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11月護摩2週目 by 河上彰延 [Mail] 2024年11月15日(金) 23時45分
PC

令和6年11月2週目護摩焚き河上さんのお話し前半(20241110−前半)
 (最初から〜約30分まで)

司会者
 河上さんへの質問をさせて頂きます。8件ほど預かっております。
 先月の護摩焚きの河上さんへの質疑応答の中で神さまからの彗星が来ているとの事がありましたが、この事について詳しくお話しして貰えませんでしょうか?

河上さん
 ありがとうございます 又、お会いできて嬉しく思います。
 
 彗星というのは色んな意味で地球という舞台の変化。舞台で言うと第1幕、第2幕、第3幕、そして終幕、大体4つに分かれるわけですけども、幕引きを表す新しい時代の始まりを表すんですね。だから人類の歴史を見ても大きな彗星が横切る毎に大きく時代が変わって行くんですよ。これ歴史好きの方だったら、ちょっと歴史が大きく変わる時のその時の天体の動きを見て頂ければ分かるんですけども

 今回は人類が予測しない彗星。その飛び方の、彗星なんて無いんじゃあないかっていうふうな彗星なんですね。それは神さまの地球霊王様の方で、もう松下先生との約束ももう良いんじゃあないかと。という事で地球霊様の意思表示として出て来た彗星なので神さまの彗星と言いました。

 それどういう事かと言うと、僕が11才の時に先生にお会いしたわけですけど、丁度その頃、先生と地球霊王様との話し合いがあった頃なんですね。で、先生からは、地球霊王様も人類の自由意志に任すっからて言ってきているけど、「もうちょっと待ってください。人類の方で真祈りをして」という事でここまで来ています。それでここまで来たんですけど6年間のオマケがとうとう終わってしまったわけですね。

 本来は先生が亡くなられるのは2015年の8月の予定でした。それを特にお願いして6年間延ばして下さいとお願いしたんですけど、3年になったわけです。そこから又、6年という事で色々あるわけですけども、兎も角、6年間のオマケが終わりましたので、これからは何が起こるかと言いますと、人類の自由意志に地球霊王様がこの地球という舞台の中では人類の自由意志に全部任せると。神さまの方から影響を与えて止めたりですね、もうどうこうはしないと。もう人類の自由意志で好きにやれというそういう時代に入ってしまったわけです。
 
 ですから個人的に言いますと、いわゆる真祈り、真(まこと)のプラスの言葉を選び続ける人はどんどん若返って行きますし、逆に本当に若い人でも人を責めたりね、マイナスの言葉。或いは自分ではマイナスの言葉とは思っていないけども、色んなマイナスの言葉をするじゃあないですか。例えば「自分がしてやった」っていうのはもうマイナスの言葉なわけですけども、普通は俺は責任を果たしたみたいな勘違いをしているじゃあないですか?でもそういう「自分で分かっていようが、分かっていまいが」、発したマイナスの言葉通りの運命を自由に選べるように、神さまがこれからはされたという事です。
 
 ですから無意識であろうが、意識的にあろうがマイナスの言葉を出した方はどんどん老けて行って死んじゃうと。それが病気の形か運命の形とかは色々ありますけども、死ぬ人は死ぬし、若返る人はどんどん若返って行く。それは医学的に言うと遺伝子の構造の変化で分かりますので、誰の目にも分かり易い形にはなってきますけども、そういう時代になったわけです。
 
 だから怖がらして言うと、マイナスの言葉をちょっとでも発したら、痛い目に会うぞという事ですけども、本当は一番嬉しい時代に入ったわけですよね。印可書を素直に奉読出来たらどんどん幸せになれる、どんどん元気になれるという事です。只々、それだけですので。ただ、今までだったらオマケがあったのでね、少々、「あいつサボってんな」とか、「俺があれをしてやったんだ。」とかね、「私がこんだけ寄付したんだ。」とかね、色々ありますけども、そういう言葉は全部マイナスの言葉なんですね。それ分からずに出して言うってもそのマイナスの言葉を出して言うたら、出しただけの物がパッと現れて来る、ある意味分かり易い時代になったという事です。そういう意味です。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます
 次の質問です。何年か前の河上さんの質疑応答のお話しの中で、真祈りの参考になる映画としてレ・ミゼラブル、マトリックス、十戒、ベンハーをあげていましたが、そこでお聞きしたいのですが、真祈りを深める参考の小説は何かありますでしょうか?

河上さん
 あー、真祈りを深めるというプラスの側の小説はないんですけども。カラマーゾフの兄弟とかね、いうのはマイナス側で悶々と苦しむ姿を本当に克明に描いてあるわけですよ。で、ある意味読みにくい小説でもあるんですけども、あれを読むと悪魔がね、要するにマイナスの言葉の集積ですね。悪魔が如何に囁くのかという事が分かり易い。

 で、何時も言うように全部、なんで自分の責任かというと、悪魔は囁くだけ。説明するだけです。「競馬したらお金儲けできるよ。」とかね、「パチンコしたら儲けれるよ。」とか、「この株買ったら儲かるぞ。」とは言いますけど、「株を買いなさい。」とは言わない。「パチンコをしなさい。」とは言わない。分かります?「競馬をしなさい。」とは言わないんです。或いは、「不倫をしたら楽しいぞ。」とは言いますけど、「不倫をしろ。」とは言わない。「あの女と寝ろ。」とか「あの男と寝ろ。」とは悪魔は言わない。何時も悪魔は責任を持たない。責任は全部その人、それをした人が持つようにしか、悪魔の力って無いんですよ。悪魔に本来力はないの、囁くだけ。分かります?
 
 「このパチンコしたら儲かるよ。」とか「この株かったら儲かるよ。」とかいうのは別に力ではないよね?只々、囁いただけ。それに乗る方が悪い。分かります?それだけですよ。何で乗るかと言ったら、自分の中にそんな楽したい狡い心があるから引っ掛かるだけ。
 
 アダムとイブの話でもそうですけどね、蛇はそのリンゴを食べたら神さまの様になんでも分かる知恵がついてって、それしか言わないわけでしょう?で、リンゴ食べなさいって言ってないわけです。で、神さまはそれをよくご存じだから、アダムとイブの本当の気持ちを確かめるわけですね。そしたらイブの方は蛇が言ったから食べましたって嘘つくわけ。
 
 神さまは「リンゴを食ったか食わないか?」って聞いているわけでしょう?ほんだらリンゴ食べましたか、食べませんでしたかだけや。それ以外言う必要ないのにね、「蛇が食べって言うから食べたんです。」「蛇が誘惑したから食べたんです。」みたいな感じで言いわけするんです。それも人の人のせいにしてね。
 
 ほんでアダムはイブの様に(責任逃れの言い訳をして)「あなたが私の為にお作りになった女がこのリンゴを食べろって言ったから食べました。」ってやっぱり人のせいにして逃げるでしょう?それを原罪って言うんです。何で原罪って言うかと言うと、肉体を持った途端に自己保存本能が出るわけですよ。

 先ず自分の都合を優先するというのを自己保存本能と言います。その自分の都合を優先する心を肉体を持った時に一緒に持つんですよ。又、あれ程度それを持たないと肉体を維持できないからね、持っていいんですけど。
 
 だからちいちゃい子はね、ちょっと都合悪くなったら泣きながら「お母ちゃんのせい」って、お母ちゃん叩くやないですか?何でも自分の都合が悪くなったら「お母ちゃんのせいでこうなった。」って言うじゃあないですか?それはちいちゃい子の間はそれで赦されるわけですよ。でも大人になってから「あいつのせいでこうなったんだよ。」っていうのはもう都合悪いわけです。ね?
 
 でもみんな大なり小なり「何々のせいでこうなった。」って言うのね。或いは「あいつが怠けているからうちの会社は儲からんから給料上がらへんのや。」とかね、色々あるじゃあないですか?その具体的に言わないでも廻り回って、やっぱり周りのせいにしているって言うのがみんな大半なんですね。
 
 で、新しい時代に入りましたから、そのマイナスのせいにした途端に色んな病気とか事故とかね、色んな運命が現れるわけですけども。その小説で真祈りを書いている小説は、小説としては五井先生の「釈迦とその弟子」がそれに近いです。でも具体的に真祈りと書いていないのでね、やっぱりそれだったら逆に人間の狡さとか一杯書き込んであるカラマーゾフの兄弟とか分かり易い。それの真逆をすればいいんだからという事なんですけども。

 ただ、色んな意味で人間の一生って時間が限られているわけよ。だから色んな体験を積んで色んな勉強をした方が良いんだけども、直接体験をするというのはある意味自分で罪を犯す。人のせいにしてしまうとか色んな事が起こるじゃあないですか?それを回避するためには別にどの小説とは言いません。村上春樹さんの小説なんかいいと思いますけど。読むと色んな人生体験が同時に出来る。同時に出来ながら小説を読んでいるだけだから。あんまり自分でマイナスの思いを出さないという事で。本読むのが好きな方はね、カラマーゾフの兄弟か村上春樹さんの1986だったかな?ちょっと忘れちゃったけど色々ありますので、ノルウェーの森とか色々(夏目漱石のこころとか吾輩はねこであるとかそれから等々)ありますので、読まれたら真逆のマイナスを人間てこうゆう風にしてマイナスを出して行くんだなっていう事が分かり易いとは思います。でもわざわざ読まなくっても印可書を奉読していたら良いんだよっていう事ですけど。でも人間て色んな物を見たいからね、知りたいからね、そういう意味では直接自分が行動して体験して大変な目に会うよりは、まだ小説読むほうがマシだとは思います。

司会者
 ありがとうございます 次、呼吸法について質問いたします。
 
 人が多いい場所では鼻から息を吸ってゆっくり口から吐く呼吸ではなく、鼻から息を吸って鼻からゆっくり息を吐く呼吸をしながら印可書を心の中で奉読しています。やはり口から吐く方が良いのでしょうか?その違いについて教えて下さい。宜しくお願いいたします。

河上さん
 はい。これはね本来呼吸法は完璧になると自由自在なんです。で、鞴(フイゴ)の様にという?籥(たくやく)の如しと言うんですけども、?籥(たくやく)とはフイゴの事なんですけどね。フイゴの様に陰陽五分(いんようごぶ)の呼吸が最終は理想なんです。ただ、最初から陰陽五分って言うとね、要するに陰陽五分の呼吸ってみんな本能的には知っているんですよ。だからばーって走るでしょう?そしたらはっはっはっつってやるじゃあないですか?あれは陰陽五分の短いやつね。そういう走った時でも長めの陰陽五分の呼吸が出来たら良いんだけどしんどくて中々出来ないのね。

 だから最初は速く吸って、で、ゆっくり吐く。それを口からだけでも良いし、鼻からだけでも良いしやる。ほんで、ただ、早く吸ってゆっくり吐くのを体に滲みこませ易いのは、鼻からスッと吸って口からゆっくり吐くみたいな感じなので、ちょっと導入の部分で説明しましたけども。本来呼吸法というものは自由自在に陰陽五分になれば理想です。それは必要に応じて長く吐いて長く吸うか、短く吸って長く吐くかというのは必要に応じて自在に出来るようになります。
 
 で、何で呼吸法かと言うと、例えばプラスの言葉を発する時でもその呼吸法に乗せていくと物凄く意識が広がるんですよ。それで呼吸法を言っています。ただ、呼吸法さえしてたら良いんやなって言い訳した途端全部崩れるんで、あんまり呼吸法については説明しなかった。ただ、もういよいよ時間切れで、もうここに集う事が出来なくなる時代が始まります。電気も止まっちゃって燃料も来なくなって、電車も新幹線でも一日に何本しか走らないみたいな大変な時代がちょっと狂うとなります。ならずに済ませたいと思っていますけどね。そうなった時にそれぞれの場所で皆さんがご自宅で或いは職場で、それぞれの場所、或いは避難所でこの護摩のような形で、別に火を焚かなくても良いんですよ。護摩のような形で真祈りが出来るように色んな事を今しています。
 
 だから紙の護摩木も丁度いい機会だったんでして頂いているのは、もう護摩が出来ないというのは護摩木が手に入らない。じゃあ紙で書こうと、その場でシュレッダーにするか手でちぎるかしてやるっていう事でしています。ほんでどうしても、燃やしたい人はね、護摩木がこの先無くなったとしたら割り箸で良いです。割り箸にありがとうございますってかいて持ってきてください。それを燃やせばいいと思うんですよ。どうしても紙なんか頼りないわーっていう人は割り箸に書けばいいから。割り箸はたくさん売っていますからそうして下さい。(また、割りばしは、端材→はざいを使って作られていますから、環境破壊にはならないです)。
 
 色んな事を自由自在に工夫してやって頂いたら良いんですけど、最悪の場合は電気が止まってね、本当に燃料も割当制でちょっとしか手に入らない。だからここに皆が集まるのに集まりかねる事態がすぐそこに来ているんですよ。そうならずに何とかこう、先生の言うウナギのようにね、ぬらりくらりと避けて行きたいんですけども。一応その為に色んな形の護摩が、皆さんの中で自由自在に出来るように持って行こうと思って、色んな事をしています。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。
 母が腫瘍の末期と言われ今入院しています。退院後は家で介護をするつもりです。初めての経験になりますので何かアドバイス頂けたらありがたいです。宜しくお願い致します。

河上さん
 介護は兎も角やり過ぎない事と、出来るだけ本人に少々嫌がっても本人にさせる事が大事です。要するに人をあてにする心を持たした途端にボケます。で、身体が動かなくなります。それでお下の世話が必要になります。だからその方が、人のせいにしたり人をあてにして生きて来られた方だったらそういう症状が早く起こるわけですね。で、最後まで自分で自分の事は何とかしようとしている程元気で生きますので、又、症状も回復しますので、先ずは出来るだけ自分でさせるように褒めたり、そやしたり、怒ったりしてやって下さい。ほんでやり過ぎない事です。

 で、抱いたりお風呂に入れる時に力を入れる必要がある時は、先週お話ししましたように歯を食い縛らずにね、歯を食い縛らずにフーッと。だから呼吸法が要るんですけど、呼吸法の時も歯を食い縛ったらダメなんですね。歯を食い縛るとあれが出来ないんで、フーッと吐きながら力を込める。力むんじゃあなくって込めるという事をして頂くと、何て言うんですかね、楽にやれるようになります。
 
 で、野球選手でも見てますとね、ホームランバッターでも歯を食い縛って打つ人と食い縛らない人があるんですよ。で、食い縛らない人ほど成績が良いんですよ。それ位歯を食い縛るというのは力むになるんで、やっぱり自分の力という段階で色々と本来の力が発揮できないんですね。
 
 今話題の大谷選手の打つとこを見ておりますと、歯を食い縛ってないの。ある意味天性のもんですよね、スポーツ選手の場合はね。でもそこまで出来ると体が力まないから大谷選手の見てるとあんなボール球でもホームランにするのとかね、凄い事が今年一杯ありましけど、あれは歯を食い縛らずに力まずに力を出しているからです。それ位あれは上等の見本ですけど。
 
 皆さんの普段毎日のお通じの時ですよ。あそこが硬くなった時に歯を食い縛ばって力むんじゃあなくって、息を吐きながら歯を食いしばらずに、フーと息んでしたら出る物は出ます。だから毎日のその辺から練習していけば良いと思います。それも歯を食い縛らないというのが呼吸法の奥義ですので、色んな意味で自分なりに色々と工夫していくと分かってくる事です。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。二つ質問を頂いていますけど、一つずつ行きます。何時もありがとうございます 質問を二つお願い致します。
 
 一番。神さまからの正しい導きを受けたいと思いながら自分自身の心を正常に保つことが中々に出来ずに、自分自身の波長の合った世界から種々様々な波が感応して来ます。印可書を奉納し続けて神さまの波に少しでも近づく努力をし続ける事で、神さまの正しいと思える導きを感応できるのでしょうか?又、正しい導きとはその判断はどのようにするのでしょうか?
 
河上さん
 だから先ず印可書の奉読はさんざん説明してきたので当然して頂くとしてですね、呼吸法も説明したのでそれなりにして頂くとして、その判断基準ですね。判断基準は兎も角、「言い訳しない事」そして「人のせいにしていない事」目的と手段を入れ違えて、言い訳ですね。言い訳というのは大体、目的と手段を入れ替えて、こうしてるからいいじゃないかとかいう感じですから。まずその言い訳しない、あるいは人のせいにしないというのは何かというと、人の働きをあてにしなければ、人のせいにしないのね、やっぱりあてにしてるから、「あいつ怠けてるやないか。」とかね、「もうちょっと働いてくれよ。」とか、「もうちょっと夫婦やねんから手伝ってくれや。」とかね、それはあてにしてるからよ。人の働きを当てにしてたら駄目なんです。

 真(まこと)の神さまそのものは自分だから、そんな人の働きをあてにしなくともちゃんと出来るし、必要だったら、みんなが手伝ってくださるということです。それを分かっていればいいです。だからまず、自分の都合は一切横に置いといてというのをされるとね、判断基準としてね、間違いないと思うんですね。

 それで、それをするための一番の基準は何かと言ったら、先週言いましたように、「一生誰にも認められなくて誰からも感謝されなくても、誰からも頼りにされなくてもいいんだ」と。もう本当に「神さまだけであって、あとは別に誰も分かってくれなくてもいいんだ」って思えたら、あんまり周りをあてにしないし周りのせいにしないですよね。

 やっぱりどこか、「こんだけしてるのになんで?」ってあるわけですよ。それで、小さい会社の社長ほどそうなのね。「こんだけ頑張って社員のためにしてるのに、なんやねんこれは!」と思って大体みんな病気になっていく。それぐらい人をあてにしない。で、「一生認められなくていいって、誰も評価してくれなくていいんだ」って、まず諦めることです。そうすると、人の働きをあてにしなくなります。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。
 最近、近くの若い男性が自殺をされましたが、この方はどのような世界へ行かれたのでしょうか?もし苦難の世界へおられるようなら、私達はどのようにすればよいのでしょうか?

