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2011-3-5 by 河上彰延 2024年03月24日(日) 13時31分
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2011年3月5日先生のお話
宇宙神ありがとうございます

改行の一文字下げの修正すると時間切れで投稿できませんので、今回はこのまま投稿します。ありがとうございます

2011年3月5日先生のお話の文章化です。

質問
ありがとうございます この言葉を日本から世界へ、平和運動っていうの広まるサポートという形を私の体験として気付いたんですが、どうなんでしょうか?

先生
どうですか?

まず、ありがとうございますがやっぱり段階が色々ある。同じ伝えるんでも本物を伝えないとダメね。本物を伝えるためには自分が本物になることまず、一番難しい。

だから、波がやっぱり無限の段階の波の違いがある。真(まこと)の神さまの名前っていうふうに捉えても、ありがとうございますが奥深い。

ありがとうございますを伝えるって言っても、どの程度の伝え方をするかって。またそれ伝えていいかどうかも、 もう色々ある。何を伝えたい?ありがとうございますの何を伝えたい?

質問者
私は、前、お祈りしていた時に、お祈りは、自分の中で体験として、世界平和に繋がるっていうことが理解できていなかったんですが。私の体験として偶然の一致(途中から聞き取れず)お祈りは、世界平和につながると思いました。

先生
それで、お祈りを世界に伝えたい?みんなもそう思いますか?

でも、一番大事なことって本当の自分は何かでしょう。本当の自分をしっかりと掴まないと心が揺れ動くよ。平和でも幸せでもなんでもないよ。だから、本当の自分とは何か?これ一番大事な問題、命題よね。

だから、ありがとうございますっていう言葉。真(まこと)の神さまの名前っていうふうに捉えて、真(まこと)の神さまの自覚を自分の自覚として体現する必要があるのよ。その時、本当の悟りをえて心が安らぐ。

だから、真(まこと)の神さまが自分っていう自覚がいるのよ。本当の心の安らぎには。だからそれは、どういう自分かでしょう。肉体でもない、魂でもない、小さいものじゃない。

真(まこと)の神さまはどんなもん。言葉では表現できないかもしれないぐらいものすごいもんよ。

まず真(まこと)の神さまと一体の自分に戻ることの方が大事でしょう。そしたら、世界を変えようとするかな。世界を平和にしたいっていう気持ちがどこから来てる?真(まこと)の神さまのところへ戻ったら、既に平和じゃない、完全じゃない。

だから、この世は、なぜ存在するの?この世はどういうもの?どうしてこの世が生まれたの?どこから来て、どこへ消えていくの?どのくらい悩んだ?

もっともっと悩まなダメかもしれないけど、本当の自分とは何か?人生の目的とは何か?本当の神さまとは何か?って一番根本の問題をしっかり考えて、考えて、考え抜いて。悩みに抜かないとダメよね。

真(まこと)の神さまは完璧よ。一つよ、唯一無二、 絶対よ。永遠の存在。もう最高の理想の言葉いっぱい並べ立てて、まだ足りないぐらい。どんなんやろうね、本当の神さまって。

この世とかあの世と虚の世界の姿とは全然違うのよ。そんなつまらんもんじゃないのよ。虚の世界は全部対立してるのよ。対立っていうのはプラスとマイナスに分かれたり、光と闇に分かれたり、 相対の両極に分かれて、その組み合わせで全てのも生み出されてるけど対立するようなものは、本当の神さまじゃないよね。

この世、全部対立してるでしょう。全てがそうよ。対立してるから本物の神さまでも本物の世界でもないよ。虚の世界よ。そしたら、虚の世界どこから出てきたかでしょう。みんな本当の神さまを知ってるはずよ。そこにいてたはずよ。そこから虚の世界に落とし穴にはまったように落ちたんよ。なぜ落ちたか?って。

この生まれてくる目的があって落ちたんちゃうよ。この世は本当は出てきたらダメなのよ。虚の世界のへ転落したら本当はダメなんだけど落ちてしまったの。その落ちた原因?

この肉体界に生まれてくる人生目的とかいろいろ言うよね。あの世からこの世生まれてくる人生目的とか。色々言うけど、そんなん本当の人生目的でもなんでもない。みんな偽物よ。虚の世界に生まれてくる目的なんか本当はないのよ。

反対よ。虚の世界から真実の世界へ早く戻らないと本当の人生の目的はないの。だから、真(まこと)の神さまをどういうふうに捉えるかって一番大きい大事な問題。

まず、対立がないっていうふうに見ると、みんな一つにならないとダメなのね。もう完璧な一つにならないと。また、差別はないのよ、一切の差別がないって 上下関係あったらダメ、役割の違いがあったらダメなの。

だから、たくさんのものが本当に一つになるっていうたら、もう、いろんな意味合いで想像絶するような働きがなかったら一つにならない。

例えば、米粒をいっぱい集めて、塊を作ったって、これ、バラバラのが集まってるんでしょう。それで、お餅みたいについたら一つになるって。ついた時どうなるやろ。みんなついてもらう?つくって言ったらどうなるんやろう?自分が消えてしまうよね。でも、そんな程度では本当の完璧な一つにならない。

これやっぱり真(まこと)の神さまの本当の完璧な一体感って、一体っていう意味が、本当の一大循環の相象(すがた)を取るの。入れ子構造のすがたを取るの。重層構造ってね、ところてん式にずーっとつななるのよね。全方向にいっぱい満ち渡る。これ全部一つにならないと、これ ほんと一つにならないのよ。

だから、完璧な一つの真(まこと)の神さまをみんな共有してる、もってるのよ。

みんなそこから離れるわけにいかない真(まこと)の神さまだけが真の実在。それを全部与えてもらってる。そして、神さまの心も自由自在な心も与えてもらってる。ただ、一人ひとりの違いは受け方が違うだけ。こう、一瞬一瞬、新たに新たに循環してくる相象(すがた)をどう受け取るかっていう違いだけ。大きく受ける、小さく受ける、浅く受ける、深く受けるいろんな受け方があるの。それも、一瞬一瞬がどの程度の一瞬かでしょう。一秒の一瞬もある。万分の一秒の一瞬もある。無限分の一の一瞬もあるのよ。この一瞬一瞬も違う受け方がね。

みんな本当は真(まこと)の自分、真(まこと)の神さまに戻りたいって願ってるはずよ。そこへ戻る以外に心の安らぎ絶対ないから。ただ、思いの心に陥った時に思い通りになって、束の間の有頂天になって喜んでる時間はあるかもしれないけど、でも、それでは絶対心安らがないから、虚しい、儚い気持ちに必ず襲われるよね。

自分とは何か?何のために生きてるんか?って、みんな悩むはずよ。目の前の、ちょっとしたことに心奪われてる間は、それ忘れてるだけ。でも、すぐに寂しくなるよ。本当の自分に戻らない限り。肉体が自分なんて思ってたら、もう早く死んだ方がいいって思うぐらい追い詰められるぐらい儚い虚しい気持ちになるよ。

百年生きたって、何のために生きるのかって思っただけで自殺したくなるはずよ、本当は。本当の自分、本当の人生目的がしっかりわからないと生きていけない。だから、思いの心に陥って、それで七難八苦の悩みをやっぱり背負ってる。生きるだけでも苦しい。

生老病死って、そうじゃない生きる苦しみって、儚い虚しいからよね。老いて、醜くなっていくのも苦しい。病気になって苦しい。 私に訪れたらもっと苦しいって、そうでしょう。生老病死ってそうじゃない。

七難八苦の方の四つの方は愛別離苦(あいべつりく)って、大事な人と別れてしまうんでしょう。愛別離苦っていうのは、その苦しみがある。怨憎会苦(おんぞうえく)っていうと嫌な人と出会わなければならないという苦しみじゃない。求不得苦(ぐふとくく)っていうのは自分の思い通りにならない。求めて求めても何も実現しないっていう苦しみがある。五盛陰苦(ごうんじょうく)って肉体を持ってるっていうだけで、ものすごい苦しみ味わうの。

八苦って言うだけでも大変じゃない。そこにまだ七難ってつくの。 火難なんて言うたら怒りの心が天まで届くぐらいに湧き上がったら、苦しくてたまらないじゃない。憎しみの心もそうよ、末代まで祟ってあげるなんて言うて、憎しみ続けたら大変なことじゃない。恨みの心もそうじゃない。だから、七難なんていうのは、ものすごい心の苦しみじゃない。七難八苦っていうのは、思いの心の姿よ。

だから、それをみんな、思いの心が自分って思ったら、みんないつも影のように背負ってるの。 それで幸せなんか絶対なれない。だから、思いを全部消さないとダメ。

だから、思いっていうのは過去を掴んだ残像よ。過去を掴んだ残像が思いになる。真(まこと)の神さまは一大循環の相象(すがた)をとって一瞬一瞬流れてる、絶対の中心っていう無限大の外遥か彼方から螺旋状に入れ子構造的に循環してきて、それもところてん式にピタッと連続して、 それで、お互いが全部重なり合いながら、全方向から循環して戻っていくすがたをとって、目の前現れるのよ。

その一大循環の輝いた相象(すがた)をちょっとでも掴んで、自分のものにした時に過去の残像を掴むの。掴んだ時が掴んだと思った時が過去の残像の姿で思いの自分になる。

だから、絶対一大循環の相象(すがた)を掴んだらダメなの、本当は掴めないの。絶対掴めないんだけど、 掴んだと思ったらダメなの。無限のスピードで循環してる神さま本当の光を掴むことはできないの。本当のすがたは絶対掴めない。掴めないのに掴んだと思うの。止めて、見て、掴んで、これ残像として持つのよ。その時に思いの心に陥ってくる。それで真(まこと)の神さまと離れた小さい虚の自分に陥っていく。それで思いの世界に、虚の世界に転落した。

もう一回戻らないとダメ。そのために必要なことは、新たに新たに受け直す自分になることよ。過去を掴まない自分。新たに新たに受け直す自分になって、掴みそうになったら、全部お返しする、恩返しの自分にならないとダメ。

受けると同時にお返しする、これもう遅いのよ。受けた途端に掴んでるじゃない、それでお返ししても、短い時間でも掴んでしまってる。やっぱり掴まない自分っていうのは、受けながらお返ししてないとダメ。流れる循環のままに受けながら、お返し同時にしてないとダメなの。これ自分っていう器があると掴んでしまう。自分の器の中に取り込むから取り込んだものを出しても器があるだけ掴んでしまうの。この器はなにか?

そうね、流れを通すパイプでもダメ、パイプも器と同じよ。神さまの光を通すパイプにって言っても、パイプがある間はダメよ。みんなこれ思いの自分よ、それね。これが自分っていう思いの心なのよ。これが器になりパイプになってる。だから、自分があったら神さまから離れてしまう。

だから、自分をなくすのはどうしたらいいか?

真(まこと)の神さまだけっていうふうに認めないとダメ。自分も、自分のものも何もない。人も他人も他人のものも何もないって、真(まこと)の神さまだけっていう見方が絶対必要になる。それはどうしたらできるか?

悟りへの道って色々あるのよ。悟りも無限の段階があるから、どの悟りへ到達するための道かってなるのよ。虚の世界でも、これが悟りっていうのは無限の段階に色々あるのよ。虚の世界でもそうよ。ここまで来たら悟りっていうのがいっぱいあるの。虚の世界の悟りじゃダメなの。虚の世界の悟りは、小さい自分がどんどん大きくなって、高いとこへ上がってっていう、ある目標に向かって、そこまでいって悟ったと思うんだけど、そんなん悟りでもなんでもない、本当はね。

真(まこと)の神さまの本当の元へ戻らないとダメでしょう。真(まこと)の神さまの自覚にまで到達しないと。だから、自分があったら間違うの。自分じゃないのよ。自分があったらダメなの自分を消すことよ。でも、自分を消そうとしたら、また自分を掴んでしまう。これもダメなの。

それで、真(まこと)の神さまだけを肯定していかないとダメ。もう自分を相手にしない。真(まこと)の神さまのだけっていうふうに断定しないと自分を掴んでしまうからダメなの。

全て言葉通りになるっていう法則があるの。これは宇宙の厳然たる法則。言葉通りの自分になるの。自分の選んだ言葉通りになるの。選ぶっていうことは見ることも聞くことも言うことも全部選んでる。どんな言葉を見ても、聞いても、言っても、自分の選んだ言葉よ。その言葉通りに自分がそこに生まれてくる。現実化してくるから。ただ、その言葉は、文字の言葉だけじゃない。映像もそうよ、音楽もそう全部言葉よ。だから。言葉通りの自分になるっていう実例。虚の世界、この世でいっぱいあるじゃない。

だから、胎教って、お母さんがいい、いい絵をよく見るんですよね。赤ちゃんが宿ってる時は、美しいものを見るんじゃない。そしたら、赤ちゃんが美人に生まれるとか、いい子に生まれるとか言うじゃない。

また、職業でも警察官でも刑事さんでもそうでしょう。ヤクザを相手にする刑事さんは 顔がヤクザになってくるじゃない。そうじゃない、実例色々あるじゃない。やっぱりそっくりさんになってくるじゃない。

嫁姑の関係でもそうじゃない。嫌な姑さんをいつも見てたら、自分もそっくりさんになって嫌な姑になってしまうという、見るだけでそうなるのよ。見るっていうことが選んだ自分の言葉よ。これ、また聞くだけでもそうよ、睡眠学習もそうだし、いろんな言葉で洗脳されるのもそうよ。言葉で自分を作ってしまう、作られてしまうのよ。

だから、どういう言葉を選ぶかで、みんな今の自分が出来上がっている。過去にどういう言葉を使ってきたか? それだけじゃない。どういう言葉を見てきたか?聞いてきたか?で全部自分が決まるの怖いぐらいよ。

今の国会の様子なんか見てたらよくわかるじゃない。人の揚げ足取りばっかりしてるじゃない。そうするとどうなるかでしょう。自分もそっくりさんになっていくんじゃない。人のマイナスを掴んで攻めさばいたら自分も同じようにされてるよね。同じこと繰り返してる、怖いぐらいよ、それね。

だから、虚の世界の言葉を使ったら、虚の自分になる。だから、真(まこと)の神さまの世界、真実の世界の言葉を使わないと真実の自分には戻れない。そしたら、真実の言葉はどういう言葉かでしょう。プラスの言葉って言っても虚の世界の比較上のプラスは本当のプラスじゃない。マイナスとプラスと対立して存在するプラスは、虚の世界のプラス。真(まこと)の神さまのプラスはプラスだけ、循環するプラスだけなの。それも新たな無限の無限のプラスが無限に無限に一杯っていう大きいプラスよ。

だから、全然こう力も違う、同じプラスでも、 虚の世界のプラスはマイナスに対抗する力って、同程度の力しかない。真(まこと)のプラスは 無限大の大きい力がある。無限倍よ常に。虚のプラスより虚の世界のプラスと比較したら、真(まこと)のプラスは無限倍の力がある、いつも。 全然違うの。

お祈りもそうなの、虚のお祈りでは力はないの。マイナスとプラスと打ち消しあって、ゼロになるぐらいの力よ。真(まこと)のお祈りは、常に無限倍のプラスの力があるから、一瞬にマイナスも虚のプラスも消しさるの。全ての思い、瞬間に消せるの。どれだけたくさんの思いでも瞬間に消せるの。真(まこと)のお祈りになれば。

ありがとうございますも段階が色々ある。虚のありがとうございますもあるの。虚の世界のお祈りのありがとうございますでは力がない。真実の世界のお祈りには力が備わる。同じありがとうございますだけど違うの。

普通、ありがとうございます 虚の世界では単なる感謝っていうのは多いよ。これ、お祈りじゃないよ。ありがとうございますをお祈りっていうふうに捉えると、虚の世界の定義がお祈りっていう、こう定義が加わると祈り言葉にはなるよ。虚の世界の祈り言葉よ、まだね。

それでは、まだ何万回、何億回唱えたって、あまり力はない。真実のお祈りに変わらないとダメ。それも段階が色々。大きく分けて、天照大御神さまっていう最小単位、無限大の完璧な光源の表現としてのプラスの無限のチャンネルの表現としての すがたをしっかり捉えるお祈りになったら、真義、真(まこと)の義って、真義のありがとうございますになる。まだ表現よ、まだ天照大御神さまの表現を捉えてる段階だから、そうなの。

次は天照大御神さまの光源を直接捉えたら、本義のありがとうございますって言える。これがまた入れ子構造の天照大御神さまのすがたを捉えたら、奥の義って、奥義のありがとうございます

さらに奥に入らないとダメ。絶対の中心って、本当の中心へ心を向けて、入れ子構造を捉えて初めて、秘められた奥義、秘奥義のありがとうございますになっていくのよ。この間の段階の変化って、やっぱり無限の変化があるのよ。

これは、この真(まこと)の神さまの大きい力で循環してくる。押し上げてくれる、無限倍の力で押し上げてもらわない限り、体得できないの。自分が登っていくこんなんではできない、絶対。無限倍の後押しがいる。上へ上へ入れ子構造って登っていくためには。そのために必要なことは、恩返しの絶対奉仕ってね。 神さまに自分の全てを捧げ尽くすっていう生き方が絶対必要になる。そうしないと循環しないのよ。

恩返しの絶対奉仕っていうのは、神さまに何も求めない。全部お返しするの自分っていうものがあったら、自分のものがあったら、全部神さまお返ししないとダメよね。全てをお返しして、全てを捧げて、神さまの方へ向かないとダメ。そして、後ろから後押ししてもらう。入れ子構造で出てくるのはみんな、Uターンして循環してるからUターンする無限倍の力で後押ししてもらわない限り、上へ登れない。

だから、この恩返しの絶対奉仕の生き方は、プラスの言葉だけを使わないとダメ。そして、新たに新たに受け直す心にならないとダメ、過去を絶対掴んだらダメ 。全てを神さまに捧げてお返しする生き方をとるの、与え尽くすっていう。

これが逆になると逆流を起こす。純流じゃないし。逆流になると流れが反対になると弾かれる。弾き返される、弾き飛ばされる。これ逆流っていうのは、マイナスの一言使ったそうよ。マイナスの言葉は反対に向いてる。求める心も反対に向いている。過去を掴んでは反対に向いてる。

過去を掴むって、みんなこの世を生きてるのほとんど掴んでるよ。現実を掴んだら過去を掴んでる。現実を掴むっていうのは、もう既に過去なの。遠い過去の残像というぐらい、この世の現実は、現実を相手に掴んでるのは、過去を掴んでることになる。だから、この本当は、みんな逆流を生きてることになってしまうのね。

それで、まだ、この現実の言葉で虚の言葉、マイナス言葉いっぱい使う。これもマイナスの逆流じゃない。そして、求める心を生きてる。ああして欲しい、こうして欲しいって。欲までいかんでも、人に与えてもお返し求める。これ、みんな求める心よ。これは全部逆流になってる。だから、逆な生き方を反対にプラスの生き方に順流へ置き換えていかないとダメ。それで、言葉をプラスに変える。それも最高のプラスに変えるために。ありがとうございますが生まれてるの。ありがとうございますが最高のプラスの言葉よ。真(まこと)の神さまの名前でもあり、真(まこと)の神さまの働きの全て。真(まこと)の神さまそのものっていうぐらいの無限の価値のある言葉よ。プラスの言葉よ。だから、ありがとうございますをまず選びなさいって言ってくる神さまはね。

そして、新たに新たに受け直しなさい、一大循環の相象(すがた)を新たに新たに受けたら、常に無限倍のプラスに置き換えて与えているからっていうわけよ。どの段階に入ってもそうよ。どの段階に自分がいてても、必ず無限倍のプラスが加わってくる。だから、今、掴んだのを離した方がいいよっていう。常に新たに新たに受け直す、この練習、生き方をしなさい。

それでもまだ掴んでしまうから、恩返しに生きなさい。全てを元に戻しなさい。お返ししなさいっていうの。その練習をしっかりしないと真実の世界には戻れない。戻れないっていうか波が合わないのよね。真実の世界が、新たに新たに受け直す最高のプラスの言葉だけを駆使する。恩返し絶対奉仕の世界。もう全てが神さまから与えられたものばっかり。だから、自分のものなんて何もないっていうぐらいに、徹底してるの。

自由っていう言葉一つとってもそうよ。自由っていうのは、虚の世界は自分勝手な自由よ。思い通りになんでもできるっていう自由を自由って思ってるかもしれない。でも、本当の神さまの世界では、自由っていうのは、捧げ尽くして、絶対奉仕に生きる自由。自分のためには絶対使わない自由よ。神さまのために、全体のために、自分の全てを捧げ尽くして、絶対奉仕に生きるのが自由なの。だから、全体から同じようにしてもらう。だから、無限倍の自由を与えてもらって、絶対奉仕を受けるのよ。全体から無限倍の自由と絶対奉仕を与えてもらうのが本当の自由よ。だから、誰も絶対、自分の自由縛ってこない。絶対縛られない自由を。絶対奉仕してくれる。全部が、これが本当の自由なの。

だから、神さまの全徳って、全ての働きと徳が全部そういうふうになっているの。全部神さまから与えられて、それを与えるために与え尽くすために全部、それを使うのよ。幸せでも同じなの。自分の幸せのために掴んだらダメなの。みんなを幸せにするためにって使わないとダメ。だから、自分の幸せを考えたら間違う。

みんなの幸せを考える。そうすると全体から同じように幸せを与えようとしてもらえる。 だから、全体から与えられる無限倍の幸せが、本当の幸せなの。だから、小さくなったら虚の世界に転落する。反対なの。虚の世界と全く正反対になるから。

それで、本当の自分を自覚するために、本当の神さまを自覚するために、どう生きるかっていうね、これが一番大事な問題。常にチャンスっていうのは今しかないの。いつ悟るかって言われた時に一年後にって言うたら、もう、常に一年後に先送り。言葉通りになって永遠に悟れない。十年間修行してから言うたら十年後になるでしょう。修行ばっかりして、永遠に悟れない。悟るのは今よ。今の一瞬に悟らないと、永遠にその悟りはやってこない。

だから、ありがとうございますがなぜ悟りへの言葉かって。ありがとうございますは、真(まこと)の神さまの自覚そのものになるのよ。ありがとうございます唱え続けるだけで、真(まこと)の神さまの自覚になるのよ。だから、これが真(まこと)の最高の悟りになる。

言葉通りになる。言葉通り。他の言葉じゃそんなん言葉ないと思う。いろんな神仏の名前いっぱい唱えたって、虚の世界の神さまじゃダメよ。元から離れた神さまと自分とが一体化するって。ピタっとくっついたって、くっついたって一体化しない、そんなん。離れたものをくっつけてもダメよ。元から一つになっているものでないとダメだから。

一大循環の相象(すがた)を受け直して、一体なの。それで自分がなかったら、本当の真(まこと)の神さまの自覚になる。

ありがとうございますの本当の意味がどれだけ奥深いものがいっぱいあるかって。これ、自分がしっかりと 探し求めないとダメなの。みんな最初は、ありがとうございますって素晴らしい言葉やと思って唱えてる。そんなんまだ何もわかってない唱え方なの。「ああ、心が幸せになりました」って、そんなん偽の心の安らぎ。本当の悟りとは全然無縁よ、そんなん。 ちょっと思いが少なくなったぐらいではダメなの。

全ての思いを消し切っても、まだ最初の出発点よ。全ての思いを消し切ってもらったのが、最初の出発点、お祈りの。 そこから深くならないとダメ。大きくならないと入れ子構造的に奥へ奥へ入っていかないと、真(まこと)の神さまと本当の一体感っていうのは、入れ子構造的に大きくなったら自覚なの。いくら宇宙が全部自分って言ったって、入れ子構造の小さい自分じゃダメよ。どこまでもどこまで大きくなっていくのよ。

だから、ありがとうございますって唱える、唱え方が、どんどん変化しないと毎日毎日、一瞬一瞬変化し続けないとダメ。今、唱えるありがとうございますよりも、次の一瞬唱えるありがとうございますが更に大きく、深く、価値のあるものにならないと同じ言葉唱えてるようだったら進歩ないのよ。

一瞬一瞬って言うと大変だから、毎日毎日唱える、ありがとうございます 価値が変わらないとダメ。そのぐらい、ありがとうございますが奥深い。自分の見出した価値の通りに神さまのプレゼント受け取るの。価値を見出してなかったら、受け取る価値は、ちょっとよ。ちょっとしか受け取れないと思う。無限の価値を見出したら無限のものを受け取る。無限の無限の価値を見出したら、無限の無限のものを大きく受け取るのよ、大きく。全部、言葉通りに受け取る。

だから、幸せっていう言葉を使って、幸せって言ってても、こんなんは、虚の世界の幸せよ。真実の世界の幸せは、無限の無限の幸せが無限に無限に一杯よ。これも今の一瞬じゃダメよね。新たに新たに、常に新たに新たにって、大きくなる幸せよ。だから、新たなるってつけるの。新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯って言わないと。無限の無限の幸せっていうのは、入れ子構造の幸せよ。入れ子構造的なってる幸せが無限の無限の幸せで、それが無限に無限に一杯っていうときは、全方向に無限で奥にところてん式に全部、無限に連なってるっていう意味よ。

それが全部、完璧な一つになっている。バラバラな幸せじゃない、寄せ集めじゃない。本当に循環して無限のスピードで循環して、部分と部分を切り分けが絶対できない幸せなの。元から完璧な一つの幸せなの。それも新たに新たに循環する幸せ。絶対なくならない幸せ。

虚の世界は、全部無から出発して、相対の両極に分かれて組み合わさって生まれて、また無に戻るの。無から出て無に戻るの、虚の世界は全部。 でも、真実の世界は、現れて消えるの違う。常にあるの循環してるだけで、常にある。絶対なくならない。常に、真実の実在としてある。循環してるっていうだけよ。絶対の中心から現れて絶対の中心に戻る循環を繰り返してるだけよ。組み合わせが変わるだけよ。だから、全然違うの。

だから、真実の世界には、虚しさや儚さってなにもないよ。プラスだけだから、本当の心の安らぎが、平安がいっぱいなの。でも、これは、言葉通りに全部受け取れるの。真実の世界も、虚の世界も全部、言葉通りに受け取れる。

だから、真実の世界を言葉にしないと、 真実の世界は受け取れない。虚の世界の言葉だったら、虚の世界しか受け取れない。だから、小さいプラスもマイナスの言葉も、虚の世界になるからダメなの。虚の世界は全部、自分のマイナスが自分に戻るのよ。純流の流れと逆流の流れがあったら、虚の世界は逆流よ。虚の世界は全部、順流の流れに弾かれる。跳ね飛ばされる。だから、鏡になって全部はかえるのよ。マイナスの一言、自分の選んで発したマイナスの一言、全部、純流の神さまの光の流れに弾き飛ばされて、鏡になって戻ってくる。

だから、全部自分に戻る。マイナス全部自分のマイナスよ。どんなマイナスもそうよ。虚の世界のプラスも全部そうよ。自分の言葉が全部跳ねかえるから。だから人は無関係なの本当は。他人のマイナスが自分にやってきてっていうのは絶対ないの。自分のマイナスが自分のプラスが、虚の世界、全部跳ね返って全部、自分に戻るだけよ。

真(まこと)の神さまと一対一の関係なの全部。これに気付かなかったら解決できない。人のマイナスって言ってる限り、またマイナス何倍も積み重ねる。どうして?

自分の出したマイナスだったら、それだけが自分で変える。人のせいにしたら人のせいでないのに人のせいにしたら、 損害賠償払わなあかんよ。それも神さまに向かって、そうでしょう。このマイナスは神さまのせいだって言ってるのと同じだから、どこに向かってやっても倍では済まないのよ、損害賠償額。 車でも高級な車と安い車と同じ事故になっても安い車、賠償金少ない。高級な外車なんかだとそうじゃない。十倍以上高いじゃない。それだけ余計払わなあかん、同じ事故になってもぶつけてもそうじゃない。神さまの方はものすごい高級車。百倍や千倍で一万倍でちょっと足らないかもしれない。

だから、どこへ向けても神さまに悪く言ったことになるのよ。神さまを悪者にして神さまのせいにしてることになる。濡れ衣を着せたってなるのよ。だから、人のせいにした時は倍では済まない。常に たくさんのマイナスを跳ね返される。だから、全部自分のマイナスって気づかない限り、このマイナス消せない。少なくならない。人のマイナスって思っただけで自分で増やしてるのよ。たくさんのマイナスを自分で、かき集めてるような感じ、だから怖い。だから、人のせいにする人は、マイナスを人のせいにする人は、運命絶対良くならない、そこよ。どんどんマイナスが増えるのがそこなの。自分が勝手にマイナスを増やしてる。

たいてい仏教だったらそうよ。仏様を誹謗する、悪く言ったら地獄に落ちるって教えてる。それ仕方ないよ。お釈迦様のような立派な方を悪く言うだけでお釈迦様は悪くないよ。救うばっかりじゃない。陰で救って救って救い続けてくれるお釈迦さんじゃない。自分の気付かないところで大きい助けを受け続けてるのに、それを恩を忘れて悪く一言言うだけで地獄に落ちるっていうじゃない。

それ、やっぱり自分のマイナスが大きく増えて、そのマイナスを消してもらえないから勝手に落ちてしまうのよ。だから本当の神さまに向かっては絶対マイナスの一言向けられない。全部跳ね返される。だから、人のせいにしたら損する。マイナスは全部自分のマイナスと言わないと損よ。人のマイナスも自分のもんだって言わないと。本当はそうなの。自分の見てる世界にあるのは全部自分のマイナスって言わないとダメなの。あの人のマイナスって言ったら馬鹿よ、みんなね。プラスは神さまのプラスって言えば良い。マイナスは全部自分のマイナスって言わないとね。そしたら消してもらえる。ごめんなさいって言えば消してくれる、神さまはね。

だから人を悪く言ってる人を見てたらわかる。人相がどれだけ悪くなっていくか。人相だけじゃないよ、心がどれだけ荒んでいくかね。マイナスが全然消してもらえないのよ、怖いぐらい。本当はすぐ地獄に落ちるぐらいのマイナス積むの。地獄の形相になるの本当は。それでも助け続けてもらって軽くしてもらってるのね。ちゃんと与えてもらってるんだけど。でも、それを繰り返したら、やっぱり、助けを拒絶してしまう。

虚の世界の救済の神さまも一生懸命頑張って助けてくれてても、追い付かない。大勢の救済の神さま、虚の世界に一杯いててね、一生懸命助け続けても良くならないのはそこよ。助けを受ける側が間違っているから。心得違いよね。だからマイナスは全部自分のマイナスって受けるのが正しい生き方。

そのマイナスは自分の選んだマイナスの言葉だから、言葉の選び方を変えたら良いだけよ。言葉をプラスに変えたら、マイナスなんかさっと消える。だから絶対マイナスの言葉使ったら損してるのよ、大きく。今、出てるマイナスが全部過去のマイナスが出てるのよ。過去のマイナスの言葉が現実化して消えていってる。虚の世界はそうね。まだ残ってるかもしれないよ、心の中に一杯。それは全部出てきて消えて無くなる。

でも今使うマイナスの言葉は、必ず未来に出て来るよ。未来に必ず出てくるよ。今、選んで使った言葉全部ね、過去の溜めたのが全部、形に出て消えたら、その後を追って出てくるよ。だからマイナスがある時ほど、プラスの言葉使わないと駄目。マイナスだからマイナスを言葉にしたらダメよ。また、マイナスを増やしてる。どんどんマイナス増やしてるから、いつまでもマイナス出続けるよ。出てくる。だからマイナスの多い時ほどプラスの言葉を加えないとダメよ、虚の世界はそうよ。

プラスばっかりでも、そうでしょう?マイナスの言葉加えたい?加えたくないわね。絶対使ったらダメよ、だからマイナスの一言。プラスでも虚の世界のプラスは要らないの。虚の世界のプラスも消してもらわないと本当は損するの。本当の幸せから遠ざかっていくから。

雲でも、白雲と黒雲ってあるでしょう?白雲はプラスに良いように思うけど、光と雲とは違うよ。光の方が本物で、白雲なんて、そんなん幸せって本当の幸せじゃないよ。それが白雲が集まったら厚くなった黒雲になるよ。厚くならないから白雲なんよ、光がちょっと差し込んだら。だからプラスの思いも本当はマイナスなの。光から見たら光を遮る。だからすべての思いは、全部消してもらわないとダメよ。虚の世界の言葉、プラスもマイナスも全部消し切ってもらうのが一番必要なの。

だから、お祈りが本物のお祈りにならないと全部消してくれないから。だから、ありがとうございますが本物のありがとうございますになることが一番必要なの。

単に唱えていて良いのと違う。ありがとうございますの中身をしっかりと理解しないと価値を見出さないと、同じ唱えても力が無くなる。だから真(まこと)の神さまそのものっていうぐらい、やっぱりありがとうございますを唱えないとダメ。

それで神さまを呼び続けてるというぐらいの気持ちで唱えたら、それは本当の祈りになる。祈り言葉を唱えるのと祈りとは違うから。祈り言葉を唱えても神さまが働いてくれなかったら祈りにならない、力が無い。祈り言葉だけでは力が全然無い。

マイナスの言葉とプラスの言葉と並べて、苦境の世界では順番に出てくる程度のプラスの言葉になってしまう。マイナスを打ち消すことも出来ない。でも、祈りになったら、思い全部消せる、プラスもマイナスも全部。虚の言葉全部消し切ってくれる。瞬間にサッと消えるのよ。

だから祈り言葉を祈りに変えないとダメ。だから、ありがとうございますっていう祈り言葉も、祈りになるようにしていかないと。だから常に真(まこと)の神さまを呼ぶようにして唱える、恩返しの気持ちで唱える。色んな意味合い一杯あるじゃない、ありがとうございます、全部束ねて唱えないとダメ。

そしたら、ありがとうございますがもっともっと進化するのよ。同じ唱え方も一回一万円の価値では、まだ虚の世界の唱え方よ。一回一億円で、まだダメ、虚の世界よね。無限億万円を価値を見出さないと一回のありがとうございますに。無限億万円の価値があるって言わないとダメ。そしたら思いを消す力が降りてくる。

やっぱり神さまって価値を見出してくれんかったら出て来てくれない。一億円の価値の神さまって言ったら出て来こない。一兆円って言っても出て来ない、真(まこと)の神さま絶対に。無限億万円の価値のある神さまって言ったらちょっと顔出してくれるかって。ほんのチラっとよ。そのぐらいよ。

真(まこと)の神さま、大きいから、そのぐらいでないと一回のありがとうございますが無限億万円の価値があるって、それ以上の価値があるって言わないとありがとうございますを唱えても、真(まこと)の神さまは飛び出して来てくれない。そのぐらいの誉め言葉でないとダメなの。

ありがとうございますが最高の誉め言葉っていうのを、新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という意味を持っているから最高の誉め言葉なんだけど、本気で最高の誉め言葉って自分が理解して信じて使っているかって。まだ使ってないかもしれないね。本当に最高の誉め言葉って自分は確信を持って唱えていたらお祈りになる。

ありがとうございますが最高の、これ以上の言葉はないという褒め言葉よ。神さまの新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、すべての徳をまとめて褒めてる言葉よ。素晴らしいなんて言葉と違うよ。そんな程度じゃない。言葉を超えた最高の誉め言葉よ、最高のありがとうございますがね。それをしっかりと自分が認めたらお祈りになるの。

それで、感謝の、この真祈りっていうのが、なんでこんなんわざわざ護摩木にも書かせてきてるんかって、最高の誉め言葉であるっていうことを心の底まで叩き込むためよ。感謝の真祈りの祈り言葉を護摩木に書いて、ありがとうございますを書いて、してる本当の意味は、ありがとうございますが最高の誉め言葉っていうのを実感できるようになるまでするの。そしたらお祈りになる。神さまと出会えるお祈りよ。必ず神さま出て来てくれる。出て来てくれた時が真実の世界に戻った自分よ。本当の自分、悟った自分に戻った時よ。

こういうありがとうございますを伝えなあかんねんけど。でも世界へ伝えるって、自分がそれ出来ないと伝わらんのよ。自分が実行しないと伝えようがない。だから人に伝えようなんて思わんで良いのよ。もうひたすら神さまの中へ飛び込む溶け入る、これだけよ。

神さまと一対一の関係になるだけが良いのね。自分の他に神さましかないって言わないとダメ。人をどうこうしようと思ったら間違う。虚の世界に転落するの。だから止めなさい。しない方が良い。人に伝えようなんて考えない方が良い。人を救おうなんて思ったら大間違い。自分が救われてないのに悟ってないのに、人を救おう悟らせるなんて出来ない。反対よ。真(まこと)の神さまへ心向け続けるだけでないと、そこへ戻れない。そうね。

質問
人に伝えるっていうのは、それはどうなんでしょうね。良い事のような気もするんですけど。正しいことを伝えるっていうのは良いことでは…。

先生
それね、神さまから与えてもらったものを、自分のものと独り占めしないというのは良いのよ。自分のためにっていうのがダメなの。みんなのためにっていうのは良いのよ。神さまが与えてもらった真理の言葉でも、自分のためだけにっていうのは利己的よ。求める心よ。でも、自分を通して、みんなのためにっていうのは、これ恩返しよ。

質問
そうすると、外国のみんなのためにっていうのはやっぱり良いことじゃないですか。

先生
だから、それが本当に出来てるかどうかよ。恩返しになってる?本当の恩返しにならないと出来ないじゃない。本当の恩返しは、自分が無いのよ。自分が無くならないと恩返しの絶対奉仕じゃないのよ。だから、自分がするっていうのは、みんな間違うのよ。自分が自分がと思いの自分が出て来たら、何してるか分からなくなる。反対になってしまうから。だからしたらダメなの。

自分がすることは神さまに心を向けて溶け入るだけよ。あと神さまが勝手にするのはお任せよ。神さまが自分を使ってくれてすることは、これは神さまのすることだから絶対奉仕よ。自分のするのは絶対奉仕にならない。つまらん奉仕よ。でも、自分は神さまに全托して。ありがとうございますは全托行。ありがとうございますと唱えて続けて全托行を徹底してたら神さまは使う。使いやすいから使う。その時にすることは、神さまのすることだから自分はしてないの。絶対奉仕よ。何しても絶対奉仕に変わる。

だから真理の言葉を伝えてくれるかもしれない、神さまがね。必要なところへ必要なものをちゃんと与えてくれる。これを自分がストップかけたらまた間違うよ。神さまがしてくれることは絶体奉仕だから。使ってもらうほど、神さまが降りて働くから輝くの自分が。ストップかけたら輝かなくなる。この辺もお任せよ。自由自在にならないと出来ないよ。

だから、自分がしなければならないというのは間違いよ。自分のすることは神さまに心を向けることだけ。後は神さまに使ってもらうことだけ、一番大事なのがそれよね。邪魔しないことよ。すべて神さまのお陰っていうのは100%神さまのお陰よ、本当に。自分は何もしてない。

だから自分が消えないと消えないと絶対奉仕にならない。自分というのが出たら邪魔してる、我が出てるから。すべて神さまのお陰っていうね、100%神さまの働きだけっていうふうになったら、自分が消えてるから絶対奉仕。ありがとうございますを唱えるのも、恩返しの絶対奉仕のありがとうございますを唱えるのも大事なことなの。

ありがとうございますって唱えるお祈りが、本当は最高の恩返し絶対奉仕。一回のお祈りが無限億万円の価値があるんだったら、大きい絶対奉仕。でもこれも自分が祈ってるって言ったら我の祈りよ。価値が小さくなる。我の祈りになるほど小さくなるの、価値が。自分が無くなるほど大きい価値が生まれる。神さまが祈ってくださってるっていうのが本当の祈りよ。そこは無限の価値がある、そこに。備わってくる。

だから常に本物を、本物をしっかりと見極めないとダメ。惰性に流れたら偽物になる。常に新たに新たにって、本物を見出していくのが正しい。過去の惰性に流れたら偽物に陥っていく。厳しいですね。でも楽しい。新たに新たにって生きられたら楽しい。ちょっとわかってくれた?

まだまだ浅いのよ、これは。まだ奥が奥が深いよ。本当の神さまへの弟子入りが要るのよ。弟子入りしないと本当の守りがないのよ。弟子入りは、恩返しの絶対奉仕に徹底しないと厳しい。自分が弟子になったつもりじゃ、まだ弟子と違うのよ。神さまが弟子入りを許可しないと弟子じゃないよ。それを認めてもらうまで、しっかりと恩返しの絶対奉仕に生きる練習を積み重ねるの。認めてくれた時が弟子入り。

恩返しも、恩返しになるかどうかが問題なのよ。みんな無限の借金を持ってる。思い一杯というのは。それも高利の利息付の無限の借金と同じ。でも、これは自分が死に物狂いで働いて返そうとしないとダメなの。怠けていては返せない。利息すら一部も返せないですね。だから死に物狂いで働いて返そうっていう気持ちが絶対要るの。だから、その働きを大きくして返そう返そうって一生懸命に与え尽くす生き方が良いのよね。

だから借金返しでもタダ働きでないとダメになる。タダ働きが借金返しの気持ちを持ってるって言えるのよ。その借金返しを神さまは見てるのよ。どれだけタダ働きして一生懸命返そうとしてるかって、それで神さまが認めてくれた時から、それが恩返しに変わるの。自分が恩返しに切り替えるわけにいかないの。自分はあくまで借金返しなの。神さまが認めてくれた時に恩返しになる。神さまが借金を肩代わりして棒引きにして消してくれる。一生懸命生きてるから助けようとしてくれるだけのこと。それを認めてもらうようにしっかりと生きないと恩返しに絶対になれない。自分が言ってもダメなの。自分が恩返しに生きてるって言っても通用しない。借金取りが次から次へやってくる。

神さまが肩代わりしてくれるようにならないと恩返しって言えない。借金取りを追い払ってはくれない。だから、働きを大きくしていく、みんなを幸せにしようと一生懸命働くというのは大事なの。一生懸命、すべてを捧げ尽くして借金返ししようとすることは必要なの。そうしないと神さま認めないよ。怠けていてはダメなの。

だからお祈りで神さまのお役に立ちたい、借金返ししたいって、これもありがとうございますと唱えるのでも、そこまで真剣に祈らないとダメ。真剣に祈ったら、こう借金返しのありがとうございますが、恩返しのありがとうございますに変わるよ。価値が無限に、無限倍になるの。

同じありがとうございますを唱えても、借金返しの時は、まだ微々たるもんよ、返すのも。同じありがとうございますを唱えてても。それが恩返しに変わった時に、それが無限倍の働きに変わる。だから、同じありがとうございますを唱えてるんでも、一生懸命唱えないとダメ。認めて貰えるまで唱えないと。一心不乱に唱えるほど認めて貰えるよ。

だから、報いを求めないっていうのが一番のポイントよ。お返しを求めたらダメなのよ、どんな働きしても。仕事をして、お金を貰う仕事でもそうやけど、お金を貰おうと思ったら損するよ。ただ働きの気持ちだけで働いといたら良いの。貰った時は貰ったで良いけど。その時は神さまから頂いたっていう気持ちで受けたら良いだけで。これだけ働いたからお給料貰うって言ったら間違うよ。

お祈りもそうよ。これだけ祈ったのに、なんで良くならないの?って言ったら大間違いよ。求めてるから神さまの助け無くなるの。こんなちょっとしか祈ってないのに、こんなに幸せにしてもらってって言った方が良いの。これ反対の人いてるよね。これだけ祈ってるのに病気一つ治らんって言う人いてる。これ、絶対治らないよ、保証する。神さまに対して無礼千万だからよ。こんなちょっとしか祈ってないのに、こんなに幸せ一杯にしてもらってって言う人は助けてもらえる。これも言葉がプラスに向いてるから神さまは助けやすいのよ。

だから、気付かないことって一杯あるよ。正しいと思ってて正しくないかもしれないしね。だから、そういう気付きを与えてもらうのも、やっぱり本物を目指さないとね。気付きが次から次へと与えてもらえないから。それで、小さい気付きで喜んで満足してしまったらダメよ。最高の悟りまでいかないと。真(まこと)の神さまの近くにまで戻らないとダメよ。そこまで行かないと。

はい、ありがとうございます

音声はこちらからどうぞ
https://youtu.be/XMUcBoHNlxw

宇宙神ありがとうございます

じょうし


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2012-12-22 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年03月18日(月) 11時55分
PC

2012年12月22日先生のお話
 宇宙神ありがとうございます

 2012年12月22日の先生のお話です。

先生
 何か質問は?

質問
 言葉を書き出しはじめたら、質問を考え始めたら、ものすごい言葉の数で。神さまの意図がわかったっていうか、真実の世界の辞書になるんだって思ったんです、これは。それがハッキリとわかったら、いろんなことがスッキリすんだなっていうのがハッキリしてきた。それぐらい混沌としてんだっていう、それがわかったんです。

 そいつは一大循環の流れになる、そのものになるっていうのがやっとわかった。全体になってるっていうのは、まだまだですけどね。でも、ああ、部分と全体とかって言ってたの、そう違ったのかってのはわかってきて、すごいなって。

先生
 それで何が聞きたい?

質問
 新しい話。与える側に立つっていうのだけ、がーっと聞いてるから、それはわかりました。でも、それができなきゃしょうがないしな。自分が実行するしかないんで聞きたいことって言われても困るんです。思いだしってなっちゃうし。ただ、着実に変えてってくれてるっていうが感じるから・・・。

先生
 どんな問題もそこに答えをもってきたら消える。神さまの世界は答えだけなの。

 まず、時間と空間。これ虚の世界は、相対の両極の姿を取る、時間と空間。それを組み合わせて宇宙、世界生まれる。時間も過去、現在、未来って無限の年月が広がる。空間もそうよ、入れ子構造的にも大きく広がる。真(まこと)の神さまの世界は、そのすべての時間と、すべての空間を本当一つに束ねて収めてる。ものすごいこと。だから、全部を束ねてるから問題がないの。すべて満ち足りてるの。それを時間でも、空間でも広げてしまったら全体じゃない、足りなくなるから問題が出てくる。不足してるっていう姿。

 幸せでもそうよ。神さまの世界の幸せは、無条件の幸せっていうのは、一つ一つ数えないっていうのは、新なる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯っていうすがたを取るから、幸せが満ち足りてるの。だから、幸せを求めない、探さないし、数えない。すべての幸せを一瞬一瞬与え続けてもらって、味わい続けて、これ永遠に続いてるもの。幸せの答えが既にある。

 これが本当にわかるかどうかが一番大事なポイント。わかるためには、もう神さまの側に立たないとわからない。何度も例えで言うけど、太陽の光を求めて受けるって、その時に受ける太陽の光は一筋の光よ。太陽の放射してる、たくさんの光を受けられない。自分の方向へ流れてくる一筋の光。だから、無限分の一よ。太陽は他へ、無限の方向へ放射してる光。放射してる光は無限倍。太陽の側に立ったら光がよくわかる。これが光なんだって、みんなを幸せにする働きなんだってよくわかる。

 神さまの働きがそうよ。太陽の無限億万倍以上の大きい光を与えて、与えて、与え尽くしてくる。でも、その神さまの光を受けようとしたら、小さい無限分の一以下の光よ。求めても、もっと小さくなる。だから、神さまの側に立って、与え尽くそうとした時に、初めて、神さまのすごさが実観できる。

 だから、与えて、与えて、与え尽くすっていう神さまの側に立てばいいよね。本当に必要なものを、すべてに対して的確に与え尽くしてくる。本当に的を的を得て、確実にって、的確に、絶対間違わない。本当に必要なものを与え尽くしてくる。

 何が本当に必要かって的確に見抜く、そして与えてくる。だから、与えてもらう側も段階が色々、無限の段階もあるし、何が必要か全部違うし、この無限の段階の違いが見抜けないとダメだし。何を本当、本当に必要としてるかを、もう細かいところまで見抜かないとできない。

 今、お茶一口だけ飲みたいっていうのにコップ一杯もいらない、一口だけでいいのにね。それもちゃんと、どれだけが本当に必要かって見抜いたら最高の状態で与え尽くしていける。それが、やっぱり一瞬一瞬新たに与え尽くす働きが神さまの場合完璧なの。もう、すべて取り揃えて、なおかつ必要なだけを与え尽くしてくるっていう。そのすごさが、もう言葉では本当は表現できない。 愛の深さ。

 ただ神さまの愛を本当にちょっとでも観じ取ろうと思ったら、神さまの側に立って、神さまと同じようにみんなを愛するっていう、働きの方へ心向けなダメ。愛を求めてる間は、本当にわからない小さい。だから、与える側に立った時に初めて 実観させてもらう。最初は小さかっても、どんどんどんどん大きくしてもらえる。

 神さまの働き、常に後押しよ。真(まこと)の神さまの働きは常に後押しなの。一番下から支えて押し上げる働きよ。虚の世界の神さまは上に立つ。上に立って引っ張るっていうような感じでも成り立つのよ。虚の世界の神さまはそうよ。上下の差別がある。でも、真(まこと)の神さまはそうじゃない。一番下から支える。どこまでも後押しなの。だから、神さまに代わって、みんなを幸せにしようとして与え尽くしたら、 いくらでも無限倍、無限倍って、いくらでも支える力を与えてくる、循環させてくる。もう絶対不足することはない。

 この一大循環の流れの中へ、自分が置けたら、幸せって絶対崩れない。本物っていうのは、一大循環の流れの中へ入ったらいいだけなの。ありがとうございますって、お祈りも同じなの。ありがとうございます唱えて、求めるお祈り、受けるお祈りはまだ偽物。与え尽くすお祈りになったら本物。ありがとうございますも真(まこと)のありがとうございますに段々となってきてるの。神さまの側に立って一大循環の愛の相象(すがた)を与え尽くそうという働きになってきている。

 真(まこと)のありがとうございますを受けるようになってきた。量よりも質の方が大事なんです。低い段階で、いくら数が増えても量が増えても邪魔になるだけなの。質をどこまでも高めないと、まず質を高めて、これが本物ってなったら、今度は量が増えても大丈夫。みんなを本当の意味で幸せにしていける。ありがとうございますをただ唱えたから、たくさんの人が唱えたからいいのかって、そうじゃない。求める心でありがとうございます唱えてくれたって、大したことない、邪魔になるの。

 南無阿弥陀仏っていう、この祈り言葉も同じよ。南無阿弥陀仏、本当は阿弥陀様と一体化するための光の言葉だけど、でも、お葬式の時に南無阿弥陀仏唱えるでしょう。そうすると段々とお葬式の念仏になる。お葬式を思い浮かべて南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏が汚れてくる。マイナスのお葬式の念仏になってくると唱えるほどマイナスが増える。同じ南無阿弥陀仏なのに。余計なものをくっつけたらそうなる。

 ありがとうございますも本当はそうよね。余計な願い、思いをくっつけたら、マイナスになるの唱えるほど。だから、神さまの本当のお手伝いじゃなしに邪魔してることになる。思い一杯まき散らすような働きになるからよね。だから、本当のありがとうございますになった時に、初めて神さまの本当のお手伝いなってくる。だから、真(まこと)のありがとうございますっていう本当の意味をわかってきた人は唱えるほど、神さまのお手伝い。一大循環の光を与えるお手伝い。本物だったら、いくら広がっても大きくなっても大丈夫。みんなを輝かすだけなの、みんなにプラスを大きく与えるだけよね。

 だから、これからよね。本物の真(まこと)のありがとうございますがこれから広がる。今までは、質を高めるために色々、神さま助けてくれた。これからはもう、本物のありがとうございますになったから大きい助けが循環してくる。真(まこと)のありがとうございますをみんなが生きるのよ。これはもう、真(まこと)の神さまが、真(まこと)の自分っていうすがたで生きる。本当の一大循環の相象(すがた)となって生きる。だから、すべてに対して、本当に必要なものを的確に与えていこうという働きのお手伝い。

 神さまの教えも方便の教えも本物の教えも一杯あっても、本当に必要なものを的確に与える働きが 本当の神さまのお手伝い。単に単に教えを説いたから正しいんかって違うよ。

どんな質問に対しても本当に必要なだけを答えていかないダメ。同じ一つの質問でも段階がいく通りもあって、その答え方も幾通りも段階に合わせて答えないとダメ。それでいて、一貫して真(まこと)の神さまと繋がるような答え方がいる。だから、どういう言葉を、どういうプラスの言葉を、こう、すべての人に対して与えていくか?これも大事な与え方よね。

 ただ、ありがとうございますを与えたらそれでいいのか?ってそうじゃないの。細かいところまで行き届いて、必要な言葉を的確に与え尽くしていくのが必要なの。

根本は、真(まこと)のありがとうございますがバックについて大きい光を振りまいてくれるけど、枝葉の細かいところは人の役目よ。本当に必要な言葉を的確に見抜いて、与え尽くし合うようになってくると、神さまの一大循環の相象(すがた)の中へ入っていくの、みんながね。そしたら、真(まこと)の神さまの世界になってくる、必ず。それができないとまだ必要なものが手に入ってないから、不足の世界、虚の世界になる。

 だから、いろんな質問、問題って一杯ある、世の中に。不平、不満、不足の世界はそうよ。千や二千じゃない。例えば、「戦争はどうして起こるの?」って、答えるって大変よ。いろんな立場から、いろんな角度から、ちゃんと検証しないとできないよ。原因がたくさんある。また、「戦争をなくすにはどうしたらいいか?」って答え方も一杯ある。また、軍備って、「軍隊って本当に必要なのか?」っていう質問があっても、どう答える?みんな。 「軍隊がなぜ必要か?」って。でも、「本当に必要か?」正しい答えがいるのよ、やっぱり。それも段階段階に応じて、いろんな、必要な、的確な正しい答えが出てこないと問題解決していけない。

 だから、その時、その時、全部答え方が変わらないとダメ。本当に必要な言葉を、本当に必要なプラスの言葉を加えたら問題消えるの、順番に消えいける、消していける。だから、(ありがとうございますは)一番高い、大きい光の言葉だから、これだけ加えたら全部消えるんか?そうじゃない、消えない。受け付けない、まずね。

 そうでしょう、戦争状態の中に置かれた人が、本当に無抵抗で命投げ出して、お任せできますか?って言ったってできない。でも、本当の答えはそうよ、神さまに全託すればいいことなんだけど。すべてを神さま任せれば解決することだけど、今、戦争状態で身内の人が殺されて、バンバン弾が飛んでくる中で、本当に無抵抗になれるか? 難しいよ。→これを十字架に上るという。河上註

 だから、その時のその時、状況に応じて必要な解決方法って順番に出てこないとね。だから、人の心を癒す言葉もそうよ。順番に必要な言葉が的確に出てこないと人を救えない、答えにならないから。

 だから、例えば、千の質問を用意しても一つ、一つ、一つの質問が、また細かく枝分かれする。同じ一つの質問に対して答えるのでも、幾通りも答えを出さないとダメ。いろんな角度からいろんな立場から、どの立場まで引き上げるか?っていう答えが必要になってくる。

 こういう本当の正しいプラスの必要な言葉を与えるっていう勉強も大事よ。神さまの側に立ったら、よくわかってくるよ。どういう言葉が必要か?って。そして、本当の必要性がわかった時に自分の身につく。問題が消えて答えが、そのまますーっと観じ取れるようになるの。どんな問題も解決するための鍵がいる、鍵がね。

 これからそういう勉強をみんなしないとダメよ。一人ではできない。神さまの世界は元からみんなが支え合う。みんながプラスを与え合って、支え合って、一つの大きい働きをする。だから、自分一人で全部できるのは不可能なの。それじゃ、自分だけが悟るだけでダメ。みんなが悟るっていうのは、みんなが同じように、そういう働きを一緒にしないとダメ。

 支え合って、助け合って世の中のすべての問題を解決するために、本当の答えを的確に出し合ってこないと。そして、それをみんなに伝えていかないとみんなが手を携えて、支え合って、助け合ったらすぐできること。

 そして、与える側に立った人は神さまと一つになる。本心の自分に戻って、神さまの知恵をもらう。本当に幸せな自分に変わる、すぐに。だから、与える側に立つことが、これからの本当の生き方よ。真(まこと)のありがとうございますを生きる。真(まこと)の神さまを生きるのよ。本当の自分を生きること。

 これはもう、これからみんなを幸せにするために何を与えたらいいか?ここから出発よ。それで、プラスを与えて、与えて、与え尽くすだけでいいのよ。マイナスをどうのこうのじゃない、プラスを与えたらマイナスが消える。光を与えたら闇が消える。どれだけ光をプラスを的確に与え尽くしていくか?これだけよ。だから、これから本物の時代になっていく。もう、マイナスや闇と取り組むのと違うの。自分が光になればいい。自分が光を放射すればいい。

 この真実の世界の最小単位の天照大御神って、天照大御神っていうのは、一つの光源よ。「あま」っていうのは、全大宇宙っていう意味よね。天照大御神という言葉はどういう言葉かっていうと、自ら照り輝きながら、なおかつ、全大宇宙を照らす働き。自らが光になる、光源になって、なおかつ、全体を照らす。照らし合うみんながね。これが天照大御神っていう言葉の意味。虚の世界の比較上の、この神さまの言葉じゃないの、真実の世界の天照大御神という神さまの名前の言葉の意味よ。だから、入れ子構造の天照大御神さまが、真実の世界には無限に無限に一杯よ。そのすべてが本当に支え合ってるの。支えるっていうのはプラスを与え合ってる。必要なものを的確に与え尽くし合ってる。自分は全体を相手に、自分のすべてを与え尽くしていくのよ。そうすると、全体が自分に対して必要なものを的確に与え尽くしてきてくれるの。だから、そのプラスの循環、交流だけプラスがどんどん増幅して大きくなるだけなの。元からそうよ。一大循環の相象(すがた)がそうなの。一大循環の相象(すがた)そのものが、支え合いのすがたをとっているからよ。

 その支え合いの世界へ飛び込むの。これが、みんなが手を取り合って、支え合って、一つの目的に向かって、神さまのお手伝い、与え尽くす生き方をとれば、その元からある一大循環の世界に真実の世界に、すっと戻れる。だから、虚の世界を消すも何もないのよ。一大循環の世界の中に入ったら虚の世界はないの。

 だから、真実の世界に戻りたい人は、その真似事をするだけ。神習いって、神さまの生き方に習って、真似事をすることによって一大循環の相象(すがた)の中へ戻っていく。
→これの簡単な実行が印可書の奉読です。河上註

 そして、神さまの世界だけっていうのを実観する。だから、神さまの世界から、どっかに落ちてしまった、落とし穴に、はまったから虚の世界。だから、神さまの世界に戻ったらお終いなの。元から落とし穴ってなかった。

以下で言うありがとうございますを展開すると印可書になります。河上

 (神さまの側に立って→神さまのお手伝いとして)ありがとうございます一言唱えるだけで、一大循環の相象(すがた)となって、大きい働きをする。ただ、ひたすらありがとうございます唱えるだけでいいの。神さまの側に立って唱えたら、大きい光は降り(ふり)まいてるすがたよ。一大循環の相象(すがた)になって、大きい光を全体へ降りまいてるすがた。ありがとうございますにその大きい力があるの。本当に霊妙不可思議な神秘の力があるの。一大奇跡を起こしてくれる。本当の言霊の力がある、ありがとうございますに。その、ありがとうございますをひたすら唱え続けるだけがいい。そしたら、一切の我は消える。真(まこと)の神さまだけが、新たに新たに現れては、真(まこと)の自分っていうすがたで働いてくれる。

 ありがとうございます唱えるだけが無条件の幸せを実観する。本当に湧き上がってくる幸せを実観する。真(まこと)の神さまと出会うって言うけど出会うって言うけど、目の前に現れたのを見るのと違うよ。真(まこと)の神さまの自覚になる。目に見えるのは大したことないよ、そんなん。太陽が目の前に現れたって、太陽を見たって、太陽と一体化してない。真(まこと)の神さまと出会うのは、そんな出会い方じゃない。

 真(まこと)の神さまの自覚になる。神さまの側に立って本当の出会いになる。だから、一対一の本当の対面っていうのは、本当に神さまの他に何もないっていう出会い方になる。だから、五感の感覚も、六感の感覚も全部、虚の世界の感覚よ。時間と空間に、その対立させて広げた世界は本当の全体のほんの一部分よ、部分だけを見てるだけよ。本当の足跡、残像よ。時間でも無限の年月見てない。その中の一部だけ、無限分の一だけを今っていうふうに捉えてるだけです。だから、いかにこの五感、六感の感覚は、つまらない、頼りないものかってね。

 だから、全部、始めがあったら終わりがある。必ず消えてしまう。マヤ暦では、今日が終わりなのよ。終末なんよ。世界が滅ぶっていうふうに予言を、予言的に感じて言うてる人、大勢集まってるらしい。本当はそんな意味じゃないけど、でも、それ言葉通りだから。マイナスに言葉を使ったらマイナスに感じたりする。でも、虚の世界も現れたら必ず消える。だから、一日でも朝があり晩がある、月の始めがあり月の終わりがある。一年の始めがあり、一年の終わりがあるって、長い周期でも、そうでしょう。必ず始めがあって終わりがあるのよ。だから、暦(こよみ)も同じよ。大きい一つの周期を表してる。だから、その一つの大きい周期が終わったっていうだけよ。でも、それも、もう一つ大きい周期の中に入ったら、まだ途中よ、みんな。

 虚の世界の考え方は色んな考え方一杯あるの。マヤ歴もいろんなことが一杯、わかりやすく模型的に解いてるって言ったらそうだけど、日本の古事記の神話も、あれも本当の仕組みを地球じゃ最高の解き方をしてる。でも、虚の世界の成り立ち、それは。

 まず、一つのものが二つに分かれて、それぞれ、順番に組み合わせて作っていくにしても、一が二なり、二が四になりって、更に八になって、十六になってって、十六菊って、皇室の紋章じゃない。三十二になると今度、仏の三十二相っていうじゃない。完璧な姿をこの三十二相っていう姿に見るんじゃない。それをどんどん膨らましていくのよ。そしたら、いろんな周期の姿がいろんな姿で出てくる。一年の四季の変化でも順番にいろんな姿を辿るよ。同じ状態は続かない。必ず虚の世界は、みんなそうよ。相対の両極の全てが組み合わさってできるもんだから、夏が来たら冬が来る、春が来て秋が来てっていう、やっぱり循環する姿を全部取るからね。だから、その組み合わせで、いろんな周期を考えてる、みんな、言葉で考えて、それを、虚の世界では活用する。

 ただ、どんな移り変わりでも、全部プラスに見ようと思ったら見れる。春が来たら春を最高。夏が来たら夏を最高って、これ全部最高に見たらいいだけなのよ。言葉の使い方一つよ。これを一つの立場に縛られたら、夏がいいって言うて、冬が寒いって言う。マイナスって本当はマイナスじゃないのに、言葉がマイナスって言ったらマイナスになるの全部。ご馳走ばっかり食べて、お腹満腹っていうのがプラスじゃない、食べ過ぎたらしんどい。運動してお腹減らした方がプラスの時もあるの、気分爽快。

 本当は、すべてプラスなの。移り変わる姿をすべてプラスの言葉で受けたらプラス。虚の世界ほど言葉通りに感じる世界。でも、真(まこと)の神さまの真実の世界は、もう全部、すべてを一つに収束して、一つに束ねて収めてるからプラスばっかし。比較しないから対立させないから本当のプラスばっかりの一大循環の相象(すがた)をとり続けている。→このうつしよの感覚では、印可書を奉読している状態。河上註

 なんかありませんか?答えは?

