 その祈り言葉に、小さい肉体意識で出てくる自分の不平不満を一切投げ込むことが大事なんです。投げ込めば、絶対の中心に立ててるんです。本当に投げ込めたらですね、一切文句を言わないの、言わなくなるんです。

 それをちょっと皆さんの自由意志を縛ってわかりやすいように、「今が一番神さまがいいようにしてるよ」って言うて柔らかく説明してみたわけですけども。その今が一番いいようにしてると言うのもその一瞬一瞬新たというところが必要なんですね。

 祈り言葉に投げ込むと言うのは一瞬一瞬新たに投げ込むわけですよ。何かあったって文句が出るわけでしょう。何かあったって叩かれたら痛いな。人にお前こんな仕事こんなんしてたらあかんやないかと言われて腹立つなぁとかね。何があったって、常に文句出るわけですよ。どんな形でも、どんな立場の人でも。ある程度のお金持ちになったって、子供が言うこと聞かないとかね、あるじゃないですか。

 そういう文句を一瞬一瞬新たに祈り言葉に投げ込むというのを一瞬一瞬新たに受け直すと言うことなんです。でもみんな投げ込み切れないから受け直し切れないから、この因縁因果の世界で苦しむのね。ただただそれだけです。

 その一切報いを求めず与え尽くすのが、一瞬一瞬新たに受け直すと言う言葉にも匹敵するんですけども、どちらにしても一瞬一瞬新たに絶対の中心に立つしかないんです。(→これを絶対の中今という)

 その一瞬一瞬新たに絶対の中心に立つのをどうするかというために、一番簡単に先生は、「印可書」を作ってくださったわけで、もちろん「宇宙神ありがとうございます」の中に自分の一切の文句を投げ込んだら、一瞬一瞬新たな受け直しになります。

 「宇宙神ありがとうございます」に投げ込み切れたら、一切の文句は出ません、喜びだけ。だから、もし喜びが湧かずにね、文句ばっかり出てる間は、まだまだ祈り言葉、祈り言葉というのは神さまそのものですから、神さまに自分のすべてを投げ出せてないと思われて、「印可書」を使われようが「ありがとうございます」を使われようが「宇宙神ありがとうございます」を使われようが、みんな自由ですけれども。

 ともかく絶対の中心へ投げ込む、神さまに投げ込む、神さまにすべてをお返しするとも言いますけども、どの表現を使っても同じ意味です。出てくる不平不満というマイナスというマイナスもプラスも喜びも何もかも全部神さまに、一瞬一瞬新たに投げ返してたら、新たに受け直せるんですよ。

 それを先生は、呼吸に例えられる時もあるんですけどね。息、吸うばっかりやったら苦しいやろ、吐かなあかんやろ、吐く時に神さまにお返しするんやってことを説明されたりもしますけども。

 ともかく一切の報いを求めず与え尽くすというのは、ただただ神さまに一切のマイナスを投げ込む。神さまに投げ込むというのは、祈り言葉に投げ込むしかないんですね。だって神さまって具体的にみんなわからないじゃないですか。

 だから「宇宙神ありがとうございます」 「ありがとうございます」 「印可書」どれも、真(まこと)の神さまそのものですから、それに投げ込めたらいいです。投げ込みやすいやつは、使いやすいものを皆さんお使いになられて自由ですから、ともかく投げ込んでたら文句出ないです、喧嘩にならない。

 結局、神さまを認めない部分がマイナスなんですよ。認めない部分が増えていくとその質問の最後にあるように戦争になるわけです。ただただ、それだけでお互いに与え尽くしてたら戦争にはならないです。ありがとうございます

質問2
 6月の勉強会での河上さんのお声のトーンがいつもより高く感じられました。これは良いこと(吉兆)でしょうか?それともそうではないのでしょうか?よろしくお願いいたします。

河上さん
 先生は、皆さんの自由意志を一切縛られないんですよ。だから説明される時でも、一切自由意志を縛らない説明のされ方をするわけです。すると例えば、神さまが絶対の愛であるぐらいまでしか仰らないわけですね。そしたら、みんなその「あっそうなんだ」で終わるわけですよ。

 でも本当は、絶対の愛だから今が一番いいようになっているわけですよね。でも、今が一番いいようになっていると思ってない人に、今が一番いいようになってるよって言って説明するのは、相手の自由意志を縛ってるわけ。

 そうだけど、縛らないとある程度、みなさんわかりにくいから無理に縛って説明するんですね。無理に縛って説明する分だけ、僕の身体が動かなくなるの。その分ちょっと無理に動かす時に声が高なったりとか、ちょっと歩きにくいとかあります。前は歩きにくいから杖を使ってたんですけど、そうすると余計身体が動かなくなったんで、今は頑張ってリハビリしながらやってる状態です。ありがとうございます

質問3
 護摩が、1回目2回目と入れ子構造になったとおっしゃっられましたが、どのようなことでしょうか?何もわからず申し訳ありません。

河上さん
 これは例えば、コンピュータのプログラムされてる方だとサブルーチンという形で表現したらわかりやすいんですけど。そういう数学的なプログラム的な表現以外で言いますとね。(→エクセルでいうとマクロ)

 要は、最初の護摩が始まります。その護摩としての働きが自動的にオートマチックで動き出したということです。動き出したのは、そのまま利用しておいといて、また新しい護摩を、要するにプログラムを作った。護摩としてのプログラムが完成して、また自動的に動き出した。それを置いといて、また次(護摩)を作るというのを説明させてもらった形です。オートマチック、要するに、この護摩の会場が何倍にもどんどん増えていく感じです。ありがとうございます

質問4
 なかなか、人生面白いと思うのは、難しいことがあります。どのようにすればいいのでしょうか?自閉スペクトラム症で言葉の出ない子がいます。よろしくお願いします。

河上さん
 あの、これはね、もうともかく、その、自由意志を縛るということがあると面白くなくなるんです。ただただ、それだけです。だから、みんな自分の自由意志のまま、好きなようにしてるんですよ。でも、好きなようにする気持ちが小さい間は、お互いの利害がぶつかるのね。それは親子といえどもそうです。

 例えば、子供は将来こういうことに、例えば、子供は将来、「お巡りさんになりたいんだ」って思ってるのに、「お前は医者になれ」とかね、「お前は学者になれ」とか、親は言うわけじゃないですか。お互いの自由意志がぶつかり合って、苦しくなるんですね。人生が面白くないって言うんです。

 なんでそういう問題が起こるかというと、この現世というプログラム、ゲームですね。ゲームを楽しむためには、そのゲームの中の一員にならないと楽しめないでしょう。ゲームってそうじゃないですか。あの、客観的に見てたら、なんの面白みもなくて、その中のどれかに入ってやるわけじゃないですか。対戦ゲームでも将棋でもなんでもね。その中に、自分の意識をわざと小さくして、みんな楽しみに来てるんですよ。それを忘れたら苦しいんです。

 もう、ただただそれだけです。それをね、思い出すために、一瞬一瞬新たに受け直したら、思い出せるんですよ。ゲームってそうなんですね。ゲームの熱中して、うわ、こんな変なキャラクター出てきて大変やわとか、こうやってるけども、一瞬一瞬、本来の自分に戻ってるから楽しめるんです。あれ、本当にゲームの中に入り込んでしまったらね、ノイローゼになりますよ。わかります?だから、みんな、一瞬一瞬新たに受け直すことは得意なんです。

 それを、真(まこと)の神さま、絶対の中心に立ち戻る、本来の一瞬一瞬新たの受け直しに立ち戻れたら、楽しくなるんですね。その一瞬一瞬新たに受け直す、絶対の中心に立ち戻る方法が、「印可書」奉読が一番楽です。

 でも「宇宙神ありがとうございます」だったら、苦しい、辛いの思いを全部、「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込んで下さい。そうすれば、本当に投げ込めたら苦しい、辛いはないんです。投げ込んでないから苦しい、辛いなんです。

 そこが難しいんで、自動的に吸い込んでくれる「印可書」を作っただけで、どれを選ぼうと皆さんのご自由です。ただ、「印可書」を奉読されてる方は、何か知らんけどすごく楽になってきたっておっしゃる方が多いんで、どれを選ぼうと皆さんのご自由です。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます お預かりしている質問は以上ですけれども、会場の中で何か、ご質問がある方はいらっしゃいますでしょうか?(会場からの質問がありました。)

質問5
 いつもありがとうございます 「本心の自分をしっかり生きるという16項目」の中に、一大循環の相象(すがた)をこの世に現すっていうところを現実化するということを詳しく教えていただきたいです。

河上さん
 はい、わかりました。一大循環の相象(すがた)っていうのが、みんな言葉だけつかまえてね「一大循環やなぁ」で終わりなんですね。そこが、例えば「印可書」だと、表を通って、裏を通ってっていうあるじゃないですか。この表と裏って陰陽っていう別の言葉で言い換えますと、呼吸でいうと吸う息と吐く息なんです。肉体の形だけでもですね、普段、皆さん、呼吸という形で、一大循環の相象(すがた)を具現化してるわけですよ。吸う息、吐く息でね。吸うばっかりでもしんどいでしょう。吐くばっかりでもしんどいでしょう、一大循環してるわけ。それが、すべてなんですよ。

 ところが、その一大循環というのを、受け止め切れないわけですね、どの方も。受け止め切れないというのはどういうことかと言うと、さっき言ったように、太陽の光を受ける側、求める側。求める側だから一部しかわからないわけです。太陽の中に入らないとわからない。だから、絶対の中心に立たないと一大循環の相象(すがた)をこの世に具現化できないんですよね。もうすべては、そこなんですけども。

 何があったって、まず、みなさんが自由意志で、すべてをするにあたっては、まず言葉で決めてるんですよ。まず最初に生まれた時に、私は男である、女って、まず決めてね。こうだ、あーだって言葉で決めて来るわけですね。だから、「私は、どんくさいねん」って言うて、言葉で言い続ける人は、どんどん、どんくさくなるしね。「私、勉強できへんねん」って言い続ける人は、どんどん勉強できなくなるし。

 もう、自分で自分の言葉で、自分の表現を楽しんでるだけです。縛ってるんじゃなくて、楽しんでるのね、ここが大事なんですよ。自分の言葉で縛ってると言うと、また苦しくなるからね。自分の言葉で、わざと不器用な自分を楽しんでるみたいな感じなんですね。じゃあ、何かと言うと、真(まこと)の言葉を駆使する自分というのが必要なんですよ。

 村人の条件として、昔、先生がおっしゃったんですけども、村人になるためには、「真(まこと)の言葉を駆使する自分でなくてはいけない」ということをね、「それ以外の言葉を使ってはいけない」、「神さまにすべてを捧げ尽くせ」っておっしゃたわけです。

 これが一大循環の相象(すがた)を現す、究極のすがたで、真(まこと)の言葉を駆使するしかないんですよ。一切のマイナスは認めない。認めたら全部、祈り言葉に投げ込むの。すると何が起こるかって言うと一切文句が出ない、楽しいばっかりになるんです。だから、楽しいばっかりにならないうちは、まだまだ受け止め切れてないし、戻し切れてないしってなるわけです。真(まこと)のプラスの言葉を駆使し切れてないっていうことになるんです。

 じゃあ、真(まこと)のプラスの言葉を駆使しする自分に、どうしたらなるねんっていうところをね、先生に聞きに行かないから話がややこしかったんです。本心の16項目でね、真(まこと)のプラス言葉を駆使する自分って出てたじゃないですか。出てるのに、誰も「あ、駆使するんやなぁ」で終わるわけですね。
 そこで、聞きに行けばいいのに、聞きに行かないから、あの先生、「印可書」で答え出してくださってるわけで、「印可書」を奉読したら、真(まこと)のプラス言葉を駆使する自分になります。なれば、自然に喜びが湧きます、もうそれに尽きます。「印可書」を嫌な人は、「宇宙神ありがとうございます」を駆使すれば、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分です。

 でも、普段の生活においてね、腹立つとか、あの人な怠けてるとか、色々出るじゃない、マイナスの気持ちが、その間は、まだまだ真(まこと)のプラスの言葉駆使できてない自分なんです。それは、神さまに、真(まこと)の神さまに弟子入りをするという約束ごとですね、村人でいうと。村人は、真(まこと)の神さまに弟子入りするから村人になるんですけども。弟子入りする最初の約束を破ってるわけです。

 文句を言う間は、破ってるの。だから、文句が出なくなるまでね、ひたすら「印可書」か「祈り言葉の中に」、自分の一切のマイナスを投げ込んでください。投げ込むという行為が、一大循環の神さまからどんどん降りてくるわけですよ。それをお返ししてないの、これを先生、「恩返し」とも言うんですけども。お返ししてないわけです。

 お返しする方法は、「印可書」に、あるいは、「祈り言葉」に、「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでお返しするわけ。それができないから一方通行になって、溜まり切ってね、苦しくなるんです。それだけです。一大循環というのはそういうことです。祈り言葉に投げ込めば一大循環が完成します。はい、ありがとうございます

質問者
 ありがとうございます

司会者
 他は、いらっしゃいますでしょうか?よろしいですかね、はい。では、河上さんお願いいたします。

河上さん
 ありがとうございます また、あの、今月も皆さんとお会いできて嬉しく思います。本当に、いよいよ、いよいよって、どんどん地球が切羽詰まって、本当に大地震が起こりそうなままきてます。まだ今年はいいんですよね。来年が本当に正念場で、なんていうんですか、人工衛星の落とし合いが始まるんですね、来年になると。もう、今すでにちょっと起こってるんですけども。

 その、人工衛星の落とし合いをしたら、地球霊王の体が、どんなに傷つくかなんて、人類は馬鹿だからね。馬鹿って言ったら怒られるけども、あの、何も考えてないのね。地球霊王さまの体を傷つけたら、もう万事救出です。大地震が起こり、いろんなことが起こるようになります。そうならずにね、持っていきたいので、人類の方で真祈りして、ちゃんとしたいと思います。

 真祈りというのは、今言った一大循環の相象(すがた)そのものです。その村人になる条件が、真(まこと)の神さまに弟子入りするため、することが条件だったわけですけども、それは別に、村人に限らず、皆さん全員がね、真(まこと)の神さまのお弟子として、真(まこと)の神さまのお手伝いするという役割を担うんですね。そのお弟子入りって、お弟子入りという表現、嫌いな人もあるのであんまり使わないんですけども、真(まこと)の神さまのお手伝いです。お手伝いをするということが大切なんですね。

 それは何かというと、人類は、その神さまからの、この現世的に言ったってね、太陽の光とか熱とか水とか空気とかをね、一方的に受け止めるだけで、一方的に使うだけで、一切お返ししてないわけですよ。そんなん言ったって返し方わからないからしなかっただけですけどね。

 返し方は、一大循環の相象(すがた)を受け止めて、返す。一瞬一瞬新たに受け止めて、お返しするというのは、祈り言葉に投げ込むだけなんです。それを、いろんな表現でね、ひたすら祈り続けるとか、いろんな表現しますけども。ともかく、文句が出てるうちは、恩返しとか、お返しができてない。一大循環の相象(すがた)に。要するに神さまのお手伝いに参加してないの、文句出る間は。でも出よね、出るよね、文句は出るよね。痛いのは痛いし、しんどいのはしんどいし、お腹は空くしね。空いていいから、お腹空いて文句出てもいいから、しんどくてしんどいなって言ってもいいから、言った気持ちを全部、神さまにお返しできたらいいんです、もうただそれだけです。

 じゃあ、どうして返すのかと言ったら、祈り言葉に投げ込んでください。もうそれだけです。投げ込めば、必ず、神さまは受け取ってくださいます。

 こちらの自由意志を神さまは尊重される。だから、こちらが自由意志で神さまにお返ししないと言うと、そしたら、しばらく遊んどきってなるわけですね。いつもいつも一杯いただいて「ありがとうございます」ってお返ししてたら、喜んで神さまは受け取ってくださるわけです。それは、プラスであろうがマイナスであろうがです。そうして受け取ってもらえたら、自分の方が、一瞬一瞬新たに喜びが湧くだけになるんですよ。

 もうただただ、そこだけです。一瞬一瞬新たに受け直すというとこが、今言った意味なんですよ。これがわかれば、何の不安もないんです。今のこのお話した1分後に死のうとも全然怖くはない。喜びだけが湧くようになるんです。でも、ちょっとでも返さずに自分のもんって持ったらね。「あいつ腹立つわ」ってというのを自分が持つわけですよ、みんな。

 「あの人、人の物を盗んでずるいわ」、「あの人万引きしてずるいわ」って言うた時は、その人が万引きしてるのではなくて、「ずるいわ」と言うた自分が万引きしてるというのに、まず気づかなくちゃいけないんだけど、それすらも気づかずにマイナスの言葉を使ってるわけですよ。

 だから、どんなマイナスの言葉を出てもいいから、祈り言葉に投げ込んでください。「印可書」に投げ込んでください。投げ込めば一瞬で消えます。なぜなら、神さまは「無限の無限の無限の無限の」って重ね切れないくらいの無限の愛だから、それこそ、琵琶湖にですね、人間のマイナスの思いって、一滴の墨みたいなもんですよ。琵琶湖に1滴の墨を落としたって、一瞬で消えるじゃないですか。そういう感じで、「印可書」に「祈り言葉」に投げ込んだら、一瞬で消えますから、どんどん投げ込んでください。皆さんの自由意志で。

 そうすれば、一大循環の相象(すがた)が、どんどんあちこちで始まって、皆さんの周辺で始まって。世界平和がくるんです。もうただただ、それだけです。ここの、投げ込む、恩返しということですけど、神さまに投げ込むというとこでね、わからないというのは、ぜひ今、質問してください。お願いします。

司会者
 今の話で、ご質問等。

河上さん
 気になるとこあったら聞いてくださいね。今、一番大事なとこを言いました。

質問6
 すみません。言葉の上では、祈り言葉にすべてを投げ込むという表現をされているのですが、その辺がこう…「どうするんかな?」っていう。すべてを投げ込んで祈り言葉を唱える、捧げるというところをもう少し詳しく…

河上さん
 ああ、あのね、投げ込み続けてたら、喜びだけが湧くようになるんですよ。喜びが湧かないうちは、投げ込み切れていないと。要するに、形の上で「あいつ嫌いやわ」とかって出てる表面の意識じゃなくて、自分の中にね、まだまだマイナスを掴んでるということです。

 だから、自分の中にマイナスを掴んでいる間はね、神さまが絶対の愛だから、今が一番良いようになってるっていうのが思い切れないんですよ。自分の中に一切マイナスを掴まなくなるとね、もう喜びだけになって、なんて言うんかな、スッと動き出すんですけどね。

 すると例えば、「子どもが勉強しない」とかいうのも、思わなくなると子どもは勉強するんですよ。親が子どもを、あなたの場合で言って悪いけどね、親が「子供が勉強しない」と思い込んでるでしょう?するとその言葉で子どもは勉強しないの、例えばね。それ、無意識に思ってるから、自分でも気付かないんだけども、思ってるわけですよ。

 そういうマイナスの思いを全部「祈り言葉」に、「印可書」に放り込んでいったら、もうマイナスがなくなるでしょう、自分の中にも。すると喜びが湧くの、沸々と、穏やかな喜びがね。すると、自分の周りの人も本来のすがたを発揮するんですよ。全部自分の言葉で周りを縛ってるの。

 どの人もですよ、あなただけじゃない。みんな自分の言葉で、お互いを縛り合いをしてね、それで楽しいゲームを作って遊んでるだけなんだけどね。その縛り合いも、そういうシチュエーションを楽しむためにやってるだけで、悪くてしてるんじゃないんですよ。

 もうそれは、将棋で見たらわかる、ポーカーで見たらわかる、麻雀で見たらわかる。わざと難しいルールにして、あがりが出にくくして楽しんでるでしょう。そういう感じでみなさん、この現世(うつしよ)を楽しみに来ているはずなのにね。なんか、文句を掴みだして、ややこしくなってるだけなんですね。

 だからその出てくる文句をどれだけ神さまの中に投げ込めるかなんですけど、神さまというのが、わからないから投げ込めないでしょう?

 でも、神さま、「祈り言葉」は神さまそのもの、「印可書」は神さまそのもの、「宇宙神ありがとうございます」は、真(まこと)の神さまそのものと先生がおっしゃってくださっているんだからね、祈り言葉に自分のすべてのマイナス、文句を投げ込んでいくの、不安を。もうそれの繰り返しです。それができるとかできないじゃなくて、そうするしか方法がないのですよ。

 だって真(まこと)の神さまって言うと、すべてのすべてだから、もう、なんて言うんですか、本当に真(まこと)の神さまそのものっていうのを感じるんだけど、感じれないんでしょう、みんな。肉体が自分だと感じちゃうんでしょう?それくらいマイナスで包んでるわけね。そのマイナスをどれだけ真(まこと)の神さまに投げ返していったら、自由意志でね、返したら、本来の自由な真(まこと)の神さまの自分が出てくるから、完全平和な地球にもなるし、すべてが収まるんですけどね。

 だからそこを、自分の自由意志でね、「投げ込めないわ」って言ったら投げ込めないわけですよ。だから、自分の自由意志で「投げ込んでいきましょう」、「投げ込みます」ってやっていかないと。もう、そこをできないと言ったら、もう何も始まらないです。いい?これで。

質問者
 はい。もう、やるしかないと。

河上さん
 やるしかないのね、その自分の自由意志でね。結局、神さまは、相手の、その人の自由意志を最大限に尊重されるから、「これ!」って言って掴んでるマイナスは、そのマイナスで遊びってなるわけですよ。おもちゃとかゲームがそうでしょう?マイナスを作って楽しむわけでしょう?まあ、簡単に言えばね。

 テニスで言ったらね、大きいラケットでやったら絶対やれるわけじゃないですか。でも小さいラケットにして、要するにマイナスを作って楽しんでるでしょう?その楽しんでる間は好きに楽しんでおいでって神さまは言うの。それで、「もうこれ飽きたから神さまに返します。」って言ったら、受け取って消してくださるわけ。

 マイナスは自分で作れるけど自分では消せないのね。だから神さまにお返ししないと消えないの。それは自分の自由意志で「神さまお願いします」って渡すしかないのね。渡す場所を「印可書」という入り口に放り込んだら大丈夫ですよということです。だから頑張って「印可書」に、「宇宙神ありがとうございます」に放り込んでください。え?まだあかん?(笑)

質問
 「手放したい」とかはまだ弱い?

河上さん
 弱い弱い。「手放したい」という時はまだね、それを大事に掴んでるの。「もう懲り懲り」って(笑)「〜たい」って言ううちはまだね、もうちょっとそれを掴んで遊びたいの。先生はね、いわゆる、絶対の信とか全托の誓いを立てたってね、人間はね、何十万回とそれを破るとおっしゃるの。それくらい肉体の意識を持つというのは、色んなものを掴む癖がついてるから。でも何十万回、その神さまに全托の誓いとか、そういう気持ちを何十万回と裏切ってもいいから、神さまに投げ返しなさいとおっしゃってる。だから投げ出せない自分を責めずにね、投げ出せるものは投げ出していってください。

 あの、断捨離や。家のお掃除と一緒よ。「これ、もうちょっと置いとこう」ってみんな思うでしょう?「これ、もうちょっと置いとこう」って。「また使うかもしれんな」って。その、「また使うかもしれんな」じゃなくて、そこで捨てなあかんねん。じゃないと片付かないの一緒。「投げ出したいなあ」という時はもうちょっと掴んでるのね。頑張って断捨離してください。はい、ありがとうございます

質問者
 はい、ありがとうございます

司会者
 はい、他は、いらっしゃいますでしょうか、ないですかね(質問はありませんでした)。はい、河上さんお願いします。

河上さん
 あの、本当にね、今日はすごく大事な根本のところをお話できて嬉しかったです。その一瞬一瞬新たに受け直すというところがね、わかっているようで、みんなわからないのね。その一瞬一瞬新たに受け直すことができたら、喜びだけに本来なるんですよ。

 でも、一瞬一瞬新たに受け直しているつもりで、みんな掴んでるからね。受け直すということは掴んでるものを離さないと受け直せないでしょう?手一杯に物を持っているのにね、新たに来た、まあ宅急便がドンドン来るとしてください。一杯、宅急便をこう、手に持ってるんですね、また次の宅急便が来たって持てないじゃない。みんなそんな状態ですよ。一瞬一瞬来た宅急便を喜んで返してたら良いのね。

 それが一瞬一瞬新たに受け直すであり、それを、良いものも悪いものも、祈り言葉の中へ投げ込めば良いの。そうすれば自由自在になっていくんですけどね。断捨離です。家のお掃除ができない人は、余計それも思い直してやってみてください。

 ここが、ものすごく大事なところなんですよ。でも、ほとんどの人は親を掴み、子どもを掴み、旦那を掴み、奥さんを掴みってね、友達を掴みってして、お互いに身動きを取れなくして、結局はお互いに憎み合ってないのに、憎み合うみたいになっていってね。結局、大戦争にまで発展していくんですけどね。

 そうならないためにも、この護摩が大事ですし。毎回毎回、この護摩が、自動的になった護摩が、常時動くようになりましたから。この護摩を重ねるごとに、どんどん大きく変わると思います。また来月、お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/VLx4sxqQVuE

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/07/07(Fri) 00:01 No.2981 [返信]


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7月勉強会 by 河上彰延 2023年07月12日(水) 20時40分
PC

令和5年7月河上さん勉強会−1前半(20230709−1前半)

河上さん:質問無い?あります?お願いします。

質問:1件預かってきています。お葬式のお金のかけ方について。商売の低迷もあり、最低金額で母を送りました。お坊さんに拝んでもらうこともなく、焼いてもらいました。母は成仏したのでしょうか?心配です。

河上さん:お葬式ですけども、基本的に送る人の側の気持ちだけで、形は関係ないです。ただ、人数が集まる集まらないに関わらずね、50日目ぐらい迄は大体死んだ方が地上にいらっしゃるんで、肉体側の方がね、思い出してあげて、その死んだ人が好物だったものを食べてあげたらいいです。別に、高い料理とか、そんなんじゃなくてね。例えば、リンゴが好きだったな、やったら、リンゴを食べてあげるとか、思い出してね、それだけで十分です。
 お坊さんのお経はね、効果は別にないです。いやあ、何でかとか言ったらね、例えば、みんなお経聞いてね、意味分かる?

質問:わからないです。

河上さん:わからないやろ?わからないもん上げられたって、死んだ人もわからへん。まだそれやったら、「印可書」あげとけばいいです。ただ、生前親しかった人がね、やっぱり、せっかくだからお別れしたいという方もいるじゃないですか。で、その時にバラバラに来られたら手間でしょ、お家の方もね。だから、まとめてお葬式という形でね、お別れ会をするだけみたいなものです。
 でも、それも 別に、本当はそこに行ってお別れをするからどうこうじゃないんでね、本当は思い出してあげて、お別れをするだけでいいんで。それこそ、僕の場合、大阪ですけど、大阪だと 8000円払うと焼いてくれるんですね。で、「ちょっと火強めで、骨残さなくていいです」って言うと、喜んでやってくれます。そういう感じでして「あと遺骨いらないから捨ててください」でもいいですし、そういうものです。
 いわゆるお墓とか、仏壇とかいうのは、生きてる側の人が、死んだ人と心を通じ合わせるためのモニュメントというか記念碑です。で、そこに死んだ方がいらっしゃるわけじゃないですけども、例えば仏壇の前のお位牌のとかね、そういうのを通して死んだ人を思い出せるじゃないですか?だから良いんですよ。じゃあ、死んだ人の写真飾っとけばいいんかということですけど、写真だとね、死んだ人の時の相象(すがた)を使うんでしょ?でも、亡くなられたら生まれ変わりで、新しく生まれ変わっておられるから、古い形捕まえたら、死んだ人が迷惑なんです。
 だから、お位牌 とか、いわゆる、それも、名前を変えてね、分からない様にして、響き合わせるようにしてある。それは、生まれ変わりだからです。で、その辺が、みんな死んだら眠ってるみたいに勘違いする人がおるんで、色々とややこしいことが起こるんですけども、本当は、只々新しく生まれ変わって、あちらの世界で、人生をまた やり直されるみたいな感じなんですね。

 それも本当は輪廻転生でちっさいちっさいことなんですけども、今の肉体を自分だと 思ってる人にとったら、そういうレベルで行くのがいいと思います。只々それだけです。だから、お遺骨というのも、別に意識することはないです。お遺骨よりも、その死んだ人をどうして思い出すかという基準ですね。だから、骨よりも写真なんですけど、写真だとそういう失礼にあたるんで、お位牌とかね、お墓とかっていう形で、それもその人ってせずに、もうご先祖一族とまとめてされるのが一番効果的ですけどね。でも、直近に死んだ方は、その人の意識を合わせてされたらいいです。そういうものです。

 だから、よく「自分の守護霊様の前世はなんですか?」なんて聞く人がおるんですけど、それ、例えば守護霊様に対しとても失礼なわけですよ。守護霊様の前世の時よりも、もっと立派になっておられるわけですからね。そういう感じで、あんまり写真も飾らない方がいいです。只、お盆の時とかね、そういう時は、思い出すためにね、写真を飾られてもいいですけども、普段は、よくあるじゃないですか、仏壇の上に順番に写真置いてある。あれはあんまり良くはないです。あれをすると、向こうの人がそれに縛られて動きにくくなりますので、写真をわざわざ燃やすことはないし、ちゃんとしまっとけばいいですけどね。思い出す時に出してくればいいですけど、普段から飾っとかない方が本当はいいです。そういう感じでいいですかね。聞きたいことがあったら。その、死んだ人との関係がね、あるんですけど、いいですか?