河上さん
 自殺というのは、自分から死ぬというのはまずないんですよ。大概自分の心にあるマイナスと感応してね、マイナス同士がやっぱりひっつくんです、磁石のようにね。集まるというんですか?その集まったエネルギー体の中に、台風のように、台風ってそうでしょう?最初小さい風がどんどん集まってきて渦になって大きな台風になるじゃない。ああいう感じでマイナスも台風になってきて、それに吸い込まれちゃうんですよ。自分がマイナスを持ってるから。要するに人を当てにしてるから。人の働きを当てにしていると吸い込まれるのね。

 だから生活保護を受けると駄目だというのは、生活保護は人の働きをあてにして、受けてるわけで。本人の自覚とは別にね。そうでしょう?みんなで働いて作ってくれた税金で、作ってくれたお金で自分が生活してるわけですから。人の働きをあてにしてるでしょう?

 そうすると、そういうのに巻き込まれて最後は自殺になる。その自殺になる一番大きな理由は、さっき言った、「認められたい」。大概の人はね、みんなね、マウント取りに行くの。大なり小なり、色んな理由をつけて言い訳しながら。自分の方が上だと思われたいわけですよ。虚栄心というんですけども。

 それって「『自分が』認められたい」でしょう?それが大きなマイナスなんです。そういうのがある人は、どうしても自殺のエネルギーに引き寄せられて自殺しちゃうんですよ。すると自殺したことでどうこうじゃないんですけど、そのエネルギー体の世界に行きますから。で、そのエネルギー体の世界は、人の働きをあてにするでしょう?だからみんな動かない。
 
 で、みんな動かないと、この世と一緒で食べれないし、寒いし辛いしになるんだけど、「あいつが動かへんから、俺はこんな寒いんや。」ってまた文句言ってね、また下に落ちていくみたいな、そういう世界に入っていきます。そのときに自殺した時の、首吊りとか色んな種類ありますよね。その種類も、「せい」にするんですよ。あのロープのせいで首つってしまったとかね、あそこに包丁があったから、ついついカミソリがあったから腕を切ってしまったとか、もう何かのせいにする癖がついてる、癖というか「せい」にしちゃうんですよ。

 で、「せい」にしちゃうから、またその「せい」にした部分だけの感覚は残ってね、自殺した時の首を吊った時の苦しみとか切った時の苦しみとか、それがずっと続くんです。なんで続くかといったら、自分が掴んでるからいうことなんですね。そういう状態に入っていかれます。
 はい、ありがとうございます

司会者
 次も二つ質問が来ています。

質問1
 河上さん、いつもありがとうございます。皆さんが真祈りを深めるための深い質問をなされておる中、個人的な質問をさせていただくことをお許しください。

 私は母といると生きる力を奪われると感じています。子供の頃にかけられたことは、頑張りなさい、努力しなさい。可愛くて優しくて賢くて、一杯お手伝いもして母の心も労われて、何でも我慢できる強い子。そうあれば喜ばれ、そうでなければ怒られる。そこを抜け出せずにいることで生きる力を失っているのではないかと思います。母のそばに寄りたくない、母と話したくない、母を気遣いたくない。自分は自分の宇宙を創造したい。私はどうすれば良いのでしょうか?

河上さん
 はい。これはね、お母さんの念力に縛られてるんですよ。親子だから響きが近いですから。顔形が似ているようにね、血液型の遺伝子が似てるように。だから近い周波数の念力で縛られると、中々抜け出せない。もう本当に企業、外国へ留学行くとか、働きに行くとかね、いうぐらい。だから別に日本でも遠くに行って働く。お母さんのそばから離れちゃったら良いですよ。そしたら影響受けないです。まずそれだけですね。

 だからお母さんに認められたいとか、どうこうは全部捨てたらいい。もうお母さんからは、「あんな子はあかんわ。」って言われても大丈夫と思い切れたら離れることができます。でも、お母さんがどう思うかって気になってる間は、お母さんの念力に縛られて堂々巡りします。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。
 
質問2
 今の苦しみを脱するために色々考えました。今ここに全てがある。宇宙には全て用意されている。自分がどれを取り出すか、自分の希望でなくても発したものが間違いなく自分に届く。でも、自分の欲でプラスを引き寄せようとすれば、同時に宇宙にマイナスが生まれ、やがて自分に戻ってくる。振り子を大きく振りすぎると、戻ってきたマイナスで人間すらやめたくなる。どうすれば中庸を生きることができるのでしょうか?

河上さん
 はい。もうこの中庸を生きるというのが、先生が老子様が聖徳太子様が、もうあの道元さんがってみんながね、みんな提唱されたことなんですけども。法然さんもそれを提唱されたんですけど、中々みんな、その、中(ちゅう)に、中(ちゅう)に、というところがね、分らない。それは絶対の中心という意味なんですよ。絶対の中心を知るためには、何かというと、ともかく自分の都合を捨てなくちゃいけない。自分の都合を捨てられたら絶対の中心に立てるんですよ。自分の都合を捨てるためにはどうするかと言ったら、判断基準としては言い訳してるとか色々ありますけども、まず本当に「誰にも認められなくていい。神さまだけが分かってくれたらいいんだ。どんな評価もいらないし、どんな仕打ちにあっても大丈夫。」って思えたらいいんです。それって別の言い方したら、「神さまが今を一番良いようにされている。」ということなんですね。そこを分かるか分らないかだけです。

 それって、神さまに対する「信」ですよ。神さまが全知全能で絶対の愛でね、本当に優しい愛深い方だって信じ切れたら、愛深い人が、このことが必要で自分で運命として体験させてるんだと思ったら喜べるわけです。

 学習塾で言うとね、数学嫌いな子がね、でも数学しなくちゃいけないんでしょう?本当は嫌がってるんじゃなくて、できるだけ喜ぶ方法を考えてしなくちゃいけないわけじゃないですか、必要なんだから。でも逃げ回るでしょう?そういう感じで逃げ回っていけば逃げるほど自分の都合が優先されてきて、今質問されたように大きく増えて、なるわけですよ。

 で、中(ちゅう)につくというのは本当に誰にも認められないし誰にも評価されないという立場なんです。だから、縁の下の力持ちになれとかね、捨て石になれとかって言うんですけど、絶対奉仕というんですけどね。もう全てを支えるというのはそういう意味なんです。そこにまず、もう一生認められなくていいんだよって。誰も評価してくれなくていいんだって。神さまだけ分かってるんだからいいんだって思えたら抜け出せます。で、中に立てます。
 ありがとうございます



令和6年11月2週目河上さんのお話し−後半(20241110−後半)
  (約30分〜約1時間(エンド)まで)

司会者:ありがとうございます 護摩木に関する質問がいくつかあったんですけどwさんの方からまとめてくださってますので、wさんお願いします。

質問者(wさん)
 ありがとうございます ここからは、護摩紙について質問させていただきます。

 その前に先週の護摩焚きの後に河上さんから伺った話の確認をさせてください。
「護摩紙に変わっても護摩木同様、奉納枚数を自己申告してください。護摩木の数と合わせて焚き上げ枚数にカウントいたします。」この内容でよろしいでしょうか?

河上さん
 いいです。先生からは300万枚の護摩ということで言われています。300万枚でいいですかね、300万枚の護摩と言われてるわけですね。それをその色んな未来があるわけですよ、今、人類が選べるね。その中に全然紙が無くなる時代がある。その時に紙無しで、護摩木無しで、護摩をしていきたいんで、色んな意味で色んな種類に振り分けて、そのうちに、印可書奉読だけで護摩なんだっていう風に皆さんが確信を持てるようにね、色んな方向を今作っています。そのためです。

 できたら今の生活のようにね、木もあり紙もあり電気もあり、この幸せな生活が続くように持っていきたいんですよ。でも人類がどう選ぶかによったら、もうあっという間にあっという間に来ますから。その時にあっという間に来た時に、本当にどんどん、みんなが真祈りを放棄してね、崩れてしまわないように。そのあっという間に来たときにこそ、真祈りで一気に持ち返したいんで、色んなやり方を今しています。そういう意味です。はい。

質問者
 はい。その時のお話で、年間100万枚毎年達成していたっていう話をした時に、今おっしゃったようにきっぱりと、「松下先生は300万枚という数を下ろされた。それは今も変わっていない。」ということで、その…

河上さん
 いや、だから、みんな真祈りしてくれたらね、みんなの心にそれが分かるはずなんだけど、分らないだけです。で、みんなの自由意志を縛れないから、あんまり強く言わないだけです。どうぞ。

質問者
 その300万枚に関しては、もうこれからそれぞれが自問自答して向き合っていく数だと思うんですけども、霊の洗礼という部分で、多分、今お話された、印可書奉読だけに絞られていくというのが霊の洗礼の部分にあたると捉えてよろしいですか。

河上さん
 はい。

質問者  
 そうすると、それまでの間のその300万枚というのは、どのように捉えていけばいいでしょうか?

河上さん
 うん。要は、この護摩の会場はね、大きな増幅装置なんですよ、メガホンのようなね、分かり易く言うと。で、「おーい」と言ったってあまり響かないけど、こうメガホンをしたら「おーい」で大きくなるじゃない。で、もっと大きいメガホンを作ったらもっと届くじゃないですか。そういう感じで、この護摩の会場というのは増幅する場所なんですよね。

 で、300万枚を達成すると「八百万(やおよろず)」になるんです。「三千世界、一度に開く梅の花」っていうんですけども、それが300万枚で、「三千世界、一度に開く梅の花」というのは八百万の世界、要するに「無限の無限の耀きが無限無限に一杯!」という真(まこと)の本心の世界に入るわけ。それの、この護摩の会場での象徴的な数が300万枚なんでね。先生は300万枚。それの理由については、よっぽどでない限り言うな、やったんですけど、今言ってますけどね。もうもういよいよ終わりなんでね。何でも明かします。そういうだけです。だから300万まで達成したら本当に変わると思いますよ、大きくね。

質問者
 はい。それを踏まえて、みんなそれぞれが自問自答して向き合っていきたい…、

河上さん
 そうそう、だからわざわざ嘘ついてね、1枚しか書いてないのに100枚という人はいないしょう、ここでは。だって、それは単なる自己顕示欲じゃないですか。ね?ここで自慢してもしゃあないんだから。自慢するということは既に真祈りじゃないからね。だから自己申告で十分、正しい枚数は出ると思います。

質問者
 はい、分りました。そこで護摩紙でのカウントは基本自由自在でいいと思うんですけども、今言ったように年間の焚き上げ枚数の目標を掲げた場合、ある程度のガイドラインがあった方がいいと思うんで、

河上さん:ガイドライン?

質問者
 はい。そこでちょっと質問なんですけど、ここからは。
 1枚(1枚の紙に)の10回宇宙神ありがとうございますと書く人がいたり、100回書く人がいたり、色々…

河上さん
 それをね、1枚と数えるか100と数えるかは本人は自由意志です。
 
質問者
 アッ、そこも自由意志で?
 
河上さん
 うん。でも、後ろめたいときは1枚と言ってください。はい。「いや、もう俺は十分祈りを込めてね、100回書いたから100枚なんだ。」という人は100枚でいいです。そうだけど、なんていうんですか、シャーッと書いてね、本当にシャーッと書いて100回書いたんだからっていう言い訳をしてる間は駄目です。だから自分で言い訳してるかしてないか考えてください。

質問:自分の中で真祈りを込めているという数を書けばいいと?

河上さん:そうです、そうです。

質問者
 はい、わかりました。となると、あとは細かい質問があるんですけど、多分今のお答えで全て収まると思うんですが、預かってきてるので読み上げていいですか

河上さん
 はい。

質問者
 印刷済み、あるいは広告用紙の裏側などに書く際、裏側だけで構わないか。その際、ペン等の色は何色を使ったらよいか?

河上さん
 だから広告用紙を使ってですね、別に今日び(最近)やったら、両面印刷してるやつもあるじゃないですか?だから両面印刷してるやつだったら、自分の中で分かり易い黒のマジック使うとかね。要するに、別に今の蛍光色の黄色を使って、ほとんど読めなくても自分がきっちり書いてあったらそれでもいいんですけど、やっぱり見える方がいいと思う人は鉛筆を使うなりして。で、印刷面、裏の白面でなくて表の印刷面も書かれて大丈夫なんです。はい。もうそれだけですよ。なんの問題もありませんのでね。

質問者
 裏表を書いて1枚カウントでもいいし、表だけ裏だけ…

河上さん
 そうそう。自分が書いてね、これはもう自分の中では真祈りを10回分したから10枚だとかね、100回分したから100枚だと思える人はそれでいいんですよ。ただ、言い訳してね、「こんだけ書いてんだから100枚だよ。」って、ちょっとでも自分の中に言い訳があったら1枚にしてください。はい。

質問者
 ということは、数だけを目標に書く場合は…

河上さん
 数だけ目標というのは言い訳でしょう?だからとにかく言い訳しないことですよ。その中で自分の中で納得できる数を出されたら。

質問者
 というのは、ないとは思うんですが書けばいいっていうものではないということが…

河上さん
 もう、おまけの時代がなくなったんでね。護摩木さえ書けば、という時代でなくなったので、こういう形にしました。だから今までだったら、もうどうしても真祈りできないんですっていう人のためにね、護摩木作りとか、ただひたすら護摩木を書くとかいうおまけがあったわけですけど、本当におまけがなくなっちゃったんですよ。だからあの人病気になるなと思って今までは黙って直したりしてたんですけど、それももうしなくて…しなくてというか、しては駄目だ、なんですよ。助けようがないのね。
 
 セルフヘルプ(自助)ですよね。自分で真祈りできる時代に入って、本当にまあ元々自分で出来るんですけどね、みんな勝手に出来ないと思ってるだけなんですけど。自分で真祈りして自分で自由に運命を作っていける、選んでいけるという、そういう時代になりましたので。もう本当、申し訳ないけど助けられない。一切助けてはいけないと言われて。特に村人は一切助けるなと。突き放すぐらいにせえみたいに、先生はきついからね。それは聖地に住む心構えとしての厳しさですけども。はい。

質問者
 今日のお話にあったように、もうこれからは真(まこと)のプラスの言葉だけが力を持つという…

河上さん
 そうです、そうです。真(まこと)のプラスの言葉だけが力がつくというのは、みんなもう当然知識として分かってるわけですよ。一番怖いのは、「自分がマイナスを出してない。」とね、「これはマイナスじゃない。」と思ってるんだけど、(実は)マイナスの事が結構あるんですね。それが怖いということです。

質問者
 わかりました。ちょっとまだ預かってるところが。

河上さん
 読んでください。

質問者
 (護摩紙が)裏表が書ける場合、護摩木と同じように表は黄色、裏は黒色にしなければいけないのか。あるいは片面だけ…

河上さん
 いや、そんなんもう自由自在で。だから本当にね、極端に言うと無色透明のペンで書いてもいいんですよ。でもそれでは全然見えないからね。なんか自分でもなんかしっくりこないだろうから、黄色の蛍光ペンでもいいし、それでも見えないじゃないですか。だからそれやったら分かる4Bですか、4Bぐらいの鉛筆で書くとかマジックで書くとか、そんなんを自分なりに工夫されて書かれたらいいと思います。

質問者
 続いて読み上げます。文字の大きさは自由自在で良いですか。

河上さん
 目の悪い人とか色々ありますから、見えにくい人は大きく書かれたらいいです。大きく書いても、その間に印可書10回唱えたから10枚って、自分で自信を持って言える場合は10枚で大丈夫です。はい。

質問者
 はい、わかりました。最後です。紙は白でなくてもよいのでしょうか?

河上さん
 もうどんな色でもいいですよ。黒でもいいですけど黒では見えないだけですね。黒い広告用紙ってないでしょうけどね。その、なんで広告用紙かというと、本当に紙が貴重になる時代が来るんですよ。来ないようにしたいですけどね。もう紙の本がね、凄い高い値段で売り買いできるくらい紙が貴重になります。そういう時は、もう食べるものも本当少ないしね。本当になるんですよ。
 
 で、なるのがね、突然来るの。今年の米騒動そうでしょう?そんなん米不足になるなんて誰も分かってない。突然えらい米の値段が上がってきて、えらいこっちゃってなったじゃないですか。うまく収まりましたけども、これ、このまま米が足らなかったら、未だ(いまだに)大騒ぎじゃないですか。それぐらい何でも突然来るんです。突然来た時に心騒がさずに悠々と真祈りしていただきたいんで、色んな形で真祈りできるように、ある意味練習していただいています。

質問者
 以上、護摩紙に関する質問、預かってきたことをお聞きしました。
 ありがとうございます

司会者
 それでは、会場からの質問は駄目なんですよね?