 この日本の国を良くするためには何が必要なんですか?って、今のままでいいでしょうかね?いろんな問題一杯あるでしょう。国内の問題も外国の問題も一杯ある。いろんな問題どうしたら解決できるか?本当にみんなが調和して幸な状態にならないと解決じゃないもんね。この領土の問題でもそうよ。どうしたら解決できるか?執着して、これが自分の国の領土ってしがみついたら絶対解決しない。でも、執着して離さない人にどうして解決していくっていう答えを与えていくかよ。やっぱり順番がある。最後は全部、神さまにお返ししないとダメよ。自分のもの絶対掴まないようにならないと、神さまから一瞬一瞬受け直さないと。そしたら、自分のものは掴まないし、人のものを奪おうとしないし争わない。元からみんな支え合って助け合ってる姿ばっかりだから、全部みんなの幸せのために使えばいいだけ。大体、国の境界決めること自体が間違ってる。でも、段階をおって解決していかないとそれ本当の答えにまでいかない。だから、順番に解決していかないと。

 軍隊もつのでも同じ。軍事費に使うお金ってすごいお金よ。そんなお金があったら、相手の国の幸せのためにそのお金全部あげたらいいのにと思うけど、相手喜ぶ。相手も同じように与えてくれる。与え合ったら幸せが大きく増幅する。でも、マイナスの言葉で疑ったら、もうどうしようもない。相手が敵だと思ったらもう、どうしようもない。マイナス言葉が幸せを破壊する。

 元からそうよ、信頼関係ってみんな言葉がマイナスになった時に崩れる。現実がどうのこうのじゃなしに言葉がマイナスになった時に全部崩れていってる。言葉をプラスに変えてたら崩れない。言葉がやっぱり大事。プラスの言葉だけを使って褒め称えて、感謝して、喜んでる限りは絶対崩れない。現実はどうあろうとそんなの無関係。言葉だけがプラスだったらプラスが現実化してくる。でも、言葉がマイナスになったら現実プラスでもダメよ。言葉がマイナスになったら、すぐ全部マイナスになってしまう。プラスが破壊される全部。いかに、このプラスの言葉を一杯みんなが使えるようになるかよ。本当は言霊を、言霊を使いこなさないとダメ。言霊っていうのは神さまのプラスの言葉よ。プラスを現実化する本当の言葉よ。ありがとうございますも言霊のありがとうございますをしっかりと使ったら、神さまが現実化する。

 与え尽くす、与え尽くす言葉を一杯持たないとダメ。プラスの言葉を一杯与え尽くしていかないと、使いこなさないとダメ。本当に自分の見たり、聞いたり、言ったりする言葉、全部、自分の選んだ言葉、全部現実化するよ。言葉通りになる。見るだけで聞くだけで、全部自分の選んだ言葉になったら、言葉通り自分になってしまうの。だから、プラスの言葉をしっかりと選ばないとマイナスをマイナス言葉を見たり聞いたりしてしまう。だから、真(まこと)のプラスの言葉だけをもう真剣に使いこなしていかないと。その練習って大事。 それで、ありがとうございますをしっかり唱える。隙、心の隙を出さないようにしてしまわないと。ありがとうございますだけにしてしまわないと余計な言葉が入り込んでくる。ありがとうございますだけを唱えたらプラスだけになる。調和だけ。

 現実が先じゃない、言葉が先。過去の言葉の結果が現実化してても、それはもう、今、プラスの言葉を使ったら全部消える。心に溜まって残ってる間、現実化する前の言葉も全部消えるよ。大体、マイナスの言葉は実現力が遅くなるようにしてくれてるの。プラスはすぐに実現しても良いけど、マイナスは反省期間を置いてくれてるの。だから溜まっていくの。溜まってる間に消せば良いだけなんだけど。そのプラスの言葉、選び続けたら心に溜めた分は消えていくすぐに。現実化させずに済むのよ。

 だから、与えるっていうのも、やっぱり心で唱えないと与えてないよ。しっかり心で唱えた時、与えてる。ありがとうございますって唱えた時に与えてる。ありがとうございますって、護摩木に書いたら与えてることになる。ありがとうございますしっかりと、そこのシールをしっかりと心に焼き付けたら唱えたことになる。見たり聞いたり言ったりする言葉。本当に自分が選んだ言葉が与える言葉になる。

 だから、大きい与え方よ。大きい与え方っていうの、真(まこと)の神さまのすべてを与え尽くす働きなの。一大循環の相象(すがた)を与える働きよ。この、真(まこと)のありがとうございます、このありがとうございます唱えること。真(まこと)のありがとうございます唱えられる人はそうでしょう?一大循環のすがたを与える働きをするの。大きい与え方。だから、神さまの大きい徳を循環させてもらえる。神さまの徳をもらえるの。小さい徳を積むのと違う。神さまの徳を循環させて、すべてをもらえるの。

 虚の世界は、小さい徳を積み重ねるんだけど。全部、借金と帳消し。徳を積んだと思ったら借金の方にスッといってしまう、消えてしまう。だから、虚の言葉じゃ足りないよ、プラスでもね。虚のプラスの言葉じゃ、マイナスと帳消し。でも真(まこと)のプラスの言葉はそうじゃない、神さまの力ある言葉を使うことになる。神さまのお手伝いだからプラスの循環だけになる。

 本当に「真(まこと)の神さまの相象(すがた)だけ!」「真(まこと)の神さまの世界だけ!」他になにも無いって断定的に言葉を使わないと。「みんなが支え合ってる」って言わないと。本当は、みんな本当はそうなの、元の神さまの世界はもう、本当のプラスの支え合いだけど、虚の世界でも、「支え合ってる」という言葉を使った人は支え合ってるの。みんなが助けてくれてる。マイナスでも自分が背負わんなん(背負わないといけない)マイナスをみんなが背負ってくれてる。どんなマイナスも消し続けてくれてる。人のマイナスじゃないの。自分のマイナスを身代わりに背負って、助けて支えてくれてる。プラスも、同じようにみんなが与え続けてくれてる。だから「支え合ってる」って一言あれば全部支え合ってる。

 マイナスの一言さえ使わなかったら全部良いのにプラスになっていく。わざわざプラスなのにマイナスの言葉を使うからダメなだけで、マイナスなんか本当はどこにもない。本当のプラスだけの支え合いだけのすがたよ。

 だから、世の中がマイナスが悪いって言ったらダメなのね。「大きいマイナスを背負ってこんなに軽くして消してくれてる」って。「本当の大きい働きをしてくれてる」、「支え合ってる」って言った方が良いよね。「プラスだけ」って言った方が良いよね。本当はプラスだけよ。「もう一つ大きいプラスばっかり」って言えば良い。「真(まこと)のプラスだけ」。どんなすがたもプラスの言葉を使ったら、小さいプラスから大きいプラスまで、幾通りもプラスの解釈を施してプラスを受けられる。最低10通りって言うけど、10通りじゃないの。本当は無限通り。一つのすがたを見ても無限の、この大きいプラスの解釈を施したら良いの。すべてプラス、プラス。

 だから、色んな問題があって、これはマイナスって言う人がいてても、そこへそれはプラスだっていう答えを出していけば良いのよ。どんなマイナスもプラスになるよ。こう、直線的な答えではプラスでなかっても、螺旋的に動いたらプラスになる。だから、一部分だけ見てもダメだよ。全体を見て、モグラたたきみたいなものよ。一つ引っ込んだら他から飛び出すっていうふうに。全体を見てたら、ここがマイナスでも他が大きいプラスが出てたら良い。モグラが叩かれて引っ込んだマイナスって。他にモグラが三つか四つポっと飛び出したら、他で大きいプラスってなるじゃない。だから全体を見たら大きいプラスっていうふうに。こう、考え方は色んな考えが一杯出てくる。だからプラスにプラスに言葉を使ったら、たくさんのプラスの解釈を施していける。本当は元からそうよ、プラスばっかりって言えるの、本当の正しい見方よね。プラスの言葉の使いこなせる自分に能力を高めていくのが大事。

 これも受ける側だったら、わかるのはちょっとだけよ。与える側に立ったら、無限倍になってくるよ、気付きがね。どうプラスに受け直したら良いかっていうんでも、与える側に立ったら一杯知恵が湧いてくる。大体、ユーモアとか冗談というのはそうでしょう?全部をプラスに笑い飛ばすんでしょう。立場が上の方から与える側に立った時は冗談が一杯飛び出すのよ。与える側、上が、上は上段(冗談)よ。(会場から笑い)

質問
 言葉を考えていて、昔の日本語だったら言霊の言葉ってあったのかなって思ったりとか、あと、諺(ことわざ)ってあんまりプラスでとってるものってないよなって思って。でもこういうのも全部プラスに変わるの、変えていくのが与える立場。すごいよなと思って。これは確かにもっともっと色んな見方をしてたら、一つの言葉もプラスに見えるんだろうなとは思うけど、すごいですね。

先生
 全部、プラスの解釈を施せば良い。

質問
 もう、答えの方を考えようかなと質問の方を考えているとマイナスになってくるの。

先生
 ならない。(質問者:ならないの?)質問に対して答えを出さないと全然、本当の答え出ないよ。

質問:
 だからもう、答えの方を考えた方が良いんですよね。変に言葉を一杯出してきても、もうなんかモヤモヤになって。やっと出てくるわ。知らない言葉が。

先生
 もっと一つの質問も掘り下げないとダメよ。たくさんにならないと。同じ一つの質問でも色んな質問に分かれないと深くならない。(質問者:凄い量)それに対する答えを引っ張り出さないとダメだから。

質問
 だから、今出した漠然とした言葉が色んな質問が出来るわけでしょう?それが、また色んな段階の答えが出て来るわけでしょう?凄い量と思った。

先生
 「自由とは何か?」って。「本当の自由とは何か?」って、難しいよ。どこから答えるかで答え全部違ってくるから。「平等ってどうか?」って平等も難しいよ。現実だけ見てたら平等なんてどこになるかわからない。

質問
 それに、さっきので聞いてたら、世界的にも考えないといけないとか、環境が全然違うところの立場にも立つわけでしょうって言ったら凄い。

先生
 同じ質問でも違うでしょう?だから同じ質問をしてくる一人一人の質問の中身が違うよ。同じ言葉で質問しても。それを的確に見抜いて答えないと。だから、一つの質問に対して最低十通りの答えを出さないとダメ。これから、そういう勉強をみんなでしていく。良い答えが出たら、小冊子にしてみんなに配って、それを参考にしてもらうのが良い。

質問
 あらゆる立場、今まで自分がなってきたものすべての立場っていう感じでしょう?すごいね。

先生
 だからこれ、自分が求める側に立ったら自分の体験した立場しかわからない。でも、与える立場に立ったら、すべての人の立場がわかる。答えも的確になるけど。全体を自分の中に全部収める立場にならないとわからない。

質問
 だって、それってあの世もこの世もだし、宇宙もでしょう?すごいね。すごい質問量になりそうなの。

先生
 だからどんな問題でも、片っ端から即座に解決していくだけのものがいる。どんな問題でも一瞬に消せないとダメ。すぐ答えがパッと出てこないと。どんな問題もすっと消えるのが良い。言霊を駆使するっていうのは、みんな、一瞬に消したのよ、マイナスを。

質問
 言霊を駆使するって、高いところの言葉だけじゃないんだ、低い言葉も言霊を駆使してることなんだ。(先生:みんなそうなるよ)消せれば言霊だもんね。

先生
 問題を消したら良いの。一瞬に消す力が言霊の力、神さまの力。

質問
 要するに、目の前の人が納得すれば良いっていう感じだね。

先生
 問題が消えたら良いんでしょう?順番に片っ端から消していけば良い。これから、みんなに宿題を出さないとあかんな。

質問
 やってみたら面白いよ、すごいよ。

先生
 今週のテーマ。(質問:一つくらい?一つじゃないの?)一つでもいいけど。順番に答えを出していこうか?

質問
 やってみよう。別にそういうの手紙に書いても良いんでしょうか?手紙に質問を考えてたら、自分の分野ではわからないっていうのが出てきた時に、本業の人達に聞いたら早いのではと思ったんです。そうしたら、そういう人達に教えてもらうというか、参加してもらえば良いでしょう?って思った時に、ああ手紙だって思ったんです。だから今度の手紙にそういうのを呼びかけようかなと思います。別にいない人でも良いのでしょう?来れない人でも参加できますよね。そんなのではダメですか?

先生
 いや、良いんだけど、みんなそれぞれ全部そうして誰が束ねるかよ。この束ねる、一つにまとめる力が一番大きい力が要るでしょう?(質問者:それ会議の時に出せば)それを全部一つにまとめるのは、我を一切消さないとできない。我のない本心の自分に戻らないと。良いものは良い、悪いものは悪いって的確に見抜ける自分でないと、意見が一致しないでしょう?

質問
 先生、それって真(まこと)の神さまにならなければダメなの?

先生
 ダメなの、ダメなの。だから真(まこと)の神さまに戻るために、我を消すために、必要なものを的確に与える練習をするの。だから、良い答えが出たら我が消えてる。みんなの意見が本当に一致したら、みんな我のない生き方とってる。意見が対決するようだったら、我の出し合いになる。多数決で決めても決まらない。本当に、あるこの答えが素晴らしいって褒め称え合えたら本物になる。だから、答えを、本物の答えまで高めないとあかん、みんなで。そしたら、本当の必要なものを的確に世の中に全部与え尽くしていけたら、幸せになる人がどんどん増える。

 だから、自分一人でするのは不可能、出来ない。だから、みんなが支え合ったら力が相乗効果で大きくなる。お祈りも同じ。こういう働きも同じよ。100人寄ったら万倍になるよ。だから、そういう力を活用しないと神さまの力じゃない。

質問
 それを、そんなに詳しく知らないで、ただ、これはこうと教えてきた人というのは、「我」だからダメいうことになりますか?別にそれだって、その人達に必要な答えとしは良い答えだってなるのでしょう?

先生
 なるけども、最終までいくかどうかよ、答えがね。(質問:それはそうだけど)途中で止まって満足するようだったら答え方が間違ってる。止めてしまったら間違いなの。

質問
 それをこちらで何かを付けてはダメなんですね。その人が持ってきた答えはそのまま使うという感じでしょうか?そんなこと無いですよね。全部、みんなで話し合ってそれを一つの良い答えに持っていけば良いんでしょう?その参考でもらったもの(答え)を。ですよね?

先生
 だから同じ質問に対しても、例えば学校だったら、小学生、中学生、高校生、大学生がいてて、その全部に対して同じ答えはしない。小学生は小学生に合った答え方しか出来ない。だから、簡単に、そうでしょう?簡単に省略して答えるの。大学生になったら詳しく答える。だから、その違いをはっきり理解出来るようにしてあげないと小学生は中学になって高校になって大学に行こうとしない。

質問
 歴然となっていないと?

先生
 ちゃんと筋がすーっと通ってないとバラバラな状態だったら、そんなん、今の自分だけで良いのよ。次の段階へは行かない絶対。だから一貫してないとダメ。最終の答えまで一貫してて、初めて参考になるの。

質問
 ということは、もらった答えに、その段階、10段階をちゃんと、どこかにそれを入れながら、作れば良いわけですよね。だからどんどん参加してもらって良いのですね?

先生
 参加してもらって良いけどね。低い段階ではまとめる力が全然ないよ。ただ、真(まこと)のありがとうございますを唱えられるようになった人しか出来ないよ。(質問:まとめるのはでしょう?)

先生
 まとめるのは。(質問:だから、会議するのはでしょう?)

先生
 会議だけって違うよ。まとめる、本当のまとめる働きは、真(まこと)のありがとうございますを唱えて、本心の自分が出て来ないと絶対にできないよ。自分の勝手な質問を出して、答えを出しているようだったら我があるから、邪魔になるだけ出来ないよ。そんな人いくら集めたって、無限に世の中の人を全部集めてするような感じじゃない。そんなつまらない質問だったら、みんな自分のしてきた体験だけでもわかる。一応、みんな、自分の体験してきたことだけでも、色んな質問出せるじゃない。似たような体験は一杯あるんだし。その為に自分も色んな体験をさせてもらってるんじゃない。似たような人に答えるために。でも、それを本当の答えに変えるのが一番難しい。だから、質問なんか聞きあたるものと違うよ。そんなん、質問を集めるだけで一生かかっても出来ない。みんなの質問を聞いて回っても意味がない。

質問
 質問というか、この間言っていた、例えば病気。病気とは何か?ということと、病名が付いている、一個一個別々で。それに対する治療法も山程あるしという、色んな方法、漢方か西洋医学から色々ありますよね?それ全部、一つの病気に対しても一杯の答えがあったら良いと言っていたでしょう?そういうのを「漢方ではどうですか?」とか、「西洋ではどうですか?」とか、「東洋医学ではどうですか?」そういうのは?そいうのは、それは本を見れば調べられるんですけれど、そういうので参加するっていうのは、参加じゃなくて、そういうのは要らないということですか?

先生
 そんなん全部集めてたら振り回されるよ。偏った人は全部我が強いのよ。これしかないっていう答え方しかしないよ。他の解決法なんか相手にしないよ。今の西洋医学のお医者さんにそんななこと言ってごらん、そんなもの全部ダメって言うよ。だから、全体をやっぱり一つに見通せる人でないと、だから、みんな本心側に立たないと、色んな意見をそれぞれに良いところを見抜いて受け入れることは不可能なの。

 宗教の教えでも同じよ。一つの教えに凝り固まった人は、絶対他宗を排斥するだけよ。良いところなんか取ろうとは絶対しないよ。

質問
 でも、その冊子は、そういう人達に、凝り固まった人達が読んで次の段階に進めるようなものなんでしょう?

先生
 そういうふうにするんだけど、していくんだけど。凝り固まった人に力を借りてするのと違う。そんな人、一人入ったら、もうめちゃめちゃになって全部ダメになる。だから本当に全部を生かしてまとめるのは、真(まこと)のありがとうございますを唱える人よ。誰でも入れて良いのと違う。我の強い人が入ったら全部破壊されてしまう。

 大体、本心の謙虚な人は自分の意見を出さないのよ。我の強い人だけ意見を出して、意見がまとまったら、その通りになってしまうじゃない。我のない人がまとめるから神さまの意志が降りるんで。自分の意見を言って、それが正しいって主張するんだったら、我の主張よ。それだったら絶対まとまらない。

 だから、今こうやってまとめる勉強をしようというのは、ありがとうございますも本物になったから、そういうチャンスが与えてもらえるようになっただけの話で。みんなが我を付き合わすんだったら、こんなこと絶対しない。喧嘩になるだけよ、喧嘩になるだけよ。意見が違って文句の言い合いになって喧嘩になるだけだったらダメよ。

 だから、みんなが心を一つに支え合ってっていう気持ちになってこないと良い意見がまとまらない。本当の支え合いなの。自分を出さずに。支えるというのは、自分が一番下からみんなを押し上げる働きばっかり。みんなの意見を、良い意見をそっと生かして生かしてっていう。また、周りの人も自分の意見を生かして生かしてっていう良いものを押し上げてくれる働きでまとまるの。自分の意見出すのと違う。まず、みんなの意見を生かそうとするの。そしたら、自分の意見も生かしてくれる、いいところへ選んでくれる。それで一つにまとまったら本物になっていく。だから、自分がまとめてあげるという人は入って欲しくないの、そんなん、絶対ダメ。

 みんな、テープ起こしをしてもらって、その中から良い所を抜き出してもらってっていうても我の強い人は、おかしい所を抜き出すよ。自分の都合の良い所だけ抜き出して、これが資料って出してきたら間違うよ。本当に必要なものを選ぶっていうのでも難しいよ。だから、自分が一番謙虚に支え合う気持ちで、みんなを支えてっていう気持ちで、一段一段下へ降りて、一番下からみんなを支えないとあかん。一番下積みの生き方をとらないと。その人が一番神さまの助けを受ける。その本当0の勉強になる。

 だから、今、能力があるかどうのこうのは関係ない。みんなを支える働きをしたいという人が神さまの力をもらう。今、何も能力もなかっても、神さまが使ったら能力が天才的な能力がパッと出る。だから、その気持ち。支え合いの気持ちだけがあったら大丈夫。


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3月勉強会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年03月14日(木) 21時39分
PC

令和6年3月河上さん勉強会−1(20240310−1)

河上さん:質問ない?

質問:預かってません。

河上さん:預かってない?何もないですか?

質問:何もないです。

河上さん:はい。日本人の悪い特性でね、空気を読むとか読まないとか。或いは、「あの時の雰囲気やったら、とても言い出せんわな」とかね、そういう無責任さがあるんですよ。だから、分りやすいのは、 会社なんかの会議でね、社長も交えての、ちっさい会社の場合ですけど、大きい会社やったら部長も交えて、みたいな会議の時に、会社の方針とか、前提という独特の空気があるじゃないですか。だから、その空気に沿った以外のことは、言えないというね、雰囲気があって、あんまり会議では、建前は言うけど本音は言わない。で、会議が終わってから居酒屋行って、 「うちの社長、あれじゃあかんのや」とかね、本音が出るわけ。

 で、その会議で言った建前と、居酒屋でボロボロ言う本音との間ぐらいにね、真実があるわけですよ。で、それを日本人は、自分が責任負いたくないもんだから、空気に流されたフリをする。「あの時は、ああ言わざるを得なかったんだよ」って。でも、結局破滅するのは、自分たちなんだけどね。そういうのが、日本人の特徴にあるわけですね。で、それが日本に、いろんな新興宗教団体がね、たくさん発生した理由なんですよ。

 「教祖に神さまが降り立った」、或いは、「キリストが降り立った」とか、みんな色々言うじゃないですか。その前提のもとに、その空気に反するのは、全部弾かれるか、いじめられるかね、色々あるわけですけども、そういう形のものが、虚の世界の宗教団体。

 なんで虚の世界の宗教団体と言うかというと、空気に沿ってどうこうというのは、損得で動いてるでしょ?自分が損得で動いてるでしょ?で、それはもう神さま事じゃないのね。神さま事というのは、自分というのが消えないとダメだから。だから、ここは宗教団体ではないと言うのはね、昨日、突然来た人でも、それこそ僕のように60年以上おる者とね、結局は一緒なんだっていうのが、わからなくちゃいけない。

 でも大概は、年数の空気とか、まあ色々ありますわね。そんなんで、縛り合いしていくんですけどね。ここはそういうのはありません。只々、真祈りをするだけなんです。だから先生は「教えを立てない、 組織を立てない」と仰って。教えを立てない、組織を立てないというのは、要するに、前提という空気を作らないということです。みんな自由自在なんだよっていうのが、無理に教えと言えば教えなんですけど、教えにもならないよね。「みんな光や」って、「みんな既に祈ってる、悟ってる、救われてる」っていうね。みんな、真(まこと)の神さまだけであって、あと何も理屈はいらないね。だから、みんな自由自在に真祈りして下さい。

 で、真祈りについては、もう色々説明しますけど、説明しても難しくて、みんなわからんからって、僕が泣き言を言ったもんだから、先生は寿命を縮めてですね、「印可書」は真祈りそのものという「印可書」を作って下さったわけです。

 だから、印可書を損得勘定抜きでね、只々、神さまの「印可書」を奉読したら、神さまのお手伝いだということを信じて奉読していただいたら、それは真祈りなんだよ。それも苦手な人は、護摩木を作ること、護摩木を書くこと。或いは、護摩木のお金を出すことが真祈りなんだって、先生が言霊で決めていって下さった。

 だからここの護摩は、普通の世界の護摩とは違うんですね。普通の世界の護摩は、病気を治してほしいからとか、家内安全とか、色々ありますけど、そういう願い事をして、ギブ&テイク的な護摩なんですけども。ここの護摩は、純粋に護摩をすることが、神さまのお手伝いになるというだけのものです。
 
 だから、護摩に参加したから頭が良くなるとかね、病気が治るとかね、それは付随した出来事ですけども、求めてはダメ。何故かと言うと、神さまの働きは与え尽くしに、与え尽くすだけであって、一切求めてはこられないのね。
空気も水も、いつも言うように、太陽もね、全部与えられるだけであって、それについて、「お金くれよ」って神さまは仰らないのね。

 で、それを見習うだけの1番の純粋な体験が、護摩に参加すること。或いは、護摩の会場を設定する事とか、色々ありますけど、護摩に関する事に関わると、それになるわけ。だから、駐車場係をしてても、護摩に参加して、深い真祈りになってるということを先生は仰るわけですね。そこだけなんですよ。でも、無責任な人というのは、要するに総責任者の自覚があるから、護摩に参加して真祈りになるし、色々あるわけです。

 でも、無責任な人は、「護摩に参加するから助けてくれや」、「護摩木を作るから助けてくれや」。村で言うと、「村の作業してるから 、真祈りにしてくれや」という求める心があるわけです。で、求める心がある間は、何をしたって無駄なの。そこを先生は、幾度も説明されるんだけど、みんな聞こえないのね。それは、無責任な人は、もう何々してるから大丈夫ということを、自分に言い聞かせて逃げるのね。
 
 だから、先生に付いて行ったら大丈夫。先生が生きておられる頃はね。先生に付いて行ったら大丈夫って自分に言い訳して、自分を無責任にやってるわけ。だから、いくら山の作業しても、ご奉仕してもね、心境が進まない。で、もうそれを先生は幾度も与えきりのほうにってね、求める心を捨ててとか、もういろんな表現で言って下さったわけですけども、みんなわからないのね。助けてほしいが先だから。

 で、とうとう神さまの方で、先生は「あと1年」というのは仰ってたんですけども、もう神さまの方で、もう引き上げるとなりまして。で、ちょっと強引に先生の側にいて、あと1年留めようと思ったんですけど、先生の方から「もういい」って仰るんで、今の状態になってます。

 で、先生からは6年というのは聞いておりましたので、6年で僕は本来、寿命が終わる予定なんだけど、なんかまた伸ばされてしまってという繰り返しますけど。もう、次はないです。あと、だから、先生が亡くなられて13年以上は、僕は生きてませんからね。

 その13年の間に、6年過ぎましたから、あと7年ですね。でも、具体的に僕が動き回れるのは、あと4年ぐらいです。 こうして元気に動き回れるのは、あと4年ぐらいですので、それまでにね、みんなが総責任者の自覚持って、護摩を遂行して下さい。 で、この村の存続に関してですけども、護摩をする限りは続けます。でも、護摩をしないということになれば、この村は閉じます。もう先生から、そういう風に厳命を受けてますのでね。先に答えを言っておきます。皆さん、色々とご心配なされるだろうから。先生からの方針は、それだけです。そのために、僕にいろんな鍵を預けていかれた。

 先生のされる事にね、なんと言うか、もう完璧よ。だから何があっても護摩を最優先にしてやって下さい。 だから、護摩に参加するだけで本当に悟れるからね。求めたらダメよ。「護摩に参加するから悟らせてくれよ」って言ったらダメなんですよ。神さまの手伝いとして、どんどん護摩を遂行してください。

 で、普段も護摩ですから。普段の護摩は何かというと、皆さんの普段のお仕事。女性で主婦の方だったら、家庭でのおさんどんです。これが護摩なんです。それが、家族の犠牲になって、 私は洗濯して、掃除して、おさんどんの準備してると思ったら、もうダメなんです。
 
 只々、神さまのお手伝いとしてやって下さい。それが大事なんです。何をするにあたっても、神さまのお手伝いとしてやる。で、神さまのお手伝いだから、手は抜かない。
手は抜かないけども、いつも言うようにね、全力で、全速力で山を駆け上がるんじゃなくて、 1歩1歩着実に、自分のやれることをコツコツと休まずに、弛まずに、淡々とすることが全力を尽くす、誠意を尽くすということです。
 
 神さまにお休みはないのね。僕らは、夜は寝れるけど、神さまは24時間働き続けられるわけです。本当はそこを目指さないかんのですけど、一足飛びにそんなこと言うと、またあれなんで、まず淡々とね、 ひたむきに、自分のやれることを精一杯、尽くしてやってください。それをしてると自然にね、2、3時間の睡眠でもごく平気になっていきます。

 でも、無理にそれを目標にするんじゃなくて、ともかく今は、自分のやれることを精一杯、淡々と、神さまのお手伝いになると思ってね。「印可書」奉読しながら、もしくは「宇宙神ありがとうございます」と込めながら、もしくは「ありがとうございます」と込めながらして下さい。それだけで大丈夫です。あと、 目標は4年ぐらいで完成させたいと思ってますから。今ちょっと水晶玉の事件があってね、東京がダメなんですよ。 で、申し訳ないけど、東京にお住まいの方は現在地を動かないように、そこで真祈りして覚悟を決めて下さい。真祈り人が東京で真祈りしてくれたら、震度7が6、5、或いはスロースリップに変わっていきますから。

 関東方面の方は、これが最初の試練だと思って頑張って下さい。逃げないように。真祈り人は、逃げたらあかんのよ。もうどこにでもそこに踏みとどまって、真祈りするんだっていう覚悟をね、持ってください。「どこに逃げたらいいんですか?」と違うからね。

 色々と質問が来るんですよ。どこそこが揺れると言うとね、「どこ逃げたらいいですか?」って。違うやろって。真祈り人は逃げずに踏みとどまってもらわな困る、いうことです。ここまでで質問があったらね、して下さい。

質問:お話して頂けるとこだけでもいいんでね、水晶玉について教えてください。

河上さん:基本的にはこっちが松下先生で、こっちがマサヨちゃんの依代(よりしろ)なんですけども、もっと正確に言うと、真祈り人がね、もう全員を同時に悟らす作戦で今回来てますけども、そこへ行くまでの水晶玉はみんなの身代わりをしてくれる働きなの。だから、これをなくすと、その4年の猶予がなくなるみたいな感じで大変になっていくんです。要するに松下先生の時代は、先生お1人が真祈りされて、人類のマイナスを清めて、地震も止めてってされたわけですよ。

でも、みんなが真祈りしなくちゃいけないんだっていうのを、散々説明させてもらったつもりです。その人のできる精一杯をする1つ1つの働きがいるんだってね。オーケストラというと、ただトライアングルを最後にチンと鳴らすだけだけども、鳴らす音はチンが1つだけど、それでしか曲が完成しないんだということをね、色々と説明させて貰いました。 
 
 だから、皆さん拙い真祈りと思っていいからね、 自分なりにできる精一杯の真祈りをそれぞれしてもらわないと、完成じゃないんですよ。で、そこ迄の間の身代わりとして、水晶玉を先生は置いていって下さったわけです。そのマサヨちゃんは、もちろん自分の身代わりであるのを知っててですね、これをさせられたという苦しい立場にあるんでね。なんとかマサヨちゃんが楽になるようにと思って、色々と掲示板に書き込んでおりますけどね。マサヨちゃんの自由意志を縛って強制する人間が、誰とはもう特定しませんけども、自由意志を縛って強制しないように警告しましたからね。今後、自由意志を縛って強制したら、 本人の体に影響が出ます。もうおまけは出しません。そういう働きです。ほんで、台座がないとね、スイッチが入らないんですよ。で、まず台座がどうなってるかを知りたいんだけど、誰も言わないのね。で、台座がどうなってるかがはっきりわかったら、 例えば、燃やしてしまったとか、捨ててしまったというのがはっきりわかったらね、新たに作るかなんか考えます。だけどまだ分らないんで、できるだけ戻して下さいってお願いしてます。そういう今は状況です。

 で、先生が、いわゆる、維摩の沈黙百雷の如しでね、先生は維摩先生だったわけですけども。清則の沈黙百雷の如しを、約3年間されたわけですね。その時に受け取れるものをたくさん受け取ったから、あの水晶玉の件もその時に受け取ってますし、この村をいつ閉じるかというのも、その時に受け取っています。それで来てます。
 
 で、ほんまはそれを明かさないまま、行きたかったんだけど、もうちょっと、もうこれ、仕方ないんで、明かしてしまいましたけどね。 どっちにしたって、僕があとよく生きて7年ですけども。7年後はこの村は存続できないです。もう国と話できる人間はいませんので。だから、この7年が勝負だから、みんな真剣にね、護摩して下さいね。はい、ありがとうございます。

質問:それに関連した質問なんですけど。台座がないと本来の水晶にスイッチが入らないということをお伺いしたんですが、水晶自体は無事というか。

河上さん:いや、傷ついてるよ。見てみ。金槌で叩いたような跡がある。何をどうしたんかは誰も言えへんから分らんけどね。

質問:裏返ってたから分からなかったです。

河上さん:いやいや、表に出してあってんけど、誰かが裏返したんやろ。

質問:ということは、そのスイッチとなる台座が見つかるにしろ、新たに作られるにしろ、揃ったとしても、 本来のセットの働き、陰陽の水晶の働きというのはどのような?

河上さん:どのようなって?

質問:今現在、台座がない状態でスイッチが入らないという風に伺ってまして。で、その台座が見つかったにしろ、新たに作るなり、作り直したにしろ、その水晶と台座がセットになった状態で。で、今ちょっと傷ついてるのを初めて目撃したんですけど、その台座が揃ったとしても、スイッチが入ったとしても、本来のその水晶の働きというのは以前とはまた違う?

河上さん:だから、要するに、例えばね、これ傷ついたから、まあ、せっかくだからこれより大きい水晶玉を買ってきて入れ替えようという感覚のもんではないわけです。先生が言霊でね、その働きを込めていって下さったものだから、 傷つこうが割れてない限り大丈夫です。で、その台座も先生が言霊で作っていって下さったんで、セットなんですよ。

でも、もう燃やしたとかね、捨てたとか、もう兎も角どうしようもないんだって誰も言ってくれないんで、ということは、まだ戻って来るなと思って待ってるわけですけど、もうどうしようもなくなったんだと言うんだったら、皆さんにも呼びかけますけど、みんなで真祈りして頂いて、その間に台座を作ろうとは思っています。只、どっちにしても、このタイムラグが出たんでね。東京も揺れるし、ちょっと今年揺れると言ったのは、この事やったんやな。なんで今年揺れると出たんかと思っててんけど、もうちょっと大変なんですよ。でも色々と昨日も八鹿の方まで、宍粟市を越えて八鹿の方まで行って、もう色々ほんと大変だったんでね。殆ど運転で走り回って、ちょっと今疲れ果ててますけども。

 それぐらい、その大事なポイントのとこで揺れないように抑えてきました。せやけど、もう大変や。言いようがないわ、ほんまに。だから人の自由意志を縛るのは大変なことよ。困ったもんや。散々説明してきてんねんけど、河上の話は聞くな、言うなということは、聞くな見るなやったらそれは説明なんぼしてても知らんわな。

 せやけど、知らん罪ほど大きいからな。 焼火箸の例えがあるでしょ?焼火箸と知って握るんやったら、パッと離すけど、焼火箸を人参と思って握ったら大やけどするっていうお釈迦さまの話があるわけですけど。知らず知らずに犯した罪の方が重いですからね。大変は大変。
 
 で、今回、1番の問題が何かというと、 タケダという方に先生が降り立ってるみたいなね、前提を作って、要らん空気を作ろうとしたことが、1番先生を怒らしてるわけ。もういろんな事がありますけど、何でそれをするかですね。1人1人の真祈りが必要だって説明してるじゃないですか。 で、最初に先生亡くなられて、最初の護摩の時にね、皆さん、1人1人に松下先生が立って下さったんだよって。あとは自覚したら先生の働きができるんだよ、お清めできるんだって、散々説明したじゃないですか。なのに、なんで今またそんなおもろいことするんか、みたいな感じですね。
 
 正確に言いますけど、この椅子に座るとね、自分の思いがあったら、約3年で発病して、6年で死にます。 実際、ここに座った人、約2名おられて、2名ともややこしくなったんですけど、もうすでに亡くなられておられますけどね。 それぐらい、ここ(お祈りの部屋の椅子)、これはこっち向き(正面を背にして座る)でこうしてね、やるときは厳しいものなんです。で、6年経って死なないから、自分の思い無くやってこれたなと、ホッとしてますけども。
 
 そやけども、それくらいね、ともかく厳しい、厳しい、何と言うんですか、神さまのお手伝いするというのはね、妥協が許されない。もういつも背水(はいすい)の陣を敷いてね、絶対絶命の立場で動かざる、動くしかないんですよ。もうこっから後ろには絶対引かないっていうね、 その覚悟がいるんです。
 
 だから、もちろん、皆さん何されても自由なんですけども、自分が神さまの御心に沿ってるということを、まずね、「印可書」奉読出来る人は奉読して、その自信というかな、確信を持ってね、やって下さい。その確信があれば、不退転の決意って言ってですね、もう何があったって、こっから後には引かないって言って、祈り続けれます。 そしたら、この世的にはもう八方塞がりでどうしようもなくてもね、天が、空が開いてますから、必ず解決するんですよ。

 で、殆どの人はそこの自覚がね、 ないわけ。ほんで、真祈りしたらいいんだよって以前はあったわけですけど、真祈りが分らんのにどうするんだ、ということだったわけですね。で、先生が「印可書」を作って下さいましたから、 ともかく「印可書」奉読して、確信を持って、不退転の決意でね、やって下さい。もうそれだけです。

 「いっぽんどっこ」の歌っていうと、もう皆さんお若いからわからないですけど、「いっぽんどっこ」というのは九州弁で、どんな組織にも属さずね、自分1人でやるんだという、そういう向こうの方言です。組織に属すると、ほら、組織に甘えとか、組織の名前とか看板で動くじゃないですか。そうじゃなくてっていう、自分の実力だけでやり抜くんだっていう歌があったわけですけど。その真祈り人っていうのは「いっぽんどっこ」なわけですよ。それを先生は、総責任者の自覚って仰ったわけです。 お1人お1人が真(まこと)の神さまとして本来の働きをなす、それが総責任者の自覚です。

 だからもう、只々それだけでね。もう分りやすいのは、例えば、水晶玉を傷つけたんが誰かもわからないし、何をどうしたかも答えてくれない、誰も。で、台座をどうしたかも、「どうもタケダさんが持って行ったらしい」ぐらいしか言ってくれないので。それはわからないんだったら、無断で持ち去ったんだから、盗んだんと一緒やなっていう風にこっちは判断して書き込んでますけどね。

 それだけです。で、そのタケダという方が、本当に松下先生が降り立っておられるんであれば、不退転の覚悟を持ってされたんだから、せめてここへ来て言うて下さい。 ここへ来なくても、掲示板にちゃんと自分が正しいことをしたということをね、書き込んで下さいって言うと、イジメることになるからもう言えへんけどな。

 そやけど、それくらいね、真(まこと)の神さまに関することは、そんな遊びじゃないからね、甘くはないんですよ。

 ほんで、みんな無責任にね、「あ、この人に付いて行ったらいいんだ」では困るんです。

 それは、今までの虚の世界の宗教団体。「教祖に付いて行ったらいいんだ、この強化部長に付いて行ったらいいんだ」っていうね、狡さです。それは、教祖が狡いんじゃなくて付いて行こうとする無責任なみんなが狡い。

 ここはお1人お1人が真(まこと)の神さまとして、松下先生として、真祈りの松下先生のような働きをするんだという場所です。それだけをね、絶対忘れないで下さい。だから誰それに付いて行こうとかね、 誰それが松下先生の声が聞こえるからどうこうなんていうのは全部違います。皆さんお1人お1人が受け取れるんですよ。
 
 だから今回、手厳しくこっちが後に引かないのはね、松下先生が言うてきたら、護摩やめるという声が聞こえた。それを聞いてきた人がおったんで、それが又聞きの話なんで、実際そうかどうかは分りませんが、嘘でもそんなことは言わないと思う。

 で、今だにそんなこと言うてるようでは、村を閉じます。でも、遂行できる限り護摩をやります。護摩をやる間は閉じません。必要ですからね。もうそれだけです。

 先生が僕に村を閉じる鍵を預けていかれた、いろんな理由がありますけど、護摩を遂行するためにまず預けていかれてます。遥か昔に代議士秘書らしきものをやってましたので、その関係のものなんですけどね。先生はよくそれをご存知で、色々と僕を手伝わせました。はい、それだけです。

 だから、昔だったら村人がね、先生と手を繋いで輪になって(一緒に祈っておったら)、先生に天国連れてってもらえる、みたいなおもろい話があったわけですけど、もうそういう血迷いごとはやめて下さい。皆さんお1人お1人が先生として、神さまとして働かれる時です。

 水晶玉はそれでいいかな?

質問者:はい。

河上さん:だから勝手に持っていかないようにね。これは屑水晶を集めて固めた人工的につくられたものですけど、水晶としては成分は一緒ですけど、人工的に作られたものだよというのは言ってました。

 天然の水晶は必ず曇りが出るんですよ。この大きさで無色透明いうのは無いんです。ただ、先生がこの大きさの無色透明の水晶を好まれたのは、「無色透明の輝きというのがこれで分かるから」って仰るわけです。「無色透明の輝きだったら何も見えないじゃないか?」という質問が昔あったんですね。で、その時に、この水晶のようにね、「この水晶は無色透明じゃないか」と。「でも、玉としてわかるやろ?」、そういう感じで、絶対の中心というね、絶対の世界は無色透明の輝きで実感できる世界なんだという説明をされて、 そういう水晶が象徴的なそういう意味合いを持ってるんでお好きだった。で、こういう働きとして置いていかれました。
 
 でもね、何でそうしたかを言わないっておかしいでしょ?未だに、何故そうしたか、誰がそうしたのか、 誰が持ち去ったのか、誰が傷つけたのか、言わない。でも、そんなんどうでもええことやけどね。まず護摩を遂行することが第一ですから。

 でも、言えないくらい自分たちにとって不都合なことがあるのかなって勝手にね、推測でものを言いますけど、これは真実じゃないですよね。
 
 だから今後も、7年たつと僕死んじゃいますけども、それ以降でね、この人に神さまが降り立ってるから、この人に松下先生が降り立ってるからみたいなことは、間違ってもしないで下さいね。皆さん1人1人が神さまとして、松下先生として働くんだというのがね、教えを立てない、組織を立てないっていう先生の意向です。

 その教えを立てない、組織を立てないの意味すら分らんままね、来ちゃったのが問題なんですけどね。何故質問しなかったかと思いますが、先生が「教えを立てない、組織を立てない」って仰られたのは、もう遥か昔ですから。

 済んだことはしゃあないですけどね、これからです。済んだことは本当はどうでもええね。これからどうするかだけ。

 昨日はちょっと、八鹿まで行ってましたんで、運転も長かったんで(昌代ちゃんからの)電話に出れないままなんですけどね。 その、一昨日の電話は出たんですよ。でも結局、肝心の事を聞くと答えられないから。それは話し合いじゃないしね、 もう出らんでいいと思ってたんで、余計に昨日は出なかった、それだけですね。
 
 で、知らない電話番号からもかかってきたんで。で、これ、変な勧誘と言うかね。なんとか詐欺やったら困るから。今、知らない電話番号出るだけで課金が始まったりするんでしょ?だから、出れないから出なかったんですけどね。

 本当に必要だったら、ショートメールって言うんですか、電話番号メールで、「この電話番号は自分なんで、出てください」ってまず入れてくるのが筋でしょ?でも、入れてこないから、どっかの詐欺のあれやなと思って、出なかったんですけどね。
 
 だから気をつけときよ、知らない電話番号はあんまり出たらあかん。全部が課金始まるとは限らないですけど、そういうフィッシング詐欺っていうのね、あれ、電話でもやれる。

 インターネットの画面は危ないですよ。フィッシング詐欺にかかったら、銀行の画面とそっくりなんやね。それで、ポンポンと、あ、いつもの自分の銀行のネット銀行の画面やと思ってやって取られるとこあるんですよ。 で、いつもだったらパスワード入れさせられるのに、入れんと動く時ある。気つけて下さい。

 でも、何回もやってると慣れてしもうてね、パスワード入れて動いてたら、やってしまうのね。フィッシング詐欺って。だからパスワードを入れない画面は気つけて下さい。で、電話の場合は、そのパスワード無しで起こりうるんでね、気をつけて下さい。

 ほんまはここまで明かしたくなかったんですけども、今回、仕方ない、非常事態で。八鹿には仲間がたくさんいるんで、もう向こうの人がえらい怒ってるんでね、なだめに行くのもあって、色々と大変やった。

 結果じゃないんだってね。これからどうするかが大事なんだってなだめて来ました。まず、真祈りしてくれと、済んだ事を一々突かなくてええから。先生として、真(まこと)の神さまとして働くことが大事でしょ?過去を振り返ってどうこう言ったってしゃあない。これからどうするかだけよ、常に。

 それは、会社でも家庭でも、一緒やと思うんですよ。何か起こっても、起こった事件をどうこうするよりも、じゃあこれからどうするんかだけでしょ?

 それだけのことです。


令和6年3月河上さん勉強会‐2(20240310−2)

河上さん: (質問が)何もない? 終わろうか。終わっていい? はいどうぞ 。一応 概略 全部言っちゃったから今。水晶玉の件も。

質問:ありがとうございます 村の事情は よくわからないんですけど、 ほんまにあの最終局面で本当にどちらを選ぶか、真の神さまを選ぶのか、他のものを選ぶのか。

河上さん: そうそう。

質問:選んだことによっても。この虚の人類・・・

河上さん:人類の運命も変わるし色々な物が全部変わっていきます。村が、先生がこの地球世界の象徴として作っていかれましたからね。だから結局確認できない、2,3人を通して伝え聞いたことしか僕の手元に来ないんでね、断定はできないですけれども、誰かに松下先生が降りていると、それでその人の言うことを聞くのが正しいんだ、というふうになったらしいです。

質問:そんな事なんですか?

河上さん:へーっていう事で。(笑)色々あったんですけれども まあ そらみんな自由意志だからね 好きにしたらいいのだけれども、まず水晶玉を取り戻さなあかん。そしたらjさんがどこそこにあったって言うてくれたんで、「すぐお祈りの部屋に置いておいて」と頼んで安置しに行きました。それで台座の問題があるからっていうんだけれども、だれも口割らない。でもどうも、タケダさんが持って行ったらしいという推測があるので、そしたら誰も知らなくて持っていったんだったら、盗んだんやな、ということは窃盗ということで警察に告訴せなあかんな、いう段階ですね。その前に内容証明を送って本人の確認を取りたいので本人の住所を教えてくださいと言うと、 教えてくれないのが今の状態です。

質問:もし他のものを選んでしまったら、その分・・・

河上さん:まあその時は 護摩をしてくれる限りは村閉じませんけれども、護摩もしないで神さま以外のものを選んだっていうことになれば村は閉じます。簡単に閉じれます。

質問:閉じるということは護摩もなくなるんで、

河上さん:いや、だから村が護摩をしないと言い出したらね。何やかや言いながらね、護摩の会場をセッティングして護摩木を作ってお手伝いをしている間は何もしません。護摩をやろうとしてくれている間は。でも護摩を小さくしようとかね、止めようとかしたら、その時は先生の指示通り。人類を見捨ててもいいという先生の指示だから、 はっきりと言っておきます。その時は見捨てていいって。 今年の初めは 真祈りせん子は見捨てると言っていたのですが、今度は 全部見捨てていいみたいな。

質問:結局、虚の世界を閉じてしまうみたいな。村を閉じたら全部虚の世界も閉じてしまうと解釈して良い?

河上さん:そうです そうです。だから先生が虚の世界の雛形として村を作って行ってくださっているわけですよ。だから昔から先生がいらっしゃった時からですね村人の間で、喧嘩が絶えないんですけれども。それは世界の国が戦争をするじゃないですか?あれが写っているだけです。だから常にたとえば喧嘩になってもね,その喧嘩の原因とかどうこう、うんぬん責めるんではなくて、「じゃあこれから皆どうするんだ?」でやればね、戦争なんかも収まるんですよ。そうやけど「あいつあんだけしよったからやり返さんと気がすまん」ってなるわけでしょう?やったやられたの世界ね、そしたら永遠に戦争は続きますよ。それが村人の心に写ってね、やったやられたの世界を今までしてきたわけ。今もしているのかどうか知りませんけれども?

質問: 世界で起こらなければ村も何も起こらない。

河上さん:いや逆に雛形だから村が真祈りに完全に心が統一したら一気に世界は変わるということです。

質問者: ありがとうございます。

河上さん:だから 真祈りのやり方はね、印可書奉読をするなり「宇宙神ありがとうございます」でも「ありがとうございます」の 10文字でもいいですけれども、いつも説明するように真の神さまそのもの、悟りそのものの結果と受け取って唱えないと意味がない訳ですよ。そしたら宇宙神ありがとうございますが悟りそのもので言われても「へっ?」って一瞬なるじゃないですか。ありがとうございますが悟りそのもの、真の神さまそのものって言われてもやっぱり一瞬「へっ?」ってなるわけですね、 普通の人は。

 だからもう言葉で真の神さまを細かく説明してくださったのが最初の印可書で本当にね、あれは 読むだけでね 悟れるすごいものですけど、誰も受け取らないから先生「やめじゃ」ってなったわけですよね。それだけです。今の印可書は柔らかくしてある分だけお手伝いしたい人は奉読を足さないとダメなんですけれども。でもその方がね、ギブアンドテイクが出にくいからいいかと思う。で、勿論、ありがとうございますの10 文字をね、悟りそのものと思って唱えて頂いたら3ヵ月で悟れます。 それはちゃんと断言しておきます。先生がそうおっしゃっているから。もっと具体的には 40日ですけれども。もうひたすら「ありがとうございます」を唱えてくれたら40日で悟れると仰っている訳です。録音にもあります。出来ないでしょ?だから印可書が出来ただけです。ここでもそうでしょう? 印可書でなくて私たちは「宇宙神ありがとうございます」って聞いていますって、6年経ったんや。 何していたんや。「聞いたんやったら実行せえ」って言ったら、きついからあんまり言わないけれどもね。

 そうだけど、そういう意味では印可書を奉読して選んだ方がどんどん悟っているのね。でもちょっと閉じておいて一斉に、という今回の作戦ですから、ひたすら 喜んで奉読しておいてください。大丈夫です。はい。

質問:ありがとうございます 先ほどからのお話を聞いていて ちょっと私自身の個人的な考えなんですけれども、そういう方がたは古い時代の今から15年ぐらい前に村にいらっしゃった方々で、急にこういうところに戻ってこられると同窓会みたいになって、その当時はこうだったよね、ああだったよねって、あの時の方が良かったね、みたいな今はここにきても、その当時とちょっと空気感とかが違うので自分の居場所がないっていう中で、なんかそういう、その当時の感覚に戻したいとかいう思いが出てきてそれに同調する人達が集まって・・

河上さん:ああ、違う。

質問:そういうのではないですか?