質問者:はい。ありがとうございます。

河上さん:だから例えば、身寄りがなくなって、いわゆる無縁さんってして死ぬじゃないですか 。それ、無縁さんで死んだから迷うとかね、言うのは大きな勘違いで。もうちゃんと、神さまはちゃんとされてるんでね、お墓が建とうが建とまいが、位牌があろうがあるまいが、仏壇があろうがあるまいが、関係ないです。ただ、依り代(よりしろ)が要るとかね、要らんとかいう人がおって、先祖の依り代があって、それで先祖供養しなくちゃいけないとかって言うわけですけど。本当言うと、死んだ方もご先祖も全部自分なんですよ。そこが大事なんです。

 その死んだ方と自分を分けてる間は偽物。もう只々そうなの。それを先生流に言うとね、「真(まこと)の神さまと1対1だ」って仰るわけです。「全部真(まこと)の神さまなんだ」って。そこだけなんですね。その意識になれたら本当の供養です。
 でも、分け隔ててね、「あいつは迷ったまま死んだ」とかね、「あいつは怠けのまま死によった」とか、「あいつは酒飲みのまま死によった」とかって、マイナスに掴んでするじゃないですか。それが一番良くない。全て真(まこと)の神さまとして楽しまれて、今働きを変えられたぐらいです。せめて分け隔てて意識するにしてもね。本当は全部自分ですから、「印可書奉読」したら、もうそれで光一元で終わりなんですけども。

 だから、例えば津波でとかね、事故で 遺骨も上がらずに死んじゃったから迷うなんていうことはないわけですよ。もう全部全て神さまは一番良い形に持っていかれます。そういうもんなんです。その死に目に、色んな種類があるじゃないですか?それ何かというとね、結局みんな無意識にね、「あいつサボってる」とか、「この子勉強せん」とか、マイナスに見るわけですよ。一切のマイナスはないのに。で、マイナスに見た時に、マイナスの勢力からの応援もあって、感覚的に言うとトイチ(金利が10日で1割)の利息ぐらいに膨らんでいくの。自分が只、あいつ怠けてるって思っただけなんですよ、只。本当出来心で思っただけなのに、その「怠けてるずるい」がバァーッて膨らんでいくんですよ。で、それはもう、凄い塊りとなってね、もう自分では消しきれないくらいになるんです。だから、「一生七難八苦の連続でいい」って先生仰るわけで。ひたすら働かなくちゃいけないんです。人のために、神さまのためにね。怠けてる暇はない。

 だから、若い時だったら、もう夜寝る時はクタクタでコテンって寝るくらいね、ひたすら何事にも一生懸命しなくちゃいけない。それを悠々とゆとりで、のうのうと生きてるとね、自分の背負ったものが増えていくばっかりで、どうしようもない、悟りに近づかないんですけどね。ただ、もういよいよ時間切れなんで、もうそんなことも言ってられんから、「印可書奉読」してください、そしたら神さまのお手伝いになるからっていう風に言うわけです。

 一纏めにそれ言ってますけども、具体的には自分の自由意志でマイナスの思いも何もかも神さまにお渡しするというのが「印可書」奉読するということなんで。で、その「印可書」奉読の場合は、そういう風に具体的に意識しなくても、そういう形にしてくれる先生の大おまけなんでね。「印可書」奉読していただいていいわけですけど。「宇宙神ありがとうございます」とかは、色んな先生の残された祈り言葉の場合は、自分の自由意志でほんとに「宇宙神ありがとうございます」に投げ込まないとダメなんですよ。

 で、投げ込まれてるかどうかはどこで分かるかというと、文句言うか言わないかです。「あぁ私だけこんな目にあってあれやわ」とか、「私だけ風邪ひいて損やわ」とかね。思ってるうちは全然神さまに投げ出してない。神さまに全てを投げ出さなくちゃいけない。それが絶対の信です。全てはね、何を信じるかに尽きるわけですよ。ある人は健康食品ね。玄米が良いとか、玄米を信じるとかあるじゃないですか。これが良いとかね。そういう風にみんな信じるもんがちっさいのね。ちっさいから余計ぐちゃぐちゃになっていく。

 どこかのお医者様が良いってお医者様を信じる場合もあるし、みんなそれぞれ信の置いてる場所が低いんですよ。

 でも、真(まこと)の神さまに信を置かなくちゃいけない。それはもう祈り言葉。もうひたすらひたすら真(まこと)の神さまに恋慕えって先生仰るんだけども、それはひたすら祈り言葉に投げ込むしかないんです。で、投げ込めば、先生と同じ働きが出来る、神さまのお手伝いしてる事になるからね、もう一気に変わるんですけどね。投げ込まない間は自分の自由意志で掴んでるから、「私はこんだけしかお金がないから不自由だ」って掴んでるわけ。

 分かります?みんな安月給もらうでしょ?で、「こんだけの給料しか貰ってへんから、生活が不自由だ」って掴むの。掴んだら、自分が掴んだ分だけ不自由になって苦しくなっていくっていう、只々それだけなんです。全知全能の神さまがね、一番良いようにしかしてないの。その人が不自由な生活をすることが一番良かったら、不自由な生活をするように神さまが持っていくの。

 だから、脳梗塞でね、体が動かなくなったりとかってなる場合も、そうすることがその子にとって、その魂にとって一番必要だからなるんですよ。それに文句言うからややこしい。

 たかだか125年の命やからね。125年間、もう不眠不休の苦労の連続でも全然問題はないね、本当は。たった125年やから。それでも文句言うけどね、みんなね。

 そこがわかれば、その死んだ方への供養も同じです。みんなその 死んだ方への供養で一番悪いのは、自分がマイナスを掴むことです。自分がマイナスを掴むということは、死んだ方の意識に繋がって、死んだ方もマイナスを掴んで共に地獄へ降りていく。自分の意識でですよ。マイナス掴むということは、マイナスが好きだということでしょ?逆に言うとね。嫌やったら見もせえへんもん。わざわざ見て怠けてるとか、やっぱり怠けてんの好きやね。

 自分も怠けたいからあいつ怠けてるって思ってしまうんで、怠ける気なかったら気にもなれへん、例えばね。そういう感じでマイナスを掴むと、掴んだ分だけ自分の自由意志で地獄へ降りていくのね。その時に一緒に死んだ方も引きずっていっちゃうの。

 だから、まず死んだ方への一番の供養は一切のマイナスを認めない。でも、そんなん言われても難しいから、「印可書奉読」してたらそれに変えるという先生の大きな愛です。もう只々それだけです。

 「宇宙神ありがとうございます」だったら、命がけで「宇宙神ありがとうございます」に込めてください。本当に真祈りできてて、「宇宙神ありがとうございます」って真祈り出来てる人は一切の文句は言いません。喜ぶだけ。「印可書」の場合は文句言いながらでもプラスに変えて貰えるから楽やけどね。「宇宙神ありがとうございます」は、なかなか厳しい。その厳しさを和らげるために手振りがあったんだけど、手振りを拒否するからもうこうなっちゃったんですけどね。色々ありますけども、死んだ方に対しては、この世的な法事とかね、あるじゃないですか?それは同じようにすればいいです。

 その内容の立派さとか質素さとか関係なしにね。必要だったらすればいいですけども。それよりは、普段自分がマイナスを掴まないということが最大の供養です。ありがとうございます。

質問:今の質問に関連することですけども、亡くなった方の写真のお話は、先生の写真についても、同じような解釈で。

河上さん:同じです。だから、先生は昔ね、写真撮られるのはもの凄い嫌われたし、先生の写真をお守りにする人もおってんけど、で、こういう形でお守りにして持ってますって言ったら、先生が「これ誰や」って仰った(笑)。

 それが全ての答えやねんけど、みんなわかれへんね。先生に頼ってるから、甘えてるから。 みんなが先生の働きをしなくちゃいけない。要するに、みんなが先生のお手伝いしなくちゃいけないのに、先生なんとかしてっていう人ばっかりやった。それではどうしようもないんだけどね。地球人類は滅びます、それでは。「神さまなんとかして」って言ってるうちは滅びます。

 みんなが神さまのお手伝いをしなくちゃいけない。みんなが松下先生として働かないと。だから、(僕はもう)病気直しはしない。先生と一緒の間はしたけど、1人になったらもうしないって宣言したのはね、僕が病気治したら病気治して欲しいって頼ってくるだけでしょ?

 そうじゃなくて、みんなが神さまの働きのお手伝いしたいってならなくちゃいけない。そうすればみんな自分の病気だって自分で治るし、先生として同じ働きが出来るんだから。なのに未だにね、河上は松下先生と同じくらいなんかどうか値踏みしてる間はあかん。値踏みしてるいうのは何か言うたら、頼ろうとしてるだけや。それでは永遠に救われない。永遠に悟れない。神さまのお手伝いしたいって願わないと。 

 でも、何がお手伝いかわからんから、「印可書」で残してくださっただけでね。「印可書」がいらない人は、もうひたすら「宇宙神ありがとうございます」に自分のプラスもマイナスも全てを投げ込むしかないです。

 前も説明しましたけど、自分の都合にとってプラスなこともマイナスですから。要するに自分の都合で見るプラスマイナスは全部マイナスなのね。神さまの都合から見たら、全てが今が一番、今の一瞬一瞬が一番良いようになってるんで。今の中には一瞬一瞬が入ってるわけ。過去じゃないのね。

 だから今が一番良いようになってると言うと、過去を掴んでね、勘違いする人もいますけども、一瞬一瞬新た。その一瞬一瞬新たは「宇宙神ありがとうございます」で説明すれば、自分の全てを一瞬一瞬投げ込まなくちゃいけない。あ、痛いなと思った時でも「宇宙神ありがとうございます」、しんどいなと思った時でも「宇宙神ありがとうございます」、邪魔くさいなと思った時も「宇宙神ありがとうございます」ってね。あいつ鬱陶しいな、嫌やなと思っても「宇宙神ありがとうございます」ってそこへ投げ込まなくちゃいけない 。

 大変なのね、それ。もうほんまに怒り心頭に走ってる時はもうそんな「宇宙神ありがとうございます」は飛んでしまうのね。でも「印可書」は飛んでしまってても、後で読むだけで効果あるという凄さだから「印可書」が良いよとは言うんですけども、何を選ばれても自由です。

 でも、まずは神さまのお手伝いをしたいってね、願ってください。それが大事です。河上が先生と同じ働きをするかしないか、そんなん関係ない。自分が先生の働きのお手伝いしたいって願ったら、先生と同じ働きが出来るようになるんだから。

 で、今回はそれぞれのみんなの個性のね、特色の部分で先生の働きをするという風に先生が定めていかれたから、「もう安心したわ、あとは任せたわ」って仰ったの。だから、みんなそれぞれ、自分の天性の持ってる得意な部分、興味のある部分で、神さま働きが出来るわけです。

 私、一部しかできないわじゃなくて、それぞれみんなが分担してするから、あっという間に出来るんよ。それは、なんでもそうでしょ?この世的な会社の組織でも、色んな人が色んな仕事を分担してバッてやるからいけるわけでしょ?全員が社長でもあかんし、全員が営業でもダメだし、全員がね、お掃除役でもダメだし、みんなが分担してするんじゃない。どの分担も、一つ一つの働きは、もう全て大事なことばっかりなの。この現世ではね、学歴とか成績の結果とかで判断するけど、神さまの働きというのはそういうものじゃない。命の吹き上がるもんだから、吹き上がり方が大きい小さいも関係ない。だから、一生七難八苦の連続でね、頑張るというのも違うんだけど、ひたすら働くのね、色んなことでね。

 だから若い人が夜疲れ果てて寝る状態じゃなくて、悠々と寝るようではあかんねんけどな。ほら、(僕たちは)今だにもうバタンキューやけどね。それくらいひたむきに動かなくちゃ。先生がそうだったから、先生を見習わないと。太ってる暇はないと(笑)。答えになった?

宮野さん:ちょっと最初の方に戻りますが、代々のお家とかで、お爺ちゃん、お婆ちゃん とかまだいらっしゃる中、お姑さんがいらっしゃる中で、誰かが亡くなったり、代々の亡くなられた方の写真を祭られてるでしょ。

河上さん:それはもう祭っといたらいいね。

宮野さん:それはもうあえて…

河上さん:みんなが好きにしてんねんから、

宮野さん:それはもう、しょうがない?

河上さん:相手の写真を飾りたいというね、自由意志を縛ることはできない。それだけや。ただ、まあ、極端に言ったら誰もいなくなってね、自分に全部任されてたら、しまったらいいけどね。飾りたいいう人がいてたら、飾ってあげたらいいねんって。そんなん関係あらへん。

 只、気持ちとしてはね、亡くなられた方は、その状態を維持してるんではないから、どんどん‥。だから例えば、簡単に言うと、小学生の状態で亡くなれたわけですよね。で、今はもう大学生、高校生、になっておられるわけや。でも、写真は小学生やね。あ、小学生のおじいちゃんって言うてるような感じ。そしたら、亡くなった方は俺はもうもっと凄いねんでっていう感じやんか。そういう意味で言ってます。

 だから、まあ、懐かしいなと思って写真見るのはいいけどね、こんな人だったと思って写真見ないようにっていうことです。もっと進化されてます。要するにみんな真(まこと)の神さまと一つになっていくから。一つになっていくという表現も違うんだけどね、元々真(まこと)の神さまだから、その意識に戻るだけなんですけど。無理にこの配役のね、自分の色んな個性と癖をつけてね、今の配役を演じてるだけやからね。死んでその配役外したら、勝手に本来の戻っていくの、真(まこと)の神さまに。それを、一大循環の相象(すがた)に戻るって先生が仰ってた。一大循環の相象(すがた)が真(まこと)の神さまの御働きそのものだから。

 只、一大循環って省略して言うとね、過去形にして、みんな勘違いしてね、あれなんですけど。一大循環の相象(すがた)というのは一瞬一瞬新たな一大循環の相象(すがた)です。もし過去形で 掴むんだったら無限循環の相象(すがた)ってなるんです。でも、無限循環じゃないの。一瞬一瞬新ただから一大循環。一大というのは一瞬一瞬新たという意味なんです。それすら分らんのでしょ、みんな(笑)。難儀なもんやと思うけど、色々と説明するタイミングがあるんで仕方ない。

 本当は神さまに全て投げ出してたら、一大循環っていうだけで一瞬一瞬新たって分かるんだけどね。自分という意識を掴んでる分だけわからなくなっていく。だから、ちょっとでもこれが自分だというのを持ってる意識はどんどん神さまに投げ込んでいかなくちゃいけない。 

 それを呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せるって説明したんだけど、誰もできないよね。ま、出来るとも思ってないけど、出来るくらいやったら、先生が「印可書」出されない。

 だから、法事ごと、とかは今の生活、風習にのっとってね、お葬式でもされたらいいんですよ。只、心の中ではね、一瞬一瞬新たに真(まこと)の神さまって見てあげないといけない。「こんなおっさんやった」とかね、「こんなおばんやった」って思ったらあかん(笑)。

 いや、みんなもそうや。この肉体を持ってる間でもね、1ヶ月前と今の自分と言ったら変わってるわけでしょ?一緒やん。死んだって一緒。どんどん変わっていくんやから。

 だから、例えば悪いことをする人というのはね、マイナスを一身に背負ってくださってるだけで、凄い働きな んですよ。ゴミ箱の役目をされるわけですね。普通は(そういう役目は)嫌なんだけどね、それして貰えるわけです。

 やっぱりお掃除したらゴミ集めてどっか貯めとく場所いるでしょ?燃やすまでに。その役割がこの世的に見たら悪に。あるいは狡い人、あるいは怠けてる人。中々やりたくてできない。ご苦労様やな、面白いなって思ってたらいいね。責めずにね。責めたら自分もその役割に入っていくね。

 この7月7日というのが凄い大変な境目で、夜中じゅう走り回って なんとかしてきました。で、とりあえず、これ乗り越えたからね、みんな「印可書」を自由意志で選ん奉読してください。そしたら大きく変えれると思います。

 まあその前に先生がね、本当に地球に凄い星がぶつかって、地軸が変わってね、もう大変動で大変な状態が来るのを、血の涙を流されて止めていってくださった。で、それから比べたら、今回の7月7日にやったことなんか知れてるんだけど。でも本当にね、皆さんのわからんとこで必死でやってますから、皆さんも必死で「印可書」読んでね(笑)。今日は2人ともへとへと。(笑)

令和5年7月河上さん勉強会−1後半(20230709−1後半)

質問:凄いマイナスを掴んで死んで下の方に…

河上さん:落ちていくと言うより自分で降りていくんやけどね、そのマイナスを掴むいうことはマイナスが好きやね。嫌だったらね、例えば、あの怖い映画、オカルト映画、ほんまに怖い人は見に行けへんやん。ああいう感じ。

質問:それを振り替えで、縁者がマイナスを消すとしてですね、例えばその人が、1億年、苦しんでもらわなければ、自分のマイナスは消えないと思ってる時は、それなりの、例えば、縁者がお祈りするにしても、しなければいけないというような話を先生がされていまして。ということは、例えばですね、

 今、全員を、真(まこと)の神さまの世界に、連れて行くというお話がありまして。その場合、そういう形でその思いを持ったままですね、今、下の方におられる方が、真(まこと)の世界に最後に連れていってもらった場合、自分が納得せずに、また降りていくという形になるんかなと思ったんですけど?

河上さん:その通りです。只、絶対に自由意志は縛れないの。ところがね、この肉体を持ってる特性として 「写し込めるの。」相手の心に立てるのよ、肉体というのは。だから、こっちが「印可書奉読」するでしょ?そしたら、死んだ方であろうが、生きてる方であろうが、相手の心の中に「印可書」を立てれるの。すると「印可書」を立てると何が起こるかというと、「自分が」というのが消えるね。例えば1億年分のマイナスを「自分が」持ってると思ってるわけでしょ?その「自分が」を消したら、そのマイナス自分にくっつけへんね。みんなね、「自分が」と言うて、自分にくっつけるんや。

 それだけやね。だから悟ったというのはね、人に言われなくても分かるね。なんで悟るとね「自分が」がなくなるか。「全部自分やから。」だから透き通るように、みんなの事も分かるし、もうそれだけやね。一々言われんでも悟ったというのは、分かるんよ。

 それで自分という意識の広がり方でね、まだまだって言うのが分かる訳。

 それが分かるとみんなが悟らないと本当の悟りで無いって分かるの。

 だから先生がみんなが悟らないと本当の悟りで無いって、よく僕は怒られて来たんだけど、それはそういう事なんですよ。それは肉体を持っている特性でこっちが真祈りをしたら、相手の心の中に響きが行くね。行くと昔、理科の実験でね、音叉2つ並べてね、こっちポーンと音叉鳴らすね、こっち叩いてないけど鳴るやろ、あの感じ。仏と仏が感応するっていうねんけど、そういう特性がある、真祈りには。

 だから自由意志で印可書を喜んで奉読してもらうと、誰それって思う必要ないね。勝手に自分の癖の人、自分の持っている癖と同じような癖を持っている人の所に響くね。だからみんなが印可書を奉読してくれないと困るわけ。

 先生が真祈りをしただけやったら先生の響きのとこしか響かんかったわけよ。それは先生の響きを一部持っているここに集まる人だけやったわけ。

 あんだけの力を持っている先生やからね、先生が真祈りしたら全人類に響いて一遍に終わるんや。なんで終わらないかって言ったら、その癖の部分でしか受け取れへん人がおるわけよ。それでそれぞれ「わし怠け者であかんねん」とね、「わし狡い事あってあかんねん」とかね、有ってええから印可書を読んでって言っているわけ。そしたらそれぞれの所に響き渡って一気に変わるんですね。それだけなんです。

 だからさっきの先祖供養の話でもね、まず真祈りだけっていうのはそこなんですね。だけどこの世的にはね、風習も合わせてして上げたら良いんですけども、ともかく、もうその自分がっていう、何で自分がって言うかと言うと、一瞬一瞬新たにみんな受け取れないのね。受け取れないと神さまどんどん良いの来るでしょう?良いの来た時に置いとこう(保管しておこう)と思うの、次無い(と思う)から。

 それで簡単に言うと美味しい料理が来るわけよ。で食べたら美味しいね。で、一瞬一瞬新たが分かっていたら、回転寿司のようにね、それ終わっても次来るの分かる訳よ。でも一瞬一瞬新たが分からん人は止まってんね、回転寿司が。だから今あるやつを貯めとかなあかんと思うの。それで貯めて腐りだすね。それを業っていうね。で、その業が溜まってくると、この前言ったように、その業が集まっている集団の方からも応援してくれるのね。

 それで自分では1しか掴んでへんのに、勝手に100になるね。それで余計こう悪循環が起こすのね。自分のものって思ったとたんに。

 だから先生は「全て神さまのお陰です。ありがとうございます」って言えと仰ったんだけれども、そのお陰という意味がね、中々分かれへんね、みんな。お陰っていうのは一瞬一瞬新たっていうことよ。だから何の心配もいらんね。一番良いようになっていくね。でも成らないと思うのが自分がという意識よ。そこでね、理屈でそう言われたところでや、理屈でそう言われてもそんなん言ったって金ない、明日どないしてご飯食べんねん?みたいな感じになっていくわけ。お家賃も払わなあかんのにどうするって、そこが自分がっていう意識の問題やね。

 でも真祈りしていたら、自然に体動くから、必要なだけ働いて必要なだけのお給料を取れるし、家賃も払えるってなっていくね。でも自分がって思っていると、しんどい、だるい、つらい、ってなっていくね。そしたら余計動けへんで悪循環が入るんや。もう只々それだけや。

 で、村人になる条件って先生仰ってね。すべてを神さまに投げ出すこと言ってね、村人になる条件のしょっぱなに出てるわけや。それを村人は実行できるかできへんかは別で、苦しまなあかんね。中々村人は厳しい。

 でも一般の人でも一緒や。自分という意識をどうして消すか。だけど印可書は今は自分という意識あっても消せるからね、便利やけどね。もうそれだけです。だから印可書を読んでお手伝いをしてください。そしたら自分の癖のある人に全部響き渡るから。それで一瞬で変わっていくね。

 それがその護摩がね、毎回の護摩がその完成した護摩が終わらずに、その護摩として働き続けている形に増えたんで、なったので、もう毎月毎月ね、護摩の数が増えていくわけよ。だから一気にもう本当にある時を境にして一気に変わるから。

 先生の表現で言うと、ほら、片栗粉?片栗粉を練っていくとね。温めてずっと色変わらへんわけやんか。だからなんぼしてもそんなもん変われへんわ、と思っているうちはあかんね。そうしたら途中で止めてまうね。神さまを信じ切って一番良いようになってるからって、やってたら突然パンって片栗粉(透明になって)完成するわけでしょう?突然ね。あの形(透明)になるからね。

 そんなん河上言うけど、戦争もしとるし、もう世の中騙し合いもしとるしって思っててもいいから、印可書奉読してて。そしたらそのもう護摩が自動的に働くどんどん増えていくから、本当にある時一瞬で変わります。そこまでは現実無視が出来るかどうかや。

 人間の方も現実無視せーいうても、できるんだったら誰も苦労せえへん、ね?だから現実を掴んでもええから印可書や。どの形も印可書に持って行ったらOKやからという印可書の楽さです。

 で、「宇宙神ありがとうございます」の場合は一切掴んだ現実を「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込んでください。ちょっとでも自分に文句が出たら掴んでしまった。文句出るっていうのは掴んだっていうことや。

 だからちょっとでも文句出たら「宇宙神ありがとうございます」ってやってください。でも中々な、あれは厳しい。一意専心祈り言葉っていうのは南無阿弥陀仏の時もそうだったんだけれども、妙法蓮華経の時もそうだったんだけれども、中々そこまで到達できる素直な人が少なくてね。色々あったんです。天理教の時は手踊りをつけてね、するようにしたりとか、色々と工夫したんよ。工夫したけど中々みんな上手く行かないのね。何故かって言うと形にとらわれるから。印可書は形にとらわれないような響きになっていますので大丈夫だと思っています。

質問:はい、ありがとうございます。今後その護摩が大きく働いて、人類の、人類の潜在意識に光が届いていくというお話だったと思うんですけども。

河上さん:響き渡る。

質問:響き渡る、響き渡っていく。

河上さん:うん。あの音叉がこうね、共鳴するように。共振し合っていきます。狡い人は狡い人の心として共振し合う。便利やろ?

質問:どんな気持ちがあって、どんな癖があっても。

河上さん:そうその癖が必要やね。先生には狡い心とかね怠ける心がないから、怠け者を変えれんかった。怠け者は怠け者同士を変えれるね。印可書奉読してくれたら。そこが手や。

質問:印可書奉読は癖の部分を変えれるところがある。癖の部分で共振・・・

河上さん:みんなの癖がいるから、みんなの力がいるの。だからみんなが悟らないと本当の悟りやない。

質問:と同時に自分の得意なところ、でも・・

河上さん:勿論そうや。

質問:両方?

河上さん:勿論。アハハ、当然や。

質問:そのまんまって言うことですね。

河上さん:そうそう。だからもう要らん事考えるっていうのはな、自分がっていうのが入ってんね。分かる?怠け者の自分をどうしよう?ずるい心の自分をどうしよう?色々あるけどね。要らん事考えるな、一々考えるな言うてるやろ。

 それは何が言うたら自分がどうこうと考えてしまう。考えるというのは自分がどうこうやね。考える必要ないねんて。神さまは全知全能やから、完璧な知恵が降りてくるだけやね。だから先生は要らん知識をつけるな、要らん勉強するなって仰った。自分が勉強してこの知識をつけたっていう分だけ神さまの知恵を受け取れなくなる。変な勉強すると自分がっていうのが、増えるわけよ。

 だから勉強する前に本当は印可書を読ましたら完璧やねんけどね。そこまで上手く響きだしたらあっという間に人類変わるんだけれども。印可書を読むと神さまの知恵を受け取れるから透き通るように何でも分かるようになってくる。そういう部分やね。

 だから小さい子で生まれついて字が上手い、絵が上手いとかね、歌が上手いとかあるやん?それはそういう部分で真祈りしていた人やね、過去世で。逆に言うとそういう人は大変で、その自分のできる部分をね、いかにもっと神さまの響きとして現すかという厳しさがあるんやけどね。なまじ能力のない姿で出てきた方がほんまは楽やね。責任がないからな、あんまり。気楽に行きます。

質問:そこで改めて護摩のことで聞きたいんですけれども100万枚、年間100万枚という事は護摩の成功には欠かせない。

河上さん:いやそれな、結局まず枚数を目標にあげた理由はね、
 =(→宮野さんが疲労困憊で一瞬意識を失って倒れた→「ちょっともう車で寝といで、疲れ果ててんねんから」宮野さん「大丈夫」河上さん「ほんまか?ホントの不眠不休やからな。どこまで喋ったっけ?」)=

 100万前の数というのも出しておかないとね、みんながひたむきになれへんから言ういるだけで、本当は神さまにひたむきに命を捧げる別の言い方で言うと、ひたむきにに神さまのお手伝いをしたいってみんなが思えたら、そんなもん100万枚あっという間に枚数増えるね。

 今は自分たちが100万枚を達成しなくちゃいけないという「自分たち」が残っているね。で、この自分たちが残っているからどうこうっていう説明をするとね、余計自分たちを掴んで消えへんから、もう要らん事は言わない。100万枚だけあげといて後はひたすら護摩で進んだら良いの。

 結局みんな要らん事考えるね。考えんでええね、神さま良いようにしているから。本当にそこやねんね。「自分が」が有るのが分かったら、理屈で分かったって消せる位やったら苦労せえへんね。とっくにみんな悟っている。

 だけど「自分が」が有ると分かっていても消せないね。まあ消せないから肉体を持つ、維持できるね。この辺が微妙なバランスやね。

 だから先生が肉体を維持するためにね、微妙に人間臭いところを微妙に残されたの。本当は先生にとったら、そんなん要らんね。でもそれなくしたら肉体維持できないで、ポンて行っちゃうから、みんなの願いを聞いてね、微妙に微妙に残されたんですよ。だから「先生は美人に優しいわ」とかね、みんな要らん陰口を叩いたけどね、そういうみんなが引っ掛かるようなところを自分の癖としてちょっと残して、肉体の維持に使いはっただけや。

 その先生の愛の心も分からんと陰口叩くバカが一杯おったから、(僕が)怒るとね、「お前怒ったらあかん。その怒るお前があかん」って怒られてな、色々あったけど懐かしい話や。「怒るって言うのは既に分け隔ててるやろ?「お前また悟りからバックしてる」って怒られてね。「せっかく全部自分ってなっていたのが、戻ってどうするんや」って怒られたとか色々あった。

 それ位ね、変に考えたらもう自分が出てくるね。だから悩んだときはまず印可書を読んだらいいね。そしたらあと進めるから、分らんなりに進んだら、ちゃんと解決、瞬間的に知恵が湧くね。そういうもんやから。

 だから右左って悩んだ時は、ふわーって行ったら、ふっと右行きたい、左行きたいってなるから。それも分からんと不安になった時はな、構へんからサイコロ振り。偶数出たら右、奇数出たら左でええね。本当はどっち行っても一緒や。そこが自分が無くなったら分かるね。自分があると右行った方がええんか、左行った方がええんかなってなる。

 何時も何時もその人にとって一番良いようにしかなってないから、右に行こうが、左行こうが一緒なわけよ、本当は。本当は左に行ったって、またすぐ右に行かされるようになるね、分かる?そこが「自分が」があったら、左行った方が良かったかな、右行った方が良かったなって、掴んで前に進まれへんようになる。

 だから営業の上手い人っていうのは、結果をつかめへんし、どうこうと思わんとシュッと行ける。行けるからお客さんも緊張せえへん。で、営業の下手な人はこの新製品を売らないとと思うね。売らないと、と思った途端お客さんの方が緊張する。「売りつけに来たな」っていって、それで全部進めへんね。それ要らん考え、考えているからや。何も考えんでいいね。「いやお久しぶりちょっと近く寄ったんで」、だけでええね。「この頃くそ暑くてかなんですね」でええねんけどな、その辺が考える人にはな、考えこんだらな、ノイローゼになるだけで解決はせえへん。考える前にまずやってしまうことや。

質問:はい。二つとも確認なんですけれども先週の護摩焚き勉強会でもそうなんですけれども、とにかくその真(まこと)の言葉を駆使する、そして自分を印可書に放り込むというか、そういうことを日常で実践をしてどうやったら自分が印可書を奉納するっていう事を律することができるかっていう事を。

河上さん:考えてるの?