河上さん
 要するに真祈りにね、本当に関連することだったらいいんですけど、一時もう全然それ真祈りと何の関係があるの?地底人が何なのよとか言う、質問された時に会場にいらっしゃる皆様からの非難、みんな大人しいから声に出されないけど、なんやそれは、遠くからはワシら来てるのにみたいなね、ぐわーっていうのが、だんだんだんだん大きくなって来たんでそうしました。それでそういう質問されてる方に限ってね、もう質問を受け付けないって言うたらすぐ帰っちゃう。 やっぱり真剣じゃなかったのかみたいな感じですし、そういう意味です。だから、本当は真祈り、あるいは今の護摩木で分らないって、今どうしても聞きたいとなれば、今聞いてください。

司会者
 どなたかご質問、真祈りに関してご質問ありますでしょうか?特にございませんか。 そしたら河上さんよろしくお願いします。

河上さん
 みんな真剣だから凄い。はい、ありがとうございます 
 本当にね、おまけの一切ない時代、地球霊王様が人類の絶対の自由に任せるという時代に入りました。だからみんな善人ボケって言うんですけど、私、別にそんなマイナスなことはしてないわ。っていう人でも無意識に何かしてるんですね。例えばファッションでね、人よりこれ目立ってるか、目立ってないかっていうこともマイナスの事なんです。 それくらい人と分け隔てすることは全部マイナスだと。
 
 先生がね、三洗莊という時代、一番最初の時代というより、本当は東大阪のね、柏田の時代ですけど。柏田の時代からというよりも、もっとはっきり言ったら僕が11歳の時にお会いした時からなんですけど、先生は最初から答えは言っておられるんです。 みんな光やと。それを言葉変えて、みんな真(まこと)神さまとか、「神の御光、御力、御命」とか言われてますけども、一番最初から先生の仰ることは、「みんな光や」だけなんです。それを分かって貰う為に色んな表現されただけなんです。
 
 だから、少しでも「みんな光や」から外れた自分の気持ちはマイナスなんです。 そのマイナスに反応して、病気になったりね、糖尿病になったり色々みんな出ますからね。もしそう病気の形が出てもね、分からんうちにマイナスにしてたんだ。という事で分け隔てしてたんだと、人と自分を区別してたんだと。
 
 要するに、真(まこと)の神さま以外のものを認めたら全部マイナスなんです。いつもいつも自分の心の中で、全て真(まこと)神さまって思えてるかって問うてください。自問自答してください。 ほんで真(まこと)の神さま以外に見えてたら、しまったマイナスに見てると思ってください。それぐらい厳しいものです。
 
 だからそれが大変だから、チェックしてるのも大変だし、考えるのも時間かかるから、淡々と「印可書」奉読しててねって。迷ったときは淡々と「印可書」奉読してねって言って、「印可書」奉読してるときは、あいつ怠けてるやないかと思う暇ないないからね。 そういう意味です。
 
 それくらいもう自分の、だからセルフヘルプ(自助(じじょ))って、自分の本来真(まこと)の本心の自分の力を発揮する時代になったわけですね。肉体側の自分の都合でどうこうする、力を発揮する時代ではないわけです。自分の都合でどうこうしてる時は、それはマイナスな言葉を発してるという事ですね。そういう「自由自在の時代に、泣いても笑っても入ってしまった」んでね。
 
 だから護摩木造りしてても、プラスにならなくなったんで、ある意味護摩木造りもどっかで止めるようにしなくちゃいけないんだけど、流れとしてとても止めれない雰囲気が続いてたんですけども、ちゃんと神さまの方からやめる雰囲気を、きっかけを作ってくださったんで、止めました。どうしても護摩木がしたいんだという人は、それなりにどうしても護摩木したい人は相談してね、したい人が集まって護摩木作ってどうこう。まだ2年間分ぐらいは在庫も余裕もありますから大丈夫ですけど、それから先はそういうことも考えて頂いても自由自在ですから大丈夫。
 
 でも護摩木でなくちゃ駄目なんだとか、紙でなくては駄目なんだとか。 割り箸でなくちゃ駄目なんだとかというふうに、縛った途端に駄目なんですよ。 ほんで、霊の洗礼が何で素晴らしいかというと、「印可書」奉読でしょう。縛りようがない。「印可書」言うたらあかんぞっていうても、心の中で言ってるのは自由やからね、誰も止めれないから、本当の霊のお清めなんですね。
 
 そこまで持って行きたいですけど、その為には色んな肉体の癖がありますので、その癖をどう取っていくかだけなんです。 癖を取る方法というのは、先生はちゃんと答えをくれてるんですけどね、皆さん聞いてないのね。まず、自分のやりたい好きな興味のあることを徹底して追求してやりなさい。それを自分なりに極めたら、他のことも全部分かるようになるからって仰るわけです。
 
 だから真祈りしながら、「印可書」奉読しながらね、その嫌な数学はしなくていいんですよ。自分がやりたいものがあるじゃない、その人によってマラソンであったり、なんて言うんですか、色んな方法ありますよね。音楽であったりカラオケであったり、カラオケでもいいんですよ、それを極めたらいいの。極めたら全部分かるようになります。まずそれをされていったらいいです。
 
 その為には、極める為には何がいるかというと、人と自分を分け隔てると極めれないんですよ。 もう皆さん大谷選手のことは色々ニュースで聞かれてるから分かると思うんで例をあげますとね、大谷選手は色んな意味で凄いんですけど、みんなから好かれてるでしょ?大して英語も喋れないのに、はっきり言いますけど。大して英語も喋れないのに、みんなから好かれてるんです。
 
 それ何故かというと、自分と他人を分けないんですよ、彼は。自分と他人を分けないから相手の選手の大リーグの選手のいわゆる欠点が見えるんです。ほんで、そこをこうした方がいいんだよって言うて惜しみなく教えるんですね。 自分の場合はこうしてるけど、あなたは多分こうした方が打てるんだよとかね、惜しみなく教えるんで、大谷選手の周りの人がみんな上手くなっていくんですよ。それくらいね、自分と他人を分け隔てなかったら極めれるんです。 自分だけ上手くなろうと思った途端に駄目になっていくんですよ。そこだけなんです。
 
 だから、例えばカラオケでもね、人の唄ってるのを聞いてね、俺はこう唄ってるけど、あなたやったらこういうふうに唄った方が聞こえがいいかもしれんねって言うて録音してみてどうこうとかね、そういう感じで色んな方法あります。ともかくみんな一緒に上手くなろうやっていう、簡単に言うと。それが分け隔てない気持ちです。
 
 せやのに、あいつは11歳のときに先生に会ってる。それだけで気に入らんみたいに僕は言われてきたわけですけども、そういう分け隔てを止めって言うんですよ。みんな一緒に真祈り出来るようにしようやって言うてんのにね、何でやねんみたいな感じですけど、先生の出された印可書が何が気にいらんねん、どうなってんねんみたいな感じですけど。
 
 それって分け隔てる意識がある為に、変な虚栄心でね、色んな軋轢(あつれき)が出る。 それは、会社でもどこでも組織の中ではみんなそうです。だから、そういう分け隔てる意識が人類的に全部重なってくると、先週言うたように戦争になるわけですよ。その分け隔てる意識を極端に理屈で言えばね、みんな顔、形違うわけですよ。自分の顔だけは正しいんだと、他の顔は全部間違いだと言ったら全部殺さなくちゃいけない、わかります? 最終自分1人しか残らない。それぐらい分け隔て意識というのはマイナスの意識なんです。今、マイナスな意識を分かってもらう為に強引な説明しましたけどね、でも理屈で言うとそういうことなんですよ。
 
 だからみんな一緒なの、みんな一緒に上手くなろうって。でも今の学校の教育でもね、受験戦争でもそうですけど、人に勉強を教えたくないのね。 人に勉強を教えてみんなが勉強出来るようになったら、自分が入試で合格できないみたいな意識があって、誰も教えようとしないんですよ。ほんで人に教えようとしない子ほどね、勉強できないの。勉強出来る子というのは人に教えれるのね。 逆に言うと人に教えれるからこそ分かってるね。人に教えれないということは、全然自分は分かった気になってるけど分かってないわけ。これがもう全てなんですよ。
 
 だから僕は分け隔てしないから、みんなが自然に真祈り出来るようにと思って色んな説明が出来るのは、分け隔てをしないから。ほんで覗いてみてこの人の傾向はこれやな、この人の傾向はこれやなというのをぱっと受け止めて、それに近い話を毎回させて貰ってきました、勉強会でもね、それだけですよ。
 
 だから、みんなが最初は真祈り出来るように、まずは例えばカラオケやったらみんなが歌上手くなるように、勉強やったらみんなが塾の子みんなが勉強出来るなるようにっていう感じでね、教えれるくらいまずなることですよ。 それが真祈りへの道です。だから俺だけ上手くなるねん、あいつら知るかいって言うてる間は駄目です。そういうものなんですね。
 
 色々ありますけども、本当は先生は厳しくてね、でも先生は、大事なことは1回しか言わないんですよ。殆どの人はそれを聞き逃してるのね。で、僕には、あの頃は真(まこと)の神さまを先生は神さまと仰ったんですけど、神さまの話をする人になれ、神さまを教えれる人になってくれって言われたんですよね。そうなる為には何が必要なんですかって聞いたときに、まず毎朝4時に起きて、お祈りするのはもう当然だと。毎朝4時に起きて、2時間は徹底して勉強しなさいと言われました。それは僕以外にも、HくんやMちゃんにも言われていました。(当人がそれを受け入れたかどうかは、本人の自由意志でどうしようもありませんが・・・)

 僕にはここでの(村のところの)先生にならなくていいと。あなたの為に色んなものが用意されているから、そちらの方やってくれと、世界の皆さんと一緒にやってくれって言われてたんですけど、色んな事情でもうピンチヒッターでここ来てますけどね。
 
 そういう意味で、ここでの跡を継ぐ人には、先生はやはり同じように4時に起きて2時間勉強しなさいって1回は言ってるんですよ。でもほとんどの人は聞こえない、あるいは聞いても実行できない、だけなの。それ何かっていうと、先生に甘えて頼ってるけど信じてないのね。だから色んな人がここへ来て先生に病気治してもらったけど、2度と来ない人が多いんですよ。 それは先生に甘えて頼って利用するけども信じてないから。大半の人がね、先生に甘えて頼って利用しに来てるからこんな状態になっちゃった、言うて悪いけどね、本当に真剣に悟りたい真祈りしたいと思ってたら、もっとちゃんとなってたんだよ。村人ももっとちゃんとなってるの、キツく言いますけどね。
 
 でも、もう手遅れじゃないからね、今から真祈りしたら済むことだから。だから済んだことはいいんだよって、これからどうするかだけだってしつこく言うのは今から真祈りしたらそれで済むだけなんですよ。俺はこんだけの悪いことしてきたんだからもう駄目だ!じゃないんです。 それは過去を掴んでるだけ。そんな過去なんかは、神さまは先刻ご承知でどうでもいいのね。真祈りさえ選んでくれたらそれだけなの。
 
 だから真祈りさえ選ぶ為には、「誰にも認められなくていいってね、一生目立たなくていい、一生さげすまれてて良いって、先ず覚悟を決める事」ですよ。 「神さまにさえ分かって貰えてたら良いんだ」って。神さまに分かってもらう為には「印可書」奉読するだけってちゃんと答え言うてますから、もう淡々と「印可書」奉読するだけで幸せ一杯になっていくんです。
 
 それを自分の都合、自分の希望が実現しないって文句言うからね、話がぐちゃぐちゃになっていくんですよ。 自分で運命をぐにゃぐにゃに、絡ませてるんです、タコ糸のようにね。本当は神さまから綺麗な滝のようにスーッと降りてきてるだけなの。それをスっと受けるだけでいいのにね。自分の都合でああや、こうやすると、そのスっと降りてきたのがぐにゃぐにゃと曲がるんですよ。それがタコ糸のように絡んでしまうと、どうにもにっちもさっちもいかなくなるようになるんでね、それだけなんですね。だから、まず真祈りするんだと、色んな意味で自分の好きなこと極めてください。
 
 極めるというのはどういうことかというと、どんどん人に教えてあげれることです。 自分だけ上手くなって、どうや、ええやろ、俺は凄いやろっていうのは虚栄心で、それは極めてないの。虚栄心が出るうちは極めてないんですよ。大谷選手見てたら、虚栄心って一つもないよね、打てなかったら打てなかったであれやし、ただ「バッターボックスに立ってすることはもう決まっているので」だけでね、バッターボックスに立ってホームラン打とうと思ってますなんて言わないでしよ? あの淡々とした気持ちが大事。で、本当に色んな人にアドバイスして、色んな人が上手くなってるんですね。
 
 だから今年ドジャースがすごく強くなったのは大谷選手のアドバイスが凄い効いてるんですよ。それは、前の球団の時も同じなんですね。 前の球団の人と試合するときでも抱き合ってね、喜び合ってるのは、「大谷、お前のお陰で助かったよ」という人ばっかりなのね。それくらい、分け隔てしたら駄目なの、わかります?あいつより上手くなって俺は凄いやろという気持ちが出た時は、もう偽物なの。
 
 みんなが真(まこと)の神さま。みんながそれぞれの得意の分野で素晴らしくなるようにみんなで協力し合うんだって思ったら、もう喧嘩は起こらないんですよ。 喧嘩が起こるのは、お前より俺の方が上なんだってマウンティング取り合いしてるわけね。相手の上に行こうとしてるね。犬や猫やウサギやないねんからね。動物はすぐ相手の上に乗り合いするじゃないですか。動物のように人間が真似しても駄目でね、マウントを取らなくていいんですよ。
 
 だからまず一生認められなくていいって、誰も分かってもらえなくて良いってまず諦めることです。
 
 神さまさえ分かって貰えたらいいんだって。神様に分かってもらう為には「印可書」奉読するだけでいいんだって、もうそこまで諦め切れたら、もう何の不平不満も、要するにマイナスが出なくなります。 ほんなら真(まこと)のプラスだけだから、あっという間に世界が変わるんですよ。本当にあっという間なんですよ。
 
 足をポキッと骨折された方がいたんですよ、そのときに本当にパッと繋いだら、スッと繋がったんですね。それくらい神さまの働きって凄いんですよ。もう繋いでからはしばらく腫れて痛いからね、松葉杖つかれておりましたけども、そういう気もなしにそのとき繋いでしまって。それってもう神さまを信じ切れてたら出来るのね。でもちょっとでも疑ったら添木しなくちゃとか、すぐ繋がらないからとかってなるんですけど、まだまだ人類の意識がマイナスが多いんでね、その時でもしばらく後、腫れたんですよ。
 
 これ、本当にみんなが真祈りしだしたら、例えば怪我するでしょ?じゃあ、スっとやるだけで、傷口塞がって治っちゃうんです。 それが本当の姿なんです。でも今は人類が分け隔てて、あいつはどうだ、こいつはどうだ、あの民族の風習は駄目だとかね、俺とこの風習を真似しろ、民主主義を押し付けるのはそうですよ。はっきり言うとね、民主主義を押し付けるのは善ではないんですよ。それぞれの地区でそれぞれに応じた形の、あの社会生活があるわけですね。それが民族です。
 
 その民族のお互いの風俗風習を尊重し合って生きていったら喧嘩ならないのね。でもそんなんは野蛮なことだから止めろって言うてね。 アメリカインディアンが滅ぼされたように、なっていくわけですね。今は、アメリカインディアンの時はまだ核兵器がないからね、あれで済んだんですけど、今は小さいとこも核持ってますからね。いよいよ自分ところ滅びるとなったら使いますよ。使ったら最後、今言ったように紙もなくなる、食べ物もなくなる、汚染された水も飲まなくちゃいけない、という時代に入っちゃうんですね。その時でも先週言いまのましたように、ちゃんと真祈りしてたら、なんぼ放射能に汚染された水や食べ物食べても大丈夫ですから。それだけは分かってください。
 
 でもそうならないように持っていきたいんで、頑張って護摩を盛り上げていきたいと思います。だから本当によっぽどの事情がない限りね、こちらにおいでください。 ただ生活的にお金でね、ここへ来るのにお金かかりますから、そういう無理はしないでいいから、来れる限りは来てください。来れない方は、本来の護摩に入る、それぞれの場所で真祈りするように練習してください。 また来月お会い出来ることを楽しみにしています。本日はありがとうございます 

司会者
 河上さんありがとうございます
 今日の護摩焚きをこれで終了いたします。


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11月護摩 by 河上あきのぶ 2024年11月07日(木) 14時33分
PC

11月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年11月3日護摩焚きで河上さんがお話されました
内容です。ありがとうございます

司会者
 河上さんへの質問ですけども会場からの質問は、ご回答されないということですけども、あらかじめ紙で書いてくださった質問については、お答えくださるということですので、本日は3人の方からの質問を預かっております。

質問1
 いろいろの利益、功徳を求め、あるいは不幸、災難、病気、地震、不安を煽る予言、世界終末の劫火(ごうか)を鎮めるためと、護摩焚きを通じて祈りに唱業することは、まだ利益、功徳を求める浅ましき心、そんな心は本来なしとするのが真(まこと)の本心、真祈りだと思っているんですが、私だけがひょっとしたら方便が読み取れないのでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます またお会いできて嬉しく思います。今のご質問なんですけども、要は言い訳するかしないかで判断していただいたらいいと思います。いろんな五欲ですね、食欲とかから逃げられないというご質問もたくさんきてたりするんですけども。

 いよいよ彗星がね、それも本当に今回は神さまからの彗星なんですけども、新しい場面、新しい第2幕、新しい時代に入ったんですね。 だから皆さんの心の本当の自由に任される時代になりました。だから、今まではおまけがありましたので、少々「あいつ、くそったたれが。」とかね、「私、病気でどうしよう。」とかってマイナスを思っても、おまけで何とかしてもらえた。あるいは昔だったら「先生この病気治してください。」って言って治してもらったというおまけがあったわけですけども、これからは一切の外からのおまけはありません。その代わり皆さんの自由自在な力が、そのまま発揮される時代に入ったわけです。

 だから、今のように、ただただ淡々とね、ギブアンドテイクとか言い訳の心なしに、『印可書』を奉読していただくと、真(まこと)のプラスの言葉だけを選んでる自分ですから、真(まこと)のプラスの言葉という真(まこと)の本心の世界にすーっと戻っていくわけですね。少しでもマイナスを言うと、自分の選んだマイナスの世界に自由に降りていける。今までだったら、ちょっと落ちにくいようにしてもらってたんですけれども、これからは自由に落ちます。

 だから一番は言い訳ですね。言い訳をすると、言い訳というのは自分と神さまを分け隔てて、「自分はこんなんだからこうしてしまうのは仕方ないんだ。」って言い訳するわけじゃないですか。そういう言い訳というのは結局マイナスを発してるんで「自分はこれだけのもんだ」って言った世界に降りていきます。それは寿命があるうちは、病気とか運命とかの形で現れますし、死んでからは、もっと楽しいいろんなアトラクションの世界に降りていけるということです。ただただそういう時代に入りました。