河上さん: ないです。もっと無責任に単純に先生が降り立ったという人についていくだけで、楽やからね。自分に責任ないから、ついていくだけいいから。その無責任さのせいです。

質問:その降り立ったからにはなにか、そのどっぷり感ないんですけれども、あたかも何かその人としゃべっていると先生を思い出したりとかいうので。なんかこう、気持ちに起こりうる・・・

河上さん:それは勘違いです。具体的に言うとね、先生とピタッと響きを合わせれたのは僕だけですけれども。合わせれたら悟ります。みんな合わせられずに表面の先生のね。要するに僕と先生がお会いした頃はすごい強い光やったわけですよ。ほんなら生長の家とか色々ありましたけれども、どの時も先生の周りに人が集まらないのね、光が強すぎて。 ほんで先生は生長の家を辞められて、結婚もされて、光を弱める練習をされたんですよ。その弱める練習の最中に弱めすぎたり、色々あって肺結核になられてね、入院されたりとか。要するに弱めすぎたら何が起こるかって言ったら、先生は無色透明なんで人類のマイナスが一杯来るわけですよ。一杯来過ぎて息ができなくなってしまわれた、完全に。それで入院されたわけですけれどね。それは色々ありましたけれども。

 で、先生は光を弱める練習をされた。強める練習と違ってね。弱める練習をされているからその弱めている状態の先生の光の雰囲気を先生やとみんな勘違いをするわけ。ほんでその先生の雰囲気に近い人を選ぶんではなくって、自分の思っている先生の雰囲気にプラス、今の自分の心境に近い人を選ぶ。気が合うっていうのはそういうことなんですよ。わかります?

 あの人と何か気が合うというのは自分とそっくりだからなのよ。気が合わないというのは自分と違う人だから。で、自分とそっくりな人を選んで先生って言ったわけです。今回ね。その結果ここは真の神さまの光が降り立っているから大変なことが始まった訳です。もうちょっと放っておいても良かったんだけれどもね、もうちょっと放っておくと、現実にもここで色々なことが起こるんだけれども、先生がまあまあって言うからちょっとしましたけれどもね。それぐらい厳しいものです。

質問: 今回の場合は原因をもう少し明らかにして○○終わりにするのか それとも

河上さん:いや、原因は明らかにできません。しゃべらないもの。「なんでそうしたの?」 って言っても誰も言わない。

質問: 周りの人も口を閉じてしまうというこの状況もそれはそれで 。

河上さん: 無責だから。無責任だからしゃべったら都合が悪くなったら自分が困るから、だんまりを決めるだけ。一番無責任な奴です。会議で言うと発言せんとその場の空気に合わしてるやつがいる。それで居酒屋に行ってから文句を言うやつな。そういう人に限ってな。

質問:そこでだんまりのまま、今回のこともスルーしちゃうと また同じようなことが起こらないかっていうことが私は心配します。。

河上さん:それはそうです。でももうオマケがないからね。今回なんやかや言ってオマケちょっと出したけどね。オマケ出さんでいいからそういう風にしたら、もう本当に体が動かなくなったりね、しゃべれなくなったりね、いわゆる脳梗塞の症状みたいなものがどんどん出てきて。脳梗塞の症状の小さなものが癌なんです。脳以外で起こったらそれは癌という細胞に変化するんですよ。まあそういう形のことがどんどん起こります。まあここ(お祈りの部屋の椅子に玄関に向かって座る)へ座られたお二方もそういう状況で亡くなられております。

質問: 皆様、こうやって顔見知りであったりお話ししたりとか、心安くしてくださっていた方々がそういう状況になるのはやっぱり私自身としては他人事では無いので、そんな風にならないようにやはりお祈りをするとか・・・

河上さん:だから印可書を奉読されるのが一番簡単で楽。要するに真の神さまって理屈でわからなくても、本来理屈でわかるものではないんですけれども、奉読だけですっと入れるようにしてあるからね、印可書は。楽だとは思いますけれども「 宇宙神ありがとうございます」で行くんでだったらそれに命をかけなあかん。

 要するに 「宇宙神ありがとうございます」と祈った以上は何があっても一切文句を言わないっていう覚悟がいる。「ありがとうございます」の祈りも一緒です。先生がちゃんとそういう風に説明されている録音もありますけれどもね。だからそれって厳しいでしょう?
 
 この前の護摩でも言ったけれども 肉体がある限りね、腹も立つし、怒りが出るのは当たり前や。実際そうなの。印可書だったらそれでも乗り越えて行けるわけ。でも「宇宙神ありがとうございます」とか「ありがとうございます」の10文字は 怒りが湧いてしまうと崩れてしまうのね。それはもう大変困るから、まあなんて言うんですか、色々とちょっと今回はオマケ出しましたけれども、次はもうオマケがないから、各自の自己責任でやっていくだけです。
 
 要するにね、本当後がないので神さまが(その具体的な働きである護摩と印可書を)邪魔をすることを許されないんですよ。本人は邪魔をしているつもりはないやろうけれども護摩に関連する あるいは 印可書に関連すること全てですけれども、護摩と印可書に関連すること邪魔したら 神さまを邪魔しています。印可書を選ばないのは自由だけれども、「印可書を選んだらだめだ」とかどうこうっていうのは邪魔をしていますから。

質問者:ありがとうございます
 
河上さん:だから総責任者の自覚ってね、先生が亡くなられる一番最後のところは総責任者の自覚を強調されたわけです。その総責任者の自覚っていうのは全ての責任は自分にありですし、それよりももっと総責任者としては光を全ての人に出すという責任があるわけです。でもどうしていいかわからない、それを印可書奉読するだけで光を出す側になるよって、先生が決めて行ってくださっているわけね。だから印可書を奉読するだけでお清めになるわけ。それだけは分かっていてください。
 
 だから行き詰まった時、困った時はまず印可書をひたすら奉読してください。必ずひらめいてきます。大丈夫です。で、お一人お一人が先生として、神さまとして働かなくちゃいけない。その体の大きい人が力持ちでね、体の小さい人が力ちょっとしか出せない。女性はちょっとしか出せないじゃないですか?だから力の出す大小、量は関係ないんですよ。それぞれにやれる全力精一杯を尽くしたらそれが大きな大きな神さまへのお手伝いですし、神さまとしての働きです。
 
 その光を浸透させるために、水がそうでしょ?パンと撒いたら色々細かく別れてしみ通って行くじゃないですか?その細かく分かれてしみ通る働きをするために皆様が肉体を持って降り立たれた。だから細いところに行く人はいわゆる耳かきの働きだから、この世的にはちょっとやと思うけれども、でもそれがないとだめだ、という事が分かるでしょ?スコップで耳かきは取れないのね。耳かきちょっとですけれども取らないとしんどい。そういうどの働きも大事だということが分って、ひたすら自分の尽くせる全力を淡々とひたむきに尽くしてください。

 皆さんの場合はまだ比較的楽な立場にいるんですけれども、村人の場合は厳しい立場にいているんですよ。何故かと言うと。衣食住確保されてね、それなりの(二桁の)お金を頂いて生活している訳ですね。という事は本当にひたすら祈り続けないと、マイナスを積んでいくだけなの。先生は真祈りをしたい、真の神さまに弟子入りしたいと願う人だけを、村人として許可しているんですけれども、真の神さまに一瞬一瞬新に弟子入りするという事をみんな忘れているのね。真の神さまに一瞬一瞬新に弟子入りするという事は、さっき言うたように何があっても文句を言わない。文句言わなかったら喧嘩にはならない。この前の護摩で説明したように、頼ると縋るの違いです。ひたすら真祈りするというのは縋るです。でもギブ&テイクで文句を言うのは頼るです。村人で文句を言う人がいたら頼っているんやなって思って、冷ややかな目で見ていてください。いちいち説明する必要はない。

 もう甲辰(きのえたつ)やからある意味楽になっている。もう包み隠さずにバンバン光を出しているし、本当のことを言っていいからね。僕はストレスたまらない。だから掲示板にもできるだけプラスになるようにプラスになるように書き込んでいる積りやねんけれどもね。よう分らんな。できるだけ褒め讃えている積りやけど。
 
 以前は印可書ない前は神書を読むなり、この問答集を読んだりね、真祈りの本を読むなりして真祈りするしかなかったわけです。でも読んで分らんのでしょう?だから印可書を作ってもらったんだけれどもね。「読んで分ろうが分かるまいが、読んだだけで分かるようにして下さい」と言ったら、先生の命を縮めて言霊として響かせてくださったわけ。それが印可書と神書やこっちの本との違いです。
 
 もちろんこれ読むなって言ってるんじゃなしに、読んだらいいんですよ。読んで分らへん時は印可書に立ち戻って読めば必ずわかるようになっていますから。それぐらい印可書はすごいものです。だから護摩でこの本の質問とか色々来るじゃないですか。聞いてすぐに僕が答えるでしょう?真祈りしていたら大丈夫、答えられますから。だからこれ読んで分らんところあったらまだまだ真祈り浅いなと、自分で反省してください。

 まあ水晶玉のことでもね、もうなんか知らんけど、こう思ってこうしてしまいましたとかね、正直に言ってくれたら、「しゃあないな、もう、こう対応しようか」とかあるんですけど、あるいは台座も燃やしちゃったとかね、捨てちゃったとかね、さき言ってくれたらいいんだけれども、黙るでしょ。そうすると、有るんだったら作らない方がいいんです。無いんだったら作るしかないから、僕の命をちょっと削って作ります。どっちでもいいんだけれども、まず、黙っているから今動きが取れない。
 
 この玉を置いていくにあたって 先生は命を削っておられるんだからね。それは分かってください。新たに台座作る時は僕の命を削って作りますから それも何とかしますけれどもね。まず台座があるかないかや。頼むわな、正直に言ってーな。済んだことは責めへんからどうするかが大事。そうでしょ?どんな事もそうですよ。済んだことを責めていたって何も進まないの。もうそうなったら「しゃあないな」だけや。もう後どうするかが総責任者の自覚よ。済んだことをぐちゃぐちゃいうのは現実を掴んでいるって言うね、過去を掴むって言うね。
 
 ただ誰それについて行こうとかね、そういう甘えた考えは捨ててください。自分が真祈りをして自分が神さまの働きをして、自分が先生の働きをするんだって覚悟を決めてください。大変だけれども逆に言えばこんなに素晴らしいことはない。悟らなくてもできるという、すごい状態を先生が作っていってくださった。以前だったら本当に無色透明の悟りにならないとお清めができなかったんですけれどもね。僕のようにね。でも今は悟りの自覚があろうがなかろうが印可書を奉読したらお清めができるって先生決めて行ってくださったのね。だからもう行き詰まったら 印可書を奉読してお清めしてください。そしたら必ず四面楚歌でも天は開いていますから、なんとかなります。道は開けます。

 昔、先生ある団体の陰謀に引っかかってね、セクハラ騒ぎっていうのがあった訳ですけど。その時に先生をちょっとでも疑った人は本当に反省して印可書を読んでくださいね。凄いそれだけでも運命を悪くしていますから。人に言わなくても自分でわかるでしょ?それでやって下さい。
 
 それはね、その時いずれ僕がこの立場に立った時にその団体からセクハラの罠にかけられるからと先、先生おっしゃって、その当時。で、自分が先かかって消しとくからって仰った。そんなやめてください「 僕は僕でできますから大丈夫ですから」って言ったけれどもニコじゃなくてニッと笑いはってね、「元より後ろ指さされるのは覚悟の上やろ」先生に言われたら敵わない。それで粛々とセクハラ騒ぎを受けとりはったわけですね。その時に信の浅い人はどっちみち、いずれ逃げて行くからね。その時逃げていった人は信の浅かった人だけですけども。
 
 今回 2、3年前ですけれどもセクハラの疑惑をかけられそうになっても、その時先生がね 「兎も角そうなるから 業務日報やね、いわゆる今日何々したっていうのを事細かく日記に書いとけ、何時にはこれって全部書いとけ」っておっしゃったわけ。で、それをちゃんと守ってやっていますから、向こうが何をしても問題はなかったわけ。
 
 一番面白かったのはうちの家内のところに「僕と寝た」って言いに来られました。だけどね、みんな知りはれへんかったやろうけど、うちの家内のところには目の覚めるような凄い美人がね、しょっちゅう「僕と寝た」って言いに来るんですよ。もう慣れてるのね。ほんでいつも目の覚めるような美人が来るのに何で今回あんなおばさんが?知らんがな。関係ないって言って大笑いやったんですけれどもね。(笑)それくらいね、何というか、その色んな団体は陰謀が好きなのね、難儀なものや。そんなことをしたら自分らがもっと大変になるっていうことは分らへんねんね。

質問:2点あります。個人的な意見ではあるんですけれども、今回のことでまず1点目。 一般社会でも広まっているという事は大変無責任だなという風に感じました。2点目は改めて誰かが立てた人を信仰しているのではない。真の神さまのお役に立ちたいと思って、 本当にそれを願っているっていう、すごく気分が悪いなって思いました。出来事に。

河上さん:だから 責任感のある人はね、素直にそう思えるわけですよ。無責任な人は自分楽な方に行きたいから誰かについて行くだけでええわって安易に思うのね。あるいはお布施しているから助かるみたいなね。免罪符やろ?それって。そんな感じやね。無責任やから、お布施を出すから助かるみたいなね、なんかもう。先生はそんなことを言っていないのにね。

 だからしつこく「ここは 宗教団体ではない」って言わしてもうてますけどね。まず教えを立てない組織を立てないでしょう。立てる必要ない。みんな真の神さま、みんな光やから。もうそれだけは。それを自覚するために印可書があると思ってください。

質問:すいません。私は宗教団体の事は詳しくないんですけれども、団体と言うか、陥れようようとした団体ですかね、何の得があるんですか?その団体、そんなことをして。

河上さん: ここにある資金が目当てです。

質問: お金がある、ここに?

河上さん:はい。先生が護摩をするために集められたお金です。

質問者:ありがとうございます

河上さん:現状の規模の護摩を10年以上できるだけのお金は集めておられます。金額的にあまり言わんときますけれども聞いたらみんなびっくりします。だって村の維持費に年間1000万いるんでしょ? 何もしなくても。1000万で効かんと思うけれども。




令和6年3月河上さん勉強会―3(20240310−3)

質問:話は変わるんですけれども。今日も大雪が降ってますけれども、前々回に、地球の地軸がブレて寒くなったり暖かくなったりっていうことを言われていますが。天気予報をずっと最近、よく聞くんですけれども、そのことに一切触れないというのは、分かってないということなんでしょうかね?それとも…

河上さん:いや、天文台は分かっていますよ。

質問:敢えて言わないということなんですかね?

質問:言ったら大騒ぎで済まないでしょう。それこそ、どこへ逃げたら助かるかになってね、金持ち(の家)がようけ建ってる所に逃げたら助かるんやろうって、そこにみんな集まるやん。もう大騒ぎで済まへんやろう?

だいたい、自分が助かろうという魂胆が間違いやからね。何があっても自分は踏み止まって真祈りして、一切の災害を止めるんだという覚悟が要るのに、逃げてどうするねん。真(まこと)の神さまやろう?松下先生やで?逃げる必要はない。

 先生のお話の中にあるけどね。大地震の時でも真祈り人の家は潰れずにね、横の家はぺっしゃんこって仰るねんけど、その通り。
 
 昔の先生のお家というのは畑の作業小屋やったんです。作業小屋を借りてお家にされてたんですね。それで、いわゆる第二室戸台風が来たときなんです。僕は小学校2年の時ですけども。本当にすごい風でね。結構な家も家ごと飛ばされていくんですよ。その中で先生の小屋は無傷だったというくらいね、真祈り人は神さまそのものですから。影響を受けないんですよ。

 で、そこでね、その時「私は大丈夫かな?」ってちょっとでも不安に思うようだったら、もっと印可書を読んでねっていうことです。今、聞いてね、「ちょっと私は、うちは大丈夫かな?」なんて思うようではまだまだ困ります。もっと印可書を奉読して完璧なる安心感になってください。神さまが良いようにするっていうね。

 だから、3年4年ぐらいはもの凄く暑くなりますよ。そこから先はもの凄く寒くなります。で、どっちにしても灯油とかね薪とかエネルギーが入らなくなるから。みんな、着込んで寒さを凌ぐ方法を知っておかないとあかんのと、寒い時は、もう先に言っておきますけどね、頑張って洗濯しなくちゃいけないんです。寒いから着込むし洗濯できないじゃないですか。するとシラミが湧くのね。シラミが湧くと何が起こるかと言ったら、発疹チフスが出るんです。発疹チフスが出たら、こんなストーブも何もない状態やったらコロコロ死ぬからね。だからどんなに寒くても一週間に一回は下着を替えて、石鹸が無くても水でね、洗うとかね。という覚悟をしてくださいね。その頃、僕はおらへんから(そういう目にあわないから)大丈夫やねんけど。大丈夫かな。先に逃げとくか。違うか(笑)。

 でも、それくらい厳しいことを通さなあかんくらいね、それの方が凄い地震とか津波より良いでしょう?という状態なんですけどね。今現在の状況で言うと、今の日本人は10人のうち3人しか残りません。今の状況はね。でも護摩をちゃんとしたら全員残るようになっていきます。それくらい護摩は凄いことなんですよ。大おまけの凄いことなの。だから護摩だけは絶対に止められない。だから、村が護摩を止めようとしたら村を閉じるのは当然です。護摩のために作った村です。

 だから、親の死に目以外はね、来てください、近くの人は。遠くの人は無理は言いませんけど、何年かに一回は来てください。遠いとね、費用かかるからね。なかなか大変やと思う。

 だから先生が仰っていたように、あちらの世界では色んな姿があります。大きい台風の時、大きい地震の時、大きい竜巻の時とかね。もう本当に色んな姿が今現在あるんですよ。それを護摩で消していくだけなの。消し切れなかったらこの世に出てくると。そう思っておいてください。それで、どうしようもない、本当にどうしようもないのは、先生が血の涙を流してね、もう本当にどうしようもないのは消してくださったわけです。その消した後、この二人には「もうこれでええか?」と仰っただけです。後は任せたでということでね。任された以上、全力を尽くしていきますけども。人類の総意として護摩をしないということになればね、村がしないというのはそういうことですから。それはその時の対応を聞いているということです。

 それで、一番ね、みんなが勘違いしてるのは、この世のことはやってみて駄目だから、やっぱり止めときます、は通らへんのです。簡単に言うと、切腹してみたと。極端な表現で言うとね。お腹をグーっと切ってみたと。痛いからやっぱり止めときますわって言ったところで怪我してるでしょう?そういう感じで、やる以上はすごい責任と決断と責任いう結果を伴うわけですね。だからちょっと試しにやってみよう、だからちょっと試しに護摩を止めてみようというのは無いんです。止めたら最後。だから、1月2月は護摩をしない時があったんですけども、こっちでやりました。

 もう一つは、もう前も説明してんけどね、午前2時から護摩が始まってるんですよ。で、9時あたりからこの世の人間に引き渡されてるわけ。だから護摩は午前2時からやからね。その護摩の最初辺り(9時ごろ)で喋って邪魔をしてもらったら困るんです、本当は。それは何遍も人づてに伝わるように言ってるんだけど伝わらないんで、もう一遍ここで言っておきますけど。体が大変になるで知らんで。オマケないからね。護摩で喋りたいんやったら、午前1時半に行って、会場で喋ってください、スタートで喋る場合は。(9時の護摩の引き渡しの途中でみんなというか多数に向かってしゃべって邪魔するのは)向こうの世界の人が怒るわけですよ。

 だから、(護摩は)9時か9時半始まりですけども、その手前はもう、向こうの世界の護摩が全部盛り上がっていってるわけですね。その最中に邪魔されるから。あれ、なんとかしてくれって言うんですけど、できるだけ言うけども自由意志やからね。後は本人次第です。

質問:大事なことなんで確認したいんですけど。その喋るっていうのは、護摩で喋るっていうのは…

河上さん:いや、印可書奉読するとかね、神書を読むとかいったら分かるけどね。どうでも良いことを喋ったら困る。せやけど、みんながちょっと雑談程度で喋ってるのは邪魔にならへんねんって。集めて喋るというのは真祈りの行事の中を、進行を止めてることになる。

質問:場所で言うと、護摩焚き会場?

河上さん:いや、そんなもんな、時空を超えるからね。だから全国の人が何年かに一回で良いから来るだけで良いっていうのはそういう意味で。それぞれの場所が全部護摩会場になるの。そやから、例えば護摩の時にここ(お祈りの部屋)で喋ったって一緒よ。邪魔や。いや、「ああ、久しぶり」とか言って二人で喋るのは関係ないで。

質問:ということは、場所を問わず午前2時から…

河上さん:始まってる。

質問:護摩に関係のないお話をするのは神さまの邪魔をしているという?

河上さん:もちろん。

質問:護摩会場以外でも。

河上さん:うん。だから甲辰やからね。オマケ出されへんから先に言っとくだけ。もう一度。もう何回も言ってるけどな。

質問:今まで聞いていたのは護摩会場だけの話だと思っていました。

河上さん:だから、神さまは時空を超えるからね。過去も現在も未来も無いんよ。だから毎回護摩で過去、現在、未来のすべてを変えていってるわけよ。そういうすごいものや。だから、なんかみんな勘違いがあるけどね、先生の作られた護摩は、それは凄いものなんや。空海さんがされた時の護摩もそうやってん、最初は。でも後からね、お金集めのためにね、護摩木に願い事を書いてするような護摩に今は変わってるけどさ。でも本当はそういうものではない。仏教に火を焚いてどうこうというものは無いんよ。空海さんが作った。

質問:密教?

河上さん:いや、密教やなくて。あんまり過去の話をするのはあれやけど。もっと前の時に、先生が火を使ってのことをされた。それが形を変えて今の護摩になってるだけで。

質問:ということは、2時から護摩が終わるまで?

河上さん:うん。

質問:護摩が終わるというのは?

河上さん:僕の話が終わるまでやな。

質問者:はい。分かりました。

質問:まず、私自身の疑問があって教えて頂きたいんですけれども。最初の護摩の始まりというのが、ある個人の方の御子息様が関与されて始まったという風に私の記憶の中にあるんですけど。その関係というのが…

河上さん:最初の護摩?一番最初の護摩?

質問:はい。

河上さん:ヒロシ君が行水に使った金ダライでやった護摩か?

質問:すみません、私、それではございませんで…。

河上さん:それが、金ダライでやったのが最初の護摩や。覚えてる?金ダライで護摩を燃やしたの。

Iさん:そこでやった時ですよね。

河上さん:そうそう覚えてるやろう?

Iさん:一回目のことを仰ってるんですかね。あっち、御陵の所でやった…

河上さん:御陵の所やったんかな。(ここ村でやったと思うけど)金ダライを使ったんやな。

Iさん:火を使ってへんか…?

河上さん:いや違う、金ダライで護摩したやんな。火を使って燃やしたやん、あそこで。

Iさん:ええ。

河上さん:それが最初や。

質問:すみません、著書にもあると思うんですけど、護摩の本が出てたと思うんですけど。私の記憶の中では、ある個人の方の御子息さまが、小さくして、されて、そこから、その護摩をしましょうとかいうお話…

河上さん:うん、だから最初はその金ダライでしたんだけど、それを見て、お金を払って高野山のね、大阿闍梨の称号を取った方が、「私は大阿闍梨の称号を持ってるんで、護摩のあれをします。」って言って始まった。弁護士の方です。

質問:はい、そうですね。そことの護摩の、その成り立ちの関連というのは…

河上さん:いや、だから先生は自由意志を縛られないからね。積極的に是非したいと言う時は止められないです。だけなんですよね。で、その導師として護摩木を入れる場合は死んでもその席を立ったらあかんのです。そういう厳しいものなんですよ。でも途中で席を立たれたことが何回かあってね。暑くて。もう甲辰やからな。なんでも言って良いって言うから。それで、ある意味資格を失ったわけですね。それで、僕が、ありがとうございますの掲示板にね、「護摩は全員が参加して全員が護摩木を放り込んでするべきものだ。」って言って書き込んでおいたわけ。で、先生がそういう風にされていった。

質問:そしたら、今の護摩というのは、最初の出だしというのは、そこだったかもしれないんだけども、今ある護摩というのは河上さんの…

河上さん:いや、だから全員の真祈りが要るって言ってるでしょう?だから全員が護摩に参加しなくちゃいけないから。そしたら、ただ護摩木を放り込むだけじゃなくて、だから今、全員が前に出て真祈りするじゃないですか。そういう、みんなが、オーケストラがそうでしょう?一人が弾かへんかったらあかんわけやろう?一人ぐらい、あれバイオリンを弾かへんくてもバレへんねんで。主席のバイオリニストの弦が切れたらね、隣の人がバイオリンを渡すんよ。順番に回していって、一番後ろの人がその弦を張り直して、また参加するねんけどね。それくらい、一人くらい弾かんでも分からへんねんで。せやけど、分かる分からへんじゃなくて全員が参加せなあかん。そういう護摩に、理想の護摩に今はなってるということです。

質問:ありがとうございます。

質問:すみません、話が変わりますけど。ごはんっていつ無くなりますか?

河上さん:え?

質問:食べ物っていつ無くなりますか?

河上さん:だから、無くならないようにしたいから護摩をするねん。

質問:護摩をしてたら無くならない。

河上さん:そうそう。

質問者:分かりました。ありがとうございます。

河上さん:だから護摩を止めるわけにはいけへん。

質問:じゃあ、4年後は?

河上さん:だからそれまでにな、みんなが、みんなが本当に真(まこと)の神さまの自覚を持って、先生の自覚を持って動けるようになってもらわなあかんねんやんか。もう後は無いんや、あんまり。あんまりのんびりしてる暇はないねん。だから言ったやん。ちょっとでも自信ない、その時にそうなった、そういう立場に自分が立った時にね、自信ないと思う人は、自覚できるまで一生懸命印可書読んでって言ってるやん。普段から一生懸命読んでたら、絶体絶命の立場に立たされてもね、うろたえへんし、神さまとして先生としての働きが出来るの。一歩たりとも退かないという決意が要るねん。

今回は大事な水晶のことがあるから一歩たりとも退かないです。とことん行きます。どうでも良いことはね、まあしゃあないなで終わるんですけども。まず台座が戻ってこないと困る。

 懐かしいよな。ヒロシ君の金ダライでしたの。

Iさん:ね。色んな色の、なんか緑とか色が、色んな色が出て、ウワーすごいって。

宮野さん:炎色反応(金属が燃えると、その金属特有の発色をする)ね。

Iさん:そう。違うとか言ってましたね。

宮野さん:大阿闍梨の称号はお金で買えるんですか?

河上さん:買えます。そんなん、高野山を維持せなあかんのに。誰が何も無しで金を出してくれるん。どこで出すかは言いませんけど。そんなん自分で調べて。だってナイトの称号でも買えるんやで。

宮野さん:サー(Sir)。

河上さん:あ、ナイト違う、サーか。

宮野さん:サーですけど。サーの称号です。

河上さん:ごめんなさい、サーの称号です。お金で買えるんやで?なんでも買えるよ。大丈夫よ。値打ち在る無いは関係ない。

 まあ、ある意味、護摩はすごい大おまけやと思うよね。参加してね、何かよう分からんうちに燃やしに行ってね、何かよう分からんうちに前に立ってお祈りしてね。それだけでも凄い真祈りになるようになってんねんから。是非、真剣にね参加してください。少々の用事は断って。まあ、親の死に目で葬式といったら親戚がうるさいからね。放っておかれへんやろうけど。少々のことは是非おいでください。近くの人は得ですね。遠くの人はね、お金も先立つものが要るしな。中々大変ですけど。
 
 ただ、本当に全世界同時に護摩っていうくらいに人類の意識が広がれば、もう大丈夫なんですけどね。まだ時間空間の感覚のズレがあるでしょう?それが無くなるまで。真祈りというのは、もう時間空間のズレが無いんですよ。過去も現在も未来も今ここにある。で、それが分かると不退転の決意というか、安心立命という表現では足らんくらいの凄いものがあります。

 今、首とここが腫れて、もの凄く痛いんですけど喋れるのね。さっきちょっとサンドイッチを半分だけかじったら痛くて必死で飲み込んで終わったんですけど。それでも必要な時は喋れる。それくらい何があってもね、神さまが良いようにしてるっていう確信が要るんですよ。これと同じような話を昨日、八鹿(ようか)の連中にしています。もう怒りまくってるから、まずそれを抑えに行かないといかんから。水晶事件で怒ってはるねん。ほぼ同じ話。要はもう、真(まこと)の神さまの自覚をね、皆さんお持ちになるということが大事。で、それは印可書奉読だけで持てるからという。そこだけは信じてください。

 まあ、大事なことは、肉体を持ってるとね、腹も立つし、悲しいし、辛いしとか、しんどいし、とかあるわけですよ。それは肉体を持っているから当然なんです。で、その時に、例えばしんどい時にね、しんどいから甘いものを食べましょうとか、しんどいからリポビタンDですか、なんか栄養ドリンクを飲みましょうとか、それが極端になると覚せい剤に頼りましょうとかね。なんかドラッグに頼りましょうみたいになるわけですけど。そういう物に頼らずにね、肉体が持てるからこそしんどい時があって、だからこそ、よりお祈りができるんだと喜んでもらうことが大事なんです。肉体を持ってるからこそ腹が立って人を憎みたくなるんですけど、そのお陰でより深く印可書を奉読できるって喜んでください。それが大事なんですよ。

 皆さん、肉体を持っていない本心の自分の時と、今の肉体を持っておられる時のギャップが大きいから、ついつい肉体の自分を責めてね、色々と挫折するんですけど。挫折するんじゃなくて肉体だからその反応が出て当たり前なんだ。例えば若い男性女性だったら、お互いに異性を意識してね、性欲が出るのは当たり前なんだと。まずそこで割り切って、後は印可書奉読ばっかりっていう感じでね。要するに神さまに心合わせるんだっていうことを分かってください。物に合わすんじゃなくて。神さまに心を合わすことが大事。それが真祈りなんです。

で、神さまに心を合わすというのは理屈で、「どないして合わすねん?」っていうことが今まで困ったわけですね。それを印可書にしてもらっているということです。あるいは護摩にしてもらってるということです。だから護摩をされている時は、色んな雑念があろうが神さまにピタっと心が合ってるんです。それは信じてください。そこを信じてもらえたら、護摩に参加した後の自分の変化が全然違います。今はまだ護摩に参加されててもね、なんか惰性でしてるというか、「いや、これで大丈夫なんかな。」とかいうのが微妙にあるんですね。それ止めてください。護摩は凄いことですから。

 もう、護摩にどんな色んな雑念が出ながらで良いから、護摩に参加したらグッと心境が上がるというのを信じてください。凄い大事なことです。だからこの勉強会には来なくても、これは録音で聞けるからね、来なくて良いけど、護摩だけは何があっても来いというのは、それくらいね、大事な大切な大おまけのある凄いことなんです。

 で、これは先生が最初に出されてここに置いてあった赤い印可書ですね。あれがその大おまけが付いてたんですよ。僕はそれを知ってるから、まとめて持って帰ろうと思った。でも先生があかんって言うのね。「みんなが自由意志で選び取って行かなあかんから置いとけ。」って言うから置いてあったわけ。そしたら誰も自由意志で選び取っていかないから、大おまけを燃やしていかれた。それだけです。甲辰やから本当のことが聞けて嬉しいやろ。本当は貰ってても、もう一部取りに来てたら良かってん。済んだから言うけど。

 で、水晶は今まで置いてあることも気付かないくらいの状態だったでしょう?あれがホンマなんですよ。これが目立つような感じになってたら、また水晶という物に頼る心になってね、偽物になっていくわけです。ちゃんと先生は言霊で目立たない状態にしてあったんですけどね。ちょっと今回の事件で微妙に…。また、あと調整を苦労してなんとかします。まず台座。

 それでまあ、普段の会社とかね、お勤めに行っておられるところで、会議で適当に空気に流されながら上手くやってくださいね。変に正義感を出すと叩かれるからね。それは会社の中で印可書を心の中で奉読して光を入れて、ゆっくりとしたら良いことで。ただ、会社とか組織やと組織全体の運命に関わるからね。そんなに無責任にみんなゾロゾロ出来へんよね。ただ、宗教団体になると無責任にくっ付いて行こうとするからね。で、駄目なんです。だから今までの宗教団体の中からね、悟ったという人が出て来ない。それは無責任にこの人に付いていったら良いわってやってるからよ。それは祈りではない。無責任な狡い心や。

 だから先生は生活保護は駄目だって仰ったんや。無責任な狡い心やから。でも、この村も一つ間違うとね、生活保護と変わらへんからな。必死でこの部屋へ来てお祈りしてもらわないと。自分の運命がこれからは大変になる。甲辰やからね。もうおまけを出さなくて良いって言うから。本当に出さへんで。また出す余裕ないって、一杯一杯になってきて、もう無理。そこへこれ増やすやろ。この水晶の手間は増やすし、もう。なんでこのややこしい時に手間を増やすかや?ねんけど。

 正直に、「こうなって、こうやったから、こうしました。」って言ってくれるとね。「もう済んだことはしょうがないから、もうこれからこうしよう。」ってこう言えるんだけど。言えへんねんな。難儀や。ということは、言えへんというのはどういうことかと言うと、本人が過去を掴んでるということや。それはもう本当に光を通しにくいの。
 
 「その時は、こうだと思ったからこうしました。」って言ってくれたら、もう過去を離せるようになってるねんな。だからキリスト教でね、あれ何?告白っていうのがあるの?牧師さんの前で告白して悔悟するの。

宮野さん:懺悔(ざんげ)。

河上さん:懺悔か?懺悔があるでしょう?あれは本当はそういうもんや。過去を喋ってしまって、もう離すというね。本来はね。今はどうってるか知らん。

 でも、あの掲示板に書き込んでくださってるのを見て、どの方のもみんな心境が高くて嬉しかったです。ありがとうございます。神さまだけに心を合わす。ああいう文章は良いよね。
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令和6年3月河上さん勉強会―4(20240310−4)

質問:先月、無条件というお話しをして頂きまして、神さまの愛が無条件で絶対の愛だっていう事で理解できるわけですけど、日々の生活の中でどう無条件に生きていくかという事を考え出すと中々?

河上さん:先生の表現で言うとね、「真(まこと)の神さまに一瞬一瞬新たに弟子入りする」という事。弟子入りって何かと言うと、もう師匠に無条件に「はい」なの。それって何かと言ったら、「一切文句を言わない」。 だからさっき言ったように自分の出来いる事を精一杯淡々としてね、淡々としてもぼろ糞に言われても、あゝ良かったって言えるのが無条件。

 だから人それぞれ能力の差があるじゃあないですか?だからこの現世で言うと能力の差で評価されるけども、能力の差ではなくって、淡々と自分のやれる事を精一杯やっているっていう事が大事なの。それが無条件の真祈りなのです。護摩なのです。

 そこをさえ分かれば良いのですよ。評価うんぬんというのはこの現世の分け隔てた世界での基準であって、「みんな真(まこと)の神さま、みんな光」という基準の中では評価は要らないのですよ。人間の体で言うと、何時も言うように右手と左手ね、右手器用、左手不器用。左利きの人は逆やね。左手器用で右手不器用。だからといって評価してどうこうはないでしょう?命として一つじゃあないですか?もう全くそれだけなんですよ。それが真祈りなんです。すると喜びだけになる。

 クリスマスツリーで色んな光を出すじゃあないですか?個性としてね。で、キレイなって喜べる。一つ一つ小さい光が分かれて暗いじゃあないかって言えへんね。綺麗なって喜べる。蛍さんの光、蛍の光で本を読むって言いますけど、そんなん出来へんほど弱い光でしょう?でもそれが夏飛んでね、綺麗なって言うんでしょう?結果じゃあなくってね。その喜べる心が要るんですよ。あいつ怠けているって、何言われても自分が精一杯やっていたら大丈夫なんです。大丈夫だと喜べる心ですね。

 それで外人さんは農耕民族でない感覚がありますから、成果優先主義なんですよ。で、成果優先主義で行くと、開墾とか開拓とか征服とかね、そうした目標がある内は持つんですよ。でも目標を失った途端にバラバラになるの。だからモンゴル帝国って昔あったんですけど、バーッて攻めていくんですね。征服することが目的やから。でも征服する場所が無くなったんですよ。ほんだらアッという間に滅びたでしょう?

 だけど日本は、日本人は何が違うかというと、成果優先主義では無いんですよ。一生懸命やる事を喜ぶ。で、出来る者が出来ない者を支えてやるだけでね、支えたからって文句を言わない。

 だから日本の場合、お年寄りをね、どうでもないしょうもない生き方をして来た年寄りでもね、はっきり言うけど。カスみたいな生き方をして来た年寄りでも、年寄りになったらみな大事にする。だから世の中が上手く行く。

 で、外国はどっちかというと年寄りを大事にしないのね。だから喧嘩も多いいし、戦争も多いいし、色々あるんですよ。
 だからやった成果で、成績でどうこう言わなくなったら良いの。神さまに心が向いているかどうかだけで判断するようになったら絶対平和の世界になるの。でもともすれば成果、成績でしょうとする訳よ。

 だから会社で言うと、昔少数精鋭主義が良いって言ったの。でも少数精鋭主義で行った会社はみんな長続きせえへんのよ。ある程度大きい会社で、お前は使えんやっちゃなって、一杯おる中で、こうやって行く方が強いねんな。それ位分かれて見えるけど、一つとして動く時は強い訳よ。

 でも分かれて4人、5人の精鋭だけでね、やったって続けへんね。形の上の結果では少数精鋭主義の方が、バーッて出るんよ。出るねんけど長続きせえへんの。日本のようにちびちび行くねんけど、シュシュってしてるのが大事なの。それが大和という大調和の心というね、大和民族っていう、日本民族っていう本来の心なんです。

 それを先生は桜に例えられて、散り際の良さって言われたの。散り際の良さって何かって言ったら、「一瞬一瞬新に受け直す」っていう事です。一瞬一瞬新に受け直すから、「さー、これからどうするや?」「サー、これからどうするんや?」だっけであって、「お前こんだけしか出来てないやないか」ではない。

 それが出来たら、勉強が出来ない子でも勉強が出来るようになるんですよ。「なんや、お前こんなんしか分かれへんのか?」って言ったらもう最後やね。勉強嫌い増やすね。まあそういう感じの事で良いですか?もうちょっと説明しますか?

質問:先ず、文句を言わない。無条件に喜ぶ?

河上さん:その文句を言うのは分けて結果を気にしているからね。結果じゃあないんだよっていうのが。だから分けて結果を気にするとね、誰それに神さまが降りて凄いってやり出すんですよ。結果を見ているやろう?そうじゃあなくって「一瞬一瞬新に真(まこと)の神さまに弟子入りしている」から結果やないね。それが真祈りやね。

 誰それに神さまが降りて予言したとか、病気治したとか、そんなん大した事はないねんて。結果を見ている間は全部偽もんや。神さまに心合わせてるかどうかが本物や。結果は違うねんて。

 そんなんで言ったら大自然の姿なんか、台風が来て崖が崩れてグチャグチャやってことやんか、結果だけで言ったら。でもその結果新しい土壌が出来たりとかなる訳でしょう?もっと長い目で見たら。で、日本民族って言ったら、長い目で見える余裕があるはずや。すぐ結果を出そうなんて思えへん。それが大事やね。

 そうやけど今回の水晶事件でもね、誰も物言わないっていうのは、結果を気にしているからや。結果を気にしているから、もう怖くなっているんやろう?だけど結果やないって何時も言っているやんか。神さまに心合わす事やって、それが真祈りやって。

 だから神さまにどうして心を合わすかってなったから、印可書を作って貰たって、何回この説明をするか。(笑)後は選び取るのは皆さんの自由です。

 ここが分かったら良いんですけどね。やっぱり競争社会じゃあないですか?日本でもね。会社の業績でも競争し合うし、株価でもね、有るやん。で、ついつい責め合う心になるんねんけどね。そうじゃあなくって助け合ってやって行くっていう。全員が助け合っていくようになったらお金要らん。助け合われへんから、お金を媒介にしているだけや。そこまで行かなあかん。この5年で。行けるよ。

 幸いにね、デジタル通貨になって来たでしょう?paypayとか紙の通貨無くなったじゃあないですか?だからみんなが真祈りしてくれたら、ある日こんなpaypay要らんなってなるの。必要な人に必要なだけ渡して上げたら良いんやって、支え合いになる。そしたら大量生産で無駄な車作らんで済むよ。

 車でもね、必要な人がお互いレンタカーの様に共用して乗ったら良いんでしょう?じゃ、地球の資源も痛めんわけや。今は1台でも多く売らないとあかんから、1台でも大量生産で安く作って売りつけようとするわけや。だけどそれってモンゴル帝国やないけどね、行き着く先は決まっているやん。何ぼ大量生産で安く作ったって、みんなが車持ったら要らん訳でしょう?それに誰も気付けへん。大量生産で安く作ったらみんな幸せって勘違いしてるねんけど、行き着いたら終わりや。だから行き着かないように人口増やさなあかんとか、又、訳の分からん事言ってな、切りの無い話にしてるね。

 だけど地球霊王様の中で住める人口の数って決まっているからね。人類は地球の資源を食い尽くすからな、増え過ぎたらあかんね。で、増え過ぎたらあかん為にも、みんな長生きするようになる。真祈りしだすとね。長生きするから子供をたくさん産まんでもいい。

 ちゃんと理想の世界に持って行けますから、護摩をしてたら。大丈夫です。

 これを理屈で持って行こうとしたら失敗するんよ。理屈では人は言う事を聞かん。何時も言うように、我が旦那、嫁さんでもいう事を聞かんのに、他人が言う事を聞くわけないやろうって。何でそれ気が付けへんのって何時も言ってるやんか。我が子でも言う事聞かへんのに、何で他人が言う事を聞くねん。ええ加減にせえよ。(笑)真祈りしか変わらへん。中からしか変われへん。

 みんな真の神さまの自覚を持っているからね、それを大きく大きくするだけ。それは印可書を奉読して、みんなの心の中に印可書を響かせていくだけよ。

 だからご夫婦でも、うちの嫁は何でも言う事を聞いてくれるっていう時は怖いんやで。だから家の旦那は何でも聞いてくれるっていう時は怖い。何でかと言ったら、相手が無責任になっているから。だから歯止めが利かなくなってぐちゃぐちゃになり易い。

質問:先生が皆に降りたって下さっている。なのでここに来てる人とか、お祈りをしている人とか、印可書を読んでいる人とかじゃあなくって、全ての全てですよね?

河上さん:全人類。はい。
 今も降り立っているし、今も伝授はズーっと滝のように降り注いでいます。後は受け取る側の問題。

質問:私たちが印可書を唱えたり、真祈りを深めていくことで、その人達…

河上さん:そう。自分の縁のある波の人に響かしていける。前に言ったように、こっちの音叉をピンと鳴らすと、こっちの音叉が何もしないのに共鳴して鳴り出すやないですか?ああいう感じで101匹目の猿効果って言うんですけど、何人かが真祈り完成したら、全人類の心に響くんです。

  それは何でかと言ったら「みんな光や」っていうね、「みんな真(まこと)の神さま」っていう、潜在意識という共通意識ではみんな一つだから。一部が大きく音叉を響かしたら、全部に響き渡る。それは間違いない。それを増幅する為に護摩がある。護摩は増幅装置なんでね。

 だから護摩で神さま以外の話をすると、凄い邪魔をしている事になる。だから護摩で神さま以外の話しをあんまり私語でもしないようにね。「久しぶりやな」って言うのは出来るだけ護摩が終わってからして下さいね。

質問:以前はトイレ辺りが一応結界というか、護摩の会場でね、簡易トイレを設置してあるあの辺当たり迄、ちょっとおしゃべりしたりとかだったら、それより先(外)でした方が良いという事を聞いたような気がします。

河上さん:そのね、絶対喋ってはアカンって言ったら、みんな苦しいやろう?だからちょっと前提をね作ってね空気を作って、その辺やったら良いってしとかないとな、みんなパンクするやん?もうそれだけ。本当は地球全部が護摩をしているからね、何所の場所も一緒なんですけどね。だけどちょっと息抜きないと、大変やから。それだけです。

質問者:ありがとうございます

河上さん:普段のお仕事でも仕事でも、何が起こっても、「じゃあ、これからどうしよう?」だけやから。そしたら過去を掴んでいないから現実掴んでいないから大丈夫。でもこないになってどうしようって言ったら、そっから身動き取れんようになってね、余計悪くする。

 だから相手に悪い事して謝っても許して貰えなくても、謝るだけ謝って後は気にしないという事。許す許せへんは相手の勝手になって行く、そうなるとね。

質問:地球全部が護摩をしているという事はどういう事でしょうか?

河上さん:だから「みんな光や」って言う事です。神さまは絶対の愛やから、常に常に「悟っている、祈っている、救われている」状態にして下さっているんですよ。だけど人間の方が勝手に私まだ悟ってない。私まだ駄目だわ。私は無責任だわとか勝手に自分の言葉で縛ってね、楽しんでいるだけ。

 お芝居で今日は男役で行きましょう。宝塚であるじゃあないですか?今日は女役で行きましょうとか言って、劇が有るでしょう?ああいう感じで一時的に台本で自分を縛って楽しんでいるけども、本来の自分は真(まこと)の神さまそのものというのは絶対的に変わらない。変わらないからこそ悟れるの。悟りが分かる。そこだけなの。

 だから何時も何時も護摩の状態なの。護摩って何かと言うと、悟っている状態を偉大な護りって言って、偉大なおまけって言ってね、より分かり易い状態にして下さっているという事。で、先生が全体を護摩にして行って下さった。その時に僕の負担が減るように水晶玉を置いて行って下さったという事です。

 ちょっと今暫く機能しないからね、あっちこっち地震起こりかねないから、各自、余り動かないで自分の居てる場所で祈るように。動かんで良いからね。どこに逃げましょうではないで。不退転の決意を持って祈って下さい。そしたらスロースリップって言ってね、ゆっくり揺れるだけで終わりますから。

 この前、去年ですけど河内長野が震度3やったんですね。でもゆっくりやった。ドドドんって来なかった。だから家の工場の場合でしたら、整理できてへんから棚に一杯積み上げてあるね。それが崩れづに済みました。ただキャスターの付いた車の付いた物などは
大きく移動してました。ここに置いてあったのが、2メートル程向こうに移ってるね。で、最初、エッて意味が分からん。ゆっくり揺れたから、その時僕おらんかったから、息子しか居らんかったから。ゆっくり揺れたから勝手に走って行った。

 それ位真祈りを何時も響かせていたら、揺れてもそれ位で済むわけですよ。だから真祈り人の使命ですから、各自いま居てる住んでいる場所で頑張って、せめて寝る前は3回読むとかね。読まなくっちゃあいけないとかでなくって、自分なりに納得する数を決めてやって下さい。別に100回でも良いんですよ。でも納得する数やけど無理をしないようにね、続ける事をやって下さい。寝る前3回くらいは出来るので、今、3回って言いましたけどもね。別に寝る前でなくっても夕食前とかね、家に帰って来た時とか、自分がちょっと余裕があってやれる時にして下さい。それだけで十分効果があります。

 もうみんなが真(まこと)の神さまだけ。宗教団体違うからね、みんなが教祖ではない。みんなが真(まこと)の神さま。勘違いしないように。みんなが松下先生。働きの大小はそれぞれの個性に応じてあるだけで、良い悪いではないと分かって下さい。耳かきの働きが大事だっていうのを分かって貰ったら。

 ちょっと東南海と関東と、関東のが先かな?ちょっと止められへん。台座早く帰って来てくれや。無いんやったら無いって言ってくれ。頑張って命削って作ります。

 出来るだけ命削らんとね、出来るだけみんなと長く居たいからね、台座が返ってくるのを待っているだけやからね。ほんまに無いんやったら無いって言ってね。

 先生のされた事を何で疑うかやな。僕には謎やわ。必要で置いて行かれたん決まっているやん。だって必要のない物全部燃やしていかれたんでしょう?これも必要ないんやったら燃やすか、捨てるかされているわ。

 さっきどうしようもない生き方をして来た年寄りの面倒みないとあかんと言いましたが、み過ぎたらあかんからね。必要最小限で良いですから。カスみたいに生き方して来たおっさんて居てるからね、身勝手に。それでも年取ったら面倒みやんならん。

 でもみ過ぎんで良い。生きれるギリギリにしてやって下さい。文句を言ったら「文句を言いなさんな」ってイジメてな。(笑)
 でも全ては完璧な一つやから、働け無くなってね、あまり動けなくなった年寄りでも必要なんです。神さまは必要でないものは置かない。それが分っていたら出来ます。ただ、必要以上に面倒を見る必要はない。生きれるギリギリでイジメましょう。ちゃうか。(笑)

質問:先生が必要な物を残されて行った。今回の件で言うと水晶玉。後、神書であったり、

河上さん:そうよ。必要やから残していかれた。

質問:その中に五色のシールがまだ残されているですけども、みな残されたものにはそれぞれ役割役目が違うと思うんですが・

河上さん:五色のシールは無尽燈です。永遠に光が出るシールです。黒いシールはこれは蓄電池みたいなもんで、いずれ効果は消えます。だから具体的にもっと正確に言うと、お釈迦様の仏舎利ってあるじゃあないですか?それです。先生の仏舎利。

 だからこのまま大事に置いといて、本当に全世界に真祈りが広がる時にそれぞれの国に1枚づつとかね、お渡ししなくっちゃあいけない。無尽燈だから沢山貰っとこうなんて思わんといてね。(笑)真祈りしてんから、要らんやろう?(笑)水晶玉のように真祈りがまだまだ進んでいない所にこれを置くの。

質問者:ありがとうございます

河上さん:ようけ(たくさん)持って行ったらあかんで。1枚は持っていても良いけどね。

質問:セットで?

河上さん:いや、セットは要らん。1枚で。

宮野さん:5枚セットやで。

河上さん:5枚セットやけど、1枚でいい。

宮野さん:いや、あかんて。1セットです。

河上さん:まーまー、1セットでいいわ。ほんなら。だけど、いずれ1セットが足らんようになって来る。

質問:数からみて1セットでは足りなくなる?

河上さん:だから1セットで持って帰って大事に置いといてください。いずれバラバラにして渡さなあかん時が来ます。

質問:自分の以外の?

河上さん:勿論。真祈り人は自分の為を考えんでいい。

質問:人の為に置いとくという事ですね?