質問:そうです。それで特に出るのが、やっぱり相手の姿を見たときに、それは本当に自分のずるい姿で。

河上さん:そうです。

質問:それが印可書奉納のチャンスだと思って・・

河上さん:そう。

質問:えーっと呼吸を時々止めながら必死で印可書を奉納しているんですけど・・

河上さん:それでいいよ。

質問:それは凄くこう喜んで奉納のチャンスだと思ってこのまま進んで行ってよろしいでしょうか?

河上さん:良い。あのね、相手の本心の方がね、「助けてくれ」て言ってるわけよ。それで縁のある人に響かしてくるの。それがこっちに取ると、形の上では癪に障る形とかね、腹立つ形とかで、響いてくるね。その人見て腹立つとか、嫌いやっていうのはな、向こうが助けを求めてんね、本当は。

 でもあんまりそう説明しても、また引っ掛かるからな、微妙な説明で止めるんやけど、本当はそういうことです。要するに縁(えにし)があるっていうこと。気になる、引っかかるっていうのは。縁(えにし)があるっていう事は、こっちが印可書を奉読したらぽーんて響くね。だからそれで良いです。

質問:放りこんでいく?

河上さん:そうそう。

質問者:ありがとううございます。

河上さん:それでね、とりあえず行動するっていうのが大事なんですよ。僕はエンジンの修理をよくするんですけれども、エンジンの修理ってね、本当にね、上手くやれたかなどうかな悩んでいたら、永遠に火入れられへんね。エンジン回されへんね。回して焼きついてもいいから、とりあえず回そうっていう勇気がいるの。考えこんだらな、やっぱりあそこのバルブ調整してないかなとかね、ちょっとこれ固めにしすぎたんちがうかな、リングをもうちょっと柔らかめにしとかんと、焼き付くん違うかなとか、悩みだしたら永遠に回されへん。ある程度のところまで行ったらもう信じてパンって回すのね。そしたら大概回るねんけどね。そういうもんで考えこんたら永遠に進めへんから。ある程度は神さんが良いようにしているってね、もし、エンジンやったら失敗して焼き付いたら又、やり直したらいいんや、っていうぐらい気楽さでいかな。

 だから相手が変わる、変われへんは気にする必要はないわけ。今の話はそういうこと。エンジン焼き付く焼きつけへんを気にしないと一緒でね。まずは印可書奉読して動いたらいいね。その結果相手が変わる変わらないは気にする必要はない。神さま良いようにするから。そこだけです。

 それがわかったら楽になる。どうしてもね、でも今の時代っていうのは結果をプラスに変えなあかんみたいに思っているやろ?でもこの現世(うつしよ)の結果のプラスもマイナスやいうのが分からないかん。神さまの本当のプラスだけに変えならん。この現世(うつしよ)のプラスはマイナスや。

 それは100人に100個のあんパンで説明するようにね、一人にとってはあんパンが三つも四つもある方がプラスや。現世のプラスやな。だけど100個しかあんパンないのに、一人が四つとったら4,5人の人はあんパン食べれなくなる。ていう感じでね、この世の自分にとって都合の良い事も悪いこともマイナスや。

 常に神さまにとってどうかだけや。神さまにとってどうかなんていうのはな、小さい自分では分かれへん。それはあの小さい子がね、お母ちゃん遊園地行きたいってやるわけやんか。お母ちゃんに連れて行ってもらわな絶対分かれへんわけや。でも子供の方が「僕勝手にあの道行ってみるわ」って行ったって迷うだけやろ?そういう感じで、肉体側の自分では良い、悪いなんて分かれへん。だから、ね、いつも神さまが一番良いようにしているからって喜んでいたら良いんや。

 だから先生は「褒め称えて、喜んで、感謝して、待っていてくれたらいい」、と仰った。「神さまの働きを褒め称えて、今を喜んで、感謝して待っていたらええ」っていうそういう意味なんです。だから肉体側の自分という意識でね、どうこう考えない。考えたらあかん。考えて分かる位やったら誰でも苦労せえへん。誰も喧嘩になれへん。考えて分からんから喧嘩になる。

 いやほんまやで、みんな笑ろてるけど。それは自分に都合にとって良いようにしかみんな考えへんでしょ?そしたら必ず利害がぶつかり合って喧嘩になるね。考えたらあかん。そんなん自分の利害考えたらな、もったいなくて誰も助けられへん。惜しみなく与え尽くすなんてできへん。

 それは一瞬一瞬新たに受け直さないから、惜しみなく与え尽くしたら持っているもの無くなって自分が損するやって思うわけや。本当は一瞬一瞬新たに受け直す、一瞬一瞬新たに受け直せれるから、永遠に減ることはないね。

 なのに財産がなどうこう言うてみんな騒ぐね。財産取られたとかな、お金取られたとかな、色々あるけど会社取られたとかな、騒ぐねんけど、そんなんどうでもええね。一瞬一瞬新たに新たに受け直していたら、どないでもなることばっかりや。

 でも今の自分の立場とか位置を掴んでね、自分にとって不都合なことをされたら腹立つって言って喧嘩しはる。自分という意識の立場なんてマイナスの立場っていうのに気づかなあかん。だからみんなお嫁さんに行ったと思ったらよい。お嫁さんって大変やで。相手の家に入ってな、自分の立場がない状態でずっと行かんならん。

 で、女の人の方が本当は悟りに近いはずやねんけど、でも自分の立場を守ろうと考え出した途端に苦しみになる。自分の立場なんていうのはこの世の表現の一つであって神さまの立場とは違うから。神さまの立場は何かって言ったら印可書を奉読してたらわかる。だからよくあるやん船が沈没をする時にね、牧師さんが「私は残るからあなたこの救命ボード乗りなさい」って言って助けるわけでしょう?あれは無限供給を知っているからや。一瞬一瞬新たに受け直すことを知っているから自分が船に残って沈むことを平気なわけやんか、ね?

 だけど自分だけって思ったら自分だけ助かりたいってなるやろ?そういうもんや。神さまの絶対の愛を信じ切れたら、自分の不都合なんて関係ない。神さまの絶対の愛を信じきれないから自分の不都合が気になって自分に不都合をするやつが腹立つね。あいつ怠けているとかな、あいつだけ同じ給料やのに、あいつだけ働かんと狡いことをしているっていうのは、自分の都合で言っているだけや、本当は。

 でも怠けている人もズルしている人もゴミ箱の役目をしているだけやから、そういう人がないと困るね。ゴミ箱ないと不便でしょ?一々、ちり取り入れたのを燃やしにいかなあかん。ゴミ箱があるからそこに貯めといて1ヶ月に一回とかね、まとめて処理できるわけや。そういう立場の人がいるん、必要なん。

 だから神さまこの現世と言えども必要な姿しか置かない。でも自分の都合でいうたら腹立つ奴ばっかりや。その自分の都合とか自分という意識をどう消すかだけやってんけども、それは自分という意識があったままで印可書を奉読したら勝手に吸い込まれて消えるから、楽ですよ、っていうことです。

 「宇宙神ありがとうございます」は、くどく言うけど、必死で自分の自由意志で投げ込まないと駄目です。ちょっとでも不平不満が出たら「宇宙神ありがとうございます」って必死で祈るしかない。大変やで結構、それは「天の造化主の尊→あめのぞうかぬしのみこと」でやって、僕が体験したことや。

「天の造化主の尊、産霊精霊護り給え、幸栄え(さきはえ)給え」ってやっても、ひっかかるわけよ。「なんぼやっても先生駄目です」って言ったら色々と怒られて、「神さまを信じきれんねんな。」先生、僕には厳しかったから。ズバッと言われる。「神さまを信じ切れていたら、この世的に何があったって、文句言うことはないやろ」っておっしゃった。それをもう一遍別の表現で今みなさんに説明をしているだけですけど。

 自分っていう立場を持つから苦しいだけや。そのキリスト教の牧師さんのように沈没する船に残る覚悟さえ出来たらええね。要するにこの世的にはどうなってもいいっていう覚悟ができたら苦労はないね。この世的に何とか自分を守ろうと思うから苦しい。

 だから村人には先生はね、「明日のための体力を残すな」って言ってよく激励された。でもみんな残したけどな。それぐらいな、自分っていう意識を消す、責めて言うてんのと違うで、自分という意識を消すっていうのは大変ということ。だから 印可書が出て楽になったよという事を説明しているだけです。

 村人と違うからね。別に村人と限らず、誰でもそうや。自分という意識を自分の立場を消しきれずに苦しむ。

質問:ありがとうございます。確認なんですけれども、やっぱりその肉体を極限まで使うっていうか、ずっと10倍働けって、先生にも言われて、河上さんにも言われたんですけれども。結局どうしていいか分かんなくて?

河上さん:あのね、この世的な形を掴むと10倍働かれへん。本当に神さまを呼びながらしているとね、結果としてみんなが助けてくれて10倍になる。そういう部分やね。自分一人がね、うわーってやって10倍出来るのとちがうね。3倍ぐらいまでは、自分一人がもうシャカリキにやってね、出来るんよ。でも疲れ果ててしまうね。ところが、自分の立場がひたすら神さま呼んでいたら、自分の立場なくなるやん。無くなると、みんなを助けるやん、勝手に、無意識に。そしたら、どんどん周りが助けてくれる。それで結果として10倍働く形になって、「あっ、これが10倍働けっていう意味やったな、」と分かる。

 自分がやった結果が10倍の分になるって掴んだらでけへん。それはやっぱり自分が掴んでいるから。そういう意味やってん、10倍働けは。先生はそれを体験させたいから、10倍働け、10倍働けっていうねんけど、みんな途中で無理やわ、言うて息が上がってね、脱落した訳よ。それぐらい昔は厳しかったわけよ。印可書ないから。今は印可書あるから、印可書に立ち戻っていたら、勝手に10倍の働きになる。大丈夫。
 
質問:あと若い時苦労をと言うのも、どうやって苦労したらいいのかな?

河上さん:苦労もね、結局惜しみなく働くいう事よ。村人の立場でない場合はね。村人はもうちょっと厳しいねんけど。外にいるものはね、惜しみなく働いたらいい。それは惜しみなく手助けしてあげたらいい。そんで無茶苦茶働いてね、自分が倒れると違う。そこは「自分が」惜しみなく働くってなったら、無茶苦茶働いて倒れる。でも今は印可書あるから、印可書奉読しながら、やれる事を精一杯するね。そしたらくたくたなってコテッと寝るだけでな、倒れへん。その限度が分かるんよ。この世的な形の上の限度が。

 みんなね、この世的な形の限度掴むから、無茶苦茶してしまうねんな。要するに山登り、いつも例えるけど、走って登ろうとするわけよ。走って登ろうとしたって絶対途中で息が切れて結局登れない。自分のペースで、その人の体力に合ったペースでね、あの人は早よ登る、あの人は3日で登る。私は4日で登るとかね、3時間で登る、私は4時間で登る、5時間で登る、でええ訳よ。その3時間、4時間、5時間の差を気にする必要ないね。自分にとってひたむきが大事。でもその「自分にとって」のひたむきの、「自分にとって」も本当は要らんわけや。でもそれは印可書奉読で消せるからね、楽やね。
 
質問:まだまだ余力がある気がして?

河上さん:ああ、それもね、まだ自分が余力があると思っているやん?その自分が、消えるまで印可書奉読に戻る方がいい。

質問:もうへんな何しようとか、・・考えないで?

河上さん:うん、そう。印可書奉読して貰ってるとね、無意識に色んな事しているわ。やり過ぎないし、やり足りへんし、ってなる。そこが大事やねんな。

 (みんな)要らん事、をやりすぎるね。例えば、だから先生がね、村人に良く言うててん。雑草をね、とことん刈ったらあかんと。雑草は土を柔らかくするためやからね、その背の高さ分だけ刈ったらいいねって言うて仰るねんけど、その加減がね、何処で分かるかって言うと、真祈りでしかわからん。

 それが昔は印可書がないから大変やった訳よ。で殆どの村人が出来なかったんだけど、出来なくて当たり前。出来ないって先生が完全に見極めて印可書を作って下さったから。だから印可書で行ってください。

質問者:はい、ありがとうございます




令和5年7月河上さん勉強会―2前半(20230709−2前半)

河上さん:あと、みんな運動不足になっているので。運動不足の人の顔が見えるんで、一部の人に入っているんだけど、やってみて股割り。

aさん:四股踏み?

河上さん:四股踏み。下手に歩き回るよりも、先ずこう四股を踏まんと出来るだけ足(先)を外側に向けて腰を下ろす。で、背筋まっすぐにして、これだけで1時間歩く効果あるからね。それでずーとしんどくなる迄やって、しんどくなったら戻すの繰り返しを先ずして、ある程度できたらこの状態で四股を踏む。ずーと(腰を)落として、落として、落として、で、体重を移していく。
 違う、足を引いたらあかんって、引かずに(広げた足の、上げる方の足を手前に引いて四股を踏もうとした)。引いたら楽になる。(笑)

aさん:引かずに?それはやった事はないですね。

河上さん:大変やろう?引いたらあかん。折角負荷かけているのに。そうそう。これをして下さい。そうしたら1時間位歩く効果がすぐ出ます。なら皮膚が先ず、つやつやになって来ますから。先ず若返ります。元気になるからね。だから寝る前とか、特に朝起きた直後にやると良いです。

宮野さん:ドンとしなくっていいから。

河上さん:ドンとしなくっていいから。それドンとすると楽してるの。そっと降ろすのが大変や。やってみ。そっと降ろすっての中々大変やで。ほら、負担来るやろう?

aさん:爪先の意識はどうですか・

河上さん:爪先で土を掴む感じで、それも足を外に向けてね。それもそーっとそーっと、ドンじゃあなくって。(笑)その方がきついやろう?そうするの。

 これをちょっと本当に顔を指すような有名な人ばっかりの勉強会で、今年に入ってズーと言ってる。そしたらテレビに取り上げられたりなって来てるんですけども、でも本物を今ちょっと言ってるの、これで行ってねって。

aさん:外に向けて?

河上さん:足を出来るだけ外向けて。

aさん:大地を掴む感じで、足の指で?

河上さん:最初はお尻の下に椅子を置いといてね、しんどくなったら椅子に座るような積りでやれば良い。

質問:回数に拘ることは無いと思うんですけど、大体?

河上さん:回数よりもここ(太もも)が痛くなってくるや?最初でも途中でも、長時間でも。痛くなってきたら止める感じ。負荷をかけるという意味ですけど。するとここの股関節の筋と筋力が、筋力が付くのと筋が緩むとで、全身のリンパ液の血流が良くなるの。血液よりもリンパ液の血流が良くなると毛細血管が動くの。すると心臓が楽になるから一気に変わる。

 で、真祈り体操よりもこれの方が、真祈り体操もうみんな出来んようになっているからね。何でも見通しや。(笑)だからこれで行って下さい。

aさん:これ足なんだけど、体の

河上さん:背中を真っ直ぐに。だから柱にもたれて、壁とかそんなんにもたれてやれば良い。そしたら嫌でも背中真っ直ぐやから、な?それで前屈みになると腰痛めるから、これだけ気を付けて下さい。

質問:丹田に意識を入れなくても良いんですか?

河上さん:丹田に入れざるを得ない形になるの。

aさん:知らず知らず?

河上さん:丹田の位置を言うと、又、ややこしいからもうこれにした。なら嫌でもそこが丹田です。これで健康で行って下さい。もう病気治しなんかしませんから、自分で治すように

 今、本当に二人、不眠不休で凄い大変なんですよ。でもこの四股で身体持たしてるだけで。今日は勉強会本当はお休みにしたかったけど、そうも言えんからね。ちょっと黒丸(パーキングエリア)で座り込んでしまって動ごけんかった。(笑)

質問:前回の勉強会で八の字の質問が有ったんですけど、チョットだけですけど、自由に関節が動くようになると珠が出るという話があったんですけど、

河上さん:だからあの八の字をね、今の股割りをしてやると効果あります。壁にもたれて。

質問:凄くしんどいですけど。

河上さん:そうそう。負荷かけてるんやから楽したらあかん。(笑)

質問:聞いて良いのかどうか良く分からないのですが、珠という事は如意宝珠の珠かなっと思うんですけど?

河上さん:そうです。

質問:こういう話しが出たという事は

河上さん:如意宝珠というのは潮干珠(しおひる)と潮涸瓊(しおみつ)の珠って言うんですけど、自由自在の珠です。だから不必要なものは消し去り、必要なものは現すという働きです。それを一瞬一瞬新たって言います。

質問:いきなり言うのも何だから、そういう運動、手首も柔らかくする運動もして貰ってるという話しで、心と体の条件が整った際には伝授する事もありえると?それを使って働くこともあり得るというように理解しても良いんですね?

河上さん:そうですよ。だから伝授はどの形でも通じるんですけど、一番みんなが受け取り易い状態に持って行こうとしている、楽にね。本当はこの部分はその人の癖があるから、その人に応じた修業って言う表現はおかしいんだけど、応じた事をさせるわけです。例えば肘を切り落とさせるとかね、極端な場合は。色々あるんですけど、もうそういう時代ではなくて、みんなが全員が悟る時代に入ったんでね、その時代の響きが。

 だからそれを尚且つみんながもっと楽に受け取り易いように言ってます。勿論、「宇宙神ありがとうございます」一本で行きたい方は行かれたら良いですから、誰も止めへんし。やっぱりそういう苦労をしたい人はするから、それは良いんですよ。ただ、せっかく楽に行けるのにと要らんお節介。(笑)今の股割りも要らんお節介ですけど。ただ、今年入ってってから、まあ去年から大分あっちこっちで言ってるんですけど、段々反響が増えて来たんでね、やっぱりこれが一番良いなと。真祈り体操よりこっちの方がみんなやり易いし、簡単に一瞬で出来るしね、という事で。これに絞って行こうかなと。それで真祈り体操の完成形を映さんまま来てるわけ。だってみんなせえへん(しない)もの。

宮野さん:で、血糖値も?

河上さん:ああ、血糖値もどんどん下がるよ。糖尿病って血糖値が上がる病気ってみんな勘違いしているけど、本当は違うのね。糖尿病の一番の症状は食事で受け取ったエネルギーを身体に移せない。変換効率が落ちるのよ。それが結果として血糖値が上がるっていう事になる。で、今の事をやるとリンパ液が動いて全身の毛細血管が動くから、エネルギー変換の効率が上がるのね。ならちょっとの事が邪魔くさいって思わなくなる、先ず。ちょっと部屋のあっちまで行って、あれ取って来てとかね、1回使った物必ずあっちに戻しに行くのが邪魔くさくって、その辺りに置いて失うんやけどな。それが必ず戻しにけるようになる。そういう事。

 で、変換効率が上がると、先生の様に殆ど食べられなくっても平気になって行くの。で、上下(うえした)で血糖値が上がらなくなる。大飯喰らいって何かと言ったら、変換効率が悪いの。糖尿病寸前のところにいらっしゃる方多いんですけど、変換効率悪いから何ぼでもお腹すいて食べるね。本当は最初食べたちょっとでエネルギーとして動くんだけど。それは何故かと言ったら、先ず神さまを信じ切れないから。神さまよりも食べ物を信じているの。

 ご飯食べないと体持たないわってみんな思うや?あれ食べ物を信じているんやで。だけどその信じている食べ物をな、みんな食べ物を食べているって思うやろう?違うねんて。

 何時も先生仰っていたんだけど、言霊を食べているの、って言ったら分かれへんやろう?だけど例えばお刺身って言うから美味しいの。魚の死体食べてるって言ったら食べられへん。(笑)いや、事実言ってるだけや、笑っているけど。トンカツって言うから美味しいね。豚の死体食べてんのやで、な?言霊で食べているの。物は何でも良いんよ。「神さまの命を頂いている」って言霊だけや。

 だから神さまに対する信が有ったら、先生の様に水だけで平気だった。でもそこまでの状態にしなくっても良いからね、水だけって言ったら水だけにしようなんて思わないでね。あれ先生だから出来たんだから。でもそいういもんなの。だから「お腹すいて困るわ」っていうのは神さまに対する信が本当は低いの。だけどあんまり言うとみんなの負担になるから、その辺はサラッと流しといて、印可書で行きましょう。(笑)牛の死体を食べないように。いや、違うか?(笑)

 だからご飯でもウジ虫ウジ虫って言ったらもう食べられへんで。形はウジ虫と一緒や。うどんやったらサナダ虫サナダ虫って言ったら食べられへん。形一緒やで、な?言霊で食べているの。

 お茶碗にご飯よそうって言ったら美味しいで、オマルによそうって言ったらもう食べられへん。味ないやろう?みんな言葉を食べているの。だから粗末な物とかね、贅沢な物とか違う訳よ。粗末なものという言葉を足してしまっただけや、贅沢なものという言葉を足しただけよ。

 全て神さまの命で美味しい物って喜んだら変わるわけよ。だからみんな言葉で食べているの。で、それが印可書なん。言葉で食べるって言っても難しいやろう?でも印可書奉読したらそれに変わる訳。それで印可書でって言ってる。そしたら牛の死体って思わんですむわけ。それ位全ては言葉で構成されているの。

 だからタケノコって美味しいやん?でも僕はあれ竹やって思うから美味しくないし食べられへん。タケノコやけど竹やないか、あれ?パンダやないね、とかね。(笑)そう思ってしまったら、もう外されへんからタケノコ食べれない。それでもタケノコって知らずに食べた時は美味しいと思うの。

 昔、蛇を炊いて天ぷらにして食べさせた時があるの。これ美味しいな美味しいなって何やって言うから、蛇やっていたんだけど、向こうにはエビって聞こえてた。(笑)中々このエビは独特な味で美味しいなって言うから、いや違う違う蛇やって言った途端にみんな食べられへん、な?言霊や。

 だから言葉や全てはな。だから全ては真(まこと)の神さまって先生が言うのは正しい。全ては真(まこと)の神さまが事実やね。それにマイナスの色んな色付けをして楽しんでいるだけよ。そこを忘れたらあかんな。マイナスがあるん違って、勝手に色付けして楽しんでいるの。

 だから小さい子の素直さが良いって先生仰るの。おまま事でね、土饅頭で「お饅頭どうぞ」ってやっているやろうって。あれが正しい姿やって、言霊だけで食べて美味しい美味しいってやってるやん。それ位素直なもんは得や。

 理屈言いは損や、考えるな。考えたらややこしくなる。腹が立ってくるしな。考えるって自分の立場で考えるやん。絶対腹立つの。自分と他人を引き比べて色んな虚栄心が湧いてな、腹立って来るの。あいつだけ良い目してるって。ほら、隣の芝生は青く見えるいうやつや。同じような事しかしてへんけど、他所の方が良い目しているみたいなもんや。

 昔ソビエトに抑留された人が居ってね、日本人とドイツ人が抑留されているわけ。で、ドイツ人はパン食べているの、日本人は穀類を食べているのね。ソビエトから支給された。お互いが相手が食べている物が凄い美味しい物に見えたっていうの。

 いっぺん交換して、こんな不味いもんかって思たって言うんやけど、そういうもんよ、言葉やみんなな。何でも言葉やから、言霊やから。

 その「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」という言霊が大事なの。その「真(まこと)の言葉」というとこが皆分からへん。だからそれを「印可書」に集約して下さったからね、印可書奉読に立ち戻っていたら悩まんで良い。昔やったら「一瞬一瞬新たなる無限の無限健康が一杯」って言わないとあかんかってん。「一瞬一瞬新たなる無限の無限の喜びが一杯」って言わないと真(まこと)のプラスの言葉にならんかったね。「一瞬一瞬新たなる無限の無限の」って言ったら、真(まこと)の神さまのところから来る響きやから。

 だけど単なる喜びとか幸せとかね、言ったら自分の都合にとっての喜びだからマイナスだったの。それ位真(まこと)のプラスの言葉を駆使するって難しかったけど、印可書はそれが「真(まこと)のプラスの言葉そのもの、真(まこと)の神さまそのもの」やから、印可書を奉読したら「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する、真(まこと)の本心の自分」に立ち戻れて自由自在になって行くの。もう只々、それだけです。

 だから自分の立場を考えてどうしようって思わんでいいからね、印可書に戻ったら良いの。

 (心配しなくても)ここ以外の色んな勉強会でやって行ってるからね、どんどん響いて行って世の中変えれるから大丈夫、安心してて。宗教やないからね、此処だけしかせえへんとかそんな事はしない。

 で、教祖ではないからね。教祖というのは悟っている人と、悟っていない人って分けているのが教祖。ちゃうからな、みんな悟っているんや。

 だから真(まこと)の神さまが御本尊の宗教やったら、(本当は)お金集めはしない。する必要もない。だからここは宗教ではない。

 これからは色んな宗教がね、うちが真(まこと)の神さまだからって言い出すから。言い出しても教祖と信者って分けてる間は、或いは信者の中でも偉い人、下の人って分けてるとこは偽物や。分けるっていうのは既に自分の立場があるから悟ってない。

 それぞれその役割の人、役割の人っていうだけやな。取り纏め役っていうだけであって、偉いとかじゃあないの。

 この地域の事は、このグループの事は自分を通してくれんとあかんってよくやるの、宗教団体はな。あれってヤクザと一緒や。俺の顔が立ってないって言うの。ヤクザと宗教団体と大して変わらへん。それはどっちも自分ががあるから。面子とかな、顔が立つとか立たへんとか言って、みんな言うの。

質問:護摩の時にも色んなプラスもマイナスも、仕事も全部印可書に投げ込む。印可書が吸い込んで消してくれるというので、

河上さん:「印可書」やと自分が狡いとか、自分にとってどうこうとか思いながらでも吸い込んでくれるから良いの。で、「宇宙神ありがとうございます」の場合は自分が思っているのを自分の自由意志で宇宙神にグッと持って行かないとあかんねんな。その差が有るから。印可書は悩みながらで良いから読むだけで効果が有るっていう事。どうぞ。

質問:最初の質問とはちょっと違うんですけど、自分で狡い気持ちかなんか分かんない無意識でも、宇宙神に投げ込む場合は?

河上さん:そうそう。結局ね、自分がどうこうと思っている事すら気付けへん人が多いんよ。だから宇宙神ありがとうございますに投げ込みかねるわけよ。自分でそう思っていないから、だから難しい。

質問:表に出て来てたら分かりますよね?