 だから、まずいろんなことをするにあたって何が大事かというと、言い訳しないということです。 神さまが一番いいようにされてるんだから、神さまは全知全能の愛だから、自分にとって必要なものは、全てご存知で既に与えておられるというのが本当のことなんです。だから小さい自分の意識から見たら、「あれが足らん、これが足らん、こんな目に遭った。」とかありますけども、大きな自分の意識から、眞(まこと)の神さまから見たら、その人にとって必要なことばっかりが現れるということです。それを喜び勇んでこなしていけばいいだけなんですね。

 なぜ、じゃあこなせないか?それは、その肉体を動かすとしんどい、肉体を動かすと病気になるとかね、マイナスの言い訳をするからですよ。本当に喜んで支えてたら疲れても回復するし、疲れにくいですよね。一番よくわかるのは山登りですよね。山登りが好きな人は、あんなしんどいことでも喜んでしてるじゃないですか。でも山登りが嫌いな人にとったら、なんでこんなしんどいことするのみたいなね、あるでしょ。それくらいその自分の心次第なんです。

 その自分の心次第というのは何かというと、小さい自分の心で判断して文句を言うか、大きな真(まこと)の、本心の眞(まこと)の神さまそのものの心で喜び勇むかの二つに一つなんですね。だからちょっとでも言い訳したら小さい自分に戻ったんだと思って『印可書』を奉読するなり、『宇宙神ありがとうございます』と祈り続けるなり、「ありがとうございます」って祈り続けて、真(まこと)の本心の自分の大きい自分の心に戻っていただいたら言い訳しなくなります。 でもちょっとでも言い訳してるうちは、しまったと思ってね、そのマイナスの世界に本当にこれから落ちますので。

 だから、この前ワクチンのお話が出ましたけども、ワクチンでどうこうはなりません。ここではっきり言っておきます。ワクチンを打っても打たなくてもそれでどうこうなることはないです。でもワクチンを打っていても、マイナスの言葉を出していれば、そういう運命、いろんな病気とかね、いろんな症状とかの運命に入るということです。

 だから、本当にね、水も食べ物も、もうこれからはいろんな汚染がされてくるわけですね。でもその汚染された水や食べ物を食べるしかないわけですよ。それしかないからね。でも、その汚染されたものというふうに受け止めること自身がマイナスなんですよ。全て神さまの命なんだってね、みんな先生のおっしゃる「みんな光なんだ」って喜んでいただいたら、体に影響は出ないです。でも美味しいで食べたら影響出るからね。もちろん美味しいで食べていいんですよ。でも神さまの命をいただくって喜んで、それから美味しいって食べたらいいんですけど。それを忘れて先に食欲でね、美味しいって食べるじゃないですか。あれは危ないということです、例えば食べ物で言うとね。

 仕事の上で言っても、上司からボロクソに言われても何があってもね、まず「自分は一生誰にも認められなくていいんだ。」「一生蔑まれたままでいいんだ。」っていうね、「一生自分は下積みのままでいいんだ。」っていう覚悟を決めることが必要なんです。 それが眞(まこと)神さまの心なんです。一切を報い求めず与え尽くすという心が、今説明した心です。一切を報い求めず与え尽くすという気持ちになれば、どんな仕打ちを受けても気にならないんですよ。でもほとんどの人は報いを求める心を持つんですね。報いを求める心というのはマイナスの心なんです。どういうことかというと先ほど説明したように、絶対の愛の神さまは必要なことしか与えてないのに、「これでは足らん。」と言って「もっと報酬くれ。」ってやるわけでしょ。それってマイナスの心なんですね。

 そういう報いを求める心を出すと、例えば『印可書』奉読でもですね、「『印可書』奉読するから病気治してくれや。」って報いを求めてるじゃないですか。「『印可書』奉読してるから悟らせてくれ」と、やっぱり報いを求めてますよね。それでは、『印可書』奉読にならないわけです。 一切を求めずに与え尽くすっていうね、神さまってそうなんです。太陽の光を見たらわかるじゃないですか。一切報酬を求めずに燦々と光とね、喜びを与えてくださるじゃないですか、もうそれだけです。だから、ただただ与え尽くすだけだって覚悟を決めたら一切の文句は出ません。ちょっとでも文句とか言い訳が出たらね、求めてるんだと反省して、『印可書』に戻るなり『真祈り』に戻ってください。そうすることによって、本来の目的である真(まこと)の本心の自分を知る、自覚する、悟るということに繋がっていってます。ありがとうございます

質問2
 2人目の方の質問です。10年ほど介護の仕事をしていますが、自分と同じくらいの体重の利用者さんを、毎日何回も抱えて移乗をしなくてはいけないため、膝や腰にかなりの負担がかかっています。カイロプラクティックに通って施術を受けながら仕事をしています。この仕事をあと何年続けられるのだろうと思い悩む日々です。最近YouTubeなどの動画を見て自分なりに勉強をして、利用者さんを抱える前に「ひふみよいむなやこと」と3回唱えて体感をしっかりさせてから「ありがとうございます」と大きな声で唱えて気合を入れてベッドから車椅子への移乗をしています。「ありがとうございます」以外に奥から力が湧いてくるような良い言霊はありますか?お願いします。

 まず言霊はね、ご自分の好きなことを選ばれたらいいです。体の、今の状態の体の使い方をする時の一番大事なポイントは、歯を食いしばらないということです。歯を食いしばらずに力を出してください。すると神さまの力が出ます。歯を食いしばって出すと自分の力になって体が傷んできます。今の質問の方が会場にいらっしゃるかどうかわからないですけども、ここにいらっしゃる方みんながね、力仕事でなくても何かする時に、思わず歯を食いしばってやってると思うんですよ。

 例えば一番わかりやすいのは、毎日のお通じの時ね。お通じの時に少し硬くなってくると、歯を食いしばって出そうとするじゃないですか。あれは駄目なんです。歯を食いしばらずに、お腹に力を込めるというか、力むんじゃなくて息んでください。歯を食い縛ったら駄目なの。そこだけをまず注意してやっていただいたら、かなり変わります。それで駄目だったら、また来月質問してください。

 ともかく歯を食いしばらずに力むんじゃなくて、息むということです。これは普通のお仕事の上でもね、非常に色々と重なって大変になった時に、みんな歯を食いしばって切り抜けるんですよ。それは力みになってる。力みというのは何かと言ったら、自分の力で何とかしようとしてるの。それはマイナスなんです。自分と神さまを分けてるからね。息むというのは、歯を食いしばらないというのは、息むというのは何かと言うと、神さまの力をそのまま受けて発揮している状態なんです。

 これ合気道をやってる方だったらわかるんですけど、合気道なんか特に歯を食いしばったら全然できないんですよ。本当に力むんじゃなくて息むという形でフワっと、フワっとじゃないです、フーッとするんですけどね。その感覚は、毎回毎回、歯を食いしばったら「ああ、しまった」と思って歯を食い縛らずにフーッと息むんだということを繰り返して練習されるしかないです。今、口で説明しましたけど、そんな簡単にはできない。簡単にはできないけど必ずできますからやってみてください。ありがとうございます

質問3
 ありがとうございます 3人目の方は2つ質問があります。1つ目です。

 10月2週目の護摩焚きの中で、本心の17項目と話された箇所がありました。失礼にも16項目の間違いだと思ってしまったのですが、村掲示板への河上さんの書き込みで、本心の17項目とはっきりとおっしゃったことがわかりました。誠に申し訳ありません。また、ある人から7月の護摩焚きでも、本心の17カ条と言われていたとお聞きしました。

 10月14日の村掲示板の書き込みでは、題名が「祈りと神さまのはたらき」で、

 『祈りとは神さまの働きのことです。神さまの働き(真祈りの秘奥義)=一大循環の相象(すがた)=ありがとうございます なのです。
別の言い方をすれば、眞(まこと)の本心の自分に気づく、自覚する、実感するともいえましょう。このことを実感することが、悟りであります。別の言い方をすれば、眞(まこと)の本心の自分に気づく、自覚する、実感するともいえましょう。
ここで、実感をひとことであらわすと、『あまてらすおほんみかみ』 となります。 これが、真祈りの秘奥義という、17項目目になるのです。」と書かれてあります。

 本心の17項目『あまてらすおほんみかみ』とは、理屈ではなく、本当は実感しないとわからない事だと思うのですが、17項目とは、16項目全体を統一した実感で、神書に先生が書いてくださっている、「宇宙絶対統一神・天照大神・今ここに在します!新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!ありがとうございます」ではと神書を見て感じました。また、印可書そのものだとも思います。本当は実感しないとわからない部分だと思いますが、可能な範囲で説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 はい、おおむねその質問で自問自答されたことで合っておりますので、大丈夫です。

 聖徳太子であられた頃にね、先生が十七条憲法って作られたわけですね。十七条憲法の第一条「和をもって尊しとなす」が、その十七条の中の全てを表すわけです。それで後の16項目があるわけですけどね。いつも先生は、それをされるわけです。

 今回は、神書でもわざと先生は未完成にしていかれるわけですよ。未完成のところに引っかかって、質問に来てくれるとわかるという状態にするんだけど、誰も質問に来ない。本心の16項目も未完成で来ているわけですね。でも誰もそれを、もうそこで信じて疑わないみたいなね。引っかからないので、あれなんですけど、いよいよ場面が変わって新しき時代に入りましたので、もう虎の巻として答えをどんどん言っていこうということで、十七条、17項目とか言ってみたんだけど、あんまり反応がないので、もういいか、放っておこうかみたいに思ってたんですけど、ちょっと反応がありましたので書かせていただきました。

 その『あまてらすおほんみかみ』というのはどういうことかというと、神さまは同じ言葉を繰り返さないんですよ。だから、『あまてらすおおみかみ』とか言うと、「おお」と二回重なってるじゃないですか。それは本当の呼び方ではないんです。その全部違う言葉で作ると『あまてらすおほんみかみ』となるわけです。これは、いわゆる祝詞(おお祓いことば→大祓詞)のね、祝詞のつなぎ目のとこで(天津祝詞の太祝詞事を宣れ・・のところ)、秘儀で書き上がっていない言葉なんです。祝詞をあげて、(前半を終わって、天津祝詞の太祝詞事を宣れ・・のところで)ちょっと時間を空けて、後半に入るっていうふうになってるわけですね。その時間を空けるところに、それぞれ心の中で『あまてらすおほんみかみ あまてらすおほんみかみ』(”ほんみ”は2文字で発音し、”ほ”でも”ん”でも”み”でもなくすべてのすべて→みんなまことの神さま・・というような響きです。河上注)と唱えるようにというのが秘儀で指示されています。この秘儀は、本当に真剣な人以外には明かしてはいけないんです。明かした人間は死ぬという恐ろしい言葉なんですけども。いよいよ本当に本当に皆さんの自由に選んで自由に行ける時代に入ってしまったので、あえて出すことにしました。だから、自分の自由意志で唱えていただいたら、それはそれで凄く効果があります。そういうことです。

 最初に、今日の最初に説明したように、本当に皆さんの選んだ、選んだ世界にあっという間に行く時代になったんですよ。だから、例えば病気になっていても、真(まこと)のプラスの言葉を選んでたら、あっという間に病気は治るし、いくら健康でも、ちょっとでも人の噂してね、「あいつあれや」とかマイナスしたら、あっという間に病気として現れてくる時代に入ったわけですよ。本当に自分で自由にできる時代なんです、いいように言うとね。怖がらして言うとね、ちょっとでもマイナスに言うたらえらい目に遭うぞという時代です。

 でも、自分の自由に言葉は選べるわけですよ。誰も強制できないの。だから、自分の自由に真(まこと)のプラスの言葉を選んでいっていただいたら、全てうまくいきますから。その真(まこと)のプラスの言葉を全部固めて、もうぎゅっと固めて凝縮して出したら、『あまてらすおほんみかみ』と「ありがとうございます」の二つになります。ただ、「ありがとうございます」と言うと、ほら、物をもらってのありがとうございますとみんな勘違いして、「ありがとうございます」をちょっと汚すのね。それでもうあえて「あまてらすおほんみかみ」を出させていただきました。

 だから、素直に一切報いを求めずに「あまてらすおほんみかみ」って、要するに『印可書』を読む時間がない時は、「あまてらすおほんみかみ」ってしていただいたら、あっという間に変わります。ありがとうございます

質問4
 ありがとうございます 最後の質問です。同じ方からです。

 いつもお祈りをする時は、前後に「真(まこと)の神さま、先生ありがとうございます」と祈っています。朝一番と夜最後の時は、「守護霊様、守護神様ありがとうございます」の祈りも付け加えています。最近ふと、真(まこと)の神さまと自分との間に何も入れてはいけないとの先生、河上さんのお話が思い出され、「真(まこと)の神さまありがとうございます」だけにすべきかなと思いました。しかし、先生は真(まこと)の神さまと完全に一体化された方であり、地球人類の本心の目覚めを遠い昔から導かれた方だから構わないのではとの思いもあります。長い間、「真(まこと)の神さま、先生ありがとうございます」と祈ってきたので、意識しない時は自然にこのように祈っています。この事につき教えていただきたいと思います。

河上さん
 これはね、さっきの「ありがとうございます」の言葉に、物をもらってのありがとうございますを入れて汚すっていうのあるじゃないですか。それと一緒で、守護霊様、守護神様と言っても入れ子構造的に真(まこと)の神さまそのものなんですよ。働きとして見える時に守護霊様のように見える、守護神様に見えるであって、真(まこと)の神さまであることに変わりない。

 例えば、この河上彰延(かわかみあきのぶ)という肉体がありますけども、右手というのはこれ、左手というのはこれっていって、これは河上彰延には変わらないけど、右手、左手でしょう。そういう感じで、守護霊様、守護神様とか天照大御神さまとか、松下清則先生とか、五井昌久先生とかってカラーリングしたように感じるだけなんです。だから、それをその小さい存在と思わずにね、真(まこと)の神さまが、今言ったように、体の中の右手、右足、左手、左足、人差し指みたいな感じで受け止めれたら、どの言葉を使っていただいても大丈夫です。でも、守護霊様、守護神様と真(まこと)の神さまを完全に分けてしまってね、唱える時はちょっと大変です。

 例えば、この僕の、この河上の体の、この右手をですね、切り離してしまったら、もう右手じゃないでしょう。そういう感じになります。だから真(まこと)の神さまと切り離さずに、全てのプラスの言葉を唱えていただいたら大丈夫です。だって、そうでしょう?本心の16項目でも、真(まこと)の神さまの働きの一部を表現することです。でも、それと真(まこと)の神さまとは一つなんだというのがわかって、本心の16項目を唱えていただくと『印可書』並みの力があるんですけど、みんな分けちゃうのね。分けちゃうからダメだったので、もう少々分けた意識であろうが、どんな意識で読んでも少々はもう一気にいくぞというのが『印可書』です。

 もう本当に、真(まこと)の神さまそのものって、ちゃんと全部含めてと思ったら「あまてらすおほんみかみ」でも「ありがとうございます」でも大丈夫なんですけどね。ただただ、自分の側の発する側の意識ですね。小さくは思わずに、真(まこと)の神さまそのものと思って使っていただいたら大丈夫です。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 質問は以上なんですけれども、(河上さん)お話よろしくお願いします。

護摩焚き参加者
 質問のことで、ちょっとお聞きしたいことが出たんですけど。

河上さん
 まぁ聞いて?

司会者
 どうぞこちらへ。

会場からの質問
 「あまてらすおほみかみ」っておっしゃったんですけど、「あまてらす お ほ ん みかみ」って書いてあったような記憶があったんですけど、そこの「ん」が入ったのって?

河上さん
 だから、その「あまてらすおおみかみ」でしょう、普通ね。「あまてらすおおみかみ」って言うじゃないですか。そしたら、「おお」で同じ言葉が続く。次「おおみ」と最後の「かみ」とでまた同じ言葉が続くでしょう?それは違うんですよ。神さまは同じ言葉は二度と使わないの。だから、『ありがとうございます』は同じ言葉が続かないでしょう。それで『あまてらすおほんみかみ』のそこ(ほんみ)は、その一つ一つの言葉じゃなくて、一つの一塊なんですよ、発音として。でも、それをちょっとわかってもらうために、ああいう分け方をしましたけども。あそこは一文字。(一文字とは、人文字→ひと文字、つまり支えあって2文字なんです。”ほんみ”は2文字で発音し、”ほ”でも ”ん”でも ”み”でもなくすべてのすべて→みんなまことの神さま・・というような響きです。河上注)

質問者
 「ん」が入ってたのは…。

河上さん
 『あ ま て ら す お お み か み』で十文字でしょう?

質問者
 「お ほ み か み」で十文字。

河上さん
 だから、十文字になるように、あれだけで言うと十文字超すんですよ。「おほんみかみ」ってやるとね。「ん」を入れると。

質問者
 「ん」を入れる?

河上さん
 十文字超すの。

質問者
 元々「ん」は入ってたんですか?