河上さん:そう、そう。水晶玉みたいに、又、何かしおったら敵わんからな。(笑)もう、手間な!思わずぼやきたくなる。

 ほんとね、みんな簡単に考えてるけどな。もう人類のギリギリのとこが、ホンマここ10年無いんねんて。それ乗り越えてしまえば良いねんけど、乗り越えれんかったら終わるの。終わる時ってね、アトランティスとかムー大陸が沈む時と一緒よ。沈む前日までごく普通の生活しているんやで。で、ある日突然あないになった。一緒よ、今回も。何時も通りの生活しているんやけど、明日はない。知らんほうが幸せやろう?僕は知っているから辛い。

 だからどうしようとなった時に護摩があるって言ってるやん。で、護摩を宗教臭くせんとね、宗教でないわけですから。どの宗派を信じている方でも楽に参加できる形に先生して行って下さった。だから宗教臭くないでしょう?形の上でも。会場も質素やし、それは宗教ではないって事を先生はされている訳ですよ。

 昔、五井先生が世界平和の祈りってお作りになられて「世界人類が平和でありますように」って祈り言葉があった訳ですけども。五井先生は白光真宏会の物とも何とも言わず人類のものだって仰っていた、世界平和の祈りを。ところが五井先生の気持ちが分らずにね、これは白光真宏会の祈り言葉だからって言い出してね、駄目になっちゃった。

 で、松下先生も「世界人類が平和でありますように」っていう祈願柱をね、お作りになってあっちこっち建てていたんですよ。ほんなら白光会から文句が来たんですね。白光真宏会の物であってどうのこうの、勝手にするなって。それ位宗教臭くしたらアカンし、宗教の物としたらあかんの。だからここは宗教じゃあないし、真祈りは全人類の本来の響きや。それだけなの。だから祭壇を作ろうなんてしたらアカンの。どの形であっても祭壇みたいにしたらアカンの。もうこれがギリギリよ。(後ろの宇宙神ありがとうございますの大シール)ここへローソクとかなんかを立てだしたらアカンの。

 でも祭壇とか宗教臭くしたがる人って言う人は無責任なんよ。分かる?こころを真(まこと)の神さまに合わそうとするのを止めて形にもたれかかる。形を作ってそれをしてたら助けて貰えるみたいな無責任さがあるのよ。でも祭壇に向かって祈ったかって何もあれへん。こころが真(まこと)の神さまに合うから凄いんよ。だからここは宗教団体では無い。祭壇は要らん。

 護摩の会場とここは、何もなしやったら皆が来えへんようになるっていう事で、先生がお作りになっただけ。いずれはそんなん必要ないってみんな分かり出したら変わる。一人一人の真祈りが全て。一人一人が真(まこと)の神さまに心を合わせるのが全て。心を合わす方法が印可書って言って下さったから、何の難しいことはない。

 ちょっとでも無責任に狡くなったら形に頼ろうとする。数珠とかな、有るやん?お守りとか。それは宗教や。要らん。

 昔、先生に頼まれて作った僕の作ったシールがね、いろいろと効果が有ってん。するとお金で買おうとする人出て来てね、「お前あれ止め、あれ持って帰れ」って持って帰った事がある。それ位宗教臭くなる事を先生嫌がられた。そのシール貼るだけで病気治るからね、お金払ってシール持って帰えろうとしだして。もうあれは止め止めっていって。どのシールかはもう言いませんし、持って帰ってもう無いしな。真剣に光込めすぎやって怒られた。いや、やれって言われたらするわな?先生の依頼やったら。

 如何に完璧な一つのところに意識を持って行くかやね。で、理屈で言ったら全ては完璧な一つという意識であるねんけど、それは理屈であって実感湧かないでしょう?で、全ては完璧な一つという実感は印可書を奉読したら出来るから、もうそれだけです。で、全ては完璧な一つって自覚出来たらね、必要以上に助けへんけど、必要な事は助けるの。ここが大事なの。支え合うって言うと、必要以上に支えてしまったりする。それは違うから。

 何でかと言ったら、必要以上に支えるっていうことは、相手を甘やかすやろう?だからさっきお年寄りにね、必要最小限、生きれるだけ以上したらあかんと言うのは、甘やかしたらあかんの。お年寄りでも甘やかさんと出来る事は自分でどんどんさせないとホンマにボケるし、身体弱るしやな。だから必要最小限だけして後は自分でしっていって、イジメていかなあかんの。違うか?(笑)そういう事。それはホントに印可書奉読でしか分からへん。

 特に介護の現場の仕事の人は特にそうやと思うわ。どこまでして上げたら良いのか、何時も悩みやと思う。だけども必要最小限でやれる事やらさないと。まあ、パジャマのボタンがね、お年寄りになると指がこうなって出来へんようになって来るんや。でも1時間掛かってもさせるようにせんならん。

 特にこのカッターのボタンが入れれんようになって行くねんけど、それでも入れれんようになって来て、こっちが手伝うと本当に出来なくなって行くね。仕事も何も無いんやから1時間かかっても入れなさいって、入れさせなあかん。それが本当の支えや。そうやってイジメるんやで旦那も。違うか!(笑)

 先言ったろくでもなく生きて来た年寄りって言うけどね、神さまが必要で現されているのは間違いないのね。だからホンマに人を騙してカスのような生き方しとっても、必要であったという事を分かってあげないとあかん。だから必要最小限に生かさなあかん。でも甘やかしたらあかん。

 その辺が分かってきたらね、いまの介護の問題でももっと進むんやけどね。今はやりすぎる所が多いい。やり過ぎるから余計年寄り動かんようになってな、余計手間増えるの。

 で、出来るだけ年寄りにさせようとしたら、イジメているみたいに思われるしな、難しいところやな。そうやけど出来るだけ本人にさせていかなあかん。

 責任感のあるお年寄りはね、最後までやっぱり動くし、元気でなくても自分の事もして動くわ。やっぱり無責任な人は助けてくれ、助けてくれって言うの。だから真祈りしてみんな総責任者の自覚でね、なって行ったら年とってもボケへんし、動けるから。年取ってボケるっていうのはやっぱり無責任で狡い人や。

 それと体痛めるのは口が卑しい人な。(笑)ついついようけ食べるとか、糖質を一杯食べる人な。それは身体痛める。有る寿命縮める分があるわ。若くないんやから、年取ったらおかきや、ご飯や、うどんというのは諦めないと。食べるなとは言わんけどホンマに「エッ、こんだけ」っていう位で良いの。

 で、不思議なもんでね、先生よく断食されてたでしょう?3週間断食して、1週間食べておられていたんですけど。本当に断食されておられる時はね、爪も髪の毛も、伸びへんの、髭も。体がその栄養状態に合わせて対応するんやな。それで断食明けの1週間食べられたら、バーッと爪も伸びるし、髪も伸びるの。もうそれは凄まじかった。それ位ね、人間の体は無限力でどないにも成るんやっていうのを分かってて。これだけは食べなくちゃあ駄目とかね、この量は食べなくっちゃ駄目とか、要らん思いで自分を縛っているだけやからね。それで全員がこれだけの量で良いんやって言うんじゃあないからね。その人によって必要な量ってありますから、それぞれ真祈りで決めて行くしかない。

 まあ大概は好きな物を食べ過ぎて潰すね。お酒であったり、色々あるわ。その人によってね。そんなん言っても美味しいもんって言うけど、それ神さま以外の物に頼っているやろう?ご飯やお菓子に頼っているわけや。それが真祈りしていたら頼らんようになるから、必要以上に食べなくなる。だから印可書奉読が基本になってくると思います。そんなん「宇宙神ありがとうございます」で行けるんやったら、印可書先生出せへんって。

 呼吸をね、ズーっと吐き続けて、一切途切らずに吐き続ける状態で「ありがとうございます」まあ「天の造化主…」どれでも良いんですけども、続けるんですよ。ほんならスッと神さまと一つになるの。ところがそこの部分がみんな出来へんのやな。どっかで途切れるの。それ位難しい、やっぱりな。

 それで印可書にして貰った。印可書だったらそんなややこしい事考えんで済むから。その呼吸が途切れないで何時も吐き続ける状態になるっていうのは、もう理屈じゃあなくって自然になるの。必死でやっていたら。それももう今更説明しませんけどね。ただ、印可書はそういう状態に自動的にして貰えるって思って下さい。

 病気治しの基本原理だったんです。息を一切途切らさずに、そしたら病気が治るの。技術的な事で言うと、コップに水を入れて、あんまり真似せんでいいからね。水入れてストローでぷくぷくって吹く訳。ズーっと吹きながら鼻から吸って、吹きながら鼻から吸って
ってして、何時もぷくぷくと出る状態を作れると真祈りになるねんけど、一つ間違うと、神さま以外を思ってそれをやると、念力に落ちてダークサイトに落ちる。スターウオーズで言うダースベイダーになるからな、あんまり技術的なことは説明せんかった。

 今は印可書があるからね、そんな苦しい事せんでいいって。大変やで、ズーっとぷくぷくと息が出るように鼻で吸いながらそろえるの。mさんは出来るからやってみたら良い。山登りしているから肺が強いのな、だから出来ます。だから吐きながら鼻から吸えるっていうのが。理屈ではそうやけど、感覚やから説明出来へん。先生はそれを吸い足しって表現された。吸うじゃあなくって。
 それが出来たから祝福の伝授を受けて。祝福するって何かと言ったら、相手の寿命を伸ばすって言う事。こっちの寿命を削ってね。でも先生がやれって言ったらします。オマケ出すっていうのはこっちの寿命を削ってという事です。その祝福っていう言葉を今風に言い変えるとね。でももうお前、出さんで良いって言うから、もう出さない。そんなんで宮野さんの寿命随分使いました。使ってくれって言うからね。

 だから日本人だけやねんね。一生懸命努力したから結果出なくっても良いやないかって褒めてくれるのはね。外人は一生懸命しようが、適当にしようが結果が出るか出ないかだけ。日本以外の国はね。

 ただ、日本人が落ちり易い一番危ない落とし穴は、一生懸命やったから良いやないかって言うのは狡い。分かる?そこだけは間違わないように。神さまを思ってひたむきにするだけであって、ガムシャラに一生懸命やったからね、構へんやっていうのは違う訳。そこが真祈りにいれる難しさがあって、今は印可書があるからちょっと楽になった。

 で、一生懸命やってるから良いやないかっていうのが、要らん空気になってね、あの場の雰囲気やったら、そんなん言われへんわっていう狡さが出て来る。日本人の難しいとこやね。陥り易い欠点なんやけど。その中で印可書を奉読して内側から変えていくと。誰も表面から変わらんからね、誰も口で物言っても変わらへんからね。内側から変わるだけです。この勉強会も口では説明してますけど、皆さんの心に真祈りを入れてますから。

 なら、お祈りして終わります。ありがとうございます


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3月護摩 by 河上 [Mail] 2024年03月08日(金) 15時18分
PC

3月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年3月の護摩焚きで、皆さんからの質問に河上さんが答えてくださいました内容です。ありがとうございます

司会者
 はい、それでは読ませていただきます。今日は4人の方からご質問をいただいております。

質問1
 「すがる」と「たよる」の違いについて、「何事にも頼るのは違う、全て自己責任」と実感するのと同時に、「自分では何もできない、印可書にすがるしかない」と謙虚に謙虚に印可書を奉読するだけという実感も強まっています。印可書にすがるは、下手をすると、「印可書を唱えていればいい」と、投げやりな思いになることもあるのです。この違いを教えていただけますか?宇宙神ありがとうございます

河上さん
 はい、ありがとうございます また今月もお会いできて嬉しく思います。

 すがると頼るの違い、一言で言うと報いを求める心があるかないかです。頼るというのは報いを求める心がある。要するに損得というんですか、これをすることによって利益がある、お蔭がある。色々表現がありますけども、それだけです。

 すがるというのは一切を神さまにお返しして、自分も真(まこと)の神さまそのものですから全力を尽くすのは当然なんですよ。その全力を尽くすというのも走って山を駆け登るのではなくて、自分のできる精一杯をいつも淡々とするということです。その状態で出てきた結果を掴まない。自分にとって不都合な事、要するに損得で言うと自分にとって損なことばっかりが続いても、神さまが一番いいようにしてると信じ切れる心がすがるです。頼るというのは報いを求める心があるということです。その違いです。

 だから「印可書」を読もうが「宇宙神ありがとうございます」と言おうが損得を考えて、要するに神社でいうと「これだけお賽銭出してんねんから、願い叶えてくれや」みたいな感じですよね。「これだけ印可書唱えてるから病気治してくれや、願い叶えてくれや」みたいな感じになるとそれは頼ってるということです。

 すがるというのは自分が尽くせる全力を淡々と尽くして、その結果、全部自分にとって不都合なことが起こっても「あゝ神さまが一番いいようにしてくださってる」って喜べる心です。この辺が非常に難しくて、今が一番いいようになってるんだから、「何があってもいいんだ」みたいな投げやりな言い方というか損得が入った言い方をする、誤解される方があるわけですけども、そうじゃなくて、すべて真(まこと)の神さまと不離一体なんですよ。皆さん自覚するしないに関わらずね。だから真(まこと)の神さまとしての働きを皆さんできるわけです。

 ただ肉体という表現をとった時に他の人の平均値よりも、他の人が10できるとしますね、平均としてね。自分は鈍臭くて不器用だから自分は8とか6しかできない、という状態でもいいから自分のできる精一杯をして、その結果、人からボロクソに言われても喜べる心が、すがるなんです。それだけです。だから損得が入らなかったら大丈夫です。ありがとうございます

質問2
 自分と他人の分け隔てについて、自分を攻撃してくる相手に対して怒りが湧いたり、それどころか、こちらも相手を攻撃してるイメージが「わーっ」と湧いてしまうことがあります。こういう時こそ、ただひたすらに「印可書」にすがって淡々と奉読するでよろしいでしょうか?自分と他人を分け隔てないとか、現実を掴まず、さらさらと受け流すとかの実感は深まっている気がするのに、そういった攻撃するような思いが、むしろ以前より強く湧き上がるとこがあります。どうしようと思うことがあります。よろしくお願いいたします。

河上さん
 それはもう肉体を持っている以上、当然のことなんですね。どういうことかと言うと、いわゆる本心のレベルでは、みんな真(まこと)の神さまなわけですよ。その本心のレベルの光を使って、わざとキャンパスが真っ白で、無限の無限の輝きが一杯と例えますと、そこに黒とかいろんな色を使って表現するわけじゃないですか。それは無限の無限の輝きの真っ白から比べたら限定された姿ですよね。そういう形で、皆さんも自分の好きな好みの形に肉体を限定させて不器用とかね、天才とか凡才とかいろいろありますけど、いろんな表現を皆さんは楽しんでおられるだけなんです。だから、表現上は腹も立つし、引っかかるし、イライラするしと言うのは当然なんですよ。

 そこで何が問題かと言うと、いつも本心の自覚に立ち戻れたらいいわけですよ。立ち戻るために「印可書」があるわけで、肉体側の意識をどうこうしようと思って、「印可書」を読むとさっきで言ういわゆる損得になってくるわけ、わかります?

 「印可書」読んでんねんから、肉体側の意識も松下先生のように怒りが湧かずに、すっきりさせてくれや、というのがちょっとでも入ると崩れてくるわけですよ。そこだけなんです。だから「現実を掴むな」とか、「現実に捉われるな」とか、「もとより後ろ指刺されるのは覚悟の上やろ」とかいろんな表現しますけれど、どれも結果に一喜一憂しないということが大事なんです。

 それは何故かというと今、言ったように本心という自分の無限の無限の輝きの光をわざと限定して、いろんな顔形、姿形、男、女、いろんな表現を今回は女で楽しみましょう、今回は男で楽しみましょうとか、ものすごく鈍臭くてボロクソに言われる役を楽しみましょうとか。映画でシナリオをいただいて主役の役をするとか、端役をするとか全部するじゃないですか。でも結果だけで見たら端役なんて大した事してない、主役は一杯してると言うことになりますけども、でも主役だけの一人芝居見たって面白くないのね。いろんな端役の人が支え合って、一つのドラマ、映画として完璧なものができるわけじゃないですか。

 だから、どの働きも全て必要なものなんですよ。それをこの世の成績評価的に言ってですね、結果的に「あの人大した事してないじゃないか」ってそれが極端に言うと、「あいつと俺と給料一緒やのに、あいつは働けへん、俺は働いてる」みたいな評価になっていくわけです。あるいは男と女で「女は男を支えるだけで文句言うな、黙ってついてこい」とかそういういらん評価を勝手に作って揉めるわけです。でもその揉めるも楽しんでると言えば楽しんでるんですけど。そこに心を奪われて、もうダメなもの自分にとってですよ。ダメでマイナスに見えるものは叩きつぶしてしまわなくちゃいけない位に腹が立ってくるんですね。

それを「印可書」奉読して、消える消えないは関係なく奉読して神さまに投げ込んおけばいいんですけれど、ほとんどは「印可書」がないんで、もう怒った思い、マイナスに見た思い、いろんな思いを溜めていくわけですね。それが溜まっていくと国同士の争いのレベルになるわけです。個人でも疑心暗鬼になるわけですよ。

 だから、今の社会だと契約書っているでしょう。契約書って何かと言うたら、相手を信じてないからよ。そうでしょう。お互い信じてたら契約書はいらないし、仮に契約書がなくて騙されても「あーおもろい奴やったなぁ」で済むわけですけど、騙されたくないし、相手を信じてないから契約書がいるわけですよ。

 それぐらい今の、この写し世というのは、肉体側の意識に流されて、肉体側の思い通りになることが正しいことだと勘違いしてるんです。でも肉体側の思い通りになる事は正しくないんですよ。一番簡単な例で言うと交通ルールですよ。肉体側の思い通りだったら、信号無視してピァーと行ったら一番(早く)目的地に着くわけでしょう。でもみんなが信号無視したら、もう交通事故起こして、しっちゃかめっちゃかじゃないですか。だから急いでるんだけど、信号が赤になったら止まるわけです。そういうことが交通ルールを作らなくてもルールを作らなくても自然にできるようになるのが真祈りの世界なんです。

 そのためには「印可書」奉読をすることによって、自分のいろんな思いを全部神さまに投げ返せばいいですよということです。もちろん「宇宙神ありがとうございます」でもそれができるんですけど、「宇宙神ありがとうございます」を唱えている人は、その肝心の「宇宙神ありがとうございます」を信じないのね。信じてる、信じてるつもりだけど信じてないんですよ。だから、先生亡くなられて6年経ってもみんな変わらないのね。「印可書」は信じる信じないにかかわらず、効果があるようにしてあるので「印可書」を奉読されている方はどんどん変わってきているという、それだけの事ですけどね。どれもこれも皆さんの自由意志ですから、どれが良い悪いはありません。ただ「印可書」は楽で良いですよって言うことをテレビショッピングしているだけですね。ありがとうございます

質問3
 神さまの作られたものには悪いものはないとありました。私の部屋は2階にありますが、1本の枇杷の木が植えてあり、毎年、花や枇杷の実がなって収穫しながらいただいていますが、枇杷についての事なのですが、破産や没落した物件のみを扱う不動産屋さんの話では、そういう物件の家に必ず植えている植物では、藤の花、紫陽花の花と金木犀の木、それと私の部屋から見える枇杷の木が植えてあったそうです。それ以外にも不思議な花や木の場合もありますが、母親から聞いたりしましたが、はっきり言って怖いと思いました。それでも神さまの作られた植物にしても悪いものはなく植えていても大丈夫なのでしょうか?私は破産もしたくもないし、不幸にもなりたくないです。自己破産や没落も嫌です。どう対処したり考えたりすれば良いですか?

河上さん
 神さまは、一切のマイナスをお作りになりませんけど、この世を作ったのは神さまじゃないですよ。さっき言ったように、自分の本心の光を使って、いろんな表現を皆さんがお作りになった世界です。その皆さんの一人一人がお作りになった世界のスクリーンを重ねて、今の現実と言う世界があるだけで、神さまが作った姿じゃないです。だから神さまが戦争という姿を作ってるのではありません。それ先ずわかってて下さい。

 庭に藤の木とか植物いろいろとありますけども、どの木を植えたって問題は無いんですよ。ただ言霊として、例えば、水仙と言ったら滅んでいくみたいな、そういう、アザミと言ったら復讐と言うんですか、花言葉あるじゃないですか。そういう言霊を勝手に人間が足してるだけで植物のほうに罪は無いです。ただ、人間がその木に対して、いろんな言霊の名前をつけて呼ぶじゃないですか。例えば、ざくろだったらざくろ割れだから良くないとかね。勝手に言霊で人間が決めただけであって、神さまがお作りになった植物の方に罪はありません。動物の方にも罪はないです。人間の方の思い。

 だから、凶悪な動物(獰猛な猛獣)でもね、ライオンさんでも寅さんでも人間を襲うって言いますけれども、人間側に恐怖がなかったら襲われる事は無いです。それはお釈迦様がですね、お釈迦様を憎んでいる人が、お釈迦様をわざと虎の穴とか熊(の穴)でしたかねそういうところへ(お釈迦さまを)泊まらすわけでしょう。そしたらお釈迦様が(穴の中の動物たちに)説明するんでしょう。「みんな御仏の命だ」って言ってね。そしたら、熊さんも虎さんも猫のようになって、お釈迦様と一緒に寝て、朝になってお釈迦様が無事で出てこられたと言う、そういう逸話があるわけですけども。人間の方の勝手な思いで、いろんなことが起こっているだけで。いわゆる「印可書」という真(まこと)の神さまの響きを出しておれば、なんの問題もない。そういうことです。これでよろしいですか?

司会者
 はい、ちょっと読み忘れたところがありまして、「必ず不幸になる花には白粉花(オシロイバナ)もありました。」とありますがこれも一緒ですね。

河上さん
 一緒です。だから必ず不幸になる花だって、人間が言霊で決めただけで、白粉花の花に罪はないです。

司会者
 わかりました。ありがとうございます

質問4
 人の心や身体の痛みを分からない、分からなかった人達は、死後に何処へ行くのでしょうか?これも河上さんにお聞きしたいです。よろしくお願い致します。

河上さん
 いわゆる因縁因果の世界ですね。虚の世界というんですけども。その世界ではプラスとマイナスが拮抗してるわけですよ。だからプラスが出たら下からマイナスが押し上げてるのね。マイナスが出たら下からプラスが押し上げてるという繰り返しなんですね。それを因縁因果っていうんですけどね。輪廻の輪というんですけども。

 その世界のことですから、人を貶めたり云々すると同じ運命を自分が背負って、要するに人を貶めたり恨んだりどうこう言う時は、自分が良い目をしてるわけでしょう?自分が大変な目に遭ってる時は恨んでるとかそんな余裕も無いからね。人を恨むというのは自分が余裕がある証拠なんですよ。わかります?

 皆さん勘違いしてるけどね。人を恨んだりとかどうこうというのは、まだ自分に余裕があるの。本当に余裕が無くなったら、もう生活するので精いっぱいで恨むとか愚痴を言ってる暇も無いのね。そういう因縁因果の世界ですから、自分が余裕があるのに文句を言ったら、文句ある立場にまた自分が置かれるという繰り返しだけです。

 それで、先生が絶対奉仕、絶対感謝、あるいは恩返しって仰るわけですけども。それはどういう意味かと言うと、この世的に恨んだりどうこうした気持ち、マイナスをね、置いとかずに神さまにお返しして消してもらうのが良いんだよということなんですよ。

 ただ、神さまにお返しするのにね、例えば自分でもそうですけど、ゴミを貰っても喜ばないじゃないですか。でも良いものを貰って喜ぶでしょう。神さまも一緒で、神さまを褒め称える言葉という、神さまそのものである言葉という「印可書」をいただいたら喜ばれるけども、マイナスの思いばっかり出されても、喜んで貰えないわけですね。だから「印可書」に包んでお渡しするわけです。あるいは「宇宙神ありがとうございます」に包んでお渡しして消してもらうわけです。ただ、それだけなんです。

 ただ、その時にあまりこの説明をしないのは、「印可書を読むから消してくれや」「宇宙神ありがとうございますを読むから、お祈りするから消してくれや」という、いわゆる損得のギブアンドテイクの感覚が入ったら、それは祈りではないので神さまが受け取ってくださらないということです。

 それで、神さまに受け取って貰おうと思うと、神さまの心にならなくちゃいけないんですね。ここが一番大事なところで。ただ「宇宙神ありがとうございます」と祈るから良いんではなく、ただ「印可書」を読むだけだから良いのではなく、いつも言いますように神さまのお手伝いをしたいと願うことによって、神さまと同じ仕事、神さまの立場に立てるわけです。同じ立場に立てるから受け取ってもらえるわけですよ。そこが大事なんです。

 人類のために神さまのお役に立ちたいっていうね。だから神さまのお仕事をしたいっていう、その願いが要るんです。だから「印可書」も「読む」と「奉読」という言葉で、「読む」と言わずに「奉読」と言わせて頂いているのは、神さまのお手伝いをしたいから奉読なんですね。

 だから「宇宙神ありがとうございます」も一緒です。神さまのお手伝いをしたいと願ってしないと。効果がないとは言いませんよ、でもあまり効果が無いんですよ。ギブアンドテイクが入ってきてね。

 なんで神さまのお手伝いをしたいって願えって言うかいうと、神さまのお手伝いと言う時はギブアンドテイクの気持ちが入れられないの。わかります?仕事の雇用関係じゃないからね。これだけするから、これだけの報酬をくれやっていう感じですよ、ギブアンドテイクというのはね。それは神さまのお手伝いじゃなくて神さまに雇っていただくということです。

 皆さんは大体、神社のお願いでもなんでもそうですけど、神さまに雇っていただく、もしくは神さまを召使のようにこき使うという感覚ですね。これだけのお賽銭を出すから、この願いを叶えてくれとか、どの宗教団体もそうですけど、(お布施がたらないから願いがかなわないとか)あるじゃないですか。その感覚があるうちは、真祈りになってないので、因縁因果の世界で出したお金の分のことは効果あるけども、後でその分をお返ししないといけないという因縁因果の繰り返しになるだけです。だから一時的に病気が治ってもまたぶり返すとか、今生は治っても来世はまた大変な病気で苦しむとかですね、その因縁因果を越えられないわけです。

 因縁因果を超えようと思うと、神さまのお手伝いをしたいと思えば損得を超えますから、スッと真祈りに入っていける。それを「印可書」は比較的その辺が、強く神さまのお手伝いって願わなくても効果があるので「印可書」と言ってますけど、「印可書」も同じです。神さまのお手伝いしたいとまず願って。それで、ただ、神さまのお手伝いをしたいと願っても何をしたらお手伝いになるの?っていうのがみんなあるじゃないですか。でも先生は「印可書」を読んだら必ず神さまのお手伝いになるよって決めていってくださったから、「印可書」が楽なんです。

 「宇宙神ありがとうございます」の時は本当に神さまのお手伝いをして、自分が本当に願って「宇宙神ありがとうございます」を祈らないと駄目なんです。なぜかと言うと「宇宙神」をみんな小さく受け止めるから。「ありがとうございます」を小さく受け止めるからです。先生がなんぼ口を酸っぱくしてですね、「ありがとうございますは悟りそのもの」「ありがとうございますは真(まこと)の神さまそのもの」、結果なんだっていうのが、みんな受け取れないの。

 これ、なぜかと言うと、宗教団体がそうなんですけども、手段が目的に入れ替わっていくんですよ。わかります?本来、宗教というのは悟るため、神さまの御心と一つになって立派な人間になるためにするんじゃないですか。だからそのために宗教に入るんですよね。大体、真面目な人はね。でも、入ったら今度は宗教の方で、これをしなさい、お金を出しなさい、色々ありますわね、色んな宗教によってね。これをしなさいとなるわけです。この「しなさい」が手段なわけですよ、本来は悟るための。それが途中で目的に入れ替わっていくの。

 それで、なんでみんな目的に入れ替えるかと言うと、目的にしておいたら自分が楽だから。わかります?要するに、「お金を出すことで悟れるんだ」とかね。「この奉仕をすることによって悟れるんだ」「この奉仕をするから立派なんだ」って手段が目的になっていくわけです。そうなると、今までの「虚の世界の宗教団体」って僕は表現してますけども、虚の世界の宗教団体になって。すると悟る人が出て来ないんですね。色んな宗教団体があるけど、悟ったっていう人がまず出て来ないっていうのはそのせいです。

 村人も一緒で。奉仕作業が手段であって目的ではないわけです。でも奉仕作業が目的になって、奉仕作業をしてるから悟れるとかね、良い事があるっていうふうに変わっていくわけですよ。それではいくら何をしたって一緒なの。ここは口を酸っぱくして宗教団体ではないと言ってますけども、それは手段と目的が入れ替わらないようにお願いしたいからです。

 だから、みなさんね、「印可書」奉読はその手段ですけども、比較的、目的と一致するんですよ。先生がそういうふうに決めてくださったからね。だから神さまのお手伝いとして「印可書」奉読していただくのが一番楽ですよとは言ってますけども。もちろん何をされても自由です。

 「印可書」奉読が苦手な人は、「護摩木作りに参加しろ、護摩木を書くことに参加しろ、それも神さまのお手伝いにする。」「真祈りにする。」って先生が宣言していってくださったから、それは楽で良いですよってことで。あるいは護摩木を作るお金をちょっと入れろとかね。それは良いんですけども。それ以外のことでやる時は、本当に目的と手段が入れ違わないように。

 只々、別に、この山の、村の作業だけではないんです。皆さんの普段の会社のお仕事もそうなんです。すべて神さまへのご奉仕なんですよ、本当は。ご奉仕だけども、まあ苦労したやろうから、これだけお給料あげようと思って会社から頂いてるだけだから。お給料が多い少ないで文句を言っては本当はいけないんだけどね。まあ、あんまりそんなことを言うとキリが無いんで。何をするにしても神さまのお手伝いだと思ってすれば、それは真祈りになっていくんですよということだけはわかっていてください。

 だから「私、こんな仕事しかしてないのに…」じゃなくて、その仕事を通して神さまのお手伝いになってるんだということはわかってください。ありがとうございます

質問5
 粘土について質問します。食べられる粘土の種類は、どんなものでしょうか?焼き物に使う様な上質な粘土でなくても、田んぼの土で大丈夫ですか?食べ方についても教えて下さい。みそ汁に溶かす、炒めるなどを考えていますが、もっと美味しさを引き出す食べ方はあるでしょうか?又、土の中の土壌菌を生かす食べ方の方が良いでしょうか?

河上さん
 その粘土を食べなくてはいけない状態に持っていかないように護摩があり、真祈りがありますので。その非常事態にならないことが一番の願いですけど。先生からお聞きしていることは珪藻土(けいそうど)です。これは九州で良く出るんですけど、別にどこでも珪藻土の土というのは出ますから。それを食べて頂いたら大丈夫です。

 あまり熱を加えずそのまま食べて頂くのが良い。それと地表付近ではなくて深いところにあるやつが大事。これは、なんというか、地中にある菌というのは神さまの響きを良く受けていますのでね。あんまり録音に言うのもあれなんですけども、本当に昔、すごい貧乏の頃はね、腐りかけたハムがあると、どうしたかというと土の中に埋めるんですよ。土の中に一日か二日埋めてから出して来て食べると、お腹あたらないの。あんまり録音で言って真似しないでね。本当に非常事態以外は真似しないように。それくらい土壌菌というのは凄いんですよ。だから動物の遺体とかね、埋めても綺麗に分解して腐らない。腐るというか、あまり腐敗しないでしょう?それは、その土壌菌のお陰なんですね。真似しないように。

司会者
 はい、ありがとうございます。

質問6
 私は生涯を通じて印可書を奉読するつもりです。ところで私は、真(まこと)の自分の16項目の一番最後の「無条件の幸せ・喜び・安らぎで一杯の自分」のところが好きで、この部分だけを唱えることもあります。ここを繰り返し唱えることも真祈りであると考えてよろしいでしょうか?

河上さん
 はい、その通りです。ただいつも言うようにギブアドテイクでね、これを読んでるから何とかしてくれって言うたら、どれを使ってもダメです。神さまは、完全な愛ですから肉体側の意識では損得で文句が言いたくなる内容でも一番いいようにされてるのは間違いない。ただ一番いいようにされてるというのがわかるためには、自分のできる精一杯を常に尽くすことです。何もせずに寝転がっててね、一番いいようにしてるって言うたら餓死するだけですから勘違しなようにお願いします。ありがとうございます

質問7
 いつだったか、しばらく以前に河上さんのお話の中で、ここでの護摩焚きがもしなくなったら、今回は地球のみならず、物質的宇宙全てがなくなるようなことを確かおっしゃっていたように記憶しているのですが、再度確認しますが、その情報は本当ですか?

河上さん
 本当です。これは別に僕が言ったことではなくて、五井先生が言われたこと。五井先生が、みんなが世界平和の祈りというのがあったんですけども、最後「五井先生ありがとうございます」までがワンセットの世界平和の祈りっていうのがあったわけですね。その祈りを会員さんが真剣にしないの。しない時に五井先生が会員さんに対して、すごく怒られたんですね。「地球が滅びるだけじゃないんだ、この虚の世界の全宇宙が消えるんだよ」って言うて怒られたんですけど、本当その通りで。今は、その世界平和の祈りが、この「印可書」とご護摩に移ってますから、同じことです。この虚の世界全部が消えます。だから、いわゆる宇宙人さんもできるだけ応援しようとなんて言うんですか、下支(したささえ)に入っていただいています。

 基本的には、いつも言いますように相手の自由意志を縛らないというのが絶対条件ですから、宇宙人さんの方から、こうだああだというのはないわけです。だから宇宙人の存在を感じれないだけで、地底人の存在もずっと(人間世界を)支えてくださってるのは間違いないです。ありがとうございます

司会者
 はい、ありがとうございます 質問は以上です。会場の方で質問ある方おられますか?(質問が)ないようなので、よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます ともかくね、ここは宗教団体ではないので、それだけは皆さん勘違いしないでください。

 宗教団体というのは何かというと誰か一人を祭り上げて、ここで言うと松下先生の心がわかる人とか言うて、その人を中心にどうこうしようというのが宗教団体です。虚の世界のね。松下先生が亡くなられた時に僕ちゃんと説明したはずです。皆さんの中にお一人お一人に松下先生が立っていただいたからそれを自覚していただいたらいいだけなんです、目的はそれだけですよということは、お話したはずです。

 だから、宗教団体じゃないから皆さんお一人お一人が松下先生として働かれる。要するに真祈り人として働かれることが目的です。その手段として「印可書」奉読とかありますけども、今も言ったように宗教団体だとその手段が目的に変わってね、「印可書」さえ奉読してたらいいんだ。あるいは「宇宙神ありがとうございます」って言い続けてたらいいんだっていうふうに手段と目的が入れ替わるわけですけど、それは宗教団体であって、ここは宗教団体じゃないので手段と目的を入れ替わりません。

 「宇宙神ありがとうございます」って、真祈りする時は、宇宙神を大きく、ありがとうございますは真(まこと)の神さまそのものって受け取り直さなくちゃいけないんですよ。ところが、その人間というのは自分の口から出した言葉しか受け取れないのね。だから、いわゆる風俗習慣の違う外国に行ってね、これが食べ物だって言われても、「え!こんなん食べていい?」みたいな感じに、食べ物で言うたらあるじゃないですか。これが、例えば、ご飯という言霊で、ご飯だって思うから食べれるので、いつも言いますけど、うじ虫の塊や言うたら食べれないでしょう。それくらい言葉から出したものが食べれるわけです。受け取れるわけですよ。

 それで「印可書」が何がすごいかというと先生が「印可書」に真(まこと)の神さまそのものの言霊を全部を入れてくださったわけです、わかりやすく。だから、真(まこと)の神さまの言霊を口から出すから真(まこと)の神さまの全てを受け取れるわけです。

 「宇宙神ありがとうございます」も先生は、まず最初はありがとうございますでしたけど、ありがとうございますの十文字は悟りそのもの。真(まこと)の神さまそのもの。それも結果そのものだってね。ありがとうございますと唱えて悟るんじゃないんだよ。何度もおっしゃってるわけですよ。でも未だにね「宇宙神ありがとうございます」唱えて悟る。ありがとうございます唱えて続けて悟るから抜け出せないのね。だから「印可書」が出たわけです。ただただそれだけです。

 だから、私たちは「宇宙神ありがとうございます」って聞いてる(と主張される)方はね、もう6年も経ったんだからなんで心境が変わらないのって言うと怒られるからもう言いませんけどね。それはなぜかというと先月、滝で説明しましたけどね。神さまからは、滝としてたくさん流れてきてるわけですよ。でも自分の出した手の分しか水を受け取れないでしょう。それと一緒で自分の口から出した言葉しか受け取れないの人間はね。だから「印可書」で真(まこと)の神さまを口から出したら、自然に受け取れるから楽なんです。ただただそれだけなんですよ。

 だから、先生は亡くなられてからも亡くなられる前もずーっとですけど、皆さんに均等に平等に真祈りを伝授されていったんですよ。滝の水のようにね。でもみんな口から出す言葉が小さいから一部しか受け取れてないの。それでもなんか受け取れてすっきりするから皆さんここに集まってくださってるわけですけども。その全てを受け取ってください。誰か、誰かだけに真祈りを伝授したんと違うの。全員にしてるの。それを素直に「ハイ」って受け取れたら、ここに立ってる、こういう状態になるだけで「ハイ」って、みんな受け取らないのね。自分の都合だけ受け取るの。その分だけ歪になってるだけでね。

 今、素直に「ハイ」って受け取れたらいいの。その素直に入って受け取れる一番楽な方法が「印可書」奉読ですよということでお願いしてるだけで。もちろん「宇宙神ありがとございます」が真(まこと)の神さまそのものってね。そう唱えることが真(まこと)の神さまのお手伝いになると信じ切ってやっていただいたら、もちろん「宇宙神ありがとうございます」でも大丈夫です。ただなかなか「宇宙神ありがとうございます」が真(まこと)の神さまっていかないので、「印可書」。

 もう先生にお願いして作っていただいたんですけどね。本当ことを言うとね。もうみんなが、いくら「ありがとうございます」が悟りそのものって言うても、みんな全然受け取ってくれないし、聞いてもくれないじゃないですかって泣き言を言ったのは僕です。それで「印可書」を作っていただきました。

 最初の「印可書」は、すごい大おまえけ付きで作っていただいたんですけど受け取ってもらえないので、先生はやっぱり「印可書」では無理だからということで「宇宙神ありがとうございます」を出してくださいました。でもまたうまくいかなかったので、色々ありましたけど結局今の「印可書」になりました。その時、本当に本物が現れたって喜んでくださったんですけども、誰も気付かないまま、今ここに来てますけど。

 後どれを選ぼうと皆さんの自由意志ですから構わないんですけども、一番わかっていただきたいことは、ここは宗教団体ではないんです。だから、目的と手段が入れ違わないように皆さんお一人お一人が松下先生として真祈り人として働かれるということだけはわかっていてください。

 先生は、先生に縁のあった人全てに真祈りを伝授していってくださったんです。それは、今でも有効です。でも受け取るのは皆さんの自由なんだって、そこだけです。

 先生亡くなられて6年も経つからもう手遅れじゃないんですよ。未だに先生は皆さんに真祈りの伝授をし続けてるの。でも、みんな受け取り切れないんよ。

 滝にちょっと手出して、「やー冷たいわ」っていうみたいな感じかなぁ、僕が言うと。

 その自分の都合は関係なしに「印可書」を口に出してね、全てを素直に「ハイ」って受け取ってください。そしたらもう全部すーっといきますから、ただそれだけだと手応えなくて不安だから護摩という形を通しています。だから、どうしても自信ない時は護摩木を書き、護摩木を作り、ここへ燃やしに来てください。それで大丈夫ですからありがとうございます

 また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

司会者
 はい、どうも河上さんありがとうございます

 3月の護摩焚きに集まった護摩木の枚数は9万1477枚でした。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/jxFudjpw6co

 宇宙神ありがとうございます

じょうし


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3月光の交流会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年03月04日(月) 20時06分
PC

令和6年3月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年3月光の交流会

 2月の護摩焚きの時に森本さんが、「印可書について2 神さまからの大きいプレゼント(平成26年8月3日護摩焚き当日)」のCDを作っていただいた先生のお話(所々カットして時間が短くなっています)を聴いていただきました。

 真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を皆さん受け取られたと思いますけども、神さまの大きいプレゼントで0す。

 真(まこと)の神さまの世界は、一大循環の大調和の世界。一切のマイナスのない世界。ところが思いを溜め続けると思いの霧が立ち込めて、本当のすがたが見えなくなってしまう。それでマイナスがあるかのように錯覚する世界が虚の世界。

 まず、この虚の世界がなぜ生まれたか?真(まこと)の神さまの働きは、すべてに対して、本当に必要なものを的確に与え尽す愛の働きだけですね。大きく大きく、愛を与え続けるだけ。一番大きく与える立場から、本当の一点にまで与え尽してくる。ところが、無限大から無限小へ降りる時に一番小さいところに来ると与え方が小さくなる。大きく与える立場に立ってる時は良かったんだけど、同じ神さまと共に与え続けていても、下へ降りるほど、小さくなるほど与え続けるのを忘れてしまう。その時に残像を掴んでしまう。

 真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分って、本当の本心の自分は、真(まこと)の神さまと同じように与え続ける自分。それも、大きく大きく与え続ける自分。この本当の自分の生き方を一瞬でも忘れた時に過去の残像の中に、はまり込んでしまう。そしたら過去の残像っていう思いの世界が本当にあるのか?本当は無い。与え続けるのを忘れた一瞬の姿。虚の世界は本当は無い。マイナスの世界は一切無い本当は。思いの霧が立ち込めた、本当は思いの霧も本当は無いの。

 真(まこと)の神さまを与え続けることを忘れただけの話。本当に無いものをあるかのように錯覚するのが虚、嘘なの。与え続けることを忘れた自分は思いの奴隷になってしまう。思いの霧の中にどっぷりつかってしまったような錯覚を起こす。それで、この虚の世界があるように思う。マイナスが一杯の地獄絵図まであるように錯覚する。

 でも本心の自分に戻ったら、無かったことに気付く。元々どこにも虚の世界は無い。本当は思いも無い。真(まこと)の神さまの本当の輝きだけがある。これを本当の意味でみんなにわからせようとしてくる神さまは。

 真祈りを伝授する。真祈りというのは、真(まこと)の神さまの祈り、真(まこと)の神さまの働き。本当に必要なものを的確に与え尽す、愛の働きそのもの。だから真(まこと)の神さまが降り立ってるすがたなの。

 今ここに真(まこと)の神さまだけっていう、この見方が真祈り。だから常に真(まこと)の神さまに降り立ってもらうこと、これが真祈りを祈る本心の自分に戻ること。そのために何が必要かってなる。いったん思いがある、虚があると錯覚した自分がどうしたら元に戻れるか?もう一度、本来の与え続ける自分に戻ればいい。これが恩返し。

 一番末端に降り立った時に、与えるのを忘れる。結局恩返しを忘れたことになる。恩返しを忘れなかったら循環が止まらない。掴んで、残像、思いを溜め続けることは絶対にない。恩返しさえ忘れなかったらよかった。それをもう一回、恩返しを思い出して実行する。

 虚の世界でも、残像の世界でも、真(まこと)の神さまの素晴らしさが一部映ってる。どれだけ霧が立ち込めても、明るさ、光は届いてる。プラスがないんじゃない。本当の漆黒の闇のような真っ暗闇じゃない。どれだけ霧が深く立ち込めてもそうよ。本当に身動き一つ出来ない、手かせ足かせで、本当にがんじ絡めに縛られたような漆黒の闇じゃない。

 だからプラスを数え始めたら、無限にある。虚の世界に堕ちているから、何も与えてもらってないんじゃない。虚の世界でも、無限の無限のプラスが、一杯降り注いでる。それをプラスを数えあげたら無限に一杯。そしたら恩返しの心を起こせるはず。

 神さまは無償で全てを与え尽してくれてる。本当に必要なものは、与え続けてくれてる、虚の世界においてもこの世でもそうよ。何が必要か?太陽が必要だったら、太陽を与えてくれている。空気が必要だったら、空気を与えてくれてる。水が必要だったら水を与えてくれてる。本当に必要なものは、的確に循環させて与え続けてくれてる。これは真(まこと)の神さまの世界の、真実の世界の残像でも映しでも、ちゃんとそこに素晴らしいものが一杯備わっている。

 だから、どれだけ神さまからのプレゼントが降り注いでいるか、これに気付くことよ。プラスを数え上げること。そしたら恩返しの気持ちが自然に起こる。万分の一でも、億分の一でもいい、恩返しの心を起こしたら循環が始まる。恩返しを忘れたら循環を止めてしまう。それが一番の大きい問題になる。溜まっていくっていうのは、循環を止めたからよ。ちょっと恩返しを起こすだけで、恩返しの気持ちを起こすだけで循環が始まる。どんなマイナスの運命でも、運命が開ける。本当に必要なものが次から次へと奇蹟的に循環してくる。

 まず第一番目は恩返しの心を恩返しに生きること。次に神さまのお手伝いに生きる、神さまに使ってもらうこと。神さまに降り立ってもらうこと。そのためには、自分の命を「この命を神さまの御用にお使い下さい」(無条件でハイと従う為です。神書P630より)とひたすら祈ること。

 真(まこと)の神さまは人の自由を絶対に縛ってこない。強制的に、奴隷のように扱ってこない。人の自由意志を最高に尊重して使ってくれる。だから「この命を神さまの御用にお使い下さい」真剣に、ひたすら祈り続けること。そしたら真(まこと)の神さまが自分の中に降り立って下さる。そしたらどうなるか?

 真(まこと)の神さまは無色透明の輝きよ。この輝きという言葉は、光と光源の進軍。雄々しく突き進む、進軍と軍隊の突き進む姿と同じ。大きい光源が天照大御神さまの入れ子構造の大きい光源が、無限のスピードで進軍する。光が大きく流れる。本当の無色透明の輝きとなって降り注ぐ。そしたらどんな思いでも、どんな我でも、どんなマイナスも一瞬に消える。どれだけ濃い霧が立ち込めても、すーっと消える。そしたらマイナスが無かったとすぐに気付く。視界がさーっと開ける。

 本当に虚の世界がある、マイナスがあるというのは本当の錯覚よ。霧が晴れたらプラスだけってよくわかる。だから思いをどれだけ消してもらえるか?思いを消す力は、真(まこと)の神さまにしかない。虚の世界のどんな神仏も、思いを消すわけにはいかない。虚の世界の姿ではダメなの。真(まこと)の神さまが降り立ってくれたら、虚の世界の思いが消える。

 そのために、「この命を神さまの御用にお使い下さい」って投げ出す。そして神さまが降り立って自分の中を通り抜けてくれる。そしたら過去の無限の思いも我もすーっと消える。だから本気に、本気になって、この命を投げ出せばすぐに変わる。ところが思いが一杯溜まっていると投げ出せない。そしたらどうしたらいいか?

 思いを消して欲しいという人が、本心の自分に戻りたいという人が、支え合って相乗効果を起こすと神さまが降り立てる。この護摩焚きもそうよ。大きい相乗効果を起こすために、護摩焚きを行っている。一人一人のお祈りだけでは、なかなかまだ真祈りが祈れない。「この命を神さまの御用にお使い下さい」って、いつもひたすら祈り続けることもできない。それを大きくカバーしてもらうために、お祈りの相乗効果を起こすようにしているわけ。だから一人で祈るお祈りじゃ力がない。何億年、自分一人で祈り続けても大したことは無い。だからこの百年、祈り続けても大きい変化は起こらない。本当に思いを全部消せるか?消せない。

 真祈りって言うのは、言葉だけじゃない。本当に真(まこと)の神さまが降り立ってくれないと真祈りにならない。そしたら、真祈りは神さまの降り立つすがた、支えるすがただから、普通の祈りを真祈りに変えるためには、一日24時間祈り言葉を唱え続ける、この自分を大きく支えてくれるすがたが出てこないとダメ。これが24時間+αの祈り。+αがどれだけ加わるか。これによって決まる。この+αとは何か?

 自分は24時間ひたすら祈り続ける、これを目指せる、でも小さい。まだ真(まこと)の神さまを、呼んで降り立ってもらうところまでいかない。そしたらこの+αがどれだけ大きく加わるかによって決まる。

 まず肉体人間を背後で守護霊さん、守護神さん、守護の神霊が大勢護っている。御先祖様も護ってくれている。救済の神々さまも一杯護ってくれている。その支えを受けてお祈りをしている自分になるかどうか?

 自分一人で祈るのでは支えを受けていない。背後の全ての護りを本当の支えとして受け取らないとダメ、しっかりと認めないと。守護霊さんだけの護りでもそうよ。守護霊さんを無視していたら助けを受けられない。いつも守護霊さん「ありがとうございます」と感謝する人、認めてる人は大きく助けてもらえる。だから背後から大きく助けてくれてる、支えてくれてる全てに対して、感謝し続けないとダメ。

 そしたら虚の世界でも+αが大きく増えてくる。そしたらその+αが真(まこと)の神さまを呼んでくれる。真(まこと)の神さまの働きが本当の意味で加わった時が本当の+α。この時のお祈りは真祈りに変わる。真(まこと)の神さまが降り立つ祈り。そしたら思いは絶対出ない。片っ端から消していける。そしたら思いの霧はすぐに晴れる。

 今、ここが一大循環の神さまの世界ってわかる、実観する。だから、この真剣さがいる。24時間祈り続ける真剣さがいる。それにプラスして、本当の支えてくれてるという、この力をしっかりと認めること。そしたら、真祈りの練習も本物になる。これ一番大事なこと。

 次に護摩焚きも同じ。真祈りを沢山集めて総結集して相乗効果を起こす。そのための護摩焚き。その時に自分がお客さんとして小さく入ったらダメ。総責任者になること。護摩焚きの総責任者。すべての祈りを総結集する、総責任者になること。

 元々本心の自分は、一切の責任を自己に帰す総責任者よ。なぜ総責任者が大事か?みんなの支えが良くわかるのよ。自分一人の時は周りの支えが何もわからない。自分が本当に総責任者になった時は、自分一人では何もできない。でも周りの全てに助けられて、一つのことが出来るようになる。どれだけ助けてもらってるか、支えてもらってるか、これに気付く。総責任者の立場に立った時にそうなの。浅い意味でも、深い意味でもそう。そしたら真(まこと)の神さまの本当の支えが、本当の意味で降り注ぐのに気付く。そしたら真祈りに変わる。常に真(まこと)の神さまが自分の中に降り立つの。

 一人ひとりではダメなの。みんなで力を合わせないとダメ。支え合いにならないと、真(まこと)の神さまの働きは小さくしか降りない。支え合いの姿をとった時に、本当の意味で、大きく真(まこと)の神さまが降り立って下さる。そしたらどれだけ思いが消えるか、大奇跡が起こるか。想像を超えている。

 今の地球だけを見ても、解決不可能な問題が山積み。どうしたら解決するか?考えたら考えるだけ絶望感に陥る。どの問題一つ取ってもそうよ。でも、この思いを消してもらったら全部消えてしまう。思いを全部消してもらったら一切の問題、全て消えて無くなる。解決不可能と見える全ての問題、瞬間に消えるの。そのために、思いを消してもらう運動を起こしている。真(まこと)の神さまに降り立ってもらうことだけを唯一無二の目的にして、みんなで支え合って運動をしている。

 この支えるというのは一番力が要る、縁の下の力持ちっていう。下から全部を支えるって一番力が必要なの。真(まこと)の神さまの助けは必要なだけが降りてくる。自分が上の方にいたら必要な力ってほとんど要らない。一番下から全体を支えようとすると大きい力が必要となる。無限の力が必要になる。そしたら真(まこと)の神さまの支えが出てくる。必ず自分の中に真(まこと)の神さまが降り立って助けてくれる。これを自分の自由意志で選ばないとダメなの。待っていても降りない。

 だから、自分を一番責任の重い立場へ置くこと。今の自分では何もできない。でも全体を支えたい、みんなを支えたい、この立場に置けば、必ず真(まこと)の神さまが力を添えて出てくる。でも自分が自由意志で選ばなかったら永遠に降りない神さまは。これは、もう本心の自分を生きようとしていないとダメなの。思いの自分ではダメなの。

 本心の自分を生きる、総責任者の自分を生きる。ここへ真(まこと)の神さまは、無限の無限の後押し、応援をして下さる。そういう人が沢山になれば、本当の支え合いの姿を取るの。一番真(まこと)の神さまが降り立ちやすい。常に降り立って思いを消せる。

 一人の人が本当に真祈りを祈れて、そこに真(まこと)の神さまが降り立って下さる。どれだけ大きい力かわからない、無限の力が降りる。でも真祈りでなかったら、何万人祈ろうが思いを消せない。消す力がない。浅い祈りだったら一万人集まっても力がない。思いを消すわけにはいかない。いくらプラスの言葉を使ってもプラスの思いを溜めるだけ。思いが増え続ける。いくら白い綺麗な霧だ、煙だと言ってもダメ。厚くなったら黒雲に変化する。

 だから、真祈りを本当に祈れるまでにならないとダメ、数じゃない、質が大事。真(まこと)の神さまに降り立ってもらえる祈りが必要なの。だから支え合いが必要なの、絶対支え合いがないと降りない神さまはね。自分が表に立って、上に立つようでは絶対降りない。

 本当の支え合いの中にだけ、真(まこと)の神さまは降り立って下さる。この支え合いがどれだけ大勢の人の輪になっていくかよ。自分一人くらい抜けていいのと違う。自分一人だけでもっていう総責任者の気持ちが大事なの、必要なの。今の自分に何の力が無くてもいいの、「神さまの御用に使ってほしい」、この気持ちが大事なの。

 絶対奉仕というのは自分が消えないとダメなの。神さまだけの働きに変わらないと絶対奉仕にならない。だから恩返しに生きて、絶対奉仕に生きて、神さまだけを前面に出さないといけない。

 恩返しでも、恩返しの恩って、因(もと)の心と書く。いん、原因の因(いん)。一番元の心、本源の心。恩返しは、真(まこと)の神さまにまで届かなかったら恩返しじゃない。本当の恩返しは、真(まこと)の神さまにまで届けた時に恩返しになる。途中で止まったのは、全部恩返しじゃないの。みんな浅く見ていると間違う。この世の人に、色々と助けてもらった、その恩返し。これは恩返しにはならない。真(まこと)の神さまを完全に無視してる。どんな恩返しも、真(まこと)の神さまへ届けないとダメ。そしたら、真(まこと)の恩返し。本当の意味の正しい循環が始まる、起こる。

 絶対奉仕もそう。自分が、人がしている奉仕は絶対奉仕に絶対ならない。神さまに使ってもらう、神さまが自分を通して働くだけっていう、100%神さまの働きだけが絶対奉仕。この時に、真(まこと)の神さまが本当に降り立って下さるから思いも消える、我も消える、プラスだけになる。

 もう一つは全託。なぜ全託が必要か?神さまは全てを先を見通せる。思いの心では、絶対先が見えない、読めない。そしたら途中で方向が間違う。神さまの導きの方が先を読んでるから、どこを通ったら最短コースってわかる。でも人の方は先が見えないだけに順番がわからない。迷路のような通路を通り抜けようと思ったら、全体を上から見通して、迷路が全部わかる人でないと出来ない。グルグルと同じところを回るかもしれない。今、自分が右に行って正しいと思う。神さまの方は、自由自在に一番最短コースを選んで導こうとする。

 でも、思いが、我が勝ってると、それに従えなくなる。マイナスに見える方へは行かない。そこから逃げようとする。表面マイナスに見える方が最短コースかもしれない。そこをすり抜けたら、ゴールに早く近付く。プラスの方へ行ったら遠ざかってるかもしれない。ゴールからは遥かに遠ざかってるだけかもしれない。だから遠ざかったら、ますますマイナスの世界に入っていく。

 全託というのは、神さまの本当の愛を信じないとダメ。神さまが絶対の愛、完璧な智恵で護り、導いてくださっている。何から何まで全て、一から無限まで全て、100%全て。本当の神さまの愛の働きだけがあるんだっていうふうに信じないとダメ。これ本当の意味で信じ切ったら全託よ。何が起こっても心を動かさず、プラスだけ、プラスだけに。

 今日のプリントの中に十界っていう、虚の世界を大きく分けて十の階層、十界に分けている。そこで、真(まこと)の真(まこと)の十界と、真(まこと)の十界と、単なる十界と、ミニ十界と4つに分けてる。ここで本心の自分の生きる生き方としては、この十界をどう捉えるか?バラバラに見ているのは思いの見方。この十界全体を自分そのものと見ないとダメ。

 本心の自分はもっと大きい。虚の世界の十界どころじゃない。本心の自分は無限に無限に大きい。虚の世界の全てを自分の残像として見るの、過去の残像としてね。そこへ真(まこと)の神さまの降り立つすがたを捉えないといけない。それも本当の意味で、真(まこと)の神さまと自分とを一対一の関係に置くこと。これが信仰の極意。虚の世界から抜け出すための唯一の極意よ。

 十界をバラバラに見て、どこかに自分を置いているようだったら虚の世界から絶対に抜け出せない、永遠に抜け出せない。十界を自分そのものとして捉える全体を。そしたら、過去に自分がどういう言葉を使い、どういう思いを発して、どういう行いをしてきたか?この十界の中に全部含まれている。まだ全部消し切れていない、地獄絵図がある。

 そこへ真(まこと)の神さまが降り立って、半分ずつ振り替えて消し続けて下さっている、減らし続けてくれている。それを大きく助けてもらってるっていう、大きいプラスに受け直さないとダメ。本心の自分は全体を自分として、大きいマイナスを半分消し続けてもらってる。思いを消し続けてもらってる、こういう受け方をする。これが本心の自分の受け方よ。

 そしたら思いが、すーっと消えていく。半分ずつ消し続けてもらったら、どんどん減る。新たに新たに半分ずつ取ってもらって、どんどん減っていく。思いのない自分にすぐに戻れる。

 でもこれをバラバラに見て、今「自分は菩薩だ」偉そうに言っていてもダメ。地獄や餓飢道の思いは消えない。自分が消せるかって消せない。全部自分を縛ってくる。どれだけ菩薩になって、仏になって立派になったと言っても出来ない。地獄、餓飢道、全部救えない。そしたら全部自分のマイナスよ。そこに縛り付けられる。

 だから十界全部を自分の姿として、受け直さないとダメ、大きく。そこへ真(まこと)の神さまに降り立ってもらう。本当は常に降り立ってくださっている、真(まこと)の神さまは。思いを消し続けて下さっている。元から消し続けて下さっている。それをしっかりと認めること。そして喜び続けたら全部消える。

 今度は与える側に変われる。十界を消す側の立場に立てる。真祈りを祈り続けて、無色透明の光を与え続けて、全ての思いを半分ずつ振り替えて取り続けて、大きい神さまのバックアップで、大きい力をもらって消し続ける。こういう立場に立ったら、本当の意味で、真(まこと)の神さまの本当の支えがわかる。どれだけ大きく支え続けてもらっているか気付く。そしたら本心側に戻る。そこからが本当の悟りへの道なの。

 虚の世界から抜けて、本心の世界に戻った、これはまだ違う。本心の自分に戻ってからが、真(まこと)の悟りへの道が始まる。真祈りの秘奥義っていうのは、「絶対の中心から、真(まこと)の神さまを、すべてのすべてへ与え続ける立場よ。」大きい、一番大きい立場。そこへ戻るためには、どこまでもどこまでも大きい自分に戻らないとダメなの。これが本当の悟りのすがた。

 本心の側に立った、これはまだ出発点。その後、真(まこと)の神さまの助けが必要になる。大きい自分に戻っていくために。そしたらどうしたら、真(まこと)の神さまの助けを受け続けられるか?ここで真(まこと)の神さまへの本当の弟子入りが必要になる。

 真(まこと)の師匠、真(まこと)の神さま、ただひとり。他のものは本当の師匠じゃない。真(まこと)の神さまだけが本当の師匠。そしたら真(まこと)の神さまへの弟子入りはどうしたら出来るか?本心の自分の全てを捧げ尽くさないとダメ。本当の弟子入りは、自分の全てを捧げ尽くして、本当の意味で恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きること。そしたら弟子入りが許される。本当の弟子になったら、師匠の真(まこと)の神さまは護り続ける責任が生まれる。どんなことがあっても護り続ける、これが必要なの。自分で修業して上がって来なさいじゃないの。本心の世界の昇り方は違う。神さまが助け続けて心境を上げるの。そして、実観を与えてくる。

 本当は出発点から見たら、無限の段階の難関を突破していかないとダメ。色んなテストがある、厳しいテストが。それを乗り越えるために、真(まこと)の神さまの護りと導きが必要になる。1段階上がるだけでも大変なの。これを真(まこと)の神さまが全部してくれる。必要な力を添えてくる。神さまの働きだけで心境を上げてくれる。順番に上げてもらうの。

 だから、この印可書は神さまからの約束よ。護ってあげるという約束、御護り。自分から願ってする、もらったものではない。神さまの方から与えてもらったもの。これを大事にする人は護り続けてもらえる。でも反対に粗末にしたらそれっきり。自分が弟子になるのを拒絶したことになる。弟子入りがどれだけ大変かわかってない。

 本当の弟子入りは、微塵も我を出せない。本当の全託はそうよ。我を出したら、全託が破れている。一瞬でも我が出て、全託が破れたら弟子でなくなってる。そのくらい厳しいものよ。だから、思いがあって、我があって、なおかつ、本心の自分を生きようとして一生懸命になっているから弟子入りを許そう。大まけにまけた神さまの愛の計らいよ。一人でも多く本心に戻したい、真祈りを祈るように変えてあげたい、何億年に一回降りるチャンス。だから、真剣に恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きること。

 本当の支え合いで、本当の力を合わせないと。自分の救われなんか考えていたらバカよ。自分は一番最後でいい。みんなを本心に戻す、真祈りを祈れるように変えてあげたい。その為に自分が縁の下の力持ちでいいのよ。みんなを支える方へ回ったら、自分が同じようにみんなからしてもらえる。必ず、自分の姿と同じ姿でしか、神さまの支えは出てこない。これ十界の全てそうなっている。自分が地獄の生き方をとっている人は、周り全部地獄よ。同じ姿をとって現れてる。でも、真(まこと)の神さまはマイナスを消し続けてる姿で出て来ている。地獄絵図がマイナスを半分取った姿で出て来ている。でも、自分の姿と合わせてくれている。違う姿だったら受け取れない、波が違うからダメなの。

 だから、自分が本当の支え合いの姿をとったら、周りの人をみんな支え合いの姿をとってくれる。必ず、自分を支える姿で出てくる、大勢が自分を支えてくれてる、それに気付く。そしたら、本当の支え合いのすがたが、真(まこと)の神さまの世界のすがたよ、そこへ近付いていける。だから、思いの心の自分と本心の心の自分の、この違いをはっきりさせる、これが一番大事。

 次に、本心の自分をしっかり生きようとすること。そしたら、神さまの教えでも、思いの心では、正反対に誤解して受けている。本心の自分が正しく受けている。思いの心は、歪めて受けるの必ず。正しくは受け取れない。必ず歪めて歪めて受ける。だから、間違った受け方をする。本心は、正しく受ける。それも、深く深く受け取れるようになる。だから、今の自分の心境に合わせたものしか本当は受け取れない。

 例えば、ありがとうございますの本当の意味は何か、16項目を挙げている。また、真(まこと)の神さま、真(まこと)の自分って、真(まこと)の自分とは何か、これも16項目挙げている。でも、心境が違ったら、全部理解の仕方も違う、受け方が違う、全部違う。自分の心境が1段上がるごとに、もう一回受け直さないとダメ。中身が全然違うように変わる。同じ受け方は絶対ない。だから、心境が大きく変化したら、中身がどんどん変化する。

 例えば、16項目、真(まこと)の自分の16項目でも、一切の責任を自己に帰す総責任者の自分、この言葉を聞いた時に、どう受けるか?思いの自分だったら多分、一切の責任、最初はみんなマイナスと思っている。一切のマイナスの責任が自分にあると思っている。本当のプラスを与える側なんて気付かない。本心の自分はマイナスを相手にしてない。本当のプラスを大きく与え続ける自分という責任。いくらこの虚の世界の思いを消すという立場に立っても、それは無限に小さい。本当のプラスを与え続ける方が大きい。この責任の方がもっと大きい。だから自分の心境に応じて受け方が全部違う。だから、どの項目を見ても同じ。常に、点検してみたらよくわかる。