河上さん:そうそうそう。印可書はどうであっても吸い込んでくれるから良いねんけど、宇宙神ありがとうございますは自分が気付かないとあかんの。だけどその気付く自分も消していかないとあかんからな、堂々巡りするし、大変なわけや。

 だから昔は「ひたすら座れ」とかね、色んな表現使って、「神さまを恋慕え」とかね「ひたむきに」とか「淡々」とか色んな表現使ったわけやけど、今は「印可書」があるから誰でもが自由意志で選び取るだけで楽になったという事です。

 中々自分で狡いっていうのを気付けへんね。何故かって言ったら自分が狡いって思い出したらね、生きて行かれへん。自分は間違っていないって思いたい。で、自分が間違っていないって思わないと正気を保ちにくい。本当に自分狡いとか、自分悪いとか思ったら、本当に良い人は自殺するしな、色々あるや。だからどうしても自分は間違っていないって思いたい。思いたいから自分が間違っていないのを証明したいためにね、人を悪く言ってみたり、色々ある訳、人を陥れてみたりとかね。

質問:虚栄心など、自分が思っている虚栄心とは違う虚栄心みたいなのが

河上さん:そうそう。一杯あるの。それで考えるなって言うの。もう考えるという意識がある時は、自分では気付いていないけど自分がという意識がある訳。本当に神さまだけって思ったら考える必要ない。神さまから無限の知恵が湧くから、一瞬一瞬新たに。

 でもみんな何も分からへんし、不安やから考えようとするんだけどね、そこを印可書に戻せたら行けるからね。特にこのままふわっと行けると思っているけど、大変な状態に世の中成るかもしれんけど、なった時でも印可書奉読していたら、上手く選び取って突き進めるからね、印可書印可書って言ってるんだけどね。まだ微妙にどうなるか分からん。

質問:その際に印可書が吸い込んでくれるから、印可書を奉読し続けなーと思う。で、アッ忘れてしまった。でもそれも縛りになる?

河上さん:そうそう。印可書は時空を超えるから気楽に読み続けたら良い。だから全部読み切らんでも一部だけね、印可書の好きな言葉だけをひたすら唱えても良いの。

質問者:ありがとうございます

河上さん:印可書は全てがどれも真祈りになっているからね。

質問:少し話しが戻るんですが、先祖も自分という話しと、先程の音叉の話し、全てに響いて行くという話しであれば、真祈りをする事がいわゆる先祖供養にもなる?

河上さん:勿論、はい。

質問:一般的には先祖供養といえばお位牌を置いてお線香をたいてっていう事をすると思うんですが、そこは形の上という事の話しという事で特に拘らなくても良いという事ですか?

河上さん:拘らなくてもいいです。はい。お位牌とか置く必要が無いって言う理由は、下手にお位牌を置くと先祖と自分を切るでしょう?切ったら何ぼしたって響けへんね。この肉体人間で考えたら分る。何ぼ説明したって受け取らへん人は受け取れへん、切っているから。でもさっき言ったように肉体人間通しでも縁のある人には、説明しなくても響き渡る感じと一緒でね、先祖と自分を切ったらあかんの。本当は切っても切れない一つのもんやね。それだけやねんけどな。それ中々理屈で言ったってあれやから、あんまり細かく説明せんとふわっと行ってます。

 だから位牌を置いても大丈夫です。あくまで位牌というのは依り代(よりしろ)って言ってね、自分が先祖の意識に合わすための物。

質問:ありがとうございます もう1点ですけど、今年のお盆の情景と言えば良いんでしょうか?昨年お盆が早く始まったとお聞きしたと思うんですが、今年は?

河上さん:この7月7日から始まった。だからややこしい事件が起こると思う。地獄と一つになったから。だから憑りつかれるって表現もおかしんだけど、そういう響きに近い人はね、出来心でちょっとの事で人を刺し殺したりという事もあるし、色々あります。本人その気ないんやで、でもワッてやってしまう。だから海水浴はあんまり、まあ行っても良いけど気いつけてねってみたいな感じやね。水辺はちょっと怖いかもしれん。

質問:終わりっというのか、終息の時期というのはあるのでしょうか?

河上さん:お盆の?このまま重なったまま行く可能性が今年は高い。それ位7月7日が大変やった。

質問:ズーっとこのまま?

河上さん:うん。でも逆に言うとね、神さまの愛でこうして真祈りをより響き渡らせやすいようにされたんだと僕は思ってますけど。だからある意味真祈りが上手く行かなかったら、来年からほんと大変。今年はまだ準備期間だから、そういう感じ。

 ただ先生が血の涙を流してでも、地軸が傾く、凄い彗星が地球にぶつかりそうだったのを消していかれたんですよ。そこまでして頂いてるのにね、後のもんが手をこまねている訳に行かないのでね、本当の命がけでやっています。分かる者はそこまでするし、分からなくてもひたすら印可書を奉読してくれてたら良い。

 今の宗教はそんな事も分からんと、何かフワーとしてるけど、それはそれで働きが違うから良い悪いではないと思うですよ。

質問:2点確認です。1点目なんですけど、今肉体が有るので色んな虚栄心とかが湧いてくる。

河上さん:肉体があるから出るんです。

質問:はい。それでこれをしたいとか、あれをしたいとか、後そういう気持ちが湧いて来た時は印可書を奉納する、そして印可書を奉納したうえで叶わないのであれば、これが一番良いようにして頂いているっていうように

河上さん:そうです、そうです。

質問:印可書を奉納し続けるっていう事ですか?

河上さん:で、印可書を奉納しているとね、やりたい事がちょっとで済むようになって行く。だから海外旅行したいって思っていたのに、ちょっと近くに行くだけで気が済みとかね、そういう感じでどんどん変わります。

質問:喜びに変えていくっていう

河上さん:そうそう。喜びに変えていくだけど、喜びに変えていくって言うとついつい「自分が」が入って来るの。だから考えるなって言うて、考えんと印可書を奉読していたら勝手に喜びが湧きますっていう感じになって来ます。

質問:もう1点ですけど、真(まこと)の神さまのお手伝いがしたいという事で、私の場合自分にとって一番大事な物を神さまに捧げるっていう意味で、自分の時間を神さまに捧げるっていう

河上さん:それが一番良いです。

質問者:ありがとうございます 

質問:お金よりも自分の時間を捧げるのが一番大事です。それは毎日普段のね、ひたすら印可書を奉読すること。印可書を奉読する事は自分の時間を捧げるという事です。約3分半とか4分かかるね。

質問:いつもありがとうございます。私の友人がここに来る真祈り人から聞いたことあるんですけど、護摩木1枚で100人の人を救う事が出来ると

河上さん:そんな少ないことはない。

質問者:そうですよね。その友人は100人も救えるんだったら私書くはって言ってくれたんですけど、

河上さん:それはそれで良いです。

質問:でも100人ばかりではないって私は思っていて、例えば1年で100万枚として100人だったら1億人という事ですよね?そんなんとてもとても、とてもとても何億年かかるのっていうはずなんです。更に護摩焚きは多層構造、重層構造、入れ子構造、それでオートマチックになって来たってこないだ仰ってましたよね。だからその人の真祈りの深さとかそういうのにも関係するのかもしれないんですけど、大体どういうもんなんですか?

河上さん:その100人とかいう事ですか。

質問者:はい。

河上さん:それは護摩木1枚で、その人がどの意識に立つかだけなんです。だから小さい意識に立っていたら小さい数なの。じゃあ100人しか働かないのじゃあなくって、そういう小さい意識の人には小さい意識の人が要るからね、その100人で良いんですよ。でも実際は無限の働きなんです。真祈りというものはそういうものなの。でもそう言うと掴み所なくて、じゃあ別に1枚でも良いんか?とかね、変に理屈言う人が出るんで、取り敢えず目標は100万枚。その100万枚達成の為にって言うと、結構村負担なんですよ。その負担の中でどれだけ皆が自分の時間を捧げあってね、尽くし合ってやって行けるかっていう事なんですよ。

 だから村は新車を買う余裕なんて本当はない。ないんだけどみんな自由意志だからね、一々要らん事は言わないけど、そういうもの。どれもこれも無駄なことはないっていう事は分かって下さい。例えば村が新車買ったから無駄ではない。どれも必要で起こっている事ばっかりだから、それぞれがそれぞれを背負って行かれるだけで、それも自由意志でね、無意識に選んで行かれる事で色んな事件が起こるっていうだけで。それが良い悪いではないっていうのだけ。神さまが何時も一番良いようにしているのは間違いない。それは一瞬一瞬新に受け直せない人に取ってでもです。ただ、一瞬一瞬新たに受け直せたらより効率よく一瞬一瞬新たに良くなっている。受け取れない人はより効率悪く良いようになっている。要するに一瞬で病気が治る人と、1か月かかる人と、1年かかる人とみたいな感じです。病気で言うとね。

 でもどれもこれも必要なその人の体験だから、あんな体験してアホやって言うのはない。その体験をしないと分からない人は必ずするの。そういうものです。だから一度は食べたい激辛カレーや。食べてないうちは一度は味わってみたいって思うの。で、1回でも食べたらあんな辛いの敵わんはってなるんだけど、想像できないうちは体験しないと分からないでしょう?

 だから色んな不倫の体験から始まってね、この世的に人からぼろ糞に言われる事をみんなしてしまうの。それは一度は体験しないと分からない人は体験するの。

 で、過去世で何遍もそんな体験をした人はもういいわっていうだけなの。良い悪いじゃあなくって体験してない人は体験します。どれも無駄な働きは無いんだっていうのだけは分かって下さい。だからあんまりそんなん言うと責められるんだけど、ウクライナの戦争でも無駄な働きではない。あの小ささで収まっているの。本当は世界大戦になるところを、ウクライナの人には申し訳ないけど、あの小ささで収まっているだけなの。

 それが分かると本当に響き渡って一瞬に変わって行くんですけどね。みんな分からないうちはあんな無駄な事をしてとかね、あんなアホな事を言ってとか掴むじゃあないですか?掴んだ分だけ動き(→神さまの救いの働き)がゆっくりになって行くの。でも神さまの絶対の愛は完璧ですから、どんな形でも変わって行く、良いように。ただ、ゆっくりになるか早くなるかを人間側が選べるようになっている、それだけです。ありがとうございます
 



令和5年7月河上さん勉強会―2後半(20230709−2後半)

河上さん:だから、わざわざゆっくりの無駄な動きのようなね、体験をされて苦しまれるわけですけど、その苦しむ働きのおかげで、そこをゴミ箱代わりに使えるからね。で、そこへ一時的に集めておいて、まとめて消すという働きに変わっていくんです。でも、この世的な現実で見たら、凄い大変でっていう形に見えるわけ。「神さまがなんであんな悲惨なことを放っておかれるの?」って言うけど、そうじゃないのね。それは人間の都合で見てどうこう思っているだけで。神さまの大きな予定の中では全部予定通り。ただ、人間の自由意志を優先するから、神さまにとったらサッとしたいけど、人間がゆっくりしたいと言うから、ゆっくりしてるだけみたいな。それは人間が真(まこと)の神さまそのものだからね、人間の自由意志を最優先してくださる、この世においてはね。この世においての決定権は人間側に神さまは任されているわけ。で、人間側が自由意志で「真(まこと)の神さま、お願いします。」って投げ出してくれたら、一瞬で変えられる。その「真(まこと)の神さま、もう完璧だから、お任せします。」って投げ出すのが印可書奉読なんです。だから印可書、何も考えんで良いって言うのね。奉読するだけで神さまに投げ出したことになるから、一気に変わっていくの。

 本当は簡単な楽な事だったんだけども、自分にとって、どうこうという都合をつけたら難しいことになっていく。もうそれだけやねんけどな。

 その「自分にとって」というところを取るとな、気が狂うの。「自分は間違ってない」と思ってないとな、正常を保たれてへんの、肉体人間て。それ位弱いもんや。「私は間違ってない」って思うことによって、なんとか正気を保ってるんよ。「私は間違ってる」って言ったら、もう死ぬしかないで。

 だから、その自分という意識をどう取るかやねんけども、もうそれは印可書奉読で取れるよっていう楽な形に先生がしてくださった。簡単なことやってん。
 
 だから結果を掴むからよ。自分にとって、どうこうと思ってね。結果を掴むから悩むの、考え込むの。一番良いようにしかならへんのに。まあ別の言い方をしたら、なるようにしかならへん、どっち道な。なるようにしかならへんねんから。みんな好きにしたらええやん、みたいな感じやな。

 だから、「なるようにしかならへん」って言うのをね、物凄く投げやりに聞こえるやろう?そうじゃないの。神さまの響きが鳴り渡ってるという意味で、鳴るようにしか成らへん、本当はね。

 それ位みんなは言霊をね、まだ小さく捉えてるの。だからな、豚の遺体を食べるの、牛の死体を食べるんや(笑)。もう食べられへんやろう?ウジ虫の塊を食べるの。ウジ虫のおにぎりやって言ったらもう食べられへん。あれ、おいしいごはんって思うから食べられるんやで。おにぎり一つとってもな。

宮野さん:命を頂いている。どの形もやな。どの形も神さまの命を頂いている。

河上さん:そうそう。どの形も神さまの命を頂いている。本当はね。

 だから、うちの父親なんかは戦場で負傷してね、大して治療をしてもらえないから、傷口からウジが湧くわけ。で、ウジが湧いてくるわけでしょう?ウジが湧いてきて、もう自分はダメだって思った人は死んでいくの。うちの父親なんかは、そのウジを食べてた。いやだって食料もないねんもん。でもウジを食べられた人は生きて帰ってくるねんけどね。それも言霊で、「自分は生きて帰る」って希望を失わずに、やったからや。「ウジ虫を食べて元気になる」って言霊で無意識にやれたから食べられたんや。それ位言霊を頂く。神さまの命を頂く。どの形になっても。

 これから食糧危機になるからな。覚悟してや。食糧危機になった時ほどね、真祈りしてください。そしたら、本当にひとかけらのパンで、みんながお腹一杯になるから。もう祈り次第。お祈りできてなかったら「たくさん食べないとダメだわ」ってなって奪い合いになる。

 イエスが3333人に8個のパンをね、分け与えたというあの奇跡が出せるの。あの時も小さくちぎって出しただけやねんで。でも、みんなは大きなパンを食べたと思えた。真祈りって、そういう凄さや。言霊、神さまの命よ。みんなに渡せる。みんなが先生と一緒の働きが出来るから大丈夫。
 
 絶対にな、食べ物がないって現実を掴まないように。今ある、これだけの食べ物を、みんなに分けられるって信じ切って真祈りしたら、ちゃんと出来るからね。そのために真祈り人を作ってるんやから。また、そういう時は自分の癖とそっくりの人しか周りにおらへんから、ちゃんと説得出来る。

 だから先生は、「もう大丈夫や、後は任せたわ。」とおっしゃったわけですけど、誰それに任せたって仰ってないでしょう?みんなに任せて行かれた。それを忘れないようにね。だから、ここは、みんなが先生としての働きをする場所ですから。宗教ではない。教祖はいません。みんなが先生として働くの。今はちょっと自信がないから、出来るかなって思ってるけど、それは「自分が」という意識があるからよ。それも印可書を奉読してたら「自分が」が消えるから、出来るできない、自信があるないじゃなくて。自信があるとかないとかはね、不安とかいうのは、「自分が」が入ってるからよ。

 でも実際、食料がなくなってきたら、大変になってきたら、もう必死で印可書を読むから大丈夫。その時、僕らはいないけど大丈夫。食糧危機になる前に逃げるからな。違うか(笑)。

質問:今月の護摩の時に、河上さんが、太陽を受ける側じゃなくて、太陽の中に入って働きをするのが…

河上さん:そうそう、それが印可書を読むこと。

質問:それが印可書を読むと、そういう風になるってことですね。ありがとうございます。

河上さん:だからみんな、「助けて欲しい」や。「助けて欲しい」という時は太陽の光を受けようとしてるわけや。一部しか受け取られへん。でも神さまのお手伝いをしたいとなった時は中に入らないとお手伝いできへんやん。

 その方法が分からんかってん。でも印可書にして残してくださったから、もうみんなが松下先生の働き、真(まこと)の神さまの働きが出来るの、印可書奉読することによって。

 ただ、結果だけ掴むとね、自分はこんだけしかしてへんと思うから、それは違うからね。結果は関係ない。で、結果を掴むというのは「自分が」が入ってるからな。また立ち戻ってるわけや、助けられる側、助けて欲しい側に。「自分が」が入るということは助けて欲しい側に入ってるわけよ。

 神さまのお手伝いにする方に入ったら「自分が」が消えるの。そしたら結果を掴まない。だから、「そんなん言うけど、印可書を読んでるけど、私こんだけしかできてないわ」で良いからっていう部分が分かれば良いです。「私これだけしかできてないわ」って思ってて良いからね。それを思ってないと肉体を維持できへん。だから、「そんなん言うけど、私こんだけしか働けてないわ」で良いから印可書を読んでください。

質問:今の質問の補足なんですけど、神さまにすべてお任せっていうのは、太陽の中に入ってるわけでは?

質問:そうなの。「お任せ」というのがね、凄い微妙な表現で間違うのね。本当の「お任せ」というのは神さまのお手伝いなの。だけど、みんなは「お任せ」と言って頼り切るの。「お任せ」と言って自分は何もせえへんのよ。それは「頼ってる」であって「お任せ」ではないの。その「おまかせ」という四文字を印可書にしてくださった。もう、それだけです。

 で、本当の「お任せ」というと「全托」。全托って言うんですけど、全托と言うと、もっとみんな間違うのね。頼り切りになる。で、その「ぜんたく」の四文字も印可書に替えてくださった。要するに、「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」が「お任せの自分」や。「全托の自分」や。それは、一切を神さまに投げ込むというね、村人の最初の覚悟の自分や。でもな、分かれへんし、出來へんやん。だから印可書奉読で良いよって言ってる。
でまた、その頼る気持ちとかがないとな、肉体を維持できへんの。だから本当、考えないで印可書を読んで。考えると、またややこしくなる。肉体を維持しにくいしね。

 本当にね、「自分が」が消えるやん。そしたら何を食べても味がないの。先生が水しか飲まれなかったのが良く分かる。すると、だんだん肉体が維持できへんの。だから色んな意味でね、色んな執着のある自分の方が楽しかったなと思うよ。執着がなくなると、この世的には楽しくないから、この世に残ろうと思えへんねんな。でも肉体を残さなんから、要らんことを考えんとな、印可書を奉読してたら良いの。ただ、肉体を維持するために「自分が」という意識がチョロチョロ出るな、と思ってたら良い。それは肉体を維持するために必要で出てるだけや。でも印可書に投げ込んでたら良い。投げ込むというより吸い込んでくれるけど。

 心配せんでもな、125年の寿命があるうちは「自分が」が出るから。大丈夫。出て良いの。それを印可書という形でオートマチックにしてくださったんで、みんな楽になったの。

質問:先程の食糧危機のお話ですけども、以前から食糧危機の話で、缶詰を準備しときや、備蓄しときやという響きと、今日の食糧危機の響きがヒリヒリするんですけども。(笑)

河上さん:いや、それはもう時間切れやからしょうがないわ。だいぶ引き延ばしてるんやけどな。もうだんだん、だんだん。どっちにしても、備蓄してたものを、例えば缶詰一個をね、百人千人に分けられるから、真祈り人は。そういう意味での種として持っていてと言ってる。自分が食べるためと違う。

 イエスが8個のパンを3333人に分けたんだけど、その時本当に、ひとかけらずつ、みんなに配ったの。でもみんな、そのひとかけらで、お腹一杯になった。その奇跡がみんな現せられるから、必要に応じて、だから心配は要らん。ただ、なんか食べ物が要るからな、種としての。そのモノはちょっと持っておいてなって言って。

質問:ヒリヒリした感覚と最初の…

河上さん:もう切羽詰まってるから。もう、いつ起こってもおかしくない。その突然、海の中のお魚を食べられなくなる。突然お魚がいなくなる。突然、芽は吹くけども実がならなくなるっていうがもう目の前。

質問:最初のお話の中で、「護摩焚きで一気に変わるから心配いらないよ」という話…

河上さん:いやだから、それをどっちを選ぶかは全人類の総合的な自由意志の中で決まるわけよ。ただ人類がマイナスをね、今は人を責め合ってるわけでしょう?この日本でもどこでも、世界中でみんな、まず「子どもが言うことをきかへん勉強せえへん」から始まるわけや。子どもの躾で、みんな子どもを責めるの。だけど、その責めることが戦争の原因になってるのが分からへん。

 マイナスを選んでるのが分からへん。で、そないして作ったマイナスでなると、食糧危機が来て色々とあるわけや。暗黒の六日間が起こりかねへんわけや。そうだけど、「印可書」で「護摩」で「真(まこと)のプラス」を選んだら一瞬で真(まこと)のプラスに変わるって、その境目にいるの、ずっと。それを今まで先生がお一人で、この50年してくださったわけよ。

 最後は血の涙を流してしださったんや。今度はみんなでしましょうねって言ってる。だけど、食糧危機を来るのを待ったらあかんで。積極的に印可書で消していかないと。当然やで。

 ただ、「自分が」という意識が出ても良いけども、印可書、印可書に戻ってくれたら良い。「自分が」という意識が出た時こそ、印可書を読む時やと喜んだら良いの。「自分が」が出た途端に「あいつ怠けてる」から始まってな、色々と人をマイナスに思うの。

質問:その瀬戸際が、7月7日?

河上さん:うん、大変やってん。だけど、止めたけど、グッと近づいて、この状態に来たわけや。ここまでしかできへんかったの。近づいて重なったから、まあ言ったら、ずっとお盆が続くわけやな。要するに地獄と一つになったの。だから、みんなが印可書を奉読してないと、どんどん地獄の様相が現れる。マイナスの側の勢力が後押しするからね。

 だから、あなたのお家でも色んなことが起こりだすわけ。楽しいなと思ってたら良い。驚かしてるし(笑)冗談や冗談や(笑)

質問:もっと大きい声で。聞こえなかったです。ありがとうございます

宮野さん:いつでも一番良いようになってると思えば。掴まずサラサラやん。

河上さん:いじめてるし(笑)。

宮野さん:いや、違う違う違う違う。いかなる時も変わらへんよ。いつでも一番良いようになってるんだって。真祈りチャンスなんやなって思って、印可書読むチャンスなんやって思って。それだけや。あ、引っ掛かたらあかんよ、ニャンコに。ほんまやって、ほんまやって。

河上さん:みんな喜びすぎ(笑)人の不幸は密の味やんなあ?違うか(笑)。

宮野さん:そうそう、そんなんでね、ビビらせただけやから(笑)。

質問:ヒリヒリしてる状態で…

河上さん:いいやん、真祈りできて。

質問者:はい。

宮野さん:そうやな。

質問:確認なんですけれども、虚の世界、この世の世界っていうのは、出る現象としては、良いことが起こればマイナスが控えている、悪いことが起これば良いことが控えているっていうことを言われてたと思うんですけども?

河上さん:そうです。個人にとってね。

質問:はい。個人に肉体の。で、そういうことは引っ掛からず、とにかく印可書を淡々と奉納していくっていう…。

河上さん:そうそうそう。もうそれが一番。はい。

 本当にその、結果を掴むというのは、自分という意識があるんやけどね。で、結果を掴むというのは、その100人に100個のパンやないけどね、自分の都合だけで集めたらマイナスが増えて、結局また自分にマイナスが回ってくるみたいな。因果の糾える縄の如しが永遠に繰り返すだけやな。そんなん、もうええやんという感じで、神さまの方で、みんなお家へ帰っておいでって言ってるわけ。で、だんだんと、この世の劇場を閉めてるからね、この前ギュッとこう…。本当に際々。あと5分というところで、なんとかギュっとしたけど、近づいたのは間違いない。

質問:何が近づいたんですか?

河上さん:だから地獄と一つになったのは間違いない。

 だから色んな事件が起こるよ。通り魔殺人とかね。それは、そんなに人を殺したいなと思ってないのに、ついつい殺してしまって凄いことをやってしまう、みたいな感じやな。それは本人の後ろに、そういう地獄が近づいたから、マイナスの応援が出て起こるの。

 だから、ちょっと出来心で万引きしてしまって、何か言われた途端にウヮッて殴ったとかね、という感じで。今までとは、ちょっと様相が変わってくるの。でも護摩次第よ。

質問:その、仰っている、地獄の影響を受けやすいというのは、やっぱり自他を分けたり、人を陥れようとか、ズルいとか、そういった…

河上さん:うん、結局ね、一番の問題は「私は間違ってない」ってみんな思うんよ。それが隠れた虚栄心なの。で、「私は間違ってない」って思った途端に、でも、そう思わないとな、正気が保たれへんやん。だから「私は間違ってない」から入るわけよ、みんな。そしたら、そこから色んなマイナスを思い出すの。もう、それの繰り返し。だから、考えるなって言うの。考えたら「私は間違ってない」を基準にするわけよ。「私は悪いことしてへん」って言うの。でも、何もしないことはマイナスを積んでるって、先生は本当は言ってるんよ。録音でもね。それは「私は間違ってない」と思うことが、すでに間違っているマイナスやっていう意味やってんけどね。

 「だから私は何も悪いことしてません」ってみんな善人ボケするんだけど、それはマイナスを積んでることだよって先生は言うの。真祈り以外はマイナスを積むことやって。その真祈りが難しいから印可書にしてくださったっていうだけで。だからもう、何も考えんと印可書奉読していてって言って、一番簡単に仕分けしてある。もちろん理屈で細かく説明したら良いんだけど、そんなしてる暇もだんだんなくなってきたよね。

 だからもう、自分は間違ってないで良いから、自分は正しいで良いから、印可書奉読しててや。そしたら自動的に吸い込んで、その自分という意識を消すから、という感じやな。で、「自分は間違ってない」って思ってて良いんやで。思わないと正気を保たれへんからな。自殺してしまうから。「こんな悪い私」って思ったら。本当は「こんな悪い私」やねんで。本当はな。でも、そう思って、みんな死ぬから、過去世のことを全部消して意識を消して棚上げして、真祈り出来るように神さまがおいてくださってるの。
 
 本当はみんなの過去世を全部出したらな、「もう、こんな悪い私はいらん。」って死んでしまうの。だから、「私は間違ってない」で良いから、印可書をひたすら考えないで奉読して。考え出すと腹立ってくるからな。「あいつだけ、なんでズルしとんねん」って言って。

質問:それは、神さまを信じている人も信じてない人もですか。

河上さん:いや、神さまを信じてたらな、「私は間違ってない」とか要らんことを思わない。何も考えなくなる。神さまを信じてたらな。信じ切れないから色んなことを考える。

 で、もう信じ切れないのは百も承知やから、もう要らんことを考えんと印可書を奉読しててね。腹立った時でも嬉しい時でも印可書奉読してねって言ってるだけ。宝くじが当たっても印可書を奉読してね、や。

質問:あの、確認になるんですけど、もう昨日ちょっと個人的な話でやらかしてしまって、大遅刻で、もうたくさんの方に大迷惑をかけて、もう怒って帰ってしまった方もいらっしゃって、うわあ…って思ってても、私が悪かったっていう時でも、印可書を奉読して…

河上さん:そうそう。もう奉読していかないと気が持たない。自分を責めるのも人を責めるのも良くないの。

質問:ベクトルが違うけども同じことで…

河上さん:結局、自分にとってものすごく不都合になったわけやけど、色んな人に迷惑をかけてね、今の話やったら。だけど、必ず必要で起こったことなの。それだけは間違いないの。過去世からの全部を繋ぐとね、必要で起こるの。神さまが一番小さい形にして消してくださったことなの。でも、より小さく消すために印可書奉読を言ってるだけで。印可書奉読してない人でも、色んな運命ってあるでしょう?それは必要で起こることばっかりなの。例えば過去世で人を騙して人殺しをした人はね、騙されて殺されるの。でも、それを印可書奉読やったら、騙されてエラい目に遭ったぐらいで済むとかね、という感じに変わるだけで。この世的に起こることは全部必要で起こってるから、悩んでもしょうがないねんな。なるようになる、響き渡るように響き渡るだけです。ただ、よりプラスの響きを出したいから印可書奉読だけです。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:だから、うわあ、私、こういう方向に選んで進んでしまったわって思ってね、大変な立場に立たされてしまってもね、必要で起こったことだから、淡々と印可書奉読していったら良いの。もうそれだけよ。どの形に追い込まれようと、必要であるだけやし、なかなか面白い状況になってきたな、みたいな感じで楽しんでいたら良いの。

 より難しいゲームのパターンに入ったな、みたいな感じやな。結果さえ掴まなかったら、サラサラといけるから。もとより後ろ指を指されるのは覚悟の上よ。人にボロクソに言われるのは当たり前。誰でも結局はボロクソに言われる。

 政治家が見たらそうやんか。後から見たら、あの政治家良かったって言うけど、その時はもう、みんなボロクソに言われてはるやん、首相でもな、かわいそうに。どんな時もボロクソに言われる。ボロクソに言われてなんぼや。自分という意識がなければ、ボロクソに言われても先生のように平気やって。

 「なんで私が!」っていうことに、みんな追い込まれるけどな、面白い状況になったなと思って楽しんだら良い。逃げられないものは逃げられないねんて。受けなあかんもんは受けなあかんの。イエスの十字架のように。イエスはなんぼでも十字架から逃げられてんで。だって奇跡力最大の力を持ってて、いつでも逃げられたんやけど逃げへん。必要で起こってることやからって。その十字架に比べてたら大したことないって。大丈夫、大丈夫!