河上さん
 いや、だって違うの。だから十文字なんだけども。どう言ったらいいんですかね、日本語に単音じゃなくて複合された発音しにくい言葉。英語でいう、なんて言うんですかね。「ア」と「エ」の間の「エ」「ウン」っていうような発声のいる言葉なんですよ。だから、これは秘奥義で秘儀でね、直接伝授するしかない言葉なんですけども。もうちょっと、いよいよ時間切れなんで、後は皆さんの中で十文字になるように、そういう発音を考えていただいて。「うん」じゃない、「ほ」でもない、「お」でもない。(”ほんみ”は2文字で発音し、”ほ”でも ”ん”でも ”み”でも なくすべてのすべて→みんなまことの神さま・・というような響きです。河上注)

質問者
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 

河上さん
 ありがとうございます また今月もお会いできて嬉しく思います。本当にいよいよね、新しい時代に入ってしまいました。いろんなことが起こります。起こりますけども、水道水がどんどん汚染されてるとかね、言うけども、もうどれもこれも汚染されて何も汚染されてないものはないという時代に入っちゃったんですよ。でも、今、説明したように、ただただ真(まこと)のプラスの言葉を駆使してマイナスを発しなかったら、一切の影響は受けないです。その汚染された水、汚染された食べ物を食べて影響受けるのは、自分の発したマイナスのせいですから。だからいよいよ、おまけがないけども、逆に言うと、自分が一切のマイナスを発しなかったら、あっという間に悟れる時代になったわけです。もうそれだけです。

 だから、例えば人が働くのを当てにするというのは、もうマイナスなわけですよ。自分ができる範囲で、ちょっとでも、みんなを支えるような形になろうとしてたらプラスなんです。この現世的な普段の生活の中で説明しますとね。ちょっとでも誰かになんとかしてもらおうと思ったらマイナスなんで、すぐ病気になる時代になったんです。本当にある意味厳しいですけど、ある意味ものすごい楽な時代なんですね。ちょっとでも自分に本当これだけしかできないけど、誰かのためになるようにしようってしてたら、健康で病気にはならない。そういう時代に入りました。

 そして、歯を食いしばらないようにね。歯を食いしばるというのは、自分でなんとかしようと思ってるの。自分でなんとかしようというのは、神さまと自分を分けてるからマイナスなんです。歯を食いしばらずに力むんじゃなくて、歯を食いしばるというのは力むということです。それで、息むということね。歯を食いしばらずに、息んでやってください。そしたら、自在に今まで以上に疲れずに、それで、食べる量も少なくても平気でいられる時代になります。もう、ただただ、そういう新しい時代になりましたのでね。なんていうんかな、あまり難しく複雑に深刻に考えずに、力むじゃなく息んで喜んでなんでもこなしていくんだと思ってください。

 まず、この大自然の姿を見ていただいたらいいです。真(まこと)の神さまは、この大自然の姿そのものなんですよ。太陽も空気も水も無料で与えてくださってるでしょう。それで、どういうんですか、この木でもね、寒くなったら(葉が)落ちて、あるいは条件が悪くなったら、朽ち果てて枯れてっていうことになっても一切文句言わないでしょう。神さまが一番いいようにしてるって大自然は知ってるから、淡々と全てをこなしていくわけですよ。だから、その姿をね、よく見て、自分もただただ淡々と与え尽くし、一切を報い求めずに与え尽くすだけなんだと。ただ、自分が入ってるとね、一切を求めずに報い求めずに与え尽くすと言うと、「これだけしか与えてきれない」とかね、結果を掴むわけ。結果を掴んだ時は、自分がしようとしてるからマイナスなんです。一切の結果を掴まずにやってください。

 今まで、こういう新しい時代に入る前はね、みんな結果を掴んでるから、小さい自分の意識で、こういうことをしたいんだっていう希望があったら、その希望を心に思って祈ったら希望が実現するとかね。先生が方便でおっしゃいましたけど。小さい自分の希望なんていうのは、他の人にとったら不幸なんです。

 この世のものってそうでしょう。1人の人が、いつも言うように100個のパンですよ。100人に100個のパンがある。でも、「私はアンパン5つ食べたいねん。」って言って、1人が5つ食べたら、5人の人が食べれらなくなるじゃないですか。そういう感じで、自分の希望を実現させたら悲しむ人が出るんです。でも、神さまの喜び、神さまの命という神さまの希望を実現させたら、みんなが幸せになる。その神さまの希望を実現する方法は何かというと、一切を報い求めずに与え尽くす。それも、与え尽くす内容、結果に心を奪われないということです。どの形も、その人にとって一番必要な形に神さまが収めてくださいますから、自分は、これだけしかできなかったではないというのだけわかっていただくと、なんて言うんですかね、神さまの絶対の愛、「無条件の愛」「無条件の喜び」「無条件の幸せ」がわかります。

 無条件というのは、結果を掴まないから無条件なんです。結果を掴んだら条件がついて苦しむんです。先生が「無条件の喜び」「無条件の幸せ」言葉を変えて「無限の無限の喜び」「無限の無限の幸せ」とおっしゃったのは、一切の結果を掴まないという。一切の結果を掴まないって何かと言ったら、どの状態でも神さまは、その人にとって一番いいようにしてるっていう、その絶対の信です。そこさえあれば、この新しき時代を本当にみんなで仲良く暮らしていけますので、ぜひ真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分ということを理屈抜きにわかっていただきたい。真(まこと)のプラスの言葉を駆使する、「じゃあ私、16項目読んでるわよ」ではないんですよ。噂話に乗ったらマイナスを言ってる。結果を掴んだらマイナスを言ってる。もうそればっかりなんですね。

 無意識に言い訳してる、マイナスを言ってるなんです。だから、ちょっとでも言い訳したら、ちょっとでも結果を掴んで気にしたら、ちょっとでも人がなんとかしてくれることを当てにしたら、「ああマイナスを出してる」と思ってね、反省して『印可書』なり、『あまてらすおほんみかみ』なり『ありがとうございます』なりを使って、真(まこと)の神さまに戻ってください。

 本来、真(まこと)の神さまとしての自分ですから、ありとあらゆる場所に同時に立ってるんですよ。でも、皆さんは、まだ肉体だと、肉体が自分だと思ってるから、この秒速30万キロメートルという、この現世の世界しかないと思うし、そこに心を奪われて右往左往をしてるわけですね。それで今度は死んでからも秒速30万キロよりも少ない世界に落ちてしまったり、それより早い世界にあがったりしても、所詮それは、まだまだ虚の世界ですから幸せではない。だから天人五衰(てんにんごすい)という日本語があるじゃないですか。天国に行かれた方でもいずれは落ちてくるっていうね。それは虚の世界だからです。

 真(まこと)の本心の世界というのは、一切の結果も何もない、ただ喜びだけだから、そんな落ちるも落ちないもないんですけどね。それが実感できる時代に入ったんだと思ってください。マイナスの言葉さえ出さなかったら実感できる時代になったんです。もう怖がらせて言うと、ちょっとでもマイナスの言葉を出したら、その世界にどんどん落ちていくぞ というだけですけどね。怖がる必要はないです。真(まこと)のプラスの言葉だけを駆使したらいいの。もう何もわからんかったら『印可書』だけ読んでたらいいの。それだけ。『印可書』だけ読んで結果を気にしないこと。結果を気にした時は言い訳してる。言い訳したら、もう全部が崩れていくんだと。そういうスピードが速くなった時代に入ったんですけどね。あっという間に全てが変えれる時代なの。だから、あっという間に、この世が滅びる時代とも言えますし、あっという間に、この世が先生のおっしゃる理想天国の時代になる時代にもなったとも言えます。どっちにでも転ぶというか、決めれるんですね。

 今はまだ人類の意識はマイナスを掴む癖が一杯あるわけです。マイナスを掴む癖の最たるものは、原理主義と言うんですけども、自分たちが一番だっていうわけです。これ民族意識とも言うんですけど。昔だったら大和民族が一番だとかあるじゃないですか。それで、例えば中東へ行くとね、その原理主義があって、このイスラム教を奉じないもの以外は全部殺してしまえみたいな極端な教えもあるわけ。いろんなそういう原理主義はダメなんですよ。自分たちは最高で他は全部ダメなんだっていうのは、もうすでに間違いなの。すべて真(まこと)の神さまであって、その真(まこと)の神さまの現れとしていろんな表現があるだけ。民族として日本人であったりアメリカ人であったり、色々あるわけですね。

 これヨーロッパに行くと、もう一杯の人種がある。ヨーロッパに行かなくても、例えばミャンマー、ビルマですね。ビルマに行くと100の民族があるんですよ。だから、あの国はまとまりにくいんですけども。それ、なんでかと言ったら、100の民族が一人ひとりが「自分たちが一番だ、他はダメだ。」ってやってるからですよ。みんながそれぞれ顔、形が違うように、民族という形が違うだけで、みんなで支え合っていくだけなんだとなった途端に変わるんですけどね。でも、「こっちの主義に合わせろや」とか言って相手を強制した途端に崩れていくわけです。

 そのためには、ここでの『真祈り』が本当に大事なんですよ。ここの『真祈り』を、この護摩の会場という大増幅器を使って全世界に響かせることによって、お互いに支え合う。要するに本当に極端な理屈で言うとね、顔、形が違うものは全部ダメだってなるわけ。自分しか残らないでしょう。同じ顔の人はいないからね。でも、そうじゃなくて、みんな顔、形も違う、性格も違う、性別も違うけど、みんなで仲良く支え合うわけでしょう、本当はね。それが民族的レベルでもそういうふうに民族レベルで支え合う。宗教レベルでも、宗教は違うけども支え合うというふうにならなくちゃいけない。

 そのためには、支え合いの気持ちというのは、人の働きを、人になんとかしてもらおうと当てにする気持ちを持たないことなんですけど、そのためには『真祈り』しかない。『真祈り』を『印可書』を響かせていただいたら、『ありがとうございます』を響かしていただいたら、『あまてらすおほみかみ』響かしていただいたら一気に変わりますから。もうそれだけです。一切報い求めない心が『真祈り』ですから。もうそれだけで、また、来週ですけども、もう一度お会いできることを楽しみにしています。本日はありがとうございます

司会者
 ありがとうございます

 本日の護摩焚きで焚き上げた護摩木の枚数は、4万8797枚でした。今年度1月から焚き上げた護摩木の総数は、100万枚を超えました。101万5391枚です。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/OfJFzrHfiFg

 宇宙神ありがとうございます

 大祓詞

天原爾(タカマノハラニ)。神留坐(カムズリマス)。皇親(スメラガムツ)。神漏伎神漏美乃(カムロキカムロミノ)。命以弖(ミコトモチテ)。八百萬神達乎(ヤホヨロズノ カムタチヲ)。神集(カムツトヘ)。集賜比(ツトヒタマヒ)。神議(カムハカリ)。議賜弖(ハカリタマヒテ)。我皇孫命波(アガスメミマノミコトハ)。豊葦原乃(トヨアシハラノ)。水穂之國乎(ミズホノクニヲ)。安國止(ヤスクニト)。平久(タイラケク)。所知食止(シロシメセト)。事依志(コトヨサシ)。奉伎(タテマツリキ)。如此寄志(カクヨサシ)。奉志(マツリシ)。

國中爾(クヌチニ)。荒振神等乎波(アラフルカムドモヲバ)。神問志爾(カムトハシニ)。問志賜(トハシタマヒ)。神掃(カムハラヒニ)。掃賜比弖(ハラヒタマヒテ)。語問志(コトトヒシ)。磐根樹立(イハネキタチ)。草之垣葉乎毛(クサノカキハヲモ)。語止弖(コトヤメテ)。天之磐座押放(アマノイハクラオシハナシ)。天之八重雲乎(アメノ ヤヘクモヲ)。伊豆乃(イツノ)。千別爾(チワキニ)。千別弖(チワキテ)。天降依志(アマクダシヨサシ)。奉支(マツリシ)。如此依左志(カクヨサシ)。奉志(マツリシ)。

四方之國中登(ヨモノクニナカト)。大倭日高見之國乎(オホヤマトヒタカミノクニヲ)。安國止(ヤスクニト)。定奉弖(サダメマツリテ)。下津磐根爾(シタツイハネニ)。宮柱太敷立(ミヤハシラフトシキタテ)。高天原爾(タカマカハラニ)。千木高知弖(チキタカシリテ)。皇御孫之命乃(スメミマノ ミコトノ)。美頭乃(ミツノ)。御舎仕奉弖(ミアラカツカヘマツリテ)。天之御蔭(アメノミカゲ)。日之御蔭止(ヒノミカゲト)。陰坐弖(カクリマシテ)。安國止(ヤスクニト)。平氣久(タヒラケク)。所知食武(シロシメサム)。國乃中爾(クヌチニ)。成出武(ナリイテム)。天之益人等我(アメノマスヒトラガ)。過犯家牟(アヤマチオカシケム)。雑々罪事波(クサクサノツミコトハ)。天津罪止(アマツツミト)。畔放(アハナチ)。溝埋(ミゾウメ)。樋放(ヒハナチ)。頻蒔(シキマキ)。串刺(クシサシ)。生剥(イケハギ)。逆剥(サカハギ)。屎戸(クソヘ)。許々太久乃(ココダクノ)。罪乎(ツミヲ)。天津罪止(アマツツミト)。法別氣弖(ノリワケテ)。國津罪登八(クニツツミトハ)。生膚斷(イキハダタチ)。死膚斷(ナオニタチ)。白人(シラヒト)。胡久美(コクミ)。己母犯罪(オノガモヲオカセルツミ)。己子犯罪(オノガコヲ  オカセルツミ)。母子犯罪(モトコトオカセルツミ)。子母犯罪(コトモトオカセルツミ)。畜犯罪(ケダモノオカセルツミ)。昆虫乃災(ハフムシノワザワヒ)。高津神乃災(タカツカムノワザワヒ)。高津鳥乃災(タカツトリノワザワヒ)。畜仆志(ケモノタオシ)。蟲物為罪(マジモノセルツミ)。許々太久乃(ココタクノ)。罪出武(ツミイデム)。如此出波(カクイデハ)。天津宮事以弖(アマツミヤコトモチテ)。大中臣(オホナカトミ)。天津金木乎(アマツカナキヲ)。本打切(モトウチキリ)。末打斷弖(スヘウチタチテ)。千座置座爾(チクラノオキクラニ)。置足波志弖(オキタラハシテ)。天津菅麻乎(アマ ツスガソヲ)。本苅斷(モトカリタチ)。末苅切弖(スヘカリキリテ)。八針爾(ヤツハリニ)。取辟弖(トリサキテ)。天津祝詞乃(アマツノットノ)。太祝詞事乎(フトノットコトヲ)。宣禮(ノレ)。


 あまてらすおほんみかみ  あまてらすおほんみかみ あまてらすおほんみかみ と、ここは、心の中で、奥義 秘儀 秘奥義 の秘語として、黙して唱える。(3から8回) 


 如此宣羅波(カクノラハ)。天津神波(アマツカムハ)、天磐門乎(アメノイハトヲ)。押披弖(オシヒラキテ)。天八重雲乎(アメノヤヘクモヲ)。伊豆乃(イツノ)。千別爾(チワキニ)。千別弖(チワキテ)。所聞食武(キコシメサム)。國津神波(クニツ カミハ)。高山末(タカヤマノスヘ)。短山之末爾(ヒキヤマノスエニ)。登坐弖(ノボリマシテ)。高山伊恵理(タカヤマノイヘリ)。短山伊恵理乎(ヒキヤマノイヘリ  ニ)。掻別弖(カキワケテ)。所聞食武(キコシメサム)。如此所聞食弖波(カクキコシメシテハ)。諸罪止(モロモロノツミト)。云布罪波(イフツミハ)。不在止(アラシト)。祓申志(ハラヒモフシ)。 清目申事乎(キヨメモウスコトヲ)。科戸之風乃(シナトノカゼノ)。天八重雲乎(アメノヤヘクモヲ)。吹掃事之如久(フキハナツコトノゴトク)。朝之御霧(アシタノミキリ)。夕之御霧乎(ユフヘノ ミキリヲ)。朝風夕風乃(アサカセユフカセノ)。吹掃事如久(フキハラフコトノゴトク)。大津邊爾(オホツヘニ)。居大船乎(ヲルオホフネヲ)。舳綱解放(ヘツナ トキハナチ)。艫綱解放弖(トモツナ トキハナチテ)。大海原爾(オホウナハラニ)。押放事如久(オシハナツコトノゴトク)。彼方之繁木本乎(オチカタノシゲキガモトヲ)。燒鎌乃(ヤキカマノ)。敏鎌以弖(トカマモチテ)。打掃事如久(ウチハラフコトノゴトク)。遺禮罪波(ノコルツミハ)。不在止(アラシト)。祓給比(ハラヒタマヒ)。清給事乎(キヨメタマフコトヲ)。高山乃末(タカヤマノスヘ)。短山末與利(ヒキヤマノスエヨリ)。佐久那谷爾(サクナタニゝ)。落多支都(オチタキツ)。速川能(ハヤカワノ)。瀬坐須(セニマス)。瀬織津比[口羊]止(セオリツヒメト)。云神(イフカミ)。大海原爾(オホウナハラニ)。持出奈牟(モチイタシナム)。如此持出往波(カクモチイタシイナハ)。荒鹽之鹽乃(アラシホノシホノ)。八百道乃(ヤオジノ)。八鹽道之(ヤシホジノ)。鹽乃(シホノ)。八百會爾(ヤオアイニ)。坐須(マシマス)。速開都[口羊]止(ハヤアキツヒメト)。云神(イフカミ)。持加々呑弖牟(モチカカノミテム)。如此可々呑弖波(カクカゝノミテハ)。氣吹戸坐須(イフキトニイマス)。氣吹戸主止(イフキトヌシ)。云神(イフカミ)。根國底之國爾(ネノクニソキノクニゝ)。氣吹放弖牟(イフキハナチテム)。

此氣吹放弖波(カクイフキハナチテム)。根國底之國爾(ネノクニソキノクニゝ)。坐(マシマス)。速佐須良比[口羊]登(ハヤサスラヒヒメト)。云神(イフカミ)。持佐須良比失弖牟(モチサスラヒウシナヒテム)。如此佐須良比失弖波(カクウシナヒテハ)。今日以後(キョウヨリノチハ)。罪止(ツミト)。云罪咎止(イフツミトガト)。云咎(イフ トガハ)。不在物曾登(アラシ モノソト)。祓給清給事乎(ハラヘタマヒキヨメタマフ コトヲ)。八百萬神等(ヤオヨロズノカムタチ)。平安所聞食申須(タヒラケクヤスケク。キコシメセト。マホス)。


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11月光の交流会 by 河上あきのぶ 2024年11月04日(月) 01時53分
PC