 だから、神さまから降りてくる言葉、全部そうなの。思いの心で、我の心で受けるのは、全部歪めて間違えて受け取っている。本心側に立って初めて、正しくプラス側に受け取れる。でもまだ受ける方。受ける方は一通りにしか受け取れない。ここで与える側に変わらないとダメなの。本当の与える側に立った時に無限通りがわかる。一つのことを観ても、無限通りが降りてるってわかる。受ける方は、一通りにしか受けない。

 与える側に立った時に初めて、神さまの無限通りの与え方がわかる。同じものではないの。もっと奥に入ったら無限の無限通り。もう、こんなん想像を超えてる。それだけのものを神さまは、常に用意して与えよう、与えようと準備している、与え続けようとしてくる。

 今回をきっかけに、みんな求める側から本当の意味の与える側に変化する。大きく大きく、全てに、全てだけじゃない、全ての全てに真(まこと)の神さまを与え続ける。こういう生き方に変化する。本当の意味のプラスの側の総責任者になる。その為に、神さま、護り続けてあげるという約束事が降りている。

 印可書が、単なる修了証書や卒業証書だったら何の意味もない。そんなんは、虚の世界の印可書。真(まこと)の世界の印可書は反対。神さまが与え続けて、助け続けて、心境を上げて、その心境の実観を与える、それが神さまの世界の印可書。それを順番にずーっとしてくれる。どこまで神さまの愛が大きいか、深いか。本当に想像を超えている。

 だから、「真(まこと)の神さまだけ!」あまりにも大きい。虚の世界なんか相手にならない。虚の世界は、本当の無の一点にしかならない。「真(まこと)の神さまだけがすべて!」「真(まこと)のプラスしかない!」これも徹底して、真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないとダメ。マイナスの一言を使っているようでは、また巻き込まれてしまう、虚の世界に。「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」

 真(まこと)の自分の第一番目に出て来る第一項目、「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」「真祈りを祈り続ける自分」この自分が全てを支配する自分。自分の運命全部、自分の選んだ言葉通りになる。神さまからどんなプレゼントを受けるのも、自分の選んだ言葉通りにしか受け取れない。虚の世界は、言葉通りに虚の世界の錯覚を起こすだけ。だから、虚の世界なんか相手にする必要はない。

 でも、真(まこと)の神さまからのプレゼントも言葉通りにしか受け取れない。ボーっとしていたら、何も受け取れない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないとダメ。真剣に駆使して受ける。それも、言葉をどんどん大きくしていかないと。そしたら、与える側の自分にすーっと戻っていく。

 与える側が大きいプラスの言葉を駆使しているから。受ける側は、小さい受け方になっている。新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯っていう言葉を使っても、受ける側では小さい。与える側が唱えたら、無限倍大きい。同じ与え方でも、そこまで大きい変化がある。受ける側ではダメ、小さくしか受け取れない。自分の受けたものを与えたって、大したことがない。本当の意味で、真(まこと)の神さまを大きく与える側に立たないと、本当の与え方にならない。

 いつも絶対の中心から一瞬一瞬新たに、真(まこと)の神さまを与え続ける、真(まこと)のプラスを与え続ける、一大循環の相象(すがた)を与え続ける、この言葉が必要になる、大事になる。そしたら、思いの世界なんか絶対自分入っていかない。真(まこと)の神さまだけに、思いの世界なんか本当にないって、ないってわかる、断定できる。

 本当の人生の目的、真(まこと)の神さまと共に生きること。大きく与え続けること。肉体の自分の人生の目的なんかない。答えなんか出てこない。肉体がどんな生き方をしても、死んだら消えて無くなる。目的なんかある訳がない。魂も同じ。虚の世界の全てがそう。生きる目的も何も、成り立たない。本当の人生の目的は、本心の自分が真(まこと)の神さまの目的を生きること。大きく与え続ける自分になること。

 本当の意味で真祈りを祈り続けてほしい。神さまが一番願っている。本当の幸せ、無条件の幸せ、本当の意味で湧き上がる自分になってほしい。湧き上がるって循環する幸せ。全ての幸せが自分の幸せになる幸せ。循環しない幸せなんて取るに足らない。無限のスピードで循環する全ての幸せが自分の幸せという循環の幸せ。この自分に早く戻ってほしい。ひたすら神さまは願って祈っている。それに応えていくのが恩返し。

 神さまのプレゼントは降り注いでる。それを受けて本当の意味で喜ぶのが恩返し。そしたら、助けを受け続けられる。それが本心の自覚を深めていく。本当の幸せが大きく近付く。

 だから、もうこれからは、過去を言葉にしないこと、マイナスの一言を絶対に使わないこと。常に新たな大きいプラスの言葉を連発することよ、連発しないと。それが神さまのお手伝い。そしたら、必ず神さまは降り立って下さる。自分が何もしなくっていいの、神さまが降り立って下さったら全部して下さる。本当の支えが全体から出てくる。

 今日は、そういう意味で、全く正反対の生き方に大きく変えて下さる。その時期になったの。
ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/Y4icpsFFeOU

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2024/03/03(Sun) 13:24 No.3225


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2月勉強会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年02月22日(木) 11時53分
PC

令和6年2月河上さん勉強会お話し−1(20240211−1)

河上さん:昨日ちょっと火葬場の骨を捨てる場所があって、ズーっとそれが山のように塚のようになっている場所、明日も行くんですけど、ちょっと行ってきて、熱下がらないんで、今日は(服装は)このままで首も巻いたままで行きます。

 一番大事な事は、神さまは一切のマイナスをお造りにならないというそこだけです。だから何時も言うように神さまが一番良いようにしているっていうのは、一切のマイナスをお造りになってないわけですよ。でも人間の体で見たら分るけども、右手器用で左手不器用でしょう?なら,いわゆる分け隔てて考える癖が皆あるからね、それを虚栄心って言うんですけど。それで行くと右手という意識で考えたら、「左手のお前はどんくさいな」でしょ?自分の体なんだけど。もうたったそれだけなんですね。

 先生が「全ては完璧な一つ」或いは「みんな光や」とかね、仰ったように、どんなに嫌でも切っても切れないものばかりなんです。全部自分なの。全部真(まこと)の神さまなんですね。ただ真(まこと)の神さまさまから頂いた光を、みんなそれぞれ自分の色んな思いで色付けしてね、楽しむわけ。

 だから遊園地に在るじゃあないですか?わざわざお化け屋敷作って楽しむんやろう?別にわざわざお化け屋敷作らんでもエエと思うんやけど、作って楽しもうとして、又、わざわざお金を払って入りたいという人が出るんでしょう?それは楽しみに来ている訳で、「怖かったな!面白かったな!」だけじゃあないですか?それはお化けという事がマイナスじゃあないという事でしょう?みんなの意識で作って楽しんだだけ。

 まあゲームでも何でもそうなんですけどね。将棋でも運動会でも赤組白組って分けて楽しむだけであって憎い相手ではない。そこだけなんですよ。

 だから例えばこの世の普段の会社というチームだったり、学校というチームとか色々ありますけども、平均的な処理能力の低い人があるわけですよ。それは生まれついてのもんであって、わざわざそれは平均的な処理能力が低い事を選んで、要するに難しいゲームをしようとして、出て来られた方であって、その人がドン臭くってマイナスではないんですよ。

 それに気付かないとね、同じ給料を貰っているのに、あいつだけ大した仕事しょうれへん(しない)とかね、サボりやげってとか、本人に取ったら精一杯一生懸命なんですよ。でも、本人の能力から行くと平均的な処理能力が、普通の人がもし100だとしたら、70とか60しかないだけ、の事なんですよ。それは右手器用だけど、左手は上手くね、右手で器用にお箸持てるけど、左手では持てないと一緒。だからといって、お前ドン臭いから出ていけって言うようでは困るのですね。

 そういう分け隔ての意識、虚栄心って言うんだけど、その意識が積もり積もって戦争になって。で、神さまの方はそれを消すためにね、地球霊様の体で言うと、マイナスの様に汚したわけですね。汚した、或いは肩が凝る状態ですよ。人間でも肩が凝ったらこう回したり、揉んだりするじゃあないですか?そういう形で人類の作ったマイナスを揉み解して戻そうとする働きが今起こっている地震です。それのそれの軽い働きが竜巻とか台風です。

 で、神さまが台風や竜巻をお造りになったんではなくって、人間が作ったマイナスをキレイに洗濯して行く途中の過程ね。最初洗濯機の中で洗剤で洗っている状態ってドロドロじゃあないですか?最後すすいで初めて無色透明になる訳ね。そういう感じの状態なんですよ。

 でも人間というのは分け隔てて考えるから、あいつが悪いって言いたいのね。でもあいつが悪いあいつも自分なんだというのがね、分かる為の護摩なんですけどね。

 護摩というのは全ての人を一つの炎に、要するに神さまという命にして受け取り直すというので護摩をしています。で、神さまの命として一つに燃やし切ったら無色透明になってね、わずかに灰が残るじゃあないですか?そのわずかな灰がね、今の皆さんで言うと、風邪を引いた症状とかね、癌の症状とか色々ありますけど、わずかな燃えカスについて、みんな又、文句を言うのね。折角燃えカスになっているのにね。で、又、掴んでどうこう言っている繰り返しだけです。

 今生の人類は男と女に分かれていますけど、男と女が一つの時代の人類もありましたし、もっと大きい体の時の人類もありましたし、色々あるんですけど、どの形の表現を取っても上手く出来なくて、一旦、御破算(ごわさん)にされている訳ですね。

 それはノアの大洪水とかアトランティスが沈んだとか、ムーが沈んだとか色々あるじゃないですか?或いは火山で沈んじゃったとかね、それは全部そういう働きの結果です。

 まあ何回目とは言いませんけども、今回の地球人類も、もう神さまは無理だろうと。要するに疑心暗鬼ですよ。自分と他人を分け隔てた途端に、疑心暗鬼になる。相手が信じられなくなるの。相手を信じて上げて「騙されたら、騙されたで良いじゃあない」って思えない。その心が全部大きな戦争になって行くのね。

 それは神さまの御心とズレているから、神さまはキレイにキレイにされるんだけれども、基本的にみんな神さまですから、自由意志を真(まこと)の神さまは尊重されるわけですね。で、本人がどうしてもこれをしたいって言ったら、先にそれしといでって。

 小っちゃい子がそうなんですけど、遊びたいって言ったら、先ず遊ばす訳。で、お腹すいたら帰って来るじゃあないですか?それ遊ぶのあかん、先にご飯食べって言ったって、もし食べたって剣もほろろ、本当にパッパッとかき込んでろくすっぽ食べずに行っちゃう訳ね。

 だからお腹すくまで遊んどいてって、神さまは何時も待っていださっているだけです。でも何時まで経っても帰って来んとグチャグチャになっているからっていうのが、今の人類ですけどね。もう只々それだけです。

 だからマイナスを認めてどうこう言うのは、今までの宗教です。で、ここは宗教ではないですから、一切のマイナスは無いんです。認めないとかじゃあなくって、無いの。それが分からないと駄目なんですね。

 だから本当に宗教というのはね、過去で何かして来たからどうこうとか、人を虐(いじめたからどうこうとか、もうマイナスを認めてそのマイナスを下から罪だと。で、罪を解き解すのに、罪を消すのにどうこうしなくちゃあいけないとかね、ってする訳ですよ。で、護摩は、勿論大きなお清めではありますけども、マイナスを認めて護摩をしているのではないというのを先ずここに集った方は分かって下さい。

 今までの護摩は人型とか護摩木とか色々な形を使ってマイナスをそこに書き込んで、それをお清めとして燃やして、或いは水に流してとか色んな形をする訳です。それは宗教です。マイナスを認めてそれを消すというね。で、そうじゃあないんですよというのが分からないと駄目だし、ここは宗教ではないからマイナスは認めません。認めないというより無いだけ。一切の罪穢れは無いんですよ。

 これは古神道の基本的な教えで、天津祝詞(あまつのりと)にもね、「罪という罪はあらじ」って宣言されている訳ですけど、その通りで。人間の方がマイナスを、いわゆるお化け屋敷を作って楽しんでるだけにすぎません。

 それが分かったら勝っても負けても悔しいは無いの。分かります?マイナスを認めるているから負けたっていうマイナスで悔しい訳。よくゲームでも何でも負けて悔し涙を流しているけどね、あれはそこに没頭し過ぎているだけです。悔し涙を流して悪いじゃあないですよ。でも悔し涙を流すほど、そこに没頭し過ぎて抜け出せれないようでは困る。

 だから映画館で言ったらね、オカルト映画を見て怖かったわって言って、もう出てきたらそこから抜け出して、普段に戻る訳じゃあないですか?でも小っちゃい子はオカルト映画を見たら、もう今日から夜はトイレ行けないよって成るわけでしょう?抜け出せてないよね?人類が抜け出せていない人がドンドン増えて来て、今のややこしい状態になっています。

 それを神さまの方で一変にするとなったら、今回の人類はどの形で滅びるかはわかっていますけど、言えませんけど、言いませんけど、滅びます。地球霊王様がもういいって仰っているからね。

 それを松下先生が「ちょっと待ってください」っていう事でお話があって、今に来ています。で、松下先生と地球霊王様との話合いがあったのが何時かと言いますと、大阪の布施に居られる頃です。その時に話し合いがありました。

 それは僕が11才の時にお会いして、そこから5,6年、僕が二十歳前後の時だったと思います。5,6年後の話しですけど。で、そっからですよ先生は痰を詰められたり、熱を出されたり色々ありましたけども。最後は凄い状態の病気になられて、それでも先生は入院されないというのを無理やりみんなで入院させてですね、とか色々ありましたけども。どれ一つとっても、只々、人類がマイナスをあると認めて、要するにマイナスがあると認めるというのはどういう事かを言うと、自分と他人を区別したという事です。

 せめて親兄弟と思わなくっちゃあいけないんだけど、兄弟とも思えない。で、親兄弟どおしでも喧嘩している。普通親子なんだから「可愛い可愛い」しといたらええだけでしょう?でもあの子はアカンねんって言う訳。或いは家の親父はアカンねん、オカンあかんねんって言ってる訳。ね?その時点でもう戦争に加担しているのね、みんな。っていうのに気付かなくっちゃあいけないんだけども、何で気付かないんかというだけなんですけどもね。

 何で気付かないかというのは、もうハッキリしているんですよ。条件を付けるから。分かる?平均的な処理能力しかない人をドン臭い奴やって、会社でもイジメるわけね。何でかと言ったら足引っ張られるからね、業績にね。何でイジメるかと言ったら条件付けているからや。もうそれに尽きるね。要するに結果に心奪われるからや。

 神さまの愛っていうのは無条件なんです。じゃあ人類の方も無条件で受け止めなくっちゃあいけない。なのに条件付けて文句を言うからややこしくなって行く。もう只々、それだけ。

 だから悟たって何所で分かるかって言うと、一切の条件付けなくなるの。誰に対しても。だから先生は誰が来られてもニコニコされていたでしょう?お前普段こんなんしているからあかんっとは仰らないわけ。何をしていてもその人の自由意思だから条件付けずにニコニコと全てを受け入れて、只々、その人のマイナスをお清めされて、この部分はお前の担当っていう感じで、あんまり細かい事は言いませんけど、こっちの担当は担当でしてたわけですけど。

 もうその時期は過ぎて護摩にそのお清めというか、大きな働きが移っているだけですけどね。只々、それだけです。

 だから本当にね、護摩の会場に集った時はね、みんな完璧な一つなんだっていう、それをもっと強く意識して下さい。あの人遠くから来て大変やったなって思っても良いですけども、だからといってあの人と自分が別ではなくって、神さまの大きな護りを受けようとしての熱意で一つなんだ、位はせめて思って頂かないと駄目です。

 護摩の会場で虚栄心、要するに自分と他人を分け隔てているようでは困ります。全てはそこですよ。

 ここは宗教じゃあないからね、分け隔てて先輩も後輩もないし、古い人も新しい人もないし、只々、感謝と報恩に、感謝と報恩というのは愛ですけどね。一言で言ったら愛です。

 「愛と真に生きる」って先生は仰ったんですね。愛って言うとみんな理解されないから、それをもうちょっと分けて感謝と報恩って言い変えたわけですけど。その感謝と報恩って言った言葉すら、まだみんな分かってないんだけれどもね。分かってないんだけど、もう細かい事を言っていたら切り無いんで、護摩に全部纏めようという事で、護摩に纏めて進んでいます。

 毎回護摩が大成功で行っていますのでね、色々と細かいトラブルはありますけども、何とか上手く行ってますから、大きな地震にならずに持って行けると思います。

 で、今年から大変だって言ってもね、結構みんなの心が「もっと印可書を奉読しよう」とか、なんか「ウっと」こう今一行かなかったんですね。すると元旦から揺れちゃったんですけどね。揺れたからもうちょっと皆さん引き締まって真祈りして下さっていると思うんで、宜しくお願いしますね。ここ迄で質問があったらお願いします。

 今日は先にお清めしちゃったから質問出にくいと思いますけど。熱出て大変なので、終われそうだったら早く終わろうと思ってますから、先にお清めしちゃったんでごめんね。質問があっても先に消えちゃったと思いますけども。

 お清めとは何かと言ったら、一言で言ったら「全ては完璧な一つ」って「みんな光」だってする事です。だから琵琶湖がね、大きな光だとするじゃないですか。すると光じゃあないって思っているインク壺1個ポンと琵琶湖に落としたって、光に変わるでしょう?そういう感じです。要するに他人という別の物が居てるというイメージが無くなればいい。それがお清め、病気治しの基本原理なのですね。

 その部分は今言葉で説明しましたけども、ちょっと伝授の部分なので具体的にこれ以上説明のしようがないだけです。でも印可書があるんでね、印可書を奉読している内は大きなお清めの働き、お清めっていう表現がちょっと違うんだけど、一切のマイナスがない、一切のマイナスがないという表現も違うのね。「みんな光」だなんですよ。先生が最初に仰った言葉が全て。「みんな光や」って言うのが印可書の全てです。

 だから印可書を奉読して頂いたら「みんな光」やっていう事でお清めの働きになっていると思って下さい。 

 お清めって表現も僕, 嫌いなんですけどね、マイナスが無いんだから、ただ、映画館から出てきたら何時までも裕次郎の気分でいてるなよとか、何時までも幽霊が居てると思うなよ。何時までもジョーズがいてると思うなよ、みたいな感じですよね。ちょっと目覚めてよねっていう感じで印可書奉読があるという事です。

 だからほんとに宗教じゃあないからね、先輩後輩もないし、何も無いんですよ。「みんな一つなんだ」「みんな光なんだ」それだけがここの全て。それをちょっと分けて言うと「感謝と報恩に生きる」。「感謝と報恩と真(まこと)に生きる」という風にちょっとづつ言葉が分かれていくわけですけど。

それは昔先生は村人になる条件としてね、真(まこと)の神さまに弟子入りしなさい。でも弟子入りしたと思ってもすぐ破っちゃうんだと。だから一瞬一瞬新たに弟子入りしなさいって、一言で言うとそういう感じで仰った訳ですね。

 で、弟子入りって何かと言ったら、師匠に対して無条件という事です。条件付けたらそれは弟子入りではない。だから無条件の喜び、無条件の幸せでね、条件付けなかったら何でも喜べるんよ。分かる?あぁこれだけでも食べれて良かったな!でもも、付かないんだけど。

 でも条件付けたらね、こんな粗末なもんとかね、文句を言い出すの。文句を言い出したらマイナスばっかり気になって、マイナスを自分で作って余計、マイナスを作ると動きが鈍くなるの。動けなくなるの。

 だから怠ける人とかね、やる気が出ないっという人は何かと言ったら、マイナスばっかり掴んでるんよ。マイナスっていうのは止める働きだから。で、真(まこと)プラスっていうのは光の進軍ですから、喜び勇んで何でもやれるの。只、そういう説明するとね、山を全力で駆け登ろう見たいな勘違いがあるんだけど、そうじゃあなくってね、自分が出来る事を淡々と喜んでするだけです。人から何を言われてもね。

 だから平均的な処理能力が低い人は低い人なりに、その人なりに精一杯やっていたらそれが良いわけですよ。人が何を言おうとね。「なんやあいつ一日かかってこんだけしか出来へんのか?」って言われても気にしたらあかん。自分が誠心誠意真(まこと)を尽くしていたら、勿論サボっていたら駄目よ。でも自分の出来る精一杯をやっているんだったら、何を言われても気にする必要はないし、会社を首になったってね、自分の出来る精一杯をやっていたら、必ずちゃんとなるんですよ。

狡く逃げ回っているから狡い運命を自分で作っちゃうんだけどね。狡く逃げ回っていると狡い運命ばっかりになって、最後は大変になる。

 そこまで行くとタコ糸が絡まったみたいになってね、解(ほど)きようが無くなって行くんですよね。そうなるとスパッと切って解くしかないんで。スパッと切って解くと色んな痛みとか苦しみとか悲しみとかになって消えていく。
 だから皆さんが例えば悲しいな辛いな苦しいなって思うんは、みんな条件を付けた結果なの。でもその条件付けた結果を悲しい苦しい辛いという意識で消して貰っているだけです。勿論、殆ど消して貰うんだけど、最後の燃えカスが悲しい辛い苦しい痛いになるんでね、皆さんが感じている不幸というのは燃えカスのほんのわずかなもんなんですよ。殆どは神さまは絶対の愛ですから、キレイにキレイにされるの。

 でも護摩でも必ず灰は残るでしょう?あんだけの凄い量の護摩木でも灰は残る訳。それが皆さんの体で感じる痛みとか不平不満なの。それ出ても良いけどね、健康でいれて、出てもそれちゃんと神さまにお返ししてたら良い。不平不満が出ても、これだけで生きていれて、健康でいれて、或いは病気でもこんだけ動けて、喜ばなきゃあ。病気で寝込んでいても痛みが無くて良かった。或いは痛みが出ても、こんだけの痛みで済んで良かったって喜び直したら良いのです。理屈で言うとね。

 でもそれが中々出来ないから、もう何があっても印可書に立ち戻って下さいってお願いしています。ごめんやで、質問出にくいから大変やろうけど、早めにお清めしてしまいました。どうぞ。

質問:ありがとうございます お二人から質問を預かっています。一人目の方。

 ありがとうございます 母と妻は、結婚した嫁ぎ先で病気となり、肉体との別れをしています。(母は享年62歳、妻は享年48歳でした)いろいろな原因があると思いますが、例えばその家系のマイナスが多く、それを消すために若くして肉体との別れを選択することはありますか?もしそのようなことがあるようてしたら、印可書を奉読させていただくことで、少しでもお手伝いになればと思っております。よろしくお願いします。

河上さん:偉い傲慢な質問やな、一言。質問者の名前出てへんから言っとくけどね、その人の一切のマイナスを背負って二人が死んだだけ。だから印可書を奉読されてたら良い。自分と関係無いんじゃない。一切その人のせいで死んだ。

 もう甲辰(きのえたつ)やからね、本当の事をどんどん言って行かないとな、オブラートには包みません。次どうぞ。

質問:二人目の方です。

 ありがとうございます 私は自宅で、一人暮らしや同居家族が居ても支援が必要な心身に障害を持たれている方の身体や生活の支援をする仕事を20年余りしています。真理を学ばせていただき、楽しく仕事が出来ていますが、その中の1人の方が 7年程支援させて頂いていますが、どうしても喜んで支援できません。その方は自分が優位に立ちたいのか、私が知らない事や、忘れている事があるとバカにされ、ミスがあると激しく責められます。大半は「面白いやっちゃ」で通り過ごせていますが、どうしてもムラムラと怒りが込み上げ、その方に意見する事もあります。そのような時は「言い過ぎた。」と言われる事もありますが、収まりません。帰宅途中に印可書を奉納しながら車を運転しています。

この怒りは、
@相手を分けて考え自分が正しいという思い。
A相手が自分とわかっているから腹が立つ。
B印可書の新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分だけの理解ができていない。
自分で考えたのは以上3点です。アドバイスをお願いします。
 また、印可書の「新たなる下座立つ真の本心の自分だけ」の説明をお願い致します。

河上さん:優しいからね、相手の全部受け止めてはるわけや。で、受け止めたら腹立つから腹立った分を相手にぶつけてキャッチボールして遊んであげるわけね。それだけです。 

 だから結果を掴みすぎやな。結果掴んで怒ってしまったとか、腹立って収まらへんとかやけど、それは結果を掴むからでしょう?何があってもわざわざオカルト映画を作っているようなもんでね、わざわざ言い合いをするストーリーを作って楽しんだだけなんだってね。面白かったなって先ず思わないとあかんね。面白いやっちゃじゃあなくって、やっぱり面白かったなやね。

で、中々自分が気が済まん位の状態で怒らないとあかんくらいの立場で立ちにくいからね、そういう体験出来て面白かったなーやねんけどね、本当は。

 その新たなる真(まこと)の本心の自分というのは、今説明したように結果に一喜一憂しないという事。何で結果に一喜一憂しないかというと、そういうシチュエーションにね、要するに条件付けたらですよ、条件付けたら自分にとって不都合なシチュエーションに、普通はわざわざ自分で立に行かない。適当に逃げるじゃあない。不都合な事わざわざしに行けへんな?それをわざわざ立たして貰える、体験させて貰えるという事を本当は喜ばなあかん。自分から掴みに行けへんで、火中の栗を。それを掴ませて貰ったんや。で、中々体験出来へん事を体験出来たって喜べないとあかんの。

 これって難しい営業の基本的な条件やな。普通は殆どの人逃げ回る訳よ、苦手な客なんていうのは嫌やね、クレームの多い客はな。そこをわざわざ楽しみに行くんやって言ってね、上司に諭(さと)されて、お前もっと楽しんでこなアカンっていって怒られてじゃあないけど。この頃は(上司は)、怒ったら終わりやからね、諭(さと)されて上手い事言い包められて経験に行くんですよ。営業って逃げられへんからね。だけどそれは結婚してたら自分の奥さん、自分の旦那さんっていうのは最大の大得意先や。何時も何時もみんな営業しているの。だからそれを楽しまなあかんね。

 要するに条件付けんかったら楽しめんね。だけど自分というプライドとか色々あるじゃない?条件を。条件付けたら腹立ってくるね。腹立ってくるね。いや腹立ってくるんじゃあなくって腹立ってくるのが収まれへん。何時までも尾を引くね、条件を付けているから。 

 無条件、新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分というのは無条件という事やね。で、無条件やったら別に面白かったなーであって、腹は立てへん。腹を立つシチュエーションを楽しめたけども、尾は引かない。

  で、そこまでやれるとね、例えば営業でクレームの多いお客さんとこもう一辺行って来いって言われて、お客さんにぼろ糞に言われて、上手く行かなくても上司に報告したらね、上司は許してくれるね。そやけど普通は上手く言い逃れるんやな、上司に報告する時に、それで余計に怒られるんやけどな。言い逃れるっていうのはもう違うね。

 別に営業に限れへん。人生って全部そうやね。条件付けたらあかんね。無条件が全て。だから先生は何時も僕にはね「元より後ろ指指されるのは覚悟の上やろう」ってね。条件付けているから後ろ指指されるのが腹立つのやって。無条件やったら何の事も無いやろう?ってよう言われた。

 「新たなる下座に立つ」って、新たなるって条件が無いんや。条件があったら新たなると違うの。な?新たなるの意味がみんな分かってへん。で、条件付けて自分の都合のところに逃げようとする。で、逃げれば逃げるほどな、マイナスが追いかけて来る。何でかと言ったら、自分の作ったマイナスやから。泣いても笑っても。要するに自分の影や。影消そうと思ったら、ちやんと光のど真ん中に立ったら、要するに太陽の中に入ったら影は出来へんね。全部が光やから。でも逃げ回ったら何時までも自分の影が付いている訳よ。振り返ったら影があるの。それは太陽の外に出ているから。

 神さまと自分を分け隔てたら影が出来て、必ずマイナスが付きまとうね。神さまの中に入ったら、要するに印可書を奉読したら光の中に入っているから、一切の影は出来へんね。マイナスは無いの。本来はみんなマイナスの無いところにいるんやけど、それをわざわざ影遊びみたいなもんやね。影遊びして遊んでいるのが、いつや知らん間にハマっているだけ。それだけ。

質問者:ありがとうございます



令和6年2月河上さん勉強会お話し‐2(20240211−2)

河上さん:だから条件をつけたところに来るし、本当に先生はよく言われたけれども、極端に言うたらもう会社クビになってね、で、家も借家も例えば追い出されてね、住むところも何もないって言ってもね、それで後は食べるものも飲むものもないから「 餓死するしかないんだ」って言っても「 それでいいんや」と覚悟ができたらね、要するに、それは無条件っていうことです。

そこまで無条件、裸一貫、神さまだけってなったらね、いやでも食べ物を周りの人が口に放り込んでくると仰ったわけですね。それを先生はわざわざ実験しはったわけやね。無理に断食する、断食しても周りの人がいるみたいな感じでね、色々とされたわけですけれども。 その先生のされてきたことをみんな頼るばっかりやったから、なぜ先生がそうされたのかは分かってないからね。それだけや。

 だからこの世的に悪魔がおるとかな、色々あるねやん。それは宗教であって、ここは宗教ではない。 悪魔はない。マイナスはない。悪魔もマイナスも自分が作って楽しんだだけや。何のことはない。だから色々な予言があるじゃないですか。 この地球最後の日が来るとか、7の月か、7の月に天から大魔王が降ってくるとかね、色々あるやん。それマイナスを認めるやつは全部そのマイナスを作って楽しんでいるんや、みんなが。楽しんでいるはずがね、映画の中で楽しんでいるのにやね、その映画そのスクリーンを現実やと思っているね。

 で、この世はいつも言うように皆さん お一人お一人が色んなスクリーンを見ているのだけれども、それが重なっているからね、ある意味救いやし、ある意味ややこしい。だから同じ話をしても、本当にいつも言うように、同じ花を見てもね「まあ 綺麗なお花。」っていう人と 「なんや小さな花 咲いているだけやん。」という人と別れるわけでしょ? 同じ花を見ても。それぐらいね、結婚かってそうや。「えっあんな人と結婚するん」やけども本人にとっては「大好きや」。 大きなお世話や、っていうぐらいね、お互い自分のスクリーンで楽しんでいるだけや。

 本当は簡単なことや。でも条件をつけた途端に見えんようになる。だから宗教家は条件をつけて お前の先祖の因縁でとか、一杯あるやん?マイナスを認めて マイナスをつかませて 「こっちに来ないと救われへんぞ」みたいにやるわけでしょ?

  それは宗教や。ここは違うっていつも言ってるね。でもそれにすら気づかない人のために先生は護摩をしてくださっているわけ。 神さまが護摩をしてくださっているわけ。だからまあキリスト教的な言い方をすれば 宇宙船護摩木はノアの箱舟やね。それに乗って神さまの世界に連れて行って貰えるわけやからね。仏教的に言ったら弥陀の願船、宗教によって色々言い方はあるけれど、要は大きな神さまの愛のかたまり、大きな救い、大きなお清めです。だから護摩は絶対に止めれない。はい。

質問:先ほどの質問に関連することなんですけれども、「原因を作った人間ではなく、原因の周囲の人間にお亡くなりになったりとか、そういう結果が来てしまう」っていうのはどうしてなんでしょうか?

河上さん: いや 原因とかね、云々言っているのはね、分け隔てて比べてどうこうと言うわけでしょ?わかる?だから条件をつけているわけや。条件をつけるから、原因があるね。でも条件はつかへんね、本当は。映画ってそうや、条件つけて シナリオ作って楽しんでいるけどね、役者さん同士に優劣も条件もないわけやんか?だから無条件や、本来。無条件やからそれをもうちょっと柔らかい表現として「 今が一番い良いようになっている」とかね、色々と言いますけれども、「神さまが一番い良いようにしている」って言いますけれども。

  でもそれは自分の都合から見ての話であって、本当は「全ては完璧な一つ」で「全てはすでに祈っている 悟っている、救われている」でね、条件さえつけなければどんな形でも喜べる。だから人間の体がそうじゃない?条件をつけていたらな、肛門の部分は何時も何時も臭いウンコたらしやがって、「くそったれが」って言って怒るで。でも怒らないでしょ?無条件やから。

 人間の体の各器官はね、無条件やから一生聞く、音を聞くだけの働き、 物を見るだけの働き、ものを食べるだけの働きで文句言わへんやん。条件をつけてへん。 自分の体一つ取ったって 条件付けずに動いているね。だからみんな条件をつけんかったら、一切の疑問はなくて喜びだけなんです。わかる?

質問: 条件をついているから 「なぜ早くお亡くなりになったのかな?」っていう。

河上さん: そうそうそう。 出てきてね。どの形でもね、寿命で死んでいるのは間違いない 。それは生まれてくる前からね、自分でそういう寿命と運命とシチュエーションを選んで楽しみにしているだけやねんな。だからもう、さっきの最初の質問なんかは、まあそう言ってわからないやろうから、もうちょっと具体的なシナリオの中を言った訳。「その人が背負っているマイナスを一切背負って 働きましょう」って言って選んで生まれて来られたお母さんと奥さんだけっていうことでね。
 
 だから、原因を作った自分が悪いでもないね、本当は。うん。そこが分からないとあかん。自分が そういうシチュエーションを作っただけや。で、それが分かったら一瞬で「全ては完璧な1つ」で「みんな光や」になっていくねんけれどもね、そこを選ばずに、「もうちょっと楽しみたい」ってみんな思っているわけよ。分かるかな? うん。もうちょっと苦しみを楽しみたい、みんなね。わざわざ苦しみを楽しみに来ているねんで。ゲームがそうやんか。 難しいゲームするんやろ?はさみ将棋でいいのに難しい将棋をするんやろ?それで有段者とか名人を作るねんやろ?でも将棋ってあれ大変やで。 僕、将棋苦手やから、余計に思うけど。凄い考えて苦しむわけでしょ?ゲームしている時は、楽しんでいないと思うで。それぐらい みんな苦しんで楽しんでいるね。それだけです。

 だから責めあう必要もない。 「ああ そういう感じで楽しみはってんな」や。だって僕から見たらなんでわざわざお化けの映画を見に行くのと思うけどな、オカルト映画見に行くんと思うけど、楽しみに行くんでしょう?「 怖かったな」って言って楽しみに行くんでしょ?怖がる必要ないのにと思うけど。で、それでもね、オカルト映画でも作りもんやと思ってしまったら、もう面白くない。映画のスクリーンの中に没頭するからあれ怖いんやで。 オカルト映画を作っている現場を想像しながら、見ていたら何のこともない、お化け屋敷がそうやんか。作り物と分かっていても怖がるんよ。それはわざとそれをそのようにして楽しみに行っているね。現実も一緒や。いじめる方もいじめられる側もそれを楽しんでいるだけや。

 だから先生が村人になる条件としてね、 真の神さまの弟子入りって仰ったんだけれども、中々それがみんなそれが分らずに、ここまで来てしまったけれどもね。「弟子入りするから 命がけにならなあかん」とかね。 理屈で言うわけやけれども、そうじゃないっていくら 言っても分かって貰えないないから、もう押し黙っていますけど。

 だけどそれは別に村人と笑われへん。みんなそうやねで。みんなその本当に真剣に何をする必要があるかって言ったら無条件になる必要があるね。 無条件っていうのが一瞬一瞬新たっていうことやから。

 なんで無条件になれるか って言ったら「神さまは絶対の愛で 全知全能でね、いつもいつも一番い良いようにされている」っていうことをわかるから 無条件になれる。ちゃんとして貰えないって分かっていたら条件つけるやん、そうやろ?

 だから神さまを信じきれない分だけ条件つけて苦しみを楽しむ。だけどそれがあんまり グチャグチャになったらね、要するに 落書き帳に落書きするところがもう愈々なくなってきたわけや、この地球上で。それで「一旦ご破算にしようか」って言われてんね。

 あのね 例えばね、江戸時代でもそうなんですけれども、江戸時代、日本でもそうなんですけれども、例えば奈良から都が京都に移るでしょう?何で移したと思う? 皆なかなか分かってへん。 理由は簡単や。都っていうのは 都市っていうのは人が集まるでしょう?人が集まる時は煮炊きして、お風呂入ってっていう燃料がいるやん。あの頃は薪や、木や。なら奈良の都におったら、もう木を使い尽くしてね、周りが禿山になってきたんや。で、燃料無くなったから、木の豊富な京都に移った。それは最初に長岡京とか移って行くのは 一番木が入手しやすいところに移った。京都があってずっとなるんだけれども。

 例えば家康がね、最後大阪夏の陣ですか、夏の陣で勝ってね、天下を取るわけでしょう?そしたらそのまま西国大名は敵方やから外様大名って言ってね、大阪か京都に幕府を置いたら良かった。で、何故家康が置かなかったっていったら、グルっと見回したら、もうすでに木が刈り取られて裸やったから。それで木の豊富な江戸に行きはった、エネルギーの豊富な。で、江戸幕府がなんで滅びたか。一番 具体的な理由はね、もう木がなくなった。

 勝海舟の回想録を見ていたらわかるけど、貧乏で困ってね、薪を買う薪が高くなっちゃって、薪を買うお金がないから 、あまり寒い冬は家の壁の木を板や柱をちょっと取って木を燃やして暖を取ったっていうのね。 それぐらい木材、燃料が高騰していたわけ。で、どうなったかって言うと石炭ブームやね。黒船、黒船はあれ木炭を燃やして木を燃やして来てないよ。石炭燃やして来てる。石炭ブームやっていうエネルギー革命を、日本は受け入れただけや。で、そうこうしてこのようにしてここまで来たら、もう人類が増えに増えてね、エネルギーがもう無いんや。地球霊王様の体を食いつくしてきているね。いよいよ最後や。もう地球霊王様は「これ以上ね、自分の体を壊しても、もう壊すものがないぞ」て言ってはるね。 

 だから人口が減るしかないのにね、まだ神さまを信じ切れないから自分の老後を見てもらう子供を作ろうとするんよ、みんな。子供を作る大きな理由は自分の老後の不安やで、本音で言ったら。だけどもう燃料が無いんよ。何があっても 何があっても大きな波は来るの。

 それが地震という形で人口が減るのかね、どの形で来るのかは 護摩次第。それぐらい大変なところに来ているんだけれども、みんなのんびりとね、電気を使って、灯油を使ってのんびりしてはるね。

 もう甲辰(きのえたつ)やから、もう本当のことを言うたらあかんいう事を、もう今年からは言うてええから言っていますけれども、別に厳しいことを言っているのではなく、ホンマのことを言っただけ。

 それはね、幕末にね、例えば幕末にアメリカとかロシアとか、例えば幕府と通商条約を結びに来るわけでしょ?船から日本の広島とか岡山、瀬戸内海通ってくるからね、見るわけよ。そしたら「禿山だらけだ」っていう記述があるわけよ。 それぐらいもうすでにあの幕末は人口が増えてね。要するに家康さんのおかげで平和な時代になったわけや。それまでは戦国時代やから何やかや言うても、人口減ったわけね。で、平和な時代になったら、もう勝手に増えるやん、人殺しがないんだから。それで 今度は燃料がもう愈々になっていたのね。 財政事情どうこう言うけどね、まず燃料がなかった。

 で、日本人は優秀だからすっと石炭を受け入れて、このうまく維新っていうのがね出来たわけですけれども。天皇陛下のおかげですけれどもね。だけれども海外は色々と植民地になったり、大変になっていくわけ。だけれども人口が増えすぎる。それは人間の不安の思いです。老後の。

 だからいつも先生は僕には仰っていたわけですけれども、「食べるものも住むところも着るものもなくなって餓死するしかないって言っても喜べなアカン」って言ってね。「神さまの絶対の愛を信じきれる」っていうところですけれども。 それだけなんですね。

 「だからおまえらはこんなんするから駄目なんだ」というのは今までの宗教です。人を責めまくるね、その「責める思い」があかんのやっていうのが分からへん。「分ける思い」があかんのやっていうことが分からへん。「みんな一つや」っていうのが分かったら、老後でもちゃんとみんな助け合って生きていけるね。

 でもね、(年老いた体にエネルギーとして必要のない)いらないご飯を食べ過ぎて、頭ボケていくね。ハッキリ言うで。

  食い過ぎるから頭ボケていくね。口だけはみんな若いまんまやね。若い時は食べなあかんわ、色々とね 動き回るしね。でも動かなくなったらそんなに食べたらあかんのに食べるんやろ?で、ボケるね。糖尿病になるね。成人病になるね。 食いすぎや。

 まず 真祈りをしないとね、自分がどれだけの量を食べていいのか 何を食べなあかんのかわからないでしょう?でも「真祈りが難しいから、印可書を奉読することで真祈りに変えるよ」って、先生が仰ったんだから、そこにすがるしかない。

 でも印可書奉読して考えるからあかんね。 印可書奉読してすっと受け止めるな。考えたらあかん。 考えるというのは自分と他人を分け隔てて、もう印可書からまた離れてる。 印可書で全ては一つって言わしているのにね、印可書を奉読してから「さあ、どうしよう」って考えるね、みんな。

 だから「奉読」って言っている。「読め」って言ってないやろ?中々。で、考えたらもう分けているから全部わからんようになってくる。要するに考えるって言うのは 条件をつけているやん。あの人はこうで 自分はこうで、結果どうこうだってね。で、「条件をつけたら苦しむで」って言ってるやん。考えたら苦しむね。

 だからいつも営業の話をする、 営業がね、一番分かりやすいと思って、僕は営業で苦しんだから、思うねんけれどもね。お客さんがどう出るなんかはね、行ってみないと分らへんねんね。だけど考え出すとね、行く前から考えて苦しくなって行けなくなる。無茶苦茶怒ってはるねん、なんとかお前してこいって言われてね「 いや、怒ってはんねやろ。 あの怖いおっさんやろ、いややし、またボロカスに言われるやん」と思った途端にもう行かれへんね。もう殴られることはないんやから、ともかく頭下げて行ってなんぼやねんからみたいに諦めて行くとね、 意外と「よう来たな」と言いはるねんけどもな。

  まあ それぐらい 営業って こっちの心をお客さんに映すだけやけれども、ね。 それは営業に限らない。みんなそうや。 自分の心が相手に映っているだけや。それをわかると条件をつけんかったら向こうは無条件になるから、すっと収まる。

 でも国と国との交渉みたらわかるやん。お互い条件をつけて「こうや」って言うからね、まとまらへん。

 その無条件を楽に実践する方法が印可書奉読だよっていう。せっかく印可書を奉読して、無条件になっているのに、また条件つけて考えるのやめやって言ってんの。何のために 印可書奉読したんみたいな。

 だから焼き場の骨をね、捨ててうず高くなったところは、なんで大変かっていうと みんな条件をつけて死んでいるからや。条件をつけて死んで骨に思いを残して死んでいくからね。どこかで大掃除しなければならない。それだけ。

 それは護摩だけでは追いつかないから色々な役割、たまたまこの役割 回ってきてしているだけで、より好みもしないし、別に。だからっていって大変もないし。 只々、淡々とやけどね。そういう風に条件をつけなかったらいいねんけどね。条件をつけた途端に辛いで。

 だから先生はね、「結婚はね、そのパッと出会ったその人とね 結婚しなさい」って言うの。「無条件で結婚しなさい」って言う。いつもそうやったけどね 無条件やったらいいねんけどね。無条件で結婚してお互いに見つめ合うもの、目標にするものが一緒にせなあかんねんね。だけど、たいがい結婚したら珍しいペットが来たみたいなもんや、お互いな。3年ぐらいは楽しいね、ペットが珍しいから。3年するともう飽きてくるね。大体3年過ぎたらみんな離婚するね。あるいは 結婚しているけれども実質こうな、心が離反しているとかが多いねんけどね。 それ条件がついているからよ。で、ここに来て神さまに無条件でって言うね、お互いの目標が1つやと夫婦は、仲がいい。

 だからここは宗教と違うからな、よう分かっててな。だから先生は一切宗教とおっしゃらなかったでしょう?だから教えも組織も立てないし、教えも組織もいらんね。無条件っていうだけや。無条件なんか教えに入らない。だって神さまは絶対な愛で完全円満完璧やのに、何の条件をつける必要がある? おかしいわ。でもみんな条件をつけて考えて苦しむねんけどね。だから考えたら分からんようになるでって。

 でも大概はみんな条件をつけて考えるからね、それでご利益があると思ってご利益信仰で色々な宗教に入りはるね。それ条件をつけているからや。ここに入ったら東大に通ったとかね、ここに入ったら病気が治ったとかね。 その条件を外さなあかんねんけど。まあ 宗教やから条件をつけていいけどね、それが宗教だから。

(ちょっとしんどいからもたれます。)

 そやから宗教までいかなくても、みんな占い師に結構な、占い見てもらうのね。で、大体の占いっていうのはね その占い師は取り憑かれてしまっているけどね。運命を予告しておいて、後ろについているものがそれを実現させるわけ。もうすぐ事故に遭うぞって予言しておいてね、それで事故に合わすね。で、あの占いの人、先生「 当たったわ」で騙されていくね。 ほとんどマッチポンプ。占いを家業にしたら大変よ。どんどん 取り付かれて行きます。だって条件をつけるわけでしょう?「あなたはこうなります」って条件をつけたらあかんのに。その責任は重い。占い見てもらう人より 占いをする人の方がね、晩年は大変や。どうぞ。

質問:ありがとうございます あの事故で亡くなった人のお話があったと思いますが、最近ヤフーニュースを見てまして、町長さんとか働き盛りなのに、前日まですごく前向きにいらっしゃた方が突然 事故でお亡くなりになったりとかのニュースを見かけまして、それ以前もこの3年ぐらいの間に、町長さんであったりとか 区長さんであったりとか、事故で急にお亡くなりになったとかいうニュースがあると思うんですけれども、それは 皆さんのマイナスを背負って急遽 そういう事故に遭われたりとか?

河上さん: 勿論、説明上はそうだけれどもね、でも寿命はそこまでっていうは間違いない。だから長い寿命がね、縮むのではないの。その寿命は決まっているね。ただ「せっかく死ぬんだったら、同じ死ぬんであったら 背負って消す働きにしましょ」って言うだけや。

質問: それは先ほどからのお話の中で、ご自分が生まれる時にそういう風な人生を選んできた?

河上さん: 勿論、そう。

質問:選んで。来たことなので・・・

河上さん: ただ、そのように言ってしまうとな、宗教やったら、身も蓋もないね。金にもならんね。だから色々と、さも何かどうこうっていう 宗教上は言うけれどもね。でも本当はもう本人の自由意志で定まったことをするだけや。だってみんな好きなことしかせえへんや。

質問:何かそういう人々の代表になった方は、その周囲の方の怨念だとかそういうものを背負ったりたりだとかっていうことで不慮の事故が起こったりっていうことが・・・

河上さん:だからどの働きもお清めの働きなんですよ。その事故の大小とか病気の大小に関わらずにね。お清めの働き、要するに 地震とか台風のすごい災害になる前に人間の体で止めてくださるといるというだけです。 別に松下先生に限らず、どの人も。で、それは後ろの守護霊様の方でせっかく死ぬんだったら、本人の徳を積ますためにも、そうされるだけで、全ては良しなんですよ。

質問:ちょっと話がずれるかもしれないんですけれども、今回の能登の地震とか私もちょっと知り合いだとか、他人ごとでないものの、だからと言ってなんかどうですかとか、今までだったら連絡をしたりとか、何々をしたりとか出来たのですけれども、今回だけは黙って大変な被害にあったところに方に敢えて何も連絡をせずに静かにいるんですけれども。あのそこの方々はそういうお役目なんて言ったら本当に失礼になってしまうのかもしれないんですけれども、そういうお役割があって、そういう風なことにあってくださっているということ・・・だから感謝・・

河上さん:だから生まれてくる時に、自分は選ぶんだけれども、生まれてくる時に一切の記憶が消されるでしょう?だから選んだことを自分は知らないだけです。 でもどの形もいい悪いはなくて一番いい形になっているのね。

 それが、それを言ってしまったら 宗教になれへんね。わかる?だから宗教の場合は、これを例えば「あなたはこういう 寄付をしていたからね、これだけのお金を出していたからその程度で済んだのよ」とか、言わなあかんからね、 あるいは「そうならないように もっとお金を出しなさい」と言わなあかんから、色々と 理屈をつけますけれども。

  本当は実も蓋もないくらい全ては完璧な一つで、もうすでに 「みんな祈っている、悟っている、救われている。」の状態の中で色々な神さまの大きな働きの分担をね、本人の自覚とは関係なしにしています。だからどの状態も神さまの大きな働きには変わらない。

 ただ、みんながこうして遊びたいっていう中でね、遊びたいカラーリングの中でのいろんな癌になったりね、あるわけですよ。でも本当はね、働き盛りでぽっと死ねたらこんな幸せな事はないで。寝込んでね、周りの人の世話になってね、下の世話もしてもらって、本人も辛いし周りも辛いやろ?って無条件やったら思えるね。でも条件をつけていたらな、「働くだけで死んでしまってね、 残された人、どうするん」てなるわけよ。

 で、そこに宗教のつけいる隙ができるわけ。残された人がそうならんようにどうこうとかねあるやん、色々な宗教で。詳しくは知らんけど。そういうのをつけいったらあかんね。 無条件で喜べなあかんね。

質問者:ありがとうございます




令和6年2月河上さん勉強会お話し―3(20240211−3)

宮野さん:一杯、湧き上がってるから…。

河上さん:まあ、先生がね、色んな説明をしてくださっても、みんな先生に頼るばかりで受け取れんかってんけどね。ちゃんと説明してはるんですよ。例えば、「『ありがとうございます』は悟りそのもの、真(まこと)の神さまそのもの」ってね。それが分からんから、「宇宙神」という真(まこと)の神さまそのものの呼び名を作って。「宇宙神」と「ありがとうございます」は同じ意味なの。せやけど、その「宇宙」を小さく捉えてね、どうこう言うしな。要するに条件を付けるんや。先生の仰ったことに条件を付けるから分からんようになるねんけどな。もう、すべてそうよ。

 だから印可書にも条件を付けて文句を言うわけでしょう?色々あるけども、条件を付けたから分からんようになってるの。分け隔てて考えるから分からんようになってるだけやけどね。「『ありがとうございます』で悟れる」って先生は仰ったんや。それは「ありがとうございます」が真(まこと)の神さまそのものやったんや。「ありがとうございます」が悟りそのものだから。でも、それを受け取りかねるから、もう先生に懇願して印可書に代えて頂いただけでね。選ぶのはみんなの自由。

宮野さん:さっきのね、さっきの質問にちょっと関連する話なんですけど。釜の蓋が開いている状態なので色んなものが湧き上がって、その人のそれぞれの思いに寄ってきて後押しをする形になりますよね?

河上さん:なる。なる。

宮野さん:で、その状態で起こってる感じなので、目に見えて、普段でも気が付かないことが大きく取りだたされている状態なんでしょう?今は。

河上さん:そうそう。

宮野さん:なので、例えば、普段だったらそんなに、例えば、事故に巻き込まれて亡くなるとか。この間、普通に歩道に歩いている人に(車が)突っ込んで、たくさんの人を殺しちゃったとか、怪我しちゃったとか。犬が暴走して何人も噛み倒していったとか。それから震災のことだったりとか。ええ!?みたいなことが多々ある。で、先程の話のように、ちょっと有名な方だったりとか芸能人だったりとかがポコポコ死んでると。

 でも、普段だったらそんなに、まあ平和な状態だったらそんなに気にもしなかったところが、特にここのところは釜が開いてる状態なので。寿命はもちろんそうなんだけれど、目立って起こってるという風な感じ方が多いのかなと思うんですね。

河上さん:だから甲辰やからね。甲(きのえ→氣延枝)だから、もう全員に光が行ったんよ。以前は本人の自由意志を越えてまで光を出さないのね。全員に(光が)行ったということは、全員が松下先生の働きをする。神さまの働きを自覚するしない関わらず、して頂きますから。その人が出来る最大のお清めをみんなしてるだけ。犬に噛まれる形でお清めになったりとか色々ありますけども。それだけや。

 だから、それをね、今説明したように、条件を付けて考えたら辛いわけよ。無条件で喜べたら一番良いんだけどね。本当の事故に遭った人も、例えば地震に遭われた方も地震で亡くなられた方もね、大きなお清めをして大きな働きとしていくんだけど、

 条件を付けて可哀そうやったとか色々と言ってしまうと、そのお清めの働きが半減していくのね。

 だから、これから本当にバタバタと色んな色んな形で、あんまり具体的にね、言わないけど、色んな形でみんな死んでいくんだけど、全部喜んでいかなあかん。神さまの大きな働きで、キリスト教的に言ったら、十字架にかかって頂けた、良かったなあ、です。みんな嫌でも十字架にかかって頂きます。かかる内容はそれぞれ、あんまり言えんけどな。でも、本物の十字架に比べたら大したことない。痛くない痛くない。十字架ほど痛くない。大丈夫。

宮野さん:それぞれに合った、人それぞれに合ったことしか来ないからということですね。

河上さん:そうそう。その人に耐えられることしか来ません。

宮野さん:逆に言うと、子どもさんの事しか耐えられない事は、子どもさんの事で起こるだろうし、親御さんの事やとそうだろうし。

河上さん:そうよ。だから、本当に耐えられないことで死ぬとね、本当に浮遊霊になるの。この世に未練を残すから。ほとんどの人は残らないんよ。でも、周りの人が条件を付けてね、可哀そうやったって思いを乗せるから浮遊霊になっていくの。それだけやねんけどな。

 だから、先生はお墓を作るなって言うの。お墓を作ると要らん思いを乗せるから。どの状態で死んでも神さまが良いようにしてるのは間違いないんよ。なんで文句を言うかやねんけどな。

質問:確認になりますが、「釜が開いた」というのは、地獄の釜が開いたという…

河上さん:「すべては完璧な一つ」が実行されつつあるということです。だから、今までやったら住み分けてね、その人達の自由意志を大事にして大事にしてね。だから、地獄の人を助けに行ったら怒られるんよ。はっきり言うけど。楽しんでるのにって。いや、本当の話やねんで。

 だから昔は大変やってん。先生と僕との約束でね。「地獄が無くなるまで、僕と一緒に地獄に行ってくれるか。」って先生が仰って、「はい。」って言って。その約束で、もうずっと地獄に降りてたんやけども。降りていっても怒るんよ、助けたら。で、また降りていくのっていうね、繰り返しやったのが、本当の自由意志、要するに真(まこと)の神さまそのものの自覚を最優先することに変わって。この甲辰からは益々それがなってるわけですね。

 だからみんなの本来の真(まこと)の神さまの自覚を最優先しますってことになったわけ。要するにもう、「ああ、遊ぶのそろそろ止めや。」ってお母ちゃんが言ってるわけよ。神さまが「もう遊びは終わり。」って。それだけ。で、完璧な一つだから、それを時の時間の経過で言うと、地獄の蓋が開いたみたいな感じやね。開いただけと違って一つになって行ってる。あの、プレスパッカーって言って、ゴミ収集車ってゴミを入れたらプシューって圧縮していくでしょう?あんな感じや。何もかも一括り、一つにしてるの。

 ただ、それが村人から優先的に始まるよって言って。この前ちょっと言っただけ。実際そうだから。だから、これからまず、村に色んなことが起こって、それに似合ったことが世間にも起こってっていうことになっていきます。まあ、今までもそうなんだけど。

質問:すべてがということは、地獄とも一つになるし、神さまとも近いというか一つになるということ…

河上さん:だからね、みんな光やというところに戻りますよということ。だから、マイナスとみんな思ってるけどそうじゃなくて、マイナスという映画を作って楽しんだだけやけど。前に言ったようにね、このみんなの楽しんでる映画館を一旦解体工事をしますってやってるわけや。古くなってきたから、傷んできたから、地球霊王さまの体が傷んできたから、今の地球霊王さまの映画館は一旦閉じます。…ということになってるのをね、地球霊王さまの方で一方的にガシャンと潰さずに、人間の方で解体工事をして立て直しますという約束を先生はされたわけ。

宮野さん:ちなみに地球霊王さまの体を修復する方法というのは…

河上さん:みんな光や。要するに無条件になったらや。

宮野さん:すべての人が無条件になったら

河上さん:そうよ。だから食べ物でもね、お金を持ってる人が優先的に取らずにね、みんなで助け合って分け合って生きていける人口に減るわけや。本当は、はっきり言うで、今の人口のままでみんなが助け合って分け合って生きてね、食べ物とかエネルギーを分け合ったら生きていけるの。な?でもみんな条件を付けて、私は寒いのは嫌やとかな、暑いのは嫌やってクーラーを付けてストーブを付けてするわけやろう?で、要らんエネルギーを使ってエネルギーが足らんようになって、廻ってこない人は死ぬわけや。それだけよ。

 でも、無条件になるためには真祈りやねんな。でも、真祈りというのは真(まこと)の神さまの本心の自覚というだけや。で、真(まこと)の神さまの本心の自覚というのは、みんな光やというね、肉体人間に真(まこと)の神さまの種を植えるんと違うねんて。みんな光があって、光の表現として肉体人間が出てるから、最初の光のところに種を入れるわけよ、新たなる。で、最初の光の自覚がみんな内側から湧き上がるということよ。

 だから理屈抜きに、要するに損得抜きに助け合うようになるって言ってるの。真祈りがみんな出来たら。損得があるうちはな、死ぬ人もおるし色々あるけども、それも大きなお清めだからって言ってるわけ。護摩を止めなかったらなんとかなるよ。護摩を止めたら止めたなりになんとかするけどな。もう全部どれもこれも先生からは、すべての状態は説明を受けてるからどれでもするけど。出来たら護摩でいきたいです。

 護摩を続けるだけのお金は先生は残してくれています。そういう風に聞いています。先生からね。無駄に使ってなかったら大丈夫。

質問:護摩を続けていけばマイナスを消し切れる日は来ますか?