 ヨハネ先生も簡単に逃げられたのにな、簡単に捕まって、のこぎりで首を切られる。それに比べたら何のことがあるか。

 だから、この現世(うつしよ)といえども地獄といえどもね、全部必要で起こってることや、というのが分からんとあかん。無駄なこと不必要なことは一切ないです。

 ただ、自分の立場から見たら、無駄、不必要、腹立つことになるの。たったそれだけや。神さまの立場に立ったら、すべて必要って分かる。その神さまの立場に立つ唯一の方法が、簡単にね、簡単に立つ唯一の方法が、印可書奉読することやということです。だからどんなに腹立ってても印可書奉読してたら収まるよ、大丈夫。どんなに辛くて、しまったって思ってもね、印可書奉読してたら収まる。結果さえ気にしなければ大丈夫。もとよりボロクソに言われるのは覚悟の上よ。

 (最近は)もうちょっと眠らせて欲しいって、ついつい思うんだけど印可書に戻っています。

 (みんな)綺麗になったし大丈夫やね。そしたらお祈りをして終わります。ありがとうございます


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7月光の交流会 by kawakami [Mail] 2023年07月05日(水) 18時20分
PC

令和5年7月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年7月の光の交流会で聴いていただいた先生のお話(質疑応答)です。

質問
 毎回考えてたんですけど、言葉が全てって言いますよね、プラスの言葉、マイナスの言葉って、その言葉の背後にあるのは、心が言葉を発する。言葉の背後には心がある。その心がそのマイナスの言葉を戻すために○○。

先生
 ううん、まず言葉よね。ただ、虚の世界は選んで使う言葉を積み重ねて信念、心に変えるのよね。

質問者
 言葉が心を作っている?

先生
 だから、信念の信(しん)ってね、人の言葉で書くよね。人の言葉が信(しん)よね。だから、選んで使った言葉は、必ず積み重なったら信念に、心に変わる。それが形に現れて消えるようになってるね。虚の世界は全部そうよね。でも、真実の世界は、言葉通り受け取る世界よね。言葉で作って、感じて消える世界じゃないのね。

 真実の世界は循環の世界で、厳然と本物があるのよね。それを言葉通り感じ取るのが真実の世界よね。だから、真(まこと)のプラスの言葉でないと感じ取れない世界よね。虚の世界の言葉では、波が合わない。全然違うものだから受け取れない。

 でも、虚の世界の方は言葉通りに心ができて、形に現れて消えていくね。言葉通りに現れては消えるだけの世界よね。だから、無から生まれて、無に戻る世界よね。プラスもマイナスもどちらもそうよね。

 だから、本当にあるのは、真(まこと)の神さまの一大循環の愛の相象(すがた)だけよ。それを言葉にしたとしたら、それが真(まこと)の言葉っていうだけでね、言霊っていうてね。それも真(まこと)の神さまの一部としてね。真(まこと)の言葉が、言霊があるっていうのね。

 言葉と本物とどう違うかってね。これも、分けられないね、真実の世界は全部一つよ。神さまそのものが言霊でもあるし、真(まこと)の言葉でもあるね。でも、言葉か言霊かって、その程度かって言うと、また、違うのね。真(まこと)の神さまは、もっと凄いから、ただ、切り分けはできない、全てが一つになってるからね。

質問
 絶対感謝ってよく出てきますね。感謝に絶対ってつくんですけども、例えば、自分の日常におきまして、なんか、不都合なことが起こった時には、今までの自分ですと、ムキムキ腹を立てたりとか、落ち込んだりとかってなったんですけど、そういう時にも、よく先生の本に書いてありますけども、全て神さまが、与えてくださっていて、最大限、その状態を本人にとしても護りに、護り抜いて、ベストのことですよってことで、それはもう、悲しむべきではなくて、そういう最中でも感謝して、○○てくるという意味か?

 または、何億分の一秒っていう速さで素晴らしいものを与えてくれている神さまは間違いないので、それに対して、どんな時よりも、絶対的に感謝をされるという、絶対感謝すること。神さまの愛を信じてどんな時にも感謝をしとおすっていうことが絶対感謝?よくそのへんがわからなくて、自分なりに、なんか、こんなことかなと思っていたんですけど・・・。絶対感謝って?

先生
 絶対ということは、もう、対立を絶するね。対立を超えないダメね。神さまと自分ってね、こう、対立してるよね。神さまと自分が一つにならないとダメね。救う側と救われる側が対立したら、これ、絶対て言えないね。だから、真(まこと)の神さまは真(まこと)の自分ってならないとダメ。

質問者
 凄い、凄いですよね。

先生
 凄いよ。感謝って、同じ感謝するんでも、真(まこと)の神さまが、真(まこと)の感謝をするのよ。それはもう、一瞬一瞬の一大循環の相象(すがた)を本当の意味で、最高に感じ取る心よ。自分が自分のすがたを最高に感じ取るすがたが、真(まこと)の感謝よね。

 だから、絶対っていうのは、一切の対立を消し切って、本当に真(まこと)の神さまと一つになった働きがそれなのよね。

質問者
 簡単にわかるものではないですよね。

先生
 そうね、だから、真(まこと)の神さまだけっていうふうにならないとわからないよね。だから、自分っていうね、我(が)がちょっと残ってたら対立するから、その時に絶対がわからない。だから、自分が消えていって、真(まこと)の神さまだけってね、100%真(まこと)の神さまだけって受け直しができてくるように練習するのよね。

質問者
 わかりました。

先生
 真(まこと)の「ありがとうございます」が、一切の我(が)を消してくださる言葉なのよ。本当の神秘不可思議な霊妙不可思議な言霊の言葉よね。ただひたすら「ありがとうございます」を唱え続けたら一切の我(が)が消えていく。

 疑わんとね。ただ、疑わんと、無心に唱え続けるのがいいのね。力みも何もいらない、無心に唱え続けるだけで、一切の我(が)がどんどん消されていく。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分っていうふうに置き変わってくる。

 だから自分って消えないとね。真(まこと)の神さまだけっていうふうに徹底してね。真(まこと)の神さまだけを感じ取るようになったらいいのよね。

 だから元からそうなのよ、真(まこと)の神さまが本当の自分よ。本物の自分が真(まこと)の神さまよね。過去を掴んでね、我(が)のあるのが偽物の自分よ。

 ただ、真(まこと)の神さまの凄さは、言葉を越えて想像絶する言葉よね。そんな素晴
らしい神さまと出会わないと、呼ばない方が馬鹿よ。神さま呼ばれるのを待ってるのに。

質問
 呼んでるつもりなんだよって?

先生
 そういう素晴らしい、そういう凄い神さまを呼ぶの。

質問者
 小さい神さまを呼んでるからってことか。

先生
 言葉だけで呼んだって、神さまを小さく落として呼んでるんじゃない。神さまの凄さがわからんと呼んだって、横向いて、横向いて呼んでるような感じよ、本気で呼んでないのよ、やっぱり。うわの空。
 神さまって呼ぶんよ、鼻紙、鼻紙って、カミがついてるけど。

質問者
 髪の毛、髪の毛って、もう1つ、他にもなんかカミがある?そういう話じゃないんだって。

先生
 でもそうや、みんな呼び方が神さまを落として呼んでるから。

質問者
 だから本物の神さま出てこないんだ。

先生
 うん。

質問者
 本物の神さまを呼んでないって、そういうことか。頭の中に、これだけ言葉があっても言葉だけだからダメなんだ。

先生
 うん。だから、本当の神さまを表す言葉じゃないのよ、小さいのよ。だから、本当の神さまって、呼んでるつもりでも、鼻紙、鼻紙って言ってるぐらいの呼び方なの。それも鼻かんで汚いやつ。鼻かんでもキレイな紙だったらまだいいんだけど、汚れたら響かんよ。

質問
 先生、そしたらさ、一杯、一杯言葉を一杯入ってる、入れ子構造も重層構造も、その無限の無限のなんとかだったり、いっぱいあるじゃないですか、それ真(まこと)の神さま凄いね、凄いねって言ってても・・・。

先生
 言い続けてまだ、まだ、心の底で神さまは、なんでこんな不幸な世界を作ったんやってうそぶいてる。なんで戦争や病気や、不幸を作ってるんやって文句言ってる。そういうことを持ってて言うてたら、やっぱり汚して呼んでるじゃない。神さまを小さく落として呼んでる。

 やっぱり、この世を神さまが作ったっていうふうに言うてるからよ。この世をこの宇宙を誰が作ったかって、神さまが作ったって思ってるじゃない。

質問者
 え。そんな記憶無いのに。

先生
 無いのにと違う。一杯そういうのを一杯くっつけて言うてるから。

質問者
 そんなの過去の言葉だよ、それ。

先生
 それ、汚して言ってるんじゃない。小さく落として、やっぱり言ってる。だから、最高の褒め言葉をいっぱい、新たに新たに使い続けて、やっと、やっと、神さまを呼ぼうしてるってなる。(→印可書奉読がこれになります。河上注)

 本当の神さまは、本当のプラスだけだったら、絶対この世のマイナス相手にしない。この世にマイナスがあるって、ちょっとでも掴んだら、まだ神さまがマイナス作ったって言ってるよ。自分を不幸にしてるって言うて、神さまのせいやって言ってる。

 神さまが絶対者って言いながら、自分の不幸は神さまのせいやって言ってるのと同じ。神さまは本当のプラスだけってマイナスは私のしかたが悪いだけですって言ってない。
やっぱり神さまのせいにしたら、神さまを悪者にしてる。神さまを悪く呼んでることになる。このうそつき、馬鹿野郎って言うて、「ありがとうございます」言いながらよ。うそつき、馬鹿野郎言うてるの。

 真(まこと)の神さまだけ、真(まこと)のプラスだけ、一大循環の相象(すがた)だけって言い続けても、まだ中身がまだまだ。本当に自分が、それを感じ取るまでいかないと汚れをマイナスをくっつけて呼んでる。

 だから、真(まこと)の神さまとその、ちらっとでも出会うようになった時に、やっと真(まこと)の神さまを呼び始めたなってなる。それまではまだ、本気で呼んでないことになるの。早く呼んでほしいって。

質問者
 そういうことだったのか。

先生
 そうでしょう、真(まこと)の神さまから見たら、そんなに愛深い自分はいないと思ってるのに。そらそうじゃない、一番愛深い自分って思ってるのに。愛のまったくない神さまって言われてるのと同じ。冷たい神さまって、冷酷な神さまって、残酷な神さま。この馬鹿野郎、くそったれって言ってるじゃない。

 本当にそうじゃない、神さまから見たらそう聞こえるのよ。人にマイナスの言葉を一杯聞こえてくるような感じよ。神さまって呼んでくれてるのと違うの。クソったれって言われてる。そういうの聞こえるよ。そう、くっつけたら聞こえてくるじゃない。

質問
 そういうの、過去の残像ということで免除される?

先生
 綺麗にして言わなあかんのよ。

質問者
 そっか、綺麗になんなきゃダメなんだ。

先生
 言葉を綺麗にしないとダメ。無限に無限に優しい、無限に無限に愛深いって、最高の褒め言葉をいっぱい並び立てて、神さまを褒め讃えて、やっとまともに呼ぶようになる。

 ちょっとぐらいプラスの言葉を使ったってな、疑って使うじゃない、まだ。本気で唱えたんと違うよな。そうかなぁって疑って、ちょっと使ってみようかなっていうぐらいの使い方、本当は違うけど。

質問者
 厳しいって言ってんのもそうでしょう。本当は、愛深いのにって言い続けてないと愛深い、本当の神さまになんない。厳しい神さまって思っちゃってる。

先生
 厳しいなんて言ってるようだったら、もう神さまを悪者に見てる。無限に無限に優しくて、愛深い厳しさって言わなあかん。厳しいいう言葉が、神さまの世界の厳しいっていう言葉は、一番優しい言葉じゃない。虚の世界の言葉だから、厳しい言うとマイナスに見えるんだけど、神さまの使う言葉はね、全部大きいプラスなんだけど、だから、虚の世界の言葉を、厳しい言葉を使うからじゃない。悪者になるのよ神さまは。

質問者
 それが残ってるからでしょう。虚の神さまが要は残ってるってことなのよね。

先生
 それも、借金いっぱいあって、借金を早く減らしたいのを一生懸命、借金減らししてくれるのが、厳しいか言ったら、本当は違うんだけど。本心側に立った時は、正しく理解できるんじゃない。早く汚れを借金を取ってくれたって思えるのよ。でも、思いの側に立ったら反対よね。苦しいってなる。

 だから、その神さまの側に立ってあげないと、神さまの心は、愛はわからない。だから、いつも神さまの側に立って、神さまのお手伝いに生きて初めてわかる。親子の関係でもね、子は親の心わからんって言うね。でも、自分が親になった時に初めて親の心をちょっと理解できる、同じよ。だから、神さまの心をわかろうとしても、人間としての自分ではわからない。

 神さまのことなんて、無限分の一わからんと思うね。でも、神さまの側に立って、みんなを救う側に立って、本心の側に立ったら、神さまの心がよくわかってくる。本当の愛そのものって思うね。

質問
 神さまって忍耐かなって思っちゃったことがあったけど、忍耐ではないの?神さまにとっては忍耐じゃない?

先生
 そんなん小さいよ。神さまの愛は大きいプラスを与え続けてるじゃない。マイナスを消したり、マイナスをちょっとプラスに変えたりするのに、時間かけるのが忍耐なんて言ってても、そんなん本当の愛と比べたら比較にならんじゃない。

 本当の愛を与え続ける方が、神さまにとったら、メインメインよ、枝葉じゃないよ。受けてくれないからって、そんなんどうのこうの違う、与えることの方に忙しい。受けてくれるかどうかを考えて与えてるのと違う。受けてくれても受けてくれんでも、最高のものを与え続けてる。早く受け取ってくれたらいいとは思うかもしれんけど、そんなんも取るに足らない。与え続けることの方が何万倍、何億倍、大きい働きになってるからよ。

 与え続けるいうことは物凄いことよ。ストップかけてないの全然。だから、愛の深さが何億倍以上じゃない。相手が受けてくれるかどうかってね、時間かけて待ってて、受けてくれるの待っててって言うのだったら小さい。

 受けてくれなくても与え続ける。それも最高のものを新たに大きいものをって。愛は忍耐なりっていうのは思いの側の言葉。神さまは忍耐なんてそんなんいらない。愛だけでいい。純粋な愛だけでいい、余計なものつかない。新たな新たな一大循環の相象(すがた)の交差よ。二度と同じすがたをとらないのが。

 新たに新たに最高のものを与え続けるっていうことの凄さが、わかるかどうかよ。同じものを与え続けるのでも大変なんよ。そうでしょう。同じものを最高のものを与えるんでも大変じゃない。それをもっと素晴らしいものって、そうでしょう。二度と同じことを繰り返さないとね、新たに新たにもっと素晴らしいものを与え続けるんでしょう。その凄さを、そんなん言葉で表現できない。

 だから、与える側に、神さまの側に立たないと、理解も何もできないから神さまの愛の無限分の一もわからない。まずは、「ありがとうございます」を与え続ける、拝み続ける。神さまは拝み続けてくれてる。与え続けてくれてる。神さまの真似をする。

 拝むっていう字、漢字、手偏に手二つなんよ、手偏と手偏で、両手の手が一つになってるんでしょう。バラバラのを全部一体化してるっていう意味よ。本当の全て完璧な一つっていう意味よ。拝むって。凄いことよ。

 「ありがとうございます」唱えることを拝むことが、本当の一大循環の相象(すがた)を取っているっていう意味。絶対バラバラには見えない。本当の完璧な一つ。これを拝むっていう。「ありがとうございます」って唱えることはそうよ。だから、拝む気持ちになったら一大循環の相象(すがた)をとってる自分じゃない。そのことに気付く。

 「ありがとうございます」を与え続けることで、与える側に立って(神さまのお手伝いの側に立って)気づくのよ。元から神さまと一体っていうのに気付くの。真(まこと)の神さまだけって見てる。

 はい、真(まこと)の神さまだけ「ありがとうございます」

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/kBJIJPoOFOg

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/07/05(Wed) 13:30 No.2979 [返信]


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6月勉強会 by kawakami [Mail] 2023年06月14日(水) 19時35分
PC

令和5年6月河上さん勉強会−1前半(20230611−1前半)

質問:ありがとうございます。以前にも同じような質問をされて、もうすでにお話しされているんですが、改めてまた質問が来ています。よろしいでしょうか?
 先生が、「一大循環は役に立たない、捨てないとあかん」と言われたことがあります。これはどのように受け止めてお祈りすればよろしいでしょうか。

河上さん:その前後がないと、何とも言いようがないけど、みんなが受け止めている一大循環はあかんと言うてはるけど。一大循環はあかんとか良いとかじゃなくて、すでにあるものだからね。

その話の前後から言えば、みんなが一大循環だと思っていることは、受け取り方が小さすぎるからあかん。その捨てないとあかんという意味が、多分みんな分からないでしょ?

質問:僕は初めてこの言い回しを聞いたんですけど。

河上さん:そら前後がいるけどね、先生が捨てないとあかんと言ったら、もう一つしかないんですけど、みんな何のことか分からないんでしょ?それでそういう質問になっていると思います。

 要するに何かというと、みんなね、この世的に肉体の自分にとって都合の良い事は良い事であって、肉体の自分にとって都合の悪い事は悪い事やね。で、都合の良い事だけを願うの。そういう小さい子には、先生は好転反応とか言うてね、悪い事があっても神さまが良いようにすると
いうとこはみんな聞いていないね。悪い事があっても辛抱していたらい良い事が来るという感じにしか、みんな受け止めていないし。

先生はちゃんと説明しているんだけど、受け止めていない。

 で、捨てるとは何か?何を捨てるかって言ったら、現実を掴む、過去を掴むを捨てるやねんけど。その現実を掴む、過去を掴むということがみんな分からないね。まず現実を掴むとか過去を掴むの最たるものが、今言った肉体の自分にとって都合の良い事は良い事で、肉体の自分にとって都合の悪い事は悪いと言っているのは、すでに現実と過去を掴んでいるの。現実というのは過去の結果だからね。もうそれだけや。

 だから先生はこの一生は七難八苦の連続で良いと言いはるわけ。神さまが一番良いようにしているから、一番良いように使っていただいたら七難八苦の連続になるね。だけどそんなんしたらみんなしんどいし、敵わんって言ってね、下手したら自殺するから、そこまでせんと美味しいものも食べさし、楽しい旅行もさせ、楽しいテレビも見させて貰っているだけよ。

 そのおまけの良い部分だけを欲しがってね、どうこう言っているのを掴むって言う。只々、それだけよ。神さまのお手伝いをしたいとなったら、七難八苦の連続でも喜ぶだけやね。もっと具体的に言うと、例えば体が朝起きてしんどいわ、調子悪いわっなるやん。その調子悪いときに、調子悪いって言うたら掴んでいるの。神さまが良いようにしているからって喜ばなあかん。

 だから先生は激痛があっても喜んだし、いろんなセクハラ詐欺とか、あんなんでねボロクソに言われても喜びはっただけや。「それで怒るお前はあかん」って逆にえらい叱られた。怒るということはすでに掴んでいる。だからこの前話したように、おもろいやっちゃ。何でもかんでも、おもろい事やって言ってたらいい、せめて。

 本当は良かったって、喜ばないとあかんけど、喜ばれへんまでもね、おもろい事やなって、楽しい事やなって。口先だけでいいから。まず口先の表現が大事よ。あかんとか、だめだとか、もう死ぬわとか、最悪やとか、言うからややこしくなるね。おもろい事や、楽しくなったなって言ってたらええね(→いいことなる)っていうとこが中々みんな分かれへん。

 それが出来へんのやったら、「楽しいな、おもしろいな、中々楽しくなってきたやないか」って言えんかったらね、自分にとっても、前が完全に塞がってね、八方塞がりになってもよ、八方塞がりになっても、「えらい楽しい状況になってきたな」って言えたらええねんけど、言えんと、「こんな八方塞がりになったらどうしようもないわ」って言うたら、捨てれてない、掴んでるって言うね。

 一大循環というのは、一瞬一瞬新たに一大循環やから。もう具体的にちょっと今、その質問やから、一大循環の具体的なのを説明したって意味ないと思うからね。一まとめに言うたら、一大循環というのは一瞬一瞬新たや。この世的な形の説明で言うたら、水で吹き上がった噴水の形がね、形のところがこの世の現れた相象(すがた)や。大元から吹き上がっているところが一大循環の大元や。吹き上がっている水だけのもんや。

 表現の結果は、只、サっとみんな帰っていくの。只、一番細かい地獄の底まで表現できて帰って来たら偉いなって言われるだけ。褒めて貰えるだけみたいな感じやけどね、簡単に言うと。
 その一瞬一瞬新たがみんな分からへんわけ。分からへんから、自分にとって都合良い時喜ぶね。
自分にとって都合悪い時は嘆くね。死んだらどうしようとかね、こんな病気になってどうしようとかね、仕事なくなってどうしようとか、クビになってどうしようとかって言うんや。何を言うか、やねんけども。

 いつもちゃんと説明してるやん。全知全能の神さまが一番良いようにしてるから、あなたにとってこの七難八苦が耐えれるくらい、まぁ言ったら、偉くなったわけよ。幼稚園の子やったんが、もう大学生になったから、これくらいの七難八苦は平気の平座で楽しんでやっていけるようになったから、ということで神さまが与えてくるね。

 その人にとって耐えれない事を神さまは与えない。その耐えれるって表現はおかしいねんけどね。楽しめるやねんけど。ゲームがそうでしょう?難しいゲームと言うのは耐えるんと違って楽しんでるやん。でも最初はハサミ将棋から始めるでしょ?小さい子にハサミ将棋を教えて、初めてこれがどうだって細かいルールになっていくわけでしょ?
 でもだからといって、小さい子にとったらね、「そんな難しい将棋できへんわ」って言うわけよ、将棋で言ったらね。難しいし、頭痛いし、嫌やわってなるわけよ。

 でも、出来ることしか神さまは与えへんからね、喜べなあかんね。それやのに「どうしよう?」って言うね。捨てれてない。自分にとって楽な良い事があったら「良かった」って言うね。それも捨てれてない。

 ここが大事やねんで。自分にとって都合の良い事も捨てれなあかんねんけど掴むのね。余計にややこしくなっていくね。それでこの世に、心を置きすぎてね、肉体が自分やと思ってしまうんや。肉体が自分やと思った途端にな、何も出来へん。あたり前や、肉体は疲れてくるしな、暑い寒いって文句言うしな、お腹空いたって文句言うしな、美味しいもの食べたいって文句言うしな。あれは肉体が言ってんねやで、自分が言ってんのとちゃうで。ここが大事やね。

 この肉体はある意味な、猫や犬と同じペットよ。ペット言う表現も、でも乗り物やねんけど、それでも本心の自分から見たら可愛いペットやね。肉体側の自己保存本能がね、美味しいもの食べたいとか、眠りたいとか、楽したいって言うね。

 それを鍛えて鍛え抜いて、神さまそのものを肉体に持っていかんなんね。その鍛えるとこをみんな逃げ回るね。で、なんとか苦労させようとしても、鰻みたいに、にゅるにゅるっとみんな逃げ回って楽しよんね。先生が一生懸命に色んな事に追い込むねんけど、みんな逃げていくね。難儀なもんやけど、そんなもんや。それを捨てれないって言う。

 捨てれないから肉体が自分やと思うね。肉体が自分やと思うから文句が出るんじゃ。それだけや。一大循環をね、一大循環って言われてね、じゃあもうその一大循環の相象(すがた)を本当に感じ取りましょうって、真剣にひたすら淡々とね、祈ればいいねんけど、そこまで行けへんね。楽な自分が、楽な自分が幸せって掴んだら最後、真祈りできへんのよ。

 分かるか?幸せな楽な状態の自分をね、掴んでしまったら真祈りできへんねんって。その逆も一緒やけどね。熱の出てる痛い痛い辛い自分、仕事ですごい困難になってる、八方塞がりになってる自分を辛いと思うのも真祈りできへんねんで、どっちも掴んでるからな。

 でも神さまが一番いいようにしてるって説明してんのにそこが分かれへんねや、みんな。だから捨てれないって言う。捨てれてたら、神さまがいつも一番良いようにしてるって分かる。そしたら何が来ても、おもろいな、楽しいな、中々楽しい状況になってきたなって言えるんや。八方塞がりになった時ほどね、ゲームがそうでしょ?難しくなるからこそ面白いんでしょ?野球でも2アウト満塁、どっちが勝つか、この1球で全てが決まるみたいになるわけでしょ?2アウト、2-3で、満塁で、この1球で全てが決まる。ボール投げたら相手のチームが勝つし、ストライクで空振りしてくれたらこっちが勝つし、みたいになる時の方が面白いんでしょ?

 野球で言ったらどっちのチームも八方塞がりや。でもその方が面白いわけやんか。中々面白い状況になったなぁや。

 野球で言えばそういう時に、中々これは面白い状況やって言って楽しめる人の方が勝てるわけよ。ピッチャーの側で言ったら、ここで何投げても、ボールになってもアカンし、押し出しで負けるし、どうしようどうしようって悩むピッチャーは負けるわけや。打つ側もそうや。ここでもう絶対ストライクしか投げよれへんから、打ったろ。或いは、ここはわざとフォークボール投げてくるな、わざと打たんと待ってようって悩んでるうちは負けるんや。そういうもんや。楽しんでる方が勝つんや。

 だから楽しい状況になったなあ、おもろいなあって言えって言ってんねんけど。みんな、現実掴んで幸せやったら嬉しい、しんどいから辛い。

 「何なんや、この肉体のしんどい辛いが。何やねん、こんなんもん、たかだか100年のもんやないか」って五井先生は仰るんだけどね。100年くらい何の苦しみがあるかって仰るんだけど。

 たかだか100年の命、正確に言ったら、たかだか125年の命や。ちゃんと神さまに投げ出して生かしきって生きたって、125年しかないね、この地上での時間は。そのわずかな125年をね、神さまの為に生き切れないなんてね、ほんとにどないせい言うねん、とか思うけどやな。思うけど、肉体の自分と思ってたら肉体の自分の都合を中心に考えて、嘆き悲しみ、色んな演技を楽しむわけよ。 

 ほんとはその、嘆き悲しみとか苦しいとかつらいも演技で楽しんでるね。役者さんがね、いろんな演技するわけでしょ?で、このすごいヒロインが悩む役とかってするわけやんか。それって台本読み込んでこういう風に悩むとか、こういう風に泣くとかってして、それでその役になりきって、ほんとに目薬指さんでもね、役になりきって涙流して演技したら、おー!迫真の演技、あの役者さん上手いなって。役者さんも楽しんでるし、見てるのも楽しむわけでしょ?

 だからほんとはみんな楽しんでるだけや。だから、おもろいなぁって言えって。楽しい状況になってきたなって言えって言うねんけどな。みんな肉体の自分を中心に考えるね、捨てれない。
もうそれだけ。

 その話の前後はそういうのがあるはずや。そこだけ捕まえてな、悩むからややこしいね。それ肉体の自分を中心に考えるから悩みはんね。どういう意味やろ?それは分からへんわ。

 肉体の自分に一大循環の相象(すがた)なんか分かるものか。何を言うか。一大循環の相象(すがた)の端っこの端っこの、もうウイルスよりも小さい存在が肉体や。分かるわけない。その肉体といえども、血が巡ってね、一大循環の相象(すがた)の入れ子構造を示してるのに分からないわけでしょ?