令和6年11月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年11月光の交流会で聴いていただいた、先生のお話です。(2015年2月1日護摩焚きのお話)

 嬉しい雪が降っているよ。夕べ10cmほど雪が降った、昨日の夕方から朝にかけて。10cmの雪でも中をずーっと除雪して、屋根の雪をちょっと落として、駐車場の雪を除けて、道路の除雪をする、これ大変よ。昨日から泊まって奉仕してくれる人も加わっても大変だった。今年の冬はもう2m50cm以上降っている。12月、1月の雪は降ったらなかなか解けない。置いおくと凍り付く、氷になっていく。ここへ最初来た時、20年位前。その当時は除雪車が無かった。1年間で5m近く降った時がある。そしたらどうするか?スコップだけしかない。

 まず道路が、1m以上積もって凍ったら、車で無理矢理通ったら、轍(わだち)が氷になる。その上に雪が降る。更に氷が積み重なる。50cmくらい氷の上を雪の層が出来て、その上を車を動かす、無理矢理通る。そしたらもうデコボコ。氷の穴が一杯あって、その上に雪が積もっている。そうなったら除雪車も入れない凍り付いたら。軽い雪の時は除雪できる。でも氷は除雪できない。ここはそのくらい大変だった。

 だから、今は雪が降ったらすぐに除雪する、凍る前に。一晩おいたらまた凍るから、後、何倍も大変になる。道路でも、雪の降った時にすぐ、車が除雪してないところを通ると凍り付く。車で先に走ったら凍るの、氷になってしまう。そうするとその氷がなかなか取れない。除雪車で取ろうと思っても取れない、その上積みする。だから、できるだけ雪が降ったら早く出る、除雪車でも。ホイルローダーも早く動かす。そして降った雪を全部片づけてしまう。

 なんか効率の悪い、つまらないことをしているように思うかもしれないけど、本当はそうじゃない、なぜこういう場に置かれているか?と考えると。マイナスの言葉は、これが凍り付く働きをする。マイナスの言葉を一杯使うと八寒地獄を生み出す。その八寒地獄の氷を解かすのは、神さまの暖かい愛の光だけよ。ここにいてる人10数人、雪が降るたびにフルで動員する。みんなで一生懸命除雪する。祈りながら除雪するの、させてもらう。これは、八寒地獄の氷を解かす神さまのお手伝い。

 無駄なことは何もしてない。本当に無駄だったら放っておく。本当の循環を良くするための神さまのお手伝いになっている。最初からそうよ、その目的で、こういう場に置かれて、除雪に一生懸命、無駄に思うけども、そうじゃない、祈りながら全ての雪を除雪して。動けるように循環をよくするお手伝いをしている。

 同じ除雪でも吹雪の雪が降っている中でするのが一番大変。このくらいの雪だったら楽なの。このくらいの雪で10cm積もったのを片付けるのは、あっという間に終わる。でも吹雪のように振り続く中で、1日降って80cmの時がある、凄いよ量が。3日連続で1m50cmとか。その雪を放っておけない。凍り付く前に除けないとダメだから。屋根の雪でも放っておいたら、上に1m近くのっている。それが雪じゃないの氷なの。最初は、屋根の傾斜を雪が滑るようにしていた。そうすると単なる雪と思っていた最初は、甘いよ考えが。全部氷よ一晩たったら氷になる。その氷がどっと落ちる、どうなるか?屋根の下、傍には車を置いたら危ないからと思ってよけている。ちょっと離して遠くに置いている。反対なの、氷はドーン飛んでくる。高い所から飛んで、遠いところにはドーンと落ちる。車がペシャンコよ。屋根が潰れてフロントガラスが割れてしまう。そういう体験もしてる。だから屋根の角度を出来るだけフラットに変えた。そうしないと屋根の雪が処理できるまでに落ちたら大変だから。

 この八寒地獄の凍り付いたすがたを循環させるのは、真(まこと)の神さまから見ても一番大変なの。本当に凍り付いたら動かない。少々の水を流しても流した水まで凍りつく。ここらでもそうだけど、雪が降ったら水で流す。ちょっとの時はいいの、解かしてしまえる。でも大雪の時は流したら全部氷になる。厚い氷の層に変わってしまう、水は流せない。八寒地獄の神さまの清めも同じ。単に暖かい水を流すように光を流したから凍り付くのを防げるか?そうじゃない。中途半端だと逆に凍り付いていくと思う。(雪の話はこのぐらいにして。)

 真(まこと)の神さまの世界の一大循環の相象(すがた)、それと虚の世界の循環と全然違う。真(まこと)の神さまの世界は、絶対の中心から左旋回の螺旋状に光が降りてくる。そして、降りた光はどう戻っていくか?同じ軌道を通って、裏側を通って絶対の中心に戻るの。これが絶対の世界へ戻る本当のすがた。だから、他の動きと絶対に邪魔し合わない。

 ところが虚の世界は反対。一つの道から循環していく同じ螺旋でも、右旋回・左旋回がある。循環していって、末端から戻れるかというと戻れない、もう力がない。それで裏を通るか通れない。螺旋に戻さないとダメ。ここから出たらこう戻らないとダメなの。そういう通路がなかったら戻れない。だから真実の世界と虚の世界の循環は全然違う。まず、それが一番大事なこと。

 次に虚の世界でも、プラスの言葉を大きく与えたら大きい自分。宇宙が自分という大我(たいが)の自分になる。大きい我(われ)、大我の自分に戻る。ところが小さい言葉、プラスでも小さい言葉は小さい自分になる。マイナスの言葉をたくさん使うと、自分を切り刻むから、更に小さい自分になっていく。我(が)も、小さい我(が)から大きい我(が)まで色々。虚の世界でも、マイナスの言葉を使うほど小さい自分になって、同じ波の変化に翻弄される。大きい自分は少々の波は影響を受けない。自分が大きいから少々の波も小さく見える。

 これはこの大きい自分になる方法は、プラスの大きい言葉を使い続けること、与え続けること。大きいプラスの言葉を与え続けたら、大我の大きい自分に戻る。そうすると、相対の両極に分かれて波打つ世界を単なる平面くらいに見える。小さい波の振動に見えるの、大きい自分から見たらそう。高い世界の神さまは、千早振る波を見る。同じ波を見ていても、千早振る、小さい微振動に見える。ところがマイナスの言葉を一杯使う人にとったら、小さい自分だから、同じ波が大きい荒波に見える。荒ぶる波に見える。それで波に翻弄されて苦しむ。だから虚の世界でもどれだけ大きくなっていくかが大事。小さい自分から大きい自分になっていくことが大事。そしたら幸せが虚の世界でも大きくなる。

 もう一つ真実の世界はどうか?本心の自分というのは、一切の我(が)のない無色透明の自由自在心。これはみんな同じなの一人ひとり。一切の我のない無色透明の自由自在心、これはみんな同じ平等。後どこが違うか?本心の自分にも小さい自分、大きい自分、色々なの。小さい自分というのは、絶対の中心から一番遠いところ、末端にいてる自分になる。これはどういう自分かと言うと与え続けるのが小さい。小さくしか与えてなかったら末端の自分になる。大きく大きく与えたら、絶対の中心に近いところの自分になる。虚の世界へもし転落するとしたら、末端の小さい与え方をしている自分だけなの。もし虚の世界へ転落する可能性があるのはそう。

 ちょうど、この世の肉体の人間のことを考えても、赤ん坊はよく眠るっていうじゃない。本心の赤ん坊もよく眠る。眠ってしまうよ自然に。それはなぜか?与え続けるのを忘れてるから。与え続ける自分は忙しい、眠らない。大きく与えるほど、与える訓練を積んでるから、それが習慣性になる。与え続けることが身につく。だから受けて喜ぶような浅い生き方は取らない。大きく大きく与え続けようとする。だから本心の自分も、小さい自分から大きい自分へどんどんと変化する。

 ただこの与え方も、虚の世界と真実の世界の与え方、これ全く違う。虚の世界の与え方は、上から与える。太陽の光が、みんなに降り注ぐような感じの与え方。上から与え続ける。真実の世界は違う。下から支え続けて与える。ここが大きい違い。絶対の中心から、下から大きく支え続けて必要なものを与え続ける。だから、単に虚の世界の与えるというのと、真実の世界の支えるという与え方とは全然違う、正反対。この支えるという働きが、一番大きい力が必要になる。すべてをこれを支えようとしたら、すべてを重荷を背負わないとダメ。全ての重荷を背負って、全力を振り絞って支え続けないとダメ。これが本心の本当の生き方になっている。

 そしたら必ず、真(まこと)の神さまの絶対からの大きい支えが、常に無限倍出て来て支える、これはもう決まってること。自分が大きく支えようとした、その無限倍が必ず自分を通して力が湧き出るように出てくる。それで支える練習をどんどん積み重ねて、入れ子構造的に大きい自分に戻っていく。常に無限倍の支えをもらって、大きく大きくなっていく。それで絶対の中心へ近づく。真(まこと)の神さまにどんどん近づいていく。同じ真(まこと)の神さまと一体と言っても、小さい一体と大きい一体とある。入れ子構造的に大きい支え方をする人が、真(まこと)の神さまと本当の一体感を味わう。だから、どこまでもどこまでも大きくなっていくの、虚の世界もそう。真実の世界もそうよ。大きく大きくなっていくのが大事。

 そしたら、一番手っ取り早い方法はどういうことか?まず支えるとなったら勇気がいる。本当に限界を破って不可能に挑戦する気持ちがないと出来ない。例えば、今の地球を支えよう、一人で支えようとしたら大変、無力を感じる。なかなか勇気を出して挑戦できない。本当は、勇気があって、一大勇猛心を振り起して、一大決意の元に前へ進んだらバックアップは必ず来るよ。ただそこまでいけない、ためらう。せっかく大きくなるチャンスを与えてもらっても、必ずためらってしまう。そしたらどうしたらいいか?

 真(まこと)の神さまのお手伝いに生きることよ。真(まこと)の神さまが大きく支えようとして出て来てくれている。そのお手伝いというのは、ピタッと寄り添うようにして、邪魔さえしなかったらいいの。寄り添うようにして、ちょっとお手伝いすればいい。そしたら、真(まこと)の神さまと一つに融け合う。真(まこと)の神さまの働きと一つになる。そうすると、自分の力では小さい支えしか出来ないかもしれないけど、神さまと一つに融け合った時は、自分の中を真(まこと)の神さまの大きい力が循環するようになる。本心の自覚を大きく与えてもらう。本当の力が湧き出る。自分の中を通り抜けるようになる。これが自分一人でと言うと絶対に無理。自分一人で大きく支えることなんか不可能、出来ない。潰されてしまう。でも真(まこと)の神さまのお手伝いでひっつくのだったら大丈夫。神さまのお手伝いという気持ちで、その働きのちょっとお手伝いをする。そうすると真(まこと)の神さまの中へ入っていける、入れてくれる。それが本当に自分を大きくする一番の道なの。

 だから、我(が)の自分、思いの自分から我(が)の自分から、本心の自分へ戻る、そのためにも真(まこと)の神さまのお手伝いをしたら、すぐに本心の側へ戻してくれる。さらに本心の自分が神さまのお手伝いにって、ちょっと寄り添うだけで、どんどんどんどん大きい本心に戻していってくれる。これが本当の本心開発の最短コース。

 真(まこと)の神さまの世界は、本当の支え合いだけの世界。支え合いというのは、一人ひとりが、一人で支える働きでは小さいから、自分が支えようとしたら、全体的が入れ子構造的に一段上の大きいところから無限倍の支えが来るから、支え合いが本当の正しい一大循環の相象(すがた)をとる。

 もし自分が、世界中の人に本当に必要なものを的確に与え続けていけるか?考えたらわかる。食べ物一つでもそうよ。みんなが食べられる食べ物を与えるだけでも、どれだけの量がいるか?どれだけの種類がいるか?自分一人で何が出来るか?って考えたら、全くできない、ゼロよ。そしたら他の面、全部考えたら、もう一つ何もできないことに気付く。

 支え合いというのは、一人ひとりが支えてそれを集めるのが支え合いじゃないの。真(まこと)の神さまが出てくるのが支え、支え合いなの。自分が支えようという気持ちになった時に、真(まこと)の神さまが全体を通して支えるすがたで出てきてくれる。これが、真(まこと)の神さまの支え合いの大きい働き。だから自分が支えようとするだけが必要なの。真(まこと)の神さまが全体を支えようとしている。そのお手伝いをしよう。ちょっと恩返しをしようとする。これで真(まこと)の神さまが全体を通して自分を支えにくる。

 真(まこと)の神さまは、みんなに無理なことを何も押し付けてこない、反対。本当は、自分一人で地獄の縁者を一人でも救おうとしたら、無限に大変。そんな大変なことをしなさいとは言ってこない。ちょっとお祈りしなさいって言うだけなの。ちょっとお祈りしてくれたら、代わりに救ってあげるよと言うだけなの。護摩木をちょっと書いてくれたらいい、そしたら縁者を全部救ってあげるよ。どこにいてる縁者も救ってあげると言ってくれているだけなの。本当に救う神さまの方が無限倍大変なの。人がどれだけ、これをしてほしいと言われても、することは一番楽な誰にでもできることばっかり。

 まず祈る。真(まこと)のプラスの言葉を駆使する。難しいことじゃない。祈ることが幸せなの、プラスの言葉を使えるのが幸せよ。それを反対にマイナスの言葉を使ったら苦しくなる。だから、マイナスの言葉を使って苦しくならないように、プラスの言葉を使いなさいって、使えるように助けてくれてるだけの話。それも真(まこと)のプラスの言葉を使ったら、幸せが喜びが湧き上がる。大きいプラスが降り注ぐ。そしたら自分が何を選ぶかだけの問題。すべて自分の自由意志で選んでる。言葉も、どういう言葉を自分が自由意志で選んでるか?マイナスの言葉を選ぶか?プラスの言葉を選ぶか?真(まこと)のプラスの言葉を選ぶか?この中から一つ、一瞬一瞬、選んでる。真(まこと)のプラスの言葉を選んでほしい。選んでくれたら神さまは力をふるえる。何万倍の大きい助けを降ろせる。

 今までの護摩焚きの護摩木を書くのもそうだけど、今度は宇宙船護摩木って誕生して、もう一つ護摩木を書かせようとしてくる、なぜか?真(まこと)の神さまの+αを何万倍という愛の大きい働きをみんなに受け取らせたいの。一時間祈り続けて、一枚書き上げることで、大きい神さまの助けを与えたい、与えてるんだけど受け取ってほしいわけ。受け取れるようにしたいの。そしたら順番に縁者も大きく救える。

 今、本当に祈れる人はわずか。祈りは、色んな種類がある。マイナスの祈りもある。虚の世界、マイナスの祈りとプラスの祈りがある。「病気を治して下さい」「平和にして下さい」これマイナスの祈りよ。願いごとを求める心、マイナスの祈り。「病気を治して下さい」は、「病気」という言葉を使っている、病気になる。これはマイナスの祈り。マイナスを増やすだけ。プラスの言葉を使ったらプラスの祈り。でもマイナスを消す力はない。マイナスはそのまま。そこへ新たにプラスをちょっと加えるだけ。やっぱり真祈りがいる。真祈りが、虚の世界のマイナスの言葉もプラスの言葉も消し切ることが出来る。

 みんな、『ありがとうございます』を祈ってるという。祈って本当にいろんな奇蹟が起こせるか?起こってるか?わずかよ、起こってる人は。どんな問題でも祈って解決できてるか?まだ出来ていない、自信がないまだ。本当はちょっと祈って、どんな問題でも解決できるようにならないとダメよ。まだ我(が)の自分の自己限定が一杯ある。これ、我(が)の自分の自己限定なの。謙虚になれたら、謙虚になれたら自分の力はゼロよ。ただ淡々と無心に祈り言葉を唱えるだけでいい。そこへ真(まこと)の神さまが降り立ったら、どんな奇跡でも起こる。祈ってまだ奇跡が起こらないというとしたら、自分が祈ってる。我(が)の自分の祈り。自分で何かできると錯覚してる。

 本当の祈りはそうじゃない。真(まこと)の神さまが降り立ったら真祈り。同じ『ありがとうございます』って唱えても、そこへ真(まこと)の神さまが降り立った時に、真祈りに変わる。どんな問題もさっと消してくれる。でもそこへ行くまでに、祈り言葉を唱える祈りの練習が必要なの。

 真(まこと)の神さまが人の自由意志を絶対に縛ってこない。そしたら普段自分がどういう言葉を使い続けてるかって考えたらよくわかると思う。マイナスの言葉を使ってる、単なるプラスの言葉を使ってる。真祈りの言葉、真(まこと)のプラスの言葉をちょっと使うかもしれない。でも全体を眺めていた時に、どの言葉が多いか?マイナスの言葉が多かったら、その人の自由意志はマイナスを選んでる。単なるプラスの言葉が多かったら、その人は単なるプラスの言葉を選んでる。まだ真祈りの言葉を選んでない。

 そしたら神さまはどうするか?マイナスの言葉を選んでいるからマイナスを与えようとするか?それはしないけど、真(まこと)のプラスを与えるわけにはいかない。無理矢理には出来ない。だから、本当に自由意志で真(まこと)のプラスの言葉を選んでくれてるかどうかって、これを確かめないと出来ないの。だから確かめる時間がいる。今ちょっと『ありがとうございます』を唱えてくれたから、すぐに、はいそうですかって動けない。少なくとも他のマイナスの言葉よりもたくさん祈り続けてくれたらわかる。

 一日中『ありがとうございます』って祈り続けてくれたら、「あー今日はマイナスの言葉は無いな」とわかる。本当にプラスの言葉を選んでるな、そしたら応援に降り立とうかって出来る。言葉をコロコロ変えたらわからない。マイナスの言葉を使ったり、プラスの言葉を使ったり、真(まこと)のプラスの言葉を使ったりって、コロコロ変わるようだったら、まだ自由意志を確かめることは不可能。