河上さん:もちろん。だから宇宙船護摩木、宇宙船やね。真(まこと)の神さまの大きな救いの船、宇宙船。宇宙船という意味をね、みんな小さい、なんかほら宇宙旅行するあの…あんなみたいに勘違いしてるやろう?先生の説明をよく聞いていたら分かるけど、何人でも乗れる船やって仰ってるやん。それを弥陀の願船とかノアの箱舟って言うの。まだ分からんか!みたいな感じやけどな。

 だから、みんなが護摩木を書くごとに何艘(そう)ものノアの箱舟が出て行って、みんな救われていくの、地獄の人がよ。ちゃんとそういう風に先生は説明してるやん。聞きたくないのは勝手やけどな。何のために印可書を作ってくださったか。何のために護摩を作ってくださったか。何のために護摩木を作ってくださったか。ちゃんと説明してある。

 で、どんな状態でも聞けるようにね、録音にして先生は残してくださったんでしょう?じゃあ全部聞けよ。なんで聞かへんねんって思うけど、まあ聞かへん人のためにおまえが説明せえって言って、説明させられてるだけやけどね。

質問:そもそもがマイナスのない世界であったということですか。

河上さん:いや、今、ここがマイナスのない世界や。みんな普通の生活をしてるわけやん。でもわざわざ映画館に行って楽しんでるやん。その感じになってるだけよ。普通やったら映画館に行くという行動と時間があるけど、この現世というのは、それ無しに常時映画館に入ってる状態になってるわけよ。だからいつも映画を見ながらでも、「あ、これは映画や。」と思いながら見れるかね、本当に没頭してしまって一緒に涙流すか、うわっとびっくりするかというだけのことよ。

 でも、楽しんで見られる人というのは何回でも映画を見られるし、でも没頭して見る人は一回見たら飽きるの。みたいな感じやな。楽しんで見られる人やったら、例えば映画やったらね、「あ、ここの美術的な色彩は綺麗やな。」とか、「あ、ここの演出は凄いな。」とか思うから何回も見られるねんて。でも映画に没入して、それが本物みたいに見る人は一回見たら、もうあと2回見ない、みたいな感じで。

 それくらいね、真(まこと)の本心の自覚があったら条件が付かへん。条件を付けへんということは、すべての条件を付けて喜べるということや。暑かったら暑いで楽しい。寒かったら寒いで楽しいっていう。

宮野さん:自分っていうものが強すぎるから、結局その渦中にいる状態やから、マイナスに掴んでしまい易いのかなって思う。だから本来その「自分が」って無かったら、自我っていうものが薄かったらね、自分は何者でもなく、真(まこと)の神さまであるって思えば、自分がやってることではない。色んなものが、目の前で出来事が起こっていても、「あ、面白い!」としか思えない。病気であっても、「あ、私、病気なん?ふーん!今度はこういうことを楽しめるねんな。」っていう楽しみ方。お金に苦労すれば、そりゃ自分から自らこんな苦労しようと思わへんけど、こんなんで楽しませてもらえるの?って話やし。

 で、自分から、起こることはすべて面白いことなんやっていう風に、ワクワクして楽しんで待ってて、「こういう展開なん!?」っていう風に思えば、自分がやってるわけじゃないから、自分の、自分ってものは、人って一旦横に置いてる恰好で見れるから。だから人のことやったら見えるやん、まあ言えば。友達、友達とまでは言わなくてもドラマだったら見れるやん。「この人不倫してはるわ〜。」って。「いや最近多いわ、このドラマ。」みたいのとかね。「コンプライアンス無視めっちゃ多いな。」とかね。もの凄く他人事であれば、わりあい、うーんと思って見れるけど、でも自分がその立場になった途端に「なんで私がこんな目に遭わなあかんの?」っていう話になる。

 でも、そうじゃなくて自分の我っていうものを外してしまって、そのドラマの主人公と同じように楽しむだけってなってたら、そしたらそれは楽しんでる過程で、どんどんどんどん、どんなことが起こっても楽しいしかないのね。凄くしんどくっても、凄く苦しくっても、過ぎてみれば「あ、なんか凄い、色んな経験をさせてもらったな。」っていう。人間の肉体を負って、受肉をした段階で色んな経験をして楽しんで、肉体を外していけるんだっていう、その経験値を凄く楽しませて貰えるっていうそっちの方が面白いと思える。

 でも楽をして生きようと思うと、じゃあさあ、果たして肉体を外した時に「私は何をしてきたかな。」って。人に振り回されて人のせいにして。楽して、金儲けして良い立場に置いてもらって。人に「あなたは素晴らしいわね、偉いわね。」とか言って褒め称えられて良いようにばっかり言われて。もしくは蔑まれて、それを卑下して生きて。さあ、せっかく受肉したタイミングこのチャンスを、なんでこんな風に過ごしてしまったんだろうってならへんのかなと。その楽しみ、今を楽しんでいたら、我、つまり自分というものが、そういう風なのが無い状態であれば楽しめるだけ、と思うんですけど。凄く自分っていうのを持ってるから。

質問:「マイナスが無い」ということと「マイナスを消す」ということが、よく分からなかったけれど、マイナスを楽しむということで…分かりました。

宮野さん:マイナスを本当に楽しむと、楽しめば、その渦中を過ぎた段階でちょっと振り返ると、あると思う。だからお子さんを持ってる方やったら、オギャアと生まれた時は「ああ、もう嬉しい幸せ。」って思うと思う。でも、だんだんと小っちゃい子が色んなことをし始めて、手がかかるようになってから「なんであんたはこんなことするの〜!」という風なことでイライラする。自分の体調は悪い。子どもはイライラする言うこと聞かない。周りが自分の事を認めてくれない。ということが色んなことが重なって、それをマイナスに思うかもしれない。でもそれが過ぎて小学校ぐらいに行くようになりました。「ああ、あんなことこんなこと一杯あったけど、過ぎてみればあれも面白かったなこれも面白かったな。」っていう話やと思うのね。でも過ぎてみればの話で、渦中にいる段階では「凄い、えらいことやってんで、私。」って話じゃない。「こんな大変な目に遭ってるのに、誰も何も気が付いてくれへんの?」っていう話やけど、でも過ぎて見れば、「ああ、過ぎて楽しかったな、あの時代。」って。じゃあ、もう一回あの頃、経験ちょっとしてみたいこともあるかもな、とかって楽しめるくらいの余裕ができてる。

 でも、どうしてもその渦中にいて、それをマイナスだと掴んだ瞬間、凄いしんどいよねって。でも、同じように子育てをしてる人、渦中にいる人だって、「あなただって渦中にいてしんどいでしょう?」「いや、私はしんどくないです。」っていう人いるじゃない。それは、それを楽しんでる。だから、どう楽しむかというのを自分の中で、「あ、凄い、お祈りチャンスを貰えたんだ。神さまの向き合う方の面白いことが今来たんや。」って私はいつもいつも思う。「ああ、来た来た来た来た来た!」って思うわけ。それを皆さん、経験して過ぎた時に、「あ、これなん?」みたいなことで感じた時に、一つ、その一個が転がり始めるんかなと思う。

 でも、渦中にいる自分って「ああ、私って、こういうのも良いんじゃない?」っていう風に、ちょっとマイナスを美徳って感じるところ、頑張ってる自分を美徳と感じたりとか。それはちょっとしんどいことの雪だるまが増えるだけと思うのよね。同じだったら、肉体を外した時に外れる時に、「あー楽しかったわー。一杯経験したわ。あんなこともこんなことも。」って思えるぐらいの経験値を積んだ方が面白くないかな?で、それは受肉してる自分達に光を通す。それぞれの色んな経験をすることで、色んな光が行くから。

 だから色んな経験をしてもらいたいという必殺大サービスやね。必殺大サービスを避けて行っても違う形が来るだけで。もっとしんどいと感じるだけかなと思う。

 だからマイナスはないのね。どう捉えるかというのを、自分というものを掴んで、そこを「私!」ってなるからしんどい。「私」が無かったら他人事やから。意外に引いて、一歩引いて見ると、「あ、これちょっと楽しんでみるかな」って。って感じるともっともっと楽だと思うし。別に楽じゃなくても良いと思うねんけどね。楽しみ方は色々あるから。いかがでしょうか。

河上さん:はい。

質問者:はい。ありがとうございます

宮野さん:今日のは面白いね。自由意志をね、触らないけど本心の自由意志っていうのは。

河上さん:そうそう。甲辰の楽しさやね。それは24年前に先生が「いよいよ今年から光が強くなります。」っていう。この新年のね、お話で仰ったんです。

 だから、みんな口は若い時のままやろうけど、ちゃんとお祈りをしてたらね、必要なものしか食べなくなるから病気しないよ。病気したら食べ過ぎたんだと思って。でも、例えば癌になってもね、わざわざ癌になりたいと思わへんから、そういう体験が出来て良かった、やで。それだけやねんけどな。

 だから宗教的に言ったらね、人を切り刻んで来たから切り刻まれる手術を受けなあかんねんってなるんやけど、そういうもんじゃなくて、もっと楽しみやねんな。

 で、もう本当にね、正覚(しょうかく)を得たって、悟った方が増えたんですよ。でも申し訳ないけど、ちょっと今、意識を止めて。全員同時に行こうね。同時に行こう、同時に。正覚を得たっていうのは自覚が無くてもね、だんだん無条件になって来たら、ああそうなんだな。自分はそうなんだなって喜んでいてください。条件が付いてるうちはまだまだ。

宮野さん:終わりが無いんですよね?

河上さん:終わりが無いし、自我を消すだけど、ちょっとの自我がずっと残っていくのね。それをひたすら消していくだけ。消していくというのは無条件になっていったら消えてる。条件が付いてるうちは自分というものがあるから条件がつく。そうでしょう?自分と他人と分けて条件を付けるわけで。無かったら条件は付かへん。

宮野さん:確認ですけど、悟ったと思うところに、悟りに終わりがないってことですね。

河上さん:そうそうそう。だから無条件や。終わりがあったら条件がついてる。だから宗教はね、条件を付けてどうこう言うやろ。だから偽物やねんけど。まあそれで、ねえ、楽しむわけやから。良い悪いではない。本人の自由意志やな。

質問:このやり方で良いですかという確認でもあり質問なんですけれども。今まで教えて頂いた中で解釈したりとか考えたりとか、これってどういう意味があるんだろうっていうことは、もうそれは条件を付けているので、自分はずれているというサインだと思っています。
 で、印可書をまず奉納すること。そして今までの自分の隙間、楽をしたいという思いだったり、気を抜くところだったり。色々河上さんから教えて頂いているにもかかわらず、実践を実際にしてこなかったこと。そういうことが色々あるんですけども。まず第一に印可書、そして本当によりひたむきに。色んなことを教えて頂いて、色んなことを試していこうという風に思ってるんですけども。これでよろしいでしょうか。

河上さん:そうよ、何でも楽しんだら良いねんて。せやから、こういう体操をしたら良いでとか色々と言ってもせずに、ああ、せえへんだったからこうなってきたなって楽しんだら良い。それだけやねんて。みんなな、楽しまんと分からへんね。
 だから何でも体験せな分からんねんけど、その体験を楽しみと思わないとね。楽しみって思ったら自分が無いの。自分があると苦しみになる。条件が付くからな。

 自分が無くなると条件が無いからなんでも楽しみやね。なかなかわざわざな、大変なところへ飛び込んで行かへん。みんな逃げるって。それを大変な目に遭うんや。遭うなら楽しませてもらえてるの。で、楽しめたらスッと消えるのにな。苦しい辛いって言うから消えない。

質問:体験を一瞬一瞬新たに楽しんでいくっていういくことですね?

河上さん:そうそう。だってわざわざな、そんな目に遭えへんって。遭えへんけど、楽しめるように遭わせてくれはるね、周りで。神さまではないねんけどね。でもそのお互いに支え合ってっていう部分を、色んな形で支え合いがあるわけよ。だから苛められるのも支え合いの一つやね、本当を言うとね。せやけど、それを言い出すと因縁因果とか、またグチャグチャになるんで、もうややこしいことを言わずに、どの状態も楽しめたら良いっていう無条件になるのが一番近道やね。

 因縁因果を説明するとね、そこを掴んでもう上に動けないようになるの。要するに過去を掴むって言うねんけど。で、過去を掴んだら最後、もう身動き取れへんのよ。だから楽しめたら見動き取れるねんけどね。だから映画の中で入り込んでしまったら身動き取れへんでしょう?出て来れるからオカルト映画を見てもトイレに行けるんで。映画の中に入り込んだら夜にトイレに行くのも怖くてしょうがないよね。そういう状態で、映画という過去を掴むとね、小っちゃい子はオカルト映画を見て、映画という過去を掴んでトイレに行けないって泣くわけや。せやけど小っちゃい子のことを笑われへんのね。人間はみんな現実を掴んでどうこうって言って怒ってるわけや。掴むから怒るんで。楽しめたら、楽しい面白かったなあや。あんな面白いことしよったなあみたいな感じやねんけどね。
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令和6年2月河上さん勉強会お話し−4(20240211−4)

河上さん:どうぞ。

質問:先月来から、損得ということを言ってくださってるんですけれども。損得を考えなくなったら、本当に無条件っていうとこになるのかなと。

河上さん:そう、条件ついたら損得やわ。

質問:もし損得を考えた時には、損を取って、それを喜んですれば、なんとかなるんでしょうか?

河上さん:それはもう理屈やね。(笑)

 例えば、あんまりね、損得で説明しなかったのは、みんな理屈で考える癖あるから、「ほんなら損ばっかりしてたらええねんな」ってなるわけよ。極端に言うたら、ほんなら今、財布にあるお金ね、この周りにいてる人みんなに配ったらええねんなってなるわけよ。それが違うというのが分かれへんとこがね、理屈で考えた時、条件つけた時にそうなる。

 ほんで、あんまり損得というのは言いたくなかってんけど、あんまり損得言わんと分からへんから、損得つけたら色々と大変やねんけどな。

 だから、もう無条件で「印可書」読んでたら、例えば、要するに夫婦やったら、或いは親子やったらね、親が年取ってきてね、わがままな親やったら、「あれしてくれ、これしてくれ、あれ買うてくれ、これ買うてくれ」とか、もう大変なわけよ。それを思い通りにさせてあげるのは、いいことやないねんな、当然やねんけど。

 だから、そこはもう「印可書」読まないとわからないと思うね。損得で考えたらね、自分損してでも、親の思い通りしたらええんやけど。でも、親の思い通りにしてあげると、その思い通りにしてもろうた親がすごい損してるっていう事になんねんな。

 だから、そこは「印可書」読まないと、本当の損得は分からへんからね。だから、なかなか説明は、みんなすぐ理屈で考えるからな。考えたら分からんようになるでって言ってる。考えるというのは、もうすでに条件つけてるから、親と子とかね、旦那と嫁とかね、条件つけたらね、嫁のくせに、旦那のくせにとかってなってくんね、もう。永遠にきりない世界に入っていくの。お互いに思いのキャッチボールしてな。

質問者:はい、分かりました。ありがとうございます。

河上さん:だから、できるだけ思い通りにしてあげないことが、相手にとっては1番得やね。思い通りというのは、人間側の自分と他人を分け隔てた、自分という意識でしょ?

 その自分という意識の思い通りにしてあげないことが1番いい。でもなかなかね、色々あるから。

 ほら、ちっちゃい子がそうでしょ?ちっちゃい子はチョコレート、アイスクリームとかお菓子食べてたらええんや。ご飯なんかいらんねんな。だけどそんな思い通りにさせたら病気になるだけや。だから「ちゃんとご飯食べなさい」って親はするわけでしょ?そういう部分は「印可書」を読まないとわからない。損得だけ言うたらな、もう子供の思い通りにお菓子ばっかり食べさせてたらええね。ほんなら病気になって死ぬ。虫歯なって苦しむとか、色々あるわな。

質問:今の損得のお話で、日常によくあるなと思うのが、例えば自分が損をしても、これあげた方がいいんちゃうかなとかいう時点で引っかかってるので、無条件に与えるっていう気持ちになってないんやったら、あげない方がマシかなとかいう風に思ったり。

河上さん:いや、だから、その損得なんだけど、相手の、自分という意識のね、欲望や。それを欲望って言うんけど。自分という意識の欲望を満足させたらあかん。まず、そこやねんね。そこを分かりにくいから、もうひたすら「印可書」奉読してって言ってるわけやけどね。だから理屈だけで言ったらね、さっき言ったように、今、財布にあるお金を、此処のみんなに配ったらええんか?みたいな感じになるわけよ。そうじゃないよね。

 本当に神さまの御心に沿ってるかどうかや。だから、神さまの御心に沿うためにね、全財産投げ出してもええわけや。先生は神さまの御心に沿って、全財産をいつも投げ出してはってん。それが凄い事やってん。入ってくる収入を全部ね、神さまのために使ってね、シールやね、色んな事に使って、お祈りに行くためのガソリン代とかに使って、自分の食費には使いはれへん。それでも、「色んな人が食べ物を口に押し込んできたよ」って仰るわけ。そういう意味や。

 神さまの御心に沿って、損得を考えたらあかんわけで、人の欲望に沿って、損得を考えてあげたら、相手が余計マイナス背負うだけや。
 
質問:神さまの御心に沿う?

河上さん:そう。神さまの御心に沿うというのは、みんな分からへんから、「印可書」奉読をひたすらしてたら、御心がだんだんと響いてきてね、なんとかなんね。そやけど、「印可書」奉読して、どうなんかなって考えた途端にな、奉読が帳消しになるから、単なる読んだになるからね、考えるなって言ってんね、いつも。スっと受け止める癖を付けなあかん。どうしても、みんな考える癖があるから、「印可書」奉読して、「さあ、どうしましょう?」って。いや、「さあ、どうしましょう?」って言ったら、もう奉読したことになってへんねんけど、皆な、もう、そこは癖や。それしゃあないねん。

 でもそれ、自分と他人を分ける意識やね、「その、さあどうしましょう」というのは。でも、その攻めぎ合いやねんけどね。

質問:なんか言うたら、今のお話が、そこの、「さあ、どうしましょう?」は余計ではあるけども、そこで、「印可書」唱えてるってのが、何かのことがきっかけに、「印可書」を唱えてるのは、まあ、そこは良しとしてもらいながら。

河上さん:そうそう。

質問:ひたすら、ひたむきに奉読させてもらう。

河上さん:そうそう。「神さま、神さま」って呼ぶっていうのは大事なんや。「神さま」って呼んでるつもりで呼んでない人が多いから、「印可書」奉読したら確実に呼んでるから。で、呼んでたら、勝手に神さまの中入っていけるのね。ただ呼ぶだけやったら不安やから、 先生は「印可書」奉読したら、神さんのお手伝いになってるよって仰ってくださって。で、実際お手伝いになるねんで。お手伝いになると呼ぶじゃなくて、神さまと共になるから、だからお手伝い。

質問:それは神さまの中にも自分がスポッと入ってるっていう事ですか?

河上さん:入ってるから、分かる分からんじゃなくて、そのまんま御心に沿っていけるわけや。でも、「印可書」奉読して「さあどうしましょう?」っ言った途端にお手伝いやめてな、「どうしましょう?」って言ってるから崩れるわけ。

質問:お客さん的な感じになっちゃってるわけですか?

河上さん:そうそう。

質問者:はい、ありがとうございます

宮野さん:この間の護摩の時も、物をあげるっていう行為っていうのが、こちらの、あげる側のマイナスが一緒にくっつ付いて行くっていうのを、先生がお話前にされてますでしょう?

河上さん:あ、そうそう。

宮野さん:で、まあ、この肉体を持ってると、物をあげるっていうことは、割と日常的に起こることなんだけど、さっきの話のように、どっか虚栄心があったりとか、お世話になってるから、お返ししとかなあかんかな、何時も頂いてるから、お返しせなあかんかなとか、そういうのは、どうしても、ついて回るところが難しいとこかな?と。

河上さん:そうよ。だから物よりお金の方がもっと乗せやすいからね。相手にマイナス送りたい時はお金送るの1番。(笑)今やったら、あのなんとかカードとかあるやんな?

宮野さん:クオカードとか、Amazonカードとか。

河上さん:Amazonカードとか、あれで送ったら1番自分のマイナス相手に送れるからやってください。ちゃうか(笑)

 それぐらいね、なんて言うんかな、物のやり取りって大変なのね。でも現実にはそれがお金を介していっぱい起こるわけでしょ?

 だからお金持ちになるほどね、神さまを信じなくなるんよ。お金に頼るようになるね。それはお金についてるマイナスが全部集まってくるから。マイナス集まったら、神さんは信じない。頼らない。お金に頼るようなるね。

 でもな、お金に頼ったらな、ほんなら、お金がなんとかしてくれんやったら、ガンなっても治るんやろ?でも金持ちでもガンなるやろ?お金ではどうしようもないって気づかなあかんねんけど。みんなはお金に対する信仰が結構深いねんな。「お金さえあれば」と思ってんね。お金さえあればと思った途端に病気になるよ。大変になるよ。

 みんな自由意志やから止めようが無い。この甲辰からはおまけがないね。おまけ出しようがないからね。みんなそれぞれ、頑張ってください。光強いっていうのはそういうことよ。

宮野さん:でも逆に言うと、光が強くておまけがないってことは、先生が最初にしはった、みんなそれぞれに先生が降り立ったってことでしょ?

河上さん:そうそう。

宮野さん:ということは、真祈りを深めるって、今日よく出た話の中で、今を楽しむ。

河上さん:うん。

宮野さん:という、いかなる状態であっても楽しむって、そこを、そこをずっとやってれば。

河上さん:楽しめるようになったはずや。

宮野さん:そしたら、それは、例えば言われたように、渦中にいても、楽しんだらそれがすぐに次の展開になっていくから終わっていくっていう感じですよね。

河上さん:そうです。

宮野さん:おまけが無いけども、過ぎていくのは早くなるっていう。

河上さん:だから、今が1番になってるって喜んでたらいいね。でも、その1番良いようになってるを掴むからな、一瞬一瞬、新たいう部分がいるから、それを「印可書」奉読でっていう。

宮野さん:甲辰で、すごい心配して、「えっ、おまけがなくなったんや」って心配してるっていうのは、自分ってものを外せない。お祈りをするっていうのに、もっと意識を向けてもらえない。え?違うな。日本語か違う。えーと、甲辰というものになって、お祈りがどんどん、どんどん深めれるようになれば、特にそのおまけがなくても。

河上さん:おまけがいらん状態なったんや。

宮野さん:ってことですよね?

河上さん:今までは、その、小っちゃい子やからね、ちょっと、もう、あの、なんとかしといてやってくれっていう、先生の依頼通りにしてたのが、もう、せんでいいってなったから、もし歩けなくなっても、色々起こっても、自分で頑張って下さい(笑)。

宮野さん:今までは、あれですもんね。病気治しても、いろんなマイナスに思えるようなことを改善しても、結局それを過ぎて、喉元過ぎれば、また元に戻ってしまうっていうのがあるから、やっても一緒という。

河上さん:そう。やってもやっても一緒やけど、小っちゃい子やから、まあ要するに、なんぼ怒っても、泥んこ遊びしてきても洗らったるやろっていう感じで先生仰ってたんでね、 洗ってたんだけど、もう洗わなくていいよっていう。
 
 それでも、もうちょっとおまけ出したいから、わざと1年サバ読んで、5年って言っててんけど、本当は微妙なとこや。リクゴウ(六合)って言ってね、6年間はおまけ出せっていうことやってん。

宮野さん:いやいやコレは駄目、まだ。

河上さん:あんまり難しい言葉使うな言うから止めときます。はい。

宮野さん:文字起こしの時ややこしいな。

河上さん:漢字は教える。
 これからは、おまけ出していいのは奥さんだけってなってん。、奥さん以外にはおまけ出せません。

質問:神さまの愛が感謝と真(まこと)ということで教えていただいたんですけれども。

河上さん:感謝と報恩。

質問:報恩ですか?

河上さん:感謝と報恩の真(まこと)を生きるや。

質問:その真(まこと)を生きるですね。

河上さん:だから、感謝と報恩を一言で言うと真(まこと)やね。それをもっと一言で言うと愛。

質問:その場合の真(まこと)というのは、誠実の誠なのか、真実の?

河上さん:いや、言霊です。絶対の中心という意味です。

質問:それはこの世的な言葉で…

河上さん:現しようがない。

質問:現しようがない?

河上さん:うん。

質問:どちらでも表せないからその時の…

河上さん:だから、その時のこの世的な雰囲気に合わせて、いろんな漢字を当てはめるわけね。だから、旧字体の眞を入れたりね、十字の今の真を入れたりするわけ。十字が左旋回になって旧字体になるんだけど、ちゃんとそういう風に漢字はできてるんやけどな。そやけど、この世的は絶対の中心から必ずずれた結果でしょ?離れた結果じゃない?だから(まこと)という言霊があって、いろんな漢字の表現があって、カタカナ、ひらがながあってみたいな。

質問者:分かりました。ありがとうございます

河上さん:だから、感謝と報恩の真(まこと)を生きるって先生がね、もう敢えて付けられたわけでしょ?でも、それをもっとしつこく質問してね、具体的にって言うて聞けばええねんけどね、みんなわかった気になって聞けへんから。 で、もう、ともかくそれを、全てを事細かく説明した状態というのを「印可書」にしてもらった。だから「印可書」が全ての答えになるからというのは、先生の話を聞けって言っても聞けへんやろ?だから「印可書」にして貰ろうたんや。なんでもお見通しだい。ちゃうか(笑)。

 やっぱり1番無条件っていうのが1番分かりにくいよね。どうしても自分と他人を分けて考えるという癖があるから。何があってもまず考えようとするやろ?でも考えると言った時点で、自分と他人分けてるねんっていうのがね。でも、もう自分と他人を分けるのが当たり前と思ってるからね、なかなか大変や。

 でも、右手と左手分けてるけど自分やんっていう感覚がね、分かって欲しいねんけど。左手、どんくさいからって、切り捨てへんやろ?どんくさいなりに使い道があるんでしょ?包丁で切る時でも、左手は不器用やから、物を押さえる方に回ってくれるわけでしょ?「わし、一生懸命なんでも切ってるけど、お前、ただ押さえるだけかい」って言えへんやん。そういう感じでね、みんなで助け合わなあかんねんけど。

 それぞれの人が出来る事をさしてあげてね。 その人はね、20も出来てへん。でも同じ給料貰ってるでええねんって、本当は。
 大きい会社で言うたらね、玄関とかトイレとか掃除する人おらんかったら困るんでしょ?本当はみんな同じ給料でもええわけよ。それでも給料に差があるんでしょ?その差があってもまだ文句言うんやろ?なかなか面白い、皆な。

 裏方さんが必要なん。平均的な処理能力ない人は裏方に回って耐えてるね。でも耐えてる状態はまだまだやね。裏方に回って喜ぶようにならな。

 だから工事現場で、車の交通整理する人おらんかったらね、工事現場大変や、な?そういう裏方の方の地道な働きがあって全てが成り立ってるんや。どの事を何をしたって自分は偉いねんって思った途端に狂ってんね。ただただ喜んで自分のできることを精一杯してるっていうだけやのにな。

 「あいつダメやな」と思った時点でな、反省せなあかんね。条件つけてるし、その全ての大きな働きを読めてない。だからお給料制なんてせんとね。只々みんなで支え合って食べ物を分け合ってってしたらええねんけど、それでは文句出るんやろ?出るからお給料制してんねんやろ。会社でもなんでも。今すぐ欲しいもんあった時はお金があった方が手に入るからな。お金なかったらしばらく辛抱せんなんとかなるから。それがみんな嫌なんやろ?

 でも、神さまが1番いいようにしてると思ったら、すぐ手に入らんもんは必要ないもんやって分かるねんけど。

 まあ極端に言うとダイヤモンドとかな、ルビーの指輪とか、すぐに手に入らんもんやけど、本当に必要かいうたら、必要ない。でも欲しいんやろっていう感じや。バッグとか服とか、もうみんな色々あるやん?その人に応じて、食べ物とかな。
 ぜひ欲しいもん、ぜひ欲しいもんやけども、本当に必要なものは、先生の表現で言うとね、それがなかったら生きていけないものは必要なものやけど、それがなくても生きていけるものは必要でないってはっきり言い切ってはる。

 それをもっと身に染みてもらわな。でもな、欲しいもんでも、ちょっとは食べやって言って、先生は許してくださってるだけやんか。だから、口はみんな若いまんまやけどね。それが無くなったら、生きていけないもの以外は食べないって決めてみ。かなり楽になんねんけどな。みんな辛抱できへんやろ?

 お酒やタバコや色々あるやろ?コーヒーとか甘いもんとか、ケーキとか。でも、先生の教えというがね、言われたことに立ち返ったら、もうそれがなかったら生きていけないもの以外は必要でない物や。そこまで厳しくしろとは言わんけど、いつもそれを思って、辛抱するんじゃなくて、今あることで喜んでください。まずその練習からお願いします。

 それが無条件ということよ。自分の生きていくために必要なものは条件つけていいけど、自分で生きていくのに必要でないものは全部無条件で喜ばな。

 まあ、どっちにしてもエネルギーの問題で大変なるから、みんな防寒具を買うときや。ほんとに灯油も何もかもなくなって寒い寒い冬を越さなあかんようになるからな。洗濯もある程度手で洗うこと覚えとかんと大変やで。言うたで。あと準備するせえへんは勝手や。

宮野さん:夏は?

河上さん:夏は思いっきりクソ暑なんねんって。それも1年中クソ暑いねん。で、もうこれから暑なるから温暖化やし大丈夫やって油断させといてな、寒くする。そこは神さまの面白いとこよ。

質問:何年スパンで考えといたらいいでしょうか?

河上さん:もうすぐや。

質問者:すぐ。はい。

河上さん:そんなことも分からんとな、ぐちゃぐちゃ騒いでんねん、みんな。
 それくらいみんな小っちゃい子や。先生が「可愛い可愛いしといたらええねん」って言うねんけど、「もうおまけは出さんでええ」って言うから、可愛い可愛いだけして、今ちょっとおまけを言いました。

 だから気候でもずっと人類の歴史上ね、暑くなったり寒くなったりを繰り返すわけよ。それは人類の思いのせいやねんけどね。で、それを清める形となって、氷河期が来たりね、小氷河期になったり、あったかい時が来たりをずっと繰り返すね。
 でもその変わり目は極端なんよ。みんなが思う程ゆっくりではない。だから縄文時代は氷河期やから、海がね、日本海は歩いて渡れたわけでしょ?

 で、氷河期過ぎたらやね、氷溶けるから、奈良まで海やったんでしょ?奈良盆地までね。
で、また氷河期済んできてっていう繰り返しやん、ずっと。只、それが今度は早く起こる。

 もう地球霊王様が「ええかげんにせえ」って怒ってはるんや。もうちょっと待ってくださいって、ずっとこっちはお願いする側でずっと来てるだけで。でも甲辰(きのえたつ→氣延枝断つ)に入ったからな、なかなか。
 
 だから一切の暖房なしで冬越せるというのを頭の片隅に置いて色々と段取りしてください。一切の暖房なしで冬越すというのが何が大変か言うと、洗濯やねんな。シラミをわかしたら最後、発疹チフスが蔓延してバタバタ死ぬからね。寒いけども洗濯はせなあかんね、厳しいで。「おしん」の時代が来るんや。手で洗濯せなあかんからね。ということでお祈りして終わります。


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2月護摩 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年02月19日(月) 11時15分
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2月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年2月の護摩焚きで、皆さんからの質問に河上さんがお答えくださった内容です。ありがとうございます

質問1
 真祈りの会の主催者からの質問です。始める時は、一生懸命だったのですが、今はそこまでではないので、申し訳ないと思いました。今、護摩木も収めてなくて、山へも行けてません。只、お祈りだけはしています。お祈りの会を続けて良いか悩みました。教えてください。

河上さん
 またお会いできて嬉しく思います。

 今、言われたのは最初に一生懸命というのは、もうすでに力が入ってるのね。緊張してるというか力(りき)んでる訳です。力(りき)んでたら、それは、真祈りにならないのね。真祈りにならないとすべてがうまくいかないから、なっていく訳ですね。

 最初の時にお話ししましたけども、「自宅でされても、会場を借りてされても、誰も来なくても一人でお祈りして下さい」ということはお願いしています。それは、肉体を持って来られるか、肉体を持たずに来られるかだけの違いだけで、必ず必要でその場所が、そこで真祈りの会をしようということが決まったわけですから、それはご本人が決められたか周りで決めたかは全く別で、神さまの御心が降り立ってそこでするということになっていますので。仮に会場を借りてやられてて、もう会場を借りていないという時は、ご自宅でされたらいいと思います。もうただただそれだけで、神さまのお手伝いをするということが大事なんですよ。

 いつも言うように損得が入った途端に何事もやる気を失うんです。仕事でもそうなんですけども、損得が入ると「同じ給料やのに俺は一生懸命やってるけどあいつは怠けてる」ってついつい思ってしまうんですけども、損得が入ったら、もうそれは、お祈り、真祈りではないんです。

 損得は宗教のものです。ここの宗教に入ったら、「ご利益がある」とかね。あるいは、「お賽銭入れるから大学に合格させてくれや」みたいな感じですね。損得は宗教ですけども、ここはいつも言うように宗教ではありませんので、損得抜きに働くというのが基本なんですよ。

 真(まこと)の神さまの働きというのは損得が一切ないんです。だから、空気も水も太陽も全て無尽蔵に与えられてるじゃないですか。「お前、これだけ使ったから今月これだけ払え」って神さまおっしゃらないですよね。もう全く損得抜きに働かれるというのが神さまの働きです。

 その神さまの働きのお手伝いをしようというのが真祈り人ですから、損得抜きにただするだけですよ。だから人が来ようが来まいが、あるいは会場を借りずに自分のお家の小さい部屋であろうがですね「真祈りの会します」とやってお祈りされたらいいです。それは1時間されなくても、「印可書奉読」したら大体5分くらいかかりますからその5分間だけでもいいです。ともかく、「します」と宣言してお祈りして「今日はこれで終わります」というふうに宣言されたら良いと思います。ありがとうございます

質問2
 宇宙神ありがとうございます いつもお世話になっております。

 神書426ページ「本心の心は既に救われている」の項目の中に「本心の心の自覚が深まってから、他を救う働きをしようと思っていたら、永遠にそのチャンスは訪れて来ないのです。」とあります。友人に伝えたい思いながら、自分の言動に自信がない為に、又結果を気にして実行に移せない時があります。そのような時のアドバイスをお願いします。

河上さん
 これは本心の働きについて誤解があるんですね。本心の働きというのは、今、今、今、今ね、みなさんの生きてることすべてが本心の働きなんです。だから形の上で、言葉で何か話するのが働きだと思っておられますけど、そうじゃなくて、真祈りを響すというのは、先生のお言葉を借りてお話しすれば「相手の心の中に真(まこと)の神さまを立てる」という事なんです。それは言葉で説明して立てるんじゃなくて、こっちが真祈りをしてることによって相手の心の中に真(まこと)の神さまが降り立つんですよ。

 なぜ降り立つかというと真祈りすると自分と他人の区別がなくなるのね。すべて自分になるから自分の中に降り立った真(まこと)の神さまがすべての人の中にも降り立つわけです。それを慣れてないうちは特定の誰かという形でなるだけでありまして、ただただ神さまのお手伝いをしてると思って、ひたすら「印可書奉読」されてたらいいだけなんですね。

 宗教じゃないから、宗教だと言葉で布教と言うんですか、なんかしに行かなきゃいけないんですけど、そうじゃないからね。本当の真祈りというのは言葉はいらないんですよ。心で響すだけなんです。

 それは、真祈りというのは自分と他人との区別をなくなるからです。自分と他人の区別がどうしてなくなるかというと本当に、これが一番わかりやすいと思って、この頃、損得という言葉を使ってますけど、損得があるうちは自分と他人が別れてるのね。損得抜きになったら、もう相手も自分になってるわけです。そうでしょう。自分のためにはなんでもするんでしょう。他人のためには、やりかねる訳じゃないですか。それは損得が入ってるからね。損得が入らなかったら全部自分だから必要なことを必要なだけできるようになるんですね。

 どれだけしたらいいのかというのは、まず「印可書」を奉読してたら勝手に決まりますから、「印可書奉読」して何もする気なかったら、形の上では何もしなくていいです。ひたすら、いろんな人のことを思いながら「印可書」を奉読されてるだけで十分本心の働きとなります。ありがとうございます

質問3
 十界とミニ十界の違いを教えてください。

河上さん
 十界というのは、いわゆる、この写し世でない世界。だから、あの世とか天国地獄っていうじゃないですか、それを十界といいます。ミニ十界というのは、この写し世の世界です。どういう違いがあるかというとミニ十界というのは、いろんな人の思いをぐわっと混ぜ混ぜて、ごちゃ混ぜにして表してる世界なんです。

 それで十界になるとそれぞれの菩薩界だったら菩薩の人ばっかりとか、地獄界だったら地獄の人ばっかりとか餓鬼道の世界だったら餓鬼道の人ばっかりということになるわけです。そしたら、同じ人しか見ない見えないから進歩しようがない、勉強のしようがないんですね。この世は、わっと混ぜて見せてくださるから、松下先生のような方を見ることができて色々と勉強になって進歩するわけです。

 ただ、このミニ十界の写し世といえども、ぐわっと混ぜても、例えば、水に泥とかいろんなものを混ぜてガッーってかき混ぜるじゃないですか。そしたら、水は混濁した混ざった状態ですよね。しばらく置いておくと一番上の透明な水と下にどんどん分離していくでしょう。そういう感じで、このミニ十界もみなさんがお年を召していくと、ミニ十界と言えども皆さんお一人お一人のミニ十界なんですね。

 自分の見てる世界と人の見てる世界違うんですよ。だから同じものを見ても「わぁ、きれいな花」っていう人と「ああ、なに咲いてるだけや」っていう人あるじゃないですか。それくらい自分の世界見るんですけど皆さんお年を召していくと、生まれた時は、きれいに混ぜて見せてもらってるものがだんだん沈澱していくのね。その時に「印可書奉読」できてる人は、上の澄み通ったところが見えるわけです。でも損得で生きてる人は、どんどん下のものを見るわけ。ただそれだけです。そのために救いのため、勉強のために神さまはミニ十界を作ってくださいました。ありがとうございます

質問4
 宇宙神ありがとうございます いつもありがとうございます。

 1月の勉強会のお話で、アルコールは波動が変わってきているので飲まないようにということでした。私はアルコールは飲めないのですが、家族はワインや焼酎を夕食時に楽しんでいます。ストレスで飲むというよりは楽しんでです。そこで私が「飲まないほうがいいんだって。波動が変わってきてるらしい」などと言ってもうまく伝わりません。私は何も言わず、家族が飲み始めたら印可書を唱えるとかお酒そのものに印可書を唱える、お酒に印可書を貼る…。どのようにするのが一番いいのか教えて下さい。よろしくお願いします。

河上さん
 人は好きにするだけで言うことは聞きません。だから言っても時間の無駄。何言ったって好きにしかしません。だから先生は「皆んなの心に真(まこと)の神さまを立てることが真祈りだ」とおっしゃったわけです。何を言ったって言うこと聞かないからね。心の中から変えるんだということです。今おっしゃられた、お酒に(印可書を)貼ると嫌がるから、それはやめて、お酒に「印可書」を奉読する。それで飲んでる方に「印可書奉読」するでいいと思います。ありがとうございます

質問5
 宇宙神ありがとうございます 護摩木を書いていた際に束ねていた護摩木が突然消えました。神隠しでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 それは神隠しで必要なところに行ったから大丈夫です。

 昔、三洗荘の時代というか一番最初の頃に先生が「空飛ぶ円盤を作ろう」ということで、いろんな数式も降ろされて、実際に空飛ぶ円盤を作りました。実際に飛びました。なぜ中止になったかというと、飛んで消えたんです。まだここまでの理論では制御しきれないから、取りあえず止めようと。どういうことかというと皆んなの真祈りがないと本物の円盤は作れないから、皆んなの真祈りができるまでは、一旦中止しようということで中止になったんです。

 それくらい、この写し世というのは空間の歪みがたくさんありまして、いろんなことが起こります。暦に八専という時期があるんですけども、今月でしたら末の方からあるんですけど。その八専の時期に例えば山に入ると神隠しにあって帰って来ないというのが多いんですね、昔から今もですけど。だから八専の時期は、木こりと言うんですか、山仕事される方は絶対に山に入られないんですけども、今は知りませんよ、昔はね。

 それくらいこの世は、特に山とか谷とか川とか海というのは空間の歪みが出やすいんで、いろんな意味で、まだまだ人類では分かってないことばっかりなんですね。その中の一つです。ありがとうございます

質問6
 内向的で甘やかされて育った小1の外孫、2学期から登校拒否。中1の姉がいます。娘婿、夜勤ありの不定期勤務。娘、コールセンター勤め。1月から在宅勤務を週に数回させて頂き、中1の姉がズル休みの時だけ2人で留守番し出社。最近は、娘婿、私(祖母)との留守番も嫌がりママにベッタリになってしまいました。収入が減少分こちらからの応援になっています。これも不労所得になりますね。夫婦仲もギクシャクし私は只々お祈りをさせて頂き、見守っているだけしかないかと思いますが、あれこれと気を揉んでしまいます。いやいや真祈りだけと気持ちを振り戻しますが、いかがなものでしょうか?ありがとうございます

河上さん
 これは、もう先ほどの質問と同じ典型で、人は言うこと聞かないです。引きこもりになるお子さんというのは、何が原因かと言うとお母さんが何でもしちゃうのね。お母さん、おばあさんでも誰でもいいんですけれど、周りにいてる人が、その子のして欲しいことを何でもしちゃうの。だから自分で何もしなくていい状態で育ってきたんですね。

 だから、いわゆる幼稚園とか学校とか世の中に慣れるために行くわけじゃないですか。そういう、いわゆる最初の組織ですね。組織に入ると自分でしなくてはいけないことが出るでしょう。それをするのが苦手で嫌だと拒否になっちゃうわけです。だから、何でも自分でするようにさせていくしかないんだけども言うこと聞かないからね、お母さんも。だから、ひたすら「印可書奉読」するしかないです。

 いろんな役目を背負って、出社拒否とか会社や学校に行かないとかとか言うのは、いろんな理由が複合的にありますので、一概に今、言っただけの理由ではないので、もう責めるのではなくて、ひたすら、お祈りしてるだけがすべてですね。言って変わる位だったら誰も苦労しないし、大体、人は言われても言うことを聞かない。ありがとうございます

質問7
 ありがとうございます 私ごとで申し訳ありません。約20年前に離婚しました。2週間ほど前、あるセミナーで元旦那さんのお母さんと一瞬会いました(私に会いに来たそうです)。後、姑さんの友人によると元旦那さんは、鬱になっていて働くことができず、家からも出れない状態だそうです。20年前、会うことは家族に反対されてます。それからというもの、時々頭の中でどうしたらいいのか?と思うとすぐ「お祈り」という言葉が浮かび慌てて「印可書」を唱えたり、「宇宙神ありがとうございます」と言いながら、光を送るイメージでお祈りさせていただいてます。そのセミナーの講師の先生に相談すると「お母さんの話をしっかり聞いてください。」「無の心で聞いてお母さんの気持ちを溶かしてあげて下さい。」とアドバイスをいただきました。しかし会う勇気もなく、また元旦那さんが家から出れない状態と聞くと幸せを祈るしかないです。それでよろしいでしょうか?20年前に会うのを禁止されていて自分も少し怖いです。「印可書」をひたすら唱えるだけでいいでしょうか?

河上さん
 はい。それでいいです。それでいいです。

司会者
 続きがあります。元旦那さんも姑さんもみんな幸せになるイメージを持ってお祈りさせていただくことでいいでしょうか?

河上さん
 イメージはいらないです。何も考えなくていい。

司会者
 自分から会いに行くことは、今は自分にとって厳しいです。よろしくお願いします。

河上さん
 無理に会いに行く必要はないです。

 結局、引きこもりになる人というのは、学校に対してでも会社に対しても社会に対してでもですけど、普通の人が平均的な物事を処理する能力あるじゃないですか、(それ)よりも下なんですね。いわゆる大阪弁で言う「どんくさいやっちゃな、使えんやっちゃなあ」という言葉で言われる人たちなんです。

 それがいい悪いじゃなくて、平均的な能力で下だから、本人は一生懸命真剣にやってるんだけど、周りは「何をサボってるんや、何を怠けてるんや」と言うわけですね。言われるから余計辛くて出れなくなるわけですよ。

 そういう平均以下の方を責める言葉が戦争に繋がっていくというのだけは覚えておいてください。だから会社で、いわゆる組織で処理能力が平均より劣る方はサボってるんじゃなくて、本人は必死だけど側から見ているとトロトロとどんくさい、どこで何さぼってんねんと手抜いてんねん、というふうに見えちゃうわけですね。

 見えた部分を責めただけ、それが、そのマイナスのエネルギーが戦争になっていきますので、せっかく縁あった仲間だからちょっと助けたろ、という感覚で、手助けはしないまでも本人のできる範囲のことをさせようというふうにもっていくのが本当はいいんですけど。今の競争社会では、どんくさい奴は追い出されますので、そういう出社拒否が出てきます。

 これも結局は、真祈りがみんな浸透してないから、損得を考えるじゃないですか。だから最初に言ったように「同じ給料あいつも俺も貰ってんのに、あいつは何をサボってるんや」っていうんじゃなくて、本当は、その人は処理能力が低いだけなんだけども、まだ一般の生活できるだけは優秀なんですよ。でもそれでも処理能力が低いだけでそう言われちゃうんですね。それをいかに皆んなで支えてあげれるか、なんですけど、その辺が、まだまだ損得あるうちは無理なんです。

 だから皆んなが真祈りできるようにならないとそういう事は解消しませんので、まずは「印可書」を奉読して、すべての全人類の人の心の中に真(まこと)の神さまを立てるんです。すると真(まこと)の神さまの種が皆んなの心の中に宿るの。宿るとそれが芽をふいてきますから。内側からしか変わらないの、人間は。外から何言われたって誰も言うこと聞かないから。ご自分の事振り返って考えて下さい。人から言われて言うた通りした試しはないから。一部を聞いて、それは真似します。やりますけれども十言われて十やれる人は、まずいません。そういうものです。

 それは真(まこと)の本心の自覚があるからなんです。あるからこそ自分でできるって皆んな思うのね。ただ、その思う自分が大きいか小さいかだけなんだけど、その大きいか小さいというのは真(まこと)の神さまの種を皆さんの心の中に入れないと大きくならないんでね。外からは大きくできないんですよ。
それはわかりやすく言うと卵からひよこ孵るじゃないですか。でも、そのひよこが殻を自分で割るからこそ孵るんであって、まだ孵る時期でないのに無理にその殻割ってあげちゃったら死んじゃうじゃないですか。そういう感じで、そのどんくさい人は、要するに処理能力の低い人を責めるいうのは、その人を殺してるようなもんなんですよ。だから、それが溜まり溜まって戦争という形になって出てくるんでね。その辺は理屈で言うとこうなるんですけども、そんなことを理屈で言ったって今の競争社会では、「そんなんしてたら会社は赤字になって潰れる」とか言われるだけですから。まず「印可書奉読」を真祈りをしてください。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 事前にあずかった質問は以上です。会場の方から質問があります。

質問8
 ありがとうございます 自分の意識、肉体の意識で考えずに、何事も印可書を奉読、真祈りをしてから行動に移そうねっていうことだと思うんですけども。その印可書奉読、真祈りをした後に移った行動が、一生懸命を越えて、力むっていうところの癖が出た場合に、どのあたりでバランスというか…。はい、お願いします。

河上さん
 肉体意識で考えるなとか言いますけどね、要するにどういうことかと言ったら、損得で考えるなですよ。だから「印可書奉読」した後でも損得で動いてる時は、まだまだ自分は未熟だなあと思ってください。要はそれだけです。だから損得が働いたら変に力んでしまったり、要するに人からどう見られるかという損得が働いて無理したり。あるいは自分の体を過剰に守ろうとしてね、損得で手を抜いたりとかというふうになるわけです。だから、損得になってるか、なってないかだけです。

 「新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分」にならないと駄目なんですけど。その新たなる下座に立つかどうかというのを「印可書奉読」で沁み込まさないと。理屈では永遠に分かりません。ただ、理屈で考える癖が皆さん付いてるんでね。この前から、損得になってないかと、無意識のうちにも損得になってないかと考えてくださいというふうにお願いしています。

質問者
 印可書の奉読が、もっと深くっていうことで。一言で言うと。その部分が大事だということですか?

河上さん
 はい。

質問者
 分かりました。

河上さん
 だって無意識に損得になってるじゃないですか。無意識になってる時に気付かないでしょう?(はい。)

 例えば、仕事を一生懸命やっていてね、疲れてくるじゃないですか。疲れてきたときに、あと一時間無理して頑張ったら、この仕事は片付くと思って、無理してしまう人としない人とあるんですけど、どっちも間違いなんですよ。その辺がね、理屈では分からないの。だから損得という指針を持って、ある程度動けば良いんですけど、理屈で損得ばっかり考えると、もうそれは真祈りじゃないんですね。それだけなんですよ。

 だから真(まこと)の本心の自分の自覚を持つしかないんですけど、いつもいつも神さまのお手伝いをする、すると思っていればね、無理をする必要がある時は楽に出来ますし。体は辛いんですよ、体は辛いけどギリギリまで動けるんですよ。その辺の見極めは、もう「印可書奉読」してないとね、無理なんですけど、最初は。

 だから若いうちじゃないと中々悟りに近づきにくいというのは、若いうちはね、無理しても体を潰すことはないから、その限界を見極めていけるんですけど。年取ると無理すると、次、回復しないからね。だからあんまり年寄りには言えないし。何よりも一番は、まず「印可書奉読」して、本心の、真(まこと)の本心の自分を自覚することですよ。それが出来なければ、どんなに理屈で考えたって永遠に堂々巡りします。

 因縁因果の世界というのは理屈の世界なの。理屈というのは、自分と他人を分け隔てて損得で動いている世界を因縁因果って言います。その因縁因果の損得の世界に入ってしまうと、絶対に誤魔化し切れないわけですよ。だから、今生でズルをして損得の得だけを取っていても、生まれ変わったら損ばっかりを背負わされるということがあるわけです。それが因縁因果というんですけど。でも、その輪廻の輪を越えていかなくちゃいけない。それは真祈りしかない。それは真(まこと)の本心の自分を生き切るしかないの。それはもう、ひたすら「印可書」を奉読しないと。理屈抜きの部分なんですよ。

 昔は、道元先生の場合は、ひたすら座り続けたということですね。そういう、ひたすら淡々と、という損得抜きに只々神さまにすべてを捧げるというところなんですよ。無理に理屈で言うとね。でも、今そんなことを言ったって、この現代社会、競争社会でね、成り立たないじゃないですか。だから「印可書」をひたすら奉読しましょうということでお願いしています。「印可書」を奉読していたら必ず見えてきます。限界をいつも破っていくというのが。

 先生のお言葉で借りると「限界破りをしなさい」なんですけど、それって意外と難しいんですよ。先生がいらっしゃる頃は、「限界破りをしようって、こうしたんだけど、ついつい居眠りしてしまいます。」って言ったらね、ある人にはですよ、先生は「それは、全然お祈りになってへんからや。真剣さがなってへんからや。」と言うし、あるい人には「あ、そういう時は休んだら良いねん。」っておっしゃるわけですよ。それぐらい、その限界破りっていうのが理屈では分からない難しさがあったわけです。それがあるんで、もう一人一人を相手にしてるほど、先生ほど僕は神経が強くないので。みんなが同時に一斉に出来ることをしてくれと。理屈抜きで、もう只々これだけで、真(まこと)の本心の自分になれるんだということでお願いして。お願いしたら、命を縮めて作ってくださった「印可書」です。

 だから、そこをね、「印可書」を信じ切れるかどうかだけですね。損得で、「そしたら、「印可書」を読んだら悟れるんやな。」っていう損得になった途端に、もうそれは「印可書」を読んでるだけなの。だから奉読、神さまのお手伝いとして奉読してくださいとお願いしてるのは、神さまのお手伝いとして奉読する時は損得勘定が入らないのでね、お願いしています。

 そういう感じの「印可書」の奉読をされていたら、一斉に同時にみんなを、今回は悟らせる作戦ですから大丈夫、いけます。それまでは自分なりにギリギリまでいつも頑張ろう、若い人はね。あなたのように若い人は、倒れる寸前までいつも頑張ろうってされたら良いと思います。楽をしようと思った途端にすべてはパァです。ありがとうございます もうちょっと?はいどうぞ。

質問者
 印可書奉読で、損得勘定とか自分特有の癖が出る場合は、まだまだ印可書がこう…深まってなくて…

河上さん
 だから、さっき止めた。

質問者
 印可書の奉読によって、本心の自覚が得れるまで、一生懸命なんだけど力まず淡々とひたすら印可書を奉読し続けるっていう…。

河上さん
 生命のすべてを尽くしてっていうのが要る。

質問者
 ひたすら淡々に、同時に生命を尽くして、すべてを尽くして…

河上さん
 自分のすべてを尽くして。

質問者
 自分のすべてを尽くして、ひたすら淡々と力まずにフワっと印可書を奉読し続けるっていうことで。

河上さん
 あんまり理屈で言うと分からんようになる。

質問者
 はい、分かりました。ありがとうございます ありがとうございます

質問9
 すみません、今の質問で。例えば、友達にプレゼントをあげたいっていう気持ちはあって。でも、そのあげたいものが自分の思っていた予算より高くて。やっぱり損得で、「あ、高い。どうしようかな。」と思ったけど…。

河上さん
 無理はしなくて良いから諦めたら良い。(諦めて良い…)

 例えば、安いものを渡してね、相手が喜ばなくても、その結果に一喜一憂しないという覚悟が要るんですよ。今のだとね、「高いほど喜んでもらえるんじゃないかな」という無意識の損得が働いているのね。そうじゃなくて、「本当に印だけなんだけど」で、相手が「なんやこんなものって」思われても良いから、自分の真心(まごころ)だけを送れば良いんです。だから極端に言うと、物を動かさなくても「印可書」を黙って奉読してあげたら、それで良いんですけどね。それでも何か物の形で差し上げたいなと思う時は、それで差し上げられたら良いんですけど、それで相手が喜べる喜べないは関係ないと思ってください。

質問者
 はい。もう一つ。お賽銭なんですけど。金額は本当に関係ないと思うんですが、偶々、手に取ったのが五千円で。千円を入れようと思ったのが五千円を取っちゃって。「あっ…」って持ち替えて千円にしちゃったんですけど。

河上さん
 それで良いです。それで良いです。(良いですか)良いです。もちろん。無理することはない。(はい。分かりました。)

 ただ、明らかに、ここの神社は大変そうだなと思う時はね、自分が無理でなければ五千円を入れてあげたら良いですけど。やはり、ある程度維持して、神社を維持していかないと地震が起こるんですよ。神社というのは地震をとどめるために建てられたものばかりなんです。でも今はどんどん神社が無くなっていってね。そのせいで今年から本当に大変になってるんですけど。只々それだけなんですね。

 それで、村の小さい神社ほどね、「もう、いいんじゃないか」っていうふうに今はなって来て。「もう、いいんじゃないか」じゃないんだけども。やっぱり、総代をするというのは大変ですから。総代をしてくださる方がいらっしゃらないと。神社は神主のものじゃないんですよ。氏子さん全員のものなんですね。本当は全人類のものなんですけど。小さくは氏子さんのものなんです。その氏子さんの代表が総代ですから。総代の方の匙加減一つで神事が決まってしまうわけですけども。本当に小さな石の祠になってでも維持しなくちゃいけないものが神社なんで。本当はそうしたいんですけど、まず、まず真祈りからです。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 他、会場から質問がある方はいますか?(質問者がいました)はい、どうぞ。

質問10
 宇宙神ありがとうございます 今、自分の解決したい問題を抱えてまして、考えながら今、損得の話を聞いてたら、ちょっと頭の中が、こんがらがってきまして、その自分が解決したいという問題も損得て考えて解決するのもいいんですか?