 ほんまに自分が、みんな自分で生きてるって勘違いしてるね。自分がしてるって。自分がしてるんやったら心臓自由に止めれるし、いつでも自由に死ねるし、いつでも死なんと長く生きれるしって、自分の自由意志のままね。できるはずや!出来へんやろ?神さま、ちゃんとしてるだけや。

 小さい肉体側の意識で何も出来へんくせにな、小さい肉体の意識で何とかしようとして、悩んで苦しんで、転げまわる。七転八倒っていうね。躓(つまず)いたら躓(つまず)いた楽しみや。どれもこれも楽しみや。野球でもそうでしょ?追い詰められて、どうしようもなくなるから楽しいんや。勝つだけやと面白ないで。ゲームでもそうやけどね。勝つか負けるか際々(きわきわ)やから楽しいんや。

 だから野球なんかやったら、0対1とか2対3とかの近差で決まったゲームの時は、凄かったな、面白かったなって言うわけやんか。それが20対0とかね、或いは20対30とかやったら、大味すぎてみんな、何やあれやったなぁで終わりやで、野球で説明するとや。そういうもんや。

 胃が痛くなるように悩みながらするからおもろいんや。だから常に楽しんでんねんてみんな、本当は。でも小さい肉体側の意識が自分やと思った途端にね、分からんようになっていくね、何事も全てが。

 例えば先生から悟ったと言われてね、喜ぶようではな、何があかんかって言ったら、悟ったら自分と他人の区別がないからね、全てが透き通るように分かるね。言われんでも分かるんよ。何を言うかって感じやけどね。

 そしたら先生が響き渡らしてる数式が、言われんでも入ってくるね。もうそれだけよ。その数式一つ受け取れてない者共ばっかりがね、ここに残ったんよ。「もうほっときましょうな」って言うのに「もうちょっと」って先生言うから、おせっかいさせて貰ってます。

 先生以上にお前はおせっかい好きやから、相手の自由意志を縛りながら説明しろって言うから、それするんですかみたいな感じで、自由意志を縛りながら、ちょっと縛りながら説明させてもらう。自由意志を縛りながら説明するとね、みんな人の自由意志を縛りたがるから響きが易くて、で、河上の説明分かりやすいって言うね。

 先生の説明が分かりにくいのはね、先生は一切相手の自由意志を縛らないから、響きが合えへんのよ。で、先生の話は分かりにくい。それだけ。捨てるというのは、相手の自由意志を縛る癖のある人が、捨てれない。

質問:ここからは、僕の勝手な解釈なんですけど、この質問に対しての。これはどのように受け止めてお祈りすればよろしいでしょうか、というこのお祈りという部分が、その真祈りを指していると思うんですけども。今の流れで言うと、「印可書」を奉読すると真祈りとする。そのお祈りをする際に、「印可書」の中には一大循環というフレーズ、真(まこと)のプラスの言葉が出ていますが、そこの部分と一大循環は役に立たないという部分のズレに対して、どのようにすれば。

河上さん:だから、「印可書」はあかんって言いたくて、それを勧めてるのは分かるけどな。そういう屁理屈を言っているうちは、何も分からへんねんって。もうそれだけよ。真祈りとは何かというのが、分かっていない人だから、そういう質問が出るね。

 真祈りとは何か。もうそれに尽きるんよ。真祈りとは何かと言ったら、肉体は自分ではないと分かることよ、まず。肉体が自分やと思っているうちは、真祈りの真にも入れへんね。そやけど、そんなん言うたら、誰も入ってこられへんから、肉体を自分と思っててもいいから、病気になってどうしようと思っててもいいから、こんな状態になってどうしよう、クビになってどうしようと思っててもいいから、「印可書」を読んだら、真祈りに帰れるという先生の大おまけや。

 その大おまけを選びたくないという人は、自由だから選ばんでいいけど、人にまで押しつけるなよ。もうそれだけよ。先生の大おまけ一つ。すごい大おまけという、すごい愛一つ分からんでは。僕はほっときましょうって言うてん。みんな好きにすんねんから。みんな自由意志やねんから。

 好きにさしといたらよろしがなって言うのに。まだまだって先生が言うから。えっ?予定より寿命伸ばされたら、見てみこれ肉体が、僕の肉体なんかあちこちボロボロやのに、どないして伸ばすねんみたいなとこから始めたんよ、ほんとに。

 今だに膝から下は痺れたままや。どうにもこうにもなれん。なれんけどそんなん言うてられん。先生がやれって言うたらするだけよ。そういうもんや。

 だけど、その「印可書」を一つわからんというのは何かと言うたら、ただ肉体が自分やと、肉体の自分で何とかしようと思ってる人よ。肉体の自分では何もできないというのが分からなあかんねんけど分からへんね。

 ほんとは歯を磨く時でもね、ご飯食べる時でもほんとは自分がしてないね。みんな自分がしてると錯覚してるだけよ。おトイレ行ってこうしてるときでもね、自分がしてるって錯覚してるだけでほんとはしてないね。それが分かるまではどうしようもないねんけど、そんなとこ分かれって言うたって、どうにもへぇ?ってなるだけやろ。

 だからそのへぇーってなる子等のために先生が「印可書」を作って下さったわけや。おトイレ行ってる時も自分がしてると思ってていいよ。ご飯食べてる時も自分が美味しい、美味しいって食べてていいよ。でも「印可書」読んでる時だけは、真(まこと)の本心の自分として真祈りとするよという大おまけを下さっただけや。それを選ぶ選ばへんはみんなの自由やからかめへんねんけど、人にまでね「印可書」ダメって言って相手の自由意思を縛ったら、ほんとに大変なことになる。それだけ。

 で、そんな理屈を思うんやったら、直接聞きに来い。こんなとこで他の人にまで影響出るような感じで質問するのは卑怯や。そこまで「印可書」あかんと思うんやったら聞きに来い。いつでも受け付けてるやないかって思うけどな。その聞きに来る勇気もないんでしょ?

 肉体が自分やと思ってるからや。もう、今だにまだそんなん言うかとか思うからね。だけどそれに影響受ける人がいるから、わざと、ほんま怒ってないで。怒ったふうに言ってるけどね。そんなんに影響されないように。先生の大おまけをね、せっかくの大おまけをね素直に受け取ったらええねん。

 なのに、そんなんで真祈りになるもんかとかね、思うのも勝手やし、せえへんのも勝手や。だけど人にまで言いなって。先生の折角の大おまけという大きな愛をね、人にまで邪魔したあかん。選んでみようかなと思ってる人の気持ちを潰したらあかん。真祈りするチャンスを奪ったあかん。
 昔ね、みんなここの部屋にお祈りに来るわけね。で、もう明らかにどうしようもないのがあるから、ちょっと僕がおせっかいしてね、もうちょっと祈れるようにっておせっかいしてたら、先生に怒られたんよ。ちょっとでもお祈りしようという気持ちあるのにね、要らんお節介したら来えへんようになるって。だからお前は何もするな、来るなって怒られて。それくらい、その人が自由意志でお祈りしようということはすごい大事なことやね。

 だから今やったら、自由意志で「印可書」を選ぼうかなと思っていることはすごい大事なことや。その邪魔は絶対したあかん。自分が選びたくないのは勝手やから好きにしたらいいけど、人にまで 

 影響を及ぼすようなことはしたらあかん。本当に絶対の闇まで落ちてしまう。

 最後の審判ってあるでしょ?最後の審判って何かなというのがね、みんな分からんまま来てるね。例えば最後の審判じゃなくてもいいよ。死んだら閻魔大王様の前で怒られてどうのこうのって言うでしょ?あれは何かというと、肉体が自分やと思っている人は、死んだら自分以外の者が、お前はこんな悪い事をした。お前はこんな狡い事をした。お前はこんな卑怯なことをしたって言って、裁判のように怒られてね。映画にもよくあるやん、そういう映画がね。地獄に落ちますみたいな、なるわけよ。

 それは肉体が自分やと思っているから。もうちょっと進むとね、内在神とか真(まこと)の本心の自分というのが、要するに良心やね。自分の良心、正しい心。正しい良い心がね、死んだら良い心が目覚めて、自分を罰して地獄に堕ちるって言う。

 本当の最後の審判というのは何かというと、全て真(まこと)の神さまと分かって、光を響き渡らせることや。それが結果として地震になったり、台風になったりするんやけど、全員がそれができたら、一瞬で消えて、形すら要らんねんけどね。今は順番に死んでいく人のバラバラで起こってるだけやけどね。どっちにしても、肉体が自分やと思うから話がややこしいだけよ。

 真祈りとは何かと言ったら、肉体が自分ではないって分かることやっていう、そこのスタートがね、履き違えたらあかん。今までの宗教は全部教祖と自分、神さまと自分って分けるわけよ。また教祖も教祖やね、「お前らは悟ってない」って言うわけや、悟ってるのに。それは教祖が悟ってないからやけどな。それに尽きるんやけど。分けてどうこうする間は、全部偽物。

 先生が一大循環のないとか言うて、その前後をちゃんと言うて質問してきたら、まだかわいいけどな。そこだけ捕まえてどうこういうのはもう論外の話や。

 別にその質問でもいいけど、それやったら直接聞きに来いや。こんなとこで聞くなという話やけどな。まあいいけどよ。聞いてくれたらいいんだけどね。いいねんけど、それくらいな、みんな肉体が自分やと思って苦しんでんの。一大循環があるとか無いとかな、真(まこと)神さまどうこうとかそんなレベルやないねんって、今は。

 50年前とはちゃうのよ。まあ50年前でもギリギリに追い込められたまま、ずーと来てんねんけど、先生がおまけおまけでここまで来ただけでね。まず肉体は自分だという意識が消えるまではどうしようもない。でも消せないやろ?だから「印可書」を読んだら消えるよって言ってそれだけや。 

 なのに肉体は自分やと思った中でどうこうどうこうって悩んで苦しんでね、理屈をこねてくりくりしてはるわけや。知らん間にな、肉体を失った時に、知らん間に真っ逆さまに落ちていくだけやねんけどね。

 折角先生がいっぱい説明して下さっても自分の都合のいいようにしか取れへんのよ。肉体が自分から抜けられへんから。それで、もうこれ先生どうしようもないでってなって。いろいろ「印可書」出してみても選んでくれへんから、そしたら「宇宙神ありがとうございます」に絞るって先生仰ってね。で、「サー、サー、サー」まで全部入ってしてんのにみんな文句言って選べへんから、また「印可書」に戻しはっただけや。

 だけど選びたくない人は選ばんでええって。だけど自由意志でそしたら「印可書」を選んでみようかなって思ってる人の邪魔はしては、あかんねんって。

 それはすごいな、もう高級車に傷つけるような行為でな、大変なことやね。ものすごく相手の貴重な自由意志を縛ってるわけよ。絶対にしたらあかんことを無意識にしてはるね。分かってへん。

 これ今ちょっと皆さんの自由意志を縛りながら喋ってるねんね。だから分かりやすいやろ。ほんとはこういう言い方したらあかんねんけど。出来るだけみんな分かるように無理をしてます。

それでいい?もうちょっとなんかある?

質問:たぶん伝わったと思います。

河上さん:伝わった?

質問:ありがとうございます。

質問:2つ質問あります。お願いします。3月の護摩焚きで、八の字体操のやり方につき、河上さんから真祈りしながら、手の向きで八の字を書くと教えていただいていますが。

河上さん:手のひらの向きね。手のひらで八を書くようにね。

質問:そのことについてもうちょっと読んでいいですか?

河上さん:いいよいいよ。いいけど先によう言うとかんとまだ意味分かってない人おるやろ。

宮野さん:先に聞いてあげたらいいやん。言わしてあげてや。

質問:いいですか?

何人かの方とお話ししていますと、手のひらの向きで八の字を書くの「手のひら」が抜けていた。ただ八の字を書くと覚えている方が殆どでした。

河上さん:そうやな。

質問:言い換えれば八の字の進行方向に向かって手のひらを向けて八の字を書くと表現してもよいかと思うんですが。

河上さん:いや、そういう風に説明したやん。

宮野さん:いやいや、待って。八だってさ、色んな書き方があるやん、人によって。
こう書く人もいれば全然違う書き方の八があるから。手のひらの方向、八だよね。ちょっと変やな、あれは。

質問:そう、言い換えれば八の字の…

河上さん:あのね、右手と左手の手のひらを同じ方向に揃えるでしょ。入れ替えるにしたって。その手のひらの方向で八の字をなぞるようにって。体が硬い人はなぞれないよ。でもなぞれるくらいまでしたら、そこまで筋伸ばしたら健康になりますよということや。最初は書けなくていいよ。でも書けるまでやってたらね、本当に肩甲骨のところの筋肉が緩んで、そこを緩めると心臓が強くなるの。そしたら病気にならないのね。それで言ってるだけで、みんな自由にしてもらったらいいんだけど。最初は書けないからできないよ。でもだんだん肩甲骨の筋肉が緩んできて、筋が伸びてきて書けるようになるからということです。

質問:ありがとうございます。

宮野さん:手だけだったら、これだったんですよね。手を向けてしまうから。これでこの手のひらで書くってやつやね。

河上さん:だから、どない説明したらいい?

河上さん:手でインクを持った状態。インクで塗っている感じ?あ、あかんな。それもあかんわ。
だから、八の字のレールの向きが八の字の外側にあると。その外側のレールに沿って、なぜる感じやねんけどね。

宮野さん:もっと分からへん。

河上さん:もっと分からへん?あかんな。

宮野さん:でも、YouTubeであげてなかった?

河上さん:YouTubeであげといて。芸人さんにやっぱり出してもらうのが1番や。

質問:もうだんだん薄れてきたなって思ってたのに、前回の。

河上さん:次、護摩の時にみんな聞きに来るからいいやん。

質問:これでよろしいですか?

河上さん:だから、こう八を書くようにね。

宮野さん:微妙に違う?

質問:微妙に違う?

河上さん:いや、だから、この手のひらの向きで八の字をこう、わかる?

質問:うん。

河上さん:ということやんな。そうやけど、体が硬いうちは、ここで向けられへん。片手でやるとこう。こう向けたいんだけど、硬いうちはこうなるって言うだけよ。それだけやから、護摩の時に今いてる人は説明してあげて。でも、大概最初はできへんから、その説明見てみんな分からなくなっていくんやと思うわ。

宮野さん:ゆっくり映像でね。

河上さん:片手だけで言うとこういう感じ。




令和5年6月河上さん勉強会−1後半(20230611−1後半

河上さん:片手だけでいうと、こういう感じ。うん、こう、こう、こう、こう、ああこう。

質問:手首が柔らかい人は球を結ぶ感じの。

河上さん:いや違う違う。8の字をこう、ここで水平になったらあかんね。ずっと字を書かんなあかん。そうそうそうそう。

質問:ああ。

河上さん:わかる?うん。常にこの向きで字を書き続ける感じよ。この玉を乗せるというのはこれが自在に動くようになって初めてできるね。これが出来へんうちは、これはな、無理なんや。だから最初からこれ言うたらみんな諦めるから、八の字にしているねんけどね。そうそうそうそうそう。こっちのこの返しが難しいやろ?

質問:手のひらで書くから。

河上さん:そうそう。肩甲骨ぐって伸びるやろう?

質問:常にここが当たる感じ?

河上さん:そうそうそうそう。そうして説明してあげて。

質問:わかりました。

河上さん:でも最初は固いからな、やろうと思っても出来へんね。でも努力していかんなん。そして筋を伸ばさないと。勿論、色んなストレッチをすればこれはすぐ出来るねんで。そうやけど色々なストレッチをするのは大変やし、それを覚えるのも大変やろ?だからこれにまとめただけ。

宮野さん:映像にしないと裏表がわかりにくいと思う。色つけるかなんか、若しくはそれか、ほら、

質問:軍手もってます。

宮野さん:若しくは、水かきしたらどう?(笑)

河上さん:そうやね。なんか iPhone っていうか、こういうのを持てば、わかりやすいんかな、こういう感じで。

宮野さん:持ったままで。

質問:表の面が意識できる。

河上さん:そうそうそう、こういう感じで。
 ほんとにね、肩甲骨のとこを緩めてあげなあかんけれども、人のせいにする、人に頼りきる。人のせいにするという事は人に頼り切る人やけど。そういうことをしていると、肩甲骨がまず、固くなるね。で、固くなるとね、幽界の生物がそれを食べやすいね。そこを食べられてしまうと大変やからって言ってるねんけどね。

宮野さん:食べられたら何するの?

河上さん:けっ!てい!もう!(笑)
 食べられると何が起こるかっていうと、その幽界の生物の言いなりになっていくね。勿論、自分の方がね、そうなる人っていうのは肉体の自分にとって都合の良い事ばかりを喜んでいるから、そういう風に、その隙に乗じられるのやけどね。幽界側のマイナスの生物っていうのはそういう楽なことが好きやから、だからそういうのに取り憑かれないためにもね、苦労した方がいいの。

 その話の流れやから言うけど、例えば何で人を責めたらあかんか?ね、或いは、自分を責めたらあかんか?或いは、人のせいにしたらあかんか?人に頼ったらあかんかって言うとね。それはマイナスの思いなんですよ。要するに求める心って言うんだけれど、マイナスの思いのことをね。求める心やね。自分にとって都合の良いことを求める心。それマイナスの思いやね。それ口に出さへんでも心で思うだけでなるね。そうなったらね、そのマイナスのことを思っただけと思ってるやろ?で、これが甘い。マイナスの思いが溜まったものがあるわけ。それを幽界の生物とか悪魔とかね、色んな表現しますけども、で、そこから応援が来るの、マイナスの響きを出したら。で、自分は1のマイナスしか出していないのに、そこから応援が来て10も20にも増やしてくれるのね。向こうなかなか親切やからね。(笑)だから自分はチラっとしか思ってへんわ、ではないのよ。

 だから真祈りとは何かって言うたら、一切のマイナスを思わないことや。でもその一切のマイナスを思わない意味が分かれへんやろうから、印可書奉読に全てを集約しただけ。

 最初の質問なんかはね、マイナスを思っているわけよ。一大循環っていう言葉を掴んで、掴んでね、言葉尻を捉えてね。いいとか悪いとか、あるとかないとか、先生が言うたとか言わんとか、捨てるとか捨てないとか、言葉尻だけをつかまえて、マイナスに思おうとしているね。それ怖いことやね。大変なことになっていくねんけど、特に神さま事、真理の事に関してはそういうことやるとね。

 でも自分の、自分の思っている都合のいいように動かそうとするから、もうそのマイナス側からの応援も来て、もう本人は大変になって、おそらくもうどうしようもないと思うけれどね、今更。それぐらいまで本人食い潰されているけどね。それぐらいマイナスをいじるっていうのは怖いね。

 だから印可書奉読だけって、何を思っても。あいつ嫌いやって思ってもいいから、あいつ殺したいと思ってもいいから印可書奉読だけっていうのはそれやね。それやったら一瞬思ってもすぐ印可書の無限のプラスに変えるから助かるけど、あいつ嫌やねん、嫌やねんと言うてるうちに「わー」ってなるね。嫌って思っただけやけど、じゃあないの。そういうもんや。そういう厳しさや。

 でもそこまではっきり言うとみんな怯えるから、先生説明せんかったし、あーあったんやけど、もうちょっとで時間切れやから、もうこの前からどんどん本当のことをね、8年で死ぬよとかな、本当のことを言っているのは、もう時間切れやね。もうそんなん言うてられへん、四の五(あれこれ言う事)。理屈を言っている暇はないんでな、それで今説明をしました。マイナスというのはそういうもんなんです。

 だからみんなのちょっとした「あいつ怠けてるわ」、「あいつずるいずるいわ」とかいう思いがどんどんどんどんそうして、向こうの応援もあって増えてね、その増えた塊(かたまり)で戦争が起こるね。

 戦争って国同士でね、「あいつずるいわ」ってやってるわけや。せやろ?「お前とこだけええ目しやがって」とかね、それが戦争になるね、国どうしが(マイナスの)思い出したら(戦争になるね)。

 でも国どうし思う(マイナスの)エネルギーをみんなが補給してあげているわけよ。今ウクライナに起こっていることを自分に関係ないと思ったら大間違い、ほんまはね。

 でもね、日本全国ね、ゴールデンウィークやったら浮かれてウクライナのことなんかほったらかしや。本当はひたすら印可書を読んで真祈りしなあかんのやけどな。もうあんまり言うたらね、せっかく楽しんではるのにと思って言えへんかったけど。でもね、ここが大事なんやで。「楽しんでもいいよ、でも印可書奉読に戻りましょうね。」「悲しんでもいいよ、でも印可書奉読に戻りましょうね」や。そこや!真(まこと)のプラス、無限の無限のプラスのところに一瞬一瞬新たなる無限の無限のプラスのところに戻らなあかん。

 で、印可書のない時代は、先生は常に「一瞬一瞬新たなる」をつけなさいって言うてはったんや。でも誰もつけへんね。どこのいつのどこのテープかって一々もう日にちは言わん。みんな自分で探せと思うぐらいな、何も聞いてへんね。「一瞬一瞬新たなる」って言ったら一瞬一瞬新たに受け止めているから捨て切れてるね。「一瞬一瞬新たな」って思えんかったあら、捨てれてないね。一大循環も一緒や。一瞬一瞬新たなる一大循環やね。一大循環っていうのは。

 なのに一大循環っていうのがあって、これはどうのこうのって言ったら、それはもう一大循環と違うね。それを先生言ってるんや。その前後に一瞬一瞬新たにっていう話があるはずや。そんな受け取られへんのや、肉体が自分やと思っていたら。

 だから今までの宗教は駄目やって言うね。教祖に頼るやろ?で、教祖の方はお前らまだまだ悟ってへんって言うやろ?マイナス言ってるやろ?だから崩れていくんや。

 ここは宗教やないって言っているやん。お互いに頼るんじゃなくって、支え合うだけ。「みんなすでに祈ってる悟っている救われている」やから、どの状況もみんな楽しんでいるだけって説明してるやん。それを野球のゲームやなんかに例えでちゃんと説明している。どう受けとるかは、みんなの自由やけれどもね。でもだから皆すでに悟っている救われているや。そんなん言っても私苦しいわ。いや違う、苦しいわは楽しんでいるだけやのに。

 野球でもそうやで。2アウトでね、ぎりぎりのお互いピンチになるわけでしょう?それ苦しみやったらそんなもん胃に穴開いてしまって、ゲームになれへんで。なんやかんや言いながらそのギリギリのところをみんな楽しんでいるんや。野球やったら楽しめるのに人生やったら楽しまれへんね。将棋やったら楽しめるのに、麻雀やったら楽しめるのに、ポーカーやったら楽しめるわけでしょう?「今日この手あかんかったわ」、とかな、「おっ、フルハウスや」とかやっている訳やろ?

 みんなこの肉体を持っている人生も楽しみに来ているだけやっていうのがね、分かったら既に「祈っている。悟っている。救われている。」が分かるんやけど、それを理屈でなんぼやっても堂々巡りやから、一発これでどうじゃー!っていうのが印可書奉読やね。

 どうせ分かれへんのやったら印可書奉読という公式を使えと。数学で言うとな、分からんかってもこの公式をはめたら解けるやん、ってあるやろ?その最後の公式や。数式ももう出さんでって先生言うたやん。

 「どっちみち説明しても分かれへんから出さんでええ。でも究極の公式出すから後はもうお前説明せい」や。「そんな鬱陶(うっとお)しい事(邪魔くさいこと)させられるんですか?」(と言うたんだけれども・・・)。

 それで色々考えて、みんな人の自由意志を縛るのが好きやから、こっちもちょっと皆の自由意志を縛りながら喋ると引っかかるなと。釣りで言うと疑似餌やなあ。ルアーって言うのあれ?あれでこうちょっと自由意志を縛るので引っかけておいて、説明している。で、なんか知らんけど「河上さんの説明よう分かりますわ」って。そらそうやろ、自由意志を縛ってるもの。お前も縛るからじゃ、みたいな感じやけどな、種を明かすと。

 それぐらいみんなね相手の自由意志を縛りたいね。何で縛りたいかって言ったら、それは真(まこと)の本心の自分を知っているからや。真(まこと)の本心の自分を知っているから自由自在でいたいね。だけど本来は全て自分やから、縛るじゃなくて支え合いになるのが一番生かし合うっていう事が分かる。でも肉体が自分と思っているのに自由自在な自分っていう意識があるから、自分とは違う相手を自分の思い通りにしたいと思って縛ってしまう。

 それもやっぱり自分がすでに悟っているから起こる現象や。でもまず肉体が自分やっていうとこを外さんとね、分かれへんから。でも肉体を自分やと思うのを「やめ」言うたって止められへんしや、何を言ったってみんな止めへんから印可書奉読にどう持っていくかという、テレビショッピングや。これを使ったら良いですよ。個人の感想であって効能を示すものではありませんて言いながらやってんね。もうそこよ。

 この指一本を動かすのでもね、神さまが動かしてるだけや、本当は。理屈ではみんな分かる、先生説明しているから。そうやな、全て神さまのお陰やなって言うね。

 でも(そう)思ってへん。だから何かあったら自分で何とかしようと思って悩み苦しむ。孫が病気になってどうしようとかね、あの人がこうなってどうしようとかね、あの人と結婚したいわとか、色々あるけどや、それ全部自分が何とかしようってしているから。

 全て自分やから支えてあげるだけでいいね、この世的にはね。で、支えっていうのが分かれへんねんな。支えるというのは真(まこと)の神さま、真(まこと)の本心の自分の真(まこと)の神さまを相手に立てることやね。(相手に真の神さまを立てるということは、相手と自分が完璧なひとつになることや)それって(難しいから)印可書奉読することで代用しますってなったん。

 印可書奉読か護摩木を書くことで代用します。護摩木に参加することで代用にしますって先生が宣言してくれたんや。

 だからこの世的にね、あの人お金に困ってるからお金出してあげるって言うのは支えるではないね。印可書奉読して護摩に参加して護摩木を書いてあげたらいいね。もうそれだけで全部、全部あとは先生が一身に背負ってするよっていう事や。本当を言えばな、印可書を読めば先生が一身に背負って後押し(あとおし)してくれるっていう事や。その大おまけの印可書をな、どんたく抜かすなって思うねん。

 でも本人がどんたくぬかして選べへんのは勝手やけど、みんながわずかな自由意志を発揮してね、印可書を選んでみようかなって言うまで邪魔するな。地獄の底まで自分で落ちていくわ。僕はたたき落とせへんで。みんなの自由意志を守るからね。でもあとで気づいて自分で落ちていきはんね。好きにして。早く気づいて印可書に戻った方がええけどよってテレビショッピングはしとくわな。

宮野さん:多分、質問された方はそこまでは思ってないのかもしれない?

河上さん:そうよ。勿論そうやねんで。みんなそこまで思ってへんねんて。だからほら、あの人怠けてて狡いわとかね、私は安月給でこんな沢山働かされて損やわって、無意識になんとも当たり前に思っているわけよ。

宮野さん:それが怖いとこよ。

河上さん:それが大変やね。自分はちょっとしか思ってないけれどもマイナスの勢力がそれを応援してくれるの。「しめた!マイナス出しよった。行け!」ってなもんや。そしたらこっちはふわっと、例えばふわっとしてんねんけど、後ろからパンって押してくれるね。で何十倍のマイナスになるね。

 それも形の上ですることやったら一回やけれども、心やったらしょっちゅう思うやろ?「またあいつ怠けとるわ」心の中で何回も思うやん。或いは、仕事の上でもなんか、ほったらかしやったら、「またあいつズルしてこんなん、ほってあるわ」とかな。思う毎にそれは、(マイナスの勢力に後ろから)押されてえらいことになっていく。自分の運命が崩れる。

 だから何を思っても印可書にまず戻れ。だけど戻る前にできたら、大分みんな印可書奉読してくれたからね、大分何とかなると思ってこの前から、「おもろいやっちゃ」と、「楽しい状態になった」と、思えって言っている訳。無理にでも「おもろいやっちゃ」と言ったらええね。そしたらマイナスと違うからマイナスが応援できへんね。向こうは舌打ちしてる「チェ!」「マイナス出しよれへんかった」そこが狙い目や。はい。

質問:もう一個いいですか?この運動によって内臓の血流が良くなって健康になると教えて頂いていますが。

河上さん:その通りです。

質問:私は便秘気味だったのが一気に改善して通じが良くなりました。

河上さん:良かったや。

質問:ただ健康面だけに留まらずもっと大きく真祈りに一大循環の相象(すがた)に直接溶け込む秘儀ではないかと思うようになり・・

河上さん:その通りです。

質問:欲張って動作を大きくしすぎたのか、

河上さん:落ちがあるんかい?(笑)

質問:胃を刺激して胃酸過多になったようで、(笑)胃が少し痛みを感じました。そこで二日休んでその後再び八の字と太もも肩入れ運動を交互に、最初は少し力を抜いて、だんだん動作を普通に戻して今2週間になりますが、何事もなく続けられています。今なら胃の痛みは自分のマイナスを軽く消していただいた、消えていく姿だと思えるますが、その当時は技術的なやり方に問題があるのかと思いました。

河上さん:その人、水分の取り方の足らんのもあるね。

質問:なお八の字は座ってやっている場合の話です。よろしくアドバイスをお願い致します。

河上さん:座ろうが、立とうが、自由にやっていただいて大丈夫です。それでこの前から言ってるように四股を踏む形のね、四股の形でしてやっていただいたら一番効果があります。その八の字は一大循環の相象(すがた)の入れ子構造の一番最小の相象(すがた)なの。一番最小っていうか、一つの相象(すがた)なんで言っています。で、何で手のひらの向きで何で八を書くかって言ったら、それで一大循環の相象(すがた)の旋回がね、表現出来るのでね、手首の形で。それでお願いをしています。だからプラスね、印可書奉読しながらすれば完璧だっていうことです。はい。

質問:ありがとうございます。

河上さん:どうぞ。

質問:先ほどのマイナスを思うとマイナスの応援が来るっていうので、この世のプラスの言葉もマイナス?

