真(まこと)の神さまを与え続ける真祈り、これは本心の自覚を与える祈りなのですね。
真(まこと)の神さまが自分の中に降り立ったら、そのときそのままで自分が本心の自覚になるのですね。
だから、真(まこと)の神さまを人に与えたら、与えられたその人が本心の自覚を取り戻すのですね。
本心の自分を生きるか、過去をつかむ思いの心の自分を生きるか、どっちを生きるか?。
これはね、その人の自由意志で、どちらでも自由に楽に選べるのですね。
でもね、本当はね どちらが選びやすいか?と言ったら、本心の生き方の方を選びやすいはずなのね。だって、人間の元々の本質がそうだから。(真(まこと)の神さまそのものだからね)
本心の自分が本心の生き方を選ぶのが一番本当は易しいのよね。
逆にマイナスの生き方を選ぶのは、本当は難しい筈なの。
でも惰性に流れたらつまり明日も同じように同じ生活があるって思ってしまうと、マイナスになるのよね。
それはね、ちょうどね 神さまの流れは川の流れのようなものなの。
一大循環するから流れてくるのね。でも 我を出すと押し流されるの。
我が無かったら、無色透明だと神さまの光の流れが自分の中をスッと通り抜けるのね。
我を出すとは 過去をつかむことなの。小さい自分の都合でえり好みして良い悪いと思慮判別の思い巡らして、小さい自分の思いを積み重ねることなの。
そしたら 自分の思いで突っぱねてしまうから 神さまの無限の無限の光の流れに押し流されて末端という地獄にに行ってしまうの。
だからいかに自分を無色透明の状態につまり、なんでも一番良いようになっているとありがとうございますと感謝できる心に保っていくか?にかかっているの。
一切の小さい我のない自分、これは元々の自分。本当の無色透明の自分、自由自在な心の自分が本来の本当の自分、これ以外は本当はないのね。
ただこの自分を忘れると、惰性に流れた姿をとるの。川の流れに押し流されて地獄に真っ逆さまなの。
だから本心の自分を生きるのには、本当はそれはそれは真剣な努力が必要なの。
例えば魚でも鯉の滝登りのように 川の流れを逆らって上流を登ろうと思ったら、大変な努力がいるでしょう?。
滝を登ろうとしたら、鯉の滝登りじゃないけれど、ものすごい力を発揮しないとダメなのね。
ただ本心の自分には、自由自在にそれが出来るはずなの。
思いの心は惰性に流れたら、それが出来ないの。流されっぱなしになるの。
本心の自分は無限力。自由自在に何でもできるのよ。
まず本心の自分を生きようとしているかどうか?。これですべて決まる。
常に、新たな自分を生きる。絶対の中心から、一瞬一瞬現れてくる、真(まこと)の神さまとしての自分を生きるの。
これをね一瞬一瞬ね、思い返さないとねダメなの。
それを忘れたらあっというまに惰性に流れるの。
過去のつまらないものをつかんでしまって身動きとれなくなるのね。
本当は自分で自分を縛っているだけなのにね。
だから肉体が自分なんてつかんでいるのは、惰性に流れた結果なのね。
本心の自分は常に新たな自分なの。
真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分なの、本当の新しい自分なのね。
これをしっかり言葉にして、一回一回が真剣勝負のように思い返さないとダメなのよ。
そうでないと真(まこと)の神さまの与え方がやっぱり半端じゃない?。
本当の真(まこと)の真剣勝負と同じなの。
真(まこと)の神さまは、自分の全てを与えきりに与え尽してくるの。
与えて与えて、与え尽してくるの。
それも無限のスピードでね。
では、受ける側の自分は、そこまで自分が真剣になっているか?。
わかりますか?やっぱり神さまは本心という真(まこと)の自分を求めてくるのね。
真(まこと)の神さまと同じ真剣さで与え尽す生き方を取ってほしいって願っているのね。
因縁因果の明日も又同じように続くと願う惰性に流れて欲しくない。それがまず根本にあるのね。
そして支えるというのはね、一番下から全体を本当に押し上げるように支えることなの。
真(まこと)の神さまの支え方は、盤石の一枚岩なのね。
無限の無限の大きい一枚岩なの。そこに何を据えても微動だにしない。
地震も寄りつかない、寄らない。そんな心配微塵もいらないの。絶対大丈夫なのね。
ところが、この盤石の支えの上に、たとえ、本心の自分でも自分が前に出たら我になるのね。
真(まこと)の神さまに比べたらとたんに小さくなっていくの。
一枚岩じゃなしに、色んな自分という大きい巌(いわお)が沢山出てくるの。
その上に建てたものは、その分だけ揺れるのね。