 真(まこと)の神さまの本当の助け、本当に必要とするのだったら、この真(まこと)のプラスの言葉を時間を定めて、一心不乱に祈る必要がある。1日が不可能だったら、1時間だけでも定めることよ。「1時間だけでも一心不乱に真(まこと)のプラス言葉を祈り続けます」と決めることよ。そうしたら、真(まこと)の神さまは力をふるえる。

 このために宇宙船護摩木が誕生した。1時間、真(まこと)のプラスの言葉を祈ってほしい。そしたら真(まこと)の神さまは+αを、何万倍の力をそこへ降ろせる。それが本心開発の大きい助けになる。大きい本心の自覚を与えていける。神さまの助けがそのまま出てきたら、本心の自覚になる。真(まこと)の神さまが自分の中へ降りたら真(まこと)の自分、本心の自分。

 いくら神さまが真祈りを伝授したいと言っても、みんなが言葉を定めてくれなかったら伝授不可能。だから宇宙船護摩木を書くことで練習させてくれる。何回も何回も練習することで、本当に真(まこと)の神さまの助けを受け入れていけるようになる。必ず奇蹟が、大奇蹟が、一大奇蹟が起こる。どんな問題もさっと解決してくれる。

 真(まこと)の神さまの力は半端じゃない。何もないところから何でも生み出せる。どんな力でも発揮できる。そしたら今の地球の問題、無限の種類のいろんな問題、一杯あっても、そんなの問題じゃない。大きいプラスを加えたらしまいよ。問題をどうのこうのじゃない。大きいプラスに置き換えるだけ。本当の一大循環の世界の一番末端の小さいものをぽっと置くだけで、地球は完全平和になる。いともたやすい事なの、真(まこと)の神さまから見たら。プラスのないところへプラスをさっと持ってくるだけ。

 そのお手伝いを一人ひとりがしないとダメなの。神さまが勝手に与えるわけにいかない。そのお手伝いをしてほしい。自分一人でしなさいじゃない。神さまが今、大きくみんなの前へ降り立って地球を救おうと守ろうとしてる。そのお手伝いを一緒にしましょうという。ちょっと寄り添うだけよ。お手伝いをしたいという気持ちをちょっと起こして、祈り言葉を唱えて護摩木を書くだけ。それで神さまが大きい力をふるえる。全て神さまがしてくれる。どんな問題も全部消し切ってくれる。

 その他に何か、地球を救う方法があると思う?思いの心、我(が)の心で何をしてもダメ。循環を止めているだけだから、循環が止まったらみんな、そうでしょう、死の世界。死んでいく世界、消えていく世界。我(が)の心でしていることは全部マイナスよ。いくらいいことをしてるようでも違う、マイナスを大きくしているだけの話。

 だから、真(まこと)の神さまのお手伝いをちょっとしようという人、この一人が大事なの。この一人が、真(まこと)の神さまにとっては、無限に価値のある貴重な一人。だから、ちょっとお手伝いをしたい、この気持ちを起こしてほしい。それだけで、真(まこと)の神さまが大きい働きを降ろせる。だからお祈りを忘れないように、護摩木を書くというのまで定めてくるのはそこよ。目標を定めて書かなかったら忘れる。1ケ月祈って書きなさいじゃ、またこれも大変。1ケ月祈り続けるのは大変なの。でも、1時間だったら頑張れる。全力で1時間は祈れる。また祈っている時、祈りながら何でもしたら同じ祈り。祈ってるから何もできないのと違う。祈っている時ほど、真(まこと)の神さまがバックにつくだけじゃない。虚の世界の高い神仏全部バックにつく。祈っている時は、どんな仕事もスムーズに運ぶ。

 仕事でセールスをしている人が仮にいたとしたら、祈りながらセールスしてたら、縁繋ぎで、みんな神さまがするから、商談がさっとまとまるように縁を結んでくれる。そしたら、喫茶店でちょっとお茶を飲んでる間に、隣に商談の相手がスッと来る、ちょっと話をしてたら商談がまとまったりして仕事が終わる。

 真(まこと)の神さまの助けってもっと大きい。虚の世界の神仏でも大きい助けを与えてくる。守護霊さん、守護神さん、副守護霊さん、副守護神さん、みんな一人ひとり大勢護ってる。祈りさえしてたら全部スムーズにいくはずよ。だから祈りながら何でもしたらいいの、必要なこと。大きく護られる。自分一人で躍起になって仕事したって上手くいかない。祈りながらしたら、背後の神仏の大きい助けが一杯ある。自分が何かするんじゃない、全部背後でしてくれる。

 でもそれ以上に、みんなを本当に幸せにしたいという気持ちが必要でしょう。みんなを本心の自分に戻してあげたい、祈れる自分に変えてあげたい一番幸せだから。そのお手伝いが一番大きい働きよ。お金には換算できない。我(が)の自分を生きている人を本心の自覚へ戻してあげたら無限の価値がある。大きい無限の幸せを与えたことになる。そしたらその幸せは必ず自分に、みんな無限倍になって返されてくる。どれだけ大きい本心の自分に戻っていけるか?一枚の護摩木を書くことから始まる。

 今年の初めに、宇宙船護摩木の話が降りてきて、護摩木を作り始めたここで。本当に作れるのかと思った。ずっと今まで護摩焚きは、年に3回、多い時に6回したことがあるけど、枚数はわずかよ。1回に集まる護摩木って、だいたい5〜6千枚。その護摩木作りでも大変だった。今年100万枚護摩木を集めようと思ったら、多分150万枚くらい作らないとダメ、先に。これもこの2、3ケ月で。今までのペースの100倍のスピードがいるの。誰がするかって考えたら本当に出来るのかと思う。絶対不可能、答えが先に出てくる。今までのペースでは無理なの。100倍のスピードアップがいる。

 今までみんな山仕事に行って、木を伐ったりする勉強をさせてもらって、色々な作業も色々訓練してもらって、護摩木を作るのも勉強させてもらってきた。でもその程度じゃダメなの、100倍速のスピードがいる。そしたら誰がするのかとなったら、ここにいてる人はみんな限界破りに挑戦してる。朝早く起きて、お祈りを済ませて、3時半くらいから作業にはいってるよ。昼は昼で山仕事をしたり、さらに除雪もするのよ。それも済ませて、山仕事も行って、いろんな木も調達してこないとダメだし、本当の限界破りを挑戦するの。だから、ほとんど睡眠時間もさくぐらいにならないと、食べるのも忘れるぐらいで立って食べて、ちょっとさっと仕事に入るような感じでないと多分無理。この1ケ月、かなりハードよ。でもまだ足らない。神さまから見たらまだ足りないっていうの。

 本気で護摩木を作ろうとしているかって言われる。その準備が本当に出来るのかって。色々工夫はしている。まず製材の段階からも、出来るだけスピードアップしようとしている。前のペースでは絶対ダメだから、全ての工程でスピードアップを図ってる。どんどんどんどん、改良を加えて図っている。今までは出来るだけ安い材料を手に入れようとしてきたから、ちょっと節があったりしてた。そうすると節があったら3倍時間がかかる。選別も大変。仕上げに3倍の時間が取られてしまう、労力も大変。だから節のない木を探さないとダメ。それも今すぐに丸太を木を伐って、丸太にして製材をしても湿気ているのよ、乾いてないからプレーナーがかけられない。まず乾かさないとダメ。今までは1年間位乾かしてたの、板にして。この屋根裏の上へずーっと板を積み重ねて干してた。だから、今、1月の初めから作って20万枚余り護摩木を作ったけど、それは前の年からずーっと残していた板なの、乾いた板。これからは湿った板を乾かしながら護摩木作り。

 でもこのくらい朝飯前っていうくらいにしなかったら、護摩木を本当に100万枚書いて、護摩焚きの場へ出せるかって考えたら、後の方が大変なの。1時間ずつ祈って1枚書いてって、本当にみんなの命懸けの真剣な努力が必要になるじゃない。護摩木作りの段階なんて、まだ一番最初の出だしの働きでしょう。そのくらい簡単に出来なかったら、後もっと遅れてしまう。少なくとも3月中に100万枚以上作り上げる、必ず。そのための方法をありとあらゆる方法を探し出して実行する。必ずできないと嘘よ。

 真(まこと)の神さまの助けを受けて、本当は真(まこと)の神さまが全部してくれるはず。それに寄り添うようにお手伝いするだけよ、必ずできる。そうしたら、みんなも必ず祈れる。祈りながら何でもできるようになる。1ヶ月で500枚書こうと思ったらかける。少なくとも17時間起きて何かしてる。睡眠時間全くさいてじゃない。1日24時間のうちに、17時間くらいは働いたり、いろんな仕事をして、生活してる。そしたら祈りながら生活できたら、1日17枚書けるはず、1ケ月で500枚。これがどれだけ大きい働きをするか?

 神さまのお手伝い、神さまに寄り添うこと。神さまの中へ本当に入れてもらうの。大きい愛の光の流れの中へ自分を入れてもらえる。これがどれだけ幸せか。1枚書くことで神さまの中へ入れる。2枚書いたらもう一つ中へ入る。大きい流れの中へ、中心へ入れてもらう。どれだけの護りが大きいか。護摩木を書く時間がないっておかしい。みんな余計なことを邪魔することをし過ぎてる。それを減らすだけ。無駄なことを要らないことを全部ちょっとずつ減らして、取り替えたらいいだけ。祈る時間に、護摩木を書く時間に振り替えたらいいだけ。そしたら本当の本心の自分に戻れる。無条件の幸せが常に湧き上がる自分に必ずなる。一番の幸せな自分。

 周りの問題が全部、祈ったら解決する。本当は祈りだけで全部解決する。どんな問題も。それでなかったら、まだ祈りが本物じゃない。真(まこと)の神さまのお手伝いで真(まこと)の神さまと共に祈る祈りだったら、どんな奇跡も起こる。人のために、病気の人のために祈ったら祈りで治る。自分のために祈っても、それは波が違う。自分のために祈るのは、利己的、求める心になるから波が低い。

 でもみんなのためにだったら、与える心、支える心になる。真(まこと)の神さまの波とピタッと合う。真(まこと)の神さまが力をふるえる。自分のために祈らずに、みんなのために、他のために祈ることよ。これが真(まこと)の神さまの助けを大きく受け取る秘訣。そしたら自分も、自分の問題は他の人が祈ってくれる。大勢が祈ってくれる。自分の問題、みんなが解決してくれる。まず他のために祈ること。その練習が宇宙船護摩木を書く練習でできる。必ず本心の自覚が大きく深く、日に日になっていく。

 今日は雪の中をこうやって来てくれたのも、本当は雪を降らさないつもりだったの。でも雪を降らさないと、神さまの本当の働きにみんな気付きにくい。雪の中でも、喜び勇んでできないと嘘。本当だったら、道の除雪をみんなにして来てもらおうかと思った。だからスコップを担いで、長靴を履いて来てもらわないとダメなの。護摩焚きに参加することは、真(まこと)の神さまの中へ飛び込む一番のチャンスを与えてもらう。これがヒマラヤの山頂で行われても参加しないと損なの。雪の降ってるヒマラヤの山の山頂まで行く?エベレスト山まで登る?これでもまだ楽よ。どんなことがあっても登ろうとするはず。ここは、そんなん雪が深くない、暖かい。スコップを持ってみんなで来たら、みんなで除雪してきたら道が開ける。これだけの人数がいたら道、あっという間に歩く速度で雪が消えていく。

 お客さんじゃダメよ。神さまのお手伝い、護摩焚きを本当にするために支えるという気持ちで来るんだったら、一人ひとりスコップを持って来たら、道の除雪は、あっという間に終わる。歩く速度で全部済ませて来れる。これが本当の神さまの支える力。ちょっとお手伝いしよう、この気持ちになったら、神さまが自分を使ってくれる。必要なことをみんなでさせてくれたら、必ず大きい護摩焚きの祭典になる。次もっと大雪を降らして(笑)。まぁその気持ちになった時は、雪は降らない。そういう気持ちを忘れないようにさせるために、今日はちょっと雪を降らせてもらった。この雪が降る、降らないも祈り次第で、そんなん簡単に消える。それでも楽を求めたらダメ。本当に支える心で参加することで、神さまの大きい助けを与えてもらえるから。そしたらマイナスは先に全部消してくれる。

 はい、ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/m7eUiGvBmdk

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2024/11/03(Sun) 07:51 No.3625


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自問自答 by 河上彰延 [Mail] 2024年11月02日(土) 01時51分
PC

自問自答

 護摩での、会場での質問を取りやめたことについての、お叱りのメールが届いていますが、・・・・・

 何事においても自問自答することが必要なのです。

 まず、第一に、自分にとって、目的と手段が入違っているか?常に問う必要があるのです。
 大方の人は、言い訳するために、目的と手段を入違えて行動するのです。
 なぜ?目的と手段が入違ってしまうか?と申しますと、最大の理由は、自分の存在を認めてもらいたい、という、自分という存在の承認要求があるのです。
 この掲示板においては、悟りへの探求、真理への探求が目的でありますが、どんな回答を書いても、それを、ひたすらに、理解しようとせずに、真剣に読もうとする人が少ないのであります。
 もちろん、護摩の会場においても、限られた時間の中で、真剣に真理を求めて、来られている方々をさしおいて、ほぼ、思い付きに近い質問が多いので、中止のやむなきに至ったのです。

 たとえば、親鸞さんについての質問においても、ろくすっぽ、親鸞さんのことを、調べもせず、知ろうともせずに、どう見ても、思い付きの質問になっている状態が続いたのであります。親鸞さんのことが聞きたいのであれば、親鸞が弟子をとらなかったことも、調べつくし、なぜ、弟子をとらなかったかと言うことを質問するくらいの、真剣さがあれば、よいのですが、そんなことは、ありませんでした。会場での質問を受け付けないと、言ったとたんに、怒って、会場をすぐに、出ていくようでは、その真剣さを疑います。

 この掲示板においても、17項目がどういう意味で、聖徳太子さまの17条憲法に、関連するのか?ぐらいの、自問自答が必要なのでありますが、真剣に祈って、考えることも、ましてや、自問自答して、それは、こういう意味であるんか?ぐらいのことも言えず、ただただ、周りの人のことを責めるだけで、結局は、それに気づいた自分がすごいだろうと言う、自己承認要求だけであるのであります。

 でありますから、その答えをもらっても、ろくすっぽ考えもせずに、質問しているから、わかったともわからなかったとも、言えないくらいの情けない状態であるのです。

 護摩会場でも、男より女の方が偉いという間違った考えの結果、アダムとイブの話を、真剣に読まないから、わからず、男が前にたって、という、目立ちたいという、自己承認要求が強いだけで、あるから、いつまでも、つまらない質問が続くのです。

 しかし、神意による彗星が現れたことによって、あたらしい世界が始まるのです。

 先生のおっしゃる、ふるいわけが始まったのです。いつのときの、お話であるかは、申し上げませんが、先生のお話を聞きこんでいる人には、わかることであります。

 本人の自覚するしないに関わらず、結果として、真の神さまの邪魔をしていることになりますので、それは、すごい、マイナスの言葉を駆使したことになって、自分の発したマイナスの言霊となって、マイナスの運命を自分の自由意志で、選び続けることになっていくのです。
 2015年2月1日のお話をお聞きになれば、わかることであります。

 自分を認めてもらいたいという、自己承認要求という虚栄心を消し去らない限りは、真の神さまの邪魔をすることになり、その責任はご自分で負われることになるのです。

 宇宙神ありがとうございます  河上彰延


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汝の敵を愛せよ by 河上彰延 [Mail] 2024年11月02日(土) 00時57分
PC

汝の敵を愛せよ
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい マタイによる福音書5章44節

 敵を作るなとか、どんな相手でも愛せよというような、博愛主義を説いているのですが、具体的には、出来ないことを、やれ(愛せよ)と言っているのではありません。

 この現世でのゲームでは、先ず敵と味方を分け隔てて、楽しむようになっていきます。それがゲームであることを忘れ、生き残りをかけた、食うか食われるかの、出世競争、生存競争になってしまっているのです。

 この状態になってしまうと、敵(たとえば競争相手)と言うものは、誰しも憎いものです。
 でも、敵を憎めば、相手に対する認識が、憎いに偏ってしまって、正確な相手の感情の動きを認識できなくなります。そうなると、くやしい、憎い、腹立つになってしまって、結局は自分が損をします。
 だから、まず、敵を愛する(共に同じという感覚)くらいの感覚を持ちなさいと言っているのです。
 そのためには、真祈りが必要なのですが、その、真祈りの伝授がうまく行かなかったから、現在の混迷につながっているのです。

 真祈りとは、すべては、神のみひかり、みちから、みいのち・・、眞(まこと)の神さまだけ、みんな、ひかりや・・と、理屈で言えば、こうなるのでありますが、なかなか、それが実感にならないのであります。

 そこで、じょじょに、ゆっくりと、真祈りの伝授ができるように、印可書というおまけが出されたのです。最後の救いともいえましょう。

 相手を憎い悔しいうらやましい・・と妬んでしまうときでも、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を、奉読していると、自然に、自分という小さい意識が消えて行き、大きな真我という、眞(まこと)の本心の自分を自覚できるようになっていき、自然に敵味方の区別がなくなって、みんな光やを、自然に実感として、分かち合えるようになるのです。

宇宙神ありがとうございます=真祈りの秘奥義   河上彰延


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欲望から抜け出す by 河上彰延 [Mail] [URL] 2024年10月26日(土) 23時27分
PC

眞(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分

 虚栄心についてのご質問が複数よせられておりますが・・・

 虚栄心とは、この現世でのゲームを楽しむための相象(すがた)であります。この現世では、赤組白組と運動会のように、色分けをして、本来、みんな光という、眞(まこと)の本心の自分という眞(まこと)の神さまの自分を否定して、小さい自分に分け隔てて楽しむ為の道具なのであります。

 ところが、ゲームを楽しむことを忘れて、あまりの難しいゲームの為に、自己保存本能という、なんでも、相手の所為にして、自分は悪くない、悪いのは、周囲の人間(他人)だと言い訳する心を、持ってしまうのです。これを、原罪といいます。

 小さい子が、なんでも、おかあちゃんの所為といって、お母さんをたたくではありませんか?