河上さん:そうそうそうそう。自分にとって都合の良い事でプラスに思ったって、そうそう。

質問:ラッキーとか。

河上さん:やっぱりマイナスになります。だから真のプラスの言葉を使わなあかんね。そこがね、真(まこと)のプラスの言葉っていうのがね、みんな分かれへんのよ。そこで先生はわからんやろうから「一瞬一瞬新たなる」っていう言葉をつけなさいってね、「一瞬一瞬新たな無限の無限の輝きが一杯」とかね、「無限の無限の健康一杯」と言いなさいってやったんだけど、みんなしてくれへんから印可書にしたわけや。なぜかって言ったら「一瞬一瞬新たに無限の無限の輝きが一杯」或いは、一瞬一瞬新たなる無限の無限の健康が一杯、喜びが一杯」って言ってもね、今健康でないのに、今喜びでないのにって、要らん事思うわけよ。だからみんな先生が言われても出来へんかってん。

 でも印可書やったら、要らん事を思っている暇がないくらい、一杯あるからな、印可書を作ってくれはったの。それだけです。

 だから本当にね、肉体が自分だという意識が消えるまでは悟ってないね。それって何かって言ったら肉体の自分にとって都合の良い事も悪いこともマイナスだって気付けば、肉体が自分だっていうのは消えるのだけれどもね。でも大概の人はね「娘が言うことを聞けへん」とか「息子が言うことを聞けへん」とかまあ色々あるわ。「旦那言うこと聞けへん」とかね、それ全部肉体の「嫁が聞かん」とかさ、「おかんが言うこと聞かん」とか「おかん、うるさい」とか全部一緒や。肉体の自分にとって都合のいい悪いで判断して文句を言うてるわけよ。

 で、五井先生が「文句を言いなさんな」っていうのもそこを言ってるんやけども、誰も五井先生にそこまで詳しく聞きに行けへんから、わからんまま。或いは、松下先生でもね、一瞬一瞬新たなって言ったって、辛いのにそんなん「新たなるどうこう」って言えませんわってもっと泣いて聞きに行けばね、分かったんだけれども、泣いてまで聞きに行ったの僕だけやったみたいでどうも。私も行きましたって言う人出てけーへんからな、あれやってんけど。  

 要は肉体の自分にとって都合の良い悪いは全部マイナスだって気づいてもらうと、印可書奉読に立ち返りやすいと思います。

質問:そしたら良い風に思った時も印可書でいいわけですか?

河上さん:そうですそうです。それが大事なの。本当は自分のいい時印可書奉読て言うとね、また変に引っかかるかなと思って、あんまりそこは強調しなかっただけで、やっぱり引っかかりやすいのは、ほら「あいつ嫌やわ」とか「あいつ怠けてるやん」ってあるやん。そっちの方がもっと怖いからね。まだ幸せやったわって言うほうがまだ楽やから、ましやから強調しなかっただけです。

質問:ありがとうございます。

河上さん:ありがとうございます。なかなか今日はオチがあって楽しい。オチがあるんかいみたいな。みんな段々笑いを取れるようになってきた。

宮野さん:一つ確認ですけれども、この世的にプラスの事もちろんマイナスの言葉はもう当たり前なんだけど、この世的にプラスの言葉も絶対プラスの言葉ではないので。

河上さん:そうそう。要するに一瞬一瞬新たに受け直す言葉が真(まこと)のプラスの言葉やね。一瞬一瞬新た受け直さないでしょう?この肉体にとって都合の良い事って。

 例えば宝くじ当たったら一番わかりやすいと思うわ。宝くじ当たったいうのは、肉体の自分にとっては凄いプラスや。でも本当は凄いマイナスや。やろ?それの大なり小なりが普段の生活の自分にとって都合のいいことが起きる、お給料あがったとか、褒められたわとか、表彰、なんとか勲章もうたわ、とかあるやん。あれがそうやね。それを貰う事によって凄いマイナスを背負ってね、大変になっていっていうにも気づかないくらい、みんなは自分にとって都合いいことを中心に考える。

宮野さん:ここでついでに言いますけど。そのなんちゃら勲章じゃなくって表彰される事っていうのは、仕事をやっていたらどうしようもない方っていらっしゃいますよね?

河上さん:成績優秀で表彰される時は逃げようがないから、それは諦めたらいいけど、印可書奉読に変えたらいいだけや。

宮野さん:ひたすら印可書奉読しながら自分のことを評価されるんじゃなくて神さまが評価されることやと与えられていることやと?

河上さん:そうそうそう。それが一瞬一瞬新たに受け直すことになる。自分の事って言った途端に受け直してないの。

宮野さん:神さまがしてくださったこと、神さまそのものが褒められること。

河上さん:だから先生はそれをまとめてね、全て神さまのおかげです。ありがとうございます」って言えって言うてんねんけど、みんな神さまのお陰やってわからないまま言うからややこしかってん。でもその分からんままでも効果あることを先生が印可書っていうおまけでしてくださっただけでね。

 本当はわかって言わんと効果ないね。印可書だけはわからんままでも効果あるようにしてくれはったから、その大おまけを自分の自由意志で使う時は使ってください。わざわざ人の自由意志を縛ってね、印可書あかんて言うのは怖いから辞めた方がいいよって言うテレビショッピング。

 自分が選びたくないのはどうぞご自由に。

宮野さん:でも印可書、だけじゃなくっても、人の自由を縛ることは?

河上さん:そうよ。自由意志を縛ることは良くない。

宮野さん:神さまが一番されない事。

河上さん:相手の自由意志を縛るっていうのは結局相手のマイナスを全部背負ってあげるって言う事やね。例えばこうしてお話をしているでしょう。お話をしてるって言うのは先生のお話はほとんど自由意志を縛れへんから、先生の話をみんな聞いてもわからへんのよ。わーって通り抜けるだけやね。それではあかんから、今ちょっと自由意志を縛りながら喋っているねんけども、普通の人は大体、相手の自由意志を縛るようにしゃべるの。「こうしなければいけません(あるいは、言うてやらないかん)」っていうやろ、あれが一番縛っているとことや。

 それでそうやって喋るとその時のその人らのマイナスを全部自分が背負わなあかん。で、背負って僕は清めますけれども、真祈りできない人は背負ったまま崩れて行くの。大変になっていくねんけれど、もう本人が自由意志でやってんねんけど、止めれないから、説明は聞こえるように言うねんけど、誰も聞いてないみたい。伝わってないみたいです。別に伝わらんで良いねんけどな。みんな好きにしはるわ。

宮野さん:あれですね。言葉としてこうしなければいけませんだけじゃなくって、こうした方がいいよね、こうした方がいいらしいよっていうのも全部一緒ですか?

河上さん:そうそうみんな一緒、勿論。だからテレビショッピングは相手の自由意志をふわって縛るからね、ついつい買いたがるね。横に個人の感想であって効果・効能を示すものではありませんていうところがミソや。あれがあるからさもホンマらしく感じてしまう。だから本当にその自由意志を縛るっていう事がどんなに大変かという事が、みんな分かれへんね。

 だからおばちゃんどうしの会話ってそうやね。相手の自由意志を縛り合いするんよ。それでマイナスのキャッチボールになるね。ただ、おばちゃんどうしの会話凄いのはキャッチボールしてお互いヒフティヒフティで終わるねんな、あれ。上手い事バランスが取れるようなったんねん、(笑)凄いわ。背負い切りは無いねんな、来たらすぐ返すから。もう速い。卓球のラリーみたいなもんや。パンパンパパーンって。

宮野さん:基本聞いていないで。(笑)

河上さん:そうそう。空間が歪んでいるからね。

宮野さん:言うたら終わり。

河上さん:宅急便みたいに受け取り判を押さんと突き返してるからな。

宮野さん:最初の方の段階でちょっと質問、質問じゃなくて、あれって思いはった方があったので、言っときますね。寿命のことに対して正確には125年125歳っていうところがあって、あれっ何で125歳やねんやろな?って引っかかりはった方があるんで、宜しく。

河上さん:あーなるほど。125歳っていうのは、今のこの形の肉体の時代、時代っていうんかな、時代ですね。ジェネレーションに入った時に決められたことです。もうちょっと前の時代はね、500歳とか800歳とかいうのが当たり前やった。当たり前やってんけども要するに神さまを信じない人のレベルが増えた分だけ、短かなっていくと思ってください。

 で、今のこのジェネレーションはもうすぐ終わるから、時間切れやから言うてるわけよ。で、早くチェンジしてね、新しい肉体をみんな受け取って貰わなあかんねんけれども、真祈りしてないと受け取られへんからな、それだけや。

 本当に後は無いのは無い。ただ、みんなの自由意志で印可書奉読して、いわゆる真祈りしてくれてね、したら皆の支え合いでね、さっと行くわけよ。でもいわゆる落第してやね、真祈りできないっていう人があると、ノアの方舟やないけれどね、一部の人だけが残ってあとは皆、今回は水没じゃなくって別の形ですけれど、消えていくだけです。

 どっちにしてもノアの時代の説明と大洪水が近いよっていうことですよね。早く真祈りを選んでねって。だから頑張って護摩をね、本当にどんどんやっていきたいと思います。護摩やったら本当にもう、神さまなんて言う人でも真祈りにしてくれるからね。だからもう嫌やって言っても一回は騙して連れて来いっていうのはそういう意味です。一回だけでも体験させたら、いよいよの時にちょっとでも大分その人にとってはプラスになるんでね。

宮野さん:本人が自覚するしないに関係なく。

河上さん:関係なく。要するにその肉体の後ろに何億人っていう縁者が付いている訳。そっちの方が大事やから言うてるわけです。肉体側は好きにしたらいい。だけど後ろの縁者がね、「もうお願いやからこの子を騙してでも護摩の会場に連れて行ってください」って言うからさ、しているわけです。後ろの人はもう、必死よ。そういうツテがないと光をもらえない。 

 まあこの世でもそうでしょう?仕事、就職するでも何でも縁故の伝手があったら、パってすぐ就職できるやん。なかったら中々入られへんでしょ?そういう感じで。この護摩っていう「伝手」にどうつながるかって向こう必死やね。要するに大おまけの「伝手」ね。普段やったら絶対に不可能なことが可能になるから、いうことです。

宮野さん:それはどうしても行けない、連れてきて行きたいけど行けないたいとかいう場合は護摩木?

河上さん:護摩木を書かしたら良いねんけどね。一回でいいから「宇宙神ありがとうございます」って書いてとか、「ありがとうございます」って書いてって言ったら、宇宙神ってつけたら宗教と勘違いされたらいかんから、「ありがとうございます」書いてでも良い訳や。名前は書かんでいいからね。表に一回だけでいいわけですから基本は。

宮野さん:それは相手のマイナスの思いをのせないいために、本来宇宙神ありがとうございますやけど、ありがとうございますで良いっていうのは?

河上さん:その宇宙神っていう言葉は要るか要らんかって言うたら要らんのですよ。「ありがとうございます」だけで本当は良いの。でもその一瞬一瞬新たなる真(まこと)のありがとうございますやねんな。具体的にいうと。その「一瞬一瞬新たなる真(まこと)」のというところを「宇宙神」って先生がまとめてくれはっただけ。だからその本当はね、先生最初「『ありがとうございます』って唱え続けて3ヵ月唱えたら悟れるよ」っておっしゃったわけですけれども、それをひたすら「ありがとうございます」だけを唱え続けたら本当は悟れたんや。

 それ何かって言うたらもう「ありがとうございます」だけを選び続けるという自由意志があるとね、「ありがとうございます」が「一瞬一瞬新たなる響き」だっていうことが分かってくる。

 それで悟れるね。でもそこまでみんな選び取れんかったんや。それは難しすぎるんやなっていうことで、印可書を大おまけに変わってるだけです。「あ」って言うのと、「り」って言うので「ワン」って光が広がるんよ、っていう感じやねんけれども、そういう説明しない。そんなんもう今は印可書があるからね、(昔は)物を貰ってのありがとうございますからみんな中々 抜けられへん。どうぞ。

質問:宜しいですか。

河上さん:どうぞ。

質問:一点確認です。皆様の中にも、いらっしゃるかも知れないですけれども、早速人の自由を縛ってしまったわって言うそういう瞬間であると思うのですね。日常で暮らしていると本当にそういう場面が。

河上さん:そう。思うだから毎回印可書に立ち戻っていくしかない。

質問:はい。その時にもう色々あれこれ解釈するのではなくて、もうその瞬間に「なんとおもろい自分なんだろうか」って或いは、。

河上さん:そうそう。そこが大事よ。「なんとおもろい自分なんだろう」や。

質問:余計な言葉を挟まず、間髪を入れず、「なんとおもろいんだろう」かって思う「なんて面白い自分なんだろう」とパーン!と思う。その後印可書をひたすら投入。という・・

河上さん:会議しよっても、もう楽しい会議しとるなあ、楽しい状態やん。

質問:それでしなくていいよって言わなきゃいけないかな。そんなどうでもよくって。

河上さん:そう。

質問:面白い自分、印可書奉納で行けばいいってことですかね。

河上さん:もう楽しい会議です。楽しい楽しい会議。なかなか面白い状態になってるやない
か。
質問:はい。ありがとうございます。




令和5年6月河上さん勉強会−2前半(20230611−2前半)

河上さん:だから、村の作業やったら、「この重たいのをこんだけあっちまで持っていきなさい。」「あ、面白い状態やな。」って思わないとあかん。「ええっ!?こんな重いのあっちまで持っていくの?どうするの!」って思ったら、もうあかん。「なかなか楽しい状態に追い込んでくれるなあ。」や。

宮野さん:思っても、すぐに「あ、違ってたんや。」って言って、印可書奉納。

河上さん:うん、印可書奉納やけど、もう時間的に間が詰まってる時は、楽しい楽しいって持って行ったら良い。

質問:その印可書奉納が、真(まこと)の神さまを立てていくっていう、神さまのお役に立てるっていう…

河上さん:そうそう。だから本当は「ありがとうございます」だけでね、すべての人に真(まこと)の神さまを立てれるの。立てれるけどな、立てれると思えへんやろう、自分が。そしたら、思えへん状態でも立てれる完璧な方法が印可書よって先生が作ってくださっただけよ。その大おまけを使わんでどうするんやと思うのね。印可書は自分で否定していても、プラスの真(まこと)のプラスの効果を出るように先生がしてくださったわけよ。「ありがとうございます」は自分が否定したら否定した分だけ効果が薄れるわけ。その違いや。

 で、先生は一生懸命ね、「ありがとうございます」と唱えるだけで大おまけが付いてねって一杯説明してくれてるねんけど、付いたとも思ってくれへんわけよ。否定する思いが出るから。それは10文字しかないからよ。要らんことを思いやすい。印可書やったら、ウワーッと続くから、思ってることすら忘れるやろう?そこが良いの。「ありがとうございます」を12回続けたってな、あと要らんことを思うの。印可書は手を変え品を変えやから、思い切れないうちに変わっていくんや。その自分のマイナスの思いを印可書の中に巻き込んでくれるような凄い作用を作ってあるの。それをもうちょっと巻き込みやすいように、お前改良せえ、お前なんでも改良するの得意やろう、みたいなことを色々と言われて、今のタイプになってますけどね。

 で、先生の出された印可書は、やっぱりキツすぎるから、やめておこうということで燃やして行かれた。本当に印可書が全部ダメやったらね、僕の作った分も象徴的に書いてね、一緒に燃やしはったはずです。作った分を残されたというのはそういう意味ですね。

 でも印可書は嫌やと言う人は嫌で良いんやで。そこは自由で良いねんで。だけど、人には言うなよって。人を縛るのは止めてねっていうことやね。

質問:ありがとうございます。今のご質問というか確認の時に、間髪を入れずに面白い奴やとか、印可書奉納に立ち戻ってというのが理想ではありつつ、ドップリ暫くは現実を掴んでいて、後で、すっごい後になってから…

河上さん:そうそう、後からで間に合うから印可書は凄いの。

質問:ですよね。時空を超えるから、印可書に気付いた時に立ち戻るっていう…

河上さん:そうそう。それで間に合うから、印可書の大おまけであるし、凄さやねんね。本来、真祈りというのは、時空を超えるから、過去の自分まで全部遡(さかのぼ)って効果があるの、

 一瞬で。でも、みんな、例えば「ありがとうございます」が真祈りって思い切れないわけでしょう?でも印可書やったら、思い切れるとか思い切れないじゃなくて真祈りにしてくれるから、すべての時空に効果が響き渡ります。

質問:そこでやっぱりつい、そのドップリと浸かってた自分とかを責めるじゃなくても…ついついそこって…

河上さん:責めない。面白かった自分やと。なかなか面白い演技をした自分やという。面白い演技をした自分なの、面白いというのはね。

質問:ありがとうございます。

河上さん:ありがとうございます。

 本当は簡単なことやってんけどね。みんなが、マイナス、肉体は自分やとか、何かするのは自分がすることやとかというマイナスの思いで、自分を縛って分からなくしてきただけ。その時にマイナス側の勢力がね、後押しするから余計分からんようになる。「いや、ちょっとあの子嫌やと思っただけやん。」とかね、「ちょっとあの人サボってるな。」とか思っただけやっていうのが、凄い危ないっていうのを気付いてもらうと楽になると思う。

 「面白い演技してはる。」や。なかなかサボる演技って難しいで。人からボロクソに言われるの覚悟よ。普通はボロクソに言われたくないから、出来るだけそう見えないように、誤魔化しながらでも動くけどさ。

質問:マイナスを増幅させる存在があるのであれば、プラスを増幅させる存在は神さまですか?

河上さん:だから、この世的なプラスはマイナスやからな。そのプラスを増幅じゃなくて、一瞬一瞬新たに真(まこと)のプラスの響きが出てるだけなの。それを100%受け取れたら、増幅とか増幅じゃなくて、もう神さまは完璧やから増幅する必要もないの。ただ、みんな100%よう受け取れないだけよ。ところが、印可書を奉読したら、100%受け取ったことにするよっていう大おまけやからということだけです。

質問:はい、ありがとうございます。

河上さん:ありがとうございます。

 だから子どもが勉強しないってマイナスに思ったらあかんの。常にプラスに思えるようにね、頑張らないと。思った分だけ相手を縛って相手が余計動けないようになるの。結局ね、怠ける人って、中々治らへんでしょう?それって「あいつは怠けてる」っていう、みんなの思いが重なって、余計にその人も動けんようなってる。そりゃもう大変なことよ。何て言うんかな、結局、無意識にみんなは相手を縛るの。その結果、自分が動けないようになっていく。

 だから前に言ったように、会社で上司になるのは優秀でなるんだけど、上司になった途端に部下を持たんなんやろ?で、部下が仕事出来へんから「出来へん」って責めるやん。責めることによって自分が動けないようになっていくの。で、大体、上司になるとノイローゼになったりな、病気になったりしやる。あるいはズルくなったりしていくの。それは自分で自分を縛っていってるねんけどね、本当は。

 お母さんが一緒に勉強してあげたら良い。

質問:はい。

河上さん:そりゃそうやで。そうしたら子どもは喜んでするわ。みんないつも思うねんけどね、

 親も一緒に勉強してあげたら、子どもは喜んですんねんで。だけど親の方は、自分は関係ないっていうとこがあるねんな。それで余計子どもも反発するの。今は、中々良い参考書がたくさん出てるから頑張ってください。良い先生も紹介しますから。

質問:ありがとうございます。

河上さん:いや、本当にそうやで、一緒にしてあげたら子どもは喜んでするよ。一緒に、家庭教師が来た時に一緒に勉強受けたら良い。そんなん高校の数学なんか簡単やて、大丈夫。大体中学でもそうやけど、みんな「自分は苦手」って縛って、もう出来へんようになってるだけやもんな。嫌って。あの先生が嫌やからとか、変に他に理由付けてるけど違うの。自分が自分で縛って分からんから嫌って決めてるだけやねんな。

 だからみんな、肉体側の自分にとって、都合が良いか悪いかで判断するからね。で、お互いにいがみ合ったり喧嘩になるの。それも肉体側の自分にとって楽とか、褒められるとか、偉いと思われるとか、そういうレベルの判断が先に立つねんな。で、その判断の中で1番凄いなって、いつも凄いなと思うのは、この現世(うつしよ)というのは、まず理屈抜きに、この人良い悪いって先に決めるねんな、会った時に。中々そこから自分が逃げられへん。この世で出会った時に、理屈抜きに良い悪いって決める理由は何かと言ったら過去世のものやねんけどね。過去世のものやねんけど、やっぱりそういうもんやねんな。

 だから恋愛がそうやねんね。過去世で一杯世話して色々やってくれた人をね、無意識に好きになるの。で、お世話し返すというか、恩返しするねんな。それであんなにどついて怒鳴ってする旦那に、なんであの奥さんはいつまでも尽くすの?って言うけど、それは逆に言うと、過去世でね、凄いその人を大事にしてくれた人なんよ。だけど、そういう因縁因果を超えなあかんからね、印可書があるんだけど。

 好きになるとはそうなの。本当やったら好きじゃなくて、お互いに只々、支え合うだけっていうのが本当の愛やねんけどね、理屈抜きに。だけど、もう、そうじゃなくて只々、っていう好きやからっていうのは、そういう過去世のものですね。

 だから熱烈な恋愛したあとに離婚しはるのがあるねんけど、それは熱烈な恋愛をして必死で尽くすわけね。それでもう、恩返ししたからええわって言って冷めるわけよ。それで、あんなに大恋愛しはったのに別れはったっていうのはそれよ。あるいは尽くしてるうちに相手が浮気しよったから、もうこれで恩返したも一緒や、みたいな感じやね。

質問:別れる別れないに良い悪いはないっていうことですか?

河上さん:良い悪いはないですね。ただ、みんな自分の都合にとって良いか悪いかで別れる別れへんを決める。どっちでも良いねんけど。まあ、先生流の言い方で言えば、より苦労を選んだ方が得やでみたいな感じやわな。自分にとって苦労から逃げてるうちはね、損してる、マイナスを積んでるっていうことなの。

 まあ、一番先生の厳しい言葉で言うと、「何もしないだけでマイナスを積んでる」って先生はおっしゃる。「私、悪いことしてないわ。」っていうのはマイナスを積んでるんやというのが本当のことなの。「私は、何も悪いことしてないわ、良いことだけしてるわ。」って言ったらマイナスを積んでるの。

 一瞬一瞬新たなる真(まこと)のプラスの言葉を駆使しない限りは、全部マイナスを積んで、大変なことになっていくの。人を責めなくても、怠け者やと言わなくても。「私、人を怠け者と言ってないわ、あの人ズルいと思ってないわ。だから大丈夫。」じゃないの、本当はな。

 本当は真祈りをしてなかったらマイナスを積んでるんよ。でもそこまで言うと、もう…と思って今まで言わなかったけど。今、先生が言えっていうから言うけど、何もしないのはマイナスを積んでるんやで。楽をしてたらマイナスを積んでるんやで。ひたすら印可書奉読してないと。今やったらね、印可書があるから、そういう意味では印可書あるから楽よね。ひたすら印可書奉読したら済むからね。だからトイレに貼っとけって言うの。トイレに入った時くらいは読めるやろう?って言ってね。

質問:肉体にとって、究極に都合が悪いのが死ぬことだと思うんです。もうすぐ死んでしまうかもしれないという状況になった時に、大概の方は、自分も含めて「死にたくない」と思うと思うんですが。

河上さん:そりゃそうや。当たり前や。

質問:そういう時は、「死にたくない」と思いながら印可書を唱えても…?死期というのも神さまが与えてくださった一番良いものだとは思うんですが、「死にたくない」という気持ちを、投げ込むような形でお祈りをしていけば良いですか。

河上さん:そうそう。だから印可書はね、印可書の中にね、自分の不平不満を一々投げ込まなくても吸い込んでくれるんよ。「宇宙神ありがとうございます」は、自分の自由意志で投げ込まないと吸い込んでくれないの。そこが凄いの。印可書は相手の自由意志を越えて吸い込んでくれるの。それはその分を全部先生が背負うんだけどね。それくらい凄いことなの。

 だから「宇宙神ありがとうございます」やったら、自分の自由意志で、どうかこの自分の死にたくない思い…とかあるやん、もっとお金が欲しいとか、その人にとってね、いい男が欲しいとか、嫁も欲しいとか、美味しいもの食べたいとかあるやん?それを「宇宙神ありがとうございます」だったら、自分の意志でこう思ってしまう自分を、神さま、もう何とかしてくださいって「宇宙神ありがとうございます」に投げ込まないとあかん。

 で、投げ込めたかどうかはどこで判断するかというと、簡単なの、文句を言わなくなったら投げ込んでる。文句を言い出したら投げ込んでない。でも印可書やったらどんどん吸い込んでくれるから、もうひたすらそれで進めるわけよ。

 「宇宙神ありがとうございます」やったら何が難しいかと言ったら、文句を言い出すとね、自分がめげるじゃない。必死で「宇宙神ありがとうございます」と祈ってやってるつもりなのに、また文句が出たわ、もうどうしようってね。そこで私ダメだわって言ったら、もっとエラいことになるし。面白い自分って思っても、中々ね、めげてしまうから印可書の方が楽やけど、「宇宙神ありがとうございます」一本でいきたいんやったら、ひたすら「宇宙神ありがとうございます」に投げ込まないとあかん。

 投げ込んだら一切の文句は出えへん!出たら、また投げ込まなあかんで。

 だから、五井先生の「文句を言いなさんな」とかね、松下先生のね「無条件に喜びなさい」とかね、色々ある。でも、どの言葉も神さまにどれだけ(文句を言う自分を)神さまに投げ込めたか、投げ出したか、やね。正確に言うと投げ出せたか、や。五井先生はよくね、「こんな自分でどうしようもないけど、神さまどうかお願いしますって、世界人類が平和になりますように!って祈れ」ってよく言われたんだけど、その投げ込む、投げ出すっていうとこが難しいのね、意外とね。自分を責めてしまうから。で、今度は投げ出さなくても吸い込んでくれる印可書に。

 印可書はね、その二重らせんになっててな、そのらせんの中にガーっと吸い込まれるようにしてあるの。その吸い込んだのを、全部先生がお一人で処理されるから、それは…って言って、今は3人で処理してるわけです。もう、どんどん、どんどん大変になっていくけど、そんな文句は一切言ってる暇もないくらい大変な状態できてます。だから「宇宙神ありがとうございます」を選んでくれたら、こっちは楽やから、どうぞ「宇宙神ありがとうございます」でいってください。

質問:すみません。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せるっていう、お話にありましたし、凄い一番なんか、すごく、いつでも出来るお話…

河上さん:そうそう、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せるというのが一番楽に、みんな思うでしょう?

質問:はい。できたら楽かな、と。

河上さん:そこが、こっちの狙い目のツボやったんやけどね。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」というのは、凄いね、神さまに対する絶対の信が要るわけ。要するに、呼吸に乗せてたら、要らんことを思う暇がなくなるの。で、自分は真(まこと)の神さまだけって選び取れる状態になるんよ、呼吸に乗せるというのはな。でもな、1回でも2回でも抜けるんよ。な?抜ける間は全然…

質問:あ、そうでした。はい。抜ける方が多いです。

河上さん:そうやね、抜ける方が多いって言ってたら、まあ、のんきでええけどな(笑)あの、それでは全然ダメなの。

質問:あ、すみません。それを練習というか、言い続けて…

河上さん:違うの。あのな、ここが一番問題なの。真祈りは練習やないの。努力やないの。既に祈っている自分に気付くだけなの。そこに、既に祈っている自分に気付くためにはね、本当に、ひたすらね、自分中心に良い悪いって考えている自分を、これを「我(が)」というねんけど、我を神さまに投げ込まなあかんの、自分の自由意志で。

 自分の自由意志で神さまに投げ出さんと、神さまは取ってくれへんのよ。印可書は自由意志で投げ出さなくても取ってくれるけど、他の祈り言葉は自分の自由意志を示したら神さまが取ってくれるの。

 だから「神さま助けて!」って言えって言うわけよ。縋れっていうのはそういう意味なの。だけど、たいがいね、これは自分のものって掴むんよ。掴むと、呼吸に乗らない時が出るの。呼吸に乗ってたら、全部神さまに投げ出せるの。そこまで覚悟を決めて呼吸に乗せなあかんねんけど、それを、そういう難しさを、わざとスタートに言ってんけど、みんな、真祈りとかね、肉体が自分と思うことが、どういうことかとかいうのを、先生の説明がたくさんあったんだけど、聞いてないから、このままフワっと来たんよ。

 だけど、どうせ出来へんと分かってるけど、わざと言って、印可書に引っ張らなんから、投げ餌はそこから始めてんやけどね。あれは投げ餌やってん。出来る人はおらへんのは分かっててんけどな。

 まあ、先生が老子でおられた頃に、そういうことを言われたんですよ。「天地(あめつち)は、これ?籥(たくやく(火を吹きおこす道具→ふいごのようなもの→呼吸のたとえ。))の如きか」という言葉でね。神さまというのは大きな呼吸だ、そういうことをおっしゃって、呼吸に乗せてとおっしゃったんだけど。あの時もできた人はちょっとだけやってん。それくらい、凄いひたむきさ、神さまに対する絶対の信が要るわけよ。呼吸に乗せてるのになんで?と思った途端に崩れるわけよ。印可書は、なんででも良いけど印可書に戻したらという楽さがあるけどね。それくらい、なんて言うんかな、神さまに自由意志で自分を、小さい自分をですよ、投げ出すというのは大変なことなの。

 だって肉体を持った以上はね、自分にとって都合の良い悪いを判断基準にしてるじゃない、生まれてからずっと。そこから抜けられへんの。いつも言うように、神さまは絶対の愛でしょう?全知全能の方でしょう?神さまは一番良いようにしかしてないわけや、理屈で言ったら。それは理屈ではみんな分かるの。分かるけど文句言うやろ?それくらい投げ出せてないの。

 文句言う自分っていうのは神さまから離れた小さい自分なの。要するに肉体が自分だと思ってる自分なんだけど。それをどれだけ神さまに自由意志でお返し出来るかやねんけど、返されへんの。それが最初の小さい恩返しやねんけどね。

 先生が恩返しっていう説明、わざと難しい恩返しっていう言い方をされたわけやね。そしたら「具体的に恩返しってどうするんですか。私、分からへんわ。」って言う人おらんかったんや。

 スタートの恩返しはそれ。肉体が自分という意識を神さまに投げ出していかなあかんねんけど。神さまに肉体の自分という意識を投げ出したらね、辛いしんどいはないの。な?なんでも、だから嬉しい楽しいになるの。だけど、そうもならへんけども、まず面白くなったなあ、面白い奴やなあ、楽しい状態になったなあって言ってから始めましょうねって、今やってるわけで。

 なんでも楽しい状態になってきたなあって言って。だから、風邪を引いて熱が出てきてもね、楽しい状態になったなあって思えることがまず大事なの。

質問:努力?