それはね、末端に行くほど細かい砂になるの。砂の上に何を立てても、砂上の楼閣。みんな崩れ去るのね。
我をどんどん積み重ねたら、全部崩れるのよ。
一枚岩にならないとダメ。
本当の盤石の支えってそう。
だから自分が前に出たらよくない。
自分が自分が、と出るのは間違い。本心の自分ですらそうなのね。
だから真(まこと)の神さまだけを前に押し出さないとダメ。
つまり自分が無色透明に戻らないとダメなの。
一切の我を消し去ってもらって、無色透明の元の自分に戻らないとダメなの。
それが神さまの働きを邪魔しない生き方なのね。
本心の自分一人が支える生き方を取ったって小さいことなの。
みんなが同じように、全体を支えようとして、本当に支える生き方を取ってくれた全てを、自分の中に取り込まないとダメなの。
それは、支え合う、ではないのよ。
どういうことかと言うとこれが正しいと一つの立場をつかむとその立場に限定されるのね。
これはまだ自分という立場があるわけ。我があるのね。
一つの一点の立場から全方向に何を与えたってね それは小さい小さいことなの。
全ての本心の生き方を取ること、無限の無限の存在があるのね。
その全てが支える生き方を取ってくれるという その全体を束ねないとダメなの。
すべてのすべてを全部を自分の中に納めないとダメなの。
自分一人でみんなを支えていると言っても、それは一方向からなのね。
全方向から全てから支えてもらわないと、本当の盤石の支えではないのよ。
だから自分の支えを一としたら、他の支えが無限に無限に大きいじゃない?。他の支えが無限倍あるじゃない?。
それが本当の真(まこと)の神さまからの大きい支えになるのね。
だから自分の我を出したら、絶対に受け取れないのよ。
私がという我がなくなったら、他の支え、無限倍の支えが自分の中に収まるのよ。
我があると一つの立場に立ってしまうのね。
与える立場も支える立場も同じなの。支える立場を捨てるの、これも大事なのね。
支える立場に立ったから、その立場が大事か、それを捨てなくていいか、違う。その支える立場も捨てないと、小さくなる。
一切を自由自在に支え合うまで行かないとダメ。
つまり自由自在とは、みんなの支える力を全部貰わないとダメなの。又、支え合う力を一切邪魔してもダメなの。
そしてね、支える立場に立ったとしても、まだそこは終着点ではないのよ。
更に一切の自分をなくして、真(まこと)の神さまを前に出さないとダメ。
自分を引っ込めないと、自分を消さないとダメ。一切の自分を消してしまうの。
一切の自分をなくしてしまうの。
そしたら最後に真(まこと)の神さまだけになるの。
全てが本当の支え合いの姿をとっている、一切を干渉することなく、自由無碍に支え合うというね、完璧な一つ。
全ての全てから、全ての全てに対して、真(まこと)の神さまを与え続けあう。本当の光の完璧な一大循環なの。
ここまで行かないと、行き尽くさないと本当の真(まこと)の神さまと一体とは言えない。
真(まこと)の神さまと一対一の関係に立つと言っても、自分があったらまだまだダメなの。
真(まこと)の神さまと自分という、自分があったらいけない。同じ一対一になると言っても、自分をなくさないとダメなの。
その自分をなくして、真(まこと)の神さまだけになるまで、真(まこと)の神さま以外なにもないというところまで自分を消しきらないとダメなの。
そしたらそこが最高の悟りの姿。本当に真(まこと)の神さまと切っても切れない、本当の一体感、絶対の愛の一体感になる。
これを目指すのよね。
人生の本当の目的・目標・願いは、そこにあるの。
色んなところに自分が自由自在の意識でつかんでいる場所があるのね。
この立場って色んな立場がある。我っていうのは、その自分のつかんだ色んな立場のこと。
小さい立場や大きい立場、色々ある。でもそのつかんでいるのをまず全部捨てないとダメ。
つかみを全部捨ててしまう、消してしまう。それで本当の自由自在の立場に戻れるの。なによりも過去を一切つかまないことね。
そのために、一瞬一瞬新たに新たに、真(まこと)の神さまを受け入れる練習をするの。ありがとうございますと真祈りをするの。
それも、真(まこと)の神さまを与えようとするの、それによって、自分の中を、真(まこと)の神さまが新たに新たに循環する、その姿も受けようとするの。
これはね自分がね本当の自分の自由意志でね選ぶしかないのね。
人が代わりに選んではくれないし、やってはくれない。
自分が自由意志で選んで、真(まこと)の神さまを褒め称えて感謝して喜んで祈らないと本物にはならない。
(平成26年11月1日のお話@