河上さん
 いいです、もちろんいいです。

質問者
 1月14日の勉強会で、アルコールは止めてくださいっていうのをお酒は止めた方がいいですって聞かれて、僕、お酒を生きがいにしてたんで、かなりショックを受けまして。

河上さん
 いや、あのね、お酒を楽しむんだったらいいんだけど、お酒に頼るでしょう。(はい)それが問題なんですよ。(それで、お話聞いて)神さま以外のものに頼ると病気になるということです。だから、それはお酒に限らず、ご飯でもカレーライスとかお肉とか色々ありますけど、どれも食べてもいいんだけど、その頼って食べるでしょう。

 例えば、みんな人のことを笑ってられないんだよ。疲れた時に「あ、疲れたから肉食べましょう」とかね。「疲れたから何食べましょう」「ステーキ食べましょう」とかあるじゃないですか、その人によって、それって神さまに頼らずに物に頼ってるのね。そうして頼ってると例えば、それが癌になっていくわけです。いろんな病気になっていくわけです。

 その病気になるというのは神さま以外のものに頼ったからなんです。それは、お医者様に行くなという意味じゃなくて、お薬を飲むなという意味じゃなくて、すべて神さまの働きでお医者様を通していただく、薬を通していただく、ご飯を通していただく、ステーキを通していただくと思ったらいいんだけど、物に頼るでしょう。そこが問題なの。お酒も一緒です。

 御神酒として神さまの生命としていただいたらいいんだけど、神さまの生命ていただくと、あの「美味しいなぁ」だけで終わるわけですよ。でもお酒に頼ってるともうとことん飲んじゃうのね。飲めばやっぱり神さま以外のものに頼ってるから病気になっていくんです。ただそれが若いうちは、おまけをもらってるから病気にならないけど、大体45歳を過ぎるあたりから成人病って起こるじゃないですか。それは、おまけが消えていってるからです。

質問者
 今回、響きが変わったからアルコールに特に影響が・・・。

河上さん
 だから、影響が特に強く出るように早く出るようになったから若い人でも癌が出ますよという意味です。

質問者
 ただ響きが変わる以前にも、やっぱりアルコールというのは良くなかったんですか?

河上さん
 いや、だからアルコールが悪いんじゃなくて、今、言ったように神さま以外のものに頼ってる心が悪い。それが今までは、45歳を過ぎたら成人病として出てきたのが、これからは若くても癌が出て、癌とか癌に限りらずですけど、いろんな病気が出てというのがなるんで、もったいないからね、若い人せっかく命いただいて、これからこの世を楽しむのにね、楽しめないんじゃないかと思って、ちょっと足しました。

質問者
 勉強会の話を何度も聞いて、その中で解決策は二つあったんですけど、それは、それも損得で二つを選べばいいんですかね?一つは、だから損得で言えばお酒が大好きで美味しいっていうのがあって、それは自分にとって得なんですけど、損で言えば、その代わり病気になって死ぬよいうことなんで、結論は、まあ止めた方がいいっていうのがあるんですけど、(止めれないでしょう)お話の中で、なんか抜け道のような話があって、それは感謝して喜んで飲んだら大丈夫みたいな話なんですけど。

河上さん
 いやだからね、酒に頼るんじゃなくて、神さまの生命としていただいたら、「ああ、美味しい良いお酒だったなぁ」ということで、その最初の一杯で終わるわけですよ。でもお酒に頼ってたら何杯も欲しくなるの。お酒の利き酒そうなんですけど利き酒するって本当に最初の一口だけでしょう、後は味わからないの。わかります?だからお酒もコップ一杯で十分なはずなのよ。それこそ、盃一杯で十分なはずなの味を楽しむだけだったら、でもアルコールに頼るから次から次に飲むの。ビールでもそうでしょう、最初の一杯は「うまい」って言うわけでしょう。みんな働いた後の夏汗かいて働いた後の最初の一杯うまいなと後はもう味わからんと惰性で飲んでるんでしょう、それがダメだって言ってるの。

質問者
 だから、試飲程度で済ます、感謝して飲めれば、おとそのような感じでお正月の?

河上さん
 そう、そうなんですよ、あんまり理屈で言うとまたわからないようになるから「印可書」を奉読して神さまの生命として喜んでいただくっていうふうにしていったら、段々収まります。

質問者
 ただ僕の場合は、感謝しているふりをして、すごく飲んでしまいそうになるので、これは、もうちょっと解説とアドバイスいただかないと決心がつかないなって、本当に1月14日・・・。

河上さん
 本心の自分でないとね、決心はつかないんですよ。だから、なんであんまり理屈で考えたらわからなくなくなるっていうのは、理屈というのは、いわゆる本心でない思いの自分なんです。思いの自分は、いつも堂々巡りするの。だから、決心つくとかつかないって永遠につかないの。本心の自分しか決心はつかないの。本心の自分は「印可書」を奉読しか自覚できないから、もうどうしてもわからない時は、コップ一杯飲むごとに「印可書」を奉読したらいい。

質問者
 一応お話を聞いた次の日から止めれるか減らす?

河上さん
 いや、だから先ずは飲む前に「印可書」を奉読して、それでコップ一杯いただいて、また「印可書」を奉読してやっていたら収まります、大丈夫です。

質問者
 うまくまだいってないので、次の日が飲んでもないのに二日酔いになってしまって、飲んでもないのに吐いてしまったんですよ。

河上さん
 それだけ今までお酒の量が多かったいうことです。

質問者
 そう飲酒量は増してたんで全般的に大好きだったんで、本来なら護摩から帰った日は、晩酌でお酒を飲むんですが、それぐらい全てに・・・。

河上さん
 「印可書」を奉読して飲んで、また「印可書」を奉読して飲んでってしたらいいです。

質問者
 だから、止めれるようには、やってたんですけど・・・。

河上さん
 あのね、止めようと思うとね止めれないんですよ。なぜかと言と止めれないと決めてるから止めようとしてるのね。だから、永遠に止めれない。これは、食欲でも性欲でも権威欲とか色んな欲望ありますけど、どの欲望もみんないいとは思ってないんですよ。名誉欲でもね。いいとは思ってないんだけど止めようと思うんだけど止めれないというのはね、止めようと思ってる時は、既に止めれないって決めてるのね。だから無理なんです。だから理屈で考えるとわからなくるよって言うんですよ。だから止めるとか止めないとかもう一々考えずに「印可書」を奉読だけに徹したら、自然に収まります。大丈夫です。

質問者
 後、細かい部分の確認をしときたいんですけど、甘酒、米麹から作る甘酒と酒粕から作る甘酒は大丈夫ですか?どっちも?

河上さん
 どっちも大丈夫ですけど、あれは糖質がすごく多いのでね、年寄が飲むと糖尿病になります。若い人でも飲みすぎたら糖尿病になります。

質問者
 これもあまり飲み過ぎないように?

河上さん
 だから、先ず「印可書」を奉読してね。

質問者
 後、料理にお酒を使うのは大丈夫ですか?

河上さん
 大丈夫です。

質問者
 これが、ちょっと手強かったんで結構多めに入れて・・・。

河上さん
 料理にお酒使うのはね、いろんな意味でそのいわゆる発酵という部分が神さまの生命なので、それを料理に入れてアルコール分は加熱するごとに飛んで、主成分だけが残る。発酵成分だけが残るからそれはいいことですよ、大丈夫です。

質問者
 禁酒を始めても料理には、しっかり使っても?

河上さん
 大丈夫です。熱を加えてくださいね。

質問者
 作りおきの梅酒もあって、梅だけ食べるようにはしてたんですけど、やっぱりちょっと名残惜しんで、スプーンですくって、ちょっとなめて・・・。

河上さん
 だから、「印可書」を奉読してやってください、どれも。「印可書」を奉読してなめて、また「印可書」を奉読してなめてってしたらいいです。「印可書」から逃げるとね止めれなくなるから。

質問者
 代わりにコーヒーとか緑茶を飲み出したんですけど、将来的にそれもダメっていうことにはならないです。

河上さん
 ならないです。

質問者
 どれもこれもダメになったら、もう辛いな思って。

河上さん
 「印可書」を奉読してたら必要なだけを取るようになるから大丈夫です。

質問者
 もっと究極的には食べ物全体の波動が響きが変わったとさらっとおっしゃられてったんで・・・。

河上さん
 それどういうことかというと、いやいやどういうことかというと例えば、今までだったら一日ご飯は、朝昼晩、例えば、おにぎり三個が朝昼晩一個ずつ最低はいったという状態だったんですけど、これからは、本当にそれの十分の一でも大丈夫な時代に入ったということです。だから、本当にもう天変地異が起こるわけですよ。だから、いろんな意味で植物、お米でも小麦粉でも何でも取れる量が減っちゃうのね。減っちゃうけど慌てることはない。響きが変わってきたから少ない量で大丈夫になるんですよ。でも食べるものに頼ってる人はね、その少ない量が耐えれないの。神さまに頼ってたら少ない量で十分満腹感もあるし元気も出るんだけど、これだけ食べなくちゃいけないとみんな思い込んでるからね。そういう人は大変苦しいよということです。

質問者
 だから、基本的にはお祭りとか正月に食べるような糖質類は、なるべく取らないように心がけて。

河上さん
 そうですよ、あれは本来、お餅でもお米でもそうですけども、祝い事の時に神さまにお供えして、そのお下がりをいただく、みんなで、ここでやってる護摩の後にやってるような感じで、みんなでその神さまの生命、喜びを分かち合って、分け合って食べるという意味ですから、そういうものが糖質であって、普段食べるべきものではないんです。また昔は、それくらいお米も小麦粉も取れなかったの。お祝い事の時以外は取れなかったから、田植えの後の半夏生でね、暑い中、田植えして御苦労やったなぁということで、みんなでちょっと休憩も兼ねて半夏生餅食べようとかね、地域によって色いろでありますけども、あるわけですね。お正月はお正月で新しい年を喜び合うということで、そういうことをしたということです。何よりもお正月は火を使ったらいけないんでね。昔は冷たいままのお餅を本来は食べたんです。今はそんな言うたら誰もできないからお正月三が日から火を使ってますけども、本来は三が日は火を使ったらいけない。もうでもそんなことを言ってたら、また宗教になっていくから、もうそんなの今のままで大丈夫です。

質問者
 後、ちょっともれてたのがお酒を原料とする、ビール酵母を元にしたサプリメントとかは変わらず大丈夫ですか?

河上さん
 大丈夫ですよ。

質問者
 後、発酵食品とかも変わらず大丈夫ですか?

河上さん
 大丈夫です。ただ、どの形にしても発酵食品は、神さまの生命が大きく働いてるから体にいいわけですよ。でも、その神さまに頼らないといけないのに、例えば発酵食品に頼るようだったら本末転倒なんです。だから、まず「印可書」を奉読して、神さまに全てを捧げるという気持ちになってから食べられたら大丈夫だということです。

質問者
 だから、ちょっと今、禁酒してましたけど、感謝してお神酒程度に嬉しき、楽しき、有難き。

河上さん
 だから、「印可書」を奉読して飲まれたらそうなります。

質問者
 先ず一杯までなら大丈夫です?

河上さん
 だから、量はね、「印可書」を奉読して、何杯も飲みたいでしょう。一杯で収まれないじゃない。

質問者
 はい、それが問題なんです。

河上さん
 だから、「印可書」を奉読したら飲み、「印可書」を奉読したら飲みってされていったら自然に収まります

質問者
 ありがとうございます だいぶ大おまけいただいて、はい、もう本当にもんもんとしてたので助かりました。多分、食べ物自体の響きがもう変わってきたいうことなので

河上さん
 そうです、ちょっと量で間に合うようになったんです。

質問者
 だから、いざとなったら粘土食べるぐらいの努力も始めてた方がいいんです?

河上さん
 もちろんそうですけどね、今、食べ物がある時に粘土食えっていっても食えないでしょう。だからいいですよ。何もなくなったら、そういうのも食べてちゃんと生きていきますよという。要するに神さまは、いつも一番いいようにされてるからみんなを困らせるようなことはしないんですよ。だから、なんで小麦粉も米も取れないのにどうするのって言けどそのちょっとの量で生きていける状態になったから、そうなっただけなんです。それをわかればいいんだけどわからない人は取り込むじゃないですか。取り込めば取り込んだ奴のを取りに行こうって言ってね。昔の米騒動じゃないですけど打ちこわしじゃないですけど、喧嘩が始まって戦争なっていくからということです。

質問者
 こんな重要な話は、ここに集まられてる方は聞かれてますけど世間一般は、響きが変わって。

河上さん
 いやだから、まず真祈りでみんなの心に真(まこと)の神さまの種を蒔かないとね、なんぼ口で言ったって信じない人は信じないし、大体仕事で指図したって誰も言うこと聞かない。よく言われたようなことはするけど、ちょっと違うことを必ずみんなするからどんな優秀な部下でも上司の指示通りしたためしはない。どんな世界でも。それぐらいみんな言うこと聞かないって。

質問者
 すいません、ちょっと緊急に聞きたかったもので、だいぶ日がさしてきましたので、前向きに生きれそうです。ありがとうございます ありがとうございます

司会者
 他ないですか?(会場からの質問はありませんでした。)では、お話お願いします。

河上さん
 あの本当に甲辰(きのえたつ)の、先生が亡くなれて丸ちょうど6年経ちました。今年から7年目に明日から7年目に入るわけですね。まあ、先生からは6年で勝負決めてまえって言われてますので、その勝負の年です。勝負の年に色んな意味で、なかなかあって、今年は本当に色んなことが起こります。起こるけども必ずいいようになりますから現実に起こってる状態を悲惨だと思わずにお願いします。

 この護摩の真祈り次第で、どんどん例えば。あと震度7が3回ぐらい起こるんですけども、この護摩の真祈り次第で震度6とか5で、震度6とか5を10回ぐらいで収めれるとかというふうに変わりますのでね。最悪のパターンは、本当の真祈り人にはちょっと言いましたけども、ここでは言わないでおきます。その最悪のパターンを起こさずになんとかもっていきたいと思ってますし、今日も護摩はうまく成功してましたし、大丈夫だと思っています。ありがとうございます また来月お会いできるのを楽しみにしています。ありがとうございます 

司会者
 ありがとうございます 本日焚き上げた護摩木の枚数は9万9498枚でした。来月3月の護摩焚きはステージを予定しておりますが、積雪や道路状況によって、ありがとうボランティアグループの敷地内になることもありますので、掲示板や掲示板が見れない方は、ありがとうボランティアグループの方に問い合わせしてくださいということです。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/wtbnyFF5R0Q

 宇宙神ありがとうございます


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2月光の交流会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年02月19日(月) 10時53分
PC

令和6年2月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年2月光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。(You Tubeありがとうございますmt 通205:色んな意味を込めて真(まこと)のありがとうございます20120505前半の一部カットした内容です。)

先生
 真(まこと)のっていう言葉がどれだけ大事かってよくわかる。神さまから受け取るって言っても、神さまも真(まこと)の神さまと虚の世界の神さまとある。真(まこと)の神さまっていうのは、真(まこと)って付けないとわからない。

 真(まこと)の神さまからのプレゼントは、その言葉通りに受けるんだけど、真(まこと)の神さまの世界にあるものを言葉にしないと波が合わないと受け取れない。虚の世界は、真(まこと)の神さまの一大循環の相象(すがた)の受け損ない。受け損ないだから、残像、足跡、余韻の世界。その後は言葉通りの夢、幻、錯覚の世界になる。後は、もう言葉通りよ全部、プラスもマイナスもね。

 まだ残像、足跡、余韻の間はいいのよ、本物の響きを感じてるの大きくも小さくもね。でも、その後よ、後、余韻が消えていくと虚の世界は言葉通り。言葉で作って、言葉で現実化して、言葉で言葉通りに感じてるだけの世界。だから、本当に真(まこと)の神さまの一大循環の相象(すがた)を感じ取れるかどうかって、単なる言葉じゃ波が合わない。

 まず「ありがとうございます」唱えてるけども、「真(まこと)のありがとうございます」を唱えないと真(まこと)の神さまをキャッチできない。「真(まこと)のありがとうございます」って何かって、それも色んな意味の言葉を全部、中に収めてないと「真(まこと)のありがとうございます」になっていかない。浅い小さいものでは、「真(まこと)のありがとうございます」にならないから、唱えてるようだけども引き合わない。

 だから、「ありがとうございます」って、単なる「ありがとうございます」だったら、虚の世界の「ありがとうございます」、プラスの言葉の一つになってしまう。それを「真(まこと)のありがとうございます」にまで高め上げていかないと言葉通りに受け取るって言っても真(まこと)の神さまを受け取ることはできないかもしれない。だから、常に真(まこと)の真(まこと)のって付けないと虚の世界のものになってしまう。

 天の岩戸開きっていうでしょう。それも虚の世界の天の岩戸開きと本物の天の岩戸開きと全然違うよ。同じじゃないよ、同じじゃないよ。虚の世界の天の岩戸開きでも色々段階があるよ。

 本心の心って言っても、本物の本心の心と虚の世界の本心の心とあるよ。例えば、空に雲が一杯漂っているでしょう。黒雲が一杯って、太陽の光が見えないって状態で、雲の裂け目ができて、太陽の光が差し込んだら天の岩戸開きと同じよね。思いの心で一杯の所へ思いが消されて、光がすーっと入ったら、天の岩戸開きかなぁって錯覚するでしょう。

 だから、天照大御神さまって言っても虚の天照大御神さまがある、それも段階が色々よ。だから、思いの世界がちょっと思いの雲が消されて、虚の世界の天照大御神さまの片鱗がちょっと入っただけでも、天の岩戸開きって喜ぶ人があるよ。みんな暗黒の世界にいてたらそうよね。それまだ虚の世界の低い段階の天の岩戸開き。

 虚の世界でも、もっともっと大きい天照大御神さまと出会っていかないとダメよ。だから次元が変わると感じ取れない、波が違うから。だから次元が違うっていうことがもう、岩戸になっている。絶対開かない岩戸、岩の戸になっている。

 だから、光の世界を抜けたからって、そこからまだ次元を高めて、より本物のっていう、虚の世界でも、より大きい天照大御神さまと出会っていくのよ。これも天の岩戸開きが何回も起るよ。より本物の天照大御神さまに近い、虚の天照大御神さまに出会うの。だから小さい光から無限に大きい光まで段階があるよ。

 一番最初の初歩の天の岩戸開きは、思いの雲を抜けて、虚の世界でも光、プラスの方の大きい光を感じたら天の岩戸開きって、みんな思っているの、最初はそうよ。光の世界を抜けてから、今度は、より高い次元の天の岩戸開きをしていく。本物、より本物に近い天照大御神さまに出会っていくのよ。それも波の合わせ方で、どんどん変化していく。

 本物の天照大御神さまに出会うっていうのは全然違うよ、また。虚の世界から本当に抜け出て、本物の天照大御神さま、それも真(まこと)の世界の一大循環の入れ子構造の天照大御神さま、一番末端の小さい天照大御神さまと出会うだけでも、本物だから、虚の世界の一番上の天照大御神さまより無限倍、素晴らしい。

 本物の世界に入るっていう天の岩戸開きは、光が虚の世界に入ってくるのと違うの、反対なの本当はね。虚の世界から抜けていくの、自分が虚の世界から、真(まこと)の神さまの世界に入っていくのが、天の岩戸を開いて出会っていくの。虚の世界は下から上に上がれない、だから入ってきてくれる光を受けて喜んでる。

 でも本心の心の自分に戻ったら、真(まこと)の神さまの方に入っていくのよ。自分を与え尽くして捧げ尽くして、神さまの中へ飛び込んでいくの、その時に天の岩戸を開いて、神さまと一つに合体していくの。神さまを呼んで来てもらうのと違うの、今度は自分の方から神さまの中へ入っていく、自分を与え尽くしていくの、本物の世界の天照大御神さまと出会うのはそうよ。

 思いの世界のは、虚の世界のは、まだ求める心があるから、求める心と与える心は全然違う。ちょっとでも求める心があったら、まだ思いの心。だから、与えてもらうのを待って、受けて喜ぶ。本物の与える心だったら、自分の方から与え尽くして、神さまの中へ一つになって溶け込んでいく、一体化していく。本物は常に自分を与え尽くすしかない。一切報いを求めないで、与え尽くすだけっていう生き方で、神さまに溶け込んでいかないとダメ。

 虚の世界は求める心と、また与えて求める心と、与えるだけっていう心と三つあるよ、虚の世界ね。でも、虚の世界の与えるだけっていう心も、まだ純粋じゃないよ。多分、与えたら循環して与え返されるっていう期待する裏心があるのよ。与えたら循環してくるって思ってるのまだ。だから、求めてるのちょっと。

 表面に出てないけど求める裏心がある。これ、まだ虚の世界。いくら報い求めて、与えてる、与えてるって言いながら、本物にまだ成り切れてないのはそうよね。本物は絶対、報い求めない。何も期待しない。本当の恩返しもそうよ。与えられたから、ありがたいから幸せだからって、後、報い求めないと、恩返しに生きるでしょう。恩返したから、また与えてもらうとは期待しない。

 本物だったら、また与え尽くしてもらう。神さまの愛が、一切報いを求めず、与え尽くすだけの働きだから、ちょうど波が合うの。恩返しに生きても一切求めてないからピタッと波が合うから、一大循環の相象(すがた)が循環していて感じ取れるになってくる。でも、ちょっとで求める裏心があったら、波が合わない。ちょっとズレてる。だから、一大循環の本当の神さまの愛の響きとは、ちょっとズレてしまう。だから、一大循環の相象(すがた)がわからない。本物の神さま、真(まこと)の神さまに出会えないってそこよね。だから、波がどれだけピタッと合うかよ。

 だから、同じ与える心って言っても、真(まこと)の与える心よ。やっぱり、真(まこと)って付けないと、付けないとわからない。単に与える心だけではダメ。本当に純粋な真(まこと)の与える心よ。

 でも、虚の世界も実の世界もそうだけど、次元を上げていく方法は、与え尽くすだけで、押して扉が開いていく、上への扉はね。プラスを与えて扉が開く。神さまの方へ向かって、プラスを与えて扉を押して、押して開くようになってる。求める心は必ず、引っ張るでしょう。引っ張って開く扉は、下の扉なの。これは元々、下へ落ちないようにしてある。落ちにくいようにしてある。押して落ちるんだったら、重みだけで落ちる。だから、下へ落ちにくくしてくれてるんだけど、求めたら、下への扉を引っ張って開ける。それで下へ落ちていく。

 だから、求める心を起こすほど、下へ落ちていく。与え尽くすだけで上の扉が順番に開いていく。これも、上へ登りやすくしてる。神さまに向かって前へ進めば進むほど扉が開いていく。道が開いていく。上へは登りやすくなって、下へ落ちにくくなってる、元からそうなのね。でも、これを上手に活用しないと、求める心は下へ落ちていく。

 元々、虚の世界から真実の世界へ登るためにっていうふうに、別に神さまそんなの何も考えてない。本当は虚の世界に落ちないようにって一生懸命、護ってるはずなの。だから、一大循環の相象(すがた)でも、スピードが早い、物凄いスピードで変化する。だから、これは、掴んで自分のものにできないようにしているの。掴んだら、自分のものにしたら、次、絶対、新たなプレゼントを受け取れない。だから、絶対掴めないように自分のものにできないようにしてるんだけど、それでも掴んで、自分のものにしたって思ってしまう。思いだけだけど。これを掴んだ、自分のものにしたって思うだけで思いの虚の世界へ転落する。

 でも、実際掴んだんだったら、もっと大変。掴んだんだったら、遠くまで飛ばされる。単に掴んだと思ってるだけだから、まだいいのよ。だから、残像の世界だけっていう。それで、すぐにもう一回、新たな受け直しができるようになったら虚の世界から、すーっと抜けられる。

 実際掴んでしまったら大変よ。お返しするだけで大変よ。掴んだものをお返しするって大変なことになる。でも、掴んでないの、掴んだと思っただけ。だから、錯覚よ。だから、すぐに変わる。新たに新たに一大循環の相象(すがた)を受け直せたら、すぐに神さまと出会えるようになる。本当に言葉だけなのよ。本当のプラスの言葉を使えたら、神さまを受け直せる。ちょっとズレたらダメ、波が合わない。

質問
 全部、錯覚?

先生
 虚の世界、全部、錯覚。本物を受けるまでは全部、錯覚。だから、錯覚っていうのは、まだ言葉が足りない。だから、同じ一大循環の相象(すがた)って言葉で言ってても、本物の一大循環の相象(すがた)は、言葉を超えて想像絶する凄い動きのすがたよね。それを具体的に捉えていくのが、真(まこと)の祈りになっていく。

 だから、祈りって言うだけではダメ、真祈りって言わないと。単なる「ありがとうございます」祈りって言ったら、虚の世界に祈り。真(まこと)のありがとうございますの真祈りが本物の真祈りになっていく。

 だから、もう常に思いの自分じゃなくて、本心の自分が祈るのよ。思いの自分の祈りは偽物よ。いくら「ありがとうございます」を唱えたって、「真(まこと)のありがとうございます」だって言ったって偽物よ。本心の自分が真(まこと)のありがとうございますを唱えるって言えば真祈り。

 だから、どこまでもどこまでもそうよ、「真(まこと)の自分」って言わないとダメ。真祈りでも、真(まこと)の祈り、「真祈り」って言わないと。やっぱり言葉が足りないと、波が低くなってしまう。

 本当に言葉通り。言葉通りにしか受け取れない。だから、どこまでも、どこまでも神さまを褒め称えて、感謝して、恩返しに生きて、全託に生きて、本当に愛する心をしっかりと持たないとっていう。「ありがとうございます」の持ってる全ての働きを総動員しないと神さまを感じ取るまで波を合わすのに大変なの。

 まあ、虚の世界のプラスで喜んでるんだったら、それはそれで仕方ないけど。その程度喜んでるんだったら、そんなのお祈りも何も必要ない。でも、本当の神さまと出会いたい、神さまの愛を感じ取りたいって、そうでしょう。本当の神さまのプレゼントを受け取りたいって言うんだったら、受け取るためには真剣さがいる。惰性に流れては受け取れない。

 川の流れでもそうよ、川の流れでも、押し流されたら、惰性に流れて本源へ近付けないじゃない。だから、真(まこと)の神さまは絶対の中心って、そこへ近付こうと思ったら、川の流れの流れを遡るぐらいの真剣さが必要になってくる。より新たに新たにって、受け直さないとね。

 だから、そういう言葉が必要になる。より大きい言葉、より新たな言葉、本当に新たな一言選ぶのでも大変になる。

 だから、これ本当の言葉を選べてるかどうかって、いつもこう試されてるのよ。戦争で、そうでしょう。爆弾が落ちて、弾丸が飛んでくる中で、そうでしょう。「ここが完全平和」って本当に自分が実感できるかよ。地獄絵図の中に置かれて「ここが、神さま世界」って本当に言えるかどうかなの。言えないとダメだよ。地獄に心奪われてるようだったらダメなの。戦乱の真っ只中にあっても、そういうのに心奪われたらダメなの。やっぱり言葉選びができてないって言われる。

 だから、現実っていう、そうでしょう。言葉通りの結果としての現実は、後からついてくるもんじゃないみんな。現実だからって、それをそのまま受けてるようだったら奴隷よ。それは、運命の奴隷なの。新たな一言を選んで現実を変えないと運命の支配する自分になれない。

 だから、必要な言葉を選んで、しっかりと駆使する、使えて、はじめて運命を支配できる。現実を言葉通りに作れるのよ、変化させられる。だから、常に試されてる。

 本当に言葉選んでるか?言葉で支配できてるか?現実に振り回されたら支配されてる。現実で影響を受けて言葉を選んでるようだったら、もう運命の奴隷、環境の奴隷よ。だから、反対にならないと。だから、地獄絵図の中でも、「ここが極楽世界」って言えないとダメ。

 病気になってても「完全健康」「完璧な自分」って言えないとダメなの。常にそういうふうに言えないと言葉選びができてないってなる。だから、現実っていうのは、過去の残像としての現実なんて相手にしてたらダメよ。

 ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
  https://youtu.be/y8TY4KsmmLE
 
 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2024/02/04(Sun) 07:32 No.3173 [返信]


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割のあわない仕事の不運をなげかずに・・・・ by 河上あきのぶ [Mail] 2024年01月22日(月) 12時59分
PC

誠意を尽くす・・・。

 誠意を尽くして精一杯動くについての重ねてのご質問が多いので、再度説明いたします。
 精魂込めてを別の言い方として、誠意を尽くすと申し上げました。

 具体的には、自分にとって、邪魔くさくて、めんどうくさくて、苦手で、いやなこと、逃げたいこと、避けたいこと、を、喜び勇んで行うことです。
 そのためには、それが、一番の神さまへのお手伝いであり、真いのりの近道であると、信じることです。

 それを、辛抱して、いやいや、ストレスをためながらすると、どんな作業をしていても、お互いにぶつかり合い、けんかが絶えないということになるのです。
 では、どうすれば?ストレスを貯めないか?と、申しますと、一番は、まず、損得勘定をすてさることです。
 なにがあっても、自分にとって都合悪い、つらいことは、一番の神さまへのお手伝いと信じ、喜ぶことです。
 過去世から眺めれば、どんなつらいことも、一番、小さく楽に済まされいることばかりなのです。

 肉体を受肉して、この写し世に生まれてきてこれた、幸運を思い、宝くじの確率よりも小さい確率で、生まれてきた幸せを知れば、どんないやなことも何万分の一で済まされて行くことばかりなのです。

 そればわかれば、捨て石となって、みんなのすべてを支える覚悟ができ、一切のマイナスを自分のものとして背負う覚悟ができ、いつも、割にあわない、不遇ばかり続くことを、喜び勇んでこなしていけるようになります。

 宇宙神ありがとうございます


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1月勉強会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年01月22日(月) 12時38分
PC


質問:いつもお世話になっております。私は介護の仕事をしているので、マイナスの現実を見る事があります。神書319ページに「現実を見るのであれば、マイナスの極から光一元に眺めて、すべてをプラスに見直して、褒め讃え・感謝し・喜ぶことが大事なのです。」と書いてあります。自分自身、現実をどのように見るのが良いでしょうか。よろしくお願いします。

河上さん:現実というのが、遠い遠い過去だというのが、まず分からないと駄目なんだけども。

一瞬一瞬新たなところから見たら、現実はもう、本当に遠い遠い過去なんですよ。先生が仰る通りでね。でも、その遠い遠い過去の部分を今だと思ってるでしょう?それが一番の間違いの始まり、苦しみの始まりなんですね。色んな表現で説明しますけども、いわゆるマイナスの極にとって、すべてを真(まこと)の神さまとして拝み上げるということなんですけども、そんなん言われたって分からへんわね。

 でも、その現実に向かう時に、一番どういう心持ちが大事かと言うと、その責め裁く思いですよ。自分と他人、自分と神さまを分け隔ててね、比較して理屈で考えて、駄目だ駄目だって責め裁く思いが一番の問題なの。

 で、今までの宗教のほとんどはね、日本は悪魔の国だとか、天皇陛下は韓国に来て土下座せえとかね、もう責め裁く思いばっかりなんですよ。そういう責め裁く団体というのは、自分が責め裁かれて、どうしようもなくなっていくというのすら気付かないくらいね、その現実を、みんな掴むのね。

 で、結局は、介護の仕事をしてたら、ご老人という、この世的に見たら何も出来ないマイナスの姿ですよね。そのマイナスの姿は、やっぱり無意識に、「なんや、こんなんも出来ないんか」っていう感じで責めていくわけですよ、無意識にね。

 それは例えば、印可書を読むのをね、淡々と読めって言っても、どこか無意識に損得勘定が入ってるんだけど、それに気付かないくらい、みんな、要するに損得勘定ですよ、自分と他人を分けるというのは。自分にとって得か損かというのが無意識に働いて、それが結局、責める思い、マイナスの思いになっていくの。

 だから逆に言うと、自分にとって得なことがあったって、それはマイナスの思いなんですよ。だから損得って考えたら、どっちをどう見たって全部マイナス。

なぜかと言うと、損得ということは自分が一番上であってね。要するに、自分にとって得かどうかですから、自分が一番上って、すべてを下に見てるわけ。もうその時点で、大きな差別というか、分け隔てがあって。分け隔てた途端にね、すべて本来光なのに、分けれないものを分けようとして苦しみ出すわけです。

本来、光のものを分けられないのね。海の中に入ってね、まあお風呂でもいいや、「水と自分は別だ!別だ!」って一生懸命思って、必死で水を避けたって、分けられないでしょう?水と自分が、お湯と自分が一つになるじゃない。でも、なんとか分けようとしてもがき出すんですよ、自分と他人を分け隔てて考え出すと。

 だから考えるなとか、理屈を言うなとか、理屈で考えるなとかいうことを言うんだけども。損得が働くと理屈が働くわけですよ。もう、そこだけなの。そこだけだけど、損得が働いてないつもりにみんななってね。

善人ボケって言うんだけど。「自分はそんなんしてへん、自分は…」とこう思ってるわけ。でも、「自分は、そんなんしてない」と言う時点で分けてるんだよというのがね、それすらも気付かないくらい、人類は過去を掴む。要するに、それを過去を掴むっていうんですよ。そこから逃げられないのね。現実を掴むというのは過去を掴むことなんですけど。そういう部分が、今理屈で説明したら、そうなんかなあ、なんだけども、実感としてみんな分からない。

 で、責め裁いてる方が楽なのね。自分が安全な立場に立ってるような気がするから。だから先生という鎧を被るとね、先生って呼ばれると、みんな舞い上がって崩れていくのはね、先生と押し上げられると、もう自分が一番安全な位置に立っててね、それでお前ら分かってないって言って…なるわけですよ。それが一番分け隔ての、要するにマイナスの最大の思いなのに、「お前ら分かってへんやろ、教えたろか」と言った途端にね、地獄に落ちていくの。

 だから、先生と呼ばれるほどのアホは無しとかバカは無しって言うんだけどね。だから、どんな職業、どんなことに関わらずにね、先生と呼ばれた途端に、みんなおかしくなっていくの、良い人でも。それは先生と呼ばれただけで、もう自分は安全地帯にいるように勘違いするのね。でも、安全地帯にいるというのは、すでにもう、分け隔ててるから、それは地獄に落ちる最大の行為なの。マイナスを積む最大の行為なのね。もうそこだけなの。

 そこをね、理屈抜きに分からないと駄目で。理屈でそうだなあと思っても、無意識に損得が働いてね、(損得で)みんな動くの。

 それは、オギャアって生まれてから、色んな意味で兄弟同士の生存競争というか、あるわけでしょう?親からもね、お兄ちゃんは勉強出来るのに、お前は出来へんなあとかな、一杯言われるわけや。その中で卑下慢になったりね、増上慢になったり、もう色々あるけど、どっちにしたって、「私はあかんねん」って言っても、「俺は出来るねん」って言ったところで、「私」、「俺」って言った時点で分けてて苦しみが始まってるの。

 だから、いつも言うように、結果に心を奪われるなってね、結果を気にするな、人から後ろ指を指されても覚悟の上やって言うのはね、分け隔てたら後ろ指を指されるのも気になるし、結果も気になるし、出来る自分も、出来る自分は出来る自分で、もっと出来ないかって気になるし。出来ない自分は出来ない自分で、出来ないから自分は駄目だって気になるしっていうね。しなくて良い苦しみを勝手にみんな苦しむの。本当は、そういうシチュエーションを楽しみに来てるだけなんだけど、本当はね。本当はそうなんだけども、それすら忘れて苦しむのね。損得が働いて。そこだけなの。

 でも、こないして理屈で説明したってね、やっぱり分からへんのね。それは理屈で説明するということは、分け隔てた状態から説明してるから、それは本来の状態と違うから分からないの。

 いつも言うように、みんな光や。すべて完璧な一つであって、上も下も無い。上も下も無いというのが分かるとね、一番絶対のマイナスという地獄の一番底に立ってから、上を仰ぎ見たって全部光だって見えるの。でも、上も下も決めてる内はね、たとえ地獄の下に降りたってね、全部マイナスに見えるの。だから、なんでマイナスに見えるかと言ったら、分けて見るからよ。すべて光やったら、分けられないから見えないんだけどね。

 みんなは、ゴミ溜めの中からダイヤモンドを、せめてね、ゴミ溜めの中からダイヤモンドを探そうとしてくれたら良いんだけど、そのダイヤモンドすら、よう探さずに、「ゴミばっかりや!」って言って大騒ぎしてるの。要するに分け隔てたからや。本当は全部がダイヤモンドなのに。自分の心で分け隔てて、「これはダイヤ」、「これはゴミ」って決めてるだけなのにね。その分け隔てたダイヤすら、よう見つけないくらい、絶対のプラスというね、真(まこと)の神さまの光から自分を分け隔てて遠ざけてるの。

 自分でやで。神さまは、みんな平等に一様に真(まこと)のプラスの光を与えるんだけど。それをこの前はね、大きな滝から自分という小さな器で水を受けてね、飲んでる状態って説明したわけだけどね。みんな自分の口から出す言葉の大きさの分しか受け取れない。

 だから、いくら絶対の無限のマイナスに立って、すべて上に仰ぎ見ましょうっていう先生の説明を聞いてね、そうしましょうと思っても、自分が小さかったら、下へ落ちたら余計にグチャグチャになるだけやねんな。だから自分を大きくする、まあ、「大きくする」っていう表現も違って、「自分を無くす」っていうことやね。真(まこと)の神さまと不離一体の本来の自分を知るとか色んな表現があるけども。そこだけなんだけども。

 それを知るためには、ほら、昔の日本の陸軍がね(フィリッピンのジャングルで飢餓状態でさまよっているとき)、チーズという食べ物を知らないから、チーズというのが。本当に飢餓状態でね、お腹が空いてるのに、チーズって分からずに食べすに行ったくらいね、自分が自分の口から出した言葉以外のものは本当に受け取れない。チーズというのを言葉に出してないから、チーズを知らなかったんや。一緒よ。真(まこと)の神さまというのをね、自分の口から出さないと認識出来へん。受け取られへん。

 で 、「真(まこと)の神さまそのものだよ、『ありがとうございます』の十文字は真(まこと)の神さまそのものだよ、悟りそのものだよ、一大循環そのものだよ」って先生は仰るのに、信じ切れないんでしょう?で、「『宇宙神ありがとうございます』は真(まこと)の神さまそのもの、悟りそのもの、一大循環の相象(すがた)そのもの」って先生は仰るのに、やっぱり信じ切れへんのでしょう?で、「『宇宙神』の宇宙というのは太陽系の宇宙か?」みたいなぐらいしか、要するに自分の口から出した言葉分しか受け取れないからね、分からない。

 最初に、そこを信じ切れなかったら分からないんだけど、「真(まこと)の神さまそのものを信じようがないのに、どうするんですか」って先生に、もう僕は泣き言を言ったわけ。で、散々泣き言を言って。信じ切れずとも何とかなるものを出して貰わないと・・・、となると、すると、それは先生の命のすべてを縮めて、先生のすべてのすべてを込めて作るしかないというのが分かってね。もう、それはやっぱり止めてください。(と先生に申し上げた。)もう本当に先生とは色んなことがあったんですけど。でも、一度お願いすると先生は後へ引かないのね。で、自分のすべての命を縮めて、すべてを込めて印可書というのを作ってくださいました。

 だから先生のすべてを込めた印可書だから、印可書は訳が分からなくとも、出来るだけ損得勘定抜きで読めばね、入るようになってるの。それさえ口から出してたら、自分の口から出した言葉は全部受け取れるから(印可書は眞(まこと)の神さまそのものだから)、真(まこと)の神さまを受け取れるようになってね、これだけ今、皆さんの心境がグっと上がったの。もうちょいなんだけど、いつも言うように、ちょっと自覚を止めてますから。みんな一遍にいくからね。あれですけども。

 ただ、「宇宙神ありがとうございます」でいく人はそれなりの覚悟を持ってやってください。どう説明して良いか分からないですけども。ハッと気付いたらね、印可書を選んだ人だけがいってて(悟ってて)、自分は取り残されてたということになりますけども、本人の自由意志までは縛れないんで。真祈りを選び取れない子は見捨てます。また、そういう人は無間地獄に降りていかないと気付かない。実際、体験しないと気付かない。イエスの言う、「見ずして信じる者は幸いなり」や。実際に見て体験しないと信じない人は、見て体験してもらう。

 どういうことかと言うと、無間地獄というところはね、自分でどうこうしようと思う人が行くところなの。自分でなんとかしなくちゃという人はみんな、どんな優秀な人でもですよ、IQが180あってなんでもこなす人でも、自分でなんとかしようと思ってる人は、みんな死んだら、死んだらね、無間地獄に落ちるの。無間地獄というのは真っ暗で音も聞こえず、もう一切の感覚がなくて、只々押しつぶされていく感覚があるだけです。で、その中で、自分でなんとかしようと、もがきにもがいて、もういよいよ自分の力で何も出来ないってハッと気づいて、「神さま!」と言うまで、無間地獄を彷徨うことも出来ない。そこでじっと縮こまっているだけです。その体験をしないとね、みんな分からないのね。

 で、印可書を選び取られた人というのは、その無間地獄で散々その体験をしてきた人だから、無意識にね、やっぱり印可書しかないと分かるわけで。もうその辺だけは、本当は、もう全員連れて来いっていう先生の厳命なんで、全員なんとかしようしようと6年頑張りましたけども。とうとう甲辰(きのえたつ)に入ってしまったから。申し訳ないけども(印可書を)選び取れない人は見捨てます(おまけを出せなくなったということ)。見捨てるというより、本人が自由意志で行くというのを止められないのね。もうそれは仕方ないです。

 そういう感じでね、一番下から仰ぎ見るというのは、それくらい、自分の意識次第で、理屈で言ったらその通りなの。でも、それを言って散々悩んで苦しんで、「どうしても下から仰ぎ見たって光に見えへん、全部マイナスに見えます」と言ってね、泣いて聞きに行かなあかんかってんて。そしたら先生がパンって引き上げられたんや。今は印可書で引き上げる時代なんで、やり方が違いますけど。印可書で全員一斉に引き上げますから。

 でも自由意志ですから、選べない人は選べない。その人の好きな所へ行けば良い。誰も止めようがない。止めたいけど止めれない。そんなん我が嫁さんでも言うこと聞かへんのに、誰が聞くねんっていう、いつものフレーズですよ。我が旦那すら言うこと聞かへんのに誰が言うこと聞くねんって。だって先生の言うことを聞いてきてなかったから、こないなったんやん。こんなん言ったら怒られるけどね。ちゃんと素直に先生の言うことを聞いてたら、こないならへんわ。

 もういよいよ切羽詰まって、本当にどこでどの地震が起こっても、おかしくない状態になって。どこでどの戦争が起こってもおかしくない状態になってしまって。だから、気候、気象で言うとね、この日本でもすごい竜巻がどんどん起こってきます。それはちょっとでも、その戦争や地震なんぞを止めるために、竜巻で台風で起こるわけですけども。それが突然つむじ風みたい感じで吹いて色々とあります、これからね。
 
 もう、いろいろあるけども、そこまで持って行きたくないから、先生は、あっちの世界は、もう大変な状態だから、護摩で真祈りでって、もう絶叫されてたわけですけども。護摩でもお話でね、「あっちの世界は大変なんだよ、こんなんしてたらもう…」って言ってんのにな、みんなのんびりしてたんや。自分の病気がどうの、自分の就職がどうの、自分の進学がどうのとか訳の分からんことを言って。でも、もうそれは終わったことですから。これからどうすべきかをいつも説明させてもらってるだけで。選ぶのは皆さんの自由。

 で、今の神書の部分はそういう部分なんですね。下から仰ぎ見るというのが一番大事なポイントで。だから、例えば介護の仕事をしてたらね、このクソったれのオジンが、クソッたれのオバンが、で構わない。構わないけど、ひたすら「神さま!」って呼んで、自分が誠を尽くすだけっていうこと。それは結果としてね、その人に対して100%その人が都合の良いようには出来ないですよ。おじいさんに対してね。せやけど、自分の出来る精一杯を尽くすというのが大事なんです。でも結果に心を奪われてたらね、腹が立ってくるの。出来へん自分に腹が立つしね。協力せえへんオジンに腹が立つしね。あのクソババアってなってくるしね。結果に縛られるからよ。

 だから特に介護の世界は人出不足でね、決して理想通りに出来へんの。出来へんで当たり前や。出来なくても良いけど、自分が誠意を尽くす、そこだけなの。自分が誠意を尽くしたら真祈りですから、それは。心が響いていってね、オジンもオバンもね、協力してくれるようになるの。そやけど、結果を気にしてたらね、こうしなくちゃ、ああしなくちゃいけないって思ってると、あんたもこうしてくれやって、こっちはなるやん。そしたらお互い縛り合いになって身動きが取れんようになるの。お互いもやし、自分自身でも縛ってるわね。結果をこうしなくちゃ、今日は何人の人をお風呂に入れなくちゃと思ったらね、もうしんどくなるし、入れられる方も辛いしって、全部グチャグチャになるの。

 真祈りというのは、本当に「誠を尽くす」って。だからこの、ありがとうボランティアグループの頭にね「愛と誠を尽くす」って先生が付けられたのは、真祈りそのものだからですよ。でもね、その名前をネーミングしてもらった時に「『愛と誠を尽くす』ってどういう意味ですか?」って、よう聞かんくらいね、みんな先生に頼ってて甘えてたんや。だから村人の作業をしなくて良いって河上が言ってたとか、平気でそういうことを言うの。

 愛と誠を尽くすって言ったら、作業をするとかせえへんじゃない。損得勘定抜きに誠を尽くすだけや!何を言うか、本当にもう。

 でも、本当にね、奥さんだけ。特例があるのは。あとの人は、村人といえども特例は無いからね。自分の自由意志で好きなところへ行けるだけや。それは何を選んでるかや、本人がね。プラスを選ぶか、マイナスを選ぶか、絶対のプラスという真祈りを選ぶかという、本人の自由意志がこれからは最優先されるだけ。もう、こちらは止めようがない。今まではちょっとね、止めようがあったんで、おまけで止めたり邪魔したり色々したきましたけど、もう甲辰(きのえたつ)なんで出来ない。あとは、みんな好きにどうぞおやりください。構わない。ただ、説明したからね。どれを選ぶかはみんな自由だけどね。で、内容全部言えたかな。どうですか?足りないところがあったら言ってください。

質問:この質問の方が、印可書を奉読されてるかどうかは、この内容からは分からないんですけれども、今の話で言うと、誠を尽くす、誠意を尽くしていれば…

河上さん:うん、誠を尽くしたら良いの。せやけど誠を尽くすのをね、自分で誠を尽くせてるかどうか分からんやろう?自分は自己満足でやってるんかな、本当に誠になってるかなっていうのが分かる人なんておらへんて。偽善者だけや。「私は誠を尽くしてます。」って言うの。

 真面目な人ほどな、一生懸命やっても、これが本当に誠を尽くしてることになってるかどうかなんて分からへんて、そこで悩むの。その時に印可書奉読という救いがあるよというだけでね。

 印可書が嫌な人は、悩みながら苦しみながら、頑張って進んだら良いの。これが自分にとっての誠意なのか誠なのかってね。でも理屈で考えてたら、しまいに全速力で走ろうとなってね、自分も潰れるし周りも潰れる、になるねんけどね。でも、それもそういう体験をしないと分からん人は体験するまで何を言ったって聞かへんけどね。そういうことです。だから今、印可書の部分を、今、重点的に説明したんやけどね。

 その「誠を尽くす」というのが、本当に誠になってるのかどうかって、そんなん誰も分からへんで。で、一々、例えば、もし先生が生きていらっしゃったとしてもよ、一々聞きに行かれへんやん、その現場から。一々聞きに行かれへんから、その時に本当に悩んで、みんな先生に、「一切、仕事をしてる時にこうやってんけど、もう本当にもう…」って言ってね。泣いて「私はやっぱり一生懸命できません」って泣いて先生に謝るくらいの人やったら、先生はパッと引き上げられたんや。いや、もう済んだ話やで。今は印可書があるから印可書でいけるから大丈夫やけど。そういう意味です。

質問:誠を尽くすっていうことが、真祈りに繋がるんだけれども…

河上さん:誠というのは真祈りそのものよ。「真(ま)の言葉(ことば)」っていってね。誠というのは真祈りそのものや、本当は。

質問:それは本当の真祈りなのか、損得勘定が被っている真祈りなのか…

河上さん:そうそう。結果を気にする、人からどうかを言われるのを気にしてる間は誠になってへんの。だから、結果を気にしてる間はな、誠を尽くせてないの。人から「何、あんたなんや、こんだけしか出来へんかったんか。」って言われても良いから、自分なりの誠意を尽くせたら良いの。でも、その時に言われて気になる時は印可書奉読しいや、ということです。

質問:で、印可書に立ち戻って…

河上さん:立ち返って。

質問:立ち返って。その時に感じる誠を尽くしていく。

河上さん:そうそう。

質問者:分かりました。ありがとうございます。

質問:続いて次の質問。今日は私にとって緊急の質問となります。私の妻が余命2週間と宣告を受けました。印可書の奉読と護摩木を書くことを中心に進めております。妻の代わりに妻のために、光の柱を立てるという思いで印可書を奉読すると良いでしょうか?

河上さん:はい。まずね、余命2週間って宣告されたらね、喜ばなあかん。だってな、あと2週間や。そしたら、自分の思うね、精一杯のことをしてあげられるやん。普通は、明日死ぬかも分からん。でも2週間って決まってんから。まずそこで、自分の悔いが無いようにしてあげたら良い。もうそれだけよ。そしたら、自分の中でね、真祈りが一番良いのか、美味しいものを食べさせるのが良いとか、あるやん?でも、自分が納得する、してあげたいことを、させてあげられるわけや。2週間という余裕があって。そこを喜んでしたら良いの。

 で、印可書を読めば、奉読したら、損得勘定抜きにね、助けて欲しいとかはいうのは抜きに奉読したら、すべての人に真(まこと)の神さまは降り立つからね。もうそれで済むわけ。

 でも、それで納得出来ない時は納得出来ることを、どんどんしたら良いだけよ。どっちにしたって、2週間という余裕が頂けたくらい嬉しいやん。普通はね、まだまだ大丈夫ですって言ってポッと死なれてみ?悔いが残るで?あれをしといてあげたら良かった、これをしといてあげたら良かったわって。いつ死ぬか、みんな分からへんの。せやのに、喧嘩別れしてね。みんなそうやねん、悔いる人って、みんなそうやねん、喧嘩別れするんよ。ワーって言って喧嘩になるの。で、喧嘩になって別れた後に事故で死にはったとかね。もう色々あるの。そんな人は、もの凄く悔いるんよ。せやけど2週間も貰ったんよ。喜んで、出来るだけ自分が納得出来ることをしてあげたら良い。

 それでね、病気を治して欲しいとか、命を助けて欲しいというのは、もう損得が入ってるからな、崩れていくの。神さまが必要やったら良いようにする。

質問:今のお話で。印可書を奉読してあげられていたら、それで済むというのは?

河上さん:いや、それがな、損得の理屈やね。古い宗教にはあるねんけど、「自殺をしかけてる人がいます。これをどうするんや。」とかいう、訳の分からん質問が良くあるの。それ、損得やというのが分からへん。自殺であろうが病気であろうが事故であろうが、寿命が来たら死ぬんや。せやのに、損得でその寿命を延ばそうとすることが幸せだとういう風に、みんなに勘違いさせてね、地獄に叩き落とすんよ。

 まず、神さまが良いようにするから、寿命が来ても神さまが良いようにするの。それを人間の勝手な損得の思いでね、長生きしてくれたら嬉しいわとか考えるから、その人までグチャグチャに引きずり込んでいくの。

質問:印可書を奉読してあげれば、それで済むというのは、神さまが良いようにするっていう意味の?

河上さん:絶対の信を確立出来るの、印可書を奉読してたら。確立出来ないと思っても喜んでいたら良い。

 だから先生が、いつ死ぬというのは、こっち(河上)は分かってたけど、先生が一切言われなかったのはね、周りが要らん思いを湧かすからよ。で、結果として、先生がね・・・・、あんまりそんなん言うと、周りにいてた人を責めることになるから言わんけども、まあ色々あったわけや。それだけ。

 せやけど、寿命があったら死なないし、寿命が無くなったら何があっても、要するに元気に働いていても突然心臓麻痺で死ぬわけよ、寿命が来たら。長生きしたから幸せではないの。この地上に残って、神さまの響きをどれだけ響かせられたかが幸せなの。どれだけ真祈りできたかが幸せであって、長生きしたから幸せではない。
 
それで、質問の内容は全部言えたかな。

質問者:はい。

河上さん:はい。

質問者:ありがとうございます。




令和6年1月河上さん勉強会−2(20240114−2)

質問:預かってきた質問です。3点あります。1点目。先ほどの質問と重複する部分があるかもしれません。1月護摩のお話で自他を分け隔てして損得勘定が生まれ、マイナスを積み重ねると教えていただいています。神我一体感、自他一体感を得るためには真祈り印可書奉読が大切と教えていただいていますが、日常の自分の生活の中で 損得勘定で動いていないかチェックすることも一つの手段としてあるのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

河上さん: あー、その通りです。そのチェックする方法としては結果に心を奪われない。自分なりに精一杯したら、それが結果としてね、自分が思っている10からみたら1しかできていなくてもいい。例えば、このお祈りの部屋を掃除しましょうと思ってね、いうても電話がかかってきて「ちょっと早く帰ってきて」と言われたら、もう本当にこの辺だけ掃除できても、あーこれで良かったと思って、思える心や。それがあったら損得勘定と違うねん。結果に心を奪われたら、損得勘定に入っているや。分かる?人から後で、「あの人掃除するって言ったのにこんだけしかしてないやん」って言われたらどうしようとかね。あるやん。そういう事です。

宮野さん:あれは?あの、忘れたな。ほら、自他を分け隔てするでしょ?損得だけじゃなくて。

河上さん:だから自他を分け隔てするから、その他人からどう思われるかと思って損得勘定で気になるねん、結果が。全部自分やったら自分から何を言われても気になれへん。

宮野さん:相手に対して、批判だったりとか、悪い言葉もプラスの言葉もかけてるから、結局、相手に対して物申す。自分のいう事を聞かへんてなる訳ね?