河上さん:だから努力っていうとね、自分がしてるってなるの。だからみんなそうやね、真祈りでもね、努力して出来るようになるとかね。だけど、勉強がそうやねん。勉強ってね、出来る子は努力してるなんて思ってへんの。出来へん子に限ってな、努力してこの漢字を何十回も書いて覚えようとかね、この英語の単語何十回も書いて覚えようとかね、この数学の公式を覚えよう覚えよう、努力してなんとか、努力して勉強してって思うの。そうしたらもう、全部出来へんようになるの。

 それは努力というのは肉体の自分がなんとかしようとする意識だから。でも本来、悟った自分、真(まこと)の神さまの本来の自分は無限の能力やから、自然に出来るの。だから自分がしてるという意識が消えるまではあかんの。

 で、勉強出来る子というのは、頭の良い子っていうけど、そうじゃなくて、過去世でね、真祈りの修練ができていて、結構、真祈りの近い所におる子というのはフワっと出来るの。たったそれだけなの。だから生まれついて絵のうまい子、生まれついて字のうまい子ってあるでしょう?

 それはその方面での真祈りが深かった子や。あるいは生まれついて走るのが速い子ことか色々あるじゃないですか。そういうもんなの。

 野球選手でもそうでしょう?みんな野球が好きやけど、ホームランバッターまでなる人はわずかや。それは、過去世のものが一杯あるの。でも今生で現れてきたもの、自分で出てきた能力をね、如何に神さまのために生かすかどうかが問われるの、今度は、そういう人らは。

 自分が何でも出来るから、お前らアホやって言ってる間はあかんわけよ。出来る自分が、みんなのために尽くし切れなあかんねんけどね。それがまた厳しい修行やねんけど。

 それくらい、まず自分が何かしてるという意識が消えるまでは大変。だから自分の自由意志で、こんな自分ですけどって投げ出したら良いの。だけど、「こんな自分」って言ったら、もう掴んでるからあかんわけよ。「こんな面白い自分ですけど、よろしく」って投げ出していったら良い。「こんな楽しい自分だけどよろしく」って投げ出していく。でもそう思い返さなくても、印可書やったら読むだけでどんどん進めるっていう。

質問:ありがとうございます。そういうわけですね。はい。

河上さん:そうです。ありがとうございます。

 中々、深慮遠謀の中、長期的な作戦で来てるから。やっと6年目ですか7年目ですか?はい。あっという間やったけどね。先生とお会いして、もういよいよ60年目に入る。大変や。恐ろしいわ。59年目か、正確に言うとな。長いようであっという間やったね、やっぱり。途中で奥さんに取られちゃったけど(笑)

 だから常に、既に悟ってる自分というのをね、忘れたらあかん。既に悟ってるから、真祈りが出来るの。だから勉強出来る子ってな、分からへんがまずないからね。分からへんねんけど、なんて言うんかな、なんも考えんと読んで、分かっていきはるみたいな感じやね。勉強出来へん子は努力してせなあかんから、ちょっとのことに引っ掛かって、ここが分からへんから先に進まれへんってやるんやけど、勉強出来る子は引っ掛かっても、またこれは後で分かるやろうみたいな感じでな、サラサラといくから分かるようになんねんけどね。その差が大きいねんけど、普通の人も結構そうよ。こんな自分でダメって言って、引っ掛かって進めへんの。「こんな自分でダメ」をやめて、「面白い自分、こんな楽しい自分ですけど、神さま!」ってやって、やっていけたら良いねんけどね。それは既に悟ってる祈ってる救われている自分やから出来るの。

 だから勉強でも既にみんな分かってるんよね。分かってる自分やから分かるねんけど。分からん人は分かるわけがないの。だから本当にね、努力してなんでも出来るんやったら、お猿さんでも犬さんでも猫さんでも努力してね、人間の言葉が喋れるようになるはずや。そうじゃないね。

 人間は人間の言葉を既に喋ってるから喋れるようになるの。猫さんは猫さんの言葉を喋ってるから、猫さんの言葉を喋るようになるだけで。努力してなるんやったら、ちょっと優秀なお猿さんやったら人間のように喋れるようなるで。そりゃそうや、努力で出来るんやったら。猿に演技させる人が、熱心にね、教えたら良いわけでしょう?でもお猿さんの能力の限界は必ず来るやん。

 それは既に悟ってるお猿さんの表現がそこまでやからや。人間は真(まこと)の神さまとしての表現を頂いているからなんでも出来るの、本当は。自分で肉体人間やから出来へんと思ってる。

 この前の大雨でね、うちじゃないですけど、知り合いの裏山が崩れたんですよ。このまま次の雨が降ったら家まで崩れるから、なんとかしてくれってなって、色々と手配して。だけど、何が問題かと言うと、ブルドーザーとかね、裏山やから、自分の家が前にあるから重機が入れへんわけ、人間しか入られへん。でも、どけないと大変やからっていうことで、色々と手配しても、中々大変な中でね、あるところにお願いして、どけてもらったんですよ。

 その時にネパールの人が来たの、3人。日本の方とね。日本の方は、ダンプを運転して家の前に止まってるだけよ。ネパールの人が全部それをスコップですくって、してくださったんですけど。その時にどんなに凄かったと言うと、もう抱えきれないほどの大きな石が出てきたわけ。それは3人掛かりでも大変やろうから、みんなで手を出してやるから置いといて、後でなんとかそれをしようと言ってたら、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」って言って一人で「ヘイッ!」て上げてしはるわけよ。「こんなんは無理」とかこっちが勝手に縛ってるだけで、そういう縛りがなかったら出来るの。

 でも考えたら昔はね、農家の主婦やったら米俵を両側にフッて下げて歩いてはったわ、当たり前のように。それでポツンと一軒家の昔の写真を見てたら、米俵を四つくらい肩に担いで山を下りてはるわな。考えたらそうやね、山道しかないの、コメ出荷するのに。人間が担いで行くしかないから、そうなって行くわけやんか。それくらい何て言うの、縛りがなかったら発揮出来るもんよ。自分で肉体だという、肉体の自分と縛っている分をどれだけ外すかが真祈り。で、外すためには、自由意志で神さまに投げ出さないとあかん。それだけです。

 で、その肉体、この肉体の自分という縛りを解くためには、若い人はね、本当に限界に挑戦せんなんね。楽したらあかんの、苦労せんなんね。どんな形でもね。モノ持つだけやないで、勘違いしたらあかんで。色んなことでね、苦労せなあかんの。年取るとね、苦労のしようがないの、

 体力がなくなってきて。だから体力があるうちに、そうして自分のね、縛りを解いていかんとね。自分の縛りは自分でしか解けないからね。で、若いうちは苦労した方が良いよって言うんだけど、みんなスルスルと楽に逃げよる(笑)



令和5年6月河上さん勉強会−2後半(20230611−2後半)

河上さん:自分で振り返って今思っても、ようあんな事出来たなって思う事ばっかりやったけど、そんな事思える人が少ないくらいね、今の時代は変わってしまったな。とにかく自分の縛りは自分でしか解けないから、取り敢えず今は印可書の奉読があるんだから、印可賞を奉読し続けてください。

質問:この世っていうか、本心を開発するのでこの場所って思っているんですけど、真(まこと)の言葉を駆使するっていう事を正に今、日常で実践していく中で、繰り返しになるんですけど、私の場合で言うと、色んな事が有ってもマイナスがでた気持ちがあれば、先程お聞きしたように、面白い、そして印可書を奉納する、そして体がだるい時が有っても、それでも印可書に立ち戻る。自分にとって不都合な事に対して本当に少しで良いから、○○しながら印可書を奉納するっていう事を、兎に角繰り返していくっていう事で印可書に○○したら、本心も開発出來、お祈り、お役に立って行けるというか、本当に自分がしたかったことをやれるというか、そういう事になるという理解で良いですか?

河上さん:いいです、いいです。その通りです。本来の本心の自分のするべきことを出来るようになって行きます。

 兎も角、真(まこと)の言葉を駆使するっていうね、真(まこと)の言葉の部分がみんな分からへんね。「一瞬一瞬新た」なるっていう言葉を付けたら真(まこと)の言葉になります。 

 だからプラスの言葉でもね、一瞬一瞬新たなる無限の無限の輝きが一杯!一瞬一瞬新たなる無限の無限幸せが一杯!一瞬一瞬新たなる無限の無限に喜びが一杯!って付けたら真(まこと)のプラスの言葉になるんですけど、「誰も聞きに来よらん(こない)。お前の真祈りが足りんからや」って怒られてた。「お前がちゃんと祈らんから、中々みんな分かるとこまで行くかへん」って言って怒られてね。

 でも、そう言い変えていくの大変だから印可書に先生して下さった。でも普段の言葉でも使う時は「一瞬一瞬新たなる無限の無限」って付けられたら真(まこと)のプラスの言葉に変換されます。

 勿論、アカンとかそういう言葉を後ろに足したらあかんけどね、プラスの言葉で足して下さい。喜びとか幸せと輝きとか一杯あるじゃあない?

質問:確認なんですけど、印可書の奉納、そして今仰ったようにように一瞬一瞬新なという言葉を付け加えながら、言葉を駆使していく?

河上さん:そうよ。だから印可書だったらそんなん言葉を付け加えなくっても印可書奉読だけで済むからね、楽でしょうっていう事です。でないとついつい一瞬一瞬新たなる無限の無限のって付け忘れる時があるから、自分が引っ掛かるじゃあない。という事です。

 で、子供にやったら一瞬一瞬新たなる無限の無限の能力が一杯の子供、我が子って付けたら良いねんけどな、何時もそれを

宮野さん:我が子の我がって要らん。

河上さん:我がって要らんけどな、口に出さなくても、先ずそれを前に足してから子供に話しかけたら良い。そしたら勉強しない子っていう自分の意識が消せるから。

 やっぱり無意識に勉強しない子って自分で縛っているから、余計相手が縛られて出来へん。或いは勉強嫌いな子とかね。

宮野さん:やっぱり自分の価値観迄の点数が取れないとか、評価に値しないとか。みんな神さまだからね。

河上さん:結局はある意味一番難しかったのは、一瞬一瞬新たなるっていうとこやね。理屈では分かったつもりになるけど実感が湧かないでしょう?で、印可書は実感わかなくっても大丈夫やから、もうややこしくなったら印可書で行くっていう。

宮野さん:両方っていうのはどうなんですか?

河上さん:いや。両方でも勿論良いんやで。

宮野さん:言い方は悪いですけども、ある時は都合よく「宇宙神」だし、ある時は「印可書」だしっていうのは?

河上さん:それで良い。

宮野さん:それでも大丈夫ね?

河上さん:だから「16項目」も「ありがとうございます」も「宇宙神ありがとうございます」も螺旋構造のままなの。だから自分の自由意志でその螺旋構造に投げ込まないとあかんの。だから別にそれで良いんですよ。だけど「印可書は2重螺旋構造」だから吸い込んでくれるっていう。それで何を思っていても大丈夫っていうのです。でもその場面場面、時間とか場所に応じてね、自在に祈り言葉を駆使して貰っても大丈夫です。だから「すべては、神の、み光み力み命」でも良いしね、先生が残された祈り言葉、全部今でも生きています。

 ただ、印可書迄のやつは全部1重の螺旋構造なの、ダブルになっていないの。で、宇宙神ありがとうございますは本当はダブルにしたんだけど、皆が文句を言って消してしまったん。本当のことを言えばそれだけやね。だからそれこそ質問に来ましたけどね、じゃあ、「宇宙神ありがとうございますって祈ったら人を殺しても良いんか?」みたいなしょうもない質問が来るわけ。それはもう祈り言葉を穢(けが)して行っている訳だね。それでもうどうしようもなくなっていったんやけどね。

 だから自分の自由意志で投げ出すっていうのと、相手のせいにするっていうのは別なんやな。

 だけど皆は投げ出すっていうと相手のせいにするみたいな、要するに神さまのせいにするのが投げ出すみたいに思う訳よ。

 だから「宇宙神ありがとうございますって祈っているから人を殺しても大丈夫やな?」っていうのは神さまのせいにしているでしょう?投げ出しているんやないやん。でもその区別が皆付けへんね。だから昔で言うと、南無阿弥陀仏と言いながら人を殺して良いのかとか、もの盗んで良いんかとかの言葉やね。それは南無阿弥陀仏と言いながら阿弥陀様に投げ出さないとあかんのに、阿弥陀様のせいにして甘えて頼っているね。その投げ出す、頼るの区別つかずにみんな要らん事をしてしまって祈り言葉を穢していくの。

 で、印可書は穢す暇もないくらい吸い込んで行ってくれるから、少々は大丈夫や。

 ただ先生のお創りになたんは2重らせん構造がね、1サイクルというか1つの周波数だけやった、強い光だけやった。だから中々みんな近寄りがたくて逃げたの。で、ちょと色々と入れ子構造に組み替えて、弱い光でも、どの状態でも吸い込める構造に改造させて貰いました。

 「お前そんなんの、光弱めてしまうの得意やろう?」みたいな、ぼろ糞の言われ方をして、弱めた状態にして今のがあります。

 これはプログラムで言うとサブルーチンって言って入れ子構造に組合す手法なんですけども。

プログラムやっている方は分かる。或いは数学の分かる人やったら分かる。係数xで囲んで一纏めにするっていう例えばね。aで囲んでaの部類として1纏めにするみたいな。aで囲んだ部分とそれ以外の部分で分けて、解いていくんだけどね。それはプログラムで言うと、一つの働きのプログラムを一つのサブルーチンにしといて、そのルーチンを三つくらい重ねたのを、もう一つのルーチンにしてっていう感じにして入れ子構造に組み上げて使うんだけど。それを祈り言葉に使っています。本当を言うと。

 だから何かみんな訳の分からんうちにね、訳分からんのんだけども、何となくみんな分かってきたはずやの。何となくスッキリしてきたはずやの。だからだんだん僕の話しは勿論の事、先生の話が分かるようになってきた。それは入れ子構造にそうして吸い込むようにしてあるんだけどね。中々、結構楽しい技を使った。難しいって言ったらあかんな。楽しい技。

 難しいっていう言葉も使わんほうが良い。ややこしくなるからね、何でも楽しい状態、面白い状態。「面白いわ、楽しいわ」

 神さまの救いの働きっていうのがそういう形なんです。入れ子構造的に一纏めにして、順番に順番に一纏めにして救い上げて行くんですね。もう基本的な神さまの働きの形なんですけどね。

 例えば大地震があってね、被災した方を救い取るのでも、助けに行くのでも、自衛隊のヘリコプターで行くんでしょう?その時にみんな一辺に乗れないわけやんか?ならグループ分けして一番身体の調子の悪い人が最初ですよとかって分けるわけでしょう?で、一番元気な人は最後にしますからねとか、そういう感じの分け方をする。これは本当は凄い楽しい事なんやけど、みんな難しいって思うから止めとくけど。

 やっぱり嫌だなっとか辛いなっと思うのが一番危ないね。楽しいなって、どの状態になってきたって「中々、おもろい状態になってきたな」、「楽しい展開になってきたな」っていう、八方塞がりになるからこそおもろいな!だってそうじゃあない?普通に生きていたらフアーっていきている訳やろう?でも八方塞がりになったら、色々とこう知恵を働かして考えて色んな伝手も頼ってこうする訳や。それを打ち破れた時は本当に楽しい。でも何もなくてフアーって行ったら、何の感動もないな。だから八方塞がり程楽しい、本当は。

 それを嫌だなって言うから、ややこしくなる。それって結果をつかまないからや。八方塞がりになって、それを上手く越えれなくても気にせんかったら大丈夫。何が有っても解決しないとあかんって言ったら、もうそれは掴んでいる。

 だから大自然の働きを見たら、何か火山の噴火でも中途半端に終わるみたいな感じやけど、そうじゃあなくって、ちゃんとそれが一番良いようになっているの。自分の生活でも上手く行かなかったのが良かったっていうのが分からなあかんの。それを自分の都合で良い悪いって思うからややこしくなって行くの。

 長い125年の人生、もっと短い人も居るかもしれんけど、長い人生の中で結果としてそれが良い形になる事ばっかりやね、本当は。そこで会社を首になったからもっと良いとこに行けたっていうのが本当はあるねんけど、どうしようって思うからややこしい。

 自分の都合で考えたら不幸な事ばっかりや。だって宝くじなんか当たったら凄いマイナス背負うねんけど、自分の都合で考えたら、なあ、3億当たった、やったーや。(笑)

 安月給で割の合わん仕事をしているから、健康でいられるっというのがみんな分かれへん。いやそれはそうやで、凄い給料貰って働かんとじっとしときなさいって言ったら、病気になるで。

 あんまり動いたらあかんて言われたら。でも会社で上の人ほど体調管理が大変でしょう?体動かさないから。安月給を喜ばないと。

 結局みんな、お金の金額で価値を判断するでしょう?でも本当は神さまは絶対の愛で本当に平等やからね、例えば安月給で一杯働かされたとするやん。すると例えば月8万円しか貰えんとするや、でもその8万で8万円以上の物が手に入るね。だけど大して働かんと40万、50万貰うとするやん。そしたら値打ちのない物を高く買わされる形になって行くの、運命的に。一番極端は詐欺師に騙されて持っていかれるの。そういうもんや。

 だからお金の金額じゃあなくって、お金についている本当の物があるの。それが分かれば先生の言う「ただ働きが一番良い」っていうのが分かる。「給料貰わんと働くのが本当は良いのや」って先生仰る。本当は給料貰わんと働いたら、誰かれ無しに食べ物でも何でも必要なものは呉れるの、ただで今度。っていうもんや、先生の言う極端な表現やけどね。だから安月給に文句言わないように。

 だからお金持ちほどね、何ぼお金つぎ込んでも上手く行かない時があるね。それは徳のないお金やね。徳のあるお金と徳のないお金ってあるの。それ金額ではない。

 一番極端な例で分かり易い例で言うと、強盗殺人してね、奪ったお金、でもお金には(殺人して手に入れたお金って書いてないから)分からへん。そのお金貰って家を建てて上げたいとか、何とかして上げたって自分の運命良くなる訳ないやろう?

 その強盗殺人の恨みの思いがそのお金にあるわけやんか?その家に例えば1億円あったとしたって、それを強盗で入って殺して1億円を奪っていきはった。その1億円で何したって、使たって碌なもの使われへんし、それを貰って何かしてあげても、貰った人まで酷い目にあって行くやろう?

 それ位お金には徳というものがある訳や。だから安月給で働くほど良い徳のあるお金を貰えるわけ、っていう感じで分かり易いかな?極端な表現で言うとな。

 だから安月給文句言ったらあかんの。安月給だから健康で幸せでいられるっていうの、本当はあるよ。だってそうでしょう?なまじ財産があるから相税醜い争いするんやろう?あれ大してなかったら争いにもならへんや。あれが全てやと思う。

 だから親の財産貰った途端に運命悪くしていきはる、大概の人は。悪なる前に使いきれた人もあるし、な?違うか?(笑)

 だからこの世的な価値で引っ掛かるのはね、肉体の自分にとって良い悪いを基準にしているからや。だけど肉体にとっての良い悪いの基準がなかったら、健康でいれるの。だけど肉体にとっての良い悪いを基準にしていると、文句も言いマイナスも言うから、体も病気になる。

 で、マイナスの世界からも後押しもあるからね、それをよく覚えておかないとあかん。あの後押しが怖いから。だから出来心ってよく言うね、犯罪を犯す人ね。出来心って自分はそんなに大してしようって思っていないけど、後ろから押されて凄い事してしまう。怖いやろう?

 だからイエスの様に「サタンよ去れ」ってね「人はパンのみにて生きるにあらず」、要するに金で生きるにあらずってイエスは宣言する訳や。そしたらマイナス側は逃げていくね。大概マイナス側は「お金あげるから、宝くじ当てて上げるから」って誘惑してくるわけよ。

質問:印可書のところで、「絶対奉仕に立つ真(まこと)の本心」の自分ってあるんですが、それは奉仕活動などではないって分かるんですけど、それこそ安月給で働くという事ですか?

河上さん:この世的に言うとね。だけど絶対奉仕というのは、絶対ってつく言葉は一番難しくて厳しんやけど、絶対感謝とか、絶対奉仕とかいうのは、真(まこと)の神さまと不離一体というのを自覚した時しか出来へん。だから絶対や、相対ではないね。だから自分が自分に奉仕するやね、肉体側の感覚で言うとね。それは何かというと、別の言い方をしたら「色んな演技して楽しんではる」や。

 神さまという大きな意識がね、学校で言うと運動会がそうやね。学校って一つのもんでしょう?それをわざと紅組と白組に分けて楽しみはるやん。あれのもっと凄い状態がこの現世にまで来ての。だから本当は全部楽しむためのゲームやの、分かり易く言うと。それだけやね。

 だから安月給というゲームを楽しんだら良いの。勿論、月給を沢山貰っていたら貰ったで楽しんだら良いんやで。だけどお金貰う人ほど厳しい、大変という事。生かして使う事がね。それだけやねんけどね。

 印可書にある絶対というのは今言ったように、不離一体という真(まこと)の神さまそのものの自分という全員がね、学校で言うと紅組、白組に分けて運動会するように、色んな役柄を楽しみに来ている。

 だから能力のない自分で来てる人ほどね、難しいゲームを楽しみに来ている訳。

 能力のある人は簡単なゲームを楽しみに来ているわけ、本当はね。

 なまじ能力が有ったら同じような努力しても成功する訳や。なまじ能力が無かったら、一生懸命やっても何でも上手く行けへん。でも上手く行けへんっていう難しさを楽しんでいる訳やけどね、本当は。それが分かると楽になるんやけど。

 「私何も出来へん、何しても駄目だわ」って言うからややこしくなる。「おもろいわ」って言ってたら良いのやけどな。「こんな難しいゲームでおもろいわ」って言ってたら良いんやけどな。「中々難しい楽しいゲームになってきたな。無死満塁になった」っていう感じやけど。「ここはゲッツーか負けるか」みたいな感じやな。

宮野さん:安月給っていうのは実際には安い給料とか、若しくはボランティアとか、働くっていう話しではないと思うんですね。

河上さん:そうですよ。

宮野さん:安月給。給料は決められた中で働くわけでそれを如何に使うかっていう所だったりとか、今でしたら8時間労働の中とすると、8時間で幾ら貰っています。でもそれ以外の時間を、例えばサービス残業する訳にいかない。サービス早朝出勤する訳に行かない。じゃあどうするのかっという、何時も何時もその仕事に対するお金を頂いている中で、どうすれば効率よく仕事を密にするかっていうなかで、今までは1個1時間かけてやっていた仕事が、その中にあれもこれも出来るっていう事で、結局単価が下がって来る。今までやった事より、より沢山の仕事をする事によって単価が下がる。それは安月給で働いているのと同じかなっと。それは例えば会社で出来ないならばそれをどうすれば良いのかなって、日常的に考える事も一つの事かなって思う。

 全部が全部会社でやっている事、やっぱりそれぞれ会社で「あなたはこの仕事をして下さい」「あなたはここの掃除をして下さい」「あなたはここを片付けて下さい」って言われている中で、「ああ、私ここはやりません。ここをやります」ではなくって、出来たら「ここをやりましょうか?」っていう中で仕事を増やしていけば何時もやっている仕事よりもたくさん増えたから、全体的に言うと時給が安くなりましたよっていう事で安月給かと。

 でもそれだけじゃあないかなと。どういう風に自分が生きている24時間の中で、どうやってその会社の働いている時間を考えるかなって。そういう風にした時に、じゃあ私24時間仕事の事を考えています。私24時間神さまの事を考えています。私24時間印可書を唱えています、っていう形で日常的な作業になっている事が真祈りそのものである事をハッと気が付かせて貰う事なのかなっと思うんですが。お金に関しては安く働かして下さい。私お金要らないんですっていう話しでは無い。

河上さん:そらそうや。

宮野さん:貰うものが、例えば1か月、「すみません。150万円しか渡せないんですけど」、「いや150万円は凄い金額でしょう」って言ったって、それはその会社が決めはった事で、「神さまがこんだけ働けって仰っているんだな」って、いう事かと捉えて自分が出来るお祈りしながら、駆使して自分が働けるっことをフルに動いているのかなっと。

 自分はって敢えて言いましたけど、実際には神さまが下さったお金って思うと、決めたお金って思うと、より自分がフルに神さまが使いやすいように動いて行ける。それは真祈りしていなかったら、それは知恵も体も動かなくなるんですね。なので安く働く、安月給で働くっていうのは神さまが自由にこの体を使える時に安月給で働けるのかなって思うんですが。ちょっと言い方がややこしいですね?

河上さん:だから生産現場の人やったら効率を上げるとかね、色々ありますけども。どの状態でもね、神さまの為に生きるっていう事が一番大事なのね。で、神さまの為にいきるっていう事が、神さまのお手伝いをするとか色々表現がありますけども、具体的に何したら良いか分からん訳でしょう?みんな。

 先ず印可書奉読が有って、その奉読の中でね、自分の興味ある事を追及してやって行ったら良いの。その中で語学が出来るようになるとか、色々どれでも良いと思うのね。人の為に、神さまの為に役立つように色んな勉強する事も一つだし。今ある生活の中を効率を上げたりとかね、色んな事をしていくっていうのも一つだし。

 もう全然分からんかったら護摩木を作るのをお手伝いに来るのも一つだしってね。ただ、遠い人は護摩木作るのを手伝いに来れないから、護摩木を書くのをしたら良いみたいなわけで。分からん時は護摩木と印可書に戻れば良いと思います。

 でも印可書を奉読していたら、何をすべきかは分かるはずです。その人にとってね。で、常に常に神さまの為に生きる。神さまのお手伝いするって願う事は大切です。なら会社を通して神さまの為に生きるっていうのが分かってきます。

 その神さまの為に生きる。神さまのお手伝いするっていうとね、そしたら会社なんか行かんで良いんとちゃうっていうのは理屈なんですよ。どういう事かというと、この現世といえども支え合って生きているわけでね。だから自分一人では生きていけないわけです。例えば無人島に一人でポンと放り出されたらどんだけ大変か。一々水も汲みに行かなあかんし、家も建てなあかんしとかね。でもこの現世だったらそれぞれお互い専門家が代わりにやって下さる訳でしょう。それの部分ですよね。

 それが分かれば今居てる自分の会社が詰まらんじゃあなくって、その会社を通してお手伝い出来るからって一所懸命すれば良いわけでね。

宮野さん:主婦ではお給料は発生しないけど・

河上さん:そうそうそう。皆が心地よく働けるように、生活できるようにして、祈り続けたら良いわけやね。例えば、うちはお煎餅屋ですけど、お煎餅って道具も要って、家庭で一々作るのって大変なわけでしょう?だからうちが代わりに作っているだけみたいなね、そういう風にどんなつまらんと思う仕事でもね、絶対役立っているから一生懸命されたら良い。

 でも印可書奉読、神さまの為に生きる、神さまのお手伝いをする願いを絶対捨てないようにして頂いたら大丈夫です。

 で、これ本当に役立っているんかな?って不安になった時は印可書に立ち戻ったら良い。その為に印可書をいう大オマケがあります。印可書を奉読したら先生と同じ働きをしているというここだけは忘れないでください。もうその為に「安心したわ、みんなに任せたわ」って先生仰る。印可書奉読したら自分と同じ働きが出来るんだからねっていう事で。

 印可書奉読っていうのは神さまに甘えて頼るとか、甘えて縋るとかじゃあないのね。もうお手伝いになる。それが理屈で分かろうが分かるまいが関係なく出来るようにしてあるというのが、先生の大オマケですね。

 だから本当はもう1年いらっしゃる予定がパッと切り上げて行かれた。びっくりしたわ、繰り上げるん。(あと)どうするん?みたいな・・・・。

 それならお祈りして終わります。ありがとうございます
 


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