 このように、人間は肉体をもつと、原罪を背負い、なんでも、他人の所為にして、自分だけが楽をしようと、逃げ回るのであります。

では、 なぜ?逃げ回るのか?、それは、神さまと自分を切り離し、人間中心主義に陥るからです。人間中心主義に陥ると、自分で、何とかしよう、自分で結果を出そうとしよう、自分で、うまくやろう・・・等々、自分が前面に出てしまうからです。
 その結果、自分の心の内面に於いては、自分の好き勝手にしたいくせに、さも、人の言うことを聞くふりをしながら、結果としては、好き勝手にするのです。
 だから、思い通りにならないと、思い悩み、その思い通りにならないことを、周囲の所為にして、自分一人が不幸のヒロインになったと思い悩むのです。

 ご自分が自覚出来る出来ないにかかわらず、すべての責任は、ご自分自身にあるのです。
 そして、その責任のすべてを背負って、いろんな運命として、あらわし、その現実から逃げ出すことは、不可能なのです。

 なぜ不可能かと申しますと、人間中心主義では、自分より下の人間に対しては、しきりにマウンテイングを取ろうと本能的にします。なぜなら、マウンテイングは、自分の存在を認められたいという、承認要求であるからです。
 自分の存在を認められたいから、一番すごいと思われたり、褒められたいのです。だから、自分が責任を取らずに済むように、逃げ回りながら、いろんな人を、罵倒したり、脅迫したり、どなったり、権力者の立場に立って、人を苦しめたり・・等々の行動を取るのです。
 しかし、どのように誤魔化しても、自分の発したマイナスの責任は、ご自分の運命として、受難して行くしかないのです。

 では、どうすれば、この現世の虚栄心という、自分の存在を認められたいという、苦しみから、逃れることができるか?と申しますと、小さい自分の欲求は、横においておいて、大きく本来の自分に、心を広げることが必要なのです。心を広げるためには、一切の結果を無視して、ただただ、ひたすらに、たんたんと目の前に顕れる運命を、神さまが一番良いようにされていると、諦めて、自分の都合で、思いめぐらさずに、喜び勇んで、こなしていくことです。

 このことを先生は、2011年7月2日のお話2011年7月30日のお話で解説されているのですが、このお話が、よく分からないと言う人は、ご自分の都合を優先して、聞かれておられるから、先生の大きな愛の御心が理解出来ないのです。

 そこで、最後のおおおまけとして、印可書の奉読があるのですが、先生がお作りになった、わざと未完成にしてある印可書は、未完成であるが故に、光がつよすぎて、誰も受け取ることが出来なかったのです。だから、最初の印可書を奉読すればするほど、つよき光に、自分の虚栄心が、あぶり出されて、よけいに苦しむことになるのです。

 いろいろありますが、言い訳をしたら、他人の所為にしたら、自分は、悪くない・・と、自分が出たら、結果を気にしたら、他人がどう思うか思い煩ったら・・・虚栄心が出たと反省し、ご自分のすべてを、最後の印可書を奉読することによって、裏を通って、眞(まこと)の神さまに、ご自分のすべてのマイナスをおかえしすることによって、思いめぐらすという虚栄心が薄まっていき、この、どうしようもない、ジレンマから抜け出すことが出来るのです。
 宇宙神ありがとうございます
 河上彰延


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彗星 by 河上彰延 [Mail] [URL] 2024年10月25日(金) 03時45分
PC

彗星が顕れて

 彗星が日本で、見事にきれいに見えるが、これは、何か意味があるのか?・・・というようなご質問がたくさん寄せられていますが。

 彗星は、いつも申し上げるように、肉眼で見える見えないにかかわらず、この現世という舞台装置が入れ替わる御しるしです。舞台でいうと、第一幕が終了し、第二幕が始まるということなのです。

 では、今回の蒼きフヴワーンの星は、何を意味するのかということになるのですが、マイナスの見方をすれば、コロナ以上の強力なウイルスが、発生し、厳しい伝染病となり、紛争が世界規模で激化し、食料事情が悪化し、人口がいろんな意味で激減し、となるのです。

 眞(まこと)の神さま以外は、ない。と、眞(まこと)の神さまだけ。光だけ。みんな光や。すべて 神の みひかり、みちから、みいのち。と申し上げておりましても、村では、光一元という真祈りを選び取ることができず、言い訳をしながら、印可書を読んでいることもわからず・・・を、繰り返しているから、人類の選び取るマイナスが具体化しているだけです。

 これは、言い訳という人類の原罪を消し去るための、神さまの大いなる愛の結果、いろんなマイナスの形に具現化して、消し去るしか、どうしようもない状態になったとも言えます。

 第二幕の神さまの光の特徴は、おまけが無くなったので、つよく、きびしい、サーチライトのような、きびしさ、激しさに、なっているのです。

 具体的には、つよき光は、現世の相象(すがた)といたしましては、つよき宇宙線宇宙放射能となって、人類の遺伝子に影響し、いろんな相象(すがた)をあらわすことになるのです。

 この掲示板に、マイナスを書き込むな、と申し上げましても、虚の世界の神さまの名を書き込む状態でありますし、とうとう、人類が最後の一線を踏み越えることになるのであります。

 真祈り人の皆さまにおかれましては、一切の現象という、虚の世界の相象(すがた)を無視し、ただただ、眞(まこと)の神さまだけ・・・という、印可書の奉読をたんたんと遂行されますように、お願い申し上げます。あと、何回、護摩を遂行できるか?わからない状況になってまいりましたが、それぞれの、立場で、目の前にあらわれる運命をたんたんと印可書を奉読しながら、こなされますようにお願い申し上げます。

 それが、新しき形の護摩となっていくのであります。つまり、眞(まこと)のプラスだけ、眞(まこと)の神さまだけ、の真祈りの、実践となっていくのであります。宇宙神ありがとうございます  河上あきのぶ


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努力すればなんとか・・・ by kawakami [Mail] 2024年10月21日(月) 13時37分
PC

努力すればなんとかなる???

 努力しても、本当はなんとかならないのです。ここのところを履き違えるから、絶望的になる人が多いのです。
 これは、希望実現の法則などと、個人の小さい自由意志という欲望をかなえることができるような、物言いをする教えがあるからの責任でもあります。
 先生がおっしゃられているように、この虚の世界で、希望実現をおこないますと、それと、正反対に、希望を踏みつぶされて、悲しむ人間が出るのです。

 これを、別の言い方で言いますと、ちいさい”自分”という意識の願いは、欲望という、自分本位の幸せだけを願う心であるともいえるのです。だから、希望実現の法則は、多くの人を不幸に貶める法則であるとも言えるのです。

 いつも、申し上げますように、真の神さまは全知全能で絶対の愛をもっておられ、誰よりも皆様の一番良いようになるように、苦労されているのです。

 その神さまの苦労を、自分の使うマイナスの言葉(自分だけの幸せを願う言葉)という希望実現の法則によって、捻じ曲げるから、いろんな、不幸が、思い通りにならないことが、続くのです。

 五井先生もおっしゃられたように、一切の文句をいいなさんな・・・が正解なのです。神さまが一番良いようにされているのですから、今の一瞬一瞬を喜び勇んで、受け止め受け流し、たんたんと、今表れている運命をこなすだけで、よいのです。

 この、たんたんと、こなす時でも、自分がする、自分が苦労する、自分が努力する・・・などと思って、してしまうから、”自分”が努力すれば、なんとかなると勘違いして、力んで、努力し、失敗して、落ち込むのです。

 今の一瞬一瞬を喜び勇んで、たんたんと、こなすだけで良いのです。結果は関係ありません。

 結果を気にするから、冒頭のように、努力すればなんとかなると勘違いして、くるしむことになるのです。

 神さまのされることに、いちいち文句をつけずに、どんな運命であろうとも、喜び勇んで、こなして行きましょう。

 宇宙神ありがとうございます    河上あきのぶ


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自分?光? by 河上彰延 [Mail] [URL] 2024年10月18日(金) 04時01分
PC

 光一元にすべてが光で入れ子構造につらなって見える・・・・?

 ひたすらに神をおもいて合わす手に、それだに消えたただに青空(すきとおった光で一杯)これは、五井先生の体験をお歌にされたものであります。
 
 さて、ご質問は、すべてが光一元に見えて、光輝いて、ずーっと奥まで、光でつながって見える。これは、悟りと言うのであるか?まだ、自分は、誰にもこの体験を言っていないが、なにか、どこかが違うとおもうので、わからなくて、困っている。・・・ということでありますが、

 もちろん、これは、悟りではありません。五井先生のお歌にもありますように、これは、悟りの一歩手前の感覚で、現在、護摩に集って、印可書を奉納されている方々の、大半の心境なのであります。

 これの、もう、何歩か手前の心境は、座禅や、滝行や、あるいは、お祈りの部屋での、お祈りの最中に、光が見えて、自分は悟ったと、あるいは、光が見えたと、言いふらして回る心境で、かつて、50年ほど前に、先生の奥様もその体験に舞い上がられて、その結果、まさよさま、ひろしさま、と、呼ぶことを強要される時代があって、貴重な先生の跡継ぎの種をつぶされたのであります。本当に悟っていれば、あの、2005年の先生のセクハラ疑惑騒ぎのときに、先生を疑ってしまって、先生への絶対の信を、手放すことはありません。奥様が先生への絶対の信を手放されたので、あとの、お二方も、それにならい、先生に頼ることはあっても、先生を信じなくなったのであります。そして、その当時に、村に集って来られた方々の大半が、その、セクハラ疑惑をしかけた、ある団体(聖書を間違って解釈している団体)に、引き込まれ、現在も、その被害に(本人は被害とは思っていませんが)あわれているのであります。
 その結果、先生以外のある団体の影響を知らず知らずのうちに受け入れ、もちろん、昌代さんを騙した、男性も悪いですが、現在の村の追いつめられている、遠因になっているのです。

 話がそれました。これの、なにが、悟りではないか?・・と申しますと、自分というものがあるからです。
 自分が光り一元を見た・・と感覚で、感じているからであります。禅では、これを、野狐禅(やこぜん)と申しまして、自分が出来た、自分が悟った・・と、”自分が”が、出ていることを、きつく、指摘し、問題にして、その感覚にとらわれることがないように、注意するのであります。

 このように、自分という意識は、眞(まこと)の神さまと切り離した、心境で、ありまして、この、自分という、自分がしてやった、自分がした、自分が悟った、という、”自分”を、如何に、消し去るか?・・と言うことが、悟りへの、最後の関門でありまして、これを無門関とも申します。

 この”自分”という意識を、知らぬ知らぬのうちに、消し去ることができるのが、印可書の奉読でありますが、この、印可書の奉読を、言い訳をつけてしている間は、奉読にならないので、以前の護摩の質問にありましたように、食中毒の危険があるから、村での食事を作るのは中止するように申しましても、護摩の前日は、少人数であるからと、強弁し、実際は違うのに、うそをついてまで、強行することが、あるのです。眞(まこと)の神さまの御働きの邪魔をしていることさえ、本人は気づいていませんので、いろんな、現象が当人の体に表れたのであります。その結果、その、当人の体に表れた、病状をわざわざ、村でうわさし、うわさした、者どもも、将来、同じ、病気になる、種を、残されたのであります。

 一切のマイナスはない、眞(まこと)の神さまだけ・・と、申しておりますのに、マイナスを見つめ、あげくは、そのマイナスをしゃべって、増幅し、大変なことに、なっておりますのに、”自分”という意識のある人は、それすら気づかずに、聖地で、ひたすらに、うわさ話をして、聖地でありますので、大きく、マイナスを増幅しているのであります。

 これが、村の現状でありますが、おまけがなくなったので、こちらは、先生がおられた時のように、消し去ることができず、又、聖地で、マイナスを発するということは、眞(まこと)の神さまの邪魔をしていることになりますので、その、噂等々のマイナスを発した方々は、総責任者として、その、責任を背負うことになるのであります。いずれ、病気や運命という形で消し去ることになるでしょう。

 また、この村の掲示板も、村という聖地と同じでありますので、この掲示板に、マイナスを表現して、書き込むことは、本人の自覚とは、別に、その責任を負わされることになるのであります。

 宇宙神ありがとうございます  河上彰延

 


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女は男に奉仕??? by 河上彰延 [Mail] [URL] 2024年10月03日(木) 06時39分
PC

原罪とはいいわけすること

 エバがアダムをそそのかして、木の実を食べさして、楽園から追放されたのであるから、女は男に服従し、奉仕するのが当然ではないのか?・・・というご質問ですが、

 これは、キリスト教でいう、原罪という大切なことなので、異端の人は、このように聖書を曲解して、まったく、聖書とは、似て非なることを述べて、多くの人を迷わせているのです。

 それでは、聖書を、もう一度読んでみましょう。

 創世記3章の1節
 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない。死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」→蛇は説明をしただけで、イブをそそのかしてはいない。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆して(そそのかして)いた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 蛇の説明を聞いて、イブは、いかにもおいしそうで、目を引き付け、そして、いかにも賢くなるように見えたので、食べただけです。
 それにもかかわらず、3章の13節では、主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか」
「蛇がだましたので、食べてしまいました」→蛇はだましていないのに、自分は食べたくなかったのに、蛇にだまされたので、食べてしまいました。と言い訳して、食べた責任を蛇のせいにしておる。
 この、無責任に他のせいにして、言い訳することを、ずるく、責任を逃れて、嘘をついて責任逃れをして、うまく、立ち回ることを原罪というのです。

 本当は、蛇は、その木の実を食べても「決して死ぬことはない」と言い、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言っただけなのに、そして、それを聞いて、勝手にエバは「おいしそうだ」と思って、自分の自由意志で、食べたいと思って食べただけです。蛇のせいではありません。

 このように、人類は無責任という、その場の空気に従って、人のせいにするという、ずる賢いという、自己保存本能という原罪を持っているのです。

 それでは、質問者の言う、イブはアダムをそそのかして、おいしいと騙して、木の実をアダムにたべさせたでしょうか?

 その答えは、3章の7節にあります。

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主鳴る神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、怖ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」アダムは答えた。
「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」→神様は、「とって食べるなと命じた木から食べたのか」と聞いています。つまり、食べたか?食べなかったのか?と聞いておられるのでありますから、木の実を食べたか食べなかったかだけを答えればよいのであるのに、アダムは狡いことに、「あなたが私と共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので」と、言い訳して、自分が自由意志で食べたのに、さも、神様の与えてくださった、女のせいで食べてしまった。と責任転嫁をして、言い訳しているのです。それも、神様のせいにしています。

 アダムは、自分が木の実を食べたのは、女のせいであり、つまり、エバを作ったのは、神様だから、神様のせいだと、神様まで、責め裁いているのです。この、他を責め裁く原罪を、人間は、自己保存本能という形で持っているのです。

 ひどい話ではありませんか?自分の自由意志で、自分の責任で食べてしまったのに、エバはエバで蛇の責任するし、アダムはアダムでエバのせいにして、あげくは、エバを作った神様のせいにまでしています。

 それで、神様は、あきれてしまうのでありますが、自由意志を絶対にしばらないのが、神様の本質でありますから、本来、眞(まこと)の神さまそのものであり、不離一体の人類でありますが、その不離一体を、思慮分別の知恵を思いめぐらせて、分け隔てて、忘れ去り、ゲームの世界(ゲームは相手と自分とを分け隔てないと成り立たない)という、現実という、虚の世界に遊ぶことを、認められたのです。

 この虚の世界というゲームの世界に落ち込むことを、楽園(不離一体の本心の世界、一大循環の相象(すがた)そのものの世界)からの追放というのであります。

 この、創世記の内容を、自分の都合の良いように解釈して、本来、男と女は平等で、対等で、お互いに対等に支え合う存在でありますのに、女が男を騙して、楽園を追放されたのであるから、女は一方的に、男に尽くさなければいけない・・などという、「婦道」を強要するのです。これを、異端と言います。

 長くなりますので、本日はここまで、質問があれば、又、してください。

 宇宙神ありがとうございます   河上彰延

ひたすらなる真祈りを
ありがとうございます=一大循環の相象(すがた)=宇宙神ありがとうございます=真祈りの秘奥義を伝授するための印可書(真祈りの全体像、全体図とは)=ありがとうございます=眞(まこと)の神さま独在の実感

 これが、しっくりと自分の中におさまらないと、真祈りにならないのです。一大循環の相象(すがた)=ありがとうございますが、ないなどと噂をまいて、神さまの邪魔をしている間に世界はいよいよ大変なことにきました。

 かつて神さまの邪魔をしてイエスをお金で売り払った、ユダは、体が裂け、はらわたがみな出てしまいました。これは、一切のマイナスは無いのにもかかわらず、マイナスを認めた行為であったのですから、腹にあるいちもつが吹き出すという象徴的現象があらわらたのです。

、一大循環の相象(すがた)は無い→眞(まこと)の神さまはない!という、一番おおきくマイナスを認めた行為は、それを、うわさとして流しただけで、無意識に眞(まこと)の神さまを否定した行為とおなじことなのです。

 だから、その結果、眞(まこと)の神さま以外のものを選び取り、聖地を無意識に汚し続けることになったんです。

 一線を踏み越えてしまっているから、真祈りを・・・と、お願いしておるのですが、お祈りの部屋で、護摩木を書いているから、真祈りになっているやろと言い訳をするようでは、村人としては、失格です。

 どんどん追いつめられて、絶望的になっていますが、真祈り人は、護摩をつづけ、それぞれの場所でのひたすらなる真祈りをお願い申し上げます。

 宇宙神ありがとうございます=真祈りの秘奥義


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