河上さん:そうそう。先生は、その自他の分け隔てを止めてね、全部自分やと言うのを思わすために、せやけど、「私あんなに悪くないわ」とみんな思ってるやん。でも他人はあなたの過去世の姿とか、過去世の過去世の姿だとかね、あるいは親はあなたの過去世の姿とかね、子供はあなたの過去世の姿だったかと言ってね、方便でね、結局あなたなんですよ、ということを教えてくださったんだけれども、誰も聞いてへん。聞いてへんか聞いても受け入れへんか、知らんけど。

 もうそんなややこしい説明、ややこしいというか、ダイレクトに言う方がもう早いと僕は思うから、全部自分って。せやけど、自分と思えへん分だけね、結果気になって、あれやって言って説明していますけれど。

 先生のお言葉を借りて言うたら、他人は自分の過去世の姿。自分であることには変わりはない。せやのに他人は自分の過去世の姿いうたら、自分と関係なくて、自分の過去世の姿を他人が取っているみたいにしか受けとれへんねんな。そこが問題やった。自分と関係ない(と違って)、全部自分やねんっていう、そこやねんけど。全部自分やっていう響きを響かせる為に、先生はもう清めに清めてね 皆さんの分け隔てる意識をできるだけ消していかれた。だからこの説明が今通るね。あの頃そんなん言うても、はじかれて聞かへんかった。聞けへんからこないなったんやけどな。

 もう本当はね、もう護摩 7年前ぐらいの護摩から完璧に持って行かなあかんかってんけど、あの辺で凄いもたついたんでね、色々、本当に色々あった。色々あったけど、それは繰り言であって済んだことはもうええね。これからどうするかだけや、常にね。それが結果に心を奪われない、過去を掴まないっていうこと。

 過去を掴むっていうことは、もう悔いるばっかりよ。もちろん体験上、経験上悔いてもいいけれども、これからその悔いの結果、これからどうするねんだけや。これからどうするねんっていう、前向きに心向いてたら結果に心を奪われていないんだけれども。「これからどうしよう」っていうのがなくなって、あの時せんといたら(しなかったら)良かったとか、あの時あれして失敗やった、ばっかり思っていたらな、それは心を奪われている。
 
質問:2点目です。最近の社会環境の変化やインターネットの普及により知らず知らずのうちにより、より一層損得の中に置かれているように思われます。 支払時のポイントを稼ぐとか有利なクーポンを探すとか、マイナンバーカードで高額な現金を貰ったり、ポイントを稼いだりだとか、否応なくそんな中に置かれているように思います。どんな風に考えて対処したら良いでしょうか。

河上さん:はい。これはね、お金という形のものが存在して、お金というのが利息が付くという形の物が存在する間はね、超えれない、避けれない問題やね。本来この現世にあるものは全て消滅していくものでしょう?小麦粉でも卵でも服でもね、へたっていくものや。価値が増えるんじゃなくって、価値がなくなっていくものばっかりでしょう?で、金も金としてあるだけで、価値が有る無いじゃないわけや。そうやけど、価値が無くなりにくいように見えるから金がいいって言われるわけよ。

 だけどお金だけ唯一な、人に貸したら増えるね。おかしくない?そのおかしくないに誰も気づけへんね。お金も例えば 小麦粉とか、お砂糖とか卵とかお洋服とかね、全部総合して大体、年間3% 価値がなくなっていくって、みんなで決めてね、そしたらお金もじゃあ毎年 3%価値がなくなっていくってなったら、こんなややこしいこと起こらへんね。なのにポイントでもそうでしょ?価値が無くなる物の中に価値をつけるわけや。そしたらいやでも損得働くやん。働かすなと言っても無理やしな。それをゲームやと思って楽しんだらええね。これとこれを使ったら、こういうポイント増える、これをゲームとして思っていたらいいねんけども、得やと思ったらあかんね。ゲーム感覚でやっていたら、もうちょっと楽になります。いいかな、それで。はい。

質問:ありがとうございます。3点目です。2024年から大峠がいよいよ始まっていますが、次なる問題を少しでも小さくしていく方法は真祈り、特に護摩の成功にかかっていると、1月の護摩でお聞きしました。護摩の成功のために我々は何をどのように行動したら良いのかを教えてください。よろしくお願いします。

河上さん: もう毎日が護摩なんです。そしてその護摩と言う意味がね、みんな今一、分かってへんねんな。先生は説明してはるねんで、「偉大なる護りだ」っていうのをね。

 本来神さまが常に皆様を守ってね、愛してね、平等に光を降り注がしてね、それはこの世的には空気とかね水とかね、無料で与えてくださるわけでしょ?太陽の光とか暖かさとかね。平等にみんなに与えているのにね、それにまだプラスをして、みんなが積んだマイナスを消すために、「偉大なる護りとして護摩をします」っていうことで始まった訳です。なんで護摩で燃やすのか。神さまに自分の全ての命を捧げる象徴として燃やすって、先生説明しているやん。聞いているか、聞いてないか知らんけどな、もう、まあええよ。だから聞いてない人はもう護摩をやめようとまでしたんや。

 もうそれぐらいね 護摩の意味が みんな分かっていないけれども、護摩は大おまけの大きな神さまのお清めなんです。「 偉大なる護り」っていうのは、「護」というのは守り、「摩」と言うのは「偉大」っていう意味です。それも摩訶不思議って言って、もの凄い大奇跡の偉大さを表す「摩」なんですよね。その摩訶不思議って言うでしょ?日本語でね。そういう意味です。 それが護摩です。

 だから本当は護摩訶不思議っていうべきなんだけれども。まあややこしなるから、もう護摩でいいけどね、それぐらい凄いもんなんですよ。 凄いものを皆さんの日常の中に溶け込まさなあかん。そのために護摩木を普段書いてねっていうことでね。お仕事の最中はひたすら神さまって思っておいて、「寝る前とか朝起きた時に護摩木書いてください」って先生おっしゃったわけでしょ?ね。毎日1枚 書いたって30枚書けるって。書ける人は10枚書けるやろって、先生一生懸命おっしゃってくださったのに、「ほんなら枚数さえ書いたらいいんやね」っていう、また損得の働く人が出てきてな、色々ややこしくなったから護摩をあんまり強調せずに印可書を強調してみたり、色々とな苦労やでこっちは。右に左になだめてね、しているだけで、神さまの偉大なるお清めという愛の大きな愛をね、ただ素直に「はい」って受け止めるだけでいいんです。

 で、そのためにはもう一応形の上ではね、護摩木のためにお金を出す、護摩木を作りに来る、護摩に参加する、護摩を書くっていう色々なことを言いました。で、どれもこれもできる範囲のことを皆様がしてくださればいいんです。

 せやけど、一番大事なのは 毎日が護摩。 毎日自分の命を神さまに捧げることが大事なの。で、その自分の命を神さまに捧げるって理屈で言われて、あっ、捧げたらええんやなで、みんな止まるから話がややこしけど、捧げるって言うのは何かって言ったら「損得抜き」ということです。誠を尽くす、損得抜きで誠をつくすのが神さまに自分の命のすべてを捧げる事です。ちょっとでも損得が働いたら「自分の都合で動いているな」と思ってください。これで分かるかな。

 そういう毎日の護摩をしていただいたら大丈夫。で損得を抜きにしているとね、自然に護摩木を書こうとか護摩に行かなくちゃとかね、護摩にお金を出さなくっちゃとかね、損得抜きに思えるようになります。損得抜きに思えるようになってきたら、もう完成が近いということです。いいですか。

質問者:はい。ありがとうございます。

質問:人からの頼まれ事をですね、それをこう今のタイムリーな時期であれば PTA のお誘いであるとか、役員をどうかとか、よくあるのですが、まあ今まで断ったことはないんですが、いつもはあ・・どうしよう?はあって言うのがあるのですが。思ってめちゃくちゃ 損得というか 忙しくはなりたくないなー。色々。

河上さん:そらそうやろな。
 だから「自分のできる精一杯しかできませんよ」ってもうハッキリ断言して、もう最初に言ったらいいね。お受けしますけれども、自分なりに精一杯しますけれども、皆さんの希望にそうようになるか、なれへんかは分りません。皆さんの期待に添えない時は、誰か変わっていただくか諦めていただくかって言って、先に振っておいたらいいね。そしたら過剰な期待もしないし、ちゃんと行きます。やっぱり、この人やったら何でもしてくれるってみんな勘違いして、言ってくるね。せやけど、一杯かぶせられてもやれる範囲は限られているから、だからその中でそういう説明をしてね、やったらいいね。断りようはないからな、そういうのは。でも受けたからと言って責任があるからっていって全部しようなんて思ったらあかん。やれる精一杯をするだけで。それで人からボロクソに言われても気にしない覚悟があったら受けたら良い。

 結局な、ボロクソにな言われるやろ?あの人何もしてくれへんとかな、ある程度していても。大体こっちが10したってな、1してくれてへん、しかみんな思えへんからな。一切見返りを求めない。ボロクソに言われても気にしないと思ったら受けてください。
 
質問者:はい。

河上さん: 一杯渡しているねんで。 そやけど みんな 大したことをしてもらってないと勘違いしているね。 そんなもんやね。だって子供がそうや。 親から一杯受けているんだけどね、子供は親からあんまり大したものして貰ったと思わへんね。親が死んだ時にはっと気がつくぐらいや。先生にいろいろしてもらっても先生にこれだけして貰ったって気づけへん人ばっかりやのに、どないすんねん。今のボヤキ聞かないで。

質問者:ありがとうございます

河上さん:そうやね。今年はまだ序の口で来年からは、今度は火山も噴火してきてね、凄く大変になるんですよ。仮にバッと大噴火があってもね、心を奪われずに護摩が出来るように持って行きたいんです。もうちょっと本当に追い詰められて止められなくなってきたんでね。

 でも噴いても揺れても心奪われずにね、その時できる自分の精一杯のことをしながら悠々と真祈りしてください。そうならないようにできるだけ引き伸ばして上手く持って行きたいと思っていますけれども。今の時点では来年はかなり際どい。まだ今年が始まったばかりで来年のことをいうのはあれなんですけれども、もっと追い詰められていくんですね。で、それを護摩でなんとかしたいと思っています。

 護摩木の枚数をこだわるのはね、真祈りが全然知らんとか、真祈りをできない人でもね、だまして書いて貰うだけでも真祈りになるのでということで、頼んでも書いてくれない人は、自分がその人の身代わりとなって書いて、書くことによってね、その人に真祈りがを響かせれるんで、言ってるわけで。ただ、枚数書いたらええやなーって、自分がウワーって枚数かくっていうのは、ちょっと違うという事だけは分かっておいてください。自分が結果としては100枚を書くんですよ。 書くんですけれども、100人の人を思って書いてください。それが必要なんです。 その人の護摩の枚数が欲しいんですよ。だから何故か言うたら 自分がひたすら書くっていうたら、自分のためだけに書いていることになるやん。

 だから無意識に損得が働いてくるね。せやけど色んな人、小学校時代の友達とか顔を思い出したり、思い出されへんだとしても 小学校時代の名簿をみてね、名前を読みながら書くだけでその人に真祈りが響いて行くからね。そういう事を色々と自分なりに工夫をして、枚数を書いてください。 そしたら損得が入りようがなくなってきて、人の為にしているからね、それが結局神さまの為になっていくから。その為の枚数を言っています。
 
質問:護摩木のことですが、人の為に自分の縁のある方を想い浮かべていく時に、やはりそれは名前を書いた方がいいんでしょうか?

河上さん:いや、そんなんいらん。

質問 :いらない?

河上さん:ありがとうございますだけ。宇宙神ありがとうございますだけでいい。

質問:思い浮かべるだけで。

河上さん: 思い浮かべるだけでその人が書いていることになります。

質問者:はい。 ありがとうございます。

河上さん: 神さまそんな脳なしで…、いちいち名前を書かなくても分かっている。 よくあるやん? 護摩木に自分の名前を書かなとかね。昔よく質問があったんやけどもね。それって神さまを侮辱しているって分かれへんね。「宇宙神ありがとうございます」って書いたら神さま誰が書いたかぐらい分かっているって。一々河上が書いたぞって、河上って書かんでもな。ね、そういう感じで名前はいらん。それぐらい神さま全知全能で凄いものや。

 ただ自由意志で神さまを振り向いてくれないと、ようするに自由意志で滝の水をたくさん受け止めようとしないと、どうしようもないね。神さまはひたすら無限の無限の光をね、滝の水のようにザーっと流してくださるだけよ。それを受け止めようとするかしないかは、皆さんの自由意志です。いうことです。「護摩木を書く」って言うのは「出来るだけ沢山受けとめる」という事です。

 「印可書読むっていうのは奉読する」って言うのは、「全てを受け止めようとしている」ということ。その点印可書は凄いのよ。真(まこと)の神さまって全然わからんわって言いながら印可書読むだけで真(まこと)の神さまになっていく。もうその色々な祈り言葉でね、失敗してきた結果、ここにたどり着いたわけ。で、いずれ数式でないと分からない人が増えてきたら、その時は数式を出しますけども。まずは印可書だけでとことんいってみたいと思います。

 というのは 数式を下手に出すと「俺ら数式が分かるけどお前らわからんやろ?」とまた ややこしい 意識が出るね。みんな大変やねんで、ほんとう。無意識に損得出るね。それがあかんのね。だからもう、印可書だけでとことんいこうと思っています。数式はね、「私このように受け留めて、こうなったんです」。って持って来た時には答えるけれどもこっちからは出すつもりはない。

 みんな 真祈りし出したらね、なんて言うんかな、食べる量も何でも減るね、欲望で食べへんから。ほんならちゃんと行き渡るね、すべての人にね。今はね、着るものがそうやんか、欲望で、服ってそんなに沢山要らんね、ほんまはな。そうやけど男も女もよ、どっちもや、おしゃれするわけやろ?この格好って言って、要らんものを買うんや。その分だけ地球に負担をかけるね。せやけど真祈りをし出したら、それが普通に収まっていくね。だから全てが本当にうまくいくね、あっという間に。

 今、みんな損得、欲望っていうのは損得や。そうやろ?人より得をしたい欲望や、それがある間はなかなか大変や。だから土地、地球って地球霊王様のものでしょう? そやのに土地を売るとか売れへんとか言っているやん。こんな失礼な話は本当はないね。そうやけど土地を売るとか売れへんとか、あるいは国のもんや、うちの国のもんや、この土地から向こうは 、こっちはうちの国のものやって、土地の奪い合いをするわけやろ? 領土争いでな。で、戦争になるんでしょ?そういう部分やね。

 すべて真(まこと)の神さまってなったら、揉めることはないね、本当はな。揉めるっていうのは損得の欲望の中で自分が得をしたいからや。その中で力こそ正義になっていくわけや 。だって力があったらようけ(たくさん)取れるもん。ようけ取れるのは正しいことや、それは金持ちの方が偉いみたいな感覚があるやん、いまだに。貧乏人はあかんみたなね。違うやろ、と思うけどね。それすら分かれへんね。だからしょうもない宗教ほどな、教祖が立派な格好しているね、お金持ちで。

 それ見ておかしいと思えへんね、 みんな金もっているから偉いと思うね。それ誰もおかしいと思えへんねんで。それぐらいみんな損得に犯されているね。要するに自分と他人を分けているね。人類みな兄弟って言ってても分らへんのやろ?

 ほんでみんな真(まこと)神さまって言っているだけや。兄弟でも兄弟争いするもんな。やっぱりあかんわな。本当はややこしいことはないねんで。もうみんな真(まこと)の神さまでみんな光やから、揉めようはないねんて。わざと分けて揉めて楽しんでいるだけやで、みんな。

 もうゲームとか全部そうでしょ?赤組白組に分けて運動会でも、わざと分けて楽しんでいるだけで、運動会が終わったら、同じ学校の全校生徒っていう感じでしょう?

 でも分けて楽しむのもかめへんねんで。楽しむんであって苦しみとか憎しみと違うからな。もうな、その辺に気がつけばいいけれども。損得で自分のものになったことがもの凄くええ事やと思っているからや。自分のものになるほど大変やのに。

 先生がよく言ったでしょ?財産ようけあったら管理するだけで大変やでって。お家が大きかったら掃除をするだけで大変や。自分ら生活をする場所だけあったら掃除もすぐ終わるのにな、ひたすらたくさん掃除せなあかんようになるね、お家が大きかったら。たまには拭き掃除もせなあかんしやな、切りがないで。ほんで何年かに1回屋根吹き替えなあかんやろ。壁も塗らんなんし、大きいほど大変や。
 
質問:最善を尽くすということについてもう少し教えて頂きたいんですけれども。勉強会で最善を尽くすっていうことをおっしゃっておられて、そのことを意識して生活をするようにしているんですけれども。まず印可書を奉読する、そして結果に心を置かない。とにかく自分の役割が耳かきだったとしても、最善を尽くすという事を意識しているんですけれども、まだ尽くせていないなっていう気持ちが凄く出てくるんです。 全然これでも。でもやっぱり印可書の凄さをもっともっと実感できて行くんだろうな、という事を思っているんですけれども?

河上さん:だから永遠にね、結果に心を奪われる状態が続くねんて、肉体を持っていたら。

 何でかって言ったら肉体は歳をとっていくやろう?それだけでも結果に心を奪われているね。だから先生は本当に最後まで若々しかったでしょ?でも最後はみんなのマイナスを一身に背負って、もうボロボロになっていかれた訳ですけれども。結果にやっぱり肉体をもつ以上は、心奪われるからね。気になるのは仕方がない。

 それは逆に言うと、肉体を持っているから救われやすいね、気になるごとに印可書を読めるもん。チャンスが増えて喜んでいたらええね。
 一瞬一瞬 新たっていうところがね、肉体を持つ以上は常に気になるね。一瞬一瞬新たも肉体を持つ以上は微妙にね。例えば呼吸でも一瞬一瞬吸えたらいいのに、何秒か吸って何秒か吐く訳でしょ?それだけでもちょっと過去に心を奪われていくわけよ。呼吸を一つとってもね。だからどの状態でも常に常に気になるねんけども、気になるごとに印可書を読むチャンスだと思って喜んでいたらいいね。それで何を見ても喜べれるように、如何にもっていけるかや。

 だから人から言われて気にならなくなったら、喜びやすいやすいんやけども、気になったら腹立つね。クッソたれと思うね、気になったらな。「なんやお前はこれだけしかできへんのか」って言われても「はい」って素直に言えたらいいけれども。「すいません」って言いにくいんやな。ムカってくるんやな。

 結果に心を奪われているね。生まれついて違う能力で楽しむために生まれて来ているからね、お兄ちゃんは優秀やのに弟はどんくさいっていうのはどこにでもあるわ。それ別におかしいことではないね。その逆もあるしね。お兄ちゃんはどんくさいけれども弟はハシカイ(賢い)なとか、頭が良いなとかね。でも頭がええから幸せではないし、どんくさいから駄目ではないし、それをもっと気づかなあかんねんけどな。結果に心奪われたら気になる。

 でも肉体を持つ以上は嫌でもな毎日毎日受けていくやろう? 結果気になるね。老けるって思うだけでも結果気にしているね。一切の結果を気にせずに喜んでいたらいいね。だから神さまがいいようにするって言っているやん。ますます良くなると違うね、良いようにするね。神さまが一番良いように何時もするね。それを喜んでいたらいいね。 文句言うから曲がってややこしいね。

 で、神さまが一番いいようにするって喜んでいたらね、誠意を尽くせるね。せやけど自分がしていると思っているから、尽くし足らんのかなとかね、尽くし過ぎたのかなとか、やり過ぎたんかな、とかね思うね。神さまがいいようにする中でやっていたら、今日はとてももう仕事しんどいわと思った時に素直にすって止めれるね。でも自分がしていると思っていたら、これもうちょっとしなくちゃいけない、尽くしていないわ、全力でしてないわって理屈で考えてな、で、体を潰す。

 だからお年寄りでも長生きして元気な人ってな、結果気にせんと喜んでやっているだけや。90幾つで現役で魚の行商をしているおじいさん、一辺テレビに出ていてね、あのおじいさんなんか喜んでるもん。動けることを喜んでいるもん。ほんでお客さんが「おじん、もっとこれ何とかの刺身にしてくれや」って言われたら、「そんなもん、できるか」って感じでな、「わしの仕入れてきたものに文句を言うなら、買うな」みたいな感じや。喜んでるやん。あの楽天さがいいね。だから天パでいったらいいね、楽天的に、何でも。で、最後は和田アキ子で笑って許してって言って、笑って逃げといたらいいね、ハハハって。そしたら誠意を尽くせるの。

 やっぱりどこかね、人から評価されたことを気になるね。気になるから苦しくなるね。でもそんな人も自分やねんて。自分で自分をボロクソに言ってるだけと思ったら楽になってくる。

質問:自分で自分をボロクソに言っている?

河上さん:そうよ。本当はそうやねんで。 自分が出したボロクソの意識が跳ね返って相手から言われているだけで、自分が喜んでいたら相手も喜ぶだけや。だからその行商のおじんなんかは相手を責めてへんからなボロクソに言い合いしたってな、お客さんも怒らへんし、 ボロクソに言い合いしながら買いにくるわけでしょ?きっとねスーパーで買う方が安いと思うね。でもそのおじんから買うのが楽しいんでしょ?お客さんもね。そういう喜び合える世界にせなあかん。金額ではなくてね。



令和6年1月河上さん勉強会−3(20240114−3)

質問:機会ある度に印可書を唱えるチャンスだと思って、前向きに歩く?

河上さん:そうよ。だから先ずね、自分で自分をぼろ糞に言っているのに気付いたらいいねんけどんな、どうしても他人やと思うからややこしい。

その自分で出したマイナスはどっかで消さんならん。まあ、他人と思っていてもその人がマイナスを背負って逆にね、消して下さるからぼろ糞に言ってはるというのが、それでも正しい世界ですよ。だからぼろ糞に言われるほど、消して貰って良かったや。でもぼろ糞に言われたらめげるやろう?気になっているから。気にしたらあかん。喜ばなあかん。

 そやから言っているやん。神さんが何時も一番良いようしてるって。だからぼろ糞に言われても一番良いようになっているの。

 でも子供はね、親からぼろ糞に言われるのが一番こたえるからね、中々親子というのは大変や。

宮野さん:ぼろ糞に言われたら、まあ、良いわけでしょう?そしたらめっちゃ褒められる場合は?

河上さん:一緒よ。

宮野さん:危ないよな。

河上さん:めっちゃ褒められてもマイナスを積む。だから逆に言ったら、褒められた時はマイナスを積むの。だから褒められんように逃げなあかん。だからイエスは右手でしたことを左手にも教えるなっていうの。良い事をしたっていう事を一切言ったらあかんの。

 褒められたら良い事したこと全部無駄になる。でも今までの宗教は褒めそやしてダマすの。誉めそやして先生って呼ばしたりな、先輩って呼ばしたりな、この教えに入ってワシは何年やってとか言い出してな、上手い事ダマしていくんやけど、違うって。一瞬一瞬新たやから、何時入ろうが関係ない。

 10年もおって何も分からんのか?っていう、本当は恥づかしいねんな。先生とこ来て何年って言ったら本当は恥ずかしいんやで。「あんた、先生とこ来て何十年にもなるのに何も分からへんの?」って自分で恥さらしてるの。

 一瞬一瞬新たっていうのがある意味厳しいし、ある意味楽しい事やね。素晴らしい事やね。

 だから文化勲章なんか貰ったら大変な事や。マイナス背負ってぐちゃぐちゃになって行く。そういう勲章やね。勲章の類を貰うと大変。

 でも先生は絶対人の自由意志を縛らへんからね、先生のお墨付きをもらたってみんな勘違いをしてぐちゃぐちゃになって行くん。この人と結婚して良いでしょうかって聞きに来るわけや。聞きに来る時はしたいから聞きに来てるわけやから、先生は良いも悪いも言えへんし、先生が良いっていうふうな返事をする迄しつこく聞くから、誤魔化した良いような返事をして終わるわけやね。そしたらもう先生のお墨付きを受けたからって。

 だけど厳しい言い方をしたらな、例えば結婚でも、仕事でも一緒やけど、先生のお墨付きを貰ってやった事は一切文句を言ったらあかん。先生に決めて頂いたんだったら、どんな状況に陥ろうが一切文句言ったらあかん。文句言うんだったら聞いた意味がない。

 あんまり厳しい事言ったら言ったらあかんから、もう言わんとくけど、先生から今怒られた。「要らん事言うなって」

 でも本当はそう、文句言ったらあかん。だから「文句を言いなさんな」って言うやん。神さま良いようにしているからな、文句の言いようがない、ホンマは。自分の損得で考えて文句言っているだけや。本当は人からボロカスに言われた方が徳が積めてええね。

 まあご夫婦やったら、旦那から暴力受けた方がマイナスが沢山消えて良いね。だけどあんまりそんなんを言うとな、またドメスチックを肯定してるみたいに言われるから言えへんけど、それ位本当は神さまが一番良いようにしている。

 みんな過去世の事分からんからな、損得考えて文句を言うけどね。自分が過去世でどんだけ恐ろしい事をしているかって、あるねんけどな。

宮野さん:そういう事は一番最初の質問のところと被って来る話で、現実は遠い遠い過去であるっていうところの、ですね?

河上さん:そうよ。だから一瞬一瞬新たに受け直したら過去の一切は関係なくなるの。でも損得になった途端に、過去を掴んで判断しているから、過去の事のマイナスを清算しないとあかんようになって行くの。すると戦争の形になったり、色々と出来るだけ小さな形で神さま消して下さる訳やけど、本当は自分が一瞬一瞬新たになったら、その一瞬で全ては光一元に変わるの。

 何時も言うようにね、琵琶湖にインク壺の分のインクを落としたって無色透明に変わるでしょう?琵琶湖を真(まこと)の神さまに例えたらね。それ位一瞬一瞬新たに受け直すっていうのはそういう事や。

 でもみんな過去の物を全部後生大事に掴むの。自分の財産、自分の財布とかを、自分のお洋服とかね、自分のお家とか思っている人は皆過去を掴んでいるんや。全部神さまからの頂き物って喜んでいたら掴んでへん。

 だからお給料を貰ってもね、一旦神棚に上げて神さまから頂いたと思い直しなさいって先生言うのにやな、分かれへんのやろう?あんまり回りくどい事を言わずにダイレクトに今は言っている。又、言える位先生がお清めをしていって下さった。

 だから先生とこに縁あった古い人は恥ずかしいと思わなあかん。未だに分からんのかって。自慢やなくって恥ずかしい。そうして思えたら過去を掴んでないから、一気に変わって行く。

 結局、損得というのは過去を掴んでいるんよ、分け隔てしてね。もう損得に立ったらもう苦しみばっかり。でも理屈で考えたらな、損得抜きやから自分の財布のお金みんなで分けたら良いんやろう?みたいに勘違いするね。それは違うからな。その辺が中々、理屈言い、要するに分け隔てて考える人に説明するの難しいのね。

 例えばみんなにお金を分けても良いねんけど、分ける時にちょっとでも惜しいと思うんやったら分けたらあかんね。惜しいといったらもう損得が入っているから、それは違う訳や。で、又、損得入っていなかったら必要な人にしか渡せへん。無制限に渡すっていうのは損得入っているの。無制限に渡す方が自分にとって結果得やなみたいな。

 だから自分の財産を全部寄付してとかね、結局それ免罪符でしょう?免罪符をお金出して買って、罪を消して貰おうっていうのは損得や。損得で免罪符買う訳や。宗教によって本であったり色々あるけど、免罪符には変わりない。それ損得で買うんやったら消えるわけないやん。先ず損得なくさなあかんのに。

質問:ありがとうございます。非常に具体的な話で申し訳ないのですが、組織に勤めておりまして、それで専任と非正規でやっている内容は同じ仕事でも給料に差があったりして、同じ仕事なのに非正規である人に、やっぱり文句を聞くんですね。ほんとに個人的な話で申し訳ないんですけど、私の方はちょっと…

河上さん:正規の方に居てるわけ?

質問:はい、そうです。やっぱり文句を非常に受けている方なんですけど。それを解消するには組織としてフラットにする必要があると私は何処かで思っているものの…

河上さん:そんなん無理や。

質問:そしたらそれぞれの立場がその不満なり、不平等を解消するには具体的に…

河上さん:あのね、組織というのはゴミ箱やね。だから正規社員とか部長とか課長になるほどね、大きなゴミ箱やね。一切のマイナスを集める場所になるの。そういう意味で組織が必要なの。だからこの世的な結果で見たらね、凄い不条理な事が起これるねんけど、ゴミ箱として一切を背負って死んで行って下さるだけ。

質問:そしたら差がある賃金を具体的に

河上さん:だから先生が何時も極端に言うけど、ただ働きが一番良いんやって仰る訳ですね。ボランティアが一番良いんやって言うんだけど、それ位、お金頂くっていうのは大変な事やね。それでお役所的な組織程そうやねんけど、大きなゴミ箱やね。で、そこへそこへマイナスを集めてね、現さずに、現すと大変やから死んで背負って行ってもらうためのゴミ箱やね。それだけやね。だから普通は役所の偉いさんになったり、会社でもそうなんやけど、あんまり上に立たんほうが良いの。

 だから日本で言うと内閣総理大臣が一番大きなゴミ箱でね、一番多くを背負っていくわけよ。だから昔からね、大臣になったら八代たたるっていうの。それ位大きなマイナスを背負うの。それ位のもんや。だから分け隔てた云々の話しはしてるけどね、兎も角一番良いようになっているのは違いないの。

 だから自分に取って損得で考えたら理不尽な事も喜んでいたら良いね。そしたら背負う事は無いの。喜んでいなかったら自分が背負い込んだ事になる。

質問:例えばという話しですけど、自分が退職というのを選択すれば、その今の…

河上さん:組織からは逃げられるけど、この世に生まれて来る時にね、自分はこんだけのマイナスを背負う役目っていうのはみんな憶えてえへんけども、決めて来てるね。だから辞めても別の形で背負うだけで一緒。だけど今居てる場所が辛かったら、他所移ったら良いね。そしたらもっと辛くなって楽しめるから。(笑)

河上さん:いやいや、笑ってるけどホンマの話しやね。

質問:日々日々自分は能力がないから、自分に○○しているんですけど、そうじゃあなくって、日々日々私の粛々というか…

河上さん:だから精一杯やって行ったら良いの。精一杯やってな、ぼろ糞に言われて何ぼやって思てたら良いの。で、そないして喜べてたら背負わんで良いし、マイナスは消えていくね。それで上役は怒るばっかりやろう?怒る毎に全部背負ってくれはるね。笑ってるけどホンマの話しやて。だからお役所の偉いさんで退職して5年以内に大概は死ぬんよ。癌とかあんなんで。それは背負っているからや。もう良い悪いとかそんなんと違ってそういうもんなんやな。

宮野さん:もとよりこの世に降りて来るのに、どの状態でも楽しめるっと思って、色んな演技をしようと思ってきてるわけで、そしたら今の現状の自分、どの○○もそうやけど、喜んで渦中に入りたい方なんて多分誰もいらっしゃらないと思うのね。でもわざわざそういうシチュエーションが起こった時、理不尽な事で嫌がらせをされる。若しくはこの度の様に震災に会う。若しくは家庭内で何か、人間関係のトラブルが起こるとかって、わざわざそういう事が起こりたくないのに係らず起こるというのは、それを楽しむっていう、そんな楽しい事をわざわざ与えて頂いた、めっちゃくちゃ凄い良い人生で、物凄いお金持ちになっていて、もの凄い人からも慕われて何にも無かったら、神さまの方、向かないじゃあない?お祈りも何もしないのとちがう?誰もかれもがお祈りしてたら、こんな世の中にはなっていないと思うんですね。

 でも誰もが自分の事しか考えない、若しくは自分の身内の事しか考えない。小さな意識の中で捉えられて損得勘定で生きているから今の状態になっている。ならば今の自分の思い通りにならない、マイナスに巻き込まれているようであれば、それを「あっ」楽しむんや、そしたらどんな面白い事になるんかなって、喜んでお祈りしてて、そこ一杯一杯生きていたら、

 そしたら、あっ、そんな展開が有ったんかなっていう、その面白さ喜びっていうのが、又、先に見えて来るわけですよ。でも自分の思い通りになった方が良いと思っているっていうのは、小さな意識やから何時まで経っても思い通りにならへんっていう状態やと思うんですよね。

 折角肉体を持って降りて来て、あちらこちらに光を通す役割で受肉されたならば、今の現状で起きた事を楽しむっていうのを、ちょっと頭に思い出して頂くと、もっと今の現状が楽になるのかなっと思ったりしますけど。如何でしょう?

河上さん:うん。その通り。だってゲームは難しい方が楽しいんやろう?簡単なゲーム面白くないやん?もうどうしようっていう位が楽しい訳やから。もう僕の事であれですけど、年末辺りから絶対不可能っていう修理をせなアカンようになってね、絶対無理やっていうのを何とか結果としては上手く完璧に修理出来るわけやけども、そのかかる時なんかは全く手探りよ。でも諦めてね、アカン時はアカンのやって諦めてやってたら見えて来るんやな。そういうもんで、やっぱり楽しまなあかん。苦しいと思ったら嫌やな。その状況を楽しんだら結構楽しんでやれる。でも肉体的には凄く大変やったけどね。

宮野さん:起こりえない事が起こるから楽しんでしょう?

河上さん:そうそう、起こりえない事が。又、次の機械がなっているから、又、楽しみで待ってます。でも人間と違って機械は嘘つけへんから可愛い。裏切れへん。やった通りの事の結果しか出せへん。人間は逃げていくからな。

宮野さん:でも人間はあれよ。自分の想像を越える所の動きを取ってくれるから、それはそれで面白いよ。

河上さん:そういう面白みがあるよね。機械はやった通りにしか動けへんけどな。ニャンコさんと一緒やな、予定外の行動をする。

宮野さん:どう捉えるかによって自分が、今この場が凄い幸せかそうでないかっていう現状は変わらないけども、それを感じれるか感じれないかっていうのは、自分自身が作り出せる事なのかなっと思います。

河上さん:そうそう、だから楽しんでやるっていうのは一瞬一瞬新たに受けしているんよ。わーどないしょうっていうのはもう過去を掴んでいる。

 機械の修理にたとえてだったらね、自分の経験から照らしてとても不可能っていう状態なわけよね。もうそれだけ掴んでいたらもう進めへんわ。

 だけど何とかなるやろうって思ってやってたら、それって一瞬一瞬新たに受け直してるからね、行ける。

 絶対手に入らない修理道具をわざわざ持ってきてくれる人が突然来たりね、色んな事がやっぱり起こるし、そういうもんや。

宮野さん:そう来ましたかっていう面白さがあるね。

河上さん:そうそうそう。うん。高圧酸素が無くなってね、年末やから何所も閉まってるから手に入らんわけよ。それないとどないにも進めへんわけやな。絶対間に合わへんね。

 ふっと気付いて溶接専門にやっている溶接屋さんがあるから、そこに電話して悪いけどちょっと出てこいやって。「今、家の大掃除してるわ」って言うて。「大掃除止めてちょっと来い」とか言って無理やり酸素を貰ったりね。普段お互いに楽しんで手伝ったりしているから、そないして助けてくれる。そういうもんやわ。

宮野さん:機械はそうやし、人間関係もとことん嫌で反吐が出る位嫌やなって思っている人も、嫌は嫌なりに付き合っていると、突然人間が変わったように変わるっていう事も。

河上さん:そう。こっちは誠意尽くしているだけやからね、それを通じる通じないを気にしていなかったら通じる。気にしてると通じひん、結果掴んでいるから。

宮野さん:その変わる一瞬を出会えると、何と面白いんだろうって思う。だから凄く大変な時っていうのは、どんなに楽しい事が次に起こるのかなって思って、わくわくして待っていると良いなって思うのね。

河上さん:そうそう。喜んでするっていうのは責めないという事や。責めるっていうのは辛がっているんや、自分が。辛がっているから何で手伝ってくれへんねんとかね、何でこんな時こんなん言うねんって言って責めている訳よ。で、喜んでいたらね、それも何とかするわって言ってやって行くと、みんな変わるね。よっしゃよっしゃ何とかするから全部持ってこいとか言うと、結局持って来た人が全部自分でやり出して手伝ってくれるみたいな。色々ある。

 でも先ず喜ばなアカン。神さまが一番良いようにしてるって。何で喜べるかって言うと、どの状態も自分の損得で考えたら都合悪いけど、神さま一番良いようにしているのは違いないから喜んだら良いの。そしたら良いように変わるねんけどね。自分の損得でやると責めるからね、責めたらそのマイナスが跳ね返って増々ぐちゃぐちゃになる。もうそれだけやね。

宮野さん:あれよね。先程の上司から正規雇用の話しとか、理不尽な場合もね、小さな社会、会社の中だけ、組織の中だけで見れば、そこでプラスマイナスのやり取りがあったりするけど、もう一つ大きな世界に行くと、相手から嫌な事言われているかもしれないけど、違うところで自分を評価されていたりとか、若しくは嫌な事を言ってる上司が違う世界でもって、又、巻き込まれているっていう、そういう入れ子構造にはなっていますね?

河上さん:なっている。だからどの状態もぼろ糞に言われて何ぼって思って喜んでいたら良いの。ぼろ糞に言われるのが自分の仕事みたいに思っていたら楽やねんけどな。ボロ糞のような自分の仕事やって思っているやろう?だから腹立つねんな。いや、ホンマの話しや。

 神さま一番良いようにしてるからなぼろ糞に言われるの一番良い状態やねんて。そこに気付いたら楽やねんけど。中々今は評価を気にするやん、皆な。で、あかんの。アカンようになって行くの。自分で潰すねんけど。

 だから勉強でも仕事でも何でもそうやねんけど、スポーツでもそうやねんけど、評価気にするっていうのは緊張しているのよ。人を責めるっていうのは緊張しているね。だから自分も動けへんようになるの。楽しんでいるっていうのはリラックスしているから、何でも分かるようになって行くね。勉強でもスポーツでもそうや、卓球でも良いけどね。緊張してみ、出来へんで。あれは楽しむから出来るの。ボウリングでも緊張したら投げられへん。そういう感じでね。

 勉強もそうやね。リラックスしてたら分かるもんが、分からなあかんってみんな緊張しはるん。勉強出来へん子みんなそうやね。真面目やからな、これ分からなあかんって緊張するね。なら絶対分からへん。これ憶えなあかんって緊張しはる。そしたら英単語一つ憶えられへん。だから英単語憶えられへん子にね、憶えるようにさせる為にどうするかって言ったら、歩きながら読めってさせるの。歩かなあかんから緊張出来へんや。なら自然に憶えられるみたいな。如何に緊張を解くかだけやねんけどね。

 それを具体的には一瞬一瞬新たに神さま良いようにしているから、喜べたら緊張は解けるの。だけど上手くしなくっちゃあいけないと思った途端に緊張するからな、結果に一喜一憂するなっていうの。上手く出来なくていいから楽しめっていうのがな、中々みんな分からへんね。

 だからぼろ糞に言われるのが自分の仕事位に思っていたらな、リラックス出来る。「又、あの上役から小言食らった」って思ったら辛い辛い。もう真(まこと)の神さまが今の一瞬一瞬、一番良いようにしかしていないのは間違いないから、信じれる信じないは勝手やけど。良いようにしているから喜べるの。だから楽天的に天パーになっていたら良いの。喜んでいたら良いの。で、都合悪い事言われても笑ってな、誤魔化してたら良いの。「ハハハッ」って。怒られてる上司の前で笑ったらあかんで。余計怒られるからな。
 
 ともかく地軸が物凄くブレ出して来たんよ。だから思いっきり寒いのが来たり思いっきり暑いのが来たりとかいうのが来ます。空気は動けへんからな。地球だけが動くからな。それをどう止めれるかだけやけど、それは本当にみんなの喜ぶ心やね。人を責める心が地球霊王様の体を刺し潰していくんやね。で、地球霊王様の体が硬くなった、いわゆるリラックス出来へん状態やから地軸がブレ出して、地震も起こるし火山も噴火するし、それでも止まらんかったらもっと大変な事が一杯あるんやけど。大陸沈むとかね、もう兎も角みんなが喜ばなあかん。それに尽きるんよ。結果気にせんかったらみんな喜べるねんて。そやけど理屈で言ったって分かれへんから、もう真祈りだけやね。だから護摩だけよ、ここ迄来たら。護摩しか全てを治める方法はないわ。

 だって印可書読めって言ったって、読めへん人は読めへんのでしょう?なら読めへん人に響かすのは護摩しかないんや。でも分かる人はドンドン選んでいってくれるからね、それとの競争やね。

 地震一つね、何一つ分からん人がね、印可書は駄目だ、これだって偉そうに言うたってな、その無責任さに気の毒やなって思うね。神さまのお仕事を、自分が邪魔してるっていう事が分からん哀れさやな。無責任やわ。人類の運命を背負う覚悟もなくして、一切のマイナスを背負う覚悟も無くして、ほんまに要らん事言うな。

 先生は一切のマイナスを背負うっていう覚悟をね、先生の人生の全てにおいて見せていかれた訳でしょう?なら先生のお弟子やと思う人は先生を真似て、一切のマイナスを背負う覚悟を持ってください。一切のマイナスを背負う覚悟というは、今が一番良いようになっているって喜べるわけよ。だって一切のマイナスを背負っているから、損得で言ったら損ばっかりや。損ばっかりでも喜べるの。熱出ようが、痛かろうが、咳出ようが、仕事の上で大変になろうがね、喜べる心や。一切のマイナスを背負うっていうのはね。

 本当はそこまで厳しく言わんなんやけど、まー、そこまで言えへんからお願いやから、護摩木書いて護摩をして下さい。

 ただ、甲辰(きのえたつ)で本当の時間切れなんでね、神さまの働きの邪魔をする人は足が動かなくなったり、色々もう止めれないから起こって来ますけど、それもその形でその人に働いて貰うという風に皆さん思っていて下さい。だからあの人大変になったから何とかしてって持ってこないで。印可書を既に教えてあるんだから、選ぶ選ばないは自由や。



令和6年1月河上さん勉強会−4(20240114−4)

河上さん:あの、今日連れて来た縁者も全部、今綺麗になったから、もう今すぐ止めれるねん。せやけど、一応2時間と思ってるから、 あと30分と思っているから質問してください。はい。もう綺麗になってスッキリしたやろ?

質問:ありがとうございます。護摩焚きが人類の救いっていうことがよく分りました。日々、毎日が護摩焚きなんだよっていうことを、日常の中で、護摩を溶け込ますっていう表現だったと思うんですけど。それは具体的には護摩木を書くこと。他にもっとそういう気持ちを感じれる方法ないていうのは?

河上さん:だから、誠意を尽くすよ。愛と誠のね、愛と誠を尽くすいうことや。だから、山を全力で駆け上るんじゃなくてね、いつもいつも、自分の出来る精一杯をするって、惜しまずに。損得無く働くとかね、惜しむから、惜しまずにするのが、誠意を尽くすやね。

 誠を尽くすや。いつもいつも先生の表現で言うたら、限界破りしなさいや。 限界破りっていうのは、山を全力で駆け登るのと違って、自分が登れるギリギリまで1歩1歩登るということ。それを毎日ね、惜しまずにせな(しないと)あかん。ほんなら悟ってしまうねんけどな。悟りというのはそういう部分にあるね。惜しまずに神さまに誠を尽くす。それは日常のことやったら、お仕事の上でも お家のことでも惜しまずに動くっていうことや。動くのが祈りそのものやねんな。

 もうそこだけやねんけど、お祈りしてへん人に限ってな、ゴロゴロしてんね。お祈りしてって言いながらゴロゴロしてんねや。違うからな。 先生が動かれてない時は体の痛みとして持っておられただけで。僕はまだまだなんで、痛いって思わず言ってしまうけど、先生はそういうことは仰らずに悠々とされてましたけども、自分の肉体的に受け入れるギリギリをいつも受けておられた。それをみんなにせえって言うたら、またみんな逃げていくからな。それをせえとは言えへんから。

 只、「印可書」選び取れへんけども、先生に縁のあった人は、その体で受けて貰うことにしました。 その方が神さまのお手伝いなるからね。もう、猶予期間なし、おまけなしで、それだけなんですけども。 只々ひたすら。

 例えば、この部屋を掃除しましょうとするやん。で、色々と時間切れの都合で半分も出来へんかったと。だから、半分のちょっとだけして帰りましょう、みたいな感じやな。その、ちょっとの部分がいるね。

質問:ひたむきな部分。

河上さん:そうそうそう。で、それは人の評価を気にせずにできたら、ひたむきになるねんけどな。気にしてると全力で走ろうとしたりな。全力で山を駆け登ろうとしてんのは、人目を気にしてんね。「なんやあの人、ゆっくりしか登ってないからや」って言われて、ぼろくそに言われてなんぼやから。 自分なりに一生懸命したらいい。

質問:ひたむきに全力を尽くす、誠意を尽くすというのが護摩焚き、毎日のこの?

河上さん:うん、なるの。護摩というのは、神さまの命を捧げるって意味。護摩木は皆さんの肉体の象徴や。 それを護摩の火というのは、真(まこと)の神さまの象徴。火の中に投げ込んで、全てを完璧なる1つにして無色透明にしてるわけ。護摩木という見えるもんがね、無色透明に消えていくわけでしょ?で、いずれ本当に護摩が成功したらな、一切の灰残れへん、言うとくわ。 それができた時はもう、大大大大…やけど、まあ、それは、まあ楽しみにしとこ。

質問:先ほどの「今日は綺麗にしたから終わっていいんだけど」の件なんですが。常々思っていたんですが、河上さんが仰る「綺麗にする」っていうことを詳しく教え下さい?

河上さん:だから、今みんな悟った心境にあるの。無色透明にして。だから質問が出えへんね。あと、無理に質問してもうてるけどね、もう、「え、何聞くかしら」って思うくらいスッキリしたやろ?で、これが悟りの心境やね。あとは、これにプラス、誠意を尽くす気持ちが出たら、本当の悟りになんねんけどね。 せやけど、まあ、とりあえず、この感覚を体感しといてもうて。すると、自分が悟り開く時にわかる。で、今回はみんな一斉に持っていくからね。やけど、一斉に持っていった時に、みんな一斉に顔を見合わせて「あ、これやったんや」って言って喜べるように今の感覚を体験してもうてます。それだけや。

 悟るとね、この状態を自分で出来るね。自分の状態を一旦消して、一杯吸い込んどいて、で、ワッと消しての繰り返しをすんねんけどね、呼吸のように。それを、自分でできないから、綺麗にして見せただけ。自分でできないから、 勉強会終わって帰ってしばらくしたら、普通の自分に戻ってきてな、また文句を言ったりする。

 それを本当はどんな状態でもね、どんどんマイナスを背負って消していかなあかんわけよ。

 消すのは「印可書」奉読という形で教えてあるけども、本当に「印可書」奉読ができたら、どんどん背負って消していくのが実感できます。で、実感できた時は悟りやねんけど、その実感を今わざと消してるからね。みんな「なんかようわからんな」言いながら来てると思うけど、ちょっと信じてこのまま行っててください。全員同時にしないとね、もうややこしいから。何遍もそれで失敗してるから。

 今のはいい質問なんですよ。今の質問聞いて、この話聞いて、勉強会終わってお家帰ってね、また色々と日常茶飯事のことでこうなって、ウワッてなってくるやん。その時に「印可書」読むと、フッと今のこの感覚に戻れたら、かなりバッチグーやなと思って、それでも人に言わずに黙っててください。いい質問です。

質問:いずれは神さまと共にですが、自分で。

河上さん:だから先生にね、(僕が)みんなが誰でもが簡単に出来るようにする方法を作ってくださいってお願いして、作ってくださった「印可書」ですから、素直に信じて淡々とやってたら大丈夫。それで、極まった感覚は、今のこの感覚やから、これだけは実感、 体験させんとわからんからね。

 それで、護摩の時もするんだけど、護摩の時はもう戻るのも早いから色々と難しいのね。で、勉強会の時は、結構この状態をある程度時間維持出来るから、それはなんて言うかな、ここではあんまりね、マイナスの思いで来はらへんから、やり易い。勉強会(護摩の言い間違いです)(護摩)の時は、色んな思いが混ざるんで、その思いも満遍なく消そうと思うと、色々と、あんまり強い光出せなくて、で、ちょっと護摩の時は護摩の時のやり方が。色々大変やって(笑)。ほら、オーケストラの指揮者がね、オーケストラの団員の癖に応じて上手く調整せなあかんね。そういう難しさやね。

 ピアノ協奏曲で、ピアノが弾きはって、オーケストラが弾きはるでしょ。それが混然一体とならなあかん。指揮者が本当に凄かったら、個性の強い癖のあるピアニストを使ってもね、混然一体に持っていくんよ。 だけど、失敗すると、ピアノだけ勝手に鳴ってて、オーケストラだけ勝手に鳴っててになるね。そういう感じで、お清めというのも、色んな思いの人をそれぞれ上手く合わせて、1つの大きな響きに持っていかなあかんのでね。

 それは、五井先生の頃はもっと大変やって、本当に色んなレベルの響きがあって、それを1つ1つ調整されてんけど、松下先生の時も一緒で。だから松下先生がここで一緒にお祈りされてね、もうほんまに背負い切って、ガクンってこうなられるわけね。ほんなら「先生、お祈りしてる時寝てはるみたい」に、訳分からんとね言う人もおったしね。もう「寝てるんちゃう、死にかけてはっただけや」みたいな、こっちは思うけども。そんな大変だったんですよ。でも、先生が本当に綺麗にしていってくださったんで、僕はある意味、楽に美味しい部分だけさせてもらってます。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:だから、そのお清めのやり方1つ、病気直しのやり方1つね、これはある意味職人技なんで、手取り足取り教えようがないわけです。 だから、五井先生がされたこと、松下先生がされたことをじっと見てね、盗み取るいう表現もあれなんですけど、学び取ろうですね、(そう)いう気持ちがなかったら受けようがない。

 みんなは助けてほしいが先でね、先生のお手伝いがしたいがなかったから。神さまのお手伝いをしたいがないと、それは学び取れないからね。で、学び取った人間はこの2人だけやったという寂しい結果やったわけですけども。それでも先生は他に色んな人を作ろうとして苦労されたんですけどね。みんな虚栄心に負けて、色々あったんですけど。ま、もう済んだ話だから、今は「印可書」あるから大丈夫。

質問:今日は真心尽くして、ひたむきにっていうお話が色々出てきたと思うんですけど。質問というのは、楽しんでやることと、肉体との付き合い方を教えて頂きたいんですが?

 というのは、私は自分の本職のことではなくて、色んなことをやってるんですけど。色んな授業というか、色々やってるんですけど、どれも楽しんでやってるんですね。 結果も気にせず、楽しんでやっているのですが、楽しんでやっていると、気が付いたら、朝になったりとかなるんです。河上さんに会うと、「あんた寝えや」って言われるんですけど。

河上さん:いや、何も飲まんと食べんとね、寝やんとどんどんやるからな。せめて寝えって言ってるだけで。結局楽しんでるとね、飲むのも食べるのもいらんでしょ。飲むのも食べるのも寝るのもいらんやろ?だから、先生のようにとことんやってもいいんだけど、今は先生がみんなでやりなさいなんですよ。

 だから1人だけね、あんまり勝手に突っ走ってもうても困んね。わかるかな?みんなをこう押し上げなあかんから。すると、みんなの意識に合わそう思うと、みんなと同じように美味しいものは美味しいな。まあ、僕も人に言えん、何も味わからんからね。そやけど、喜んで食べて、喜んで寝て、喜んで飲んでというのをしないと、みんなの響きに合わせれないからね。それで、楽しんでたら疲れも出えへんし、とことん動けんねんけど。

 もうちょっとみんなに響き合わせてくださいということです。楽しんで食べて、楽しんで飲んで、楽しんで寝てな。その寝る時間は3時間でもいいですから。先生は本当に40分ぐらいしか寝られなかったですけど。それではみんなに響きが合わなかった。だからせめて3時間は寝て、出来るだけみんなと同じシチュエーションというか、ローテーションをしてあげないと押されへんね。

 羊飼いで言うと、羊飼いは羊を直接押せへんけど、後ろから色んな響きでね、追うわけよ。その響きが羊に分かるようにせんなんからね。こっちがあんまり無色透明になると、空気のように感じて、なんも分かってくれへんようになるから。そういうことで、いつも、「もうちょっと寝て」とか言って、「食べ飲め」まで言うともうキリないんであれやったんですけど。そういう感じで、出来るだけ、なんて言うんですかね、

 イエスがね、一緒に取税人と一緒にお酒を飲んでね、卑猥な話をして参加するのね。で、それを見てみんな責めるんだけど。「あんなお酒飲んで、あんな人らとエッチな話して」って言うんだけど。そうじゃなくて、そうしないとこうできへんね。 それくらいね、肉体を持つ時に、肉体を持ついうのも、そういうことをして初めて肉体が持ててん。

 で、先生に縁のあった人は、本来みんな悟った人やからね。本当はもっと簡単に悟れんねんけど、肉体持つ時に色んなもん背負いすぎてややこしくなってるだけ。せやけど「印可書」があるから戻せんねんけど、でも、それでも簡単に戻ってもうたら困るわけよ。もういっぺん下に降りて降りてっていうね、その下に降りて降りてがいる。その降りて降りては、お酒は飲まんでいいんですけど、なんて言うの?

 だから、先生はよく週刊誌を読まれた。 週刊誌に書いてる卑猥なこととか、色んなことの響きを体に入れて、皆さんに合わせていただいたようにね、最低限飲む、寝る、食べるをしないと、みんなには合いませんから。で、先生は、その飲む、寝る、食べるが苦手やったからね。先生の話は、いまだに聞いてもようわからん人が多いね。それぐらいね、先生はやっぱり凄い方だから、余計肉体側に合わすのは大変。

 僕らはその中間にいてるんで、もうちょっとこう。で、河上の話は分かり易いちゃう、みんなに近いだけ。そういう感じです。だからもうちょっと人間らしく、飲んで、食べて、寝てください。お酒は飲まないでね。

質問:え、飲まない方がいいんですか?

河上さん:うん、あのね、お酒はね、ちょっと以前のお酒と、今、変わったんですよ。で、本当に今のアルコールは飲むと癌になります。だから我慢出来る人は飲まないで、ノンアルコールビールにしといてください。

宮野さん:ワインも?

河上さん:結局ね、そんなん言うと、もう食べないでになっていくねんけどね。食べ物自身の響きが変わったわけやけど。ただ、そういうのの1番悪い部分がアルコールに出てくる状態になってきたんでね。それやから、メチルアルコールかな、飲むと目潰れるじゃないですか?飲むアルコールはそれが入ってないんですけども、波動が変わってね、そういうのに近い状態になってるんですよ。 だから、アルコール飲んでると、今度は目が見えなくなるんじゃなくて、凄い癌になりやすくなっていくみたいな状態にちょっと響きが変わってきたんでね。もちろん感謝して飲んだらいいんやけど、感謝したらアルコールいらんやろ?そういうことです。アルコールはストレスで飲むからね。でも、辛抱できない人は飲んだらいいよ。 そやけど、喜んで飲んで(神さまの為に飲むということ)くださいね。

 ただ、ストレスをアルコールで、あるいは食べることでストレスを誤魔化すようでは困ります。それは癌の元です。だから、飲んだり食べたりでストレスを紛らわすと癌になる。まあ、1番わかりやすく言うとね。もうストレスは「印可書」で消してください。で、それが性欲にも出てきて、エイズと梅毒が重なったような状態の病気が今増えてきてね、ちょっと大変なんですよ。だから、そっちの方は上手く誤魔化して、流れないようにしてください。でないと、梅毒とエイズ重なってると直しようないんでね。

 まあ、それくらい地獄とこの世が1つに重なってきたからなんですけど。その具体的な理由は、誰かが悪さしてんじゃなくて、地獄とこの世と言うより、全てが完璧な1つに今、神さまは戻そうとしてるからね。で、あっちの世界とこの地上とが重なってるの。重なってるから、マイナスを責め裁いてる人は、マイナスを背負ってね、凄いなんかややこしい殺人があったりするでしょ? それは、そのマイナスばっかりを見てくる人はそういう影響を受けるわけ。

 それが食べ物にもあって、アルコールがちょっと影響があるんでということです。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:どうぞ。

質問:お酒の件で質問なんですけれども、 波動が変わったっていうことで、それは全般全てなのか、最近製造されたお酒がということなのか?

河上さん:もうアルコール全般がそうなんですよ。なんでかって言ったら、アルコールを作る元のとこで響きが変わったの。だから、なんて言うんかな、糖質をあんまり取らん方がいい世界に入ってきたんですよ。 でも、みんなはご飯大好き、パン大好きでしょ?だから、あんまりそれ言うと、もう大変な騒ぎになるんで、あんまり言いませんけども。

宮野さん:先程のはビンテージ物(古くて価値が高いワイン等)とかってどないですかって話でしょ?

河上さん:いや、いや、そうじゃなくて、響きが地獄と1つになる。

質問:全て?

河上さん:うん、そうそう。例えばイエスがね、 水をワインに変えるわけよ。それ、響きで変えるわけや。そういう感じで、古いお酒、古酒であろうがなんであろうが、アルコールに地獄の響きが重なってきてるから色々と影響がありますよという。 だから、逆に言うと「印可書」をね、素直に奉読できたら、イエスの奇跡を現せるから、水をおいしいワインにも変えれるわけ よ。そこまで自信ができたら、もっと自在やねんけど。

 あんまり今、ややこしこと、もう言わんといて、もう一斉に行きますから、もうちょっと待って。

 取り敢えずはちょっと、ストレスであんまりアルコールは飲まないでねということで。あるいは、ストレスであんまりおかきとかね、うどんとかね、糖質を食べないでって。普段のお食事で食べる分はいいですけど、大体、ストレスで食べんね、食べすぎの人っていうのは。そのストレスをごまかすのに食べるというのは、ストレスで食べずに「印可書」読んでから食べて(神さまと共に食べるということ)。

宮野さん:ということはお酒も御神酒だったら?

河上さん:そうやねん。

宮野さん:多くでなければ良いと。

河上さん:そうそう。だから、お祈りしたらええねんけどな。だから「印可書」奉読したらな、飲みたなくなるしな、なかなか難しいとこやね。「印可書」奉読してから飲めって言うたら、「印可書」奉読したら飲みたくなくなって面白ないって言い張るから、好きにしてって言ってんねん。中々みんな面白い。飲みたなくなったらそれでええやんとか思うねんけど。

質問:アルコールと聞いてビールを思い出したんですけれども、ビール酵母からできている…

河上さん:あかん、ビールはあかん、もうノンアルコールビールにして、ビールは特に影響あんねん、今。

質問:ビール工場で働いてる人たちや、そういう会社関係の方々はどういう気持ちで…

河上さん:いやちゃうねん、原料がな。今、ビール会社は大変やね、原料の確保で。それなりにビール売れるやん。だから作らなあかんやん。でも原料ないね。

 まあそうやね、お茶で言うたら、こんなん言ったら怒れるんやけど、お茶で言うとね、お茶を作らなんねんけど、売れ過ぎて来て、お茶作られへんね、ペットボトルのお茶。ほんなら、もう本当に、そのお茶の葉がね、作るとこで、モーターの上に積もってるお茶までこう掻き出してね、お茶の葉で持っていくみたいなとこあんねん。今、極端な表現ですけど、それくらい原料が足らんで、色んな原料集めて作るから、あの、その過程でややこしいことが起こってる。せやけど、それをね、医学的には説明できへんから、あんまり録音で言うたらあれやねんけど、ちょっと、まあ、ついつい喋ってしまっただけです。

宮野さん:先ほどのビール工場で働いてる方のお気持ちはって言うことは、最初の段階のお話のところと一緒ですよね。

河上さん:そうそうそう。

宮野さん:ね?先ほど最初に質問された正規雇用とあの話の答えは一緒なので、どの状態に置かれても、1番良いようになってる。そして、もう1つ、もう1つ、最初の話の、今日の1番最初の話の今起こってること、現実は遠い遠い過去の話であるっていうところに結びついてくるわけだから、結局は目の前の出来事は全部自分と1つ、他人のことも他人ではないので、自他を分け隔てせずっていうところなので、結局は目の前に起こってること全て自分のこととして真祈りするだけというところで収まるのですね。

河上さん:そうです。はい、ありがとうございます。ほんならお祈りして終わります。


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